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婚約者が茶会に恋人を連れてきたので、結婚させてあげました

作者: 星森 永羽
掲載日:2026/03/18




 エーベルハルト公爵邸の庭は広大で、春先の陽光を受けて淡く輝いていた。


 整えられた芝の上を、執事に案内されながら歩く。


 初めて婚約者と茶会する。


 ──期待と不安を胸に。



 ガゼボには、赤みのある栗色の髪をした婚約者ジーク・フォン・エーベルハルト公爵令息。

 幼さの抜けない甘めの顔をしている。


 薔薇色の金髪を煌めかせたエリザベート王女と並んで座っていた。


 なぜ王女が、ここにいるのか知らされていない。


 私はとりあえず礼を尽くすべきだと判断し、スカートの裾をつまんでカーテシーをした。


 22……45……沈黙だけが流れる。


 声がかからない。

 顔を上げよ、と言われない。


 いくら王女殿下とはいえ、これは横暴だ。


 彼女は私たちと同じ今年16歳──成人している。

 子供でもあり得ないのに。


 私は静かに息を吸い、踵を返そうとした。


「顔をあげて」


 王女の声に私は、ゆっくりと顔を上げ、礼儀正しく言葉を述べた。


「ハーシェル伯爵が長女フェリシアが、王国の星である王女殿下に挨拶いたします」


 エリザベートは、つまらなそうに一言だけ返した。


「そう」


 それきり沈黙。


 ジークも王女も、私に何も言わない。

 視線すら向けない。


 私は立ったまま、30秒ほど待った。

 やはり何も起きない。


 ならば、こちらも礼を尽くす必要はない。

 無言で立ち去ろうとした瞬間、王女が声を荒げた。


「ちょっと! どこ行くのよ!」


 私は振り返り、冷静に告げた。


「この件は、正式に抗議させていただきます。

 手続きがありますので、失礼」


 そう言って、踵を返した。


「無視するなんて許さないわよ!」


 喚き散らす声が響くが、私は一切耳を貸さなかった。


 王女が何を言おうと、礼を尽くすべき場面はすでに終わっている。


 そのとき、背後から荒い足音が近づき、肩を掴まれた。

 細身の体つきのくせに、妙に力だけは強い。

 振り返らずとも、赤みのある栗色の髪が視界の端に揺れた。


「待てよ、フェリシア!

 殿下の前で無礼だろう!」


 私は一瞬だけ息を吸い、掴まれた肩の位置を確認した。


 次の瞬間、体をひねり、彼の腕を逆方向にねじり上げる。

 抵抗する暇も与えず、関節に正確な力を加えた。


 鈍い音がして、ジークの肩が外れた。


「っ……あ、あああああああああっ!」


 悲鳴が庭に響き渡る。


 私は手を離し、スカートを整えた。


「触れないでいただけます? 不快です」


 それだけ告げて、私はエーベルハルト邸を後にした。





 夕暮れの光が差し込む食堂で、私は父と向かい合って夕食を取っていた。


 父は騎士らしい鋭い眼差しをしているが、私に向ける視線は穏やかだ。


 私は今日の出来事を報告した。


 父はナイフとフォークを置き、即答した。


「よし、婚約解消しよう」


 あまりにも軽い口調に、私は思わず眉を上げた。


「そんなに簡単にできるの?」


「うーん、できなければジークを殺せばいいだろう」


 父は平然としている。

 祖父は王宮騎士団長で、父もその後を継ぐはずだった。


 だが、エーベルハルト公爵が「どうしても」と頭を下げて頼み込んだため、父は公爵家の騎士団長になった。


 そこへ、義兄ミハイルが静かに口を挟んだ。

 蜂蜜色の光沢を帯びた金髪が揺れ、琥珀色の瞳が柔らかく光る。

 整った顔立ちに、落ち着いた気品が宿っている。


「何を言うのです」


 父は肩をすくめた。


「止めるな。殺せば婚約はなくなる」


「そうではありません。

 殺したら、それで終わりではないですか。

 それよりも確実にエーベルハルト家を潰すのです。

 そうすれば2度と煩わされません」


 ミハイルの声は穏やかだが、言葉は鋭い。


 私の家には、殺人そのものを止める発想の人はいない。


 父は興味深そうに、黒い眉を上げた。


「ほう? どうやって?」


「まず彼らの横暴を、多くの人に目撃させねばなりません」


 父は即座に反論した。


「そのためにはフェリシアが、嫌な思いをしなければならないじゃないか」


「中途半端に敵対すると家が断絶になります。

 エーベルハルト公爵は今ちからがありませんが、王女と仲がいいなら王家が介入してくるでしょう」


 ミハイルの言葉は冷静で、的確だった。


 父は腕を組んだ。


「ふむ……それも、そうだな。

 しかし向こうが婚約を打診してきたのだから、もう出勤したくないな」


 ミハイルが穏やかな声で口を開いた。


「辞める前にエーベルハルト家の不正や悪評を集めてください。

 せっかく敵地にいるんですから、それを使わない手はありません」


 父は金の目を細め、ゆっくりとうなずいた。


「なるほど。わかった、抗議に留める」


 その声には、すでに戦略を理解した者の落ち着きがあった。






 翌日。私はサロンで父とミハイルと共に、茶を飲んでいた。


 陽光が差し込み、白いレースのカーテンが揺れる。


 父がカップを置き、ため息をついた。


「王家と公爵家が謝ってきたのだが」


 ミハイルが眉を寄せた。


「どうしたんです?」


「どうしても『婚約破棄はやめてくれ』とな。

 なぜかと聞くと、王女とジークを引き離すには、うちと婚約しているのがいいからと」


 ミハイルの琥珀色の瞳が大きく見開かれた。


「バカな! そんな理由で婚約を打診してきたのですか!」


 父は肩をすくめ、王女とジークがなぜ婚約できないのかを説明した。


 ──彼らは、幼馴染で相思相愛だった。


 2人は婚約を希望していたが、王女の下には一回りも離れた王子が1人いるだけ。

 ジークも妹が2人という兄弟構成。


 つまり互いに跡取りである。


 仮にエーベルハルト公爵を妹が継ぐにしても、ジークが王配になるには家の力が弱い。


 エーベルハルト家は没落しかけているのだ。


 ミハイルは深く息を吐いた。


「身勝手じゃないですか」


「まあ、うちからの持参金も目当てだろう。貧窮してるからな」


 父の言葉に、私は思わず口を開いた。


「だったら王女の側室になれば?」


 父は苦笑した。


「すると正室は、公爵家か王族出身に限られる。

 年が近くて婚約者がいない公爵家か王家の者などいないだろう」


「そっか」


 私はカップを持ち直し、静かに茶を口に含んだ。

 渋みが舌に広がる。


 ミハイルが低くつぶやいた。


「王家に止められると婚約破棄しにくいな……」


 貴族の婚姻には王の許可がいる。


 ジーク以外の伴侶は認めないと言われたら、一生結婚できない。


 ミハイルは形のいい瞳を細め、静かに言った。


「この先、向こうがどう出るかわかりませんが──結婚してしまった場合、どうやって早急に離婚するかも一緒に計画していかなければなりませんね」


 私は素直に思ったことを口にした。


「それなら専門家に相談した方がいいんじゃない?」


「外に漏れたら困るから、確実な人を」


 ミハイルの声は穏やかだが、言葉は鋭い。


 父が腕を組み、少し考え込んだ。


「うーん、そうだな。

 俺は軍法には明るいが民事は苦手だしな。

 よし、顧問弁護人を呼んでくれ」




 しばらくして、顧問弁護人がやってきた。

 落ち着いた身なりの中年で、書類の束を抱えている。


「結婚して、すぐ離婚ですか……。

 相手に重大な過失か犯行の証拠があればできます。

 例えばそうですね、新郎が新婦を階段から突き落とすとか」


 私は思わず眉をひそめた。


 ミハイルが、すぐに口を挟む。


「それだと王宮騎士団の管轄だから、揉み消される可能性が」


 父が顎に手を当てた。


「白い結婚で無効にすればいいのでは?」


「そちらの方が、お嬢様の経歴に傷が付きにくいですね」


 弁護人は、うなずいた。


 ミハイルは少しだけ表情を曇らせた。


「しかし……エーベルハルト公爵令息が強引なことをしたら、どうするのです?」


 父は即答した。


「最初から別居でいいだろう。

 具体的に──結婚してから何年で、無効届が出せるんだ?」


「決まりはありませんよ。

 翌日でも出そうと思えば出せます」


 一同、驚愕した。


 ──翌日でもいいの?


 私は弁護人の言葉に首をかしげた。


「3年ではないのですか?」


 弁護人は書類を整えながら穏やかに答えた。


「ああ、それは"子供ができなかった場合に離婚できる"というのが3年なのです。

 そちらの法律と混同されているのでは?」


 父が目を丸くした。


「3年だと思ってたなぁ」


「大抵の方は世間体を気にしたり、両家の事情を考慮して、すぐに無効にしないのですよ。

 だから混同されやすいのです」


 なるほど、と私は心の中でうなずいた。


 ミハイルが、ほっと息をついた。


「これで万一、結婚してしまった場合でも大丈夫ですね。

 安心しました」


 その後、私たち3人は婚約破棄の方法について徹底的に相談した。


 書類の準備、証拠の作り方、王家への対応──話し合いは多岐にわたった。



 やがて弁護人が帰り、部屋には父とミハイルと私だけが残った。


 父は椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。


「しかしなあ、婚姻無効だと持参金が帰ってくるだけで、向こうはダメージないな」


 私は銀砂色の髪を指先で払いつつ、静かに言った。


「うーん、公の場で騒ぎを起こして貰えば?

 そうすれば相手の落ち度で婚姻無効になったとハッキリするし、エーベルハルト家は、もう誰にも相手されなくなる」


 ミハイルが少し考え、穏やかな声で続けた。


「持参金も目当てなら、返さなきゃいけなくなるのは痛手なのでは?

 むしろ先に渡して使わせてから、一括返還請求するのがいいかもしれませんよ」


 父は目を細め、口角を上げた。


「それも面白いな」


 その声には、戦場で敵の弱点を見つけたときのような鋭い愉悦があった。


 ミハイルは、落ち着いた声で言った。

 

「計画のためにも領地経営を頑張りましょう」


 父が、ぽりぽりと頬をかいた。


「え、なぜ」


「家は裕福な方ですが、領地面積の割合で言うと豊かではありません」


 父は、ますます困ったように頭をかいた。


 ミハイルは淡々と続ける。


「例え公の場で彼らが失態しても、王家が圧力をかけたり証人を買収するかもしれませんよ」


 父は目を細めた。


「確かに」


「だから領地収入を増やして、買収された人を買収し返すぐらい稼いだ方が良いのです。

 まして、これから王と公爵相手にするのですから」


 私は、苦笑した。


「そうは言っても、我が家は代々脳筋で、経営には疎いのよ」


 ミハイルは穏やかに微笑んだ。

 整った顔立ちが柔らかく緩む。


「だからこその僕でしょう」


 その言葉に、私は胸の奥が少し温かくなった。


 ミハイルは私の縁戚で、子供の頃から優秀だと有名だった。


 領地経営に自信のない父は、将来を見越して彼を私の婿にしようとしていた。


 しかし婚約が整う前に、エーベルハルト公爵が強く要望してきて、私はジークと婚約させられてしまった。


 そこでミハイルは婿ではなく、養子として家に迎えられた。




 その日から、私はミハイルと一緒に領地経営の勉強をすることになった。


 ジークと婚約破棄になるのか、婚姻無効になるのかは、まだわからない。


 けれど、私はミハイルと結婚することになる──その未来だけは、もう揺らがない。




 ティールーム。

 ミハイルは書類を読み、私はその隣で必死に文字と格闘していた。


 ……のはずだった。


「おい、おい」


 低く優しい声が耳に届き、私ははっと目を開けた。


「えっ」


 ミハイルが驚いたように私を見つめている。


「目を開けたまま寝るなんて凄すぎる」


 私は頬をかきながら、正直に答えた。


「文字見ると寝てしまうし、目を閉じたら怒られるから」


 ミハイルはしばらく黙り、そして真剣な顔で尋ねた。


「……どうして文字が苦手なんだ?」


「え? それが普通じゃないの? うちの一族はみんなそうよ」


「普通じゃないよ。実家は皆、勉強好きだよ」


 私は肩をすくめた。


「そんな奇妙な人間いるのね。

 私は本を読むより、外で体を動かした方が好きだわ」


 ミハイルはふっと笑い、柔らかく言った。


「では僕たちの子は文武両道になるね」


 その言葉に、胸が一瞬だけ跳ねた。


 子供のことなんて、全然考えていなかった。

 けれど、ミハイルが優しく微笑むと、頬が熱くなるのを止められなかった。


 彼は縁戚とはいえ隣国にいたため、婿入りの話が出てから初めて会った。


 そして2ヶ月ほど前。

 ジークとの婚約が決まると、すぐにミハイルは養子になった。


 つまり──最近、一緒に暮らし始めたばかりなのだ。


 それなのに、どうしてこんなに安心するのだろう。


 執事が静かに扉を叩いた。


「エーベルハルト公爵令息が来ました」


 私は思わず眉をひそめた。


「え、先触れなく?」


「謝罪しに、と言ってますが」


 謝罪──どうせろくな内容ではない。


「うーん、まあ仕方ないな。

 応接室に、お通しして」




 応接室に入ると、ジークが青灰色の瞳を怒りで濁らせて立っていた。

 細身の体つきなのに、妙に偉そうに胸を張っている。


 私は落ち着いて言った。


「お待たせしました」


「やってくれたな」


「はい?」


「肩を外すなんて」


 私は淡々と答えた。


「次は急所を突きます」


 ジークの顔が青ざめ、すぐに赤くなった。


「っ、……俺は公爵令息だぞ!」


「除籍されれば平民ですけどね」


 ジークは目を見開いた。


「っ、な、なぜ除籍など」


「そちらの有責で婚約破棄したら、除籍される可能性もあるでしょ」


 貴族の婚姻は大きな契約なのだ。


 ジークは震える声で叫んだ。


「そ、そんなわけあるか!」


 私は深くため息をつき、使用人に軽く合図した。


 次の瞬間、屈強な騎士たちが次々と部屋に入ってきた。


「むごごむごご──!」


 騎士がジークの口を塞ぎ、軽々と担ぎ上げた。


 細身の体は抵抗らしい抵抗もできず、情けないほど簡単に持ち上がる。




 庭に出た瞬間、派手な水音が響いた。


 ザバン──。


 ジークが池に放り込まれた。

 屈強な騎士たちが、淡々と任務を遂行した結果だ。


 私は、池の縁に歩み寄った。


「あら、おっちょこちょいですのね。

 足を滑らせるなんて」


 ジークは必死に水をかき、じたばたしながら岸に上がろうとしている。


 その頭を、私は片手で押さえつけた。


「うちは代々の功績で公爵にもなれるけど、本家の辺境伯より位が上になるのがよろしくないと断ってるだけで、領地は公爵家と同じくらいの面積なのよ」


 ジークは焦って、あぷあぷと水を飲みながら意味不明な声を上げるだけだった。


 私は凄んだ。


「舐めたら殺すからな」


 青灰色の瞳が大きく見開かれた。


「っ!」


 ──他愛もない。


 ようやく岸に上がった彼は、咳き込みながら地面に倒れ込んだ。


 私は使用人に向き直り、淡々と指示を出した。


「可哀想だからタオルを恵んであげて。簀巻きにして馬車に乗せるのよ」


 騎士たちは無言でうなずき、ずぶ濡れのジークを丁寧に──しかし容赦なく──簀巻きにして運んでいった。




 ジークが帰宅した後は、特に何も起きなかった。




 1ヶ月が過ぎ、私は貴族学園に入学した。


 ミハイルも同じ学年だ。

 ただし、彼はSクラス。

 私はCクラス。



 Cクラスの扉を開けた瞬間、私は思わず足を止めた。


 紅い瞳が、こちらを睨んでいる。

 その隣には、ジーク。


 ──よりによって、同じクラス。


 私は無視して席に向かった。


「ちょっと! 無視してるんじゃないわよ!」


 王女の甲高い声が響く。

 私は振り返り、淡々と答えた。


「学園内で挨拶する義務はないし、先に無視したのそちらですよね。

 王家と公爵家からの謝罪文が家にありますけど、持ってきた方がいいですか?」


 教室が一気にざわついた。


「え、王家が謝罪?」

「公爵家も?」

「何したの……?」


 王女は瞳を大きく見開き、叫んだ。


「何もしてないわよ!

 それより、この女がジークを突き飛ばしたのよ!」


 またざわつく。

 私は深く息を吸い、冷静に言った。


「その話は後でするとして、先に聞いていいですか?

 ──なぜ、このクラスにいるのです。

 王子殿下が成人するまでに陛下に何かあれば、王女殿下が女王になるんですよね?

 Cクラスって1番頭の悪いクラスなんですけど、それで政治ができるんですか?

 まさか税金泥棒する気ですか」


 エリザベートの顔が、一瞬で真っ赤になった。


「な、何よ、それ! 失礼じゃない! 不敬よ!」


 そのとき、教員が入ってきた。

 白髪混じりの厳しい目をした男性教師だ。


「事実の指摘は不敬ではありません。間違えないように。

 そしてハーシェルさんの指摘通り、王族がCクラスに通うのは前代未聞です。

 過去に入試の最中に体調を崩された方はいましたが、それ以外でCクラスになった方は、留学名目で外国に行き、そのままひっそり暮らすのが通例ですよ。

 今回も王女殿下の成績は問題になりましたが、王子殿下が成人するまでまだ12年以上ありますから、やむを得ないという判断です」


 王女は、震える声を漏らした。


「そんな……それは」


 ジークが勢いよく立ち上がり、何か言おうと口を開いた。


 だが、私はその前に声をあげた。


「幼少期から高度な教育を受けていらっしゃるはずですが……その教育費は税金ですよね?

 王女殿下の髪飾り1つで、平民が何年も食べていけますよ。

 それも税金ですよね?」


 教室が一瞬で静まり返った。

 王女は真っ赤になり、机を握りしめる。


「そ、それは……っ、必要経費よ!」


 教員が首を傾げた。


「必要経費なら、成果を出さないといけませんよ。

 でも──王女殿下はCクラス。

 “王族として最低限の学力すら満たしていない”と判断されたわけです。

 王族は国の象徴ですからね。

 “最低限の学力”は求められます」


 教室中の視線が王女に集まる。

 王女は涙をため、震える。


「わ、わたしは……っ」


 私は静かに席へ座り、入学のしおりを開いた。


「先生、ホームルームの邪魔をしてすみませんでした」


 その一言で、教室のざわめきは完全に止まった。




 昼休み。

 ミハイルが迎えに来るだろうと思って立ち上がった瞬間、明るい声が飛んできた。


「ねえ、一緒にランチに行かない?」


 翡翠色の瞳を輝かせたカナリアが、にこっと笑っていた。


 クラスメートだ。

 初めて話す。


 私は思わず目を瞬かせた。


 ──あれだけ派手にやったら、友達なんてできないと思っていたのに。


「あ、ミハイルが来たら、ミハイルも一緒でいいかしら。

 義理の兄なの」


 そう言ったところで、ちょうど廊下から蜂蜜色の髪が見えた。


「フェリシア」


 私は手を軽く上げた。


「お昼、アルティス様も一緒でいい?」


「邪魔じゃないかしら?」


 カナリアが遠慮がちに言う。


「まさか。エスコートした方がいい?」


 ミハイルが冗談めかして言い、私とカナリアは笑った。

 3人で並んで食堂へ向かう。




 食堂は昼の喧騒で賑わっていた。


 席に座り、ミハイルとカナリアと共に昼食を取った。


 ミハイルは肉を口に運びながら、苦い顔をした。


「王女が絡んできたか……また抗議だな……」


「まあでも、やると思ったよね」


「ああ」


 カナリアがパンをちぎりながら首を傾げた。


「あの2人って、昔から付き合ってるんでしょう?

 何で婚約しないのかしら」


 そういえば、私たちは婚約式をしていない。


 だからカナリアは、私がジークの婚約者だと知らないのだ。


 ──広めた方がいいかもしれない。


 私は王女が婚約できない理由を簡潔に説明し、そして告げた。


「私がエーベルハルト公爵令息の婚約者よ」


 翡翠色の瞳が、これ以上ないほど見開かれた。


「えええっ! うわー、地獄のような婚約ね」


 ミハイルが淡々と付け加えた。


「“ような”じゃなく地獄そのものだ」


 私とカナリアは吹き出し、ミハイルも口元を緩めた。


 ──こんなふうに笑える昼休みが来るなんて、思ってもみなかった。


 私は静かにコーンスープを口に運びながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じていた。


 だが──


 ふと視線を感じて顔を上げると、食堂の入口付近で王女とジークがこちらを睨んでいた。


 私は席を立った。

 周囲の視線が集まる。


「私が『エーベルハルト公爵令息を池に落とした』と言いましたが、それはエーベルハルト公爵令息の身体能力が低いために池に落ちたのを隠したくて、私のせいにしたのでしょう。

 恥ずかしいと思わないのですか!」


 食堂前が、一気にざわついた。


 もちろん私が指示して落としたのは、わかっている。


 わざと挑発してるのだ。


「身体能力が低いって……公爵令息なのに?」

「池に落ちたのは自分のせいだったのに、女のせいにしたの?」


 食堂にいる生徒たちが、口々に疑惑を囁く。


 王女は瞳を大きく見開き、叫んだ。


「違うわ! 嘘よ! よくそんなこと、いけしゃあしゃあと!」


 私は淡々と告げた。


「ならば決闘しましょう、エーベルハルト公爵令息。

 あなたが勝てば、あなたの身体能力は低くないと認めてあげます」


 ジークは唇を震わせ、声にならない声を漏らした。


「お、俺は……っ……」


 私は言葉を重ねた。


「逃げるのですか?

 “池に落ちたのは、自分の身体能力が低いせいではない”と証明する絶好の機会ですよ」


 ジークの顔がみるみる青ざめていく。

 王女は歯を食いしばり、怒りで震えながら叫んだ。


「ジークは公爵令息よ! あなたなんかに負けるわけないじゃない」


 私は、頷いた。


「では、今から騎士科で模擬剣と場所を借りてやりましょう。

 私が勝つのに3分以上かかった場合は、負けというハンデを与えます。

 その代わり、気絶や骨折をさせても不問にしてください」


 食堂中の視線がジークに集まる。


 ジークは俯き、肩を震わせ、何も言わない。


 王女が焦ったように叫んだ。


「ジーク、相手は女なんだから勝てるに決まってるでしょ! なんで──」


「うるさい! 相手は騎士団長の娘だ!」


 ジークが怒鳴り返した。

 怒鳴られた王女も、怒鳴ったジーク自身も驚いて固まる。


 次の瞬間、彼は踵を返し、走って逃げ出した。


 その後の食堂は、ジークが腰抜けだという話で持ちきりになった。




 ジークは結局、教室には戻ってこなかった。


 王女は1人で居心地悪そうに席に座り、紅い瞳を揺らしていた。


 誰も話しかけない。

 誰も庇わない。




 翌日からジークは、登校拒否になった。


 カナリアが言った。


「ね、あなたの婚約者、学校に来ないんだけど」


 私はノートを出しながら答えた。


「え、自業自得じゃない?

 彼が池に落ちたとき、彼の従者は応接室にいたし、王女殿下は1度も我が家に来たことない。

 つまり私とうちの使用人しかいなかったのに、王女殿下はあたかも自分が見たかのように断定して喋ったわけでしょう。

 これについては、うちの父が王宮に抗議しに行ってるわ」


 教室がざわついた。


「王女が嘘ついたの?」

「公爵令息も?」

「やば……」


 王女は居たたまれなくなったのか、もじもじと指を絡めて俯いている。


 やがて、震える声が聞こえた。


「あの……昨日は、ちょっと言い過ぎたわ」


 謝罪らしき言葉。

 だが、私は答えなかった。

 代わりに、問いを投げた。


「私の婚約者と2人きりでランチしていたのは、なぜですか?」


 王女は紅い瞳を揺らし、慌てて言い返した。


「それは幼馴染だから!

 あなたこそ男の人といたじゃない」


「ミハイルは義兄です」


「……幼馴染も似たようなものでしょう」


 その瞬間、クラスメイトたちが一斉に声を上げた。


「全然、違いますよ!」

「他人の婚約者と2人きりで飯食うのはアウトです!」

「しかも相手の婚約者の悪口まで言ってたんでしょう?」

「王女殿下が女王になってしまったら、この国はもうだめだ」


 怒りの声が次々と上がる。


 王女は真っ青になり、顔を伏せた。


 私は席に座り、教科書を開いた。



 

 食堂のテーブルには温かい料理が並び、父とミハイルと私の3人で夕食を囲んでいた。


 父は肉を切りながら、まるで天気の話でもするかのように言った。


「ジークの骨を折れ、と言われたから折ったぞ」


 私はチキンスープを飲みかけて、思わず吹きそうになった。


「腰抜けはマゾなの?」


「違う。将来、公爵になるのに精神的な理由で登校拒否と知られたら家が潰れてしまうから、怪我をして学校に行けないということにした」


 父は平然としている。


 ミハイルは苦い顔をした。


「どこまでも情けないやつだ」


 私は相槌を打ちながら、ぼんやりと今までのことを考えた。


 そういえば──ミハイルが家に来て、もう2ヶ月以上経った。


「ところで養子の手続きって、すぐ終わるのね?」


 ミハイルは、穏やかに説明してくれた。


「一般養子と特別養子というのがあって、一般は提出する書類さえ揃っていれば即日なれるよ。

 もう一方のは、手続きに時間がかかる」


「何が違うの?」


「一般養子は、元の実家にも籍が残ってる。特別養子は籍を残さない」


「うん? それって、どんなメリットが?」


 父がワインを飲みながら答えた。


「元の実家と縁切りしたければ特別養子だ」


「そうなると相続権なども消える」

と、ミハイル。


 私は頷いた。


「ふうん、ミハイルは一般?」


「フェリシアと結婚するときに、こちらの縁組を解除しないと兄弟になってしまうからね」


 私は頷いた。


「色々あるのね」




 夕食を終えた頃、執事が入ってきた。


「エーベルハルト公爵家から至急の書状です」


 父はワインを置き、封を切った。


「うん? 何々……息子たちの婚約式を行うことにした。

 ついては1ヶ月後、王宮で。

 すでに招待状を発送し始めたので変更は不可。

 ……なんだこれ。ゴミ箱に捨てておけ」


 執事は回収しながら言った。


「恐らく子息が怪我で登校していないことと、我が家と不仲でないことを知らしめたいのでしょう」


 私はカップを置いた。


「うーん、どうせなら会場で婚約破棄してしまう?」


 ミハイルは、琥珀色の瞳を細めた。


「破棄する理由が弱いな。

 茶会も“王女に逆らえなかった”と言われたらそれまでだし、池のことも“王女が暴走した”と言われたら……もっと本人が失敗してくれないと」


 父が苦笑した。


「まあ、あいつらなら勝手にやらかすだろう。

 放っておいても自滅する」


 私は肩をすくめた。


「どうせなら、こちらもたくさん招待したら?

 王宮なら数千人招けるでしょう。

 多くの人に彼の不甲斐ないところを見せれば、公爵家は更に傾くわ」


 父は目を細め、愉快そうに笑った。


「明日、詳しく確認した上でそうしよう」


 ミハイルは少し苦笑い。


「楽しみな気持ちが半分……別れるのが分かってても、将来の妻が他の男と婚約式をするというのは複雑な気持ちが半分」


 父は豪快に笑った。


「はっはっは。やきもち焼いてもらえてよかったな、フェリシア」


 私はお茶を口に運びながら、そっとミハイルを見た。

 琥珀色の瞳が、ほんの少しだけ寂しげに揺れていた。


 ──この人を、正式に隣に置きたい。


 そんな気持ちが胸の奥で灯った。






 王宮の大広間は、2千人の招待客で埋め尽くされていた。


 煌びやかなシャンデリアの光が反射し、ざわめきが波のように広がっている。


 私はミハイルのエスコートで入場した。

 彼の美しい姿は、どこにいても目を引く。


 ──その瞬間、ざわめきが一段と大きくなった。


 松葉杖をついたジークが、よろよろと近づいてきた。

 隣には王女が、ぴったりと張り付いている。


 ジークは青灰色の瞳を怒りで濁らせ、私を睨んだ。


「自分の婚約式に他の男と来るなんて……何、考えてるんだ?」


 ミハイルは冷ややかに返した。


「ドレスも迎えもないのに、何を言ってるんでしょうか?」


 ジークはムッとした。


「俺は骨折してるだろ。見てわからないのか」


 私は無言で、ジークの足を軽く払った。


 ──ぐらっ。


 ジークは簡単に転んだ。


 王女が叫ぶ。


「な、何するのよ?!」


 私は淡々と答えた。


「骨折が嘘じゃないか、確かめたんです」


 そして、転んだジークの“骨折したはずの足”を──

 ぐい、と踏んだ。


「ぎゃあああああああああああああっ!!」


 ジークの悲鳴が大広間に響き渡る。


 周囲が、どよめき始めた。


「普通、骨折した足を踏まれたら失神するよね?」

「つまり……嘘?」

「公爵令息が仮病……?」


 王女は真っ青になり、震えながら叫んだ。


「ち、違うのよ! ジークは本当に怪我してて──」


 ミハイルが冷静に言った。


「本当に骨折しているなら、今の踏みつけで立ち上がれるはずがない」


 ジークは痛がりながら、しかし“骨折した足”で普通に体を支えていた。


 その姿を見た瞬間、会場のざわめきは──

 嘲笑へと変わった。


「婚約式に仮病……?」

「最低だな」

「王女も一緒に嘘ついてたのか?」

「これ、もう終わりじゃない?」


 ジークは、必死に言い訳を始めた。


「違う! 怪我をして1ヶ月経ったから、その分治ったんだ。本当だ!」


 その声は震えていて、誰が聞いても苦しい言い訳だった。


 私は父から聞いて、本当に骨折してたのを知っている。

 分かった上で、やっているのだ。


 周囲の客が冷ややかに反応する。


「だとしても。婚約式にドレスもエスコートもないなんて前代未聞です」

「王女殿下とお揃いの衣装なのだから、殿下との婚約に変えた方がいいでしょう。非常識すぎますわ」


 王女は、苛立ったように叫んだ。


「私だって、そうしたいわよ!

 でも互いに婿と嫁をとらなきゃいけないから」


 ミハイルが口を開いた。


「それを言うならフェリシアだって一人っ子なのに、エーベルハルト公爵の強い打診で嫁ぐんですよ。

 僕っていう養子を迎えてね」


 エリザベートは悔しそうに唇を噛んだ。


「だけど将来は、そこの女の子供が継ぐから、直系が絶えるわけじゃないじゃない!」


 ──そこの女?


 私は淡々と返した。


「その言葉、そっくりそのままお返しします。

 あなた方の家も中継ぎを置くなりすればいい」


 王女は、苦しげに言った。


「だけど"ジークの家では王を支えられないからダメだ"と、お父様とお母様が」


 その瞬間、客の1人が冷たく言い放った。


「客として来たのに、主催者に対して『力がない』は、あんまりではないですか」


 王女は言葉を失った。


 別の客が小声で、しかしはっきりとつぶやく。


「これは婚約破棄も時間の問題だな」

「王女殿下は王位継承権を放棄なさった方がいい」

「王女と王子以外にも王族はいる」


 王女は震え、紅い瞳を潤ませている。

 ジークは顔を引きつらせ、松葉杖を握る手が震えていた。


 私は静かにミハイルの腕に手を添えた。


 会場の空気がざわつき続ける中、重々しい足音が響いた。


 エーベルハルト公爵が姿を現した。

 白髪混じりの髪を後ろに撫でつけ、威厳だけは立派にまとっている。


「愚息が失礼した。この詫びは後日しよう」


 私は口を開きかけた。


「ですが──」


 しかし、公爵は手を上げて遮った。


「息子を愛する必要はない。

 貴族の婚姻は、家と家との結びつきだ。

 結婚した後も、極力顔を合わさないで暮らして良い」


 私は苦い顔をした。


 公爵は会場に向き直り、声を張った。


「お集まりいただき、ありがとうございます。

 婚約は続行いたします。

 慣例より早いのですが、1か月後に挙式を行いたいと思います。

 すでに招待状を準備しておりますので、お帰りの際にお持ちください」


 その瞬間、会場がどよめいた。


「1か月後?!」

「ここまで揉めた相手と?」

「正気か……?」

「公爵家、完全に追い詰められているな」

「フェリシア嬢の意思は無視なのか?」


 王女もジークも、ぽかんと口を開けていた。


 私は静かに息を吐いた。


 ──結婚したところで、すぐに白い結婚の手続きをするだけ。


 ここまで来たら、むしろ結婚してしまった方が早い。

 婚姻無効の書類は、すでに準備してある。


 私は公爵に向き直り、尋ねた。


「結婚式をする教会は決まってるのですか?」


 エーベルハルト公爵は顎をしゃくり、従者を呼んだ。


「従者に一通りの流れを書いた紙を持たせている」


 従者が恭しく紙を差し出す。

 私はそれを受け取り、ざっと目を通した。


「わかりました。では私は、これで」


 踵を返した瞬間──

 女が、こちらに突っ込んでくる気配がした。


 私は軽く身をかわす。


 ──ドサッ。


 女は勝手に転び、床に倒れ込んだ。


 私はため息をつき、髪の毛を掴んで持ち上げた。


「大丈夫ですか?」


「あああっ、痛い、やめて」


 その声に、周囲の客がざわつく。


「これ、王女殿下の侍女じゃないか」

「フェリシア嬢が妬ましいからって、こんな汚い真似を……」


 王女は真っ青になって叫んだ。


「ち、違う! 私は本当に知らない!」


 女は震えながら言った。


「わ、私が勝手に姫様のためにやったことです……」


 私は眉をひそめた。


「私にワインかけたら、なんか解決するの?」


 女は唇を震わせた。


「……嫌がらせが嫌で婚約を辞めるかと……」


 私は淡々と指摘した。


「それならエーベルハルト公爵にしないと意味ないでしょう。

 あちらからの申し入れで、家格もあちらが上なんだから」


 客たちが一斉に頷く。


「確かに……」

「フェリシア嬢に嫌がらせしても意味ないだろう」

「王女殿下の侍女が勝手に? そんなわけ……」

「王女殿下も巻き込まれてるのか?」


 王女は真っ青になり、瞳を揺らしている。


 ジークの従者が王女に近づき、控え室へ誘導しようとした。


 だが──


「……庭に出てるわ。侍女の処罰は、ちゃんとするから」


 そして、ふらつく足取りで大広間を出ていった。


 会場は静まり返り、誰もがその背中を見送った。


 ──まず謝罪すればいいのに。


 私は公爵に向き直り、言った。


「公爵、持参金の支払いは結婚後、子供が生まれた後ということに契約書を直してください」


 エーベルハルト公爵は一瞬固まり、口ごもった。


「は、いや、それは……」


 私は淡々と続けた。


「まさか、公爵ともあろう方が、家格が下のうちから入る持参金を目当てに結婚を急いでるのですか」


「ま、まさか、そんな……それはない」


「通常、貴族の結婚は婚約から1年以降というのが通例ですから、持参金が出産以降でも問題ないですね?」


 公爵の顔が、みるみる引きつる。


「拒否したら、どうする」


「結婚式を欠席します」


 大広間がざわついた。


「わかった……契約書を直そう」


「お父様も、きちんと立ち会って」


 父は頷き、公爵は苦々しい顔で従者に指示を出した。




 庭へ向かった。

 月明かりの下、王女がしゃがみ込み、肩を震わせて泣いていた。


 私は近づき、静かに声をかけた。


「──力が欲しいか?」


 王女は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。


「はあ?」


「力が欲しいか?」


 王女は眉をひそめた。


「王女より上の力って……王じゃないの?」


「そういう力じゃない」


 私は首を振った。


「腕力?」


「知恵とだけ言おうか」


「はあ?」


 王女は理解していない。

 けれど──今の彼女は、初めて“助けを求める側”になっていた。







 結婚式。

 厳かな誓いの言葉が終わり、婚姻届にサインする。


 ジークが震える手でベールを上げた瞬間、彼の青灰色の瞳が大きく見開かれた。


「エリザ!」


 王女──いや、今は“フェリシア”と名乗っている少女が、涙ぐんだように微笑む。


「ジーク」


 そして、抱きついてキスをした。


 聖堂が、ざわめきに包まれる。


「どういうことだ……?」

「新婦はフェリシア嬢では……?」

「王女殿下……?」


 エーベルハルト公爵が立ち上がり、怒鳴った。


「どういうことだ!」


 私はゆっくりと席を立ち、変装を外した。


 会場が息を呑む。


「彼女はフェリシア・フォン・ハーシェル。

 そして私はフェリシア・ド・サヴォワ」


 ざわめきが爆発した。


 公爵が困惑気味に問う。


「何が、どうなって……すり替えか!?」


 私は淡々と説明した。


「婚約契約書には“フェリシア・フォン・ハーシェル”と“ジーク・フォン・エーベルハルト”の婚姻とあります。


 そこでエリザベート元王女は王族籍から抜け、我が家の養子になりました。

 その時、同時にファーストネームも“フェリシア”に改名したのです。


 そして逆に、ミハイルは我が家との養子縁組を解消しました。

 私は一時的に平民になり、夫の家族が住む隣国で入籍しました。

 私の今の名前はフェリシア・ド・サヴォワです」


 公爵は愕然とした顔で、私を見つめた。


 だが──次の瞬間、彼はにやりと笑った。


「なるほど、契約通りなのだな?

 ならば問題ない。

 むしろ王家の血を我が家に取り入れられる。


 ジークも嫌いな相手でなく、幼い頃から好きだった王女殿下──いや、フェリシアと結婚できて良かったな」


 


 こうして──ジークと元王女の結婚は、瞬く間に国中へ広まった。


 王女が独断で戸籍を変え、勝手に養子入りした件は王宮でも大騒ぎになったが、国王は案外静かだった。


 恐らくエリザベートを「廃嫡しろ」という声が大きすぎて、好都合だったのだろう。


 幼い王子に何かあれば、エリザベートの子が後を継げばいい。

 エーベルハルト家は力こそないが、公爵という肩書きは“次代の王の出身家”として都合がいい。







 ある日、エーベルハルト公爵が我が家に乗り込んできた。


「おかげさまでフェリシアに子供が生まれた。

 約束通り持参金を貰おう」


 父は書類から顔も上げずに言った。


「うちの娘は1人だ。

 他人のために払う持参金などない」


 公爵の顔が真っ赤になる。


「なんだと! それでは契約不履行だ!

 訴えてやる!」


 怒鳴り散らし、プンスカと帰っていった。






 高い天井に声が響き、裁判官が朗々と読み上げた。


「原告の訴えは──契約に基づき持参金の即時支払いを求める、である。

 意義はあるか」


 エーベルハルト公爵一家が勢揃いしている。

 公爵は鼻息荒く叫んだ。


「さっさと支払え!」


 ミハイルが静かに立ち上がった。


「説明しましょう。

 まず、エリザベート元王女の結婚式が終わったあと、すぐ白い結婚による婚姻無効届けを出しました」


 法廷がざわついた。


「なっ、そんなものサインしたのか!」


 公爵が叫ぶ。


 エリザベート──元王女は青ざめ、震える声で言った。


「だ、だって私……サインしないとジークと結婚させないっていうから……。

 私の結婚に父王が反対してハーシェル家に圧がかかった時のための保険と言われたの……どうせ使わないと思って……」


 傍聴人が、呟く。


「そんな意味のわからない説明で、王族が届出にサインするなんて……」


 公爵は必死に反論した。


「し、しかし彼女がハーシェル伯爵の義娘であることには変わりない!」


 そこで父が立ち上がった。


「元王女の名前をフェリシアからエリザベートに戻した上で、除籍手続きをした」


 ざわめきが一段と大きくなる。


 除籍手続き──

 成人した本人か、当主が行える。

 当主が行う場合、本人の承諾は不要。


 エリザベートは真っ青になった。


 私はゆっくりと立ち上がり、彼女に向き直った。


「出産おめでとうございます、エリザベートさん。

 平民のシングルマザーが庶子を抱えて生きていくのは大変でしょうが、頑張ってください」


 法廷が静まり返る。


 ──1度“白い結婚”で無効にした婚姻は、再入籍できない。


 つまりエリザベートは、ジークの正式な妻にはなれない。


 公爵家の“跡取りの母”にもなれない。

 王族でもない。

 ハーシェル家の娘でもない。


 ただの平民。

 庶子を抱えた、未婚の母。


 ジークは青灰色の瞳を見開き、震えながら呟いた。


「……そんな……俺の……妻……じゃ……ない……?」


 次の瞬間、傍聴席がざわめきに包まれた。


「完全に終わったな……」

「公爵家、どうするんだこれ……」

「元王女が平民のシングルマザーって……」


 エーベルハルト公爵は膝から崩れ落ち、エリザベートは泣き崩れ、ジークは顔を覆って震えていた。


 裁判官が木槌を打ち鳴らす。


「──原告の請求は棄却する」


 公爵家、完全敗訴。


 判決が下った瞬間、公爵は必死に縋りついてきた。


「頼む、待ってくれ!

 使用人への給与の支払いもできないんだ。

 このままなら使用人が全員いなくなってしまう!」


 私は淡々と答えた。


「良いではないですか。

 領地と爵位を売って、細々と暮らしていけばいいでしょう」


「そんな!」


 そのとき、エリザベートが突然叫んだ。


「あんた、ふざけんじゃないわよ!

 お父様に言って王族に復籍して、あんたなんか首をはねてやるわ!」


 裁判官が即座に木槌を叩いた。


「平民が貴族を脅迫したため、死刑」


「えっ? ま、ま、待って! いやあああああ!」


 エリザベートは衛兵に引きずられていった。


 ジークは呆然と、その背中を見つめている。


 そして、震える声で呟いた。


「エリザ……これから、どうすれば……?」


 父は、書類を従者に渡しながら言った。


「さあ? これは、ついでだ」


 従者が裁判官に書類を渡す。


「これは……」


 裁判官の眉が動く。


 父は淡々と告げた。


「公爵家の不正の証拠だ」


「そんなバカな!」


 公爵が叫ぶ。


「税金を誤魔化すために、裏帳簿をつけていた」


 裁判官は厳しい声で言い渡した。


「……調査員を派遣し事実が確認され次第、判決を言い渡す。

 本日は、これにて閉廷」


 その瞬間、傍聴席から──

 スタンディングオベーション。


 拍手が鳴り止まない。


 私は静かに席を立ち、ミハイルと共に裁判所を後にした。


 ──これで、エーベルハルト家は完全に終わり。


 残るのは、私たちの未来だけだ。

 





 1年後。

 私は再び──フェリシア・フォン・ハーシェルになった。


 夫はミハイルのまま。


 ハーシェル家を正式に継ぐため、入籍し直したのだ。


 最初からそうすればよかったのに、と思うかもしれない。


 けれど、貴族の婚姻には王の許可が必要なので、エリザベートが結婚する前にミハイルとの婚姻申請を出せば企みが露見してしまう。


 かといって“フェリシア・フォン・ハーシェル”のままでいれば、ジークと強制結婚させられる可能性があった。


 だから私は1度平民になって隣国にあるサヴォワ侯爵家に嫁ぎ、自国王がこちらでの再入籍を許す約束を取り付けてから離縁し、そして改めてハーシェル姓になった。


 ミハイルがハーシェル伯爵を継ぐには必要な手続きだった。




 炊き出しにきた私はスープ鍋をかき混ぜながら、配膳の列を見ていた。

 そこへ、声がした。


「フェリシア……」


 振り返ると、やつれた男が立っていた。

 ボロな服を纏い、汚れている。


「え? どなたかしら?」


「俺だ、ジークだ」


 私は首を傾げた。


 ジークという名前はよくある。


「ジーク・フォン・エーベルハルト」


「ああ! 元婚約者。何か用?」


 ジークは苦しげに眉を寄せ、言葉を絞り出した。


「俺は、別にエリザベートのことが好きじゃなかった。

 両親から仲良くするように言われたから我慢してただけで……。

 あいつは我が儘で嫉妬深くて、しつこくて……嫌だった」


 私は鍋の火を弱めながら、静かに彼を見つめた。


 ──今さら、そんなことを言いに来たの?


 彼の背後には、貧民街の荒れた路地。

 かつての公爵令息の面影は、もうどこにもない。


 私は口を開いた。


「話に終着点が見えない」


 ジークは必死に言葉を続ける。


「だから……茶会で無視したのも、婚約式にドレスを送らなかったのも、全部エリザベートの指示で……俺の意思じゃないんだ」


 私は、真顔で答えた。


「そうなんだ。大変だったのね。

  ──さようなら」


 ジークは焦ったように手を伸ばす。


「だ、だから、その……」


 私は鍋をかき混ぜながら言った。


「あなたの話を聞いて、私に得ってあるの?

  無いなら消えて」


 その言葉に、ジークは完全に沈黙した。


 そして、何も言えないまま、ゆっくりと背を向けて立ち去った。


 そこへミハイルが歩いてきた。


「どう? 全部、配れそう」


「ええ、ちょうど足りるくらいだわ」


 ミハイルは安心したように頷く。


「良かった。終わったら公園でも散歩して帰ろう」


「そうね。そうしましょう」


 ──私たちは、ずっと一緒に生きていこう。

 






□完結□





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