11月(4)女騎士と二十日大根
ちょいと長めです。
今日も今日とて、キクイモの収穫を終えたところで、クリスが言った。
「カンジ殿。私も何か育てられないだろうか」
莞爾は首を傾げて聞き返した。
「何かあったのか?」
クリスは「いやいや」と苦笑する。
ちょうど昼食代わりの大きなおにぎりを三つ完食した後だった。
「収穫するのも楽しいが、種から育ててみないとカンジ殿の苦労も知れぬであろう?」
「そんなこと考えてんのか」
「むっ……そう言われると微妙だが。とにかく最初から育ててみたいと思ったのだよ」
「微妙なのかよ……でも、今からは結構難しいぞ」
「そうなのか?」
莞爾はタバコを咥えてしばらく考えた。
もう本格的な寒さがやってくる。それにいきなり畑を与えてもどうせ手に余る。
「家庭菜園の野菜があるだろ?」
「しかし、あれらはカンジ殿が植えたものではないか」
「はあ、なるほど。自分で本当に一からやってみたいのか」
クリスはこくこくと頷いた。
火をつけて紫煙を大きく吸い込んだ。素人でも簡単に育てられるものといえば、真っ先に思い浮かぶ赤白緑のコントラスト。
けれども、今の季節に畑を使ってとなると、立地上どうしても育てにくい。
「プランター栽培でもしてみるか?」
「ぷらんたあ?」
***
例の如く八尾のもとにキクイモの出荷を済ませての帰宅途中、莞爾はクリスをつれてホームセンターに行った。
クリスには新鮮だったのだろう。自転車屋のときよりもまた一段と楽しそうだった。
ホームセンターの外の売り場にあるプランターをいくつか見繕う。
「まあ、こんなもんかな。あとは種かな」
「種? ここでは種も売ってあるのか?」
「まあなあ。俺は買ったことないけど」
専ら自家菜園用だし、自分で採種することの方が多い。掛け合わせの品種で次世代でも固定できないものは自分で採種できないが、それ以外は大抵自分でしていた。
それに家庭菜園を本格的に趣味にしている人はあまりホームセンターなどで種を買わない。きちんと業者に問い合わせて通販で購入することが多い。
「ふむ。それに土を入れて育てるのだな?」
「そうそう。結構お手軽なんだ。おまけに移動も簡単だしな。家の中でも育てられるだろ?」
「ほうほう」
しきりに頷いていたクリスだったが、ふと視線を横にずらして尋ねた。視線の先にはビニール袋に入った培養土や堆肥が積み上げられていた。
「あれは何を売っているのだ?」
「土だな。園芸用の」
「専用の土があるのか?」
「まあ、中にはコンクリートの地面しかない家もあってな……」
「こんくりいと……ああ、あの漆喰みたいなやつだな」
さすがにそれは言い過ぎだが、土作りは結構面倒だ。プランター栽培ならば自分で作るよりも培養土を買ってきて使った方が手軽でいい。
培養土でなくとも、様々な種類の堆肥が売られているので、莞爾もついつい視線を向けてしまう。牛糞堆肥に豚糞堆肥、鶏糞堆肥もあれば、木材チップや樹皮を用いたバーク堆肥なんてものもある。
「軽石なんかも底に敷くんだけど……まあ、砂利ならたくさんあるし」
畑から取り除いた小石なら大量にある。
プランター栽培でこだわり始めたらきりがない。
今回は水はけをあまり考慮しないで済むのでその辺りは結構適当だ。
「では、庭の畑から土を貰えばよいのだな?」
クリスは興奮しているのか両手を握って楽しそうに莞爾に詰め寄った。
「まあ、それでいいんじゃねえか?」
「では、早速帰って作ろう!」
「って、何を植えるか決めてるのか?」
「むっ……そういえば、そうだな。おすすめはないのか?」
「おすすめ、か」
莞爾は種の入った袋を見つけて、「まあ初めてだし」と頷いて一つ手に取った。
「二十日大根でいいんじゃねえか? 簡単だし」
「はつかだいこん? 二十日で育つのか?」
「まあ、そんな感じだな。もっとかかるけど」
二十日大根はすぐに育つけれど、育てやすい春や秋でも二十日以上はかかる。冬は寒すぎて、夏は辛味が強くなる。やはり春か秋が良いだろう。それにプランターならば多少寒くても屋内に移せばいい。暖かい昼間に外に出しておき、日が暮れたら屋内に移す。
種を播いて発芽までの間、しっかりと暖かくできればすぐに芽吹くはずだ。
「美味しいのか?」
「やっぱり味が気になるのか?」
「せっかく育てるのだから、美味しいものがよいではないか」
むすっと口を尖らせるクリスに莞爾は苦笑する。
その通りだ。美味しくないなら育てても次の楽しみがない。そう思って頷いた。
「まあ、美味いぞ。基本はサラダだな。そのままかじってもいいし、輪切りにしてもいい。輪切りにしたのを茹でて氷水に晒すとくるんと反り返って面白いぞ」
「ほーっ、面白そうではないか」
クリスは二十日大根の種袋に載っている写真を見て「ふむふむ」と頷いた。
「色も鮮やかでいいな。よし、それにしよう」
「即断即決だな」
「むふふんっ、楽しみだっ! 二十日後には食べられるのであろう?」
「だから、そんなに早くできねえって」
クリスの中ではすっかり二十日後に食べられる野菜になっていた。
ちなみに周囲の客から莞爾とクリスは注目の的だったが、二人が仲良さそうに話しているし、なんだか近寄り難かったので遠くから眺めるだけだった。
***
プランターと種を購入して帰宅すると、クリスに急かされて莞爾はすぐにプランター栽培のやり方を教えることにした。
「まずは底に砂利を敷く」
「ふむふむ」
「底の穴から土が漏れないようにするんだ」
「なるほど」
「まあ、俺もプランター栽培ろくにしたことないから適当だけど……」
そう言いつつ、自家菜園のそばにうず高く積もった小石をばらばらと入れて底に敷き詰める。
「で、あとはこの上から八分目ぐらいまで土を入れる」
「畑の土で良いのか?」
「この前枝豆抜いた後に堆肥入れといたから、まあいいだろ。石灰撒いてるし、きちんとpH値まで測ってないけど」
所詮はお遊びに近いのだし、そこまで厳密にする気はない莞爾だった。二十日大根は割と簡単な野菜なので、彼もそこまで気を使わなかった。
クリスは移植ゴテ(スコップ)を使って丁寧に畑の土をプランターに移した。
「むぅ、少し固い気がするぞ。あまり良い土ではなさそうではないか」
「まあ、そうかもな。でも、これでもわりと柔らかいほうだぞ」
「むぅ? 砂つぶのようなのがたくさん入っているが……」
「まあ、色々あるんだよ、色々とな。栽培に問題が出るほど大きな砂つぶじゃないさ」
「ふむ。土にもそれぞれ色々あるのか」
「そうそう」
庭先の畑は確かに他の畑に比べると若干土が固いが、一般的な家庭菜園のレベルだ。莞爾が他の畑で気を使いすぎなのもあった。けれども、そこはやはりプロだ。売り物を作るのだから生半可にはできない。
クリスは土を綺麗に移して平らに均したところで彼を見上げて尋ねた。
「むふっ、できた!」
「よーし、じゃあ種を蒔くか」
莞爾は人差し指を使って土の表面に二本の溝を作った。
「この溝にぱらぱら種を蒔く。やってみろ」
袋を開けて種をひとつまみして溝に蒔いた。
クリスも見よう見まねでがさがさと種を取り、ちょびちょびと一粒ずつ蒔いていた。
「いや、あとで間引くから適当でいいんだよ」
「むぅ、それでは可哀想ではないか。ちゃんと最後まで全部育ててあげたくはないか? 友達がいなくなるなんて寂しいではないか」
「うーん。気持ちはわかるけど、途中で間引いたのも食えるからいいんじゃねえか?」
「そうなのか? 途中で捨てるわけではないのか?」
「おう。そのまま食べてもいいし、塩で揉んでも美味い。まあ、洗ってマヨネーズが鉄板だけどな」
「むふっ、ではそうしよう!」
クリスは意気揚々と種の入った袋を受け取り「まっよねいず、まっよねいず」と特徴的な音符を並べ始めた。
先ほどまでの可哀想発言はなかったかのようにばらばらと種を蒔き、今度は「蒔き過ぎだ」と怒られて萎んでしまった。
「むぅ……農業は難しいのだな」
「いや、お前が加減を知らねえだけだ」
莞爾は蒔き過ぎたところを綺麗にばらけさせて、次の作業を教えた。
「で、ここに軽く土を被せる。二十日大根の種は光を嫌うから、ちゃんと被せないとだめだ。でも被せすぎるとそれもいけない。うすーく、だな」
種が隠れるように、両脇の土を指先で軽く寄せてやる。
クリスもちょんちょんと指先で土を被せていくが、生来の不器用もあって種をぶすりと土中深くに押し込んでしまった。
「むきゃっ!?」
「不器用にも程があるだろ、程が……」
けれども、クリスが初めて自分でやってみたいと言い出したので、莞爾は最初だけ手本を見せたがそれ以上は手伝わなかった。
「むむぅ……中々難しいぞ?」
「それなら、土を持って、上からぱらぱらふりかけてみたらどうだ?」
「おおっ! その手があったかっ!」
最初からそうすればよかったのに、莞爾も気が利かない男だ。
「で、あとは上から手のひらで軽く押さえてやる。ちゃんと種と土とをくっつけるんだ。押すっていうか、置くぐらいでいい」
「ふむふむ、そーっとだな」
「そうそう……いい感じだな」
莞爾は若干緊張しながら隣で見守っていた。今度は失敗も踏まえて力加減を間違えなかったようだ。
「よし、じゃあ最後にこのジョウロで水をやる」
「ふむ。なにやら小さな穴がいくつも空いているな」
莞爾は外の水場からジョウロに水を入れて戻り、近くで傾けて水を出してみせた。
「ほほーっ! なるほどっ! しゃわあみたいなものか!」
「そういうこと。これで表面が湿るぐらいにかけてやる」
「やるやるっ! それは私がやるのだ!」
「ほれ」
クリスは引っ手繰るようにジョウロを受け取り、優しくプランターに水をかけ始めた。
「むふふっ、美味しくなあれ!」
莞爾は彼女の微笑ましい姿に思わず苦笑して、タバコに手を伸ばした。
「そうそう。だいたいそんくらいでいいぞ。それ以上はやり過ぎだからな」
「心得たぞ!」
「よし、じゃああと残りは三つだな」
プランターは全部で四つ購入している。
莞爾は楽しそうなクリスの後ろでタバコをふかして言う。
「ちょっと畑行ってくるから、あとは自分でできるな?」
「うむっ、大丈夫だ! 同じようにすればよいのだろう?」
若干心配ではあるが、何から何まで付き添ってはクリスも楽しくないだろう。そう考えて、莞爾はやれやれと呆れ気味に軽トラに乗り込み走り出した。
「むふふっ、二十日後が楽しみだな」
クリスは莞爾がいなくなった後もプランターに土を入れて種を蒔き、莞爾に教わった通りに作業を進めた。
失敗を踏まえて、今度はゆっくりと慎重に行った。
一時間ほどかけて全ての作業を終わらせたあと、クリスはにこにこと笑みを浮かべてプランターの中を覗き込んでいた。
少し浮かれ過ぎていたのか、人の気配がすぐ近くに来ていることにようやく気付いて顔を上げた。
覚えがある。つい先日も垣根の向こうにいた子供の気配だった。
今日はそれよりももう少し近い。前栽に隠れるようにしてこちらを窺っているようだった。
「……そこのもの、気づかれないと思ったか? 姿を見せろ」
やや眼光を鋭くして尋ねると、しばし逡巡したあとに庭木の茂みから一人の少女が現れた。
まだ年端もいかぬ女の子に見える。おどおどとしていて、どこか危なっかしく感じられた。怯えているのか視線が定まっていない。クリスは一瞬目を見開き、すぐにくすりと笑った。もっと好奇心溢れる子供かと思っていたのに当てが外れた。
「そんなに怯えるな。こっちへおいで」
クリスは座ったまま手招きをして少女を呼んだ。少女は周りをきょろきょろと見回した後で、クリスの笑顔に安心したのかぱたぱたと足音を鳴らして歩み寄った。
「こ、こんにちはっ……」
「こんにちは。私はクリスティーナだ。気軽にクリスとでも呼ぶといい。お前は?」
少々人見知りしてそうだと思い、まずは自分から自己紹介をしてやると、少女ははっと気付いて口を開いた。
「な、菜摘、だよっ!」
「そうか。ナツミというのか。よい響きだな。両親に感謝するといい」
「う、うん……」
菜摘は一瞬顔を曇らせたものの、プランターを挟んでクリスの向かい側にちょこんと腰を下ろした。
「お姉ちゃんは何をしてるの?」
「ん? これはぷらんたあという奴だ。ハツカダイコンという野菜の種を植えたところだ」
「大根なんだ。大根は嫌い……」
「むっ、そうなのか?」
まさか莞爾が自分に二十日大根は美味しいと嘘をついたのかと疑いかけて、子供の好き嫌いだろうと気づく。
「では、私が育てたら、一緒に食べてみよう。美味しかったら次からは好きになってくれるだろう?」
「うぅ……嫌だよ」
「どうして?」
「だって、美味しくないもんっ……苦いし、辛いもんっ」
「むぅ……子供のくせに贅沢な舌だな」
クリスは苦笑した。自分が子供の時は好き嫌いなどしたくてもできなかった。いくら貴族の生まれとは言っても、両親からは厳しく躾けられたものだ。好き嫌いなどしていたら、翌日から皿の上には嫌いな食材しか乗らなかった。
当時は恨んだものだが、成長して好き嫌いなく色んな食材を食べられることに感謝したものだ。
おかげで最前線で食べる泥水で炊いた麦粥も美味しく感じられた。貧乏はしていなかったが、どうしようもない場面で士気を保てたのはそういう教育があったからこそだと思っている。
「では、そうだな。明日からは一緒に水をあげてみないか? 自分で野菜が成長するところを見れば、少し違うかもしれない。それに……」
「それに?」
クリスは莞爾の顔を思い浮かべて頬をかいた。彼が太鼓判を押しているのだから心配はいらないと。
「むふふっ、さる専門家が絶対に美味いと言っているのだから、心配はいらないぞ。それに毎日二人で“美味しくなあれ”と水をかけてやれば、きっと美味しく立派に育つさ」
「そう……かな」
「ああ、そうとも。人間と同じだ」
菜摘が首を傾げるのを見て、クリスはゆっくりと立ち上がった。一瞬身を強張らせた菜摘だったが、クリスに害意がないことを悟っておそるおそる立ち上がる。
「ふっふっふっ、私はな、カンジ殿がお客人用にと取っているヨウカンなるものの在り処を知っているのだ。むっふっふっ、今から二人でそれを食ろうてやろうではないか」
「羊羹? うーん、あんまり好きじゃないよ?」
「むっ、ナツミは好き嫌いが多いのだな。だが、心配は無用だぞ。一度トーキョーでホナミ殿からいただいたことがあるのでな。味は保証済みだ。外装からしてあれは間違いなかろうよ」
ネコ科の名前を模した老舗の品であった。
二人で水場に行って手を洗い、縁側の方に回る。
「さあ、ここで少し待っているといい。今お茶を淹れてこよう」
「う、うん……」
縁側のふちに腰掛けて、足をぷらぷらさせることしばらく。クリスは羊羹をふた切れ——ではなく二本とお茶を二杯持ってきた。
「そ、そんなにっ!?」
さすがの菜摘も驚いた。羊羹を食べたことはあるが、せいぜいひと切れふた切れだ。まさか切らずにそのままとは思わなかった。
「これぐらいぺろりと食べられるだろう?」
「わ、悪いよ、お姉ちゃんっ! それに無理だよっ!」
「大丈夫だ。来週ぐらいにホナミ殿とまた会うから、その時に送ってもらうように言っておく。食べられなかったら、その分は私が食べるから気にするな」
「え、う、うん。いい、のかな?」
「だから、心配するな」
クリスは菜摘の隣に腰掛けて、温かいお茶を手渡し、自らは羊羹の包装を解いた。
「あったかいね」
「うむ。最近は冷え込みも強くなってきたからな。ほら、食べるといい」
手渡された羊羹一本を、おそるおそるかじり、菜摘は思わず笑顔になった。
「んっ、これ、美味しいよっ」
「むふふんっ、だから言っただろう。ヨウカンは美味しいのだ」
「ほんのり甘くて、ねちゃねちゃしないね。とくにこの小豆の皮が残ってるのがいい具合にほろほろくずれて口当たりがいいよ」
「むっ……案外食通なのだな」
クリスは苦笑いして、菜摘の頭を優しく撫でてあげた。菜摘は戸惑いつつも少し嬉しそうだった。その姿を見ていると、ふと莞爾に撫でられているときの自分もこんな顔をしているのだろうかと、少し恥ずかしくなった。
「ところで」とクリスはお茶を飲んで尋ねた。
「ナツミはいくつなのだ?」
「十歳だよ?」
「十歳か。そうか、私はじゅうはっ——二十歳だ」
「今、十八って……」
「二十歳だ」
「で、でも——」
「二十歳なんだ」
「う、うん」
思わぬ墓穴の掘り方があったものだ。
なんとか誤魔化して、クリスは羊羹にかぶりつく。
口の中にじっとりと広がった甘みをほろ苦いお茶で流し込む。
至福のひとときだ。
「ナツミはどこの家の子なんだ?」
「んーとね、今はおじいちゃんおばあちゃんのお家にいるよ」
「おじいちゃんおばあちゃん? 両親はいないのか?」
尋ねると、菜摘は俯き、小さく首を横に振った。
「ううん、お母さんも、お父さんも、お仕事忙しいから……それに……」
クリスは黙って羊羹にかじりついたまま、続く言葉を待った。けれど、菜摘は急に笑顔を作って顔をあげた。
「えへへっ、やっぱりなんでもないよっ!」
嘘をつくのが下手な子供だな——クリスは口をもごもごと動かしながら彼女の頭をぽんぽんと撫でた。ゆっくりと飲み下して、きっとこの女の子は誰かに気づいて欲しいのだろうと思ったけれど、それは赤の他人である自分の役目ではないと思った。
しばらく話していると、菜摘のことがいろいろとわかった。
彼女は由井菜摘というらしい。伊東家よりもさらに下にある由井家の孫娘だそうだ。学校には“事情”があってお休み中なのだという。
「この前も垣根の向こうから覗いていただろう?」
「うぅ、バレてたんだ」
「むふふ、気配ですぐにわかったぞ」
聞けば、お散歩の途中で見つけて、つい立ち止まってしまったらしい。そこに莞爾が戻ってきたものだから、慌てて逃げたのだ。
「クリスお姉ちゃんは剣道もしてるの?」
「ケンドー? いや、私のは剣術だ」
「どこが違うの?」
「どこが……剣を使っているから似たようなものかもしれぬな」
「そうなんだ」
「たぶん」
クリスはさすがに「絶対違う」と思ったが、説明できそうにないので諦めた。果たして自分の殺人手段である剣術を子供に語ってよいものかわからなかったからだ。
「な、菜摘も練習したら、強くなれる……かな?」
「むぅ? ナツミは強くなりたいのか?」
クリスが聞き返すと菜摘は逡巡し、小さく頷いて言う。
「わかんないけど……でも、強かったらみんな……えへへっ、お母さんもお父さんも褒めてくれるかなって」
「ふむ……褒めてくれる、か」
自分はどうだっただろうか、とクリスは脳裏に幼いころの自分を重ね合わせた。十歳といえば、家の中では母親から徹底的に行儀作法を叩き込まれ、外に出れば父親から剣術の稽古を受けた。
隣でいつも気絶していた兄の姿がふと浮かんでくすりと笑った。
「さて、どうだろうな。強さとは一口では言い表せぬよ」
菜摘は小首を傾げてお茶を啜った。どうやら羊羹一本は多かったらしく、半分以上食べられなかった。
「クリスお姉ちゃんは強いの?」
「ふむ……難しい質問だな。私としてはそこそこの使い手だと自負しているが、今となっては自信がない」
「自信?」
「うむ。自信だ。以前は自分を見失うことなどなかったが……ははっ、ナツミにはまだ早いな」
クリスは温かいお茶のおかわりを淹れて戻り、冷えた指先を湯呑みに当てて温めた。
「戦いにおける強さも、心が強くなくてはダメだ。敵に呑まれ、己に呑まれ、気づけば本来の力を出せずに終わる。そうならないためには、やはり自信をつけなくてはな」
「なんか難しいね」
「そうだろうか……いや、きっとそうだな。難しい。けれど、やってやれないことはない」
クリスは木刀を取ってきて菜摘の前で一度素振りをしてみせた。
「こうして素振りをするだけでも、雑念が消えていく。何百何千と繰り返せば、自ずと体が覚えて、いざという時に余計なことを考えずに剣を振れる。それが自信になる……まあ、ナツミにはわからないかもしれないがな」
菜摘はしばらく考えて、頬をかいて苦笑した。
「うん。わかんないや。でも、なんかかっこいいね!」
「そ、そうか? かっこいいか? むふふっ」
十歳の児童に褒められて頬を赤くする女騎士とは一体。
クリスは木刀を持ち替えて菜摘に渡した。
戸惑う菜摘に「やってみろ」と告げた。
「で、できないよっ! 重たいし」
「最初からできないと決めつけるから、いつまで経ってもできないんだ。一歩踏み出してみたら、案外簡単で二歩目三歩目と続くものだぞ」
その言葉に何かしら思うところがあったのか、菜摘は見よう見まねで構えてみた。けれども、クリスの体格に合わせた木刀は長く、重たかった。
意を決して振り上げてみて、木刀の重さを使って無茶苦茶な素振りを行なった。
けれど、十歳の女の子の握力では難しかったのだろう。木刀は彼女の手から離れてクリスの顔面目掛けて飛来した。
「むわっ! あ、危ないなっ!」
とっさに顔を横に傾けて避けつつ、右手でしっかりと柄の部分を掴んだクリスはほっと安堵の息を漏らし、驚いている菜摘の頭をそっと撫でた。
「むふふっ、やればできるではないか。ほら、今ナツミは一歩踏み出した」
「ご、ごめん、なさい……クリスお姉ちゃんって、超人なんだね」
「何を言うか。これでも人間だぞ。超人とはな、千の軍勢に一人で挑むような大馬鹿者を言うのだ……まあ、それで勝ってしまうから怖いのだが」
「……それ、もう人じゃないよ?」
「むっ……そう言うな。それでも私の兄上なのだぞ」
「……似た者兄妹なんだね」
「それは……なぜだ。あまり嬉しくないぞ」
心底嫌そうな顔をしているクリスを見て、菜摘はくすくすと笑った。その笑顔が出会ってから初めて本当に笑ったように見えて、クリスも嬉しくなって笑った。
きっとこうして一緒に笑ってくれる人がそばにいないのだろう。クリスは少しだけ彼女に同情して、頭をがしがしと——莞爾が自分にしてくれるように撫でた。
「ひゃあっ!? ちょっ、やめてよっ! もうっ!」
「むふふーっ! 逃げるな逃げるな。ほらほらっ! 擽るぞっ!」
「んきゃああっ! あははっ、やめっ、やめてっ、おねっ、ちゃんってばっ! あっ、ちょっ、んんっ!」
ついでがしがしと体をまさぐり、脇腹をこちょこちょと擽れば、菜摘は悶絶して笑い咽び、クリスがようやく手を放してやると、頬を膨らまして怒った。
「もうっ! やめてって言ったのに!」
「あははっ、そう怒るな。可愛い顔が台無しだ」
ちょんっと鼻をつまんでやると、菜摘はすっかりクリスに懐いてしまったのか、顔を背けはしたものの、すぐに堪え切れなくなって笑った。
クリスは今度は優しく頭を撫でて髪を直してやった。
「また明日、午後においで。午前中は忙しいが、午後ならば私もまだ仕事は多くないから」
「うん……でも、いいの?」
「気にするな。明日からは一緒に水やりをしよう」
「うんっ! 約束だよっ!」
「ああ……むぅ?」
菜摘は右手を差し出して、小指を立てた。クリスは約束の仕方を知らなかったので首を傾げていた。
「お姉ちゃん、指切りげんまん知らないの?」
「なんだ、それは?」
「真似して真似してっ」
「こ、こうか?」
菜摘の真似をして右手の小指を出してみると、指を絡め取られて上下に振られた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーますっ! 指切った!」
「……なんて野蛮な約束の仕方なんだ」
クリスはおどろおどろしい約束の仕方があったものだと驚き、これが地球かと遠い目で空を眺めた。こんな約束をしてしまえば「死んだらごめん」と言うしかない。
「えへへっ、これでクリスお姉ちゃんと菜摘は友達だよっ!」
「むっ? そうなのか?」
指切りげんまんをすれば友達なんていうルールはないけれど、クリスは知らなかったし、菜摘はそうであって欲しかった。
「友達は、嫌?」
潤んだ瞳で見つめられれば、さすがにクリスも弱かった。もともと子供は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。あどけなくて純粋な子供は見ているだけでも心が癒される。
「むぅ……ふふっ、嫌じゃないさ。むしろ私からもお願いしたいくらいだ」
「えへへっ! じゃあ、今日からお友達だねっ!」
「ああ、お友達だ」
菜摘がぎゅっと腰に抱きつくと、クリスは一瞬驚いたものの、まるで幼いころの自分のようだと懐かしく思い、優しく背中を撫でてやった。
願わくば、同世代の友達ができればこの女の子も楽しいだろうにと思った。せめて切磋琢磨し、ときに競い、ときに慰め合える友がいればと。
「さようなら」と別れを告げて一人で道を下っていく菜摘の後ろ姿を見送っていると、ふとプランターに植えた二十日大根のことが頭を過ぎった。
あの子はきっと寂しいだけなのだと目を細めた。
二十日大根「ざわ……ざわざわ……」