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12月(5)真夜中の来訪者

お待たせしました。

 十二月の中旬を過ぎ、莞爾とクリスは定期通院も済ませたため、年末に向けて慌ただしい毎日だった。


 莞爾は日頃からお世話になっている人たちにお歳暮周りを早めにしているし、クリスは普段は手が届かない場所の掃除をした。


 合間で畑の様子も見て、野菜の成長を確認するが、莞爾も少々不安なようだ。積雪はもう少し先と思っていたのに、今年は積雪も早まりそうだ。


 夕刻、畑から帰ってきた莞爾をクリスが出迎えた。


「おかえり、カンジ殿」

「おう、どうしたんだ。割烹着なんか着て」


 クリスは真っ白な割烹着を着ていた。袖口もきゅっと締まっている。彼女は得意げに彼の前でくるりと回って言った。


「スミエ殿が作ってくれたのだっ!」

「へえ、それは聞いてなかった。あとでお礼言っとくか」

「どうだどうだ?」

「ああ、案外似合ってると思うぞ」

「案外とはなんだ、案外とは」とクリスが問い詰めると、莞爾は苦笑して言った。


「いや、だってなあ。割烹着って言えば着物着た日本人が着てるようなイメージが……まあ、古いイメージだけど。それはそれとして、普通に似合ってるし、使い勝手も良さそうじゃないか」

「なんだか釈然とせぬが……むふふ。そうであろう? 大きさもぴったりなのだ」


 スミ江は料理だけでなく、裁縫も上手い。莞爾も昔冬用のセーターをもらったことがある。手作りの服というものは若い頃には微妙な気持ちになるが、歳をとると純粋に嬉しくなってくる。まあ、使う場面や出来にもよるが。


 クリスは思い出したように言った。


「あ、そうだ。風呂も沸かしておいたのだぞ!」

「は? なんで?」

「むぅ……か、カンジ殿が外で寒い中働いているのだから、せめて熱い一番風呂をと思ったのだが、迷惑だったか?」


 少し拗ねたように顔を伏せるクリスに、莞爾は苦笑して頬をかいた。


「いつも私が先に使わせてもらっていたが、昨日ツギオ殿が一番風呂はダイコクバシラの特権と言っておったのだ。ダイコクバシラとは稼ぎ頭の意味だと聞いたぞ! やはりカンジ殿が一番に入浴しなくてはなっ!」

「あー、昨日も行ったんだったか。でも、まあ……」


 気持ちはありがたいが、莞爾は正直どっちでもよかった。今時一番風呂は亭主の特権という考え方はさすがにない。それぞれの都合に合わせて入ればいいのだ。


「汗で汚れてる俺が先に入ると、クリスが後になって嫌だろ?」

「そんなことはないぞ? というか、私は別にカンジ殿の匂いが嫌いではな——」


 言いかけて、クリスははっと口を噤んだ。急に顔を真っ赤にしておずおずと莞爾を見上げた。


「その……今のは、だな。忘れてくれ」


 恥ずかしさに莞爾を睨みつつ、けれども羞恥の方が勝ってもじもじとしているクリスを見ると、彼は頭をかいて大きなため息をついた。そうして、困ったように苦笑してみたものの、まるで名案を思いついたとばかりに手を打って言った。


「じゃあ、一緒に入るか、風呂」


 反応は劇的だった。クリスは歪んだ笑みを浮かべたまま硬直し、明らかに思考回路がショートしていた。


「一緒に……カンジ殿と、お風呂。一緒に……」


 どうやら彼女の羞恥心のキャパシティはそんなに大きくないらしい。莞爾は苦笑して彼女の肩を叩き「嘘だよ、嘘」と告げた。するとクリスもはっと我に返り、頬を膨らませた。


「むっ、むぅ! ついていい嘘と悪い嘘がある! 一緒にふ、ふっ、風呂にはい……ろう、など!」


 両手を握りしめて断固抗議の姿勢をとるクリスだったが、莞爾はそんなことは気にせずに彼女の頭をがしがしと撫でた。


「悪い悪い。それじゃあ、俺はせっかくのご厚意に甘えて風呂に入ってくるから。夕飯の準備、よろしくな」

「あっ……わ、わかった」


 梯子を外されて、クリスは急に萎んだように返事をした。どうしてか莞爾と取り留めもない言い合いをするのが楽しくもあり、こうして荒れた手で頭を撫でられるのがまたホッとする。


 その一方で、目が合うたびに嬉しくて、心が軽やかになる。手を触れればどくんと心臓が跳ね上がる。


 風呂場に去った莞爾のことを思いつつ、クリスは鍋の蓋を開けた。いい具合だ。

 芳しい香りについつい涎が出そうだ。


 クリスは「むふふんっ」と笑って中身を混ぜた。今日の夕飯は莞爾にも内緒にしていたのだ。スミ江から昨日教わった品で、早速今日の夕飯にした。味見をした限りではとても美味しくできあがっている。


 早く食べてもらいたい。美味しいと言ってくれるだろうか。毎日仕事に励むカンジ殿には栄養をつけてもらわねば——口には出さないけれど、クリスは美味しくなあれと願いを込めてお玉で円を描いた。



***



 莞爾が風呂から上がって居間に戻ると、食卓にはすでに夕飯が並べられていた。まだ時刻は十八時を過ぎたばかりだが、空腹なのでありがたい。


「お先」

「ふむ。おかしなことを言う。先も後も、そもそもカンジ殿が家主なのだぞ?」

「そう言えばそうか。でもまあ、親しき仲にもってやつだ」

「むふふ、湯加減はどうであった?」

「おう、ばっちりよ、ばっちり」


 莞爾は久しぶりに冷蔵庫から缶ビールを取った。最近はクリスのこともあって飲酒はできるだけ控えていた。穂奈美が来た時はついつい飲んでしまったが、そうでなければ飲むつもりもなかった。


「……飲むか?」


 彼が食器棚からグラスを取ろうとして、振り返りざまに尋ねるとクリスはすぐに頷いた。苦笑しつつもグラスを二つ持って食卓に戻る。


 プシュッという小気味の良い音を立て、それからビールをグラスに注いだ。泡の弾ける音が喉を鳴らせる。


「それじゃあ、まあ……とくに祝い事でもないけど、乾杯」

「むふふっ、乾杯だな」


 軽くグラスを持ち上げてから、莞爾はぐいっとビールを飲んだ。ビールの苦味が爽快感となり、ついでしゅわしゅわと炭酸が喉を焼いていく。


「くぅーっ! 風呂上がりのビールはやっぱ最高だな!」


 オヤジ臭いセリフを吐いて、もう一回注ぎ直そうと缶ビールを手に取ったが、ふと顔をあげるとクリスが目を閉じて顔を歪めていた。


「にゃっ、にゃんだこりぇはっ! 苦い! 痛い!」

「ありゃ……ビールは苦手か」


 そういえばビールを飲ませたことはなかった、と莞爾はようやく気がついた。

 クリスはグラスを置いて舌をちょろりと出した。


「これが美味しいとは……少々信じられぬ。てっきりイオールかと思っていたのに」

「イオール?」

「うむ。見た目も匂いも同じだが、これよりもずっとまろやかで泡もこんなにきつくないのだ」

「へえ……エールのことかな」

「基本的には庶民の飲み物ではあるが、高価なのでな。商人が酒場で薄めたイオールを飲むぐらいだ。とはいえ、これに比べればイオールの方が美味いぞ」

「まあ、個人差だろうけど……仕方ないか」


 莞爾は席を立ち、座敷の床の間からお歳暮で送られてきた一升瓶を手に戻ってきた。


「こっちにするか?」

「ニホン酒か!?」

「おう。食いつきがすげえな」

「むふふっ、以前ホナミ殿に飲ませてもらったではないか。あれは美味しかったのでな!」


 期待に満ちた表情で新たなグラスを持ってきたクリスに、莞爾は苦笑いで日本酒を注いでやった。そうしてクリスは一口飲んで、しきりに頷いた。


「むふふっ、以前は辛口だったが、今度は少々甘口だな。しかし、すっきりとしていて後味もよい。果実味のある香りがまたよいではないか」

「利き酒かよ」


 冬だというのに桜とついた出羽の地酒は香りがよくて爽やかだ。素朴なラベルには似合わない芳醇さ。莞爾はごくりと喉を鳴らして早速自分用のグラスも持ってきた。手酌で注いで飲めば、「うむ」と納得の味だ。


 片手にビールでもう片方に冷酒とは贅沢な限りである。


「さあ、食うか!」

「むふふっ、今日はトン汁だぞっ!」


 莞爾も気づいてはいたが、やはりそうかと口元を拭った。具沢山の豚汁は見栄えもいい。

 豚肉の匂いに、お出汁の良い香り。厚揚げ、長ネギ、大根、人参、里芋、こんにゃく、牛蒡(ごぼう)。こんなにも具沢山だと目眩がする。


「スミ江さんから教わったのか?」

「うむ。トン汁は具沢山の方が美味いと聞いた!」

「いや、まあストックはあっただろうけど……」


 冷蔵庫の野菜室だけが保管場所ではない。それぞれに適した場所に保管しているが、家にない材料は数日前に莞爾が買い込んだものだろう。この様子ではまた買い出しに行かなければならないかもしれないが、彼はそれもまた良しと忘れることにした。



 ずずっとお椀の縁に口をつけて汁を吸う。豚の脂が最初にがつんとやってくるが、それを野菜の旨味が追いかけてくる。飲み込めば鰹出汁の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。


「あー……これは沁みるなあ」

「むふふっ!」


 まさかクリスがここまでの料理を作るとは思っていなかった。疲れた体、冬の寒さに豚汁の暖かさと栄養満点の味がありがたい。


 とくに具材を選ばずに箸ですくい上げて口に運ぶ。しっかりと柔らかくなった大根や人参が自然な甘さで美味い。里芋のねっとりとした食感としっかりした芋の風味がまた嬉しい。牛蒡の食感が時折やってきては味を一変させ、噛み応えのあるこんにゃくが少しだけ顔を覗かせて面白い。厚揚げは汁を吸っていて噛み砕けばじゅわっと汁が溢れ、長ネギはシャキッとした食感をわずかに残しつつ、中の柔らかい肉質が口の中いっぱいに甘みを訴えてくる。


「ほんと、間違いねえよなあ……」


 味噌の風味もまたいいものだ。口の中いっぱいに冬の味覚を満たし切って、それを冷酒で洗い流す。ほっと胸をなでおろすような安心できる味だった。


 クリスもふうふうと息を吹きかけて啜り、にんまりと笑った。


「我ながら美味くできたな!」

「おう。上出来だ」

「むふふふふっ!」


 得意げに微笑んで、また食事に夢中になるクリスを見ていると、莞爾はふとこんな毎日が続けばいいなと思った。

 今の関係はもどかしくもあり、けれども心地よい部分もあった。


 七味唐辛子や柚子こしょうを入れれば豚汁は一風変わってまた美味しく食べられる。けれどもそのままの味でほっこりと安心できるのも魅力だ。


 今晩はメインのおかずはないけれど、豚汁がそもそもメインを張れる存在だ。すいとんを入れても美味いだろう。年寄りは嫌がるけれど、あれも中々美味いものだ。変わり種で焼き餅を入れてもいいかもしれない。ちょっとしたお雑煮のようだ。


 すっかり一杯食べてしまうと、クリスが笑って手を出した。


「お替りが欲しいのだろう?」

「お、おう……」


 手渡して、土間に向かうクリスの背中を見ながら、莞爾は「今日はどういう風の吹きまわしだ?」と首を傾げた。今までのクリスとはまた違う。これはまたスミ江に何か吹き込まれたのか、あるいは嗣郎(つぎお)から。そこまで考えて、どちらでもいいかと小さく息を吐いた。


 飲み残しのビールを飲み干して、冷酒をちびりと舐める。


 戻って来たクリスがお椀を彼に手渡して、またコタツの中に脚を入れると、足の指先がわずかに触れた。


「あ、すまぬ」

「いや、別にいいけど」


 風呂上がりでもないのに、クリスの頬は上気したように赤く染まっていた。酒も入り、コタツで暖まったからだと言えば、その通りなのかもしれないが、莞爾はそれ以上考えるのが憚られてくすりと笑った。


「今日はまた少食だな」

「そうだろうか……いや、以前に比べると少しは減っているが」

「ああ、そっか……」


 以前は治癒魔法を多用していたせいで空腹感がひどかったクリスだが、今は比較的睡眠不足が解消され、治癒魔法を使うことも少なくなった。そのせいで必要とするエネルギーが縮小したのだろう。莞爾はなんとなく察してふっと笑った。


「なんだか、クリスが少食ってのは似合わないな」

「なんだ、それは。そんなに大食らいではなかろうに」

「そうかねえ。まあ、食ってくれる方が普通は心配しねえし、俺は安心だけどな」

「むぅ?」


 意味がわからないと首を傾げるクリスに莞爾は冷酒をぐいっと飲んで言った。


「だってさ、少食だと心配するだろ? 風邪でも引いたのか、具合が悪いのかって。食欲があるうちは元気って思えるし」

「むっ……それは私を心配してくれている、ということか?」

「そりゃあ、まあ」


 莞爾は肩をすくめておどけてみせた。するとクリスは面映ゆいような表情を浮かべて視線を彷徨わせ、小さく息をついて拗ねたように口を尖らせた。そして、コタツの中で彼の足を軽く蹴った。


「なんだよ、いきなり」

「そういうことは時と場所を選んで言うべきではないか?」

「いや、意味がわからん」


 本心をいつ言おうが知ったことではない。莞爾はそう切り捨てて豚汁を啜った。勢いに任せて口説けるなら、それでいいのかもしれない。けれど、それはクリスの気持ちを蔑ろにしているようで嫌だった。


 二の足を踏んでいるというわけではない。ただ、タイミングを計っていた。



***



 夕食を済ませたあと、莞爾とクリスは一緒に後片付けをした。

 そのあとで、少しだけお湯を沸かし直してクリスも入浴する。


 風呂から上がって髪を乾かし居間に戻ると、テーブルに突っ伏すようにして莞爾が居眠りをしていた。


「風邪をひくぞ、カンジ殿」


 そっと彼の背中に上着を羽織らせて隣に座った。同じように頭をテーブルに置いて、じっと彼の寝顔を見つめていると申し訳なさが募った。


 テーブルの上に投げ出された彼の手は節くれ立っていて、がさがさに皮膚が荒れていた。けれど、肉厚で力強さを感じる。クリスはふと兄の手もこんな風に荒れた手をしていたと思い出した。


「よもや、このような奇縁に恵まれようとは……」


 口に出してみるが混乱するばかりだ。苛立ちを紛らわすように彼の頬を指先でつつくと、彼の寝顔は鬱陶しそうに歪んだ。


「むふふ、案外睫毛が長いのだな」


 剃り残しの無精髭を逆撫でしてみたり、鼻の頭を押し込んでみたりした。するといたずらが過ぎたのか莞爾は唸り声をあげて目を覚ました。


「あっ……」

「……寝てたか」


 莞爾はいたずらされていたことなど気づかずに目をこすりながら体を起こした。クリスが羽織らせた上着がするりと落ちた。

 ほっと胸を撫で下ろして、クリスは立ち上がり「お茶でも淹れようか?」と尋ねた。彼は大きなあくびをひとつして頷いた。


 差し出された熱いお茶をずずっと啜り、莞爾は両手を挙げて背筋を伸ばした。


 テーブルに広げられたノートにはなにやら数字が大量に並んでいる。クリスは気になって尋ねた。


「これは何を記しておるのだ?」

「ん、これか……まあ色々だな」

「色々?」

「おう」


 莞爾はもう一口お茶を飲んで言った。


「毎日の天候、気温、湿度、それから各野菜の成長具合……例えば、植え付けから何日目で何センチ、何ミリ成長したか。そういう記録だ」

「それは、必要なのか?」

「知らん」

「は?」


 クリスは「ではなぜいちいち記録を取っているのだ」と視線で訴えた。莞爾は小さくため息をついた。


「知らんが、親父は家を継いだときからこれをつけていたらしい。それこそ何十年分のデータがある。だから、うまくいった年、いかなかった年、それぞれの気象条件の違いもわかる。このデータに入ってる野菜であれば、どういう気候ならば、どれほどの日数で出荷できるかがわかる」

「……それは、必要に間違いないではないか」

「いや、微妙なんだよな。実際のところ」


 細かすぎるデータは情報量が多過ぎて、あってもないのと変わらない。けれど、あれば助かるのも事実だ。要するに取捨選択のスキームをどうするかという問題だ。


「今はな、いろんなことが研究されてて、わざわざ自分で調査を続けなくてもある程度の指標ができてるんだ。あとは育てながら適切な対処法をとっていれば早々失敗はしない」

「そんなものか」

「まあ、そんなに簡単じゃねえけどな」


 つまるところ、研究熱心な方が農家としては向いている。常に野菜の栽培状況を管理しつつ気候やその他の条件によって成長具合が変われば、その原因を探ってよりよい栽培方法を考えていく。記録を取るか取らないかは個人差だろう。


「なんつうか、三十年、四十年って野菜育てたって、どういう態度で栽培しているかってだけで大違いだ。長年補助金目当ての適当な栽培しかしたことないってジジイもいるし、若くても挑戦的な農業で結果を出そうって奴もいる。長年やってりゃベテランなんてのは嘘八百だ」

「ふむ……」

「うちの親父は古い人間だったから新しいことなんてできなかったけど、それでも美味い野菜を作るってことだけは信念だったんだろうよ。だから毎日欠かさずデータをノートに書いてた。毎日だ」


 おかげで家族旅行なんてしたことがない。野菜馬鹿もいいところだ。けれど、農家とはそういうものだ。自ら休もうと決めなければ休みなんてない。その生活を変えるためには、家族経営から法人経営へと変革せねばならないのだ。


 ただ、そんな金は佐伯家にはなかった。苦労の連続だったし、莞爾の両親はひたすらに愚直だったからだ。


 クリスはびっしりと数字で埋め尽くされたノートを見て彼に言った。


「カンジ殿は父上を尊敬しておるのだな」

「……まあ、今じゃ墓ん中だけどな」


 尊敬していなければ同じように記録をつけることなどしなかっただろう。莞爾は照れ隠しに頭をかいた。クリスはそれが微笑ましく感じられてふっと笑った。


「邪魔をしてはいけないな。私は一足先に休ませてもらおうかな」

「まだ九時にもなってないぞ?」

「では、少しだけ酒でも飲もうか」

「おっ、じゃあ燗でもつけるか?」

「燗?」


 莞爾は少し待っていろと言って安物の日本酒を戸棚から出して徳利に移し変えた。湯煎は面倒なので電子レンジに入れてぬるめに温めた。


 莞爾は徳利とお猪口を二つ持って戻り、ひとつを彼女に渡した。


「ちょっと熱いかもしれないから、気をつけろよ」


 とくとくと胸が湧くような音がして、熱い酒がお猪口に注がれた。続いて莞爾は手酌で自分のお猪口にも注いだ。


「匂いがちょっときついかもだけど」


 莞爾がぐいっと飲むのを見て、見よう見まねでクリスは熱燗を飲んだ。

 冷酒で飲んだ日本酒とは違って、熱されたアルコールが少々きつく感じられる。けれども、飲みきったあとに辛口な味わいがどこか癖になりそうだ。


「うむ。美味いぞ」

「ほれ、一献一献」


 飲みっぷりの良さに、莞爾はついつい徳利を傾けた。以前のようなハイペースで飲んでいるわけでもないので、そこまで酔うことはないだろう。熱燗は体がぽかぽかしてよく寝れる。


「くはぁっ! 喉が灼けそうだ」

「それがまた癖になるよな。っていうか、今度おでんでもするか」

「おでん?」

「おう。熱燗にぴったりだぞ」

「むふふ、それは楽しみだな」


 戸棚から出したスルメを食みながら、熱燗を飲む。なんともジジくさい一幕だった。


 徳利も二合、三合と飲めば、クリスは頬を赤くしてうつらうつらし始めた。


「眠たいなら布団で寝たほうがいいぞ。俺もそろそろ眠たいし」


 もとから疲れていたので早めに寝ようとは思っていたが、まさか晩酌からそのまま寝ることになろうとは思っていなかった。記録はすでに書いたから別にそれでもよいのだが、なんとなく勿体無い気がしてしまう。


 クリスはこくりと頷いて立ち上がろうとしたが、なぜか莞爾の腕をぎゅっと掴んだ。


「どうした?」


 返事はないが、なぜか見つめられた。


「連れてけってか?」


 冗談半分で言ってみると、クリスは「むふふ」と笑って頷いた。


「あー、酔ったんだな、お前さん」

「たのむじょ、カンジ殿」


 しなだれかかりそうになるクリスをどうにか立たせようとしたが、どうにも彼女は力を入れる気がないらしく、まるで柔らかい粘土細工のように無抵抗だった。仕方なく莞爾がお姫様抱っこの要領で抱き上げると、クリスははっと息を飲んだものの、落ちるのを恐れて彼の首に両腕を回した。自然、顔が近くなった。


 莞爾は平静を装って彼女を座敷へと運び、広げられた布団の上にそっと座らせた。


「ほれ、上着脱いで寝ろよ」

「うぅ……」

「いや、さすがに自分でしろよ。そこからは」


 けれども、もう今にも眠ってしまいそうなクリスだ。莞爾は大きなため息をついて頭をかいた。


「両腕あげろ、ほら」

「むぅ」


 クリスは言われた通りに両腕をあげた。莞爾は上着だけすぽんと抜き取ってそのまま横にさせた。


「じゃあ、おやすみ」

「カンジ殿……」

「なん——」


 急に腕を引かれて体勢を崩した莞爾は咄嗟に両手を布団についた。安堵の息を吐こうにも、目の前には瞳を潤ませたクリスの顔があって、否応なく心臓が激しく脈打った。息が酒臭いのも忘れた。


「クリス、酔ってるならさっさと寝ろよ」


 顔を背けて起き上がろうとしたが、クリスは逃さなかった。無精髭の伸びた彼の両頬に手を添えてまっすぐに見つめた。

 これは誘っているのか——莞爾は生唾を飲んだ。


「カンジ殿……私はもう家族に会えぬのだろうか」

「は……」


 莞爾は耳を疑った。浮かれている自分を殴りたくなった。


「可能性が低いことはわかっているつもりだ。しかし、戻れぬとしてもせめて生きているということだけでも知らせることはできないものか……」

「俺には……悪いけど、わからない」

「そんなことはわかっている!」


 じゃあ何が言いたい、と莞爾は口から出そうになって思わず唇を強く引き締めた。彼女の話はそこで終わりじゃなかったからだ。


「私は、私はな……カンジ殿と一緒にいるのがとても楽しいのだ。毎日が新鮮で、幸せで、祖国ではきっと無理だった生活がある。けれど、家族と会えぬままというのは……」

「寂しい、か?」


 クリスはこくりと小さく頷いたが、依然として彼をまっすぐに見つめていた。薄暗がりの中で、彼女の潤んだ瞳は光っているようにさえ見えた。


「この未練がどれ一つとて叶わぬというのならば、せめて私はカンジ殿のお役に立ちたい……養われているだけというのは、あまり気分が良いものではない」

「……焦らなくても、ゆっくりでいいんだぞ?」


 依然、クリスは死んでいった仲間たちを思って精神的に辛い毎日を送っていた。それが少しずつ改善してきたとはいえ、未だに燻る部分はあってもおかしくはない。莞爾は彼なりに気を遣っているつもりだった。


 けれども、クリスはそれが嫌なのだと言う。その理由ははっきりとしない。莞爾は何を言えばいいのかわからなくなった。


「私は、貴殿の心に応えたいだけだ……」

「そうか、ありがとうな」


 目を細めたクリスの頭を優しく撫でてやる。クリスは彼の胸に抱きつくように目を閉じた。


 どぎまぎする心臓を無視して、莞爾は布団を引き寄せて彼女に被せた。

 一緒の布団に入るのは憚られて、莞爾はクリスが眠りについたのを確認して、自分も寝床に向かった。


 今日は珍しく昂りを鎮めようかとも思ったが、思いの外酒が利いていたようで、ほどなくして睡魔に沈んだ。



***



 深夜二時を過ぎた頃、クリスは不思議な気配に目が覚めた。


 暗がりの中で目元をこすりながら体を起こし、軽い頭痛にこめかみを抑えた。


 物音がしたというわけでもない、嫌な気配というわけでもない。

 ふと視線を彷徨わせてみれば、仏壇の方に吸い込まれるように目が釘付けになった。


「……ニホンに来てからは久しぶりの感覚だな」


 クリスは嬉しいような悲しいような感覚に小さくため息をついた。


 何かが見えているというわけではない。


「精霊の類というわけでもなかろうし……ブツダンということはまあ、そういうことなのか?」


 首を傾げながらも起き上がり、上着を着直してゆっくりと歩み寄ると、目にも映らぬその存在はすぅーっと壁をすり抜けて行った。

 見えているわけでもない。けれども、その位置はなんとなくわかった。


「ついてこい、か」


 声が聞こえたわけでもない。


「感覚からして、単体ではなさそうだが……目的次第では厄介なことになるか」


 小さくため息をついて廊下に出る。気配を探って土間の方に向かうと、その存在は勝手口の向こうにいた。


「……普通に考えればサエキ家の家祖代々というところだろうが、何故カンジ殿ではなく、私を? いや、私だからか。カンジ殿にはその手の能力はなかろうし」


 であるならば、とクリスは上着のボタンをきつく締めて靴を履いた。勝手口の外に出ていつもの木刀を手に取った。


「万が一だな、万が一」


 そう言い聞かせて得体の知れぬ存在の後を追った。夜道は暗く、道の悪さに足を取られそうになる。暗がりで夜目はある程度利く方だが、それでも今宵は月も陰って見通しが悪い。


「魔法を使えればいいのだが……無理か」


 あの得体の知れない存在にどのような影響が及ぶかもわからない。精霊の前で使うべきではないのと一緒だろう、とクリスは諦めた。


 そうしてクリスは山の中へと入って行った。歩き慣れた林道である。

 そして、その突き当たりで彼女を連れてきた存在は気配さえも知覚できなくなった。


「つまり、ここが目的地ということか」


 二日酔いというほどではないが、少々頭痛がする。まだ完全には酒が抜けていないようだ。心なしか魔力の調整が微妙にずれている。

 クリスは大きく深呼吸をして木刀をぎゅっと握り直した。


 このような時間に山の畑に連れてきたということは、何かしら理由があるのだろう。クリスは気合を入れて畑に走り込んだ。


「月の女神よ、今しばし我に……チッ」


 クリスは舌打ちをした。体系だった魔法のうち、自然神の加護に纏わる魔法系統が一切の反応をしないことを遅れて思い出した。ここが祖国エウリーデ王国ではなく、日本だということを否応なく思い知らされる。


 少々拙いが、クリスは身体に魔力を纏わせて身体機能を底上げした。すると夜の畑でもある程度は見えるようになった。


「……獣?」


 クリスは拍子抜けした。思わず魔力を切ろうとしたが、振り向いた獣の顔を見て背筋が凍った。


「オークかっ!?」


 すぐに「いや違う」と言い聞かせるが、モザンゲート砦から逃げる途中に遭遇したオークの群れを思い出して足が竦んだ。


「た、ただの野生の豚ではないか、恐るるに足らぬ。抜かりはない。やれる。心配はない」


 自分の弱さを否定するように言い聞かせて木刀を構える。相対するは三頭の猪だった。


 そのうちの一番大きな巨体の一頭はクリスの方を見てじっと様子を窺い、残りの二頭は土の中に鼻を埋めたり、前足でうねを掘り返したりしていた。


「カンジ殿の大切な野菜をよくも……」


 クリスは震える身体に鞭を打って駆け出した。二頭はそれに気づいてすぐに逃げ出したが、クリスを見ていた一頭は立ち向かう姿勢を見せた。


「一撃で決めるっ!!」


 クリスは足場の悪さをものともせずに跳躍し、着地の瞬間に振り上げた木刀を猪の脳天めがけて振り下ろした。しかし、猪も野生の勘ゆえか飛び退いた。地面を打った木刀は根元に亀裂が入ったが、興奮ゆえにクリスは気づかない。

 すかさず追い打ちをかけようとしたクリスだったが、猪はすぐさま方向を変えてクリスに突進した。


「くっ!」


 転がるようにして寸前で猪の牙を回避したクリスは、起き上がり反射的に防御の姿勢をとった。魔力も調整が利かずとっさに最大量を流して衝撃に備えた。


 しかし、追撃はなかった。


「……逃げた、か」


 クリスはその場に腰を下ろした。獣相手とはいえ、久しぶりの戦闘に膝が笑っている。よくもまあこのような調子で戦えたものだと自嘲気味に笑った。


「私ももう騎士ではないな……このような醜態を晒すなど」


 手元の木刀は転がった拍子に半ばで折れてぶらぶらと繋がっているだけだった。

 顔を上げてあたりを見渡せば、ちょうど雲に隠れていた月が顔を出し、畑の様子がありありとわかった。


「なんてことだ……」


 木刀が手から離れた。ひどい有様だった。

 玉ねぎを植えていたうねがかなり掘り起こされている。

 未だ暗いためによく見えてはいないが、玉ねぎ自体は食べられている様子はない。


 もしかすると掘り起こして土中の虫を漁っていたのかもしれない。


「もう少し、早く来ていれば……」


 クリスは自分自身の不甲斐なさを呪って、握った拳を太ももに打ち付けた。冬の大地は冷たく、身体がしんしんと冷えた。


感想のお返事が遅れることがありますが、ご理解ください。できるだけ早くお返事いたしますので。


16.11/26、修正。

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