第8杯 ③
岡島ますみは自分を一度落ち着かせようと、息を吸い込んだ。
そして、その効果が出たのか、言葉が鮮明に聞える。少し離れたあたし達にも聞き取れるくらいだった。
「なぜ、ここに?」
「君と話をちゃんとしたいから、来たんだ」
「ここへは来ないでって言ったわよね」
「……ああ」
「お互いのプライベートな領域には、踏み込まない、約束の、はず」
「ああ――――でも、今はここにいる」
「あなたとは、いい解決策は話あえない」
神経がまいっている様子のマス姉は、テーブルから離れ去ろうとする。その時、男性が引きとめた。
「愛しているんだ、ますみ」
「久賀さん……放して」
「いや、放さない。君が僕の話を聞くまでは」
マス姉に“久賀さん”と呼ばれた男性は、力強く彼女の腕を握ったまま、放さない。黙ったまま、何も言わずふたりは見つめ合うのだった。
「あれ、見ろよ」
洋輔がそう言って指さしたのは、今にでもカウンターを飛び越えそうな哲太さんだった。
あたしの目から見ても、彼はふたりの様子に、動揺しきっている。
哲太さんもあたし達も、みんなふたりの様子を見ているしかなかった。
「ますみ、座ってくれないか?」
“久賀さん”は冷静にマス姉を席にうながし、座らせる。
「コレ、忘れたろ」
そう言って取り出したのは女性物の雨傘。
無言でそれを受け取るマス姉。
「頼むから、そんな態度を取らないでくれないか?」
「この状況でどんな態度をしろって、言うの?」
「普通のだよ、冷静に話そう」
「今までどれだけ、あたしがあなたに……」
マス姉の言葉が途切れ、それ以上話を続けるのに戸惑っている様子。
戸惑いは“久賀さん”を想ってなのか、この場にあたしたちがいるかなのかはわからない。
冷静な表情の“久賀さん”は、そんな想いを無視して、話の先をうながす。
「あなたに、その先は?」
「何度も、辛いおもいをさせられてきた」
「もうわかった……よ」
「あなたはあたしを愛してない」
少しずつふたりの感情がたかぶるのが、あたし達にもわかった。ふたりの声がどんどん大きくなっている。
「どうして、わかってくれないんだ」
「じゃなきゃ、こんなにあたしを苦しめられる訳ない」
「今までうまくやってこれたじゃないか」
「よしてよ――――もう、疲れたのよ」
「なぜ、今になってなんだ?」
「あたしも、自分の人生を歩きたいの」
「もう、歩いているじゃないか?」
「いいえ、あたしがあなたと一緒にいる限り無理よ」
「君なしで生きていけと……」
「今更、よくもそんな事をヌケヌケと言えるわね」
久賀さんに対して嫌悪感が増したマス姉。涙ぐむ目から涙を流さないように必死にこらえている。
ふたりの今の会話だけじゃ、あたしたちには、事情がまったくのみ込めないのだった。