静かな老後
あるところに、一人の男性がいました。
男性は、コールセンターで働いていて、いつもお客様の声を聞いていました。
『お客様は神様です』
その気持ちで働いていた男性は、大変評判の良いスタッフで、いつも一番、お客様に喜ばれていたスタッフでした。
しかし、男性も年をとり、仕事を引退する日が来ました。
そして、男性はこう思ったのです。
『今まで、自分はいつもお客様の声を聞いてきた。だから、老後は静かな所で過ごそう』
そして、男性は自分の理想の場所に引っ越してきました。
そこは、程良い自然と、程良い町並みがある、素敵な所です。
『ここはいい。何かあっても、病院は車で行けばすぐそこだし、近所には公園や保育所もあって、子供たちの笑い声にあふれている。なんて素敵な所なんだ』
こうして、男性の静かな老後が始まったのです。
朝は涼やかな自然の空気を浴びながら散歩に出かけ、昼は暖かい太陽と一緒に公園で食事をし、夜は月を見ながら晩酌を楽しむ。
しかし、そんな穏やかな日々も、ある日変わってしまいました。
きっかけは、些細な事でした。
公園で、男性が近所のスーパーで買った弁当を食べようとしたときです。
どこからかボールが飛んで来て、男性の弁当に当たったのです。
弁当は、もちろん、地面に落ちてぐちゃぐちゃです。
ボールを投げたのは、近所に住んでいる子供たちでした。
子供たちは男性に頭を下げて謝りましたが、お昼の楽しみを奪われた男性は我慢が出来ません。
しかし、周りには、近所に住んでいる人の目もあります。
大きな声で怒ることもできず、男性はとりあえずその場を後にしました。
でも、やはり、怒りはおさまりません。
それ以来、男性は公園に行くことが出来なくなりました。
ボールで遊んでいる子供たちを見ると、どうしても怒りがこみ上げ、我慢が出来なくなるのです。
『どうにかならないものか。せっかく静かな老後を過ごしたいとここに来たのに……』
そうやって悩んでいると、ある日、男性の手に神様が現れました。
神様は、男性に言いました。
『あなたは、今まで沢山の人の言うことを聞き、沢山の人のために働いてきました。そんなあなたの願いを、叶えてあげましょう』
そんな神様の声に、男性は答えます。
『私の願いは、大したモノではございません。ただ、静かに、心穏やかに、公園で食事をしたいだけなのです。だから、神様。公園で子供たちがボールで遊ぶのやめさせていただけませんか?』
そんな男性の願いを神様は快く引き受けました。
そして、それ以来。
公園で、子供たちがボールで遊ぶことはなくなりました。
ボールで遊ぶのを禁止されたからです。
『良かった。これで静かな老後を過せるぞ』
しかし、そんな男性の静かな生活も、長くは続きませんでした。
ある日、男性が朝の散歩を終えて帰宅していると、男性のすぐ目の前を一台の車が走っていきました。
引かれはしなかったモノの、驚いた男性は、車が走っていく先を見ました。
車は、近所にあった保育所に向かっていたようです。
『ビックリした……しかし、いくら遅刻しそうだからと言って、あんな運転をしては危ないだろう』
そう思った男性は、一言文句を言いに行こうと、保育所に近づきました。
しかし、保育所の前は、沢山の車が止まっており、その周りには沢山のお母さんたちがいて、近づけません。
『なんて事だ……こんなにも、沢山の人がいただなんて……それに、なんて騒がしいんだ』
それ以来、どうにも男性は朝の散歩を楽しめなくなりました。
散歩に出かける度に、車にひかれかけた事を思い出し、そして、あの騒がしい保育所の事を思い出すからです。
どうにかならないかな、と男性が思っていると、また、神様が男性の手に現れました。
男性は、神様にお願いします。
『神様。近所の保育所をどうにかしてください。静かな老後を過ごしたいと思ったのに、そこは五月蠅すぎます。あそこに保育所があるだけで、私は朝の散歩が楽しめないのです』
その願いを受けて、保育所はなくなりました。
男性に、静かな老後が戻ったのです。
こうやって、男性は、何かある度に神様にお願いしました。
近所のスーパーで買ったモノが腐っていたから、近所のスーパーを無くし。
道路工事の音がうるさいからと、工事を中止させ。
周りに住む人の声が気になって、周りに住む人達を追い出して。
そうやって、男性は理想の、静かな老後を手に入れました。
今日も、男性は、静かな場所で、月を見ながら、晩酌を楽しみます。
『良い月だ……静かで、誰の声も聞こえない。最高の老後……うっ?』
突然、男性の胸が苦しみます。
『な、なにが……?』
とにかく、助けを呼ばないといけません。
男性は、すがる気持ちで、手にいる神様に助けを求めました。
『む、胸が苦しいです。お願いです、すぐに助けてください』
そんな男性の願いを受けて、神様が答えます。
『すぐには、無理です。一時間はかかります』
『な、なんで……?』
『あなたの住所の周りは、道路が荒れていて、すぐにはいけないのです。もう少し、待っていてください』
『なんで……うっ?』
男性の意識は、そこで切れました。
それから、一時間後、男性の家に救急隊が駆けつけました。
しかし、救急隊が駆けつけた時には、もう男性の呼吸と心臓は止まっていました。
倒れている男性の姿を見て、救急隊の一人は、思わずつぶやきます。
『こんな誰もいないような静かな場所で、一人だけか。可哀想に……寂しい人だったんだな』
男性の手には、一台の電話が握られていました。
その電話を、男性は、まるで神様のように、大切に握りしめていたそうです。