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12月(1)零時過ぎの月明かり

お待たせです。

 自衛隊病院を後にして、穂奈美は莞爾に最寄りの駅まで送ってもらった。


「……じゃあ、次は来月半ばだから、忘れないでね」

「年末年始は避けるんだろ?」


 荷物を背中に回し、穂奈美は頷き次いでクリスに視線を向けた。


「クリスちゃんも、元気でね」

「うむ。ホナミ殿も」

「あと、例の件、了承したわ」


 莞爾は首を傾げたが、とくに尋ねることはなかった。


「それとね、クリスちゃん」


 穂奈美は助手席から顔を出すクリスに小声で耳打ちした。莞爾には聞こえなかったが、クリスが顔を真っ赤にしたのでなんとなく想像がついた。


「それじゃあね、莞爾くん」

「おう。また電話する」

「……ええ」


 以前はさっさと駅に向かった穂奈美が何かを言いたそうにしているのを見て、莞爾は片手にハンドルを置いたまま、もう片方の手で頭をかいた。


「言いたいことがあるなら言っとけ」

「別に……いいえ、悪かったわ」


 莞爾は一瞬彼女が何を謝っているのかわからなかった。けれどすぐに思い出し、苦い顔で頷いた。


「莞爾くんも、ストレイシープに気をつけて」

「はあ?」


 穂奈美はそれだけ言って背中を向けるやすぐに歩き出した。


「すとれいしいぷとはなんだ、カンジ殿?」

「さあ、俺もさっぱりだ」


 莞爾は文学には詳しくなかった。農業バカだが、経済方面ならまだわかる。これでも元会社員なのだ。



***



 新幹線に乗り込み、指定席に座ること数分。


 穂奈美は目まぐるしく変わる車窓の風景に視線を向けたまま、ふとスマートフォンを手に取った。


 電話をかけた相手は親戚だ。


「ああ、もしもし。叔母さん? 穂奈美です。うん。あはは、うん。元気元気」


 周りに乗客がいることを思い出して、貴重品だけ手に取って席を立った。デッキに出て壁にもたれかかる。


「うん。それでこの前の話なんやけど、ごめん。断らせてもらってもいいかいな?」


 しばらく沈黙していたが、穂奈美はその理由を話すことはなかった。


「うん。わかっとるよ。もう年も年やし、そろそろ焦らないかんとは思っとるっちゃけど、もうちょっと仕事続けたいっちゃんね……ううん、違う違う。別にいい人ができたとかじゃないっちゃん。そう……うん。今の仕事のひと段落してから、もしかしたら頼るかもしれんけん、その時は勝手やけどお世話してもらってもよか? うん。あはは、ごめんね。ありがとうございます。それじゃあ」


 電話を切って、長いため息を吐いたあと、デッキの車窓をしばらく眺めていた。

 ちょうど喫煙ブースがそばにあったので、そこで一服をして席に戻った。


 腰を下ろし、ペットボトルのお茶を口に含んで飲み下す。


「仕事でもしようかな……」


 タブレットとキーボードを出してクリスのことについて報告書をまとめる。

 しばらくカタカタとキーボードを鳴らして、ふと視線を車窓に向けると曇り空にそびえ立つ富士山の威容が目に入った。


 何度も目にしているはずなのに、やはり何度でも感動するものだ。


「そういえば、昔登ったこともあったわね」


 社会人になったあと、当時の恋人と有給を使って登山したことを思い出した。日本人なら一度は登っておきたいと思っていたが、実際に登ってみると下から眺めている方がずっといいと思った。


「結婚も似たようなものかしらね、たぶん」


 この歳になれば相応に結婚式に出席することも多い。毎回新婚夫婦の幸せそうな笑顔が眩しくて仕方なかった。けれど、昨今は結婚しても離婚する夫婦が多い。


 そう考えると、決していいことばかりではないのだろうと思った。


 新婚夫婦の幸せな雰囲気に当てられ、仕事が上手くいかなかったせいもあって、莞爾の優しさに一度だけ甘えてしまった。今となっては苦い記憶だ。


「嬉しいことは二倍で悲しいことは半分、ね……子供騙しだわ」


 一緒に笑って、一緒に泣いてくれるなんて、そんなのは夢物語だわ。生まれも育ちも違うんだから価値観が違うのなんて当たり前。そんなことで別れるなんて馬鹿みたい——穂奈美はエンターキーを力強く押してため息をついた。


 だったらどうして彼と別れてしまったのだろう——きっと若かったからだ。彼の無意識な偽善に心が耐えられなかった。今でも彼は変わっていない。昔も愛されていると思っていたけれど、今一歩踏み込んで来ない彼に嫌気がさした。


 彼は傷つくのがそんなに怖いのだろうか。そう考えて首を横に振った。


——違う。そうじゃない。きっと逆。


「はあ……ストレイシープは私か」


 自分の全てを受け入れてくれる代わりに、相手を受け入れる余地がなくなっていく。結局、自分は過去の亡霊に取り憑かれたようなものなのだろうと思った。


「三十二歳にもなって、元カレに甘えるとか……黒歴史だわ」


 思えば、似合わない言い回しを好むようになったのも、彼と別れた後の話だ。自分を通り過ぎていった男たちに影響を受け、それでいて原点に懐かしみを覚えて縋ろうとしているのだから世話がない。


 こんなことなら彼と別れずに卒業した後に結婚していればよかった——そう思う一方で、プロポーズされても拒否しただろうと容易に推測できた。


 どれだけの思いをぶつけても、決して相手は思いを返してくれないのだから。


 好きとか愛してるとか、そんな安っぽい言葉が欲しかったわけじゃない。セックスの快楽を愛だと勘違いできるような愚かな女でもない。


 そこまで考えて、穂奈美は背もたれに頭を預けた。


「やっぱ、うちには結婚向いとらんばい……」


 呟くように言って、ゆっくりと目を閉じた。

 手元のスマートフォンが着信を告げた。画面には懐かしい名前があった。



***



 ラングラーを走らせつつ、莞爾はちらりとクリスの方を見た。


 穂奈美を駅で降ろしてからもう二十分ほどが経っているのに、未だに彼女は恥ずかしそうに彼の方を見なかった。視線は泳いでいるというよりも、何かを考えているようにそこかしこを眺め、動いては固まりを繰り返していた。


「……なんて言われたんだ?」


 彼女の方を向いていなくても、その体が震えたのがわかった。

 ラングレーのエンジン音に紛れて彼女が息を吸う音が聞こえた。


「べ、別に、大したことではないのだ」

「ふーん……」


 もしかして自分に関することだろうか、と考えてそれはさすがに妄想が過ぎると小さく息を吐いた。

 けれども、いよいよそうであるようにしか思えない。


 クリスが自分に好意を寄せていることはすでに気づいている。

 あのときだって、抱き寄せたのに抵抗はしなかったし、それどころか瞳を閉じたのだから。


 雨が降らなかったらどうなっていただろう——考えるだけ無駄だとはわかっているが、一方で勢いに身を任せずに済んだことを安心していた。


 けれど、同時にクリスを妻にすることが失敗になるだろうかとも思った。


 少なくとも今は楽しい毎日を送れている。忙しい中でも、彼女がいてくれるからこそ息抜きができることもあった。疲れていても「カンジ殿、カンジ殿」と名を呼ばれるのは嬉しいものだ。


 時には自分の顔色に目ざとく気づいて体調を心配してくれることだってある。日に日に料理の腕前が上がり、ほんの少しだけお袋の味に似てきた。


 彼女の心遣いに応えなくては、と思う一方で、もしクリスが元の世界に戻りたいと言ったら、と考えずにはいられなかった。



「なあ、クリス……」

「なんだ、カンジ殿」


 莞爾は一度深呼吸をして、前を向いたまま尋ねた。


「もしも、もしもの話だ」

「むぅ?」

「もしも、故郷に帰ることができたら……帰るか?」


 莞爾は助手席の方を見ることができなかった。見るのが怖かった。彼女の触れてはならない部分に触れたのではないかと危惧した。けれど、言い方を変えただけで、以前と同じ質問だ。



 クリスは答えない。


 信号が遠目に赤になり、ゆっくりと車は停車した。


「どうだろう……わからぬ」


 ぼそりと呟くように紡がれた言葉に、莞爾は目を見開いて顔を左に向けた。

 困ったような顔をしたクリスが、瞳を震わせながら莞爾を見つめていた。


「どういう、意味だ?」

「それは……」



 互いに終着点が見つからないのだ。


 平静を失った男と、誇りを失った女は長い間見つめ合った。


 莞爾は思わず彼女の頬に手を伸ばした。農作業で荒れた手でも、彼女は嫌がらずに受け入れた。そうして、その手に自分の手を重ねた。


 大きな瞳の奥に、わずかな不安があることに彼は気づいた。荒れた手のひらから伝わる緊張に彼女は気づくことができなかった。


 はっきりと言葉にすることができたなら、どんなに気が楽だっただろう。


「俺は——」


 言いかけて、後続車のクラクションが二人の間に割り込んだ。


 はっとして前を向けば、信号は青に変わっている。莞爾は慌ててアクセルを踏み込んだ。


 気まずさにしばらくの沈黙があって、クリスは助手席の窓をかすかに開けた。


「……寒いだろ。風邪引くぞ」

「むぅ……暑いのだ」


 真っ赤な顔を外気に晒し、クリスは穂奈美が耳打ちした言葉を思い出した。


 自分でも考えなかったわけじゃない。彼の妻になって日々を過ごす想像を巡らさなかったとは言い切れない。けれど、自分では彼にとって邪魔なのではないかと思った。


 今ならば彼は受け入れてくれている。自分でも理解できない気持ちに折り合いをつけて、わざわざ本心のように打ち明けるなんて、それはただの迷惑ではないかと思った。彼を騙しているようだと思った。


「私はな、カンジ殿」


 莞爾の方を見ることはできなかった。けれども、無言は続きを待っているのだとわかった。


「今の生活が思いの外楽しいのだ。故郷にいた頃とは違う。貴族であること、騎士であることの重責を感じずに済む。だが、それは本来の私ではないような気がする」


 彼は「らしくない」と言った。今まさに騎士らしくない自分でいることが腹ただしい。けれど、その一方で彼の隣で笑っていられることがとても嬉しかった。


「所詮は敗残兵。無用な矜持(きょうじ)なのかもしれぬ。今となってはだんだんと騎士であることの誇りを忘れているような気がしてならんよ」



 騎士学校を卒業してから、ずっと戦場で生きてきた。各地を転戦し、一敗地に塗れるような戦場から逃げ出したこともあれば、自ら敵将を討ち取ったこともある。


「……俺にはわからないけど、そもそもクリスの考える騎士道ってのは、どういうものなんだ?」


 莞爾は先ほどまでの気持ちを振り払って尋ねた。

 クリスは「さあ」と遠くを眺めていた。肺に鉛でも溜まったように重い。胃が引きつった。


「わからぬ。もう……見失ってしまった」


 自分を自分たらしめるもの。それが急に失せ、クリスは今にも崩れそうな積み木の上にどうにか立っている、そんな感覚だった。

 日を追うごとに、悪夢が酷くなる。


 血に塗れ、目の光を失った戦友たちが彼女を取り囲み、口々に喚き散らす。


——なぜお前だけ生きている。


 毎晩の浅い眠り、何度も冷や汗をかいて飛び起きる。毎朝睡眠不足を治癒魔法でごまかすことしかできない。クリスは自身に残された仲間たちの呪いだと思った。


 それを穂奈美が「それは呪いじゃない」と教えてくれた。だからこそ、幾分か冷静でいられる。けれど、やはり呪いのようだとしか考えられなかった。


 この呪いから逃れるために莞爾を頼っているようにさえ思った。


 居場所を失い、戻る術もなく、優しく受け入れてくれる莞爾に甘えている。それが許せなかった。けれど、その一方で莞爾との毎日は新鮮で、甘く、不安を時折忘れさせてくれる。


「以前、話したと思うが……私は騎士だ。気高くあらねばならないのだ。守るべきもののために生きねばならぬ。けれども、今の私には守るべきものがない。せめて心だけは気高くあろうと思うが、行いの伴わない決意など真の誇りとは言えまい」


 それだけじゃない。けれど、故郷に帰りたいと言えば、それが莞爾から離れたいと言っているようで嫌だった。まるで自分に嘘をついているような気がした。

 自嘲気味に笑ってちらりと莞爾を見ると、彼は一瞬目を細め、ハンドルをぎゅっと握った。


「難しいな。俺にはさっぱりだ」

「……そうか」

「けどさ——」


 莞爾は横目でちらりとクリスを見て、すぐに前方に視線を戻した。あたりはすでに田舎で、稲穂を刈り終えた水田がプラウ耕によって黒茶色になっていた。藁屑が土塊からぼそぼそと顔を出している。


「俺はクリスの強さを知ってる」

「何を言って——」

「いいから、聞けよ」


 莞爾は窓を開けて空気を入れ替えた。


「俺の恩人が教えてくれた言葉がある」


 あれはいつだっただろうか。

 農家になって一年目。何をしても上手くいかず、早々に諦めてしまおうかと思った時だった。


 偶然、彼の育てた野菜を口にした八尾が彼の下を訪ねてきた。

 八尾は仲買なのでそれなりに詳しくはあったが、どうすればもっと上手くいくかなんて知らなかった。けれど、自然に寄り添って野菜を育てる価値観だけは共有できた。


——自然に勝てるわけがない。けれど、自分の「もうダメだ、きっと何をやっても無駄だ」って弱い心には打ち勝てる。まあ、僕も受け売りなんだけどね。言った本人はもう墓の中さ。


「克己。自分の弱い心に勝つってことだ」


 思えば父親も似たようなことを言っていた。不安を無視して突き進まなきゃいけないときもあると。それこそ克己心なのではないかと漠然と思った。


「正直、俺も偉そうなこと言えねえよ。けど、クリスが苦しい思いしてるってのはなんとなく察してる。本当なら慰めるところなんだろうけど……」


 慰めたところで彼女が報われるわけではない。それは彼女にとって一番の悪手だと思った。


 クリスが穂奈美だったなら、きっと安っぽい言葉で慰めていたかもしれない。けれど、クリスは違う。彼女は自分が元の世界に戻れないと知った時でさえ、自分以外のことを考える高潔さを持っていた。


 あえて言えば、莞爾はそこに惹かれたのだ。あの時のクリスの表情は未だに忘れられなかった。彼女のようにありたいとさえ思う。反骨精神が共鳴したような気がした。


「カンジ殿は……厳しいのだな。てっきり知らないふりですっとぼける偽善者なのかと思っていた」

「ひでえ言い草だ。でも、相手によるさ」

「むぅ、どういう意味だ?」


 今度はクリスが尋ねた。


 莞爾は大きな咳払いをして、窓を閉めた。つられてクリスも窓を閉めた。途端に静けさが戻った。


「この前、俺の本心が知りたいって言ってたな」

「……そうだ」

「俺がなんでクリスを家に迎え入れたか……簡単な話だよ」



 俺は——言いかけて、つい喉が締まる。それをぐっと堪えて息を大きく吸った。


「俺は……俺はな。クリスの強くあろうとするところが好きだ。綺麗だと思った。容姿のことなんかじゃねえぞ。あんたの気高い心に惹かれた。しばらく一緒にいれなかったけど、戻ってきてくれたときは正直……ははっ、ちょっぴり嬉しかった」


 過去のことを話すつもりはなかった。クリスだけが自分の下に戻ってきてくれたのだとは言えなかった。


「それから色んなことがあった。一緒に飯食うのも楽しかったし、一緒に畑仕事して俺の作った野菜を丁寧に扱ってくれたのも嬉しかった。変な魔法使って洗濯機壊されて、買ってやったマウンテンバイクもその日のうちに壊されたけど、それもなんだか今は面白おかしく感じられる。笑い話さ」


 一度口火を切ってしまえば、次から次へと言葉が溢れて止まらなかった。傷つくのが怖かったわけじゃない。傷つけるのが怖かったからずっと言えなかった。


「毎日料理も上手くなるし、畑仕事の手際も良くなった。子供が好きってのを知ったときは本当に優しい性格なんだと安心した。食いっぷりの良さには感心したな。頭を撫でて馬鹿みたいな声あげるところが面白かった。人が隠してた羊羹勝手に食べてしらばっくれてるのが可愛かった。ちょっと触れただけで顔を赤くするからついついいたずらしたくなった。抱きしめたときの柔らかさに理性が飛びそうだった」


 まくし立てるように言い切って、莞爾は頬をかいた。


 農道の片隅に車を停めて深呼吸をひとつして、落ち着かずにもう一度、今度はもっと深く呼吸を整えた。


「とどのつまり、だな」


 莞爾はクリスの方をまっすぐに見つめた。クリスは俯いていた。彼は手を伸ばして彼女の左頬に添え、無理やり目を合わせた。彼女は顔を真っ赤にさせて、揺れる瞳を覗かせた。


 彼の手に添えられた彼女の手は小刻みに震え、口は何かを訴えようとわずかに開いていたが、ついぞ言葉は紡がれなかった。



「約束しただろ、責任とるって」



 見つめあったまま、二人はしばらく動かなかった。瞬きさえも忘れた。


 しかし、クリスが何かに負けて目を逸らした。


「私は……」

「返事を急がなくていい」


 前に向き直った莞爾はいつか見た微笑みをたたえていた。

 ゆっくりと走り出したラングレーが農道を駆け抜けていく。

 クリスは彼の瞳から目を離せなかった。


「俺はクリスの強さを信じてる。どれだけ時間がかかろうと絶対に自分に負けたりなんかしない。いっそのこと籠城でもしてみるか? 焦らず長期戦でいいじゃねえか。まだ十八だろ。あ、いや、二十歳か」

「……貴殿は愚か者だ。籠城戦は援軍あってこそだぞ」


 皮肉げに答えたクリスに、莞爾はしてやったりと言わんばかりに歯を見せて笑った。


「援軍なら任せろよ」

「は……」

「俺を頼れよ。甘えろよ。それで好きなだけ利用すればいいさ。もし故郷に帰れるってなったら、その時の自分の気持ちに従えばいい。もう遠慮はやめだ、やめ。俺は俺の気持ちをぶつける。だから、クリス——」


 もしクリスが故郷に帰ることを選んだり、自分の下を離れて行ったりしても、もう構わない。その時はその時だ。


 彼女の故郷についていくことまではできないし、惚れた女が進もうとするのを妨げるなんて性に合わない。


「自分を信じろ」


 辛いのはわかっている。莞爾には想像の域を超えないことだが、理解することはできる。一人で抱え込むぐらいなら、俺も一緒に半分持ってやる——言外の言葉に、クリスは視界が歪んだ。


 けれど、決して声はあげなかった。頬を伝う雫も払わず、眉根を寄せた。声を上げるのは自分に負けるような気がした。


 莞爾は続けて言った。


「そんでもって、もうちょっと弱いところを見せてくれたら嬉しい。強くあろうってのはすごいよ。でも、女の子だ。時には泣いたって……誰も文句なんて言わねえさ」

「うぅ……き、貴殿は結局、どうしろと言うのだ!」

「言葉のまんまだぞ。強くなるために時々泣いたっていいんだ。泣いて、泣き腫らして、そんで顔を上げればいい。泣いてる間は俺がお前をあやしてやるさ」

「こ、子供扱いするなあっ!」

「ほれ、もう着いたぞ」


 逃げ出すように車を降りて、莞爾は家の鍵を開けた。後ろからクリスも泣きながら怒るという器用な表情をして追いかけた。


 ずかずかと家に上がっていく莞爾の後を追いながら、クリスはわけもわからず喚いた。気持ちが昂り、混乱して何が何だかわからなかった。


 感情が溢れて止まらなかった。



「い、一体私が今まで悩んでいたことはなんだと言うのだ! 故郷への思いを捨て去ることなどできるはずがないではないかっ! カンジ殿にはわかるまいよ! 私はっ! 私は仲間たちが死ぬことを知っていながら、逃げ出したのだ! 伝令という役目をもらって、戦場から逃げ出せる、死なずに済むと喜んだ! 死に行く仲間たちを裏切ったっ! シドラー団長はあんなところで死んでいいお人ではなかった! マルセル副長は子供が生まれたばかりで毎日王都にいる妻子を心配していた! ゲルゴール殿は王都に戻ったら結婚式を挙げると自慢していた! ワグナーは王都で祝杯をあげようと約束してくれた! エリオットもキールもドルマンもクラウスも! ツェーザルもダミアンもローマンもウドも! みんなあんなところで死ぬべき人間じゃなかった! みんな高潔な騎士だったのだ! 私よりもずっと優れた騎士たちだったのだ! それなのに、どうして私が平然と笑って生きていられる! 見たことも聞いたこともない場所で、どうして安穏に暮らしてよいと思える!?」



 息を荒げ、泣き喚くクリスの前、廊下の途中で莞爾は振り返り止まった。

 するとクリスは彼の胸ぐらを掴んでさらに喚いた。


 彼女の顔は悲壮に満ち満ちて、莞爾は何を言い返すこともできなかった。



「どうしてだっ! どうして私だけ生きている!? みんな死んだ! 私もあの場に残るべきだったのだ! それなのに、どうして……どうして貴殿と一緒に添い遂げようなどと思える!?」



 力いっぱいに服を捩じ上げられ、襟元はシワだらけになって伸びきっていた。けれども、莞爾は何も言わずにじっと黙って聞いていた。



「私は臆病者だ! 痴れ者だ! あの戦場から逃げ出したあの瞬間から騎士ではなくなった! それなのになんだっ! 今も騎士でありたいなどと、なんという浅ましさだっ! 恥知らずだ! 己の愚行を省みることもない! 大馬鹿ものだ!」



 クリスは涙と鼻水で顔を汚しながら、そんなことは何も気にせずに叫び続けた。



「私が幸せになる道理などあるものかっ! 貴殿と添い遂げようなどと、都合が良すぎるではないかっ! 死んでいった仲間たちに申し訳が立たぬ! いっそ故郷に戻り、モザンゲート砦で自刃しようではないか! 私を死んだものと思っている家族はどうだっ! こんな恥知らずな娘が違う世界で呑気に男を作って生きているなどと知ったら、どう思う!? きっとこう言うだろうよ! 恥を知れ!! 違うか!? そうとも! 私は! 私は死すべき人間なのだ! どうして幸せになろうなど……どうして……」


 莞爾はクリスと出会った時のことを思い出した。


 彼女は確かに言ったのだ。夜這いをされても死ぬよりはマシだと。あれはきっとまだ自分の過ちに気づいていないころだったのだろう。けれど、莞爾にはそれが過ちだとも思えなかった。


「クリス、俺は——」

「やめろっ! 何も言うな!」

「おい、ちょっと落ちつ——」


 その瞬間、クリスは莞爾の頬を力いっぱいに殴った。いつぞやに平手で叩いたことはあった。けれども、拳で殴ったのは初めてだった。


 莞爾はよろめいて壁にもたれかかった。左の頬がじんじんと痛んだ。奥歯も少し軋む。なにより鉄の味がした。


「“貴様”に何がわかる!!」


 クリスは言い捨てて、肩を上下させた。

 莞爾は昨日といい今日といい、暴力沙汰ばかりだと内心で自嘲した。まったくもって報われない。


 傷つけたくはなかった。けれど、傷つけるしかなかった。


 口の端から一筋、血が漏れた。舌を動かすと奥歯が一本取れかかっているのに気づいた。ひどい女がいたものだと思った。


 クリスは莞爾の顔を見て、ようやく自分が彼を殴ったのだと気づいた。気づけば、がむしゃらに殴ったせいで手首が痛んでいることにも気づく。自分がどれほど強く彼を殴打したのか、一瞬で頭が真っ白になった。


「あっ……ち、ちがっ、違うのだ! わた、しは、そんな……そんな、つもりじゃ……あああああっ!」


 今まで自分を認め、支え、ともにいてくれた人物に、暴力を働いてしまった。それが心の奥にどっとのしかかった。


 自分のしでかしたことに放心し、知れず膝が折れた。どっと視点が落ちそうになった。


 けれど、放心するクリスの視界はすぐに真っ暗になった。


 背中を男らしい腕が支えていた。頭を荒れた手が優しく包み込んでいた。目の前には彼の広い胸があった。ほのかにタバコの匂いがした。父親に似た匂いだった。


 クリスはその身の全てを投げ出すように慟哭した。家中に彼女の泣き叫ぶ声が響いた。たちまち莞爾の胸元はなにやら汁まみれになった。


 けれど、莞爾は頬の痛みなど知ったことかと彼女の頭と背中を優しく撫で続けた。


「大丈夫。クリスは生きていいんだ。誰もクリスを恨んでなんかないんだ」


 耳元で、何度も、何度も囁いた。



 やがて泣き疲れたクリスは糸が切れるように意識を失った。

 顔には疲労の色が見えている。泣いたせいで目元の化粧が流れ、うっすらと隈ができているのが見て取れた。


 莞爾は彼女を優しく抱き上げ、自分の寝室に連れていった。座敷に布団を敷く暇が面倒だった。早く柔らかいベッドに寝かせてやりたかった。


 自分のベッドじゃ嫌がるだろうかとも思った。けれど、シーツは定期的に変えているし、寝室の清潔さには自信があった。


 彼女を抱えたまま足で布団を引き剥がし、優しく寝かせた。それから分厚いジーンズを脱がせ、上着も脱がせ、服の隙間から手を入れてブラジャーのホックまで外した。


 そうしてようやく布団を肩まで被せた。彼女を締め付けるものは全て取り払ったのだ。


 机の椅子を引き寄せ、ベッドの隣に座り、彼女の頭を優しく撫でながら、じっと寝顔を見つめた。


 そっと頬に触れる。


 ふと昨晩穂奈美が口走っていた言葉を思い出した。


「気づいていないんでしょうけど、か。バーカ。気づかないわけがねえだろ」


 クリスがどれほど辛い思いをしているかなど毎日一緒にいればすぐにわかった。日に日に顔色は悪くなるばかりで、それに比べて食事量は増えていった。毎晩、自分が(ふすま)の隙間から覗いたときには必ず狸寝入りをしているのも気づいていた。


 気づいていて気づかないふりをしていた。言ってしまえば彼女を傷つけると思ったから。


「ったく……こんなに痩せちまって」


 初めて会った時の方がよほど頬が丸みを帯びていた。今はすっきりしていて、首も細く見える。

 まさか穂奈美から預かったマニュアルが彼女の状態を教えてくれるとは思わなかった。


「魔法は都合のいいものじゃない……だったか?」


 尋ねてみてもクリスは身じろぎひとつしなかった。憑き物がとれたような顔で眠っていた。


「クリス、もう辛い思いを溜め込むな。俺がそばにいる」


 そっと彼女の額を撫でながら呟くように言った。心なしか彼女がわずかに微笑んだような気がした。


 そのまま腰を上げようとしたが、彼女の寝息がそれを咎めて、莞爾は結局彼女のそばにずっといた。



***



 クリスは深い、深い眠りからようやく目を覚ました。


 毎晩見る悪夢も見なかった。気分がいい。晴れやかだ。けれど、その気分が胸をチクリとさした。


 ふと顔を上げると、自分の知る座敷ではなかった。

 それに自分自身が莞爾に包まれているような気がした。


 顔を横に向ければ、自分の手を握ったまま不自然な体勢で眠っている莞爾がいた。椅子に座りながら眠るなんて、器用な真似ができるものだと、クリスは少し面白くなった。


 体を起こさずに視線だけ部屋の中を見回した。ちょうど窓の隙間から月明かりが差し込んでいた。時計の針が零時を超えている。


 確か病院から帰ったのは正午過ぎのことだった。そう考えると、半日も寝ていたのかと内心で呆れた。


 ゆっくりと莞爾を起こさないように体を起こし、ようやく自分が下着姿なのに気づいた。胸のブラジャーもホックが外れている。恥ずかしくなると同時に、迷惑をかけたのだと強く実感した。



「無防備な女を抱かないなんて、男がすたるぞ」


 そう言ってみて、その言葉が弱さそのものだと気づいた。決断を他人に任せているだけだと思った。けれど、からかうように言ったおかげで、少しやり返せたような気がした。


 布団をかぶり直し、彼の手をぎゅっと握った。

 自ら頬に擦り寄せて、手の甲に唇を落とした。少し、タバコの匂いが残っていた。


 急に愛おしさが胸に満ちて、思いに駆られるように手を胸元に引き寄せた。

 すると、莞爾は体勢を崩して目を覚まし、クリスはとっさに目を閉じて眠っているように装った。


「——っと、クリス? あ、ああ……どうした。怖い夢でも見たか?」


 寝たふりがバレたのだろうかと思った。けれど、彼はもう片方の手で彼女の頭を優しく撫でるばかりで、彼女が起きていることなど気づいていなかった。彼もまた寝起きで頭が回っていないのかもしれない。


「大丈夫……大丈夫だ。ずっとそばにいるから」


 そう言って、莞爾は椅子からベッドのふちに座り直し、優しく彼女を撫で続けた。


 クリスは恥ずかしいと思うより心が落ち着いていくのを感じた。温かかった。


 内心で「やはりずるい男だ」とぼやいたけれど、その手のぬくもりにやがてまた眠りについた。


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