第16杯 芳しい薫りへのお誘い
「まず、これを炒ってくれないか?」
「あっはい」
藤江弥生は哲太さんから、フライパンを受け取ると、哲太さんと同じ様に動かした。フライパンの中にはコーヒー豆が入っていて、それが少しずつ色づいてきているのが見える。それと焙煎したコーヒー豆の薫りがCafeに漂っているのだった。
あたしがその芳しい香りに酔いしれると、大家さんは眉間に浅くしわをつくっていた。そして、少しだけ強い口調であたしに言葉を投げかけた。
「董子ちゃん、手が止まっているよ?」
大家さんがそう言って、あたしの止まった手を動かすように、自分の手を動かしてあたしをうながした。それをみて、止まっていた手をまた動かす。
「あっつい。コーヒー豆の炒った香りがよくって」
誰ともなく言った言葉に、横に立っていた弥生があたしの意見に賛同してくれる。
「ホントにいい薫りだよね」
「うん。すごくあたし好きなんだよね、このコーヒー豆の薫り」
あたしは自分で炒ったコーヒー豆の薫りをまた鼻で味わうのだった。
そんな訳で今、あたし達ふたりは大家さんのご厚意でコーヒー作りのレッスンを受けている。そう、Cafeのカウンターの内側に今日から特別出入り自由な身分になったのだ。
あれから大学が終わると、あたし達は接客の研修も兼ねてバイトもさせてもらう事になった。
そして、今現在、ふたりから色々教わってるいるところで、あたしには大家さんが、弥生には哲太さんが色々教えてくれている。
あたしはひとり、奇妙な感覚に襲われていた。自分はいつもならカウンターの外でコーヒーを飲む側なんだけど、今カウンターの内側にいる事で、自分でもわからないけど、ものすごくハイテンションになっている。
まるで、初めて大人のお手伝いを許された子供のような感覚。そして、大人から大人として認められたような、そんな感覚を感じるのだった。
初めての経験が、あたしを小さな子供へと戻していくような――――――それは、とても不思議な感覚。そんな感覚に浸っていると、また大家さんに注意を受けるのだった。
「ほらっまた手が止まっているよ、董子ちゃん」
大家さんの声で目の前のフライパンの映像が急に鮮明に見える。
「うわっコーヒー豆が少し黒い」
「だから、少しでも手を止めちゃダメなんだよ。炒り始めたら手を止めないで集中してやりなさい」
「はい――――――すみません」
「まぁ初めてだからね、仕方がないよ。もう一回始めからやり直そうかね」
そう言いながら、フライパンにある黒っぽくなった豆達を丁寧によけると、麻の袋に入ったコーヒー豆を、やさしくすくってもう一度フライパンにのせてくれる。