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  閑話 女騎士ダウンヒル

クリスは実は凄い子なんです。

 農作業というものは、ぼちぼちやるのが一番いい。


 耕うん機を使っている時は別として、体を動かし続けるわけだから、無理をせず息切れが起きない程度にやるのが良い。


 慣れないうちは少し腰を下ろしていただけで腰が重たく感じたり、一気に終わらせようとして疲労感が増したりするが、慣れてくれば塩梅がわかってくる。


 まあ、どんな仕事も一緒だけれど。



「……で、何を拾ってきたんだ?」


 莞爾はクリスに耕うん機の使い方を教えようとしたが、莞爾があまりにも熱弁を振るうので、クリスは鎌を持って畑の周りの(やぶ)を刈りに行っていたはずだった。


 本人も鎌ならば扱えるということで、茂みを適当に空かしておいてくれと莞爾は頼んでいたのだ。


 けれども、戻ってきた彼女は錆びついた金属の物質を持っていた。パーカーには落ち葉がところどころについているし、ジーンズは泥を被っている。


「いや、トーキョーで一度似たようなものを見たことがあるのだ。人が乗っていた気がする」

「……自転車じゃん」


 どうやら彼が気づいていなかっただけで、ずいぶん前から不法投棄されていたものらしい。今更犯人を特定するのは無理だろう。


 例え私有地だろうと、人が入ってこれるところであれば、不法投棄は珍しい話ではない。とくにこの山手の畑は林道で繋がっているし、私有地とはいっても鉄条網で囲われているわけではないのだ。


「これは何なのだ? 以前は一瞬だったからよく観察できなかったのだ」


 クリスはひん曲がったハンドルをぽきりとおって「あっ……」と声を漏らしたが、すぐに何もなかったかのように苦笑いした。

 自転車の様子はもう捨てるしかない状態だ。修理して使えそうにもない。


「自転車っていって、足でペダルを漕いで車輪を回して進むんだ。人力だな、人力」

「ほー。それで、馬のように走ることもできるのか?」

「まあ、馬みたいに言うこと聞かないってことはないな。でも、走る場所を選ぶぞ」

「例えば?」

「舗装された道路が一番いいんだろうけどな。種類によっては山ん中とか険しい道でも平気で走るやつがあるぞ」


 しばらくクリスは思案して「なるほど」と手を打った。


「理解した。土地によって馬を乗り換えるようなものだな」

「……初耳だな」

「当然ではないか。山岳で足の細い馬など乗れぬし、平野で足の太くて背の低い馬など役に立たぬ。まあ、騎士は基本的に重装備であるから馬も自然がっちりとした大きいものを選ぶのだがな。商人などは土地によって馬を買い換えることが多いのだ。農民だって足の細いひ弱な馬では(すき)は引けまい」

「ふーん。そっちの国じゃ牛耕じゃなくて馬耕だったわけだ」


 耕うん機が発明される以前、農家にとって牛は田畑を耕す相棒だった。今でも東南アジアなどでは水牛が棃という耕起のための道具を引いているところがある。

 ちなみに相棒とはいっても家畜によっては個性が強い。誰の言うことでも聞く牛もいれば、そうでなく飼い主以外の言うことを聞かない牛もいる。そのあたりはペットとあまり変わらないかもしれない。伊東家のシバ三号も女にしか従わない。



「ジテンシャ、か。にゅうすーぱーべじますたーよりも面白そうではないか」

「は、ふざけてんのか? 耕うん機より自転車がいいだって?」

「移動手段には最適そうではないか?」

「それはそうだが……なんだ。一人でどこそこ行きたいってことか?」

「別にどこかに行きたいという願望はないのだが、せめて村の中ぐらいは、な。毎度ケイトラに乗せてもらっていてはカンジ殿の迷惑であろうし」

「……じゃあ、明日あたり買いに行くか?」

「んむぅ? 良いのか?」


 意外そうに聞き返されて、莞爾は苦笑した。


「別に自転車ぐらい買ってやるさ」

「おおっ! では欲しいぞ!」

「わかったわかった。買ってやるって。そんなに高いもんでもないしな。せいぜい五万ぐらいだろ」

「むふふんっ! 楽しみだな!」


 すっかり農作業など忘れて舞い上がるクリスである。



***



 翌日。


 午前中の農作業を終わらせた後で、二人はラングレーに乗って自転車屋に向かった。


 大谷木町に最近できたばかりの店舗で、品揃えも良い。基本は中高生を相手にした通学用自転車の販売がメインだが、ロードバイクやマウンテンバイクといった特殊なものも販売している。


 クリスは店に入るなり目を輝かせて店内を見回した。


「むっはーっ! すごいなっ! カンジ殿! 壁にもジテンシャがかけてあるぞ! あっ、あちらには天井から吊るされているものまであるではないか!」

「一旦、落ち着けよ」


 そんな調子であっちこっちへ視線を向けて、その度に走り寄り、まるで子供のようだ。莞爾も苦笑して注意をしながらも好きなように見せている。


 店員は「どのようなものをお探しでしょうか?」と聞きたかったのだろうが、クリスのハイテンションぶりに逆に引いてしまっている。見た目が外国人というのも理由だろう。店員とはいってもアルバイトのようだし、田舎の人間にとって外国人とのコミュニケーションはハードルが高すぎる。でも、まさか異世界人だとは思うまい。


 いくつかのママチャリを見たあとで、クリスは奥の方を指差して言った。


「か、カンジ殿! あ、あのかっこいいやつはなんだ!?」

「あー、あれか。マウンテンバイクだな」

「ほうほう、まうんてんばいくか! なんだか強そうだな!」


 見た目は太くたくましい印象を受ける。けれども莞爾は値札を見て息を飲んだ。


「……おい、クリス。それはダメだ」

「むへゃっ!? な、なぜだ!? 私はこれが欲しいのだ!」


 値札には三十六万九千八百円の文字があった。説明文を見ると、どうやら店側がカスタマイズした玄人向けの商品であるようだ。莞爾は自転車に詳しくないので、それが高級品にしか見えなかった。そのマウンテンバイクの向こう側に三倍の値札が貼られた商品があるなんて想像もできなかった。

 莞爾は思わず似たようなものが並ぶ方を指差して言った。


「ほら、あっちにも似たようなのがあるぞ!」

「むぅ……あれは何か違うのだ」

「いや、見た目変わんねえだろうが」

「いや、なんというか雰囲気が違うぞ」


 微妙に納得できてしまうのだから莞爾も多くを語れない。自転車に詳しくはないが、それでも三十七万近くの商品を見たあとではどうしても物足りなさを感じてしまう。


 莞爾はため息をついて、仕方ないと割り切ることにした。もちろん大枚をはたくことに仕方ないと諦めたわけじゃない。


「クリス。すまんが、今日の持ち合わせは五万しかない。そいつは三十七万円だ……わかるな?」

「金が足りんというわけか。三十二万いぇんも」

「そうだ。だから諦めて五万円以内の自転車を選べ」

「よ、予算の七倍ではないか……」


 クリスはしばらく抗議の目を向けていたが、莞爾が首を横に振ると「仕方あるまいな」と苦笑した。


「ホナミ殿から金銭については教わったが、未だに私はよくわからないのでな。無理を言ってしまったようだ。すまぬ」

「いや、クリスが謝る必要はないさ。でも、さすがに三十七万は出せないな」

「ふふっ、では安いものを選ぼう」

「すまん。こっちの廉価版ならそこそこお手頃だと思うぞ」

「むむっ……なるほど。姿形は似ているな」


 しばらく見ていると、クリスはひとつの自転車を指差した。


 少々見劣りはするが、全体的にすっきりとまとまったデザインだ。値札には二万六千円とあった。


「こっちならお手頃だし、気に入ってもっと良いのが欲しくなったら、折を見て買い換えればいいだろ?」

「うむ。悪くなさそうだな」


 クリスもまんざらではなさそうなので、莞爾は店員を呼んで色々と尋ねた。


 どうやら街乗りがメインの商品のようだが、ちょっとした悪路ならば問題はないらしい。莞爾は林道や山道のでこぼこした道を思い浮かべ、店員は砂利道や未舗装の道を思い浮かべた。クリスは道ではない原野を思い浮かべた。


「でも基本は街乗りですから、あんまり無理な乗り方はできませんね。フレームもそれに合わせて剛性が低いんです。でもその分軽くていいでしょ?」

「なるほどね」


 ペダルを取り付けてもらい、クリスにまたがってもらうと、彼女は余計に気に入ったようだ。


「おおっ、手綱みたいに引かなくても良いのだな!」


 さすがに店員も首を傾げていた。莞爾は苦笑して言った。


「あー、ごめんごめん。この子自転車乗ったことなくてさ」

「そうだったんですか……」

「むふふっ、馬なら乗りこなせるぞ!」

「う、馬!?」


 一体どこから来たんだ、この外国人は——店員は胡散臭いものを見たという顔をしていた。どうせ後でSNSか何かで尾ひれをつけて拡散するに違いない。


 莞爾は税込二万八千八十円のお買い物をして、ラングレーの後ろに縛り付けた。クリスは初めてのお買い物だったらしくとても嬉しそうだ。買い出しなどでも莞爾がさっさと行って買ってきてしまうので、新鮮だった。


「むふふっ、今から乗るのが楽しみで仕方ないぞ!」

「まあ、ほどほどにな。まずは練習からだな」

「馬とそんなに変わるまいよ」

「いや、全然違うだろ。絶対に違うぞ」


 そんな調子で終始楽しみで笑顔が絶えないクリスであった。

 莞爾は三万近くの出費をしたが、これで彼女の移動範囲も広がるし、本人が喜んでいるので買ってよかったと思った。別に三十七万円のマウンテンバイクを惜しんだわけではない。


 最初からそんな高価なものを買うのが気になったのだ。莞爾は趣味に金を使うのには肯定的だった。もちろん生活が脅かされない程度ならの話だが。給料の大半を趣味に使っている外務省の役人とは違うのだ。



 さて。


 帰宅してラングレーからマウンテンバイクを下ろすと、莞爾は早速クリスに乗り方を教えることにした。


 サドルに座らせてペダルを漕いで進むということを教えてやる。


「よーし、最初は後ろから押してやるから、ちゃんとハンドル握ってろよ」

「うむ。これを曲がりたい方に動かせばいいのだな?」

「そうそう……って荷台がないんだよな」


 ママチャリなら荷台があるので押しやすいのだが、これには土避けさえもついていなかった。仕方なく、莞爾は彼女の腰を掴んだ。


「みゃっ!!?」

「よーし、押すからなあ」

「むきゃっ! よ、よしぇっ!」


 顔を真っ赤にしたクリスは狼狽し、一メートルも進まずに転倒した。莞爾はとっさに手を離したので助かった。


 クリスはすぐさま立ち上がり、土も落とさずに叫んだ。


「いっ、いきなりしゃわるやつがあるか!」


 顔を真っ赤にして噛みながら言われても、莞爾にはどう言えばよいのかわからなかった。とりあえず謝るしかない。


「……うん。なんかすまん」

「せ、せめて肩を押すとかだな」

「いや、肩は危ないだろ」

「じゃ、じゃあ、背中とか!」

「まあ、それなら」


 そして二度目の挑戦が始まった。結果は言うまでもない。


 二の舞だった。


 莞爾は頭をかいて言った。


「思うんだけど、押さない方がいいかもな」

「さっ、先にそうすればよかったのだ!」

「あっ、鼻の頭に泥ついてるぞ」

「むひゃあっ! そうやって軽々しく触れるでない!」


 莞爾の手を払い、自分でごしごしと擦ってしまったせいで、彼女の鼻の周りは土色になってしまった。


「あっはっはっ! 汚れが広がったじゃねえか。ちょっとじっとしてろよ」


 莞爾は庭に干していた洗濯物からタオルを一枚取り、水で軽く濡らしてから彼女の鼻を拭った。

 クリスは覚悟を決めてなされるがままだったが、さすがに胸が高鳴っていた。おまけに「おい、動くなって」などともう片方の手で首元を押さえられ、頭の中が沸騰してしまった。


「よし、綺麗になっ——どうした?」

「にゃんでもにゃい」


 莞爾は首を傾げて縁側に座った。


 きっと思考が停止したのがよかったのだろう。

 無表情のまま、顔を真っ赤にしてクリスは自転車にまたがり、莞爾に言われた通りペダルを漕いだ。


 最初はぎこちなく、すぐに足をついていたが、五分も続けると足をつかなくなった。


 クリスはだんだん楽しくなってきたのか、先ほどまでのオーバーヒートがクールダウンして、ようやく本来のクリスに戻りつつあった。


 莞爾はその様子をタバコをふかしながら見ていた。彼女の運動神経は並々ならないものがある。彼は感心して見守っていた。



 二十分後。


 そこには完全にマウンテンバイクをものにしたクリスがいた。


 ブレーキの使い方も教えてもらった。勢いよく漕いでブレーキをかけて後輪を滑らせたり、漕ぐ勢いと体重移動で前輪をあげてみたり、はたまたその場でジャンプしてみたり……まさかそこまで上手くなるとは莞爾も思っていなかった。


 ずいぶん楽しかったのだろう。クリスはマウンテンバイクから降りて莞爾の隣に座り、満足げに言った。


「お茶!」

「いや、お茶! じゃねえよ。取ってきてやるけどさ……」


 莞爾は呆れつつもやれやれとお茶を用意して渡した。クリスはぐいっと飲んで、息を吐いた。


「ぷはぁっ! いやはや、まうんてんばいくは面白いな!」

「そうかい。そりゃあ良かったな。でもあんな乗り方は人がいるところじゃしたらダメだぞ」

「さすがにそれくらいは心得ているさ」


 莞爾は新しいタバコを咥え、火をつけようとして思い出したように尋ねた。


「ところで、どうしてあんなに上手かったんだ? すぐに乗りこなしたな」


 するとクリスは胸を張って言った。


「そうであろう? いや、初めは難しそうだと思っていたのだがな。実際に乗ってみるとソリと大して変わらぬな」

「は? ソリ?」


 思わず聞き返した。クリスは大きく頷いて答える。


「うむ。ソリだ。エウリーデ王国は冬季の積雪が多くてな。基本的に王都の周囲は山岳地帯であるし、尾根からソリで降る遊びが冬季に流行るのだ」

「ふーん。スキーみたいなもんか。ソリはこっちでも子供が遊んでるよ」

「すきぃ? 似たような遊びがあるのか?」

「ああ。足の裏に板しいて滑り降りるんだ」

「ふむ。祖国では細い二本の木材を足にしてソリを作っていた。きちんと止めるための棒もあった。基本的には体重の移動だが、操作用の棒を左右に振れば前の板が動いて曲がれるのだ」

「前の板? ソリに前も後ろもないだろ。まあでも、滑り降りるだけなら地球のソリと機能は大して変わらないのか」


 クリスが「こんな感じだな」といって地面に棒で絵を描いてくれたが、どこからどうみてもソリではなかった。


「いや、それってソリなのか? それともクリスの絵心がないだけなのか?」

「むっ、失礼だな。これでも私は絵が上手いほうだぞ」


 だが、そうだとすると、この地面に描かれた絵は一体なんだというのだろうか。車輪とハンドルがついていない自転車そのものではないか。


 莞爾はてっきり左右に二本の板をつけているのかと思っていたが、そうではなく、前後に二本だった。


 しかし、これでなんとか理解した。


 車輪がソリになっているようなものだ。漕がなくていいだけで。まるで雪上仕様のオフロードバイクのようだ。もっともそちらは後輪がキャタピラだが。


「まあ、ダウンヒルってのもあるしな。山から滑り降りるだけでも面白いんだろうな」

「だうんひる?」

「ああ。そのマウンテンバイクに乗って山を駆け下りるんだ」


 言ってしまった。莞爾はそれが何を意味するのか全く気づいていなかった。


「車輪がついているから、雪がなくても滑らずに走れると……なるほど。むふっ。なるほど」

「おい、どうかしたのか?」

「いやいや……むふふっ、ちょっと行ってくるぞ、カンジ殿!」


 クリスは呼び止める莞爾の声も聞かず、マウンテンバイクに颯爽とまたがり猛烈な勢いで走り出してしまった。


「……え、いや、まさかあいつあんな安物でダウンヒルするつもりか!?」


 気づいたときにはもう遅い。

 莞爾は慌てて駆け出して道路に出るが、その頃にはすでにクリスが林道の方に入っていくのが遠目に見えた。


「嘘だろ……マジかよ。あいつ死にたいのか?」


 さすがに三万もしないマウンテンバイクで急斜面を下り降りるなんて馬鹿としか思えない。しかも今日初めて自転車に乗ったばかりなのに。おまけにヘルメットもつけていないし、プロテクターもないのだ。


「と、止めねえと……」


 莞爾は急いで軽トラを出して林道の方に向かった。


「どこ行ったんだ?」


 マウンテンバイクの細い(わだち)を追っていく。原生林と竹林が混ざったような場所で轍は消えた。


「おーいっ!! クリスーッ!!」


 何度か叫んで、返事があった。尾根の方からだ。慌てて見上げると、そこには斜面を勢いよく走り降りてくるクリスがいた。


「ばっ、ちょっ! おまっ、馬鹿かっ! 危ねえだろっ!」

「むはははははっ! これくらいはへっちゃ——」


 前輪が倒木に引っかかり、クリスは宙を舞った。


「クリスッ!?」

「むわああっ!?」


 しかし、そこはさすがの女騎士だった。彼女はとっさに魔力で体を覆い、空中でくるりと身を翻した。その間に莞爾の頭上を越え、太い竹に両足を着き、片手で節を掴んで体勢を整え、しなる竹を利用して地面にゆっくりと着地した。


 彼女が手を離すと竹は勢いよくバイィーンッと戻って葉が舞った。

 莞爾は呆然と「あ、これ、確か中国映画で見たやつだわ」と思った。


「……むふっ。いや、さすがに驚いたな、今のは」


 クリスは何事もなかったかのように歩き出し、莞爾の前を通り過ぎ、倒れたマウンテンバイクを引き起こした。


「ではな、カンジ殿。もう一回行ってくる。今度は同じような失敗はせぬよ」


 言いながら、跨ってペダルを漕ごうとしたが、思うように進まない。

 というか、どうやら斜面を普通に漕いであがるつもりのようだ。彼女はまだギアの変え方を知らないが、問題はないらしい。


「ん? なぜだ?」


 クリスは一度降りてよく観察した。どこからどう見ても前輪の形がおかしい。歪んでいる。一体どんな交通事故だったのかと疑いたくなる。それもそのはずだ。かなりのスピードでブレーキさえ握っていなかったのだから。


 我に返った莞爾はふつふつと怒りが込み上げてきた。


 二万八千八十円である。しかもつい二時間前ぐらいに購入したばかりのマウンテンバイクである。確かに彼にも不注意はあっただろう。何も考えずに「ダウンヒル」なんてものを彼女に教えてしまったのは、彼の落ち度であったかもしれない。


 けれども、それとこれとは別である。


「カンジ殿、壊れてしまったのだろうか……」

「前輪歪んでるじゃねえか……っていうか、よく見たらフレームごと歪んでるし……」


 莞爾はいっそ悲しくなった。わずか二時間で三万弱が飛んだのだ。無駄になったのだ。後の祭りであることは間違いない。


 店員はきちんと説明していたのだ。基本は街乗りですと。フレームの剛性も低いですと。莞爾もクリスもきちんと聞いていた。


 しかしクリスに責任があると言うのはさすがに酷な話だ。したがって莞爾がきちんと引き止められなかったことがいけないのだ。莞爾はこの世の全ての不条理を飲み込んだ。


 思わず握りしめていた拳を振り払って大きく深呼吸をして冷静さを取り戻す。


 莞爾は沈黙のままマウンテンバイクを担ぎ上げ、軽トラの荷台に放り投げた。ガシャーンと大きな音がなり、クリスは思わず身を竦めた。


「か、カンジ殿?」


 ただならぬ雰囲気に、さすがのクリスも悪いことをしたと思った。けれども店員は「多少の悪路なら」平気だと言っていたので、これくらいは彼女の知る悪路に該当しなかったのである。三者ともに認識の齟齬(そご)が甚大だった。


「……新しい自転車、買いに行くぞ」

「え……ほ、本当か?」


 莞爾は黙ったまま頷いて運転席に座った。クリスもいそいそと助手席に座った。


 彼は怒っているように見えたが、それでもどうにか平静を保っているようで彼女は少しばかり安心して胸を撫で下ろした。


 自分が買ってもらって壊してしまったのだから、さすがに心が痛む。けれど、莞爾はもう一度買ってくれるという。その気遣いが少しだけ彼女の心を軽くした。


 莞爾は軽トラのまま行ったばかりの自転車屋に行った。金を下ろしに銀行に寄ることもない。


 駐車場に軽トラを止め、片手で壊れたマウンテンバイクをむんずと掴み上げて、ずかずかと店舗に入り、さきほどあったばかりの店員に向けて言った。


「すまん。手数料かかっていいから、引き取り頼む」

「え……確かに引き取りはうちでもやってますけど……それ、さっきお客様が——」

「引き取り、頼む」


 店員はフレームと前輪の歪んだマウンテンバイクを見て驚いた。ついさきほど売ったばかりのマウンテンバイクに何があったのかと尋ねたくて仕方がなかった。


 おまけに莞爾の後ろでは自転車にわくわくしているクリスがいるのだから余計に気になる。


 なんとか引き取りの手続きを終わらせたところで、莞爾は感情を感じさせない声で言った。


「中古でいい。26か27インチぐらいで一番安いママチャリくれ」

「えっ……」

「中古がないなら新品でもいい。とにかく一番安いやつだ。ギアもついてなくていい」

「は、はあ……」


 店員は中古の五千八百円の自転車を持ってきて言う。


「こちらが27インチで一番安いものですね」

「それでいい。会計頼む」

「ええっと、引き取り手数料も合わせて、八千二百円です」


 莞爾は財布から一万円札を出した。


 お釣りを渡した店員がちらりとクリスの方を見ると、五千八百円のママチャリの前でショックを受けて蹲っている彼女の姿があった。


 店員は絶対にあとでツイッターで拡散しようと決めた。

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