11月(末)鴨鍋と八つ当たり
長めです。お待たせしました。
莞爾は見知らぬ子供と鉢合わせして思わず尋ねた。
「どこの子?」
女の子は名前も告げずに怯えて走り去った。
後ろ姿を見送りながら首を傾げていると、クリスが土間から出てきて「あれ?」とあたりを見回し、莞爾を見つけて尋ねた。
「ナツミを見なかったか? これぐらいの女の子なのだが」
そう言って手を胸のあたりにひらひらと揺らしてみせるので、莞爾はすぐに先ほどの女の子だろうと気づいた。
「その子なら、名前も言わずに逃げてったぞ」
「むっ、そうなのか?」
「ああ。なんだか人見知りしそうな感じだった」
「……まあ仕方あるまいよ。カンジ殿はニホン人の中では自己主張の強い顔であるし、怖かったのやもしれぬ」
「……自己主張の強い顔?」
「自覚しておらぬとは、中々難儀なことだな」
言われてみればわからないでもない。幼いころから濃い顔だと言われていたし、そのせいで老けて見られたことも多々ある。ようやく顔に年齢が追いついたのは二十五を過ぎたころだ。
莞爾は苦い顔でため息を吐いて首を横に振った。
「まあ、いいや。それで、そのなつみって子は何をしに来たんだ?」
「むふふっ、数日前に出会ったのだが、一緒に水やりをしているのだ」
「水やり?」
「うむ。ハツカダイコンだ」
「ああ、あれか。へえ……ん?」
「どうかしたのか?」
莞爾は何かが引っかかるのを感じた。二十日大根の種を蒔いてからもう十日目。当初は芽が出たとか、間引きしたとか、そういう報告があるのだろうと思っていたが、そんな調子は全くない。
もしかして、寒さで発芽に時間がかかっているのだろうかとも思ったが、それほど冷え込みが強いわけでもない。
きっと収穫できる頃合いで自慢したいのだろうと思った。なかなか子供みたいなところもあると苦笑した。
「いや、なんでもないよ。ところで、明日のこと覚えてるか?」
「ああ、もちろんだ。ナツミにも明日は病院だからと伝えているのでな」
「へえ、毎日来てるのか。懐かれてるな」
「むっふっふっ。お友達なのだ」
「だったら茶菓子ぐらい用意してやればよかったな……あっ、そうそう。たしか土間の戸棚の奥に——」
莞爾が言いかけて、クリスは明後日の方を見て視線を泳がせて、「なんのことだかさっぱりわからぬ」と聞いてもいないのにあたふたし始めた。
「……なんでそんなに焦ってるんだよ」
「き、気のせいではないか?」
しかし、明らかにクリスは狼狽していた。視線が泳ぎ、落ち着きなく体のどこかが揺れる。
さては見つけて食べたな——莞爾は気づいたが、まさか丸々二本も無くなっているとは思わなかった。せいぜい少し切り分けて食べたぐらいだろうと、自分の常識で推測した。
「まあいいけどさ、せっかくだからあの子にも食わせてやれよ」
「むぅ……怒らないのか?」
「別に茶菓子食ったぐらいで怒らないし、なけりゃ買えばいいじゃねえか」
「むふふっ、言質は取ったぞ」
「ん?」
最後の言葉が気になる。が、まあいいかと莞爾は流すことにした。いちいちクリスの行動を把握するのも面倒だし、それはそれで彼女も疲れるだろう。それになにより、あまり知りたくなかった。
知らぬが仏とはよく言ったものだ。
***
それから数時間後。
莞爾はクリスと一緒に夕飯の準備をしていた。
すると珍しく来客を告げるチャイムが鳴った。田舎の人間はほとんど使わないので、莞爾は予定外の来客に首を傾げて玄関に向かった。
どちら様かと玄関扉を開けると、見慣れた人物が舌を出してウィンクしていた。ご大層に頭に拳を当てて厚かましい愛くるしさを押し売りしている。莞爾は思わず殴りたくなった。
「てへっ、来ちゃった!」
「自分の年知ってるか? 帰れ。そして二度と来るな」
とっさに扉を閉めようとしたが、その人物——伊沢穂奈美はスカートスーツからすらりと伸びる足を玄関の隙間に差し込んで抵抗した。扉のふちが美脚に食い込もうとも一切躊躇しない。
なぜこんなところに全力なのか、莞爾は全く理解できなかった。先ほどの愛想の押し売りはどこへ行ったのか、借金の取り立てに来たその道の人のようだ。
「年を考えろって何よ。三十二歳よ。親戚の叔母さんからお見合いしないかってさんざん誘われてるし、帰省するたびに両親から孫の顔が見たいって言われてるけど……何か?」
「はあ……来るなら来るで連絡入れろよ」
渋々穂奈美を迎え入れた莞爾だったが、すぐにお土産を手渡されて目を瞬いた。
「……珍しいな。お前が土産だなんて」
「うっふふーん、まあ突然だったし、一応ね。適当に選んだから、味は知らないわよ」
「ふーん。まっ、ありがとな」
「あ、それと今晩は泊めてね」
「……そんなことだろうと思った」
「お代は——」
「いらんっ!」
「それは残念」
紙袋の中をちらりと覗き見れば、東京駅で見かける銘菓が三つほどあった。
「ん? なんだ、これ」
その脇に隠れて黒いビニール袋に入れられた箱のようなものを見つけ、莞爾は手にとって首を傾げた。
「いるでしょ?」
「はあ? 何が」
「まあ、見ればわかるわよ」
訝しみながらも、莞爾はビニール袋の口を開いて、それから長いため息をついた。
余計なお世話とはこういうことを言うのだろう。ラテックス製のアレだった。莞爾は紙袋の中に戻して悪態をついた。
「お前、何考えてんだよ」
「何って、そりゃあナニよ」
「いや、そうじゃなくて——」
「どうせ莞爾くんのことだからまだ手、出してないんでしょ?」
「うっ……」
「まあ中坊でもないし、自分で買うつもりだろうけど……それはそれで抱く気満々だから嫌だったとか、そんなところでしょ?」
「うぐっ……」
莞爾は息を詰まらせたがわざとらしい咳払いでごまかした。
「と、とりあえず上がれ。今夕飯作ってたところだ」
「あら? クリスちゃんは台所?」
「おう。俺の伯母さんに料理習っててな。もともと料理はできたらしい。まあ、地球の料理道具に慣れてないだけ、だな」
「ふーん。誰かさんに美味しいご飯を食べて欲しいのね」
穂奈美がニヤニヤと莞爾の肩をつつくと、彼はかすかに視線を泳がせて「何のことだか」と苦い顔をした。
「相変わらず素直じゃないのね。さっさと襲っちゃえばいいのに」
「そういうわけにいくか、バカ」
「なんで?」
「なんでって……」
言い返そうとして、自分でも首を傾げてしまう。
襲うというのはさすがに論外だが、自分は彼女への好意をつい先日自覚した。中高生じゃあるまいし、ある程度のアピールぐらいならできたはずだ。けれども、やはりそれはクリスの弱みにつけ込んでいるようで気に食わない。
「——なんつうか、ずるい、だろ?」
「……ふーん。そんなこと言ってる莞爾くんが一番ずるいと、私は思うけれど?」
莞爾は眉根を寄せて後ろの穂奈美に振り返った。何か口にしようとしたけれど、喉元まで出かかった言葉はため息に変わった。その様子に釈然としない思いを抱いた穂奈美はわずかに目を細めた。
「いい年したおっさんが何を迷っているのか、わたしにはさっぱりわからないわね」
「そりゃどうも」
「壁ドンして『俺の女になれよ……ふっ』ってやればいいのよ」
「お前、少女漫画の読み過ぎじゃねえか?」
一人で壁に片手をついて演技を始めた穂奈美に呆れながら、莞爾は台所へと彼女を連れて行く。
穂奈美は廊下からひょっこりと顔だけ出してクリスの後ろ姿を見つめた。
「おい、クリス。来客だ」
クリスはちょうど鍋の中の様子を見ているところだった。振り向きざまにおたまが鍋のふちにあたってカツンと鳴った。
「むぅ? むむっ? おおっ、ホナミ殿!」
「久しぶり、クリスちゃん」
ようやく体を出して、穂奈美は笑顔でクリスに手を振った。クリスが土間に立っているので自分からは近づけなかった。
「今日はどうしたのだ?」
「明日の定期検査に合わせて来ただけよ。ついでにご夕飯にお呼ばれしようかなって」
「誰も呼んでねえよ」
厚かましい女だ、と莞爾はため息をついたが、別に嫌ではなかった。穂奈美は彼にとっても、今は貴重な理解者だ。クリスの件で自分より多くのことを知っているだろうと思われた。
「むふふっ、まあまあ、カンジ殿。せっかく来ていただいたのだから、一緒に食べようではないか」
「別にいいけどさ……」
ちらりと穂奈美を見れば、嬉しそうに笑っていて、含むところはなさそうだった。本当にクリスを心配して来たのだろうと、莞爾は内心で安堵した。
「ねえねえ、今日の夕飯って何なの? お出汁の良い匂いがするわね」
「鍋だよ、鍋」
「何鍋?」
「鴨鍋だ」
猟友会の知人に貰った鴨肉が冷凍庫の底にあったのを見つけたので、それで鍋にしようと思い立ったわけだ。
「まさか、俺がネギを買うことになるとは思わなかった……」
「ネギぐらい育ててないの?」
「今年はネギは育ててない。違うネギなら、あるけどまだまだかな。ついでに言えば白菜もまだまだで、仕方なく近所から貰ってきた」
「……さすがど田舎ね。畑がスーパーの野菜売り場みたい」
「お金はかからないけどな。代わりの野菜をあげたら快く貰えるぞ」
いくら農家でも、畑になければスーパーで買うしかない。季節外れだったり、自家生産してなかったりする野菜は、農家でも普通に買う。その際、値段を見て微妙な気分になるのは農家ならではだ。
「今年は総じて野菜が高いしな。東京だと余計に高いんじゃないか?」
「残念ながら自炊なんて滅多にしないから実感ないわね」
女の一人暮らしだから自炊してるだろう、というのは偏見だ。一人暮らしだと自炊しにくいものだ。何かと食材を余らせがちになるし、穂奈美の場合は仕事柄外食も多い。必然的に自炊はしない方が楽だという結論になる。
「こんなところでどうだろう、カンジ殿」
鍋の蓋をあけてアクをとっていたクリスが振り返り尋ねると、莞爾は「どれどれ」と軽く味見をして頷いた。
「よし、良い具合だ」
「むふふっ、カモは味が良いのだな」
食卓にカセットコンロを置いて土鍋を載せ、弱火にかけて保温する。
すでに用意してあった二人分の食器にもう一人分合わせて座った。
「っと、そうだったわ。忘れるところだった」
穂奈美は玄関に置き去りにしていたボストンバッグを持ってきて、中から一升瓶を取り出した。
「じゃじゃーんっ! これを飲みながら食べましょう!」
「おおっ、それは酒か!?」
莞爾は飲む前から頭が痛くなった。どかっと食卓に置かれた一升瓶。それを見るやクリスは食器棚からグラスを三つ早々と持ってきてしまい、穂奈美も得意げに酒を注いでいる。
けれども、途中で「もういいや」と諦めた。外ならばまだしも、家の中だし、それにクリスは一応法律的に二十歳ということになっているのだから。
「じゃあ、クリスちゃんが来てから、今日でちょうど一ヶ月ってことで」
「あー、そういえばそうだったか?」
「一ヶ月記念日ぐらい覚えておきなさいよ」
「なに女子高生みたいなこと言ってんだよ……」
とはいえ、莞爾もここ最近は酒を飲んでいなかったのでありがたく、グラスを軽くぶつけて乾杯した。
舐めるように酒を口にしたクリスは顔を明るくしてぐいっと飲んだ。
「むはっ! これは美味い酒だな!」
「いや、酒の味がわかるのかよ……」
「むふふんっ、エウリーデ王国では酒を飲むのに年齢制限はないのだ。そもそも酒は高いから貴族ぐらいしか飲めぬしな。平民は収穫祭ぐらいではないか?」
なるほど、と相槌を打って莞爾も酒を飲む。柔らかい口当たりだが辛口で、すっきりとした後味についつい喉が鳴る。
「こいつは騙される。美味い。水みたいにがぶがぶ飲めるな」
「でしょう? この前、海外のお偉いさんを奈良にお連れしたんだけど、その時に見つけたのよ」
「さすが外務省ってか……」
「莞爾くんにも春が来ればいいなって思ってこの銘柄にしたわけ」
銘柄は春を冠した名前だった。今から冬だというのに、はた迷惑な気遣いだと思ったが、口には出さない。
「さあ、食うか!」
ふきんを蓋にかぶせて注意しつつ取ると、土鍋の中に溜まっていた匂いが一気に溢れ出す。鴨肉の脂の匂いが食欲をそそり、昆布出汁の匂いがどこか安心する。
「良い匂い! やっぱりこっちにきて正解だったわね」
「メシ目当てかよ。まあ、いいけど」
「むっふーっ! 私が取り分けようではないか!」
具材を切って、土鍋に出汁とともに入れ、煮ただけ。せいぜい下味に醤油とみりんが入っているくらいだ。別に料理人ではないので、難しいことなどしていない。クリスはお皿とお玉を持ってざっとすくい上げて取り分け、莞爾から怒られた。
「いや、それだと同じ具材で固まるだろ? ちゃんとバランスよく入れないと」
「むぅ……どうせお代わりするから良いではないか」
「食いしん坊の理屈だな。まあ、いいけど」
穂奈美は「わかるわよ、それ」と頷いていた。やたらと神妙な顔つきだ。
「合コンで『じゃあ私取り分けるねー』とか言ってしゃしゃり出る女に限って、バランス悪いのよ。なによ、あれ。ただの“気が利く”アピールじゃない! 盛り方も下手くそだし、具材もてんでバラバラ」
「……お前は何に対して怒ってるんだ?」
「取り分けとけばいいってしか思っていない、そこらへんのあざと系女子よ。盛り方まで見られてるなんて気づいちゃいないんだから!」
「お前、何があったんだ?」
恐る恐る尋ねてみるが、あまり話したくなかったらしい。穂奈美はクリスから皿を受け取ってふんっと鼻を鳴らして箸を握った。
「ほら、カンジ殿」
「ん、ありがとな」
いただきますと皆で手を合わせる。
露の滴る白菜で鴨肉をそっと包み、その上にクタクタになった甘い白ネギを乗せて口に運ぶ。
わずかに残った白ネギのざくりとした食感のあとにどろりと甘い中身が溢れ出て、そこに白菜が柔らかく噛み砕かれるが、鴨肉の噛み応えがやってきて、滋味深さに思わず目を閉じる。鴨肉独特の風味が白ネギの甘さと絡み合い、喉を鳴らせばつい酒に手が伸びる。
「間違いねえな、こりゃ」
ちらりと横を見ればクリスは未だに箸先の鴨肉にふうふうと息を吹いていた。ようやく口の中に入れて、慌てたように口を開け閉めして熱を逃し、じんわりと広がる鴨肉の脂に頬がつり上がる。続けざまに白ネギを口に入れ、湯気を口の端から漏らしながら噛み締めた。
「むふふふふっ! これは美味い!」
叫ぶように言って酒を飲み、小さく息を吐くと、今度は落ち着いた声色で言った。
「——嗚呼、間違いない」
穂奈美はおとなしく食べていたが、やはり美味しさに笑みがこぼれる。酒も進む。
三人は口々に「美味い」と言いながら、一口食べては一口飲みを繰り返した。
温かい鍋で体の芯からぽかぽかし始めて、莞爾は腕をまくり、穂奈美は上着を脱ぎ、クリスはシャツのボタンを二つ外した。
莞爾はふと思い出して冷蔵庫から小瓶を二つ取り出して戻った。
「なによ、それ」
「こっちは柚子こしょう」
「もう一つは?」
「——ニンニクこしょうだ」
作り方は柚子こしょうと変わらない。しかし、莞爾の持っているそれは青唐辛子に加えて赤唐辛子も混ざっている。
蓋を開けた瞬間にニンニクの匂いが鼻を刺激する。穂奈美は鼻を摘みそうになって言った。
「うっわぁ……ちょっと匂いきついわね」
「ほんの少し汁に溶かすだけで美味い」
「へえ……」
「使うか?」
「まずは柚子こしょうかな」
クリスをちらりと見ると、彼女は最初からニンニクこしょうに狙いをつけていた。柚子こしょうは何度か使っているし、美味いことはわかっている。彼女は食に貪欲だった。
小さなスプーンでほんの少し取り、皿の中の汁に溶かす。匂いはニンニクそのものだ。おそるおそる口にして「おおっ」と感嘆した。
「これはこれで、アリだな!」
下味がついた鍋なのでポン酢も使わない。けれどもだからこそこういう薬味が新鮮だ。
穂奈美は柚子こしょうを使って舌鼓を打った。余計に酒が進むというものだ。クリスも負けじと飲んで、莞爾はちびりちびりと食事と一緒に楽しんだ。
五人用の土鍋の中身がすっからかんになり、莞爾は「よし」と腰を上げた。
「じゃあ、シメだな。シメ!」
「シメ?」
「はーい、わたし雑炊派だから!」
お鍋のシメはやはり必要だ。むしろシメがないと鍋と言っていいのかどうかわからない。うどんや雑炊・おじやもいいけれど、鍋によってはちゃんぽん麺ということもある。
今回は最初から雑炊にする予定だった。
莞爾は土鍋をガスコンロに移して、作業に取り掛かる。
冷蔵庫から茶碗二杯分の冷やご飯を取り出して、ボウルに入れ、そこに水を流してざっと洗いぬめりを取る。ざるに移して水気を軽く切り、土鍋に残った汁に放り込んだ。
火にかけつつ、ネギと白菜を細かく刻んで入れ、くつくつと炊きながら卵を溶き、さっと流し入れて火を止め蓋を閉める。
「よし、まあこんなもんか」
蓋を閉じたまま食卓のカセットコンロに運び、二人の目の前で蓋を開ける。
「おおーっ!」
「ああ、これは別腹よね、別腹」
表面に浮いた卵がふわふわと波打ち、お玉ですくい上げるととろりと崩れていく。
おのおの好きなだけ取り分けて、ふうふうと息を吹いて冷ましながらもかつがつかきこみ、湯気を何度も吐きながら噛み締めて続く箸が止まらない。
米粒にしっかり野菜や鴨肉の旨味が染み渡り、刻んだ野菜の食感がその後を追う。それを溶き卵が包み込んでいて、より柔らかい味わいだ。
熱い雑炊のせいなのか、酒を飲んでいるせいなのか、体が熱くてたまらない。
ごくりと最後の一口を飲み込んで、感服したように幸せなため息を漏らせば、なんだか腰をあげるのも面倒になる。
「あーっ! 満腹っ! わたし、もう死んでもいいわ!」
「幸せな死に方だな、おい」
「あっ……」
穂奈美は何かを思い出して顔を上げ、ちらりとクリスに目を向けたが、彼女は幸せそうにお酒を飲んでいて全く気づいていなかった。
「そっか……翻訳機能だから、なるほど」
「何の話だ?」
全く言葉の意味から連想すらできていない莞爾を見て、ニヒルな笑みを浮かべた穂奈美は、盛大なため息を吐いてやれやれと両手をあげる。
「これだから、莞爾くんは」
「はあ? 何言ってんだ、お前は」
「ふふんっ、もうちょっと文学を勉強しなさいってことよ。ツルゲーネフぐらい読んでおきなさいよ」
「なんか禿げてそうだな……」
「くたばってしめぇ!」
莞爾はどこの方言だよ、と首を傾げておもむろに立ち上がると、さっさと食卓の上を片付け始めた。食器をまとめて、ちょうど一升瓶が空になったのを見ると、クリスの肩を軽く叩いて言った。
「大丈夫か?」
「むぅ? むふふっ」
「できあがってんな。さっきまで平気だったろ」
「むふふっ、大丈夫……大丈夫だぞっ!」
笑っていたかと思うと大声でいきなり返事をするクリスに、莞爾は呆れつつも上着をそっと羽織らせて、頭をがしがしと撫でた。
「ほれ、もう風呂は明日入れ。さっさと寝ろ」
「むきゃっ……むふふっ」
いつもだったら嫌がるくせに、今日のクリスはどこか嬉しそうに笑っていた。そのままゆっくりと立ち上がり、笑顔のまま叫ぶように言った。
「では、カンジ殿! ホナミ殿! 私は先に休ませてもらうぞっ!」
「うるさっ……ったく、時間帯考えろよな」
とはいえ、どんなにうるさくしても隣近所なんて存在しない。一番近い伊東家まででも百メートル以上は確実だ。けれども田舎の静けさのせいで、案外遠くまで声が通るのだ。
クリスは体を揺らしながらも確かな足取りで座敷の方に向かった。その後ろ姿を見送りながら、穂奈美は微笑ましそうに目を細め、ついで「よっこらしょ」と幾分年を感じさせる掛け声で立ち上がった。
「片付け、手伝うわね」
「別にいいぞ、座ってて。あ、風呂入るか?」
「莞爾くんと一緒に?」
「なんでそうなる……」
うふふと笑いながら、穂奈美は食器を手に持って運ぶ。クリスが使っているつっかけを拝借して土間のシンクにそっと置いた。水を張った桶の中でスポンジを走らせている莞爾を横目で見つつ、泡まみれの食器を水で流してラックに重ねた。
ふと、懐かしい気分になって口走る。
「なんか、昔もこんなことなかった?」
「……どうだか」
莞爾は視線を下に向けたまましらを切った。覚えてないはずがない。もうずいぶんと昔のこととはいえ、彼女と過ごした時間は決して短くなかった。
「楽しかったわよね。二人で一緒にご飯作って、食べて、お皿も一緒に洗って……」
「そんなこともあったかな」
「それで、狭いお風呂に一緒に入って、布団に入ったら飽きるくらいセックスして、次の日の講義すっぽかしたりして——」
「昔の話だろ」
穂奈美は「そうね」と呟くように言って、ぼんやりと自分の手に視線を落とした。水の流れる音の中に、外の庭木が風に揺れる音が混じった。
視界に次の皿が差し出され、穂奈美は思い出したようにそれを手に取った。わずかに指先が触れた。彼の手は昔と違って冷たかった。きっと水仕事の最中だからだろう。
けれど、その冷たさが胸の奥に妙なしこりを残した。
センチメンタルなんて柄じゃないわね——内心で自嘲して、泡を流した食器を重ねた。
洗い物が終わったところで、莞爾がポケットからタバコを取り出して咥えた。
「風呂沸かしてくるわ」
「わたしにも一本ちょうだい」
「持ってるだろ?」
「カバンの中だもの」
莞爾は何も考えずに箱とライターを一緒に渡した。
穂奈美はタバコを一本摘まみ取って咥え、じりじりとライターで火をつけて大きく息を吐いた。
莞爾が外に出るのを見てついていくと、彼は風呂の窯に火をいれる真っ最中だった。
「ライター返せ」
「はい」
後ろ手に出された手にライターを乗せようとして、無意識にその手を掴んでいた。莞爾が不思議そうに振り返ったのを見て、笑ってごまかして手を離した。
やがて、ばちばちと薪に火が燃えうつり、窯の前が明るくなったところで、莞爾はビール瓶のラックを裏返して腰を下ろした。
「気分でも悪いのか?」
「別に……」
言い訳にすらなってないじゃない——幸せそうなクリスを見て、複雑な心境だった。まるで妹のように可愛く思うと同時に、莞爾と親しくしているのが見ていて辛かった。
紫煙を吐き出して、そういえばタバコを覚えたのは彼と別れた後だったと思い出した。大学を卒業するころには莞爾はタバコを覚えていたが、穂奈美がタバコを吸い出したのは社会人になってから——交際した男の影響だった。
「今日は少し冷えるな」
「そう? ぽかぽかだけど」
「そりゃあただの飲み過ぎだ」
言われてみて、初めて「ああ、それで」と腑に落ちた。
普段は寂しさを自分自身でごまかしているのだと、嫌な気分で胸が痛くなった。これはただの八つ当たりだと思った。
「ねえ、莞爾くん」
「なんだよ、突然」
「最後にセックスしたのいつ?」
「はあ!? お前何言ってんだ!? 酔ってんのか!?」
「いいから、いつよ」
「……さあな」
莞爾の返答に穂奈美は「やっぱり」と面白そうに笑った。彼を無理やり腰で押しやって密着するように座った。
「くっつくなっ!」
「いいじゃない、ちょっとぐらい。寒いんだし」
「さっきぽかぽかって言ってたじゃねえか」
「うふふ、もっと熱くなることする?」
「……お前、本当に大丈夫か?」
半ば真剣な目つきで見られ、顔の近さに穂奈美は息を飲んだ。
こんなに彼を近くで見たのは、昨年以来だった。
友人の結婚式の二次会が終わったあと、自分から彼を誘った。お互いに思うところがあったけれど、結局はそれだけで、よりを戻すなんてことにはならなかった。別にどちらが悪かったというわけでもない。
ただ、懐かしさに昔のことを思い出した。それだけのことだ。それっきりでまた友人に戻ったのだから、あれは一晩の過ちみたいなものだったのだ。
「わたしね、莞爾くん」
莞爾は無言で続きを促した。
「そろそろ結婚しようかなって」
「また、ずいぶんと急だな」
「うん……お見合いの話もあるし、相手も悪くないのよね」
「冗談じゃなかったのか」
「わたしだって、寂しいのよ。最初は好きじゃなくて打算でもいいじゃない。ブサイクでも毎日見てれば案外イケメンに見えてくるわよ。稼ぎもいいし、博打もしないし、相手の家柄も申し分ない。誰が断るの?」
莞爾は吸い殻を窯の中に投げ捨てて、小さく息を吐いた。
「……まあ、いいんじゃねえか?」
「——本当にそう思ってるの?」
莞爾は頬をかいて立ち上がった。穂奈美が何を言いたいのかわからなかった。
「莞爾くんって出会ったときからそうよね。やたらと優しい人ぶって、相手がどんな気持ちかなんて少しも考えちゃいない!」
「穂奈美、少し声——」
「あのときだってそう! なんであのときわたしがあなたに抱かれたかなんて考えたことないでしょ!?」
「それは……」
莞爾は思わず視線を逸らした。見ていられなかったんだ——言葉にするのは簡単だった。けれど、それをどう表現すればいいのかわからない。
「今のクリスちゃんだってそう。あなた気づいてないんでしょうけど、あの子が毎晩——」
穂奈美はハッと気づいて口を噤んだ。けれど、莞爾は穂奈美をまっすぐ睨むように見つめていた。息を飲んだ。同時に悔しくなった。どうしてクリスのことならこんなに真剣な目をするのだと怒りがこみ上げた。
「今の、どういう——」
「知らないわよ!」
それは酔いのせいだったのかもしれない。
無意識のうちに穂奈美は莞爾の頬を叩いていた。
じわりと手のひらに熱がこもって、ようやく自分が彼を叩いたのだと気づいた。
けれど、決まりが悪くて開いた手を握りしめた。
「……ごめんなさい。お酒が過ぎたみたい。わたし、もう寝るわね」
返事を待たずに踵を返したが、後ろから彼の声がした。
「——おう。ゆっくり休めよ」
腹の立つ返事だと思った。穂奈美はその場で吸い殻を踏み消してずかずかと家に上がった。
翌朝、嫌な気分で目が覚めて、布団をたたんで居間に行くと、ちょうど二人が朝食の準備をしていた。
おはようと挨拶をしたものの決まりの悪さに視線を逸らしたが、莞爾がとぼけた顔で言った。
「すまん。昨日のこと全然覚えてなくてさ」
「は?」
「いい酒だったから飲み過ぎたんだろうな」
「むむっ、酒は飲み過ぎると毒だぞ、カンジ殿」
二人の睦じい様子を見て、穂奈美はもう一度彼の頬を叩きたくなった。彼のわざとらしいとぼけた顔に、今度は平手ではなく拳を埋め込みたくなった。
「……八つ当たりしたわたしが馬鹿みたいじゃない」
二人には聞こえないように小声で呟いて、長いため息を吐いた。壁に貼ってあるカレンダーがもう十二月になっていた。
まだ今日は十一月末日なのに、気が早いことだ。
穂奈美は莞爾を引っ叩く代わりに自分の頬を両手で叩いた。
ほのぼの感はまた次回。現実時間とすり合わせるのは諦めました。少々先取りしていきます。
*毎度毎度手軽には読めない量で申し訳ないのですが、どうかご容赦のほどお願いします。




