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伊東家の食卓

老人は方言を使いたかったんですけれど、なんか微妙になりそうだったんで雰囲気だけ。

 莞爾は電話を切ってため息を漏らした。


 週に一度は報告の電話ををするという約束だったが、どうにも釈然としない。


 電話の相手の穂奈美が適当過ぎるのだ。


「だいたいはこっちででっち上げるからいいのよ。それとも根掘り葉掘り聞かれたいの?」


 などと言われたら「お願いします」と言うより他にない。

 とはいえ、穂奈美には感謝している。一番板挟みで辛いのは彼女なのだろう。

 しかし、本人も楽しんでいる風なので莞爾としてはとりあえず普段通りというわけだ。


 昼ご飯前に戻って来たのだが、クリスが見当たらない。

 トイレだろうかと考えて勝手口の外でタバコをふかしていると、玄関の方から声が聞こえたので外から表に回った。


「……あれ? こんにちは。嗣郎(つぎお)さん? なんでまた」

「おお、カンちゃん。そっちおったんか」


 伊東嗣郎(いとうつぎお)。八十五歳。今でも現役バリバリの老百姓である。そしてご近所さんだ。もっともご近所といっても莞爾の家からは見えない。畑の向こう、雑木林の奥だ。葛折(つづらお)りの細い男坂を下るより畦道を進んだ方が近い。山間のど田舎では普通である。


「どうかしたんすか?」

「いやあなあ、金髪の外人さんがうちの三号とじゃれ合っててなあ」

「へ?」

「話聞いてみたらカンちゃんとこで世話になってるとかなんとか」

「あー……すみません。ご迷惑を。ちょうど午後にご挨拶しとこうと思ってたところです」

「すまんけど、ちょっと迎えに来てくれ」

「ええ、すぐ行きます。なんか、すみません」


 嗣郎は豪快に笑って莞爾の肩を叩いた。


「いつの間にあんな嫁さん貰うたんかちゃんと聞かないかんしのう」

「あはは……痛いです、嗣郎さん。それと嫁じゃないです」


 さすがに莞爾も相手が八十五歳のご老人ではいつもの調子が出ない。

 けれどもこのご老人、足腰はしっかりしている。

 本人曰く、百歳までは現役だそうだ。あと十五年もあるではないか。元気すぎて困ったものである。


 嗣郎翁は足場の悪い凸凹とした畦道をずんずん進む。

 足腰がしっかりしている間は老人も元気である。


「んでなあ、うちの次男がそろそろ老人ホームに入れ言うてなあ。あんなところ入ったら真っ先にぽっくり逝くわい」

「あはは……生涯現役って言ってやりゃあいいんですよ」


 口では笑いながら「笑えない冗談やめろよ」と内心で毒づくのは常である。息子の気持ちもよくわかる。なにせあと十五年も働くと言っているのだから。ちなみに百歳まで生きる理由は役場から金一封が贈られるからである。


 お年寄りとはそんなものである。

 来年の話をしたら「来年は墓の中」と平気で言ったり、病院に行って馴染みの人がいないと「あいつは病気だから家でじっとしていた方がいい」と何かずれたことを言ったりするのである。


 そんな苦笑いで会話に付き合って伊東さん宅に辿り着く。


「ほれ、あそこ」

「あー……」


 嗣郎が指差した先には柴犬と戯れるクリスがいた。何やら楽しそうである。

 というか、人様の犬に何をさせているんだと莞爾はため息をついた。犬はクリスの乳房を服の上から前足でたぷたぷしながら、彼女の顔をベロベロ舐めようとしていたが、クリスは華麗に避けて笑っていた。


「おい、クリス。勝手にどこそこ行くなよ。伊東さんに迷惑までかけて」

「おお、カンジ殿か。ははっ、いや申し訳ないな。ちょっとした散歩のつもりだったのだがな」


 犬——シバ三号は莞爾が近寄るとあからさまに顔を背けて無視をした。なぜか嗣郎が嬉しそうにしていた。


「あらあら、相変わらずねえ」

「あっ、スミ江さん。なんかこいつが迷惑かけたみたいで。すみません、ほんと」

「いいのいいの。まさかカンちゃんにこんなお嫁さんが来るなんてねえ」

「いや、違います」


 クリスは恥ずかしがっているかと思いきや、三号の舌技を全て避けるのを楽しんでいた。三号も躍起(やっき)になって舌を伸ばしている。ちなみに三号はオスである。莞爾は犬猫に全く興味がないので、どうしてそこまで懐かれるのか意味がわからない。


 正直、牛や豚なら食えるし、せめて鶏なら卵も採れるのにと思わなくもない莞爾である。けれども山間に住んでいるので猿対策には犬は気持ちばかり役に立つ。猫はネズミ捕りに役立つ。ただ、犬は畑を荒らすこともあるし、猫は費用対効果が低すぎる。


「よし……お手!」

「ワンッ!」

「お座り!」

「ワンッ!」

「伏せ!」

「ワンッ!」

「いや、この短時間でどんだけ手懐けてんだ」


 訝しむ莞爾の後ろで嗣郎も悔しそうにしていた。この犬、女性の言うことしか聞かないのである。忠義を尽くすのは女性だけなのだ。奉公のご恩は、まあ、その、なんだ、いわゆるお触りだ。


 ちなみに三号という名前の通り、三匹目である。一号二号は遠く黄泉の国であった。血縁関係はない。どこぞから貰った仔犬がいつの間にかスケベに育ったのだ。


「カンちゃん、お昼まだかね? うちで食べて行けば? 大したもんもないけど」

「そういうわけには……」

「お嫁さんのお話も聞きたいし」

「だから違います」


 とはいえ、せっかくのご厚意である。無下にするのも躊躇(ためら)われて、莞爾は渋々頷いた。


 伊東さん宅は平家である。数年前にリフォームしたので作りは新しい。縁側から上がって座敷に座る。


 田舎の女性はいくつになっても働き者である。染み付いた行動だ。クリスは可愛い孫娘扱いされて無理やり座布団に座らせられた。実際、伊東夫婦からすれば莞爾は孫のようなものであるから、同じ扱いなのだろう。


 スミ江はそそくさと瓶ビールとグラスを三つ持ってきて、すぐに台所に戻った。


「ほれ、カンちゃん」

「あ、ども」


 注いで注がれて、クリスの分は断った。


「むぅ……」

「いや、そりゃそうだろ」

「法的には問題ないと聞いたぞ」

「あー、今度な今度」


 嗣郎は飲む相手がいれば誰でもいいのでとくに何も言わなかった。

 しかし、それにしてもこのご老人は八十五歳にして昼間からビールとは、なかなか剛毅(ごうき)な人物である。おまけにこの後農作業も控えているのである。


「そんで、まずは馴れ初めから聞こうかい」

「いや、だからそういうんじゃないんですって。クリスは住み込みでうちに来てるだけですから」

「住み込みのう……カンちゃん」

「はい?」

「男と女が一緒に住んで何もないはずがないわな」


 ——たった一度の懸想(けそう)もなかった。クリスが佐伯家に戻ってすでに五日が過ぎているのに、何も起きていないのである。


 クリスは視線で「そうだそうだ」と訴えていたが、どうしたのか急に顔を赤くして背けてしまった。きっと意味に気づいたのだろう。それぐらいのことは知っている。一方の莞爾はため息をついてビールを飲み干した。


 どう言ったものか。田舎の人間はこれだから困る。一緒に住んだからといって男女の仲とは限らないではないか。


「えっと、ですね……本当に何もないんですよ」


 とりあえず否定してみる。が、疑わしい目で嗣郎はビールをちびりちびりと飲んで、ため息をついた。


「そんなことだから独身なんじゃ」


 ずばりその通りではあるけれども、それとこれとは別問題である。

 けれども、理解はしてもらえたようである。納得はされていないが。


「はいはい、食べましょ食べましょ」


 タイミングよくお盆に料理を乗せたスミ江がやってきて、テーブルに皿を並べていく。クリスはさすがに悪いと思っていたのか自主的に手伝った。騎士の身分が日本で通用しないことは穂奈美から嫌と言うほど教え込まれている。


 これでも母親から妻としての教育は叩き込まれているのである。普段がちょっと莞爾に甘え過ぎているだけなのだ。


「おお、美味しそうですね」

「うふふふふ、(おだ)ててもこれ以上出やしないよ」


 根菜の煮染め、ひじきの煮物、里芋の煮っころがし、さつまいもと茸の天ぷらと、大半が煮物であった。田舎の婆さんが作る料理はそんなものである。けれども、それが美味いのだから文句を言う前に食えという話である。


 続けてご飯と味噌汁もやってくる。味噌汁は干し椎茸の出汁が利いていて食べる前から匂いが美味い。


 悲しいことに、子供の頃には婆さんの作る料理の美味さがわからないのである。大人になって気づかされるのだから、婆さんは偉大である。


「いただきます!」

(かたじけな)く……いただきます、だ」


 莞爾は取り皿に料理を取り分けて、隣のクリスが物欲しそうにしているのを目撃し、ため息をつきながら横に回した。


「むふふんっ。すまんな、カンジ殿」

「いや、別にいいけど。あんたもそろそろ田舎のしきたりを覚えろよな」


 別に男尊女卑というわけではない。それが証拠に田舎の夫婦は女房の方が強い傾向にある。男が転がされているだけである。


 ただ男の仕事と女の仕事が明確に分かれているだけの話だ。


 とはいえ、クリスが欧米人に見えるからこそ伊東夫妻も黙って微笑ましそうに見ているが、これが日本人なら後で「あの人はやめておきなさい」と言われても仕方がない。


 そういう価値観で生きてきたのだから。


 それはさておき。


 実際問題、クリスに下手に行動させて藪蛇(やぶへび)をつつくよりはマシである。


 莞爾は再度取り皿に料理を分けて食べ始めた。


「んっ! 美味い!」


 里芋の煮っころがしは芋の強い風味があって、甘辛い味付けが心憎い。


「今年はうまくいったのう、里芋は」


 嗣郎が庭の畑で丹精込めて作った里芋である。美味いと言われてどこか嬉しそうだ。莞爾は里芋の追肥と土寄せに失敗したので少しだけ悔しいけれど、検査入院だったので仕方ない。


 根菜の煮染めは人参やレンコン、里芋、コンニャクもある。こちらは醤油が勝っているが噛めばじんわりと味が染みていて美味い。


 濃い味は田舎の味だ。農作業で汗水垂らしているのだから味が濃いものが欲しくなる。ついでにビールもなお美味い。


「あー、やっぱりスミ江さんの飯は美味いなあ……ほんと」


 隣のクリスもご満悦だ。にこにこと笑顔で楽しみながら食べていたけれど、時折ちらちらと莞爾の横顔を見つめていた。その様子を見て、嗣郎は含むように笑いを噛み殺して言う。


「しっかし、昔は鬼畜米英つって人間じゃないみたいに言われとったけど、クリスちゃんは別嬪さんじゃ」


 さすがは戦前生まれである。クリスはわけもわからず箸先を唇につけて首を傾げていた。


「あー、いやいや違う違う。違うんですよ。クリスはイギリスでもアメリカでもないですから。なんていうか旧ソ連?」

「ほおー……ソ連か。佐伯の次郎叔父もシベリアで死んでのう」


 まさかこんなところで藪蛇をつつくとは思わなかった莞爾である。初耳である。

 嗣郎には思うところがあったようだが、彼にとっても世間一般にとっても過去の話である。今更何かを喋るつもりもないのであろう。それ以上は何も言わなかった。今は今、過去は過去だ。


 何より可愛い年頃の女の子が自分の育てた野菜を美味しそうに食べているのだから、そんなことどうでもいいのだ。ジジイは可愛い女の子に弱いのである。


 ——とどのつまり、(はなは)だ暴論だが食べ物は人を平和にするのだ。


「むおっ! これはなんだ、カンジ殿!」


 そしてそんな嗣郎のセンチメンタルな気分をクリス自身がぶった切った。知ったこっちゃない。


「それは天ぷらだ。天ぷら」

「美味いぞ!」

「そりゃ美味いだろ。嗣郎さんが作ってスミ江さんが料理してんだから」

「茸はよそもんじゃ」


 冷静に返す嗣郎であった。ちょっぴり苦笑いだ。


 莞爾もさつまいもの天ぷらは好きだ。サクッとした衣のあとにほっくりとしたさつまいもの甘さがお口に優しい。とても素朴な味だ。時間が経ってもまた美味い。


 茸は舞茸だ。サクッとして中はしっとりしている。つゆではなくて塩が振られているのもまた素材の味が感じられて中々乙だ。


「クリスちゃんは天ぷらが好きかい?」


 スミ江が尋ねると口いっぱいにさつまいもを頬張ってコクコクとクリスは頷いた。


「ならカンちゃんにも作ってあげないとねえ」

「むっ……」


 しばらくもぐもぐと口を動かしながら視線を上に向けて考えていたかと思うと、クリスはごくんと飲み込んで「うむ」と決意に満ちた表情をした。


「スミエ殿、ぜひこの味を伝授していただきたい」

「あらあら、まあまあ」


 スミ江は手を合わせて面白そうにくねくねしていた。腰の骨は大丈夫だろうか。もう七十過ぎで骨粗鬆症の疑いがあるのに。


 莞爾は椎茸の味噌汁を噴き出しそうになったが、寸前で飲み込んだ。


「いや、クリス。そりゃあいくらなんでも迷惑だろ。天ぷらぐらいなら俺が——」

「違うのだ、カンジ殿」

「はあ?」


 一体何が違うのか。誰から教わろうと同じだろう。そう言いかけて、莞爾はクリスに内心を覗かれた気がして頬をかいた。


「カンジ殿がスミエ殿の料理を食べているときの顔は……その、なんというか、とても幸せそうだった」

「……まあ、美味いからな」


 美味いだけじゃない。

 スミ江は実のところ莞爾の伯母なのだ。

 母親の姉であるから、姿も母親に似ているし、仕草もそっくりで、おまけに料理の味付けも祖母仕込みでそっくりだ。性格は正反対だが。


 懐かしい。今は亡きお袋の味なのだ。


「そうではないのだ。美味しいだけではなくて——」

「クリスちゃん。わかったよ。教えるから、それ以上は……ねえ」


 うふふ、とスミ江は全て理解した上で慈母(じぼ)の笑みを(こぼ)した。

 スミ江はクリスが莞爾のことをよく見ていると感心したし、莞爾がよくよく良い人を見つけてくれたものだと嬉しくなった。


 自分よりも先に病気で死んでしまった妹の残した子である。佐伯の古い親族からは石女(うまずめ)扱いされていたが、ようやく莞爾を身ごもったときには一晩中泣き明かしたことも知っている。


 莞爾は決まりが悪くなって頭をかいた。

 嗣郎は素直になれない莞爾の味方だった。もとい田舎の男の出番はこういう時だけだ。


「ほれ、カンちゃん。ちゃあんと言うことがあるじゃろ」


 伊東夫妻はすっかりクリスを花嫁扱いしているようだった。莞爾にはそれがまたいじらしい。嬉しくはある。けれど、内心複雑だ。

 クリスがそんなことを言い出すとは思ってもいなかった。


 彼女が作る側になろうと思っているだなんて考えたこともなかった。

 そうして初めて彼女の決意に触れた気がした。


「スミ江さん、すみません。面倒見てもらえませんか」


 莞爾は全部ひっくるめて頭を下げた。

 クリスが莞爾のもとで一人だけになることも嫌だったし、いつか喧嘩することもあるかもしれない。どうにかして(かすがい)になってくれる人物が欲しかったのもある。


 いつまでも保護者ぶっているのはずるいと自分でもわかっている。けれども、莞爾は三十二歳。先行き不透明な零細農家でもあるのだ。おいそれと口説く勇気なんて持ち合わせていない。


 せめてクリスの相手が自分でなかったとしても、料理を覚えるのはクリスにとっても良い機会だろう——そんな言い訳も今日だけは寒々しい。


 だからこそ、人生の()いも甘いも噛み分けた女はこう言うのだ。


「ええ、もちろん! このばあばに任せなさいっ!」


 煮染めは噛めば味が出る。塩気も甘みもゆっくり滲んで、最後に素材の味が優しく舌に残るというものだ。


 莞爾は「嗚呼、やっぱり敵わないなあ」と苦笑して、ビールを一口飲んだ。


「で、式はいつ挙げるんか?」


 口に含んだビールを噴き出した。

 困ったことに、田舎の男は気が利かない。


ババアの煮染めは美味い。

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