遅蒔きのプロローグ(上)
新章開始です。
バランスが難しい……
佐伯家にクリスが戻ってきたその翌日。
案の定二人の仲が急接近なんてことはなかった。むしろ若干の気恥ずかしさが込み上げてしまった。まあ、莞爾が素直になれないのだから仕方ない。クリスは十八歳で色々と事情もある。
クリスもまた恥ずかしさから元の調子に戻っているが、それでもやっぱり彼女の方が自分に素直であった。それでも彼女の中の何かが本心を露わにすることを避けているのか、曖昧な態度で濁している。
なんてことはない。貴族に生まれ、エリート教育を叩き込まれ、挙句女騎士になるために男顔負けの訓練を積んできたわけだから、思春期のマニュアルなんて持っていないのである。
これだけ誑かしておいて莞爾に踏ん切りがつかないのも仕方ない。が、最低である。まだ一緒に過ごした時間が合計一週間も経っていないが、最低である。
さて。そんな再会の翌朝である。
莞爾は驚愕していた。
目の前で約二ヶ月ぶりに一緒に朝食を食べているクリスがいる。それは別に驚かない。
問題はクリスが二本の細い棒を器用に使って食べていることである。
「なあ、クリスさんや」
「だから、クリスでいいとっ……言った」
途中、声を荒げかけて、思い出して尻すぼみになった。莞爾はまあそんな乙女の動転なんてどうでもよかった。
「あー、わかったわかった。で、クリス。いつ箸が使えるようになったんだ?」
莞爾が尋ねると、クリスは少しムッとして、ついで得意げに頬を釣り上げて胸を張った。
「むふんっ、私も成長するのだよ、カンジ殿。これしきのカトラリーはすぐに使えて当然であろう?」
ため息を吐きかけた莞爾だったが、彼よりも先にため息を吐いた人物がいた。
「はあ。よく言うわね。検査中ずっとフォークが手放せなかったくせに」
伊沢穂奈美であった。彼女は食事に集中しながら耳だけ二人に向けていた。
「こ、こら、ホナミ殿っ! それは言わない約束ではないかっ!」
「いいえ、そんな約束してませーん」
「そ、そもそも、こんな二本の棒切れで食事を取るニホン人がおかしいのだ。どうして挟む必要があるのだ。刺せばよいではないか、刺せば!」
それはちょっと聞き捨てならない。お箸は便利である。案外手先が不器用なクリスだった。
莞爾はクリスの笑ったり怒ったりする様子を見て、なんだかおかしくなった。
「……ふんっ。何を笑っているのだ、カンジ殿は」
「いや、いや。別にー。なんでもないぞ?」
「むぅ……絶対に馬鹿にしているな?」
「そんなことないぞ。うん」
昨日までならきっと怒っていたかもしれない。でも、クリスもなんだかおかしくなった。からかわれているのはわかっている。けれど、悪い気分じゃなかった。とはいえ「また馬鹿にして。もう怒っちゃうぞ。ぷーんだ」というポーズをやめるつもりはないし、やめたらやめたで後がどうなるか予想できなかった。
ただそれはごく自然な感情で無意識に推移したことなので、当然二人が自覚しているわけではなかった。
「あー、悪いけど、そういう甘い雰囲気出すのは二人きりの時だけにしてくれるかしらね……すごくイラつくのよね」
「は? 何言ってんの、お前」
「ホナミ殿は想像力が豊かなのだな」
自覚がないだけ被害は広がるというものである。穂奈美は恐怖した。
今でこそお互いに恥ずかしい気持ちが先立って距離を縮められずにいるが、この二人が互いに距離を詰めたら、周りに多大なダメージが及ぶと思ったのである。
しかし、穂奈美は焚き付けたのが自分だという負い目があった。
ついクリスが可愛くて応援したつもりだったが、今まさに早速手を引きたい気持ちでいっぱいだった。
穂奈美は甘めの味付けがされた卵焼きを口に入れて吐き出したくなった。
***
朝食後、食後のお茶を飲みながら莞爾は尋ねた。
「今日は八尾さんに会うんだっけ?」
ずずずーっと熱いお茶を啜って、クリスは満足気に我関せずを決め込み、穂奈美が一息ついて答えた。
「ええ、そうよ。昨日のうちに連絡しているから、八尾さんも了承してるわ」
そう。件のことで、穂奈美も八尾に会っておこうと思ったのである。
本来ならば公安に任せておけば良いのかもしれないが、そこはやはり色々とあるのだろう。
どうせクリスが異世界人だと知る人間を増やすのが嫌なだけだろう——莞爾の推測はあながち間違いでもなかった。
なにせ魔法である。これからもし魔法を解明できれば、第二の産業革命が起きるかもしれないのであるから放って置くわけがない。また様々な分野に新たな風を吹き込めるかもしれないのだ。
目に届く範囲で日本人に嫁いだ外国人を装ってもらう方が何かと都合がいい。ちょうどいい擬態にもなる。ましてや本人がそれを望んでいるのだから恩も売れる。
上手く良い関係を築いてできるだけ多くの協力を得る方が長期的に見ても有意義だ。犯罪者というわけでもないし、そう考えるのが自然な成り行きである。
「まあ、上も色々と考えてるんでしょうね。おかげで外務省でお茶いれてるだけのわたしがこんな役回りになるんだから」
「さすがにお茶汲みだけの仕事なんて税金泥棒もいいところだな」
「……まあ、上司のお茶汲みぐらいはするわよ? ご機嫌とりぐらいはしとかなきゃね。あとは将来が期待できる新人くんとか。まっ、仕事は仕事でちゃんとしているわよ」
それはもしや若い燕を飼うつもりか、とは聞けなかった。とにもかくにも行政がどう考えているかは穂奈美経由で知ることができるのは大きい。
さらにクリスの意志を尊重しているようである。もともと断るつもりもなかったが、確認がとれたことで安心はできた。
「それと、これ。ちゃんと読んで覚えておいてね」
渡されたのはクリスに関するマニュアルだった。
「……要するに、設定ってことだな?」
「そういうことね。口裏合わせとかないと大変でしょ?」
「わかった」
莞爾はこれでも記憶力には自信があった。渡された“設定”にざっと目を通して、お茶を噴き出しそうになった。
「ぶっ……おい、穂奈美! さすがにこれはまずいだろ!?」
のっけから目を疑ってしまった。
クリスの国籍は日本ではあったのだが、その以前の国籍が東欧の某親日国になっていたのである。
「だって、クリスちゃんって似てると思わない?」
莞爾はじろじろとクリスを見てみたが、本人はあいも変わらずお茶を息で冷ましながら美味しそうに飲んでいた。案外猫舌なのかもしれない。
「ま、まあ、それっぽいけど……いや、でもそれって外交的にいいのか?」
「うふふーん。外務省を舐めないでちょうだい。国際関係なんてほとんど見えないところでやってるのよ。裏側で小さな取引を積み立てて、表側で大きな取引をする。そんなの常識じゃなあい。まっ、これ以上はいくら莞爾くんでも言えないけどねえ」
「いや、言うなよ。知りたくねえから」
知らぬが仏である。一国民が知るには重たすぎる。
聞けば、本当は色々と他の案もあったようだが、結局クリスのルーツは国内にない方がいいということになったらしい。何を聞かれても知らぬ存ぜぬで貫くつもりなのだろう。今時国籍を変えるのも簡単ではないというのに。帰化申請は色々と制約が多いのだ。
「まあ、そういうわけだから、クリスちゃんは今“二十歳”ってことになっているわ」
「はあ!?」
「だって成人してないと帰化申請通ってるのおかしいでしょ? だから、タバコもお酒もオッケーってわけ。ついでに言うと、日本での住所は莞爾くんの家になってるから!」
「はああああ!? お前昨日十八歳ってメールで送ってたじゃねえか! しかもうちって……」
「そんなの後でサバ読んでたってことにしとけばいいのよ。それに一緒に住むくらい別にいいじゃないの」
他にも様々な要件があるが、それはマニュアルに書いてある通りである。
クリスは莞爾が住み込みで雇ったアルバイトということになっているのであった。
「いや、ちょっと待てよ。年齢はまだわかるけど、住み込みってお前……若い女とおっさんが一つ屋根の下に住んでて、何か間違いが起きたらどうすんだよ!」
「ほほー。つまり間違いを犯すつもりがあると?」
「え、あ、いや、その……ま、万が一だっ! お、俺も男だからな!」
「ふーん。わたしからすると裸リボンで『召し上がれ』って言っても手を出さない莞爾くんがそんな間違いを犯すとは思わないのよねえ。とはいえ、まあその辺りはクリスちゃんに聞いた方が手っ取り早いんじゃないの?」
ねえ、そうでしょ——穂奈美はクリスの頬を指先でつんとつついた。
莞爾が視線を移すと、そこには湯のみで顔の下半分を隠すようにして上目遣いで彼を見つめるクリスがいる。話はちゃんと聞いていたようだ。
「く、クリスも俺と一緒に住むのはさすがに怖い、よな? な?」
わかっていてもそう言うしかないとはこの男も面倒なものだ。
クリスは震える声で言った。
「カンジ殿は……私では、嫌……なのか?」
硬直する莞爾であった。捨てられた子犬のような目をしていた。放っておけるはずがないのである。
「い、いや……そ、そんなにクリスがうちがいいっていうなら、やぶさかじゃなっていうか、その……」
「はいはーい、じゃあそういうことで! 決定ね! 以降変更は聞きませーん!」
「あーもう! いいさっ! もう好きにしろよ……はあ」
穂奈美はくすくすと笑って、ふと思いついたように言った。
「あははっ。でもこれでゆくゆくはわたしもクリスちゃんと姉妹になれるってわけね」
「おい、やめろ。笑えねえぞ」
「姉妹? 何の話だ? あれか? 義兄弟の契りのようなものか?」
一人だけ純粋なクリスが首を傾げていた。
莞爾は一人だけため息をついた。もう昔の話とはいえ、わざわざ穂奈美が掘り返す理由もわからなかった。ただの冗談ならばそれに越したことはない。
けれども、彼女が冗談を言う時こそ「触れて」はならないのだと、過去の経験が警鐘を鳴らしていた。触らぬ神に祟りなしである。
「んで、何時に約束してんだ?」
「九時よ、九時」
「そんなに時間ないな。準備すっか」
普段ならばもっと早い時間に起きているが、今日はそういうわけにもいかなかった。それにまさか穂奈美が「泊めてよ、お代は体で払うから」などと言い出すとは思いもしなかったのである。もちろんお代はもらっていない。
ほどなくして各自準備を整えて家を出た。
最近はど田舎でも戸締りを欠かせなくなったのは時代の流れだろうか。莞爾はしっかりと鍵を閉めて納屋に向かった。
「カンジ殿……なんだ、これは。黒くて光って……おっきいな」
「その表現はやめとけ。ジープ、ラングラー、リフトアップ仕様だ」
「こんなものあったか? 見覚えがないぞ」
「カバー掛けてたし、シャッター半分下ろしてたからな」
納屋も結構広いのである。もはやガレージだ。
普通の乗用車なら横に三台は停められる。
「……こっちはなんだ?」
「エボタのニュースーパーベジマスターだ。すごいんだぞ。これ一台で耕すのみならず、うね整形、マルチ張りも同時にできる優れものだ。零細農家の希望の星だ。こっちのアタッチメントが——」
「そ、そうか……」
広い納屋とは言っても、軽トラ一台に耕運機にそのアタッチメントの数々が並んでいるのだから、そこにジープまで入れば、もうすし詰め状態である。案外、農家のガレージはそんなものである。
「案外小綺麗にしてるじゃないの」
「当たり前だ。使ったらこまめに洗わないと、すぐに壊れる。それだけ畑作業ってのは機械にとって劣悪環境なんだぞ。それでもこいつらのおかげで農家の労働時間は劇的に改善されているわけだ。つまり農業とはこれら機械を作る会社の企業努力によって下支えされた産業であって、もはやこれなしで日本の農業は——」
「ふーん……そう」
穂奈美は全く興味がないようである。内心では「莞爾くんって経済学部卒よね?」などと考えていた。一方のクリスは熱い耕運機談議に花を咲かせる莞爾に若干引いていた。
「逆に言えば今や農業は工業力の発展に比例してこれからも生産性向上が……って聞いてるか?」
案の定無視されていた。
それはさておき、三人はラングラーに乗り込んだ。
助手席にクリス、後部座席に穂奈美が乗った。
「なんていうか、すごく場違いな車ね」
「お前のレクサスよりマシだ」
無視されたことを引きずる莞爾であった。
「普通農家ってクラウンとか外車なんじゃないの? まあ、これも似たようなもんだけど」
「それは儲かってる農家の話だな。このラングラーはまあ……会社勤めの時に買ったやつだ。正直車検代も馬鹿にならないし手放したいけど手放せない。なぜなら好きだから」
「聞いてないし、聞きたくないわ」
走り出して隣を見てみると、そこにはすっかり車に慣れたクリスがいた。
少しばかり期待はずれに感じながら莞爾はハンドルを握る。
「ふうむ。なんとなくわかってきたぞ」
「ん? なんの話だ?」
「いや、機械の話だ。はいえいすの方が乗り心地はいいが、これはこれで味があるものだな」
「ふっ、クリスもそう思うか。よし今度、ニュースーパーベジマスターの使い方を——」
「いや、それは結構だ」
車はいいけど、耕運機はダメ。意味がわからない。
エンジンとタイヤがついていて、畑を耕すか耕さないかの違いなのに。
馬力だって4ストロークの原付以上ある。
ニュースーパーベジマスターなら狭いハウス内でも使えるし、多種多様な作業にマルチな能力を発揮するのだから、そんじょそこらの軽自動車よりも凄いのに。
わかってくれないのは辛いものだ。
莞爾は沈黙して運転に集中した。
***
八尾の会社に到着したのは三十分ほど後のことだ。
訪ねて行くと、事務所で八尾の妻が帳簿をつけていた。
すぐに八尾を呼んでくれて、冷蔵倉庫から彼が出てきた。
相変わらずの禿頭で、過労で倒れていたせいか莞爾には少しばかり痩せて見えた。それでも元がメタボリック気味だったので良い機会だったのだろう。今の方が健康的な体型だった。
「お久しぶりです、八尾さん」
「やあ、佐伯くん。久しぶりだね。ははっ、どうだい、少し痩せただろう?」
「あはは、倒れたって聞いてびっくりしましたよ」
「いやー、その件は悪かったと思ってるよ。おかげで入院が長引いたって聞いてね」
「それはたぶん関係ないですよ。最初から三週間は必要だったみたいですし、あまり気に病まないでください」
仲卸や仲買というのも大変な仕事だ。市場で競りに出るだけではない。
中には全国各地に赴いて契約栽培を持ちかけたり、食品加工会社に新商品の企画を持ち込んだりする。経歴は様々だが、小売店の元バイヤーや食品商社の元営業マンなどが多い。
「えっと、そちらが?」
八尾が切り出したのをきっかけにして、莞爾は二人を紹介した。
「こちらが外務省の伊沢さんで、こっちが件のクリスティーナさんです。伊沢さんとは大学の学部違いの同期でして」
「へえ。そんな一流どころの知り合いがいるなんて、さすがだねえ」
穂奈美は一歩前に出て丁寧な挨拶をし、名刺を取り出して渡した。それに八尾も名刺を返す。
「まあ、ここじゃあなんだから、ちょっと奥でお茶でも飲みながら話そうか」
「お気遣いありがとうございます」
穂奈美が答えると八尾は頭をかいて笑った。
「ははっ。なんだか変な気分だねえ。うちに外務省の超エリートがいらっしゃるだなんて」
「いえ、わたしは所詮公僕ですし、本省でも下っ端の部類ですよ」
「そうかい? いやあ、丁寧な人でよかったよ。僕なんか消されるんじゃないかって戦々恐々としていたんだから」
穂奈美は莞爾の方にちらりと視線を向けた。彼は苦笑いで答える。八尾は若い時から映画が好きで某スパイ映画がお気に入りなのであった。スパイなのに滅茶苦茶派手なやつである。
事務室兼応接室のソファーを勧められ、座るや否やすぐに八尾の妻がお茶を汲んで持ってきた。礼を返すが穂奈美は手をつけない。
そんなことは知らないとばかりに莞爾はぐい呑のように飲んだ。勝手知ったる仲である。遠慮などコンポストの中に棄て去った。上着を脱ぎもしない八尾にわずかに眦を鋭くした。
クリスはクリスでビジネスマナーなど知らないので、両手で持ってやっぱり息をふうふうと吹きかけていた。けれども目の奥には緊張の色が見える。
事前に莞爾が話を通していたこともあり、穂奈美は補足的な説明と、これから先のクリスの扱い、及び口止め料について話した。
八尾は驚いたり頷いたりしながら静かに話を最後まで聞き、最終的に「願っても無いことですな」と苦笑した。
「いやはや、悔しいなあ。たったこれだけの損害で潰れそうだなんて、家族に顔向けできんよ。なあ、佐伯くん」
「何言ってるんですか。八尾さん潰れたら俺も潰れますからね。田辺さんところも、迫さんところも困りますよ」
「あー……いや、ほんと。うちに依存しないでもいいんだよ?」
「八尾さん以外に相場以上の値段つけてくれるなら他行きますけどねー」
「ははっ、薄情者だな、佐伯くんも」
口ではそう言いつつも、莞爾がそんなつもりはないことぐらい八尾はわかっている。今にも倒産寸前にまでなっている会社をどうにか立て直したくても、元が自転車操業ゆえに首が回らない。
歯痒くて仕方ない。会社は黒字倒産するよりも、収支とんとんの赤字経営が長続きする方がよっぽどいい。
だからこそ、莞爾が救いの手を差し伸べてくれたことは、望外の喜びだった。ただ少々恥ずかしさと気不味さは隠せなかった。それを彼はわかっているだろうにわざとらしく薄情なことを言っている。それがまた憎らしくてたまらない。
思わず目元に浮かんだ涙を、お茶を飲む素振りで誤魔化して、クリスに視線を向けた。
「君がクリスちゃん、だね。初めまして」
「むっ、これはすまない。私がクリスティーナ・メルヴィスだ。以後よろしく頼む」
どうやら名前は短縮することになったようだ。確かに日本では少々長すぎる。
八尾はクリスの尊大な物言いに驚いた。けれども嫌な気はしない。なんだか関西弁しか喋れない外国人のようだと思った。
莞爾が笑って理由を説明した。
「いや、八尾さん。クリスは日本語まだちゃんと覚えてないんですよ」
「そ、そうなのかい? それにしては……」
「まあ、異世界人ってことで、なんか我々の想像のつかない技術があるみたいですね」
「ははぁ……最初に聞いた時も驚いたけど、まさか自分にこんな漫画みたいなことが起きるなんてねえ」
クリスは「まんが?」と首を傾げ、隣の穂奈美が「この前ホテルで読み聞かせてあげたじゃない」と言った。
「おおっ、どらごんなんちゃらだな!?」
「いや、お前は何を読み聞かせしてんだよ……」
穂奈美はどこまでいっても穂奈美である。クリスもどうやら世界的に有名な漫画作品を気に入ったらしい。
そのうち手からビームでも出すんじゃないかと莞爾は頭をかいた。
「あっはっはっ! 面白いお嬢ちゃんだねえ」
「いやあ……色々これから覚えさせないといけないことが多いですよ、ほんと」
「まあ、いいじゃないか。ふふっ。クリスちゃんだったね。これからよろしく頼むよ」
八尾はすっと手を差し出した。
クリスは首を傾げかけて、すぐにその意図に気づいた。
「うむ。これは握手というやつだな、ヤオ殿。だが、それよりも一つ聞いて欲しいことがあるのだ」
逆に八尾が首を傾げて聞き返した。
「何か気になることでもあるのかい?」
クリスは立ち上がり、一度深呼吸をした。莞爾は何事かと尋ねようとしたが、穂奈美が手を伸ばして止めた。
「その……この度は申し訳なかった。心よりお詫び申し上げる。私がこの世界に来てしまったばかりに、カンジ殿はもとよりヤオ殿にも多大なご迷惑をかけたと聞いた。それは……それは私の本意ではない。けれども、安寧に生きる人々に被害を与えてしまったのは痛恨の極みだ。到底許されるべきではないし、私の信条に悖る行為でもある。それゆえに……自己満足であることは承知しているが、どうか謝罪を受け入れていただきたい」
そう言って、クリスは深々と腰を折って頭を下げた。頭を下げる——それは穂奈美から教わった礼法ではあるが、クリスはぎこちなさもなく、過度な下げ方というわけでもなかった。
莞爾と穂奈美は黙って八尾の返答を待った。彼は沈黙していたが、当たり障りのない言葉を紡ごうと息を吸い、言葉にならずに苦笑のため息を漏らし、上着の喉元を開けた。
そうして立ち上がり、クリスの肩を叩いたのである。
「頭を上げて、クリスちゃん。わかった。君の謝罪を受け入れよう」
その諦観とも困惑とも取れない視線に、クリスはこの男の真意を見た気がした。
莞爾は「首をくくる寸前」と冗談めかして言ったが、あながち冗談とも言えなかったのだ。八尾からすればクリスを恨むのが普通だ。
けれども恨んでも仕方ないし、実際に国が個人のために動いてくれたのだから、内心では複雑な思いを抱いていようとも、笑顔で対応するのが当然である。それでこそ商売人というものだ。
異世界人とは一体どんな人間なのだろうかと八尾は推測することしかできなかったし、家族が路頭に迷うかもしれないと考えるだけで食事も喉を通らなかった。
莞爾からの出荷が止まり、最盛期過ぎの尻切れな損益は小規模な地場の仲卸には死活問題だったのだ。おかげで方々を回って納品してくれる農家を探したが、そんなものが通るわけもない。すでに作物ができているところに突然やってきて「うちにも買わせてくれ」などと言っても、それらは買い手が元から存在して栽培したものなのだから、当然売ってくれるわけもない。
非常識でもそれに縋るしかない。莞爾が二、三日といったことが反故にされたせいでもあるが、彼の商売人としての意地でもあった。
結果、過労で倒れて「ああ、終わったな」と思っていたのだ。
「君の……クリスちゃんの誠意はわかったよ。僕も君を少々侮っていたようだね。すまなかった」
「いや……私が全て悪いのだ。貴殿は何も悪くない」
「あはは……いや、ね。商売人っていうのは損得勘定だけじゃダメなんだよ。誠意を見せる相手には自分も誠意を見せないと。そこにいる佐伯くんのようにね」
八尾という男も中々の偏屈者だ。気に入らない相手には笑顔で見送って手を切ってきた。よくもまあ商売などできるものである。
けれどもそんな彼だからこそ、彼に助けられた農家がたくさんいるのだ。
莞爾は「何のことだか」としらを切るように空になった湯呑みを口につけていた。穂奈美は呆れたように小さく息を漏らしたが、すぐにくすりと笑った。
「さあ、クリスちゃん。今度は“本当”の握手をしよう」
「むぅ……ヤオ殿はカンジ殿とお似合いなのだな」
「あはは、そうかいそうかい。それはすっごく嫌だね!」
中々ひどいオヤジである。莞爾は苦笑するしかない。
差し伸べられた手をクリスは強く握った。
その時の八尾は憑き物の取れたように清々しい微笑みをたたえていた。
どっかりと腰を下ろし、八尾はようやく“上着”を脱いで背もたれにかけると莞爾に言った。
「いやあー、それにしても佐伯くんは良いお嫁さんをもらったもんだね!」
「違うからっ! まだ嫁じゃないですからね!?」
「ほほう? まだ、ということはゆくゆくは嫁にもらう気があるんだね?」
何とか言い逃れしようとしている莞爾の隣で、クリスは湯気が出そうなほど顔を赤らめていた。
赤面を隠すように顔の前に出した両手には空になった湯呑みがある。
穂奈美は「案外この二人もお似合いよね」と内心で小さく笑った。
次回は料理会。
週間1位ありがとうございます。それもこれも読者の皆様のご声援の賜物です。
これからもどうぞよろしくお願いします。
16.11/26、修正。