友と少女と旅日記
L.E.1012年 9月14日
懐かしい空気、懐かしい景色、懐かしい静寂、……何もかもが懐かしい故郷に私は戻ってきました。――と言っても、幼い頃に亡くした両親のお墓参りのために、二人の命日には毎年来ているのですが、今日は命日ではありません。私が今日、ノーナ村に戻ってきたのには別の理由がありました。
でも、せっかくですからね。やっぱりお母さんとお父さんには挨拶をしておきましょう。私はそう思い、二人のお墓がある丘の上まで行こうと思いました。
そこまでの道すがら、今度は懐かしい匂いを感じました。子供の頃、よくお母さんに買ってもらった懐かしのパンの匂いでした。お母さんが亡くなったあとも孤児院からこのパン屋さんまで一人で買い物に来たこともよくありました。孤児院から貰えるわずかなお小遣いで買ったパンを食べるたびに、私はお母さんの面影を思い出していました。
そんな懐かしのパンの匂いを感じて、私は一切の迷いなくパン屋の扉を開けました。ただ、最初からパン屋に寄って行こうと思っていたわけではありません。気が付いたら、私の足は導かれるままに自然と歩みを進めていたのです。
「いらっしゃい。どうぞご自由に見ていってください」
白いコック帽を被った中年のおじさん店員がカウンターの向こう側で言いました。少し筋肉質な体付きで、パン屋には似つかわしくないのではないかと思いましたが、人が良さそうにニカッと笑った顔には見覚えがあり、懐かしい気分になりました。
私が子供の頃からずっとここで働いているので、ひょっとしたら店長さんなのかもしれません。生憎向こうは私の顔を覚えていなかったようですが、そこまで頻繁に来ていたわけでもありませんし、お店に入ったのは3年ぶりだったので気付かなくても無理はないかと思いました。
このときは私以外にはお客さんはいないようでしたが、お昼頃には行列ができるほどの人気店であるせいもあるでしょう。たまに来るだけの子供の顔など覚えてなくても仕方ないことです。
私はカウンターのガラスケースの中にずらりと並ぶパンたちを眺めて、ふと気が付きました。
「あれ? 今日はバナナチョコパンはもう売り切れですか?」
「ん、ひょっとして昔の常連さんかい? 悪いね、バナナチョコパンは2年前に販売中止になったんだ。一部のお客さんには人気だったんだけど、どうにも売れ行きが悪くなってね」
「ああ、そうだったんですか。まあ、商品には流行り廃りがありますしね。一時期人気だったからといって、その人気がずっと続くとは限らないわけです」
「それが面白いところでもあるんだけどね。ただ、もし復活させて欲しいと言うなら考えてみないことはないよ」
「あはは、それはいいです。私は今、この村から出て旅商人をやってるんです。今日はたまたま里帰りに来ただけですから」
「そうかい。そいつは残念だねぃ」
店員さんはがっかりした表情を見せながらも、別のパンをおすすめしてくれました。私はおすすめされたアンパンとクリームパン、それにジャムパンとクロワッサンを一つずつ買って店をあとにしました。
両親のお墓はパン屋のある商業地区からは少し離れたところにあります。歩きながら、パンを頬張りたいという気持ちもありましたが、ぐっと堪えてお墓へ向かいました。
「お母さん、お父さん、久しぶり。――って言っても、4月に来たばかりだっけ」
二人のお墓の前で、私は前に来た日のことを思い出しました。余談ですが、二人のお墓はちゃんと隣同士にあります。あの事件の頃には二人が不仲だったことを知る人の中には離れたところにしてやった方がいいんじゃないかと言う人もいましたが、私が反対したんです。
たまたま運命の歯車が狂ってしまっただけで、本当は仲良し夫婦だったと信じていたから、――そして今でも信じているからです。今はきっと二人とも天国で幸せに暮らしていると思います。
「そうだ。今日はね、パンを買ってきたんだよ。お母さんとよく一緒に買いに行ったパン屋さんのだよ。お父さんも私たちが買ってきたパンを美味しいって言って食べてくれたよね。
それにね、私ちゃんと二人が好きなパンのことも覚えてたんだから。お母さんはジャムパン、お父さんはクロワッサンが一番好きなパンだったよね。
――えへへ、覚えてて偉いぞって褒めて欲しいな。昔から記憶力には自信がある子供だったな、私……」
幸せだった頃のことを思い出して、少しだけ悲しくなってしまいました。だけど、二人のお墓の前では絶対に泣かないって決めてました。私が幸せそうな顔を見せれば、きっと二人も安心してくれると思ってますから。
私は気を取り直して、二人のお墓の前にパンをお供えしました。そして、さっき買ったアンパンとクリームパンを取り出して、私もそこで座り込んで食事をすることにしました。
「私が好きだったバナナチョコパンは2年前に販売中止になっちゃったんだって。でも、このアンパンも結構美味しいよ。時代の流れによって廃れてしまうものもあれば、変わらずにそこにあるものもあるんだよね……」
私の両親はあの事件によって、この世からはいなくなってしまった。だけど、私は今ここにいる。亡くなってしまった二人のためにも私は毎日一生懸命に生きなきゃいけません。食事を終えた私は立ち上がって、お墓に向かって言いました。
「さてと、ごめんね。他にも用事があるから、そろそろ行くね。来年の命日、――ううん、これからは命日じゃなくっても、時々来ようかな。とにかく必ずまた来るからね。
私はこれから先もいっぱいいっぱい成長するんだから。だから、ずっとそれを見守ってて欲しいな。――私は大丈夫だから。一人でもちゃんと生きていけるってところを見せてあげるから。でも、その前に――」
その前に、一つだけけじめをつけなきゃいけないことがありました。私がかつて犯した過去の罪、それを清算しなきゃ前には進めないんだって、今更ながら気付いたんです。だから、謝りに行かなきゃいけない。彼女に許しを請わなきゃいけない。
……そう思ったのに、私は今どうしてこんなところにいて日記を書いているんだろう。こんなことしてる場合じゃないのに。なのに、私は彼女から目を逸らしてしまった。
最低だ。私はやっぱり卑怯者なのかもしれない。こんなことを書いて自虐して、それで罪を償ったつもりなのか。ふざけるな、この偽善者め。
死ね。死んで償え。私なんか生きてる価値のない最低な人間だ。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……。
――少し落ち着こう。また明日でもいいじゃないか。私は死ぬわけにはいかない。二人のためにも、私を育ててくれた孤児院の先生のためにも死んじゃ駄目なんです。私の罪はちゃんと生きて償わなきゃいけないのです。
落ち着くために続きを書こう。私はいつだって、日記を書くことで気持ちの整理をつけてきました。ある種の現実逃避、自己陶酔、――だけど、それで間違った結論を出したことは一度もないと思っています。
それに、この日記は美少女旅商人である私、ネル・パースの成長記録なんだから、間違ったことでもちゃんと書き残さなきゃいけません。過去の反省を活かして、未来へ進んでいくために、嘘偽りなく事実を書き残す必要があるんです。
話を戻しましょう。お墓参りを終えた私は、セントシャインという名の孤児院へ行きました。目的の彼女がそこにいないのは分かってました。そんなことは当然、よく分かっていました。分かっているに決まっていました。
でも、そもそも私は彼女がどこへ行ったのかすら知らなかったのです。だから、孤児院の先生に会って訊く必要がありました。彼女は一体今どこにいるのかと。
孤児院セントシャインの庭と言える部分は、9時から18時までなら部外者でも出入り可能です。庭には綺麗な花たちが並んでいるので、園芸庭園と呼ばれています。
また、孤児院の子供たちも授業時間、食事時間、就寝時間を守るならば、自由に外へと遊びに行くことができます。ちなみに入浴時間も時間が決められていますが、強制ではなかったのでお風呂に入らず遊び回ることも可能でした。
それはともかく先生です。私は昔の記憶を辿って、この時間ならば先生は園芸庭園にいて、花の手入れをしているはずだと思って探してみました。
時刻は17時。ちょうど孤児たちへの授業が終わった頃合いでした。そして、私は薔薇の花の前で蹲る懐かしき背中を見つけたのです。
「先生」
私は小さめの声で話しかけました。剪定用の鋏を持っているようでしたから、大声で話しかけて驚かせてしまったら怪我をしてしまうかもしれないと思ったのです。
「はいはい、どうかしましたか」
孤児院にいる子供たちの誰かだと思ったのか、小さい子供に話しかけるような優しい声で応え、先生は振り返りました。そして、先生は私の顔を見ると驚いて立ち上がり、鋏を置いて私の方に駆け寄ってきました。
「あら! あなたネルちゃんね? 久しぶりに来て、あらあら、どうしたの。随分美人になったわね」
「あはは、先生も相変わらずお元気そうで何よりです。もうお年ですから、もしかしたら孤児院やめちゃってるかもしれないと思ってました」
「あらやだ、私はまだまだ現役ですよ。それよりやっぱり綺麗になったわね。それになんだか明るくなったみたい」
「まあ、いろいろありまして。先生と会うのは3年ぶりですね。その間、本当にいろいろなことがありました……。
いろんな出会いがあって、いろんな別れがあって、私はもうすぐ18歳になるという頃になって、ようやく大人になれそうな気がしてきました。だけど、その前に、やり残したことがあるんです。今日は私の過去にけじめをつけるためにきました」
そう、今の私なら、先生に対しても素直に感謝できます。私が今でもこうして生きているのは先生のおかげです。私はちょっと前までの私が思っていた以上に、いろんな人たちのおかげで生きているのだと痛感したのです。
それが成長をするということ。過去の誤りに気付いたからこそ成長できる。だけど、今回のこれだけは気付いただけでは駄目なんです。私はまだ罪という名の十字架を背負ったままで、それを清算するためには彼女に謝る必要があるんです。
――別に許されようと思っているわけではないです。許してもらえるようなことではないと思っています。だけど、それでも私は彼女に謝らなきゃいけないんです。けじめを付けられなければ、私はいつまで経っても少女のままで、大人になんてなれっこないです。
私は先生に執務室に通され、お茶を出されました。部屋は冷房が効いているようで、とても涼しかったです。お茶を一口飲んで、私は意を決して話を始めました。
私が謝るべき相手は先生ではありませんが、これは先生にとっても無関係な話ではありませんでした。いえ、先生もきっと選択を誤ってしまったのではないかと後悔をしたはずです。だから全てを話しました。話は10年前、――私が7歳で両親を失い、孤児院に入った頃まで遡ります。
孤児院に入った直後の私は、毎日暗い顔をして俯いているだけでした。どうしてあんな事件が起きてしまったのか、どうして私は止められなかったのか、ただただ苦悩するだけでなんの意味もない日々を過ごしていたのです。
そんな陰気臭い顔が鼻に付いたのでしょうか。私は園芸庭園の掃除をしているときに、2歳年上で、孤児院の先輩にあたる少女ラファエラにちょっかいをかけられたのです。
「ねー、ちょっと、ネルさーん。今日の掃除当番、あんたでしょー? 向こうの裏手の方、全然掃除できてなかったわよー? あんた、やる気あんの?」
「えっと、そっちはまだ掃除してないから、……です。今からやろうと思ってました……」
「何、年上に口答えする気? あんたって、ホント生意気よね。ねえ、イルマ、こいつのことどう思うー?」
「くすくす。最低のゴミ人間で、とっとと死んで欲しいと思いまーす」
ラファエラの背中で意地悪そうに笑うイルマという少女は、私よりも一つ年下です。なのに、虎の威を借る狐のようにラファエラと一緒になって偉ぶっていたのです。一人じゃ何もできないゴミクズはそっちの方だろうと思いつつも、私はそれを表に出さずに言いました。
「そうですよね……。私なんて、生きている価値のないゴキブリみたいな人間ですよね。なのに、自分じゃ死ぬ勇気もなくて、ただただ無為なときを過ごしているだけの害虫です。
……ねえ、お願いします。どうか私を殺してくれませんか? 私みたいなゴミ虫なんて、殺したって罪には問われませんから。ねえ、ほら、早くしてください」
自嘲気味に吐き捨てましたが、私の本心ではありませんでした。これが私の処世術だったのです。奇人、変人、狂人のように振舞うことで、こんな奴とは関わりたくないと思わせるための演技です。年下相手でも敬語で接するようになったのも、できるだけ他人と距離を取るためでした。
「……うわ。ねえ、お姉さま、やっぱりこいつ気味悪いよー。こんな奴放っておこうよ。別に代わりはいくらでもいるんだし」
「そ、そうね……。あんたはちゃんと掃除しておきなさい。人間以下の存在なら、おとなしく人間の言うことだけ聞いときゃいいのよ。話はそれだけよ。行くわよ、イルマ!」
「あーん、お姉さま、待ってー!」
ラファエラは威勢のいいことを言って去っていきましたが、その震え声は逃げ出すと表現して差し支えのないものでした。私はラファエラとイルマの姿が見えなくなってから、にやりと笑いました。私の思い通りになった、と。
私はこの処世術のおかげで、幸いにもいじめの対象になることはありませんでした。気に掛かったのはイルマの『代わりはいくらでもいる』という発言でした。
彼女たちは、その発言の通り他にいじめの対象を見つけてはいびり倒していたようです。――いじめられていた子のことは正直言ってよく覚えていません。私はただ見て見ぬ振りをするだけでしたし、時期によっては別の子がいじめられていましたから。
私はただ、自分には関係ないと、図書室から持ち出した本を読んでいるだけでした。いじめられた子が先生に泣きついて、いじめが発覚しても、私は何も関わってないし何も知らない、そんないじめがあったなんて初めて知ったと言うだけでした。
そして、ラファエラたちは好き勝手やっても、証拠がなければ先生に叱られることもないと調子付いて、段々と彼女たちに味方する子たちも増えていきました。私も見て見ぬ振りだけではなく嘘の証言までしていたわけですから、消極的ないじめの加担者だったと言えるでしょう。
奇妙なことですが、私が取った態度はラファエラたちからはある種の信頼を得ていたようです。こいつは何があっても、自分たちが不利になるようなことはしないと、そう思われていたようなのです。
これらは女子寮で起きたことであって、男子寮の子たちは関係ありません。しかし、おそらくですが、男子寮でも似たようなことは起こっていたと思います。どこに行ったって、弱い人間に対して鞭を打つ人はいるものですから。
そんなくだらない最低の日々を過ごし、私は13歳になりました。ある日、私は新しく孤児の子が来ることを先生から聞きました。その子の母親は若くして病気で亡くなり、父親も先月、雪山の登山中に雪崩に遭って事故死したのだそうです。
彼女の名前はポプラ、私と同い年です。寮では、たまたま私と同室していた子が孤児院を出る年齢になって出て行ったばかりだったので、私と二人一組で同室することになりました。
これからよろしくお願いしますと言った彼女は、そのときまだ何も知らなかったのです。孤児院で起きていたいじめのことも、私の最低最悪な人間性のことも――。
そう、私は彼女に対して謝らなきゃいけないんです。私が孤児院で、唯一友達になれそうだった相手、――なのに、私は彼女を裏切ってしまったんです。私はとんでもない罪を犯してしまった罪人なのです。
「もしかして――」
私の過去語りを黙って聞いてくれていた先生はそこで初めて口を挟みました。
「そうです。先生も心当たりがあるはずです。先に言っておきますが、私は犯人ではありません。だけど、私が彼女を裏切ったことには違いありません」
正直言って、誰が犯人かなんてことはどうだっていいことだと思っています。問題なのは、私が彼女を裏切ったという一点のみだけであって、今更あいつを糾弾するつもりなんて一切ありません。
――あの事件について語る前に、先生にもう少しだけ私と彼女の関係について話しておこうと思いました。先生が知っていることも知らないことも全部含めて洗い浚い話すことで、懺悔をしたかのような気分になりたかったのです。
彼女は元々明るい性格ではなかったのでしょう。いつも何かに怯えているかのような顔をしていました。もちろん彼女も両親を亡くすという不幸に見舞われたのですから、明るく過ごせと言う方が無理があるのですが、おとなしくて抵抗しそうにない態度がラファエラたちの格好の餌食となりました。
いじめの内容は筆舌に尽くし難いものばかりです。トイレ掃除用のモップを彼女の顔に押し当てるというくらいならば、まだ軽い方だったと言えるほどです。しかも、私の知る限りでの話ですから、ひょっとしたらそれ以上に酷いことをしていたかもしれません。
就寝時間になる頃は、私は二人一組の部屋で一人で本を読んで過ごすことが多かったです。もちろん真面目な彼女が就寝時間を無視して、勝手に出歩いていたなんて話ではありません。
私は彼女が部屋に戻ってこないというだけで、どこかでいじめを受けているのだと察することができました。だけど、私は彼女がボロボロの姿で帰ってきても、部屋のタオルを渡してあげるくらいで特に何もしませんでした。
だけど、それでも彼女は激しく泣きながら、私に対して何度も何度もありがとうと感謝の言葉を告げました。
「ありがとう、ありがとう……。ネルちゃんは本当に優しいね……。こんな私のことを見捨てないでくれて……」
何を馬鹿な。私のどこが優しいと言うのか。私は直接加担していないだけで、彼女のことを見殺しにしている。私がそんなようなことを言っても、彼女はそんなことはないと。ネルちゃんは自分の優しさに気付いてないだけだよと言うのです。
「だって、いつも私が帰ってくるまで寝ないで待っててくれてるじゃん」
――確かにそれは事実でした。でも、そんなことで許されるなんて思ってませんでした。だけど、彼女は、こんな私に対して好意を寄せていてくれたのです。
そんなある日、学力テストが行なわれました。孤児院でも、普通の学校と同じように授業はありましたし、教室もありました。
授業を受ける子の年齢はバラバラなのですが、女子は女子でみんな同じ授業を受けていました。テストの内容は年齢によってレベルが調整されていたようです。
授業は各科目ごとに、それぞれ教育係の先生がいました。彼らは孤児院で雇われているだけで、必ずしも子供たちに対して愛情があるわけではありませんでした。
テストの結果が出たのは、一週間後。教室で一人ずつ、それぞれに対して採点された解答用紙が返されました。点数や順位が発表されることは本来ないのですが、ラファエラたちは興味津々で彼女に突っかかって、テストの点数を見せるように要求しました。
「はぁ? 何この酷い点数!? あんた、ちょっと頭悪過ぎじゃない? 頭に蛆虫でも湧いてないかどうか検査してもらったら!?」
「うわあ、どうやったらこんな点数取れるの!? お姉さま、こいつ、ある意味天才なんじゃない?」
いつも通り一番声がでかいのはラファエラとイルマでしたが、周りの連中も彼女を取り囲んで嘲笑を浴びせかけていました。しかし、偉そうにしているそいつらも決して成績が良いわけではなかったと思います。横目でちらりと点数が見えただけですが、少なくとも私の方が成績は良かったでしょう。
と言っても、それだけならまだ良かったのです。それから更に数週間後、新しく教育係の先生が来ることになったと先生から聞かされたのです。しかも、授業数も増えることになるかもしれないという話でした。
そのため、子供たちの間では彼女の成績があまりにも悪かったせいで、厳しい教育係の先生が来ることになったのだという話になりました。それは全くの事実無根ではなかったでしょうが、彼女だけの責任だとは思えませんでした。
でも、ラファエラたちは、そんな理由で彼女をいじめました。私が見たのは教室の隅っこで泥水を飲まされる彼女の姿だけです。泥水はわざわざ外から掬ってきたのでしょう。陰湿にも程があります。
私は見なかったことにして、すぐに寮へと戻ったので、何があったかははっきりとは分かりませんが、その後はもっと酷い仕打ちを受けたのだと思います。その日、部屋に戻ってきた彼女は全身泥塗れで、穴だらけの服装になっていました。
そして、その夜、私は眠れなくてベッドで横になっていました。しかし、彼女はどうやら私が完全に眠りについていると思ったらしく、こっそりと鞄を持って部屋を抜け出しました。
気になった私は、気付かれないようにそのあとをつけてみることにしました。彼女の姿は図書室へと吸い込まれていきました。
私は扉を少しだけ開けて、中の様子を窺うことにしました。テーブルに教科書とノートを広げて、鉛筆を手にした彼女が椅子に座っていました。ノートに何か文字を書こうとするたびに俯いて、何度目かのときに彼女はついに泣き出してしまいました。
さすがに見ていられなくなって、私はそっと近づき、持っていたハンカチを彼女に差し出しました。
「ほら、涙で濡れた顔がウザいんで、さっさと拭いてください」
「あ、ネルちゃん……。ごめんね、起こしちゃった?」
「んなこと、どうでもいいんですよ。ほら、さっさと泣き止む!」
無理やりハンカチを彼女の顔に押し当ててゴシゴシと顔を拭いてやりました。痛い痛いと言うのを無視していたので、なんだか本当にいじめているような気分になりました。
「さあ、これで綺麗になったんで、もう泣かないでくださいね」
「あ、ありがとう。ちょっと痛かったけど……。というか、ネルちゃんのハンカチ汚しちゃったね。あとで洗って返すよ」
「いいですよ、ハンカチくらい。代わりならいくらでもあります。あんたの使ったハンカチなんかもう使えませんし、あんたにあげますよ」
いちいち謝られるのもお礼を言われるのもめんどくさかったので、私は言い放ちました。こう言われれば、さすがに彼女も『それでも洗って返す』とは言えないようでした。
「それよりあんた、こんな時間に勉強ですか? 寝不足になって授業に集中できなくなったら本末転倒ですよ?」
「んん……、そうかもしれないけど、やっぱり眠れなくてさ。私が頭悪くて、みんなに迷惑掛けちゃったのは事実だし、少しでもいじめられなくなるようにって……」
「そんなに酷い成績だったんですか? ――今は教科書の問題集を解いているところでしたか。ちょっと見せてもらってもいいですか?」と尋ねただけで、何故かまたウルウルとした目になりやがりました。
ノートを見る前に、ちゃんと許可を得ようとしたところに感動したんだとか。そんなことでいちいち目を潤まされてめんどくさかったですが、同時にそれだけ彼女がつらい目に遭わされているのだと思いました。しかし、それにしても――、私は教科書とノートを見比べながら言いました。
「これはさすがに酷過ぎやしませんか。私も全く擁護できないんですが……。なんでL.E.862年に魔王を倒した英雄の名前がエヴァンスなんですか。どんだけ長生きしてるんですか」
「だって、有名な英雄って言ったら、他に思い出せなくて……」
「で、こっちのノートは数学ですか。えーっと、どれどれ、……まあ、そもそも公式から間違ってるってのはお約束ですよね」
「うぅ……、ごめんね、物覚えが悪くて……」
「私に謝られても困るんですが、少しくらいなら勉強見てあげましょうか。私も眠れなかったですし」
私がそう言うと、彼女はまた申し訳なさそうな顔をしたので、軽く睨みつけてやって、口を開かせませんでした。
それにしても考えてみれば、図書室は私たちにとっては安寧の場所と言えるような場所でした。ラファエラたちのようなタイプは偉そうにしているだけで、読書に興味があるような奴は少なかったので、静かに過ごせる場所だったのです。
そんな落ち着ける場所で二人で勉強しながら、一夜を過ごしました。同室しているというのに、あれだけ長くお喋りをしたのは初めてだったような気がします。普段は目を合わせるだけで、罪悪感に苛まれて、何も言えなくなっていましたから。
そして、数日後に予告通り新しい教育係の先生がやってきました。その先生は派手好きで嫌味なおばさんといった感じで、誰かがその先生に訊かれた問題を間違えるたびに、教室には激しい叱責の声が響きました。それ故、私を含めて誰からも嫌われるのに、さほど時間は掛かりませんでした。
彼女でさえも、あの先生は苦手だと言っていました。何度も補修を受けさせられたせいもあるかもしれませんが。――そして、あの事件が起きたのは、その教育係の先生が来てから3週間後のことでした。
あれはその日の昼休みの時間のことで、私はお昼ごはんを済ませて、少々お花を摘もうとして化粧室へ向かいました。そのとき、化粧室の出入り口の前で教育係の先生とすれ違ったので、軽く会釈をしてから、洗面台の前まで行きました。
――そこで見たのです。おそらく個室から出てきたばかりで、教育係の先生とは顔を合わせていないであろうあいつを。そして、その手にあったものは、教育係の先生が手を洗うときか化粧直しのときかに外したと思われる指輪がありました。
「それって……」
私はうっかり呟いてしまいましたが、何も気付かなかった振りをした方が得策だったかもしれません。あいつは驚いて、こちらに目を向けながらも、すぐに落ち着き払って指輪を自分のスカートのポケットに入れて、念を押すように言いました。
「…………誰にも言うんじゃないわよ。言ったらどうなるか、分かってるわね?」
「……私は何も見てませんし、何も知りませんよ」
「そうね、それでいいわ。お姉さまにも、このことは秘密なんだから」
そう言って、あいつは私の肩を突き飛ばすようにして、化粧室をあとにしました。そう、教育係の先生の指輪を盗んだのはラファエラ、――ではなく、イルマだったのです。
「そうだったのね、私はてっきり――」
先生は、私のここまでの話を聞いて、口に両手を当てて驚いたように言いました。
「ラファエラが犯人だと思っていましたか? 彼女はああ見えてビビりですから、イルマと同じ状況になったのなら、素直に指輪を返していたんじゃないでしょうか。
イルマは逆に、私が気味の悪いことを言っても動揺してはいなかったので、肝は据わっていたと思います」
しかし、いくら肝が据わっていたと言っても、次の展開にはイルマも動揺したようでした。順を追って説明しましょう。まず昼休み時間もそろそろ終わりを告げるという頃に、次の授業のために女子全員が教室に集まりました。
しかし、なかなか教育係の先生が現れず、何かあったのかとみんなが騒ぎ始めた頃、ようやく教育係の先生が飛び込んできました。そして、大切な備品が盗まれた可能性があるので全員の持ち物検査を行なうと言い出したのです。
指輪をなくしたと言うのは、自らの落ち度を認めることになるためにプライドが許さなかったのでしょうか。一つだけ言えるのは、女子の誰かが犯人だということだけは確信している様子だったということです。女子トイレで指輪を置きっ放しにしてしまったことは自覚していたのでしょう。
イルマの席は私のすぐ左隣だったので、私は横目で様子を窺いました。あいつは目を伏目がちにし、自分の両腕を抱いてガタガタと震えているようでした。指輪をどこか別の場所へ隠す時間も余裕もなかったんだなと、そのときの私は思いました。
一方、ラファエラは『めんどくさいことになったわね』という顔をするだけで、我関せずという様子でした。彼女も面食らったように目を白黒させるだけで、自分とは関係ない話だと思っていたようです。
この私だって、イルマがこっ酷く叱られて終わるだけだと思っていました。しかし、そうは問屋が卸さなかったのです。イルマは一瞬何かに気付いたかのような顔をして、ちらりと私の方を見ました。そして、何かを握り締めた右手を机の下から突き出してきたのです。
私は、なんのつもりかと一瞬思いましたが、すぐに意図に気付きました。イルマの右手に握られているのは教育係の先生の指輪で、それを受け取れと言っているのだと、――つまり、『お前が指輪を盗んだ犯人だということにしろ』と暗に伝えようとしているのだと気付いてしまったのです。
私は気付かなかった振りをして拒否をすることもできました。いえ、明確に拒否の意思を伝えることだってできたんです。だけど、もしここで指輪を受け取らなかったのなら、あとで八つ当たりをされることは明白でした。
私はそれが怖かった。教育係の先生に叱られることよりもイルマの報復の方が恐ろしかったんです。だって、私はあいつらにいじめられる子たちの姿を何度も見てきたから。どんなに酷い目に遭わされるのかを理解していたから。
だから、私は指輪を受け取ってしまったんです。途端にイルマはほっとした様子になりました。
教育係の先生は私から見て左の列の前から順番に一人ずつ持ち物検査をし始めました。机の中も鞄の中も、服のポケットの中も全部です。一人ずつ一人ずつ、全ての持ち物を机の上に並べさせたのです。
中には煙草や化粧道具など、教室に持ち込んではいけないものを見付けられて、酷く叱られるのではと身を強張らせる子もいましたが、教育係の先生は軽く叱り付ける振りはしていたものの、実際には指輪の行方が気になって仕方がないようでした。(そもそも私たちの国では18歳以上じゃないと、煙草を吸ってはいけないのですが……)
そうして、一人ずつ持ち物検査がされていき、イルマの番がやってきました。もちろんイルマの持ち物からは指輪は発見されませんでした。それ以外にも叱られるようなものは何も持ってなかったようです。
なので、教育係の先生も何も言うことはないといった様子で、イルマの後ろの席の子の持ち物検査を始めました。その子の持ち物検査が終われば、次は私の列の一番前です。
私はどうしようかと焦りました。既に持ち物検査が終わったイルマに指輪を付き返すという選択肢も考えましたが、おそらくあいつは拒否するだろうと思いました。
元々、つい魔が差してしまっただけで、どうしても指輪が欲しかったわけではなく、自分が犯人だとバレるリスクはなるべく排除したいはずだと、私は考えました。下手をすれば、私が不審な動きをしていると教育係の先生に告げ口していたかもしれません。
私としても、そんなリスクは排除したかった。イルマが私の動きに気付いたとしても、何も言わずに見逃すような方法で、指輪をどこかに隠せないかと考えたのです。
――そして、私は一つの方法を思いついてしまったのです。悪魔に取り付かれたかのように、そのままその方法を実行しました。
少し時間が経って、私の持ち物検査が行なわれるときがやってきました。私はまず、机の中のものを全て出しました。あったのは教科書とノートだけです。筆記用具は元々机の上に出していました。
次に鞄の中身も全て見せるように言われました。こちらもあったのは、教科書とノート、あとは財布、ハンカチ、ポケットティッシュなどで、いずれも持ち込みが許可されているものでした。
ですが、教育係の先生は納得しない様子で、私のズボンのポケットを手探りで調べ始めました。それはもう執拗に。教育係の先生からすれば、化粧室の入り口ですれ違った私が一番怪しかったのでしょう。他の子よりも念入りに調べられた気がします。だけど、結局どこからも指輪は出てこなかったのです。
それでもまだ納得できないという顔を露骨にされましたが、これ以上調べても無駄だと悟ったのでしょう。諦めて、私のうしろの子の持ち物検査を始めました。そう、いくら探しても見付かるわけはありませんでした。私は別の場所に指輪をこっそりと隠したのですから。
そして、ついに彼女の番になりました。彼女は言われるがままに机の中のものを全て取り出しましたが、もちろん指輪は見付かりませんでした。次に彼女は鞄の中の教科書やノートを勢いよく取り出そうとしました。
そのとき、彼女の鞄から、あるものが零れ落ちました。それは小さいものでしたが、確かに床にぶつかって、静まり返った教室中にコツンという音が響きました。
教育係の先生は、それを見て、聞いて、それは自分のものだと大声を上げましたが、一番驚いたのは彼女自身でしょう。
だって、全く身に覚えがなかったのですから。彼女の鞄から、それが、――指輪が出てくるなんてことは絶対にあり得ないはずだったのですから。
「な、何かの間違いです! 私は犯人じゃありません!」
信じられないという顔をしながらも、彼女は懸命に身の潔白を主張しました。しかし、必死の弁明も通じるはずのない状況でした。当然、教育係の先生も全く信じようとはせず、彼女の頬を強く叩きました。
「見苦しい言い訳など聞きたくありませんッ! じっくりとお話を致しますので、今すぐ執務室まで来るように!」
「ま、待ってください……。本当に違うんです!」
頬を打たれた痛みなど気にする余裕もない様子で、それでも彼女は懸命に懸命に、今にも泣き出しそうな顔をしながら、自分は無実だと主張し続けました。そして、彼女は一頻り叫んで、もはや言葉にならない悲鳴のような声を上げて、左隣の席に座る私の方を見ました。
その彼女の眼は『ネルちゃんは、私のこと信じてくれるよね……?』という期待と不安が入り混じっているように見えました。彼女は私に弁護を期待していたようなのです。だけど、私は彼女と目が合ってしまったことに動揺して、うっかり目を逸らしてしまったのです。
「ネル、ちゃん……?」
今度ははっきりと声に出して、彼女は言いました。私の様子に違和感を覚えたのでしょう。ただ見殺しにしようとしているだけではなく、別の何かを申し訳なく思っているように見えたのだと思います。
はっとして彼女は自分のうしろの席の子の顔を見ました。だけど、その子からは不審な様子を感じなかったのでしょう。だから、彼女は気付いてしまったんだと思います。
彼女の鞄は机の左側に掛けられていました。もしそこへ指輪を入れられるとしたら、彼女のうしろの席か、あるいは左隣の席か、それ以外には考えられなかったのです。そして、うしろの席の子が潔白であるとすると、残るのは左隣、――そう、私以外には考えられなかったのです。
「まさか……!?」
彼女は小さく呻いて、もう一度私の顔を見ました。そんなわけはないと思いたかったに決まっています。だけど、私が俯いていて、ただただ申し訳なさそうにしているのを見て、疑いを徐々に深めていったんだと思います。
そして、その疑いが決して誤りではないことを私は自分自身でよく分かっていました。だけど、私は、指輪を盗んだのは私ではないということだけはなんとか伝えられないかなどと、せせこましいことを考えるだけで、彼女を庇おうとは一切しませんでした。彼女に罪を被せたのは自分自身だと、よく分かっていたはずなのに。
「ごめんなさい、嘘を吐きました。私が先生の指輪を盗みました」
唐突に言ったのは彼女でした。そのときの心情は、もはや私には想像することすら許されないでしょう。
そんなことをしている暇があるのであれば、私は彼女に謝らなきゃいけなかったし、今でも罪が許されたわけではありません。私は今でも謝罪の言葉すら口にできなかった卑怯者のままなのです。
そのとき、騒ぎを聞きつけた先生がやって来ました。一体なんの騒ぎですかと教育係の先生に、事情を訊いた先生は言いました。
「何かの間違いではないのですか……? もしかしたら、誰かに脅されて嘘の告白をしているのかもしれませんし……」
先生は彼女が盗みを働くはずはないと思っていたようです。彼女がラファエラたちにいじめられている事実も察していたので、彼女が誰かに脅迫されている可能性を疑ったのでしょう。ですが、他ならぬ彼女がきっぱり「いいえ、私が一人でやったことです。他の誰も関係ありません」と言い放ったのです。
そのまま彼女は教育係の先生に執務室へと連れて行かれました。先生も慌てて、あとを追いかけました。その後、執務室でどんな話がされたのかは、私には分かりません。いえ、それどころか、私はその夜の彼女の行動すら知りませんでした。
その日の授業中には彼女は戻ってこなくて、私は浮かない足取りで部屋へ戻りました。そして、ベッドで布団を被って横になりました。布団で自分の顔を隠すようにして、彼女が戻ってきても知らん振りをしようとしていたのです。
気付いたら、本当に眠り扱けていて、いつもよりずっと早く目が覚めました。食事時間には誰かが起こしに来たかもしれませんが、私は現実逃避のために朝まで眠り続けたのです。
そのとき、既に早朝と言える時間でしたが、起床時間まではまだ余裕がありました。だから、彼女の姿は彼女のベッドの中になければならなかったのです。
しかし、そこには彼女はいませんでした。ひょっとしたら、またどこかで泣いているのかもしれないと思いましたが、探す気にはなれませんでした。探したところで、一体何を話せばいいのか分からなかったのです。異変に気付くには30分ほど掛かりました。
「あの子の持ち物が一つもない……?」
彼女は寝るときはいつもベッドの横に鞄を置いていました。それが見付からなかったのです。どこかに行っているとしても、鞄まで持って行く必要はないだろうと思いました。
しかし、部屋中探しても見付からず、そこでようやく私は、私と彼女のベッドの間にある化粧台の上に一枚のメモ用紙があることに気付いたのです。
「ごめんね、ネルちゃん。今までありがとう」
メモに書かれていたのは、それだけです。私を責める言葉は一言もなく、事情も一切書かれてなく、一体何が『ごめんね』なのか、一体何が『ありがとう』なのか、それすらも分からず、私は呆然とするしかありませんでした。
私にできるのは「だから、謝られるのも感謝されるのもお礼を言われるのもめんどくさいんですよ……」と悪態をつくことだけでした。そうして、彼女は私の前から姿を消したのです。
数日後、私は朝の食事時間を終えて、廊下を歩いていたところを先生に呼び止められました。今すぐ執務室に来て欲しいと言われ、私は彼女に罪を被せたことが先生にバレたのではないかと不安になりましたが、執務室で聞かされた話はそんな話ではありませんでした。
「ポプラちゃん、突然姿を消してしまったでしょう? 私も驚いたし、心配していたんですよ。でも、今朝ね、彼女から私宛の手紙が届いたの。
『私は今、ある宿屋で寝泊りしながら、仕事を探しています。孤児院で貰ったお小遣いがなくなる前に見付かるかは不安ですけど、自分でなんとかするから心配しないでください。
あと、できればネルちゃんにもこのことを伝えてください。きっと心配してくれているだろうから』って」
私は先生に、そう聞かされました。正直、『宿屋で寝泊りしている』という部分は疑わしかったです。彼女は無駄遣いは一切しない性格でしたが、孤児院で貰えるお小遣いなんて微々たるものですし、自分の持ち物を売り払ったとしても、たいしたお金は持っていなかったはずです。
だから、多分私たちを安心させるための嘘で、本当は路上生活をしながらで、食べるものにすら困っているのではないかと思いました。
彼女をそんな状況に追い込んだのは、どう考えても私のせいです。ラファエラたちに酷くいじめられていたとしても、孤児院だけが彼女の居場所だったんです。
だけど、窃盗犯だと疑われたまま、孤児院に留まることはどうしても我慢ならなかった。だから、私にも気付かれないように、夜中のうちに孤児院を抜け出したのでしょう。ひょっとしたら、自分は何も悪いことをしていないということだけが彼女の誇りだったのかもしれません。
それから私が14歳になるまでの間、彼女からの手紙は何度も送られてきました。決して私宛とは書かず、先生宛てとしているところは気になりましたが、無事に仕事も見つかったようで安心しました。
だけど、彼女がなんの仕事をしているのかまでは分からなかったし、居場所さえも全く分かりませんでした。何か返信しようと思っても、これではお手上げです。彼女からの手紙は一方通行なものでした。
「でも、先生。私が14歳の誕生日に孤児院を出てからも、彼女からの手紙は届いていますよね? その中に、彼女の現在の居場所が分かるようなことは書かれていませんか?」
これが今日、私が孤児院を訪れた理由でした。私も孤児院を出ることができる年齢になってからは一度も先生に会っていなかったし、連絡の取りようがない住所不定の旅商人です。だから、彼女からの手紙に何か重大なことが書かれていても、私はそれを知る術がなかったのです。
「ポプラちゃんは今、マルヴィラという町で踊り子をやっているわ」
「踊り子、……ですか?」
私は彼女の居場所が分かったことよりも、そちらの方に面食らってしまいました。
「あなたの言う通り、ポプラちゃんからの連絡はずっと続いています。あなたが孤児院を出てすぐに、『実は今、とある劇場で雑用の仕事をしているんです』と手紙が届いたのよ。
そこには店の名前も住所も書かれていました。安定した生活が送れるようになるまでは、劇場で働いていることは伏せていた方が安心してもらえると考えていたみたいね。
それから、こうも書かれていたわ。『16歳になったら踊り子として働けるようになるから、仕事の空き時間には踊りの練習もしています』と。その言葉の通り、今は踊り子として生計を立てているようなの」
私は劇場の名前と住所を先生から聞き、先生にお礼を言って、転送装置で早速行ってみることにしました。あのおとなしい彼女が踊り子だなんて、にわかには信じがたいことでしたが、自分の目で確かめないことには何も始まらないと思ったんです。
マルヴィラという町は、ノーナ村とは全然違う雰囲気でした。良く言えば華やかで活気がある、悪く言えば治安が悪そうな遊び人の町といった感じです。酒場やカジノ、風俗のお店、そんなお店がいくつも立ち並ぶ大通りから少し外れた裏通りに、その劇場の入り口はありました。
劇場があるのは地下1階で、なんというか隠れたお店という印象を受けました。地下への階段をまっすぐ降りると、そのまま正面に扉がありました。両脇には壁があり、すぐうしろには降りてきた階段が、物理的に考えて引いて開けるタイプの扉ではないと分かるほど、狭い入り口でした。
扉を押し開けて入ると、左にはカウンターが、右を見ればカーテンのような赤い幕がありました。中央のあたりをめくれば、中に入れそうな様子でした。実際、中からは観客の熱い声援と思われる声が響いてきました。
「んあ? お客さん? 女性は3000Gね」
ボサボサの髪で、無精髭の中年親父(――おそらく店長です)がカウンターで気だるそうに言いました。商売をやる気があるのかと疑いたくなりましたが、そんなことを言っても仕方がありません。嫌悪感を悟られないように、なるべく普通のトーンで訊ねました。
「あの、ポプラという子がここで踊り子やってるって聞いて来たんですけど、今日は出番ありますか?」
「ポプラちゃん? ああ、ポップちゃんね。何? 本名知ってるってことは、お客さん、ポップちゃんの友達?」
どうやら彼女はお店ではポップという名前を名乗っているようでした。こういうお店では、そういうものかと一人で納得しながら、私は応えました。
「まあ……、そんなところです」
正直言って、友達だなんて名乗る資格は私にはないのだけど。
「だったら、少しここで待っててくれればいいよ。今やってる公演にも参加してるけど、次の公演でも出番あるから。というか、ここのところほぼ毎日休まずやってるんだけどね」
「彼女、人気あるんですか?」
私は財布を四次元袋から取り出しながら訊ねました。
「人気はあるよ。マリンちゃんにはまだ敵わないけどね」
マリンちゃん(――おそらくこれも偽名なんでしょうけど)という人がこのお店のNo.1なのかと、私は3000Gを中年親父に手渡しながら思いました。
これ以上、こんな中年親父と話をしていても仕方がないので、私はおとなしくロビーで次の公演を待つことにしました。
待ってる間に、何人かお客さんが私と同じようにやってきましたが、中にはカップルもいました。女性一人だと、さすがに浮くかもしれないなとは思っていましたが、男性客しかいないということもないようでした。
一際大きな歓声と拍手が聞こえてきたと思ったら、しばらくして赤い幕の中からお客さんが続々と出てきました。その数は20人程度。演劇の舞台との比較してですが、多い人数とは言えないでしょう。かと言って、全く儲かっていないということもないようでした。
「じゃあ、もう中入っていいよ」と中年親父に促され、私は幕を開けました。すぐ目の前には観客席と舞台があり、本当に幕一枚で仕切りを作っているだけなんだと思いました。
しかも観客席と言っても、そんなに立派なものではなくて丸型のパイプ椅子がいくつも並べてあるだけのようでした。舞台の照明もチープな感じで、こんなので盛り上がるものなのかと不安になるほどでした。
特に指定席があるというわけでもないようだったので、私はやや右寄りで後ろから2番目の席を選びました。一番うしろだと、逆に目立ってしまうと思ったからです。正直、彼女の方に気付かれたとき、どういう反応をすれば良いか分からなかったのです。
正直言って、自分でも女々しい考えだと思います。観客席に照明が当てられることはないだろうとは言え、これだけの近距離で気付かれないわけはないのに。彼女に謝るために来たはずなのに。それなのに、彼女から隠れようだなんて。
しばらくして、舞台に照明が当てられ、陽気な音楽が鳴り響く中、舞台の袖から何人か踊り子たちが出てきました。確かにその中に彼女はいました。だけど、私の知ってる彼女とは印象が全く違いました。
ぺったんこだったはずの胸も女性らしくなだらかな曲線を描いていて、短かった髪もサイドテールにしても肩に届くほどになっていて、何よりも地味な服ばかり着ていた彼女が肩やおへそや太ももを露出するような格好をしていたことに驚きました。
ひょっとしたら、彼女がここにいるということを聞いていなかったなら、彼女だとは分からなかったかもしれません。よくよく見てみれば、顔には若干の幼さが残っていて、全く面影がないというわけではないのですが。
――正直、見ているのがつらかったです。あのおとなしかった彼女が、まるでストリップショーのように見世物になっているという現実を受け入れるのは、私にとっては難しいことでした。
だから、私は俯いてしまって、舞台から彼女が降りてきたことに気が付きませんでした。今から思えば、観客席をぐるりと回るというファンサービスのようなものだったんでしょう。
まるでテストのときに先生が生徒の見回りをして、私の席までやってきたかのような距離まで来て、私は俯いていた顔を起こし、ようやく彼女と目が合いました。
「…………ネルちゃん?」
多分彼女は目が合ってすぐ気が付いたんだと思います。はっとして、踊る足も止めてしばらくこちらを見ていましたから。だけど、すぐには確信が持てなかったし、仕事中ということもあって声をかけていいのか迷ったのでしょう。
一方、私はというと、――迷わず逃げました。安物の椅子を蹴り飛ばすかのようにして、私は劇場をあとにしました。
また、彼女から目を逸らしてしまった。そんな後悔が胸を衝きましたが、それでも私は再び劇場に戻ろうとはしませんでした。私は怖かったんです。彼女の口から、どんな罵倒の言葉が出てくるだろうかと。
冷静に考えれば、少なくともあの場では彼女は他人の振りをするだけだったと思います。だけど、もしかしたら言葉じゃなくても目で何かを訴えかけてくるかもしれない。
その目の中に少しでも侮蔑の気持ちが含まれていたのなら、私はそれだけで泣き出してしまっていたかもしれません。
それくらい覚悟していて当然なのに。許されないことをしてしまったのだから、当然の報いなのに。どうして私はこんなにも卑怯者なんでしょうか。
そして今はマルヴィラの宿屋にいて、こんな懺悔のような日記を書いています。――明日、もう一度会いに行こう。私にできることはそれしかありません。
一晩考えて気持ちを落ち着ければ、きっと次は大丈夫ですから。とりあえず外へ出て、少し風に当たってきましょう。今は冷静さが欲しいです。
ポプラちゃんが宿屋のロビーにいました。外へ出ようとしたときに、受付の人と話をしているところを発見しました。踊り子の服から普段着に着替えているようでしたが、私はすぐに気付きました。何故こんなところに、――と思う間もなく、彼女もこちらに気付いて声を上げました。
「ネルちゃん、やっと見つけた!」
まだ気持ちの整理がついてない、――私は混乱したまま部屋へ戻ろうと駆け出してしまいました。
「待ってよ、ネルちゃん! どうして逃げるの!?」
すかさず彼女も追いかけてきて、壁に追いやられる形になりました。肩を掴まれ、振り向かされて、私は観念する他ありませんでした。
「ねえ、ネルちゃん。ネルちゃんだよね。私に会いに来てくれたんじゃないの? 偶然じゃないよね? なのに、どうして逃げるの?」
「……ごめんなさい」
絞るような声で私は謝罪の言葉を口にしました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。私の、私のせいでっ……!」
「いや、いきなり謝られても意味分かんないんだけど……」
泣きじゃくる私を前にして、ポプラちゃんはただただ困惑した表情を浮かべるだけでした。本当に、何が何やら分からないという感じでした。
「だって、あなたも覚えてるでしょ……? ううん、忘れてるはずがない……。私が3年前に何をしたのか、あなただって分かってるはず……。
私のせいで、あなたは孤児院にいられなくなって、まともな教育もちゃんと受けられないまま、働かなきゃいけないようになった。だから、踊り子なんていう卑しい職業を選ぶしかなくて、それは全て私のせいで、だから――」
パシンッ。――私はポプラちゃんに平手打ちをされました。見れば、ポプラちゃんの顔は困惑した表情から怒りの表情へと変わっていました。
「ごめんなさい。やっぱり怒ってるよね……。いいよ、私はいくら殴られても仕方ないことをしたから。好きなだけ殴っていいよ。あなたの気が済むまで――」
「違うよッ! 私が怒ってるのはそんなことじゃない。私が怒ってるのは、ネルちゃんが踊り子を卑しい職業だって言ったことだよ!
謝るんだったら、そのことについて謝って! 私は好きでこの仕事を選んだの。なんにも知らないネルちゃんに卑しいだなんて言われたくない!」
私は、はっとさせられました。お店の安っぽい雰囲気を見てしまったせいもあるでしょう。しかし、私の中に踊り子という職業に対する軽蔑の気持ちがあったことに変わりはありません。私は無意識のうちにポプラちゃんを傷付ける一言を言ってしまったのです。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。なんにも知らないで勝手なこと言って。……でも、やっぱり怒ってるよね? 私があなたに対してしたことについて」
「怒ってないよ。あの日のことについては、なんにも怒ってない。むしろ今では感謝してるくらいかな。孤児院から逃げ出すことができるきっかけを与えてくれてさ。
私はもっと早く逃げちゃってよかった。もちろん逃げる以外にも解決する方法はあったかもしれないけど、ずっとずっと我慢する必要なんてなかったんだ」
「本当に……? だって、私はあなたのことを裏切っちゃったんだよ? あの孤児院の中で、唯一友達になれそうだったあなたのことを。
私だって本当はずっとあなたと友達になりたかったのに。それなのに、あなたのことを見殺しにし続けて、しかも最後にはあんな酷いことを――」
「全部仕方がないことだったんだよ。ネルちゃんは別に悪くない。悪かったのは、弱かったあの頃の私。ネルちゃんのことを悪く思ったことなんてないよ。一度だって」
「でも……」
「私の言葉が信じられない? だったら、証拠を見せてあげようか」
ポプラちゃんは悪戯っぽく笑いました。何故あんな酷いことをした私の前で、こんな顔ができるのかと私は信じられない気持ちでいっぱいでした。私はポプラちゃんに憎々しい顔で睨まれるものだとばかり思っていたのです。
だけど、そんな彼女がポケットから取り出したものを見て、私はポプラちゃんに恨まれていると思っていたことさえ、失礼なことだったと気付かされたのです。
「ほら、覚えてるよね。このハンカチ、ネルちゃんのだよ」
「なんで……!? なんで今でもそんなもの持ってるの!?」
「もしもネルちゃんにもう一度会えたなら、あのときはありがとうって言って、返してあげたかったから。だから、私はずっとこのハンカチを身につけていたの。怒ってる気持ちが少しでもあるなら、そんなことできないと思わない?」
私は閉口するしかありませんでした。なんでポプラちゃんはこんなにも純粋なのか。汚れきった私の心とは全然違う。私は自分の小ささを思い知らされました。
「というか、ネルちゃん! 私、ずっとネルちゃんと連絡取りたかったんだよ!? なのに、先生に訊いても、旅商人になったから、今どこにいるのかも分からないって。
そもそもの話、ネルちゃんと私が連絡取りあってることがバレて、ネルちゃんがいじめられるきっかけになることが万一にもないようにって、ずっと先生宛ということにしてた私も悪いかもしれないけど……」
「あ、あはは、それについてもごめんなさい」
私は涙を拭きながら、少しだけ笑いました。凄く嬉しかったんです。ポプラちゃんがあの日のことについて何も怒ってなかったんだと分かって。なのに、こんなくだらない、――なんて言ったら、またポプラちゃんに怒られそうですけど、普通の友達みたいなことを言ってくれて。
「あ、ハンカチ使う? さっき洗ったばかりだから汚くないよ」
「じゃあ、そうさせてもらいます」
「うん、あのときは本当にありがとうね、ネルちゃん」
そう言って、ポプラちゃんは私にハンカチを返してくれました。私はそれで涙を拭いてから、ポプラちゃんに訊ねました。
「そういえば、どうして私がここにいるって分かったの?」
「え? それは、走り回って探したからだよ。絶対この町の宿屋のどこかにいるはずだと思って、一件ずつ宿屋を訊ねて回って」
「あ、ごめんね。そんな大変なことさせて――」
「もうっ、そんなにいちいち謝らなくていいよ。私たち、友達でしょ?」
ねっと言って、彼女は見蕩れてしまいそうになるような笑顔になりました。そうでした、いちいち謝られるのはウザくて仕方がないことなんでした。
「友達でいいのかな」と不安な気持ちを抑えられないまま、私は呟きました。
「もちろん。違うって言われる方がショックだな」
「また会いに来てもいいのかな」
「いつでも歓迎するよ。私ね、今お店ではNo.2って言われてて、凄く輝いてるの。ネルちゃん、今日はあんまり私の踊り見てなかったでしょ。
良かったら、また明日にでも来てくれない? ネルちゃんにも見て欲しいな。頑張ってる私の姿」
「いいのかな。本当に」
「いいんだよ。友達だから。――そうだ、いっそのこと、今日は私の家に泊まらない? 宿屋のキャンセル代が掛かるなら、私が払うよ。明日の公演の料金も、私が店長に言って、ただにしてもらうし」
まるで夢のようでした。断る理由など、もちろんありません。とんとん拍子に話が決まって、私は今ポプラちゃんの家にいます。本当に会いに来て良かったです。
――っと、そろそろ寝る時間ですね。あの頃みたいに、ポプラちゃんと一緒に。私は今、本当に幸せな気持ちでいっぱいです。それでは、おやすみなさい。
L.E.1012年 9月15日
「なんだかこうしていると、孤児院で生活してた頃に戻ったみたいだね」と、一つのベッドで横になりながら、ポプラちゃんは呟きました。
「あのときは、それぞれ違うベッドだったけどね。今はちょっと狭いです」
「だからこそ、こうして近くでお互いの体温を感じられるんじゃない」
「ちょ、ちょっと! あんまり引っ付かないでください。私、そっちの趣味はないよ!」
私は抱きついてくるポプラちゃんを、なんとか引き剥がそうとしましたが、それは照れ隠しなだけで、別に嫌な気持ちはしませんでした。
いや、本当に、私は同性愛者ではないはずなんですが、ポプラちゃんの素敵な笑顔を見ると、その自信が揺らぐというのも確かです。
「じゃあ、どんな男性がタイプなの?」
「そっちの方向に話を持っていきますか……。まあ、少なくとも、あなたのお店の髭親父はなしです」
「あはは、店長ね。あれでも悪い人じゃないんだよ。たまに、手癖の悪いおじさまがお客さんとして来るんだけど、そういうときはちゃんと注意してくれるしね。
ネルちゃんが思ってるよりもずっと健全なお店だよ、あそこは」
人は見た目に寄らないということでしょうか。ついでに、お店も見た雰囲気だけで判断するのは間違いなのかもしれません。
「あ、それとね、私、将来は自分でお店を経営したいと思ってるんだ。踊り子は若さがうりだから、そんなに長くは続けられないと思うから。まだまだ先の話だけどね」
「私も似たようなこと考えてるかも。ずっと旅商人を続ける気はないなあ。世界中回って見聞を広めたら、ちゃんとした自分のお店を構えたいと思ってるんだ」
そんな感じで、お互いの夢を語り合いながら、私たちは眠りにつきました。お互いの夢が叶う頃になっても、友達でいられると信じながら。
翌朝、――つまり今日の朝、私はポプラちゃんに起こされました。『きゃっ、新婚夫婦みたい』などと、寝惚けた頭で考えながら、私は眠い目を擦りました。
「私は公演の準備があるから早めにお店に行くけど、あとから絶対来てね。家の鍵は貸しておくから、ちゃんと締めておいてね」
ポプラちゃんが作った朝食を二人で食べているときに、そう言われたので、私は少し遅れて家を出ました。わくわくとした気持ちで、足取りも軽かったです。
「よう、来たか。話はポップちゃんから聞いてるよ。話の通り今日は無料でいいよ。昨日貰ったお金は返さないがな。はっはっは」
私が店に入るなり、無精髭の店長さんがボサボサ頭をかきながら言いました。見た目の印象は相変わらず最悪ですけど、ポプラちゃんが悪い人じゃないと言うのなら、そうなんでしょう。
嫌悪感はもうありません。そもそも嫌悪感の理由は見た目のせいじゃなくて、ポプラちゃんを見世物にしている奴だという思い込みがあったせいだったのかもしれません。私はお礼を言って、赤い幕をくぐりました。
観客の数は、まだ朝だからか、昨日よりも少なかったです。それでも数人の観客がぽつぽつといたので、固定客からの人気はあるのかもしれません。
私は自分が舞台で踊るわけでもないのに、緊張しながらポプラちゃんが出てくるのを待ちました。輝く彼女の姿をちゃんと目に焼き付けるために、私も真剣になって見なきゃならないと思いました。
舞台を照らす証明と陽気な音楽ともに、ポプラちゃんと数人の踊り子が出てきました。観客席からは、若干の歓声が上がりました。お客さんたちも踊り子たちと一緒になって、雰囲気を盛り上げようとしているのかもしれないと思って、私も大声で叫ぶことにしました。
「ポップちゃーん! 今日も可愛いよー! P・O・P、P・O・P、ポップちゃん愛してるよ、結婚してー!」
私はポプラちゃんに愛の声援を送ろうと、必死に声を張り上げました。スタンディングオベーションで、応援の気持ちを表現しようとしました。誰よりも大声で、誰よりも激しく、一生懸命に。そして、その結果、…………店長さんに怒られました。
「あのね? 応援するのはいいけど、あくまで主役は踊り子たちなんだし、他のお客さんの迷惑になっちゃうのは困るんだよね」
「はい、ごめんなさい……」
そんなトラブルがありながらも(――私が起こしたトラブルですが)、無事に踊りも終わり、ポプラちゃんの休憩時間になりましたので、店の外で別れの挨拶をすることにしました。
「ネルちゃん、もうこの町から出て行っちゃうんだね」
「これからはちょくちょく会いに来るよ。メモに携帯の番号書いたから、いつでも電話して。軽くご飯食べに行くとかでもいいから」
「うん。必ず電話するよ。それじゃ、またね」
「はい、またね。私も旅商人として頑張るから、ポプラちゃんも踊り子として頑張ってね」
私はポプラちゃんに背中を向けて歩き始めました。うしろ髪を引かれる気持ちもありましたが、これからはいつだって会えるんです。だから、これは未来への一歩。明日へ向かうための大事な一歩です。
――だけど、私はポプラちゃんと会ったことで、少しだけ昔の自分に戻ったような気もしました。だから、もう少しだけ少女のままでいてもいいですよね。少女としての成長記録は、まだしばらく続けようと思います。大人になるのだって、いつでもできるんですから。