表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/90

12月(3)下・モンスター

お待たせしました。



16.11/17、修正。

「顔洗って出直して来やがれ!!! クソババアッ!!!」


 大音声の暴言に、その場にいる全員が唖然とした。菜摘だけはそれを予期していたように耳を塞いでいた。ちらちらと全員の顔を窺っていたからこそ、彼が怒りを溜め続けていることに気づけたのだろう。


 智恵は驚き、思わず後ろに片手をついていたし、孝一は莞爾の怒るところを見たことがなくて目を瞬いていた。


 そして、クリスはぽかんと口を開けたままだった。続く莞爾の言葉でようやく我にかえる。

 莞爾はなおも声が大きいが、先ほどよりも幾分か音量を下げて言う。



「よその子育てに文句を言うつもりは毛頭ない! そんなのはあんたらの勝手だ。けどな、ふざけるのも大概にしやがれ! 人様の家にずかずか上り込んだ挙句に、テーブル凹ませて、百姓馬鹿にしやがって! 世界の広さを知らねえだあ!? 隣の旦那から聞いてなかったのか? 俺はもともと会社員だ! 昔取った杵柄で悪いが、一部上場企業だ! 言いたいことがあるならまずは相手のこと調べて来いよ! そのぐらいの冷静さもなかったか!? それから孝一兄さんにも言うことがある!」



 莞爾は孝一を睨みつけて続けた。



「俺は兄さんが出世街道邁進してることを悪く言うつもりはないし、むしろ尊敬してる。けどな! 農家と違って忙しい!? ふざけるなっ! 農家継ぐのが嫌で逃げ出したくせして農家を語るんじゃねえよ!! 一度でも野菜育てたことがあるか!? 冷害が怖くて心配して眠れないことがあったか!? 台風被害が予想以上で危険省みず畑見に行ったことがあるか!? ねえだろうが! 何にも知らねえくせに偉そうに語るな! 大根一本でも育ててから言え!!」



 莞爾は声を荒げた。どうにか冷静に言おうとしても自然と声が大きくなってしまう。

 孝一がどんな思いで上京し、農家を継がなかったのか。それをわかっているからこそ、彼は悲しくて仕方なかった。



「あんた言ってたよな。これからは農業も変わっていくって。若い人がどんどん農業に関心持つ時代が来るって。だからそれを助けられる場所にいたいとかなんとか、えっらそうに講釈垂れてたよな!? 偉そうに夢ばっかり語ってたじゃねえか! あれは嘘か!? 農家馬鹿にしてんなら、あんたの過去の発言はなんだ!? 親父さん説得するための嘘か!? それとも自分に酔ってただけか!? 俺は兄さんが農家継がないって言った時応援したさ。一本筋の通った男だと思ってた! けど、今のあんたは兄さんでもなんでもない!! 調子のいいばかりで家庭の不和を招くような大馬鹿もんだっ!! 心底見損なった!」


 莞爾はお茶を飲み干して、テーブルに叩きつけそうになるが、クリスが膝に手を触れて、我に返った。冷静に深呼吸をして茶托にそっと置いた。


 孝一は初めて目を逸らし、奥歯を噛んだ。触れて欲しくないところを触れられた。見ればそれがすぐにわかった。莞爾はその様子を見て余計に悔しくなった。何を言いたかったのかもわからなくなった。


 すると、なぜか智恵が息を吹き返したように口を開いた。


「そう……そうよ。あなたが、あなたが仕事にばかりかまけているからいけないんじゃない! 共働きでも家のことは分担してやっていこうって言ったのはあなたでしょ!? 菜摘のことだって、わたしに押し付けてばかりでおしめだって一度も変えたことないじゃない!」


 孝一は黙ったままだった。莞爾は声を荒げた自分が馬鹿らしくなり、小さくため息をついて智恵の言葉を聞いていた。


「わたしだって仕事が忙しいのあなたならわかるでしょ!? 菜摘がいじめられてるって先生から連絡あった時も、あなた仕事が忙しいからってわたしに丸投げして、面倒ごとは全部わたしだったじゃない!」


 ようやく孝一は口を開いたが、言い訳がましい言葉だった。苛立っているような声音でもあった。


「それは男親よりも女親の方が子供といるべきだと君が言っていたからだ。菜摘が小さい時に、一度おしめを替えようとしたときも君がなっていないからって文句を言ったんじゃないか。そんなことも忘れたのか。わたしはわたしで菜摘と一緒にいようとした。けれども、君が全て“なってない”と言ってさせてくれなかったんじゃないか。違うか?」


「そういうことを言ってるんじゃないの!! たまには休みとって家にいてくれればそれでよかったのよ!! どうしてそんなこともわからないのよ!! 勉強を見てあげるとか、一緒に外食しに行くとか、色々できるじゃない!!」


 孝一は呆れたようにため息をついて答えた。


「仕事が忙しくてそんな時間もなかったんだ。それは君も最初からわかっていたじゃないか。毎晩のように接待はあるし、たまの休みだって全部接待だ。好きでもないゴルフだってしなくちゃならないんだ。せいぜい年末年始の三日四日しか一緒にいてやれないと言ったら、君はそれでもいいからって結婚を承諾したはずだ。違うか? 菜摘のことだってそうだ。男のわたしには女の子の育て方なんてよくわからないだろうって、君が遠ざけた。だからわたしは君に任せることにしたんじゃないか」


「いいかげんにしてちょうだい!! わたしにはあなたみたいに学歴があったわけじゃない! どこにでもいる女よ! 高卒ってだけで給料も増えなきゃ出世もできないのよ!? それでも必死に頑張ってきたの!! 誰に馬鹿にされたって一生懸命やってきたの!! 家のこともやって、仕事もやって、菜摘のことも精一杯やったわよ! お受験のことだってそう!」


 智恵は孝一に掴みかからんばかりに睨みつけていた。興奮しているのか顔を赤くしていた。

 もう莞爾やクリスのことなど見えてはいなかった。


「この子にはわたしみたいな苦労なんてして欲しくないのよ!! 学歴がないからって望まない仕事なんかして欲しくない!! なのにあなたは毎日毎日仕事仕事って、月に一回くらい菜摘の面倒見てくれたことある!? 全部わたしじゃない! わたしだって菜摘さえいなかっ――」

「黙れ」



 横合いからの声に、智恵の言葉が止まった。孝一を睨んでいた視線が何かに気づいたように不審げに横を向いた。


 視線の先には拳を握りしめて震えているクリスの姿があった。彼女は憤怒を無理やりに抑えて低声で言った。


「それ以上先を言えば、ナツミの友として黙っておらぬ」


 菜摘は今にも泣き出しそうな顔でクリスを見上げた。自分の代わりに怒ってくれる友達がいる。それがたまらなく彼女の心を乱した。


 両親から追い出されるように祖父母の家に来た。祖父母は優しかった。色々なことをさせてくれた。けれど、突然何もさせてくれなくなった。母親からさせるなと言われたらしい。勉強だけ頑張ればいいと。


 菜摘はただ誰かと一緒に楽しい気持ちを共有したかっただけだ。


 誰かと一緒に笑いたかっただけだ。話を聞いてもらって、ぎゅっと抱きしめて欲しかった。


 顔を合わせたら「おはよう」と微笑んで欲しかった。日曜日には一緒に外にお出かけしたかった。一緒にご飯を食べて「美味しいね」と言い合いたかった。


 クリスはその場に立ち上がり、蔑むような視線を向けて由井夫妻に言った。



「親の仕事は……親の仕事はな。金を稼いで衣食住を揃えることだけじゃない。子供に寄り添って、子供の不安を払拭し、その成長をすぐそばで見守ってやることだ。少なくとも私はそうだと思うし、世の全ての親がそうであって欲しいと思う」



 クリスは二人を睥睨し、自身を落ち着かせるように一度深呼吸をした。そうして菜摘と莞爾を一瞥して、また孝一と智恵を睨みつけた。



「私の両親は、決して私の前で口論などしなかった。常に和気藹々と楽しそうにしていた。父上はお忙しい立場で毎晩深夜に帰ってきていたが、どんなに遅く帰っても、私と同じ時間に起きて毎朝稽古をつけてくれた。日も昇る前からだ。母上は行儀作法に口うるさい人だったが、物覚えの悪い私ができるようになると、同じ目線で抱きしめて褒めてくれた。少なくとも……決して貴様らとは違う。菜摘をもし本当に家族だと言えるのなら、彼女を不安にさせるな」


 クリスはぐっと拳を腰のあたりで握りしめた。まるで我が事のように悲しさと悔しさがこみ上げて仕方なかった。


「私の友に、菜摘に、こんな……こんなに悲しい顔をさせるなっ!!」


 叫ぶように言って、クリスは莞爾に手を引かれて、鼻息を漏らしながらも腰を下ろした。まだ言い足りないことがたくさんある。けれど、これ以上は言葉で済むものではない。暴力を振るってしまいたくなる。クリスは激情を自制して、眼光鋭い視線だけを夫妻に向け続けていた。


 夫妻はただただ言葉を失っていた。呆気にとられていたのではなく、自分たちの不甲斐なさを突きつけられた気がした。


 その代わりに、幾分か冷静になった莞爾がため息を内心で噛み殺し、菜摘に問いかけた。下手くそな作り笑顔も子供のためならば多少はマシだった。


「菜摘ちゃん。この前は挨拶もできずにごめんな」


 菜摘は目を逸らしそうになるのをこらえて首を横に振った。


「菜摘ちゃんはお母さん、お父さんのこと好き?」


 その問いかけに、夫妻は思わず菜摘の方を見た。この部屋に上がってから初めて娘を真正面に捉えた。まさか自分らが嫌われているのだろうかと思った。まるで審判を下されるような心持ちだった。冷や汗が流れているような錯覚さえした。


 菜摘は莞爾の問いかけに小さく頷き、夫妻はほっと胸を撫で下ろしかけたが、続きがあった。


「好き、だよ。でも……」

「でも?」


 菜摘は口を噤む。言っていいものかどうか、十歳の女の子にはわからなかった。莞爾は優しく微笑んで続きを促した。


「言ってごらん。誰も怒らないから。いいかい。もし菜摘ちゃんがお母さんやお父さんに言いたいことがあるなら、きちんと言っておかないと……きっと後悔するよ。勇気を出して言ってごらん」


 優しく微笑みかけられて、菜摘は幾許かの安心を得た。彼がそばにいるのだから、今ならば言ってしまっても良いのではないかと思った。けれども両親の視線が怖かった。自分の言葉のせいで決定的に嫌われてしまう気がして怖かった。


 ちらりと視線を動かせば、大きく頷いているクリスがいる。心なしか「言ってやれ」と背中を押してくれているようにも思えた。


 ふと思い出すのは彼女が言った言葉だ。


——一歩踏み出してみたら、案外簡単で二歩目三歩目と続くものだぞ。


 そうかもしれない。できないと思っていた素振りだって、今では何度もできるようになった。もっと強くなりたいから、クリスに隠れて肉刺(まめ)ができるほどに続けた。まさかそれが母親を焚きつける結果になるとは思いもしなかった。


 もう弱いままで、自分の気持ちも伝えないままでいたくないと思った。すると自然に体に力が戻り、菜摘は小さく頷いて顔を上げた。緊張しているのか握った拳の中が汗で冷たい。菜摘は視線をきつく両親に向けて震える唇を必死に動かした。


「菜摘……菜摘ね。お母さんとお父さんが喧嘩するの見たくない。喧嘩してるところ見るのは嫌い。すっごーく、嫌い!」


 一度打ち明ければ、自然と思いが溢れて止まない。けれど、もどかしいのは菜摘にはそれを表現する言葉が足りないことだった。どうにかして思いを伝えたい。菜摘は無意識に腰を上げた。


「三人で一緒にご飯食べたいよ! 一緒にお出かけして遊びたいよ! お母さんにいっぱい学校のお話聞いてもらいたいし、下手くそでもいいからお母さんのご飯食べたいんだよ! お父さんにだってまた肩車して欲しいし、ドライブ連れてって欲しいよ! 時々でいいからぎゅーってして欲しいんだよ! 怖い夢見た時ぐらい一緒のベッドで寝たいよ! 毎日おはようって言いたいもん! お母さんもお父さんも忙しいのは知ってるもん! でもっ、一緒にいたいんだよっ!! 勉強だって難しいけど、頑張ってるもん! お母さんもお父さんも、菜摘が勉強できないから嫌いなの!? 菜摘は悪い子なの!? いらないから追い出したの!?」


 菜摘は上擦る声で言い切って、握った拳のやり場を見つけられなかった。彼女の精一杯の思いが頬を伝う。


 勇気を振り絞った結果として、彼女は自分の目元をごしごしと擦った。奥歯を噛み締めていなければ、声をあげて(うずくま)ってしまいそうだった。


 唖然とし、どうすればいいのか、どう答えればいいのかすらわかっていない両親に、莞爾は落ち着いた声音で悟すように言った。


「……せめて抱き締めてやれよ」


 言いたいことならごまんとある。

 まずは子供が世話になっていることに礼を言えだとか、テーブルに傷をつけたことを謝れとか、人の家で夫婦喧嘩なんてみっともない真似するなとか、そもそも何をしに来たんだとか。けれど、そんなことは彼にとってもはや些細なことだ。


 自分自身が会社員のまま、家庭を築いていれば、孝一のようにならなかったとは言い切れない。厳しい荒波の中をひた走る最中、家庭のことにまで目を光らせることができたかどうか自信がない。


 まだ親になったこともないくせに生意気だと一笑に付されても仕方ないとさえ思った。青臭い理想論なのかもしれない。けれど、かつて兄さんと呼んだ孝一がこんな家庭を築いているだなんて知らなかったし、信じたくなかった。


 自分には他所様の子育てに文句を言う筋合いなんて毛頭ない。けれど、弟分として言いたいことならいくらでもある。


 親子がすれ違ったままなんて家族皆が不幸になるだけだ。こんな子供のうちから両親への確執を抱かせるなんて、それは悲しいことではないか。


 血は繋がっていなくても、かつて「兄さん」と呼んだ男がすっかり変わってしまったことが、とてつもなく悲しくてたまらない。


 莞爾は手をこまねく二人に、苛立ちを抑えて再度促した。莞爾の細めた目に孝一は目を合わせることができなかったが、それでも言葉を聞かずに済むということはなかった。


「いつまで悩めば気が済むんだよ。あんたら親だろうが」


 駆り立てられるように、夫妻は俯きがちに顔を見合わせた。きっと、この家に入ってきたときのままだったなら、受け入れることはなかった。それどころか、莞爾とクリスを罵倒し続けていたかもしれない。


 けれど、今ばかりは娘の言葉が心に重くのしかかって仕方なかった。彼女が求めていたものは、大それたことなんかじゃない。とても小さくて、純粋な、子供なら誰でも願うことだったのだから。


 けれど、二人とも自分は精一杯できるだけのことをしていると思っていた。何不自由ない生活をさせてやっているという自負があった。


 その代償に今まで気づいてさえいなかった。いつしか成績という数字でしか子供を見ることはなくなった。一緒の空間にいることの大切さをむしろ疎んじていた。


 やがて菜摘が言われたこともできないお荷物のように感じるようになった。世話のかかる同居人に成り下がった。子育てが面倒だと思うようになった。いっそ仕事だけしていた方が楽だと何度も思った。


 急に自分たちのしでかした過ちが脳裏を埋め尽くし、二人とも混乱に顔を俯かせた。


 今更、どんな顔で菜摘を抱き締めてやればいいのかわからない。娘の純真無垢な思いに応えてやれるほど、愛していると言える自信がない。過去の行いが急に改心することの厚かましさを煽り立てて止まない。一方で自らの非を認めるようで嫌な気もした。


 なにせ、娘をペットか何かのように考えていたのだから。認めたくない事実だった。


 思考は停止して、彷徨っていた視線もテーブルの傷に縫い止められたように動かなかった。二人には今まで積み重ねた愚行が大きすぎた。莞爾にはなんとなく察せられた。二人の自負もわかる。できることならもう一歩後押しをしてやりたい。けれど、莞爾は夫妻が自ら顔を上げるのを沈黙して待った。


 自分たちの幼い娘と真剣に向き合って欲しかった。これ以上は余計なお世話というものだ。



 そんな状況で、少し冷静さを取り戻したクリスはおもむろに立ち上がった。驚く莞爾をよそに、菜摘の後ろに回った。


「クリス?」

「お姉ちゃん?」


 何事かと、ようやく夫妻も体をそちらに向けた。


 クリスは菜摘の両肩を後ろから優しく掴み、二人の方に勢いよく押しやった。

 自然、智恵が菜摘をとっさに受け止め、孝一も身を乗り出して庇おうとした。


「なっ、いったいどう――」


 叫びかけて、二人は久しぶりに触れた娘の温もりに心を奪われた。忘れていた温もりだった。


 面倒だと邪険にしていた娘が、血の通った人間なんだと肌に触れてようやく実感した。


 はじめは娘のためだった。何不自由ない生活をさせてあげたいから仕事に一層打ち込んだ。やがて仕事がうまくいくにつれてその気持ちが薄れ、次第に娘を娘と見なくなっていた。何をするにも手間がかかり、面倒ばかりで夫婦仲も悪くする元凶。問題を起こし、成績も思った通りにあげられない愚図。心のどこかでそのように思っていたのかもしれない。


 しかし。久しぶりに触れた我が子の体温が、愚行の上に築かれたプライドを粉砕した。今までの自分が間違っていたのだと、横っ面を殴られた。



 智恵はまるで許しを乞うように菜摘を抱き締めた。孝一も二人を包むように腕を回した。過去の所業を贖うことなどできないかもしれない。けれど、何よりこの温もりを手放すことなんてできるわけがない。


 もし娘に触れぬままで過ごしていたならとぞっとする。今ならばまだほつれた糸も結び直せる。



 本当に救われたのは菜摘じゃなかった。



「うわあああああっ! ざみじがっだんだよ! なづび、ざみじがっだあっ!」


 我も忘れて叫び泣く菜摘を智恵は力一杯に抱き締めていた。莞爾にもクリスにも聞こえないが、その口の動きを見れば菜摘には謝罪の言葉がきっと聞こえているのだろう。二人を優しく抱く孝一はじっと瞳を閉じて二人の温もりを感じているばかりだが、その表情は険しく、まるで何かを咎めているようだった。


 莞爾には菜摘に何があったのかわからない。両親の発言から推測ならできるが、諸悪の根源はきっとこの夫妻にあると思った。


 内心で「いじめだろうか」と考えを巡らせるが、この二人がそばにいてしっかりと話を聞いてやっていれば、傷は深くならなかったんじゃないかと思えてならなかった。けれど、まだまだ推測だ。


 莞爾はふっと笑う。


——まあ、な。子は(かすがい)とはよく言ったもんだ。


 ため息まじりにゆっくりと立ち上がり、クリスにも目配せをして部屋を出ようとした。


 孝一と目があって、莞爾はくすりと笑った。孝一は口元だけ動かして何かを言った。何を言ったのかは莞爾にもわからなかったけれど、構いはしなかった。



 静かに襖を閉めて、莞爾とクリスは土間に向かう。縁に腰を下ろして同時にため息をついた。


「……なんつうか、クリスはやればできる子なんだな」

「むふふっ。で、あろう? 良かったではないか。ナツミもあの二人と向き合えたのだから」


 言われて、莞爾は「ああ、なるほど」と納得した。


 突然やってきて余計なことをするなと怒り出したのは、もしかしたら嫉妬か、あるいは罪悪感の一種なのかもしれないと思った。最初に見たときの二人の印象は異なっていたが、きっと根っこのところでは現状を憂いていたのだろうと思った。


 ああして我が子を抱きしめることができたのだから、きっとそれが正解なのだろう。


「私だって、カンジ殿に助けられたのだぞ?」


 思い出すように笑うクリスに莞爾は首を傾げた。そんなことがあっただろうか。つい数日前のことなのに、莞爾にはクリスを助けたという意識がなかった。


 クリスは莞爾の肩を小突いて恥ずかしそうに言った。


「自分に打ち克つ、克己だったか? 貴殿が私に教えてくれたのだ。おかげで色々と思い出したのだぞ? 私だって過去を嘆くままではいられぬよ」


 莞爾が横を向けば、クリスは熱い視線を彼に向けていた。まっすぐに見つめ合って、クリスの手が彼の手に伸びた。やや強張った小指を自分の小指に絡め、クリスは言う。


「ナツミのことではないが、私も自分の弱さに向き合おうと思う。貴殿の反骨精神とやらを見習おう」

「反骨精神、か。俺も大した人間じゃないんだがな……」

「むふふっ、卑屈になるなどカンジ殿らしくないのではないか?」

「そうか?」

「うむ。もう遠慮はしないと言っていたではないか」

「それは……」


 莞爾は見透かされた気がして思わず視線を逸らした。


 クリスは微笑んで、今度は彼の手をぎゅっと握って、彼の肩に頭を乗せた。


 驚いて固まる莞爾に、彼女は当たり前のように言った。


「ありがとう、カンジ殿。おかげで私の友は救われた。ナツミもきっと立派に育つだろうな」

「お、おう……って、俺はなんもしてねえんだけどな」

「口火を切ったのは貴殿ではないか」

「ちゃんと言えたのは菜摘ちゃんの勇気あってこそだろ」


 莞爾はどうしようかと迷って彼女の肩に手を回そうとしたが、つかむこともできず伸ばした腕の先で手を握ったり開いたりした。こういう時に何もできないからダメなのだ、この男は。


 仕方なく、彼は照れ隠しで彼女の頭をがしがしと撫でた。けれど、いつものような抵抗は一切なかった。


「むふふふふっ、むふふふむふふっ、むふふふふっ」

「……いっそ気味が悪いな」

「よいではないか。よいではないか。私とてたまには誰かに甘えたくなるのだ。思わず声を荒げてしまったのは、やはり私も未熟だったということだな。反省だ」

「そっか……」

「そうだとも」


 がしがしと撫でていた手が優しくなった。クリスはふうと息を吐いてゆっくり姿勢を正した。


 何を思ったのか「よし」と拳を握って立ち上がり言う。


「今から追加で三人分のゴハンを作らねばなっ!」

「はあ?」

「むふふっ、カンジ殿も食事はまだであろう?」

「そりゃ、そうだけど……あの三人なら由井の家に戻るんじゃないか?」

「それでは気恥ずかしさが先立って会うに会えぬようになるではないか。だから今日今のうちに一緒に食事をして、そういう恥は流してしまうのが一番よかろうよ」

「……ぷっ」


 莞爾は思わず笑いそうになって口元を抑えた。


「なっ、なぜ笑う!」

「いやいや、なんでもないよ。なんでもない」



 ふと思い出したのは、帰省して顔を見せるたびに「腹が減ったろう? ご飯にしようかねえ」と飯を食わせようとする母親の笑顔だった。


 今思えば、あの一言に人生を終えようとするお袋の含蓄があったような気もする。久しぶりに帰った実家で食うお袋の飯は、なんのてらいもない味で、田舎らしい古臭い味だった。けれど、どうしてか今も忘れられない。


「こりゃあスミ江さんに毒されてんな」

「むっ!? 一体なんのことだ!?」


 辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、どんなに悩んでいても腹は減る。面倒なことはとりあえず飯を食ってから考えればいい。美味いものを食えば少しは考えも変わるものだ。



——難しい顔しないで、よおく噛んでお食べよ。


 母親の口癖を思い出して、莞爾もゆっくりと立ち上がり、腕をまくった。


「さあ、作るか。あの三人が恥ずかしくて逃げ帰っちまう前に」

「むぅ? むっ……むふふっ! 作ろう作ろう。大勢で食べた方が美味いのだ!」


 どうにもお人好しな二人だった。ほつれた糸を無理やり結びつけようとしたのだから、しっかり引っ張って固くしておくぐらいの後始末はせねばなるまい。


 まだそれは細くて脆く頼りない、結ったばかりの糸なのだから。


修正による大幅な内容改変は今の所ありません。(11/17現在)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ