遅蒔きのプロローグ(下)
少し短め。
お待たせしました。
しばし歓談を交えながら、八尾と今後のことについて話し合った。
主に穂奈美からクリスに関する口裏合わせが大半である。その後はもののついでとばかりに莞爾が作付けの相談をしていた。
専門料理店用の珍しい野菜を栽培するには、やはりそこに卸す専門業者のニーズを聞くべきである。そこでハウス栽培など莞爾の状況にそぐわないものは省き、結果として露地栽培でも比較的育てやすいものを選ぶことになる。
「あー……アグレッティ作りたいですねえ」
「ねえ……僕もそう思うよ。人気もあるし、面白い食材だけど、いかんせん土地がねえ」
「ですねえ……」
そんな話である。
アグレッティとは春のイタリア野菜のひとつで、オカヒジキみたいなものだ。地中海沿岸でよく作られている高級食材でもある。
だが特徴的な塩味の通り、炭酸ナトリウムを多く含む土壌で育つ。
莞爾の畑では難しい。
しかしまあ、土地には土地の味というものがある。
ヨーロッパの野菜だろうとアメリカの野菜だろうと、違う土地で育てればその土地の味である。できるだけ本場の味に近づけようとするのも一つの在り方だが、その土地ならではの味を求めて育ててみるのもまた面白い。
ただ、それでも基本的な特徴が薄れるようではあんまり意味がないのも事実だ。
「セルバチコはどうです?」
「うーん。そっちは間に合ってるかなあ」
「ですよねえ。個人的にはエルバステラもいいかなあって思うんですけど」
「そっちなら、まあ……でも単価低いよ?」
「間で収穫できるっていうのがですね……」
「あー、なるほど。でも言っちゃ悪いけど、そろそろ品種絞った方がいいんじゃないかな。まあ、おかげで助かってるんだけどね」
「わかっちゃいるんですけどね。土地が土地なんで、どうしても確信が持てないんですよ……」
蓄えはある。会社員時代の定期預金や退職金はまだまだ余裕がある。今はせいぜいトントンだ。生活はできる。食事は半分以上は自給でエンゲル係数も低い。
とはいえ、今の莞爾のやり方は倒産寸前の会社のようだ。あっちこっちに手を広げてしまっている。無作為にしているというわけでもないし、ゆくゆくは「これだ」という野菜を集中的に育てたいとは思っている。
「まあ、うちは春の黒字製造食材もありますし……」
「ああ、アレね。でも例の件もあるしねえ」
「あー……ですねえ」
とまあ、そんな話をして終わった。ちなみにクリスは話に参加することもできずにずっとお茶をお代わりしていた。八尾の妻から塩豆大福をもらって餌付けされてしまったようだ。
***
穂奈美を新幹線の通る駅まで送るのに一時間半かかった。高速のインターの方がよっぽど近い。
今日は農作業も午後に集中しそうだ。
「交通費出るっていいな、おい」
「莞爾くんだって経費で落とすでしょうが」
当然である。
穂奈美は車からロータリーに降りて「それじゃあ」と軽い笑みでさっさと駅に入って行った。
「薄情なやつだなあ……」
「ふむ。そうであろうか?」
「さあ。どうだか」
助手席にいるクリスが首をかしげるが、莞爾は思うところがあったのかくすりと笑った。
帰宅もまた同じ時間である。道程は二時間弱になるだろうか。
「帰ったら昼食だな!」
「さっき塩豆大福五個も食ってたじゃねえか……」
「知っているか? あれはニホンの文化で“おやつ”というらしいぞ」
「いや、三時のおやつならわかるけど、午前十時に塩豆大福五個も食ったらちょっとしたブランチだわ」
「ぶらんち? なんだ、それは。美味しいのか?」
「いや、今度教えてやるからとりあえず忘れろ。まああれだ。八尾さんからお土産ももらったし、それ食うか」
「おおっ、そういえば何やら大きな箱を積んでいたな! むふぅ、楽しみだ!」
着々と餌付けされている女騎士である。誇りはどこへ行ったのだろうか。
しばらく走り、大谷木町の隣町である。
食品工場の駐車場に莞爾は車を止めた。どうやら直売所があるようだ。
「うむ? ここには何の用があるのだ?」
「ちょっと足りないものを買いにな。ついてくるか?」
「……いいのか?」
莞爾はエンジンを切って財布を手に持つと当然のように言った。
「別に好きにすりゃあいいじゃねえか」
「むぅ。だが、以前は外に出るなと言っていたではないか」
「あー、それな。もうその縛りはなくなったから、自分の好きなようにしていいよ。ったく」
「では、参ろうか」
実はクリスは都内にいる間も外を自由に歩けなかったので、ドライブも楽しかったが、やはり自分の足で歩きたかった。
車を出て直売所の方に向かう。
屋内型店舗とはいえ、十坪もないぐらいに狭い。カウンターがあり、壁は冷蔵庫が敷き詰められてありディスプレイのように商品が陳列されている。
店員は莞爾には驚かなかったが、クリスを見て目を丸くした。けれども余計な質問はしない。
「っと、バター、バター……あった」
莞爾は無塩バター200グラムを手に取った。
振り向くと、クリスは真っ白な液体の入った瓶が並んでいる冷蔵庫をじろじろ見ていた。
「なんだ。牛乳飲みたいのか?」
「ぎゅうにゅう、というのか。こちらでは」
「ああ。ここの牛乳は美味いぞ」
近くに乳牛を飼育している小規模な牧場がある。生産量は極めて少ないがこの辺りでは有名で、インターネットなどを使って通販主体の経営だ。主に加工製品が目玉商品である。
莞爾はクリスの返事を待たずに牛乳の瓶を二本取り出し、バターと一緒に購入した。
すぐに店から出て外で一本をクリスに渡す。
「むっ、すまないな」
「いいって。牛乳ぐらい、気にすんなよ」
最近は牛乳の瓶も昔ながらの紙蓋ではないところが増えた。あれはあれで味があって面白い。
莞爾の見よう見まねで蓋を取り、クリスは一口ぐいっと牛乳を口に含み、目を見開いた。
「んーっ! んくっ、うみゃいじょ!」
「いや、落ち着けよ」
どうやら興奮すると滑舌が悪くなるようだ。
「故郷で飲んでいたものよりも味が濃い! 臭くない! むふふっ」
クリスは気に入ったのかごくごくと飲んだ。
ちなみにクリスが故郷で飲んでいた牛乳はヤギ乳である。
ヤギ乳も不味くはないが、どうしても後味が苦手という人が多い。
そこはやはり個人差である。クリスはどうやら牛乳の方が好きなようだ。
すっかり飲み干して満足げに口の周りを白くしている。
「なんだ。そんなに美味しかったか? ほれ」
「よいのか!? 返さぬぞ!?」
「いいから、飲めってほら」
莞爾はクリスが美味しそうに飲むので自分が一口飲んだものを手渡した。
「飲みかけで悪いな」
「むっ……い、いらぬ」
クリスは受け取った瓶を莞爾に突き返した。そこにはすでにタバコに火をつけている彼がいた。
「いや、返されてもな。合わねえし」
「わ、私が吸うのだ!」
「いや、ダメだろ。ん? いや、いいのか?」
法的には二十歳ということになっているが、なんだかダメな気がする莞爾であった。
「いいから、飲めよ。さっきまで返さないって言ってたじゃねえか」
「むぅ、それは、そう……だが」
ちらちらと瓶と莞爾を交互に見る。
これは先ほど莞爾が口をつけた瓶である。それは間違いない。
赤面して急にもじもじするクリスであった。
どうにか意を決して恐る恐る口を近づける。
が、やはりダメだ。
エウリーデ王国にも接吻の文化はあった。しかし夫婦のものだ。
いやいや、しかしだな。接吻といっても唇を交わすわけではないのだから……そう! これは間接だから問題ないではないか! 気にせずに飲めば美味しいぎゅうにゅうが楽しめるのだ。気にする方が馬鹿らしい——などと内心で気持ちをどうにかこうにか鎮めて、もとい言い訳をして口をつけた。
「……あんた何がしたいんだ?」
クリスは瓶に口をつけたまま瓶を傾けもせずに硬直していた。
はっと莞爾の声に我に返ったクリスは瓶を莞爾に突き返した。
「や、やや、やはりいらぬ!」
「はあ? 別にいいけどさ……」
莞爾は受け取った瓶を持ったまま、店先にあった灰皿にタバコをもみ消した。
そして瓶に口をつけてゴクリと喉を鳴らして一気に飲んだ。
「うん。やっぱり美味いな」
「そうだな……」
クリスはやっぱり自分で飲めばよかったと後悔していた。
莞爾が口をつけ、さらに自分が口をつけ、そこにまた莞爾である。
自分があれほど悩みに悩んでようやく決心して口をつけたというのに、この男は一切気にせずに飲み干してしまった。
間接キスに次ぐ間接キスであった。
見方を変えれば莞爾がそんなことを全く気にしていないということに過ぎないのだが、クリスはもはや思考停止でイエスマンになっていた。
今はただ心臓の高鳴りを抑えるのに精一杯である。
「よし、じゃあ帰って昼飯食うか」
「ああ……」
「まあ、昼飯って言ってもそんなに大したものじゃないけどなあ」
「ああ……」
「……なんでそんなにぼーっとしてるんだ?」
「そうだな……」
莞爾は顔を赤くしたまま明後日の方を向いているクリスを見て首を傾げた。三十二歳にもなれば間接キスなんかいちいち意識しないのである。
何か恥ずかしいことでもあったのだろうか。いや、しかし別に大したことはなかった。そんな風に考えて、空いた瓶を回収ボックスに置いた。
クリスは今夜眠れるのであろうか。心配である。
***
我が家に帰り、莞爾は八尾からもらった段ボールの箱を担いで台所に立った。
なんとか平常心を取り戻したクリスも一緒である。
「それで、今日のお昼は何を作るのだ?」
色気よりも食い気である。仕方がない。ほんの少し前まで戦場にいた女の子であるからして、一丁前にあざとい行動なんてできるわけないのである。
「昼飯っつっても大したもんじゃねえぞ。まあ、おやつみたいなもんだ」
「カンジ殿。知っているか? おやつで腹は膨れないのだ」
「……クリスって案外食いしん坊だよな」
「私が悪いのではない。美味いものを作る貴殿が悪いのだ」
「知ってるか? それ責任転嫁って言うんだぜ」
美味しいものを食べて太っても仕方ない。だって美味しいんだから。それで早死にするなら、もはやそれまでである。健康のために美味いものを我慢してストレスを溜めるなんて馬鹿げている。嗚呼、馬鹿げている。
莞爾は土間に置いた段ボールの箱を開けた。
「これは……むふんっ。カンジ殿。これは私も知っているぞ。ホナミ殿から聞いたのだ」
「へえ。で、なんだ?」
「これは“ジャガイモ”だな?」
「おー、正解」
段ボールにはジャガイモがたくさん入っていた。
「けど、普通のジャガイモじゃないぞ」
「ん? そうなのか? 確かに小さいものが多いが、単に育ってないだけじゃないのか?」
「ふっふっふっ。甘いな。甘いぞ。この芋なみに甘いな。ジャガイモは奥が深いんだ。このジャガイモは“インカの目覚め”って品種だ」
「いんかの目覚め?」
莞爾は大きく頷いた。
インカの目覚めと言えば小振りで、風味もよく、越冬させることで甘みがぐんと増す品種だ。油との相性も良い。非常に美味しいジャガイモである。
だが、育てるのは難しいし、小さいので機械で収穫するのも難しく、何かと手間がかかるので、相応にお値段も張る。市場に出る数も少ない。
「この品種は大きく育てるんじゃなくて、小さく旨味を凝縮させて育てるんだ。だからこんな小さな芋でも旨味がたくさん入ってる」
莞爾はインカの目覚めをざっと桶に移して水洗いをして、その後布巾で水気を取った。
鍋にたっぷりの油を入れて熱する。180度まで熱したら、お玉に乗せて油が跳ねないようにそっと投入する。
「おおっ! なんか泡がたくさん出ているな!」
「揚げ物だからな」
大きいものは皿に移してラップをかけ、軽くレンジで火を通してから同じように揚げる。
そのまんま素揚げである。けれども素揚げも素材の味を楽しめる。
揚げ上がりをバットに移して油を切り、今度はボウルに入れて塩を振りコロコロと転がす。
「カンジ殿、それは私がするぞ!」
「お、おう……」
クリスはボウルを受け取って両手で持ち、目をキラキラさせてコロコロと音を立てて転がる芋を見つめていた。本当にこの女の子は騎士なのだろうか。いまいち釈然としない莞爾である。
「あっ、そうだ。忘れるところだった」
莞爾は買ってきたバターを少し切り分けてクリスの抱えるボウルの中に入れる。
コロコロと転がる芋の熱に溶かされて、満遍なく広がっていく。
たったこれだけで完成である。
「ほい、出来上がりだ」
「た、食べてよいのか?」
「おう。いいぞ」
互いに一つずつ摘み上げて、熱さに指をすぐ入れ替える。
ぱくりと口の中に放り込むように入れて、外側のカリッとした皮に歯を立てた。
「はふっはっ、ふっ……むふふふふっ」
「ほっ、はふっ……うんうん。やっぱり美味いよなあ」
揚げ物にバターは邪道か否か。むしろ正義である。
美味いものを食えば笑顔になってしまう。
「これは止まらないなっ!」
パクパクと口の中に入れて、クリスは笑顔のままだ。その様子を見ている莞爾もよく噛んで味を楽しんだ。
ジャガイモのくせにジャガイモらしくない。風味は栗のようで、甘みも強い。これで越冬させればもっと甘くなるのだから、底が知れないジャガイモだ。けれどもこの時期だって美味い。ほくほく感はやはり掘ってすぐの方が強い。
そこにまたバターが絡んでなんとも言えない。
「夜はカレーにするか。ごろごろ野菜入れてさ」
「美味しければなんでもいいぞ!」
その一言は挑戦状である。莞爾は不敵に笑った。
段ボールの中にはまだまだたくさん入っている。北あかりのとろとろなカレーも美味いが、インカの目覚めを贅沢に使ったほくほくのカレーもまた絶品だ。煮崩れしにくいのも高ポイントだ。
「カンジ殿。次を揚げよう!」
「はっ!? もうない! 全部食ったのか!? 俺まだ三つしか食ってねえのに!」
果たしてカレー用のジャガイモは残るのだろうか。少し不安である。
こんな二人であるが、果たしてインカの目覚めのように、越冬すれば“甘さ”も増すのであろうか。いやはや男女の仲とは難しいものである。せめて二人の“愛”がさっさと目覚めて欲しいものだが、やっぱり育てるのは手間がかかって難しい。
けれども今の二人なら、これから先も楽しく過ごせていける——
「おい、こら。俺の分も残そうって気はないのか?」
「美味しいのが悪い。さあ、早く次を作るのだ」
——かもしれない。
インカの目覚めは通販などでも買えます。
芽が出やすいので冷蔵庫などで湿気に注意して保管しましょう。
素揚げも美味しいですが、煮物やポテトサラダにしてもかなり美味しいです。
16.11/26、修正。
次回は近日中。




