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12月(2)痩せ我慢と蕪のツナマヨ和え

大変お待たせしました。

インクのノリが悪かったもので。

 目を覚ましたクリスは、莞爾のベッドの上で、彼の枕を抱いていた。


 まだ頭が回らないらしく、枕に顔を埋めてうんうんと唸りながら、布団の中でもがいていた。


「むふふっ……むふっ、カンジ殿、カンジどのぉ……むふふっ」


 しばらく夢の余韻をしっかりと楽しんだあとで、小さく息を吐いて、ようやく自分の“痴態”に気づいて跳ね起きた。


「むわああっ!? 違う違う違う! 私は……」


 窓の外はもうすっかり明るい。時計を見れば朝八時を過ぎていた。


「寝過ごしたな……ははっ」


 彼の姿は寝室にはなかった。見れば自分の服も見当たらない。下着姿のままどうしようかと考えて、仕方なく彼の脱ぎ捨てた真っ白な無地の肌着を上から着た。


「むぅ……カンジ殿の着ていた服、か」


 自然、おかしな顔になりそうで、クリスは頬を両手で揉みしだく。


「むにゅぅ。腑抜けるにも程があるな。私は騎士だ。騎士。騎士なのだ」


 拳をぎゅっと握りしめて「よしっ」と布団から出た。ズボンがないので足元が肌寒い。思わず両手で裾を掴んで伸ばしてみるが、パンツがどうにか隠れるくらいだ。


 早く座敷にある自分の着替えを取りに行こうと思った。


 恐る恐る廊下に出て、莞爾がいないことを確認してそろそろと座敷に向かうが、途中でいい匂いがした。包丁がまな板を叩く小気味よい音もする。


 昨日は食事もしなかった。そのせいで腹の虫がなった。


 クリスは少しだけ覗いてみようと思って、台所に向かった。やはり食い気の方が大事なポンコツだ。


 ひょっこりと廊下の柱から土間の方に顔を出すと、珍しく作業着姿じゃない莞爾がいた。


 ジャージのズボンに薄い長袖のシャツ一枚だ。


 味噌汁の芳醇な香りがする。今日は干し椎茸の出汁のようだ。卵焼きの仄かな甘い香りがする。ほうれん草の胡麻和えの香ばしさ、焼き海苔を炙った磯の香り。炊飯器から漏れてくるご飯の炊ける匂い。


 クリスは思わず口の中によだれが溜まり、早く着替えてこようと思った。


 けれど、莞爾は何を思ったのか、土間の片隅でシートをかぶせてあるプランターの方に向かった。そして腰を下ろして今にもシートに手をかけようとしていた。


——マズイ!


 なにがマズイのかはクリスにもよくわからない。けれど、彼に見つかるのはあまり良くない気がした。クリスは思わず彼の名前を呼んで駆け出した。


「かっ、カンジ殿っ! おは——」


 普段なら絶対にしない失敗だった。焦るあまり、板張りの縁から足を踏み外し、土間に落ちそうになった。


 振り向く莞爾をよそに、クリスはとっさにもう一歩踏み出して、土間を裸足で数歩進み、莞爾の胸に飛び込んでしまった。


「おっと……大丈夫か?」

「あ、ああ……私はだいじょ——」


 そこで慌てて離れようとしたが、自分の格好を思い出してすかさず彼の腰に手を回した。


「だいじょばんっ!」

「はあ?」


 莞爾は必死にしがみつくクリスを上から見下ろして、なるほどと苦笑した。けれど、以前までの彼ではない。そこにはもうクリスへの遠慮をやめた彼しかいない。


「ずいぶん積極的だな、クリス」

「むきゃっ! ち、違っ——」


 背中に腕が回され、ぎゅっと抱きしめられた。くの字を描くように体が曲がる。うなじに埋められた彼の鼻先が産毛をくすぐった。


 クリスは必死にじたばたともがいて抵抗した。


「ふだゃあああっ! きっ、貴殿はあしゃからにゃにゃ、にゃにをしておるのだぁ!」

「何って……夜ならいいのか?」

「しょっ、しょんなこと誰も言っておらにゅっ!」

「耳元で喚くなよ……クリス。少しは元気になったか?」


 その一言で、クリスは少しだけ冷静になった。未だに胸が高鳴り、苦しくって仕方がない。けれども、彼が一晩中そばにいてくれたことだけは容易にわかった。


 思わず押し退けようとして彼の胸に当てた両手に力が入った。すると、今度は莞爾の両手も、捕まえるような抱き方をやめ、両腕で彼女を包み込むように、背中と腰に優しく添えられた。


「ああ、クリスは結構体温高いんだな、ははっ」

「むぅ……恥ずかしいぞ、カンジ殿」

「嫌なら押しのけてくれよ。でも、もう少しだけ」

「……むぅ」


 昨日、殴ってしまった手前、押しのけるなんてできそうもない。

 それに、彼に抱きすくめられて、心臓は早鐘を打ち続けているのに、心が温かくて仕方ない。泣いてしまいそうだ。


 呵責に苛まれた心情を全て打ち明けて、クリスは少しだけ心が軽くなった。けれど、彼女にとってはそれだけのことで、自分の罪が軽くなるとは思っていなかった。それでもクリスの心を聞いて、その上でそばにいてくれたことに、胸が苦しくって仕方ない。


 いつだったか、穂奈美にも言われたことがある。ゆっくりと時間をかければいいと言われた。辛い思いは時間が解決するのを待つしかないと。できればその時間を、安心できる人と一緒に過ごしなさいと。


 だから莞爾の下に来たのだ。彼と離れた後も様々な人間と会った。けれど、その中に自分を普通の人間として見てくれた人なんて一人もいなかった。あえて言えば穂奈美だったが、彼女は若干特殊な性癖だったので除外せざるを得なかった。


 彼だけは自分を受け入れてくれると思って来てみれば、実際に受け入れてくれた。けれど、それが余計に彼女自身の胸の奥に眠る悪夢をより強くした。


 今は少しだけ、打ち明けたことを良かったと思える。彼と本当に向き合えた気がするから。


「カンジ殿は……バカだ」

「おう。バカかもな」

「大バカものだ」


 額を彼の胸に自らぶつけて、クリスはしばらくの間彼の腕の中でじっとしていた。故郷に残してきた未練さえなければ、このまま彼に身を委ねてしまいたい。彼女は彼の胸に頬を擦って目を細めた。



 その時である。勝手口のドアが蝶番を軋ませて開いた。

 現場を目撃した老婆は手を口にあてて目を見開いた。


「あらあら、まあまあ! 朝からお盛んねえ!」


 スミ江だった。


「——ふみゃぁあああああっ!」


 クリスは湯気が立つほど顔を真っ赤にして莞爾を力一杯押し飛ばし、足の裏を拭くことも忘れて逃げ去った。


 身をよろけさせた莞爾は思わず後ろに手をついたが、そこにはまな板があり、くるりと回って包丁が滑り落ち、莞爾の右足のすぐ隣にざっくりと突き立った。


「ひいいいっ!」


 スミ江はケタケタ笑った。


 莞爾は破裂しそうな鼓動を刻む胸をほっと撫で下ろして、ゆっくりと包丁を手に取り、流しにそっと置いてため息をついた。


「……せめて呼んでくださいったら」

「うっふっふ。呼んだけどねーえ?」


 何かに集中して聞きそびれたんじゃないか——スミ江はにやにやと笑いながら手に持ったビニール袋を彼に手渡した。


「今から朝ごはんかい?」

「ええ。ちょっと寝坊しまして」

「二人揃って?」

「……ええ」


 七十過ぎのくせにやたらと首を突っ込みたがるババアである。

 莞爾は内心でため息をついて、袋の中身に目を通した。


 中には大きな(かぶ)がたくさんあった。葉もついている。虫食いも少なかった。


「おおっ、美味そうな蕪ですね」

「それ、おすそ分け」

「ありがとうございます。あ、何か畑から採ってきましょうか」

「なら、ほうれん草ちょうだいな」

「まだ太ってないですよ?」

「いいのよう、ジジババ二人なんだからねえ。そんなに食べやしないよ」


 今朝の胡麻和えに使ったほうれん草は途中で間引いたものだし、そこまで大きくはない。けれど、早採りもそれなりに美味しい。むしろ好きな人もいるかもしれない。


 莞爾は了解してすぐにほうれん草をビニール袋いっぱいに詰めて戻った。まだまだ十センチほどしか育っていない。倍は欲しいが、気温が下がってからぐんと成長スピードが落ちる。けれど、寒いとまた甘さが増して美味しい。寒さに負けないように糖分を蓄えるからだ。



「はい、こんなもんで?」

「十分ねえ、ありがとうね」

「いえいえ。あ、それと今日ってクリスがお邪魔する日でしたよね?」


 彼がスミ江に頭を下げた日から、二、三日おきにクリスはスミ江から料理を教わっている。教え方がいいせいもあってめきめきと料理の腕は向上中だ。


 スミ江はにこやかに頷いて言う。


「そうねえ。クリスちゃんは物覚えがいいから教える甲斐があるねえ」

「いつもすみません。今日もよろしくお願いします」

「承りましたっ」


 スミ江は冗談めかしてほうれん草の入った袋を掲げて言った。


 莞爾は彼女の後ろ姿を見送った後で土間に戻った。


 流しに桶を置き、水を張ってその中に貰ったばかりの小蕪を入れる。ざっと洗い、茎の密集した根元の隙間も流水で綺麗に洗って、水気を切った。


 やや厚めに皮を剥いて、縦に半分に切り、薄切りにしていく。葉の部分は二センチほどの大きさに切っておく。


 切り終えたら全てボウルに入れて塩を振り、ぎゅっと揉み込み、少し置いて塩気を水で流した。両手で絞るように水気を切り、油を切ったツナとマヨネーズを適量、隠し味にたまり醤油を少しだけ垂らしてよく混ぜる。


 真っ白な蕪と葉の鮮やかな緑が見栄えもいい。つい一口つまんで、シャキシャキとした食感と独特の柔らかさが舌を楽しませる。ツナマヨに刻んだ蕪。鉄板だ。


 莞爾は「よし」と呟いて、炊き立てのご飯を茶碗に装い、それぞれの皿を食卓に運ぶ。運び終えたところでクリスを呼びに言った。


 (ふすま)の前でクリスを呼んだ。


「おーい、クリス。朝飯にするぞ。腹減っただろ?」

「すっ、すぐ行くのだっ!」


 襖の向こうから慌ただしい音が聞こえ、莞爾は苦笑しながら居間に戻った。

 漬物の入ったタッパーなどを冷蔵庫から出して並べていると、すぐにクリスは戻ってきた。


 未だに顔が少し赤い。彼と目を合わせようともしないが、ちらちらと彼の様子を窺っている。


「ほら、早く座れって。飯だ、飯」

「むっ、むぅ……なぜ貴殿だけ平気なのだ」


 尻すぼみの言葉は莞爾には聞き取れなかった。

 二人して席につくと、どちらともなく「いただきます」と手を合わせた。


 莞爾が微笑みながら食事を始める様子を見て、クリスはおずおずと箸を手に取った。習った通りにまずは味噌汁に口をつける。


 干し椎茸の出汁がよく聞いている。具の豆腐もいい。最初は味がないと思ったが、食べ慣れると柔らかさに豆の風味があってついつい食べすぎる。戻した椎茸も食感が独特で、柔らかい豆腐と食感のコントラストが面白い。


 炊き立てのご飯を一口食べてみれば、いつも以上に瑞々しさと甘みを感じる。一粒一粒に噛み応えがあり、素朴な甘さにいつまでも噛み締めていたくなる。


 ほうれん草の胡麻和えに箸を伸ばす。シャキシャキとした食感に、すり胡麻の風味がいい。まさに野菜を食べているという実感が湧く味だ。えぐみも一切ない。葉の柔らかさに茎のシャキッとした噛み応え、鼻に抜ける胡麻の風味。


 ついついご飯を口に入れ——いい塩梅だ、と笑みが漏れた。


 甘い香りのする卵焼きはふんわりとしていて、甘い中にもしっかり味がする。かすかに醤油の味がして、卵の味と甘さが全体を包み込む。ふと思い立って、磯の香りがする焼き海苔で包んで口に入れる。


「むっ! これは新発見だっ!」


 美味い。


 卵焼きだけでも美味しかったのに、それを焼き海苔で巻いただけで風味が際立った。相性もいい。ついついご飯が進む。


 気づけば早速茶碗の中が空っぽになっている。ちらりと視線を向ければ、莞爾は嬉しそうな笑顔で手を伸ばしていた。


「あ……す、すまぬ」

「何言ってんだ、ったく」


 茶碗を受け取った莞爾はまたご飯をよそう。もりもりとはよそわない。ふんわりと米粒が潰れないように盛った。

 それを手渡して「たくさん食え」と苦笑した。


 クリスは恥ずかしさをどこかへ押しやって、頬をかいた。


 こくりと頷いてまた食べる。


 見たことがないおかずだと思って箸を伸ばしたのは蕪のツナマヨ和えだった。


 シャキシャキとした蕪は噛めば噛むほど優しい味わいがにじみ出る。そこにツナマヨのしっかりとした味が追いかけてくる。そこでご飯を口にしようとして、たまり醤油の強い風味がしっかりと味を締めてくる。


 喉を鳴らして急いでご飯を口に入れた。味のわりにさっぱりとした後味で、ご飯の甘みを邪魔しない。


 ふと莞爾を見ると、蕪のツナマヨをご飯の上に乗せていた。


「むっ!」


 やってみたい。さらに観察すると、今度は醤油をちょろりと差し、ご飯と一緒に焼き海苔で包んで食べ始めた。


「おおっ!」


 早速見よう見まねでやってみる。ふっくらと炊き上がったご飯の上に蕪のツナマヨを乗せ、そこに醤油を少しだけ。そしてご飯ごと焼き海苔で丁寧に包み、大きく口を開けて食む。


 何度か噛み締めて、頬がつり上がる。


「むふぅーっ! んみゃいっ!」


 パリっとした焼き海苔がしんなりとツナマヨに解け、シャキシャキとした蕪の食感に一粒一粒が際立った米粒の甘みがじんわりと広がる。


 あれよあれよとかきこんで、最後に味噌汁で流し込む。


「……ふぅ。美味しかった」

「おう。そいつはよかったな」


 爪楊枝を口に挟んで莞爾は嬉しそうに笑った。


 食後のお茶を用意しようと立ち上がりかけた彼に、クリスは「待ってくれ」と声をかけた。


「私も手伝うぞ。お茶の淹れ方も上手くなったのだ」

「……おう」


 一緒に立ち上がって彼の後ろを追う。照れ隠しなのか頭をかく莞爾の背中が、妙に大きく見えた。


 思わず彼のシャツの裾を手で掴む。


「——どうした?」


 立ち止まった莞爾は振り向かずに尋ねた。クリスは彼の背中に額をごつんとぶつけて言った。


「あ、その……あ、ありがとう」


 ぎゅっと握ったシャツにしわが寄る。顔が熱かった。

 何に対しての感謝なのかは言わない。


 殴ってしまったのに、また優しく「なかったこと」にしてくれる莞爾の器量に、クリスは頭を下げるしかなかった。


 返事はなかった。

 そこでふと思い出す。


「か、カンジ殿。その、食事は平気だったのか?」

「……どういう意味だ?」

「い、いや、なんでもない」


 昨日は口から血が出ていた。口の端を切った様子でもなかったから、殴られた拍子に歯が折れたか、あるいは口の中を傷つけたのかもしれないと思った。けれど、それだったならもっと食事中に沁みて痛いはずだ。


 莞爾は苦笑して歩き出して、クリスも掴んだシャツを引っ張るように続いた。


「平気平気、というか、むしろ飯が美味くて仕方ないな」

「そ、そうか……」


 クリスはほっと胸を撫で下ろした。



***



 食後のお茶を飲んだ後、莞爾とクリスは“別々”に風呂に入った。


 さっと汗を流す程度だが、それでも体がさっぱりして気持ちがいい。


 いつもなら作業着に着替えて畑に行く莞爾だったが、今日はなぜかチノパンにシャツを着て、ダウンジャケットを着た。


「ちょっと八尾さんところで商談があるから、クリスは家にいてくれよ」

「ヤオ殿のところへか? 私も行こう」

「いや、たぶん長引くから。昼飯は残り物があるし、まあ嗣郎(つぎお)さんとこ行けば食わせてくれるだろ」

「むぅ。昼餉の準備ぐらいならばできるぞ?」

「そうか。できるだけ早く帰るけど、我慢できなかったら普通に食ってていいからな」

「わかった……」


 昼ご飯は一緒に食べられないかもしれないというだけで、クリスは少しだけ落胆した。けれど、今日だけだ。これから先も何度かこういう機会があるかもしれないが、ほとんど毎日一緒にご飯を食べられるのだから気にしないことにした。


 走り去るラングレーのテールランプを見つめて、クリスは小さく息を吐いて家に戻った。



 一方、家から離れたところで、莞爾は顔をしかめた。左の頬に手が伸びる。


「くっそいてえ……マジで痛え」


 やせ我慢も大概にすればよいのだ。見栄っ張りな男である。


 左の下の奥歯が一本ぐらぐらしている。やはり昨日無理やり押し込んだのがよくなかったのだろう。


 よくもまあ痛みに耐えられたものだ。さすがは戦場に生きた女の拳である。容赦がない。いっそ飯も食いたくないぐらいに痛かったし、食って死ぬほど後悔した。すごく沁みるのだ。けれど、クリスが笑っているのを見て、我慢するしかなかった。


 まあ、我慢の分だけ成果はあったといえようか。


 莞爾は車を八尾の会社にではなく、市街の方へと走らせる。


 しばらくして着いたのはかかりつけの歯医者である。口うるさい歯科衛生士に「タバコをやめなさい」と言われ続けているが、どうしてか通ってしまう歯医者だ。


 今回ばかりは耐えきれないので抜くなりなんなりしてもらうしかない。


 歯医者は客も疎らだ。予約はしてないが可能かと尋ねれば、受付は十一時からならと言い出した。

 今の時間はちょうど九時半だった。一時間半も待たなければいけないことに苛立ちが増すが、どうしようもない。

 昼ご飯には間に合いそうにない。莞爾は仕方なくそれで了承した。


 下手に痛み止めも飲めないので、莞爾は車に戻って待つことにした。クリスに電話をしようかとも思ったが、彼女は携帯を持っていない。固定電話にかけようかとも思って、そもそもクリスは機械を通した音声を翻訳できないことを思い出した。


 便利な異言語翻訳だが、万能というわけでもない。


 穂奈美に聞いた話によれば、クリスはテレビを見て驚いたらしいが、テレビが出す音声を意味のある言葉として認識できなかったようだ。異言語翻訳をオフにした状態と同じだ。


 詰まる所、同じ空間内で近距離にいないと通用しないということだ。せめて電話さえできればいいのだが、こればかりは仕方ない。


 クリスもクリスで一応日本語の勉強はしているが、まだ「ワタシ、ゴハン、スキ」ぐらいしか言えない。直訳できる辞書でもあればまだ進捗もあったかもしれないが、ないものはないのだ。地道に勉強してもらうしかない。


 まあ、本人は今の所困っていないので、ゆっくり覚えるつもりのようだが。


 漠然と思考を巡らせながら、運転席のシートをわずかに倒し、腕を組んだ。痛みのせいであまり眠れそうにない。昨晩も座ったまま浅い眠りを繰り返したせいで、身体中が強張っている。大きなあくびをしてため息をついた。時計を見れば十時五十分だった。


 電話ができないなら、メールの文面なら少しは読めるだろうかと考えつつ、莞爾は歯医者に戻った。



***



 ちょうど正午頃。


 クリスは莞爾を待ちあぐねていた。

 こういう時に連絡が取れないのは不安だが、通信網が二十四時間体制でどこでもいつでも、というのも考えものだ。


 仕方なくこぶし大の塩むすびを作り、温め直した味噌汁を啜りながら食べた。漬物もぽりぽりと鳴らせる。


 やはり一人の食事は寂しいものだ。変わらず美味しいのにどこか味気ない。


 土間の縁に腰掛けて、少々行儀が悪いが彼の帰りを待ちながら食事をした。


 ふと思い立って外に出る。塩むすびを片手に二十日大根の様子をじっと見つめた。


 葉も茂り、元気に育ち始めているが、まだまだ大きくはない。莞爾からは赤くて丸い玉ができてくると聞いたが、全然だ。


 指についた米粒を舐めとり、じっと眺めていると、菜摘がやってきた。


「こんにちは、クリスお姉ちゃん!」

「ああ、こんにちは。今日は元気がいいな」


 菜摘は水場に置いてあるジョウロのもとに駆け寄り、急いで準備をした。水をたぷたぷと揺らしながらプランターのそばに戻り、はにかむように笑った。


「えへへっ、昨日会えなかったんだもん!」

「むふふっ、そうだな。寂しかったか?」

「そ、そんなんじゃないよ!?」


 クリスは菜摘の頭をそっと撫でた。指先に残っていた米粒が頭のてっぺんに残って、ぎょっとしたが機会を逸したので黙っていることにした。どこまでもポンコツな騎士である。


「だいぶ大きくなったね!」

「うむ。でもまだ十二日目だぞ。あと八日もある」

「うん。元気に育ってくれるかな?」

「きっと。さあ、今日も一緒に水をやろう」

「うんっ!」


 二人で二十日大根に水をやる。重たいジョウロを傾けるのは菜摘には難しいようで、最初の二つにはクリスが水やりをして、軽くなったところで菜摘が水をやる。


「美味しくなあれ!」

「むふふっ、美味しくなあれ」


 葉に水滴が残るが、それもなんだか可愛く見える。

 水をやると心なしか葉に力が増したように見える。


「えへへーっ、今日も大根さん喜んでるね!」

「そうだな。きっとそうだ」


 しばらく二人でプランターの二十日大根を眺めていたが、クリスは思い出したように言った。


「そうだ。ナツミにちょうどいい棒を見つけたのだ」

「棒?」

「うむ。少し待っていろ」


 クリスは菜摘のもとを離れ、納屋に向かった。戻ってきた彼女の手にあるのは折れた農具の柄だ。五十センチほどしかないが、軽くて太さも握りやすい。


「持ってみろ」

「こ、こう?」

「違う。両手をくっつけるんじゃなくて、離すんだ」

「うん……」


 クリスは菜摘の手を取って棒を握らせる。そうして握りがよくなると今度は構えの取り方を教えた。


「そうだ。様になっているじゃないか」

「ほ、本当!? って、なにこれ」

「むぅ? いや、ナツミが強くなりたいと言っていたのでな。心を鍛えるにはまず身体からだと思ったのだ」

「えー……」

「い、嫌なのか!?」

「嫌じゃないけど……だって、クリスお姉ちゃんって毎日何回してるの?」

「ふむ。だいたい五百ぐらいか」

「菜摘、五百回も振れないよぅ!」


 十歳の子供だとはいえ、剣道を嗜んでいるわけでもない、どこにでもいる女の子なのだ。いきなり五百回の素振りは無理だろう。クリスとてそのぐらいはわかっている。


「無理はしなくていいのだ。まずは少しきついなというぐらい素振りをする。毎日していると、もう少しできるようになる。少しきついなと思う回数が日に日に伸びていく。気づいたら五百回ぐらいは平気になる」

「そ、そうなの?」

「うむ。そんなものだ」


 試しに一度素振りをしてみる。クリスの木刀を借りた時よりもずっと軽い棒だ。なんなく振れた。


「どうかな、お姉ちゃん」

「うむ。悪くないぞ。でも体勢が崩れているな。腰を引かないように注意するといい」

「はーい」


 注意を受けながらも菜摘は三十回ほど素振りをして小さく息を吐いた。


「はあ、ちょっときついよ」

「じゃあ、もう一回してみよう」

「う、うん」


 もう一度素振りをする。勢いはないができる。


「これでいい?」

「きついのにもう一回できた。今もきつい。でももう一回はできる」

「え……」

「むふふっ、冗談だ。終わりにしよう」


 まさか理不尽な理屈で何回もさせられるかと思った菜摘だったが、そういうわけでもないらしい。


 縁側に座って二人でお茶を飲みながら休憩する。

 クリスは思い出したように言った。


「私の父上は厳しい人だった」

「そうなんだ」

「うむ。私は突き放されてばかりだった。もう動けないというくらいにぼろぼろになってもまだ剣を振れと言って憚らなかった」

「それって……」


 菜摘は暗い顔をしてクリスを見たが、彼女はどこか嬉しそうに笑っていた。


「けれど、父上は私にできないことは絶対にさせなかった。私の限界を常に知っていた。突き放されてばかりだと思っていたが……存外、父上は私をずっと見ていてくれた。だから、私が諦めようとする心を……心を鬼にしてへし折ってくれたのだろうな」


 懐かしむようなクリスの視線を追って、菜摘は空を見た。真っ青な空にひとつだけ雲が浮かんでいた。丸くぼんやりとして今にも消えそうな雲だった。


——羨ましい。


 口から出そうになった言葉を飲み込んで、菜摘はクリスににっこりと微笑んだ。

 その笑顔に何を勘違いしたのか、クリスはがしがしと彼女の頭を撫でた。


「わっ、わわっ!」

「むっふっふっ! 忘れていたことを思い出せた。礼を言うぞ、ナツミ」

「……うん」


 今日一番に目にしたときも、クリスの血色はよかった。それに表情も二日前より柔らかくなっていた。けれど、今の方がずっと優しい笑顔だった。


 撫でられた後の髪を手櫛でさっと戻して、菜摘は指先に付着したねばねばする物質に首を傾げた。


「なんだろ、これ」

「……さあ、なんだろうな」


 クリスは二杯目のお茶を淹れると言って逃げ出した。




蕪食べたい。

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