12月(3)上・モンスター
お待たせしました。今回の話は次回にも続きます。
十二月に入り、莞爾は物置になっている納屋の二階からコタツを出すことにした。
もう昼でも寒い。
今年はとくにそうだ。例年に比べて平均的に下回っている気がする。
もともと寒さに強い莞爾は年末まで我慢するつもりだった。けれど、今年はそうも言ってられない。
なにせ古い日本家屋なせいもあって、隙間風が多いし、夏の過ごしやすさを考慮した構造なので室内の暖気はすぐに逃げる。莞爾には慣れたものだが、クリスには慣れないようだ。
外で雑巾を使って埃や汚れを落として居間に持ち込み、コンセントを繋いで動作するかどうか確かめる。問題はなさそうだ。
「これは……変な卓だな」
「冬の代名詞、コタツだ」
コタツ布団をかけて、スイッチを入れ、足を突っ込む。
ゆっくりじんわり暖まり、人を堕落させる装置が出来上がった。
クリスは卓に頭を寝かせて、さっそく陥落した。
「むはぁーっ……これは、これは人をダメにする。むふふっ」
「あーっ、やっぱり冬はコタツだよなあ……」
昔は掘りコタツにして、足元に火鉢を置いていたが、現代では電気が主流だ。
もともと火を使っていた経緯から、コタツ開きには十一月半ば頃の亥の日にコタツを出す行事があった。もっとも今となっては廃れている。
コタツに座ってお茶を啜り、小さく息を吐く。
歯医者に行ってから三日も経つと、さすがに沁みることもなくなった。けれど、依然としてじんじんと痛むこともあるし、莞爾はクリスに隠れて痛み止めを飲んでいる。ちなみに奥歯は接着剤で止めてある。もう少しで抜くところだった。
治療期間は一ヶ月ほどだそうだ。腫れたり熱をもったりしないのが救いである。
「さあて、俺は残りの仕事終わらせて来るかな」
「むぅ……もう行くのか?」
「おう。今日もなつみちゃんが来るんだろ?」
「うむ」
「二十日大根の様子はどうなんだ?」
「むっ……げ、元気だぞ?」
「どれ、ちょっと見てみるか」
「まっ、待つのだ! カンジ殿!」
「何もしねえよ、見るだけだって」
コタツという罠に捕らわれたクリスは即座に動くことができなかった。
莞爾は土間に降りてつっかけを履き、プランターのシートを剥いだ。
「おっ、普通に育ってる。普通だ! なんだよ、てっきりバケモンが育ってるのかと思ってたのに」
けれど、少々間引くのが遅い。これでは育ちきれないだろう。後ろからやってきたクリスに言う。
「いい感じじゃないか。今日はいくつか間引いてみるといい。間をあけてやれば大きくなりやすいから」
「……むぅ。わかったぞ」
何も悪いことはしていないが、なぜだか悪いことをしたような気になっていたクリスである。莞爾はよもやクリーチャーが出来ているのではないかと思っていたが、全然そんなことはなかった。気温のせいで成長速度は遅いものの、順調に育っている。
二人で外の日当たりの良い場所にプランターを動かしてやる。十二月に入ってから朝の気温が低いので、昼前の暖まった頃合で外に出している。
「じゃあ、クリス。俺は畑行って残りの仕事終わらせてくるから、昼飯の準備よろしくな」
「うむ。任されたぞ」
「冷蔵庫に豚の細切れと白菜があるから、塩麹で炒めると美味いと思うぞ」
「塩麹?」
「白い蓋のタッパーに入ってる。大さじ一杯ぐらい使えばちょうどいいだろ」
「ふむ。心得た」
調味料はおおよその分量さえ言っておけば問題はない。クリスもスミ江のもとで色々教わっているので、醤油や味噌の分量は間違えない。もはや大さじ小さじの加減も慣れたものだ。まあ、スミ江がほとんど経験的適当さなので、莞爾に教わったのだが。
時刻はちょうど十時半。例によって軽トラを見送り、クリスは家の残った掃除をぱぱっと済ませ、それから昼食の準備を始めた。
「確か、スミエ殿は豚肉に醤油を揉み込んでいたな。塩コウジでもできるだろうか……」
なんでも物は試しである。クリスは細切れをボウルに入れて塩麹をスプーン一杯加えて揉み込んだ。それをしばらく置いておき、今度は白菜を一口大に切る。
「むわっ! 虫がいたっ!」
思わず指先でぶちっと潰す。いちいち「きゃー、虫がいるわぁ! 誰か取ってえええっ!」なんてことにはならない。ヤモリを見つければ飛びついて捕まえて外に放り投げるし、部屋の中を蛾が飛んでいれば素手ではたき落とす。慣れたものだ。
「むぅ……この野菜は虫が多いのだな」
ようやく食べられるくらいに育った白菜だが、時折葉の隙間に虫がいる。無農薬で育てていれば虫ぐらいいるものだ。それをギャーギャーと騒ぎ立てる方がおかしい。人間が食べて美味いものは虫にとっても美味いのだ。
出荷するならば気にするが自家消費なのであまり気にしない。害虫は見つけたら殺す。それだけのことである。
刻んだ白菜をざるに移して流水でざっと流す。よくよく目を通すが虫はもうついていないようだ。
「よしっ、炒めるぞ!」
クリスはフライパンを火にかけ、最近知ったごま油をひと回しする。
十分に熱したところで塩麹を揉み込んだ豚肉を入れ、軽く炒めたらすぐに白菜を投入する。
鼻歌を口ずさみながら菜箸で混ぜ、蓋をして弱火にする。
ときどき蓋をあけて中を混ぜ、また蓋をする。スミ江から炒め物は弱火で蒸し焼きにした方が美味しいと教わったのだ。クリスはとぼけた一手間を加えるような人間ではないので、その辺りは言われた通りにやる。
「おおっ、いい匂いだな。どれどれ……むふぅーっ!」
そろそろ頃合かとひとつ味見をしてみると、安い豚肉の細切れが芳醇な肉を思わせるほど美味しくなっていた。白菜もしんなりとしているがシャキッとした食感が少し残っていて美味しい。塩麹の優しい塩気にごま油の風味が効いてなんともいえない。
「むふふっ、これはゴハンが進むおかずだな!」
火を消して蓋を閉め、お茶を持ってコタツに座って莞爾を待つ。
時計はちょうど十一時を過ぎた辺りだ。しばらくすれば彼も戻るだろう。
クリスはふと思い立って日記帳を持ってきて今日の分の日記を書き始めた。
彼女の日記はひどくシンプルだ。その時々の感情はほとんど書かれていない。書いていても暗い言葉は一切ない。楽しいとか嬉しいとか、そういう前向きで明るい言葉しか書かれていない。あとはどこで何をしたか、誰が何をしていたかなど、そういうことばかりだ。
さらさらとペンを走らせて、小さく息を吐く。足元が暖かいおかげで少し眠たい。ちらと時計を見れば二十分ほどしか経っていなかった。
けれども、そろそろだろうと思って腰をあげ、おかずのお皿を食卓に並べる。ご飯と味噌汁だけは食べる直前だ。
そうして外から車の音がしたのでご飯をよそおうとしたが、なぜか玄関のチャイムが鳴った。
「客人……なのか?」
クリスはこういう時にどうすればいいのかよくわからない。
莞爾からはもし客人が来たら応接間に通してお茶でも出しておけと言われているが、問答の仕方もあるだろう。
少々不安に思いながらも玄関に向かって扉を開けると、見知らぬ男女二人組がいた。男の方は高級そうなスーツを着ていて、女の方も少し派手な正装をしていた。クリスはなんだか偉そうな人物だと思ったが、努めて明るく振る舞うことにした。
「失礼だが誰何してもよいだろうか? 家主はちょうど留守にしているのだ」
尋ねたところで、女の後ろでもじもじと隠れている菜摘を見つけて首を傾げた。
男はクリスの視線を全く気にせずにため息交じりに言った。
「——失礼。わたしはこういうものだ」
名刺を渡されてもクリスには読めないのだが、この男にしてみれば菜摘から日本語ができる外国人女性と聞いていたので、とくに気にも留めていなかった。
クリスは受け取ったもののわからないものはわからないので、正直に尋ねる。
「すまない。まだ字は読めないのだ。できればお名前を教えていただけると助かる。ナツミのご両親だとは思うが……」
「なるほど。まだ字を読めるほどではないのですか……失敬。わたしは由井孝一と申します。こちらは妻の智恵です。莞爾くんは今どちらに?」
その言い草と馬鹿にしたような声色と視線にわずかに不信感を募らせながらも、莞爾の知り合いだとわかり、クリスは平然を装った。
「今は畑だと思う。そろそろ帰ると思うが……」
はてさて、自分は名乗るべきか否か。自分から名乗るのが礼儀ではあるが、目の前の男は端から聞く気がなさそうであるし、後ろに菜摘がいるのだから、話ぐらいは聞いているのだろうと思った。菜摘の両親かと尋ねても名前しか言われなかったが、おそらく由井ということで家族だろうと結論づけた。
「中で少し待たせていただいても?」
「それは構わないが……少し待ってくれないか。二、三、荷物があるのでな」
「ええ、構いませんよ。ところで……」
奥に戻りかけて、振り返る。孝一は不快を露わにして言った。
「どこでそのような口調を学ばれたのですか? きちんとした先生に師事しなかったのですか?」
「ふむ……いや、失礼。ご不快だったのならば謝ろう。しかし、私はこの言葉遣いしか知らぬが、それでも最低限の礼節は弁えているつもりだ。どうかご容赦願いたい」
「せめてもう少し丁寧な話し方というものがあるでしょう。どう聞いても無礼にしか聞こえません。あなたがどういう人間で、莞爾くんの何なのかは知りませんが……初対面の相手に対して不快な思いをさせるのですから改めた方がよろしいのでは?」
「仰る通りだとは思う。だが、未だに日本語には慣れぬし、改めようと思ってすぐにできるわけでなし。ご不快かもしれぬが、寛大にご容赦願いたい」
——慇懃な面の皮を剥げばなかなか無礼な男だ。クリスは困ったような笑顔を装って座敷に入り、自身の荷物をまとめて居間に移した。
玄関に戻り、由井一行を座敷に通した。席に案内してクリスは言った。
「すぐに家主が戻るとは思うが、それまでお茶でもお出ししよう」
「いえ、お茶は入りません。お心遣いだけ受け取っておきます」
「そうか……ではこちらに」
クリスはしかめ面をしそうになって作り笑顔で誤魔化した。
突然訪ねてきて人の気遣いを平然とはねつけることに、若干憤りを感じるが、言いだしても仕方がない。莞爾の知り合いであり菜摘の両親であるのならば下手に文句を言うべきではないし、自分の口調のこともあるので穏便に済ませようと思った。
クリスは手で示すかのように三人を迎え入れ、座敷に案内した。
小さなテーブルの奥に上座から三枚の座布団を並べておいたが、菜摘以外の二人はさも当然とばかりに一言もなく上座から腰を下ろした。菜摘はしばしおろおろと視線を彷徨わせ、クリスに微笑まれてどこか安心したように末席に腰を下ろした。
「家主はすぐに戻ると思うが、よければ要件をお聞きしても?」
「……いえ、莞爾くんが戻ってきてからにしましょう。そちらの方が手間がなくていい」
「——左様か」
クリスは即座に事務的対応に切り替えた。この手の類の人間を相手にしたことは数え切れないほどある。
「しかし、家主不在の折に茶も出さなかったとすれば家人の恥。私はお茶を淹れて参ろう。手慰みもないが、ごゆるりとお待ちあれ」
とにかく頭の奥から莞爾に言われていたことを思い出す。人数分の座布団、お茶、茶受けの菓子、適当な話し相手。
最後の話し相手というのは、どうにも無理な相談だが、それ以外はやっておこうと決めた。
クリスは相手の返事も聞かずにさっさと座敷を後にして、土間にむかいお茶を淹れた。茶受けには何がいいだろうかと悩んだが、先日穂奈美が持ってきた茶菓子があったので、それを包みから出して平皿にいくつか並べた。種類も適当だが、どうやらクリスのことを風変わりな外国人と思っているようであるし、とくに問題はないだろう。
彼女はお茶とお菓子を盆に載せて座敷に戻った。
「無作法で恥ずかしい限りだが、お察しいただけると幸いだ」
「……ご丁寧にどうも」
言葉とは裏腹に面倒臭そうな表情だった。
由井家族にテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろしたが、どちらとも口を開く様子はない。クリスは何かを尋ねてみようと思ったが、夫婦はどこかつんとしているし、彼女を見下している風である。
ちらりと菜摘の方を見ると、心配そうな顔をしてクリスを見ていた。目が合うと菜摘は俯いて両手を膝の上でぎゅっと握った。
ものの五分もしないうちに莞爾が帰宅した。
勝手口の方から音がしたのでクリスは「失礼。家主が帰ったようだ」と立ち上がり、彼を呼びに行った。
莞爾は呑気なものだった。クリスの顔を見るや帽子を壁にかけて言う。
「知らない車があったけど、誰か来てるのか?」
「うむ。ヨシイコウイチとその妻、それからナツミが来ている」
「はあ? 孝一さんが? またなんで?」
莞爾は孝一のことを知っていた。知っているからこそなぜ彼がわざわざ我が家を訪ねてきたのか理解できなかった。もともと狭い田舎の中で顔見知りではあるが、孝一は東京に住んでいたはずだ。それに戦後のごたごたで生じたいざこざもあるので、佐伯家と由井家は疎遠だった。
クリスは首を横に振った。
「知らぬよ。尋ねてみても二度手間になるからと話してくれぬ」
「ふーん……そんな人だったっけか? 気さくでいい人だったイメージだけど」
首を傾げながらも、莞爾はさっと手を洗い、クリスに自分の分もお茶を頼んで座敷に向かった。
襖を開ければ、昔見たときよりも老けているが変わらぬ孝一がいる。妻も十数年前に見た人物に相違ない。けれど、何か印象が違う。昔はもっと朗らかな印象を受けたものだ。今では二人とも冷たい雰囲気を感じる。
「いやいや、お待たせして申し訳ない。孝一兄さん、久しぶり」
莞爾は笑顔と明るい言葉で話しかけながら孝一の向かいに座った。
「いやあ、元気そうで何よりだ。ははっ、もう四十だっけ? 音沙汰なかったけど、仕事は順調なのか?」
「——時間もないので単刀直入に済ませよう」
その一言に、莞爾はきょとんとして、思わず口を開けた。
確かに目の前にいるのは孝一なのだろう。けれども、自分の知っている孝一ではなかった。
よもや挨拶もまともにしないとは思わなかった。
莞爾はテーブルの下でぐっと拳を握りしめて作り笑顔で応じた。
「そりゃすまない。仕事が忙しいんだもんな。悪い悪い」
「そうだ。わたしは君なんかとは違って毎日忙しいんだ。これでもどうにか休みを作って戻ってきただけで、また夕方には仕事に戻らないといけないんだ」
「……へえ。そう」
莞爾のこめかみがぴくりと震えた。そこでちょうどクリスがやってきて莞爾にお茶を手渡した。クリスも莞爾の雰囲気から察したのか、何も言わず立ち去ろうとした。けれど、莞爾は彼女に手招きをして隣に座らせた。
おそらく必要な人物だろうと思ったからだ。
莞爾は熱いお茶で唇を湿らせて一旦落ち着き、小さく息を吐いた。
「——で、話ってなんだ?」
孝一と智恵はどちらも視線を莞爾に向けたまま動かさない。
「娘のことだ」
「あー、そちらの? まだ紹介されてなかったけど」
「……莞爾くんは菜摘のことを知らないのか?」
「いや、面識はある。けれど、挨拶もしてないもんでね」
「そうか……娘の菜摘だ。九月から実家で預かってもらっているんだ」
「へえ。それで?」
孝一は菜摘を紹介するときですら娘に目を向けようともしない。それが莞爾を余計に苛立たせた。けれど彼はじっと我慢して次の言葉を待った。
「父から連絡があった。最近、菜摘が佐伯の家に出入りしてると。それで君に何か世話になっているのかと思ったら、外国人の女性がいるという話を聞いたんだ」
「……そうだな。確かに菜摘ちゃんはクリスと一緒に遊んでいたよ。お友達なんだそうだ。なあ、クリス?」
莞爾が顔を向けるとクリスは力強く頷いた。すると菜摘は少しだけ嬉しそうに顔を上げ、何かを怖がるようにすぐに俯いた。
孝一は小さくため息をついて言った。
「一応菜摘からも聞いたんだが、何をして遊んでいたのか詳しく教えてくれ」
莞爾はクリスの方に視線を向ける。クリスは小さく頷いて言った。
「昼食の後に毎日ナツミと遊んでいたのだ。まずは一緒にハツカダイコンに水をやっていた」
「二十日大根?」
「あー、プランター栽培できるんだ。それでクリスと一緒に水やりをしてるんだよ」
莞爾が補足すると、今まで黙っていた智恵がいきなり声を荒げて言った。
「信じられない! うちの子にそんな汚いことさせないでちょうだいっ!」
「……はあ?」
莞爾もクリスも意味がわからず首を傾げた。孝一は智恵をたしなめてクリスに続きを促した。
「それから、他には?」
「……ふむ。ナツミが強くなるにはどうすればいいかと言うのでな。まずは自分の弱い心に打ち克つために素振りを教え——」
クリスの発言の途中であっても関係ないとばかりに、智恵は両手でテーブルを叩いた。指につけた高価そうな指輪がカチンと鳴った。叩かれた部分には凹み傷ができた。莞爾は一瞬高まりかけた感情を抑え込む。安いテーブルではない。
父親が客を出迎えるのに安っぽいテーブルでは笑われると、生前に大枚を叩いて購入したものだ。
「見なさいよっ! この手!」
智恵は乱暴に菜摘の両手を取ってテーブルの上に広げさせた。痛かったのだろう。菜摘は眉根を寄せたが一言も漏らさなかった。
「こんなに肉刺ができるほど素振りって、頭おかしいんじゃないかしら!? おまけに二十日大根!? なんでうちの子にそんなことさせるの!? いい!? わたしたちが子供をこっちに預けているのはねえ、田舎の長閑な環境でゆっくり療養して欲しいからなのよ!? お友達だなんてふざけるのもいい加減にして! 悪いお友達なんかと付き合ったらうちの子まで悪い子になるじゃないの! 土いじりなんて汚い真似はさせたくないし、せっかく綺麗な手をしているのにこんなに肉刺を作るなんて予想してなかったわ! もし怪我でもしたらどうするのよ! 顔の傷が残ったらどうやって弁償してくれるっていうのかしら!?」
智恵は興奮しているのだろう。莞爾もクリスも同じように聞き流す姿勢を取っていた。けれど、心中は穏やかではない。莞爾は苛立ちが沸騰しそうだったし、クリスは身に覚えのないことだった。
確かに素振りの練習に付き合ったが、肉刺ができるほどさせた覚えは一度もない。せいぜいちょっと疲れるくらいだ。握り方もちゃんと指導しているし、よっぽどクリスに隠れて練習でもしない限りは肉刺などできるはずもなかった。
「だいたいこんな薄汚い家にうちの子がお邪魔してること自体が信じられないわ! いい歳した男にどこの馬の骨かもわからない外国人なんて信用できるわけないじゃないの!」
莞爾は内心で「まあ、それもそうだな」と怒る気持ちを冷静に横に流した。けれど、薄汚い家というのはいささか言い過ぎだ。好きで古い家のままにしているわけではないのだ。できることならばさっさとリフォームしたいが、それほどの資金力がないだけだ。
クリスはいい加減むかっ腹が立って仕方なかったが、隣を見れば莞爾が表情も変えずに智恵の話を黙って聞いている。家主を前に自分が声を荒げるわけにもいかない。彼女は奥歯を噛み締めてひたすら耐えた。
「中学のお受験もあるし、これから菜摘にも頑張ってもらわなくちゃって時になんてことしてくれるのよ! 農家にはわからないでしょうけどね、いい学校に入っていい大学に行かないと、ちゃんとした会社には入れないんだから! 世界の広さも知らないで田舎に引きこもってればそんなこと知らないでしょうけどねっ! 顔だって面接では武器になるのよ! それを素振りですって!? 顔に怪我でもしたら全部おじゃんよ!」
そこまで言い切って、智恵は肩で息をした。孝一は彼女の発言を止めようともしなかったし、どこか他人事のようだった。むしろ智恵の行動に頓着していないようにさえ見える。
クリスは膝の上でぐっと拳を握り視線を鋭くした。何かを口に出そうとして、それを莞爾が手で制した。
機先を制されて、クリスが横を向けば、そこには初めて見る莞爾の表情があった。冷たく、どんな感情も感じさせない表情だった。クリスは思わず息を飲み込んだ。
莞爾はなんでもないことのように一度大きく息を吸った。けれど、その瞬間に形相は怒りに代わり、そこから吐き出されたのは息ではなく、彼の怒りの全てを圧縮したような大音声の罵倒だった。
「顔洗って出直して来やがれっ!!! クソババアッ!!!」