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  閑話 甘酢記念日

クリス寄りな話も。

 二人の朝は早い。


 二人とも午前五時には目が覚めている。


 彼誰時(かわたれどき)の寝ぼけ眼をこすりながら、布団から這いずり出て、顔を洗う。


 莞爾は一杯の水を飲んだら作業着に着替えて畑に向かい、クリスは部屋着に着替えて炊飯器のスイッチを「美味しくなあれ」と押す。


 それが済んだら部屋箒を持って部屋中を掃除し、今度はバケツに水を汲んで雑巾掛けをする。それが終わればシュロの箒で板張りを軽く掃いておく。一連の流れは莞爾から教わった。


 クリスからすれば騎士学校時代に掃除はとことん覚えさせられたので苦痛ではない。実家でもやっていた。


 ふき掃除の後の畳の感触がとても気持ちいい。毎日していればそんなに手間もないので時間もごくごく短時間だ。


「むふんっ、今日もよくできたな」


 実は掃除が大好きである。何かが綺麗になるのが清々しい。

 だから洗濯も好きだ。けれど、水仕事は荒れた手が今以上に荒れてしまう。


「センタクキは凄いな。洗濯板もいらぬし、匂いもいい」


 田舎には場違いのドラム式洗濯機に汚れた衣類を放り込む。

 洗濯カゴの中には泥に汚れた衣類はない。なぜなら納屋に二層式の古い洗濯機があり、そちらで作業着を水洗いしてこちらに回すためだ。


 莞爾から教えられた通りに洗剤を入れ、蓋を閉めてスイッチを「綺麗になあれ」と押す。


 ピピッと鳴る機械音にももう慣れた。


 初めて使ったのは東京にいた頃だ。穂奈美から日本で暮らすための諸々の生活常識を教わった。


 なにせ日本語が未だに読めないのだから、説明書も読めない。平仮名の音ぐらいなら読めるくらいに教わった。けれども単語の意味まではわからない。


 穂奈美からはいつかその時が来たら莞爾に「わたしもうしんでもいいわ」と言うように言われたが、未だにその意味は知らない。


 ごうごうと音を鳴らして洗濯機が回るのを確認して、クリスは外に出る。


 時刻はまだ午前六時にすらなっていない。けれども十分に物は見える。


 遠くから朝露の湿気に乗って耕運機のエンジン音が聞こえてくる。その音を聞くと莞爾が近くにいるような気がして少しだけ笑ってしまう。


「まったく、私も腑抜けたものだな……」


 独りごちるも嫌な気はしない。

 過去の清算はできていない。けれども今は前を向こうと決めたのだから。


 今でも頭の中には騎士の仲間や家族の顔が離れない。だからといってどうすることもできないのは歯痒いが、できることとできないことの区別はできている。


 最小限の魔法陣の知識は研究者に託して来た。ものにできるとは思っていないが、せめて自分が帰るきっかけを作ってくれるのではないかと、密かに期待している。


「故郷に帰る、か……」


 ふと莞爾の顔が脳裏を過ぎる。今の自分が中途半端で情けない。

 前を向くと決めたのに、望郷の念はどうしても消せない。


 生活の便利さなんてどうでもいいことだ。


 けれど、それを差し引いてもクリスは莞爾から離れるのは辛いだろうなと自嘲気味に笑った。


 元の世界に帰りたい。その気持ちは日が経つにつれて薄れ、思い出す度に強くなる。結局自分はこの世界に残る覚悟ができていない。そんなことはクリスもわかっている。


 もしかしたら、戻れないことを理解したくないために莞爾への恋心を利用しているのかもしれない。そこまで考えて、嫌な気持ちになった。


「まるで私は道化だな……子供じゃあるまいし」


 十八歳のうら若き乙女にはとても判別のつかぬことだ。


 東の紫雲が薄く棚引いて、山際がにわかに山吹色に染まり始める。


 クリスは家の裏手に回り、立てかけられた斧を手に取った。


 彼女は斧を使うのがとても上手い。


 薪割りは新人騎士の仕事だった。なぜそれが新人に任せられたかと言えば、敵や罪人の首を手際よく落とすためだ。


 先輩騎士からは頚椎の隙間に体重をかけて振り落とせば簡単に落ちると聞いたが、それが案外難しい。


 クリスは丸太を転がして台に乗せ、斧を振り上げて木目のささくれ目掛けて振り下ろす。


 ぱかんっと小気味の良い音がして丸太は真っ二つになった。

 何度か繰り返して腕の太さほどのものを作り、鉈を噛ませて指の太さほどのものも加え、選別して薪棚にしまった。


 薪は主に莞爾が間伐材を集めたものだ。裏山が私有地なので薪には困らない。


「さて、どうしたものか……」


 嫌な気分を払拭(ふっしょく)するには体を動かすのが手っ取り早い。


 近くで拾った柿の折れた枝を手に取ってみるが軽すぎる。試しに振ってみると簡単に折れてしまった。色々と探して、結局支柱用のアルミパイプがちょうど良い重さだった。少々長いが素振りをするだけならば特に問題はない。


「この軽さでこの硬度があればエウリーデ王国も……ははっ」


 考えたところで仕方ない。クリスはアルミがどういう特性を持つのか知らなかった。


「ふっ……はっ……」


 息を吐きながら振り下ろし、吸いながら振り上げる。久しぶりに素振りをするとどうしても剣筋が鈍ってしまっていた。どうにも足が重たい。踏み込みが弱い。


 微調整を繰り返しながら自分が納得するころにはずいぶんと明るくなっていた。


「……何やってんだ、クリス」


 後ろから声をかけられてクリスははっと我に返った。振り返れば肌寒いのに額に汗を垂らした莞爾が奇妙な顔をして立っていた。


「あ、いや……その、素振りを、だな」

「ふーん。それなら今度ちょうどいいのを用意してやるよ」


 咎められるかと思った。

 クリスの剣術は純粋な殺人手段だったために穂奈美からは絶対に使うなと言われていた。


 けれども莞爾はそんなことも知らずに欠伸を噛み殺した。間伐材で木刀でも作るのだろう。削り出してヤスリで磨けば使い物にはなりそうだ。彼はある意味呑気だった。


「ほれ、朝飯にしよう。もうすぐ七時だ」

「う、うむ」


 首にかけたタオルで汗を拭いながら莞爾は勝手口を通る。クリスは少しばかり視線を彷徨わせて「本当に馬鹿だな、私は」と小声で呟いた。


 足取りは軽い。

 素振りの重さが嘘のようだった。


 今でも彼への罪悪感が押し寄せる。むしろ強まったといってもいいくらいだ。


 けれど、彼ならきっと受け入れてくれるんじゃないかと期待してしまう。強がってしまう。気づいて欲しいとから回る。この心の奥に触れて奪って欲しいと泣きたくなる。


「カンジ殿! むふふんっ、今日は私がスイハンキのスイッチを押したのだぞ! きっと美味しくできるな!」

「いや、それ炊飯器のおかげだからな」


 クリスには詳しいことはわからないけれど、なぜだかスイッチを押すだけで仕事をしたような気になった。えいっと「美味しくなあれ」と気持ちを込めて押したのだ。



 夜遅く、莞爾は必ず「先に休め」といってクリスが寝るのを待つ。


 それから彼は居間のテーブルに色褪せたノートを広げてああでもないこうでもないと唸り、時々ペンを走らせる。ノートには数字がずらりと並んでいるのをクリスは知っている。


 柱時計が深夜零時を知らせ、彼は目元をこすりながらクリスの部屋を覗き、壁側を向いて狸寝入りをしているクリスの姿を見るや、ほっと安堵の息をつく。


 (ふすま)が静かに閉められて、彼が自室に戻るのを気配で察知すると、クリスはようやく目を閉じる。


 まるで深夜に帰宅した父親のようだ、と思う。

 彼のタバコは上物ではないけれど、父親の吸っていたパイプの匂いに少しだけ似ている。


 その匂いを嗅ぐ度に、にわかに胸が苦しくなって、かすかに安心する。


「むっふっふっ、スイッチを押しただけではないのだぞ。ちゃんと美味しくなあれと魔力を込めて押したのだ!」

「いや、それって大丈夫なのか? この炊飯器高かったんだぞ? 壊れたらどうするんだよ」

「むぅ。その辺りは大丈夫なはずだ。研究に協力した際にきちんと確認したのだ」

「うーん。それなら別に……いや、でも魔法のおかげで美味くなったってのはちょっと悔しいぞ」


 莞爾は美味いものを食えるならそれでもいいか、と適当に流した。


 そんな問答を繰り返して、二人は手際よく朝食の準備を進めていく。


 スミ江から料理を学び始め、日本の家電製品の使い方もずいぶん様になった。


 まだ通い始めて数日だが、それでも上達は目覚しい。


 もともと包丁の使い方や調理の仕方には問題がなかったのもある。スミ江は物覚えがいいと褒めてくれるので余計にやる気が出る。


 今は酢の物や煮浸しなど、副菜の作り方を学んでいる。天ぷらはずいぶん先になりそうだ。


 出汁の取り方は田舎らしく強めの出汁だ。けれどエウリーデ王国には出汁文化はなかったのでクリスには興味深い。味噌汁にも使われていると知ってどんどん料理を好きになっていくのが自分でも不思議で仕方ない。


「クリスちゃんは本当にカンちゃんが好きなんだねえ」


 スミ江は嬉しそうに言っていた。クリスは赤面して何も答えられなかったが、自分自身でもよくわからないことの方が多い。


 莞爾を見ていると色んな気持ちが押し寄せる。


 父親のように慕う気持ち。騎士として「らしくない」と認めてくれた嬉しさ。そして、ついこの前まで知らなかった胸の苦しみ。


 この胸の苦しみはなんなのだろうかと考えてもどうにもわからない。莞爾に触れられると余計に苦しくなる。けれど、嫌じゃない。



「おっ、美味いじゃん」


 クリスが作った甘酢をスプーンですくい味見して、莞爾は感心したように彼女の頭をがしがし撫でた。


「こ、こら! 髪が崩れるであろうが!」


 クリスは胸の奥がずくずくと(うず)くのを感じた。果たしてそれが痛みなのか高揚なのか、彼女には心臓の鼓動だけが確かな事実だった。


「あははっ、褒めてるんだよ」


 家の南側に日除け代わりに育てているわかめ菜をさっと湯通しし、水気を切って甘酢と和える。もうそろそろわかめ菜もこの辺りでは枯れ始めるかもしれない。


「……うーん。やっぱり夏よりもちょっとえぐみが出たかなあ」


 莞爾はまた味見をして首を捻った。

 クリスも指先でちょいと摘んで口に入れた。


 わずかなぬめりとツルムラサキの青臭い味。甘酢の酸っぱさが際立ち、吞み下すとわかめ菜のぬめりと甘酢の甘さが喉の奥にやんわりと残った。けれども舌の先にはかすかにえぐみがある。


「だが、これでも美味しいぞ」


 滋味溢れると言えば聞こえはいいかもしれないが、時季外れの菜葉は味も落ちる。


「今年は日照りが多いからまだ育ってくれるけど。まだ気温も十分に下がってくれないし……日照りが続いたと思ったら大雨だからなあ」


 野菜農家にとって暖冬は好ましくない天候だ。越冬して栽培する野菜には寒さが必要なのだから。


 甘酸っぱさの中にわずかにえぐみが残るわかめ菜を、クリスは親近感をもって味わった。


 穂奈美は莞爾のことを「人間三十超えたらそう易々と素直にはなれないのよ」と言っていた。けれども、本当は自分こそ気持ちを偽り、挙句彼に重荷を背負わせようとしているのではないかと、申し訳ない気持ちになってしまう。


 けれどももう少しだけ、もう少しだけ、彼の傍で甘えていたい。こんな自分でも彼は受け入れてくれるだろうか。抱きしめて全て忘れさせてくれるだろうか。いつか騎士ではない人生の(しるべ)になってくれるだろうか。


 安心と罪悪感と不安と。全て噛み分けるなんて十八歳の彼女には難しい。


「よし、じゃあ飯にすっか」

「うむ」


 炊飯器からは先程からいい匂いが立ち上っている。

 水で濡らしたしゃもじを手にとって、莞爾は炊飯器の蓋を開けた。


「……おい、クリス」

「……なんだろうか」


 そこにはなぜか焦げ付いた白飯があった。


「道理でちょっと香ばしい匂いがするなって思ったよ」

「むっ……わ、私のせいなのか?」

「んー……まあ、いんじゃねえか。お焦げも美味しいし」

「そ、そうか。ならば良いのだ」


 どうやら気持ちを込めて魔力を使うと、家電製品も張り切ってしまうらしい。

 仏壇用のご飯を取り分けて、莞爾は茶碗にご飯をよそった。


「うーん……結構焦げてるな」

「……すまぬ、カンジ殿」

「いや、壊れたわけじゃなさそうだし、次からは普通にスイッチ押してくれ。あんまり気にすんなって。別に食えないわけじゃねえんだし」

「心得た……」


 何事も成功ばかりではない。失敗はつきものだ。


 言葉少なに席につく。箸先に乗せたご飯の焦げがガリガリする。


 今日の朝食は、少しばかりほろ苦い。莞爾はとくに文句も言わなかった。その代わりに苦笑して言う。


「一歩ずつだな」

「う、うむ」


 けれどもその一歩でどれだけ彼に歩み寄れるのだろう。それとも彼は自分に歩み寄ってくれるだろうか。


 もどかしい。いっそ全てを忘れさせてくれたらどんなにいいことか。


「うん。いいね。やっぱり甘酢がいい。美味いじゃん」

「先程はえぐいと言っていたではないか」

「いや、そりゃあわかめ菜の話だよ。甘酢はよくできてるぞ」

「そ、そうか? むふふっ、なら良いのだ」


 けれど、今の関係もそんなに悪くはないかもしれない。

 彼の喜ぶ顔が見たい気持ちだけはきっと本物なのだ。


 彼が褒めてくれたことが胸の奥を温める。何かを忘れている気がするけれど、まだまだ頑張ろうと顔を上げた。


 この味がいいねと彼が言ったから。


洗濯機「ガタガタガタガタガタガタッ」



*わかめ菜は夏の方が断然美味しいと個人的には思います。今頃は結構微妙です。というか地域によっては枯れ始めてるかもしれません。もともと熱い場所の野菜なので。(じゃあなんで出したんだとか言わないでください。ちょうどいい食材だったんです)

好き嫌いがはっきり分かれますね。虫害もないので家庭菜園でもほったらかしにできますから、日除け代わりに育てるのもいいです。

ちなみに栄養素は抜群で、美容にも健康にも良いです。


そろそろ農業もしっかり混ぜたいですね。



追記:わかめ菜の呼び方は「おかわかめ」ないし「つるむらさき」の方が一般的かもしれません。

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