第1話 — 虚無(ヴォイド)の魔法
本作『Elmundの物語』は、私が2020年から書き続けているRPGのオリジナル世界観をもとに、友人たちとのTRPGキャンペーンで体験した冒険の数々を物語として再構成したものです。
それらは私にとって強く心に残る思い出であり、きっと読んでくださる方々にも楽しんでいただけるのではないかと思い、筆を執りました。
この物語を読む皆さんが、私たちが当時セッションを遊んでいた時と同じような没入感を味わっていただけたなら、これ以上嬉しいことはありません。
なお、日本語に関しては母語話者ではないため、不自然な表現や誤りがあるかもしれません。
それでも、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
もしお気づきの点やアドバイスがありましたら、ぜひ教えていただけると嬉しいです。
k — アドゥ (Adeux)
来る日も来る日も暗闇の中。すべてを飲み込むような深い闇は、音も光も吸い尽くしてしまうかのようだ……。だが、そんな闇ですら、空腹で鳴り響く俺の腹の音をかき消すことはできなかった。
洞窟暮らしってのは、どうにも妙なもんだ。特に、暗闇でも絵本を読むように辺りが見える俺たちの民にとっては。どこを見ても白と黒の二色しか映らないが、まあ、何もしないよりはマシだろう。地上へ向かう道を歩く時は、この視力だけが頼りなんだから。
地上へと続く通路は、たいてい急勾配だ。床には波打つような模様があって滑り止めに見えるが、これが曲者でね。長い年月をかけて劣化しているし、おまけに「巨大オーロラ・ムカデ」の排泄物がこびりついた場所は、天然のワックスを塗ったみたいにツルツル滑る。
鍾乳石も厄介だ。普通の洞窟と違って、この「スラヴライティーネ山」の岩盤はとにかく不安定でな。広間を通る時は、物音一つ、足運び一つに気を配らなきゃならない。地面に走った小さな亀裂が天井まで駆け上がり、鍾乳石が槍みたいに降ってくることもあるからな。
ここでの暮らしで数少ない「マシなこと」を挙げるなら、地下河川での釣りだろう。もちろん、いつ襲ってくるかわからない激流に飲み込まれる危険はある。「静かな水面ほど油断するな」ってのは、ここの格言みたいなもんさ。
それでも「最高」と言えるのは、地上の寒さが厳しくて狩りに出られない時期、貴重な食料源になるからだ。
ただ一つ問題なのは、ボウズの日も多いってこと。それに、あの水域に潜む「怪物」どもの存在だ。あいつら、コボルトでも食ってんじゃないかって疑いたくなるほどデカい。……まあ、あんな化け物相手に「力比べ」をするのは、本物の魔物と戦ってるみたいで、正直ちょっとワクワクするんだけどな。
父さんが仕事で地上へ出てから数時間。今は俺が「一家の主」を張る番だ。俺は気合を入れて、釣り場へと向かった。
川は静かだった。静かすぎると言ってもいい。
経験上、これは吉兆じゃない。
……まあ、この地下で何が「良い兆し」かなんて、誰にも分かりゃしないんだが。
岸辺に腰を下ろし、水面から漂う冷気を感じる。視線の先には、俺の目でも捉えきれない果てしない闇が広がっている。
白と黒のさざ波が揺れる中、糸を垂らす。ポチャンと、泡が弾けるような小さな音が響いた。竿の端を岩の隙間に固定し、手応えを確かめる。
準備万端だ。俺は近くの岩に背を預け、待ちに入った。
ここでの釣りは忍耐勝負。年寄り連中が好む理由もよく分かる。退屈で死ぬのが先か、それとも獲物がかかるのが先か、自分の精神との戦いだ。もしこれが物語なら、読者の方が先に寝ちまうだろうな。
釣り人が話を盛る気持ちも分かるよ。「一時間じっとしてて、手のひらサイズの魚一匹でした」なんて、恥ずかしくて言えたもんじゃない。
……一時間経過。音沙汰なし。魚の野郎、他に楽しい用事でもあるらしい。
さらにもう少し待つ。
「おっせぇな……」
魚がかかる前に、俺の根気が限界を迎えようとしていた。仕掛けを確認しようと竿を引き上げた、その瞬間——。
糸が猛烈な勢いでひったくられた。
頭は即座に反応したが、体が追いつかない。リラックスしすぎた。
慌てて竿を掴んだが、危うく水中に引きずり込まれそうになる。咄嗟に岩に体をぶつけて、どうにか体勢を立て直した。
踏ん張って対抗すると、竿がミシミシと嫌な音を立ててしなった。間違いなく、普通の魚じゃない。獲物は激しく暴れ、底へ底へと潜ろうとする。ツルつく岩場で、足が滑りそうになる。
「くそっ……!」
かかとを岩に食い込ませ、渾身の力で引く。だが、相手は魚だけじゃなかった。大自然までが味方しやがった。
一瞬にして、川の流れが変わった。
さっきまでの静寂が嘘のように、目の前の水が猛り狂う。衝撃で竿を落としそうになったが、俺は思わず笑ってしまった。この感覚、知っている。どの本で読んだっけか? 『ザルナットと百人の騎士』か? それとも『ポロロッカ対死の谷のクラーケン』か?
ありえないサイズの怪物と、一対一で対峙する。自分が生きているって実感が、全身を駆け抜けた。
「……来いよ」
呟き、もう一度引き寄せる。
一進一退の攻防の中、本能が「隙」を捉えた。今だ。全力を込めて引き抜こうとした、その時——。
鋭い破壊音が響いた。
勝負は、唐突に幕を閉じた。
乾いた音と共に竿が真っ二つに折れ、緊張の糸がふっと消えた。俺はそのまま後ろへひっくり返り、流されていく竿の先と糸を見送った。あっという間に激流に飲み込まれ、消えていく。
数秒間、虚空を見つめた後、深く息を吐き出した。
「……マジかよ」
今夜の夕食はお預けだ。情けない話だが、これには「良い理由」もある。辺りが冷え込み、コボルトやサルディン・アバ共が騒ぎ出す時間になる前に、俺は帰路についた。
しばらく歩くと、暗闇の向こうに光が見えた。集落の温かな灯りは、いつだって心を落ち着かせてくれる。そして遠くに見える我が家。釣りに出た本当の理由、そして俺が飯を抜いてでも守りたいものが、そこにはあった。
「兄ちゃん、遊ぼう!」
二人の弟と一人の妹が駆け寄ってくる。俺の家族だ。
この子たちのために戦う。その責任感が、子供の頃に読んだ英雄譚の記憶と重なる。世界を相手にしてでも、この笑顔を守りたい。それが「兄貴」の仕事ってもんだ。
「いいぞ。その前にクイズだ。手足は人間、頭は魚……これなーんだ?」
俺は鞄の中に手を伸ばしながら、答えを待った。
弟二人は顔を見合わせ、うーんと唸っている。知恵熱で頭から火でも吹くんじゃないかって勢いだ。そこへ、末っ子のエレノアが一歩前に出た。四歳だが、三兄弟の中で一番のキレ者だ。
「しゅごく、かんたん……『おさかな人間』でしょ」
舌足らずな答えだが、正解だ。十一歳と七歳の「おバカコンビ」を差し置いて。……まあ、母さんの知性を継いだ奴が一人でもいて安心したよ。
「大正解!」俺は声を張り上げ、「お魚人間が捕まえに行くぞー!」と、鞄から魚のマスクを取り出して被った。
それから二時間、鬼ごっこやら隠れんぼやらで大騒ぎした。空腹なんて、こいつらの笑顔を見てりゃ忘れてしまう。
遊びの輪には、近所の子供たちも加わった。俺は必死に追いかけたが、サリエル(二番目の兄)とエレンディル(末の弟)だけはなかなか捕まらない。頭の方はともかく、体力と頑丈さだけは父さん譲りらしい。将来は立派な戦士になるだろう。
ただ、心配なのはその無鉄砲さだ。鬼ごっこの最中、四メートルもある屋根の間を平気で飛び越えやがる。冷や冷やもんさ。
遊びが終わる頃には、二人が「勝者」として担ぎ上げられていた。子供たちの歓声を聞いていると、人目を忍んで地下で暮らすという「重荷」を、一瞬だけ忘れさせてくれる。
……だが、現実は厳しい。ここの子供たちは家族と過ごす時間が極端に短い。働きに出たきり戻らない親もいるし、危険な仕事で命を落とす者も少なくない。
「アルヴィロン」という邪悪な存在にかけられた呪いのせいで、俺たちエルファリン(チャイヌアム)の寿命は削られた。その過去を知る他種族からは忌み嫌われている。俺たちに非があるわけじゃないのに。誰かにうつる病気でもないってのに、何がそんなに気に入らないんだか。
呪いの後、エルファリンは二つに分かれた。俺たちチャイヌアムは地下に適応し、老いると共に魔力が枯渇する。対する宿敵クランシアスは森に適応し、自然と調和して生きている。
あいつらは、自分たちが呪われたのは俺たちの血筋のせいだと思い込み、俺たちを仇敵として狙っている。
家に入ると、懐かしい香りが漂ってきた。「グレイ・ブルーベリー」だ。母さんの得意料理。かつて地上で有名な植物学者だった母さんは、見事な香水や特効薬を作る名人だった。
「……あんなに才能があった母さんが、どうしてこんな場所に移り住んだんだろうな」
俺が生まれる前の話だ。
台所では、母さんが新しい香水の試作をしていた。
うちの家具はどれも古臭くて、お世辞にも立派とは言えない。椅子もソファも使い古されてクタクタだ。座り心地はいいけど、いつか余裕ができたらもっと良いものを買ってやりたい。
「あら、おかえり。デデ」
母さんが鍋を手に振り返った。
「ちょうどいいわ。驚かないでね、今日すごいことがあったのよ」
母さんはいつも以上に上機嫌だった。それより気になるのは、その手に持っている鍋だ。見たこともない、ピカピカの……俺の持ち物全部より高そうな代物だ。
「朝、お父さんの仕事に付いて市場へ行った時、金貨十五枚が入った財布を拾ったの。だから、古くなった鍋を買い替えて、食料もたくさん仕入れてきたわ」
金がすべてじゃない。幸せは金で買えない。父さんたちからはそう教わってきた。でも、新しい鍋と食料でこんなに明るく笑う母さんを見ると、もっと喜ばせてやりたいと思ってしまう。
「母さん、明日は父さんがいないから村へ行かないって言ってたろ」
不甲斐なさに拳を握りしめる。俺も力になりたい。
「俺が付き添うよ。攻撃魔法の訓練もしてるし、護衛くらい務まるはずだ」
母さんは優しく微笑んで、俺の頭を撫でた。地上へ出られるのが嬉しいんだろうな。
「……そうね。頼りにしてるわよ、デドゥー。あなたも立派な『小さな紳士』だもの」
「母さん、もう子供じゃないんだから……」
俺は顔を赤くして俯いた。
「ええ、分かってるわ。立派な大人よね。でも、私にとっては可愛い息子だもの」
「だから、その言い方……弟たちの前で示しがつかないだろ」
その時、窓の外に「おバカコンビ」がぶら下がっているのが見えた。ニヤニヤ笑っている。……全部聞いてやがったな。
「ひゅ〜ひゅ〜! 『大人』じゃなくて『赤ちゃん』の間違いじゃないのか〜?」
長男坊(俺の次)のサリエルだ。お調子者のリーダー格で、隙あらば人を茶化す。
「『デデ』ってのは、アデゥの略じゃなくて『ベベ(赤ちゃん)』の略だったんだな!」
次男坊のエレンディルが追い打ちをかける。サリエルの真似ばかりする、二番目のおバカだ。
俺はソファのクッションを引っ掴み、二人目掛けて投げつけた。奴らは見事な連携でひょいと避ける。
「お前ら、覚えてろよ。寝てる間に後悔させてやる……」
そんな騒ぎを、母さんは「みんな元気ね」と幸せそうに見守っていた。
翌朝。俺は早起きして、母さんと共に村へ向かった。
出発する前、愛すべき弟たちの顔に、とびきりの「芸術」を残してやるのを忘れなかったけどな。
χ — シャドウ (Shadow)
ヴィセニアの下で働くのは、つくづく骨が折れる。現状をこれっぽっちも分かってない堅物なジジイ共と交渉するのは、苦痛以外の何物でもない。
ただのポーションの提携話に五日もかかった。「マギ・フラッシェ雑貨店」のオーナーが、こちらの意図を履き違えて「一括買い取り」なんて契約書を寄こしやがったからだ。こっちは必要な時に必要な分だけ欲しいって言ってんのによ。
おまけに、アビゲイルは俺を「スパイ」として送り出しやがった。……まあ、スパイというよりは「試験の採点係」だな。「情報を集めてこい」なんて言ってたが、あのガキ共の情報なんてとっくに割れてる。アビゲイルの奴、オーガストを疑いすぎて俺に確認させたいだけだろ?
「……まあ、いいさ。どうでもいい」
実際、俺みたいな「遺物」の価値は日に日に薄れてる気がする。戦争も、大決戦も、倒すべき魔王もいない。ダークエルフだからって騒がれる時代でもない。一部の馬鹿な貴族を除けば、地上じゃ当たり前の存在だ。
それが良いことだとも必要だとも思わないが、毎日が白いキャンバスに灰色の絵具をぶちまけたみたいに退屈だ。「現代アート」なんて高尚な名前をつけて意味を持たせようとしたところで、結局はただの無意味な線の集まりだろ。
「……まあ、あの新米教師の描く絵は、悪くなかったがな」
そんなことはどうでもいい。重要なのは、俺の船がもうすぐ「レモトゥス」に接岸するってことだ。
レモトゥス。オーロラ海岸の極寒が嘘のような、自然の歪みに作られた街。観光客を惹きつける不思議な場所だ。
金稼ぎにはもってこいの場所だが、今日の賑わいはいつにも増して異常だ。週末に「ユニコーン・ゲーム」をしによく来るが、こんな人だかりは初めて見た。
「……きな臭いな」
こういう時は、耳の早い奴に聞くのが一番だ。レモトゥスならオーガスト。あいつはオーロラ海岸……いや、エルムンド中の情報を握ってやがる。
貧民街の路地裏を進むと、突き当たりに二人の大男が立っていた。一見ただの壁だが、ありゃ隠し扉だ。
「よお、マヌケ一号、二号。息災だったか?」
俺は皮肉を込めて手を上げた。
俺の顔を見た瞬間、奴らの表情が怒りに染まる。無理もない。前回ここへ来た時、二人がかりで俺に挑んできて返り討ちに遭ったからな。まだ目の周りのアザが消えてない。
「二度と来るなと言ったはずだが……聞こえなかったようだな」
ルフスが威圧するように俺の肩を掴んでくる。
「前回の借りは返させてもらうぞ。今度は策があるんでな」
ブルートとルフスが、それぞれ指輪を誇示するように構えた。
石の輝きからして「アメジスト・スター」。……魔法封じの指輪か。範囲効果か単体効果か、どっちかな。
「へぇ、感心したよ。少しは頭を使ったらしい。だが、一つ忘れてるぞ」
俺は腰の短剣を二振り、音もなく抜いた。
「俺が魔法なしじゃ戦えないとでも思ったか?」
この五十年間、魔法の奥義を求めて剣を置いていたのは事実だ。だが、その前の二百年で叩き込んだ剣技まで忘れたつもりはない。
予想通り、勝負は十五秒とかからなかった。魔法を使うより楽だったぜ。
転がった二人から指輪を回収する。どうやら、ホロドヌィ家が支援する犯罪組織「グラズメルシン」の手製じゃなさそうだ。
「ま、これだけの手間を取らせた代償だ。片方の目だけで済んだことを感謝して、これは頂いておくよ。……で、オーガストはどこだ?」
「ボスは、街の様子を見に出てます……」
ブルートが這いつくばりながら答える。
「遠方の泥棒共が『ヴォリ』への加入を狙って、この街に集まってきてるらしくて……」
「……なるほどな。あの物知り博士が留守か。……まあいい、どいつもこいつも馬鹿な夢を見やがって。それより、例の女の件だが——先週手紙でやり取りした女は、今日ここに来てるのか? 週末には必ず夫と、時々息子を連れて現れるって話だったが」
「ああ、それなら。今、市場で果物を買ってますよ」
ルフスも立ち上がり、言葉を継いだ。
「例の山に置いておけって言われた金も、彼女が回収したようです。……正直、なんでそんなことするのか意味わかんなかったですけどね。ボスも、俺たちは気にしなくていいって言ってましたし」
オーガストの部下二人は救いようのない馬鹿だが、たまには役に立つ。あの金貨入りの財布はオーガストの案だ。強盗を装ってガキをけしかけ、実力を測るための「エサ」としてな。問題は夫の方だ。あいつは腕が立つ。
そもそも俺が今日ここに来たのは、その夫のせいでもある。あいつは酒が入ると息子の自慢を始める悪癖があってな。抜け目のないオーガストがその情報を拾い、学校側も神童の情報には金を惜しまない。正直、話半分だとは思っているがな。親バカが息子の訓練を見て、話を盛っているだけという可能性も捨てきれない。
だが、アビゲイルが興味を示したのは、彼らが「エルファリン・チャイヌアム」だからだ。暮らしぶりこそ俺たちダークエルフに似ているが、あの忌まわしい「呪いの歴史」のせいで人々は彼らを避ける。アビゲイルは、そこに彼ら独自の魔法の深淵が隠されていると考えているらしい。
オーガストの調査によれば、彼らは少し前までここから遠くない村に住んでいたが、村長に血筋がバレて追放されたそうだ。人々を災厄に巻き込むのを恐れたんだろう。……まあ、無理もない。彼らの呪いの伝説は、あながち作り話でもないからな。
「おい、デカブツ共。お前らにも手伝ってもらうぞ。付いてこい」
我ながら、偏見に満ちた完璧な「泥棒ルック」を三人分用意したものだ。あとは、この二人に「いつも通りの馬鹿」を演じさせれば、作戦は完璧に進むはずだった。
プランは単純だ。買い物を終え、人混みを離れたところで襲いかかる。この二人が夫婦を押さえつけている間に、俺がガキに精神的プレッシャーをかける。そうすれば、隠し持っている力を出し惜しみはできないはずだ。
「……待て」
ターゲットを視界に捉え、俺は眉をひそめた。
「なんで一人なんだ? 夫はどうした」
「え、ああ、そういえば。変っすねぇ?」
ブルートが露骨に目を逸らす。
「今日に限って、なんでいないんだ……」
ルフスは俺の制裁を予感したのか、じりじりと後ずさりし始めた。
「……貴様ら、筋肉と一緒に脳みそまで削ぎ落としたのか」
まあいい。少なくともガキの方はいる。あいつがいなけりゃ話にならなかった。
彼らが山道に入るのを待ち、ようやく「その時」が来た——と思った、まさにその瞬間だ。
俺たちが動くより先に、「ヴォリ」の紋章をマントに刻んだ連中が三人、彼らの前に躍り出た。フードを深く被っていて素顔は見えない。……ちっ、予定外の乱入者が、俺の計画を台無しにしやがった。……あるいは、利用できるか。
「下がって、母さん! 俺が——」
ガキはヒーローを気取ろうとしたが、現実は残酷だ。三人のうち一番の大男が放った槍が、ガキの腹部を容赦なく貫き、背後の木に縫い付けた。
「おっと。ハハッ、やりすぎちまったか……」
急所を外した程度の攻撃で、槍使いの男は滑稽なポーズを決めて笑い転げている。自分を大悪党か何かだと思い込んでるのか?
だが、都合はいい。少なくともこの二人は偽物だ。「ヴォリ」への加入を認めてもらいたいだけのごろつきだろう。本物ならガキは即死しているし、マントの縫製も粗末なもんだ。……気になるのは、一人だけ落ち着き払っているあの男か。
「ヒヒヒッ」
今度は一番小柄な奴が口を開いた。
「金が目当てだったが、この女……上等じゃねえか。見逃す手はねえな」
「悪くないな」
大剣を背負ったリーダー格が冷たく言い放つ。
「だが、イリンク。お前の変な癖で傷つけるなよ。俺たちが『使った』後、売り飛ばすんだからな」
……クズ共が、一線を越えやがった。それでもガキは動かない。オーガストの見込み違いか? そう判断し、俺が動こうとしたその時——。
「……やめろぉぉぉ!」
ガキが叫んだ。
「貴様ら……殺してやる! ぶち殺してやるッ!」
「威勢がいいねぇ、ヒヒッ!」
小男が毒の滴る短剣を抜いた。
「この毒でじわじわ死ねよ。母親が『道具』として使い潰される様を眺めながらな!」
俺が割って入ろうとした瞬間、ガキが詠唱を始め、奇妙な儀式の身振りを取った。「マジック・ミサイル」でも放つのかと思いきや、奴は自らの両手首を切り裂いた。
「ハハハッ!」
槍の巨漢が嘲笑う。
「ビビって自殺かよ、イリンク!」
奴らは笑っていたが、大剣の男だけは表情を硬くした。俺も気づいた。あいつ、本来なら必要のない「生命力」を触媒として魔法に注ぎ込みやがった。
「狩猟の精霊よ、我が声を聞け。だが求めるは汝らではない——」
ガキの前に三つの光の矢が浮かび上がる。
「我が血を以て、深淵を召喚せん。先祖の霊よ、来たりてこのクズ共を墓場へ引き摺り込めッ!」
溢れ出した血が光の矢に吸い込まれ、そのエネルギーは密度を増していく。一瞬で漆黒の魔力へと変貌した矢が、周囲の空間を歪ませた。
「死ねぇッ!」
放たれた一本目の標的は、自分を槍で突いた巨漢だ。男は母親を盾にするように押さえつけていた。軌道上、母親に当たるかと思われたが、矢は彼女の目の前で急旋回し、男の左肩を直撃した。
「ぎあああっ、俺の肩が!」
驚いたことに、男の肩の一部が消滅していた。まるで、最初からそこに物質など存在しなかったかのように。
最初の一撃は見事だったが、それは囮でもあった。相棒の惨状に目を奪われた小男は、残る二本の存在を忘れていた。
次の瞬間、小男は自分の股間を見下ろした。……そこには、もう何もなかった。
激昂したガキは、奴にとって最も大切な「宝物」を奪い去ったらしい。
小男が悲鳴を上げる間もなく、二本目の矢が右肘を粉砕した。短剣と共に、前腕が地面に転がる。
「あああぁぁッ! クソがッ! 殺せ、ルシウス! そいつを殺せッ!」
のたうち回る小男のフードが外れ、その正体が露わになった。……ゴブリンか。だが、ガキはよくやった。限界を超えた反動か、ガキはそのまま意識を失った。出血がひどい、これ以上は危険だ。
「ブルート、ルフス。お前らも、このクズ共に反吐が出てるだろ? ……好きにしろ。許可してやる」
俺の言葉が終わる前に、二人は奴らへ飛びかかった。ガキの攻撃で虫の息だった連中を、一撃で沈める。二人は気絶した連中を引き摺り、悲鳴も聞こえないような奥へと消えていった。
……さて、残る問題は一人だ。
「おい、貴様は何者だ?」
ずっと気になっていた。あの大剣の男だけは、一切取り乱さず、自慢話もしなかった。そして彼のマントには、あのごろつき共のような粗末な紋章は刻まれていない。
「おや……まさか、暗闇の暗殺者『シャドウ』殿に会えるとはな」
男がフードを少し上げると、鼻から上を隠すマスクが現れた。
「どうやら、目的は同じようだが……」
男がガキに視線を向ける。……ありえない。なぜ俺の正体を知っている?
だが、詮索は後だ。このガキを奴に渡すわけにはいかない。この少年には、間違いなく「何か」がある。
「俺を知っているなら、挑むのがどれほど愚かか理解しているはずだが?」
「ああ、全くだ。だが残念だよ。稀代の『虚無魔法』の使い手を、君に預けておくのはね」
男はポケットから指輪を取り出した。その宝石は不気味な輝きを放っている。
「……まあ、今のうちに楽しんでおくがいい。すぐに見つけ出してやる。……さらばだ。次の邂逅まで生きていれば、だがね」
指輪をはめた瞬間、男の姿が消えた。不可視化を見破る眼鏡で追ったが、形跡すらない。転移魔法か。
「……ちっ、厄介な奴に目をつけられたな」
「ありがとうございます……。本当に、助かりました」
「礼には及ばん。見過ごせなかっただけだ」
この母親も、ただ者じゃないな。俺が男と対峙している間に、強力な治癒魔法でガキの容体を安定させていやがった。……大したもんだ。
「……あの、お聞きしてもいいかしら? あなたたちは、どこかのサーカス団の方?」
「……サーカス?」
予想外の質問に、俺は素で困惑した。
「なぜ、そんなことを」
「いえ、その……お洋服が、とってもユニークだったから。ふふっ」
服装だと? ……もしや、俺の「泥棒のステレオタイプ」は時代遅れすぎたのか? 背後で、戻ってきた二人の馬鹿が必死に笑いを堪えている。
「ああ、そう……その通りだ」
……屈辱だ。
「ちょうど、隣の村で公演があるもんでな。通りかかっただけだ」
「あら、素敵! レモトゥスにいらした時は、子供たちを連れて観に行きますね!」
「……ああ、ぜひそうしてくれ」
……誰か、この時間を止めてくれ。
「さて、俺の仲間がこのガキを家まで運ぶ。……いいな、お前ら?」
俺は二人に対し、拒絶すれば命はないという怒りを込めた視線を送った。
「あ、ああ! もちろんだぜ、兄貴!」
「任せとけって、兄貴!」
道化共め。まあ、家までの正確な道筋を把握させる役には立つだろう。ロックが着いた時にスムーズに動けるようにな。
「……さらばだ。俺はあそこで待っている」
彼らを見送った後、俺は合流地点へ向かった。転移の儀式を誰かに見られるわけにはいかない。その前に、あの「お花畑」に連絡を入れなきゃならん。通信クリスタルを取り出す。
ε — ロック (Locke)
あーあ、退屈。シャドウと最後に連絡取ってから半日。長すぎでしょ。あの情報、本当に合ってんのかね?
まあ、このフカフカのソファに沈んでられるのは最高だけど。雲の上に座ってるみたいに、体を優しく包んでくれるんだよね。……あ、寝落ちしちゃダメだ。シャドウからの連絡、聞き逃しちゃうから。
『……おい、お花畑。聞こえるか?』
部屋に低い声が響いた。机の上の通信クリスタルからだ。
「よお! 稀代のトレジャーハンターにして、最強魔導士の——」
『……いいから。その前口上は俺一人の時にしろ』
シャドウが遮る。
『例のガキの情報はマジだった。他にも狙ってる奴がいたが……あいつ、「虚無魔法」の使い手だ。それも、とんでもなく強力なな』
「へぇ……」
聞いたことない魔法だけど、シャドウが「強力」って言うくらいだ。相当ヤバいんだろうね。
「了解。じゃあ、そっちで転移陣の準備よろしく」
『ああ。忘れ物すんなよ。この陣は、スターウィンドとドラクーンの国境付近、ガキの住んでる村の寺院まで繋ぐ。一度飛んだら戻れねーぞ。……余計なことはするなよ』
「わかってるって!」
もちろん、指をクロスさせながら返事したけどね。
「ところで、シャドウはベヌの調査に行くんだろ? ガキの家までは誰が案内してくれるんだよ」
『あのごろつき二人が、女とガキを運んでいった。ブルートとルフスって名前だ』
「特徴教えてよ。名前だけじゃわかんないって」
『……あいつらは……』
なぜか、シャドウが言葉を濁した。
『……ピエロの格好をしてる』
「……は? なんでピエロ?」
『……切るぞ』
ブチッ、と通信が切れた。
……まあいいや。なんか変だけど。部屋に描かれた魔法陣が輝き始めた。出発の合図だ。
「忘れるもの」は、強いて言えば帰還用のブレスレットくらいかな。あの子たちとちょっと遊ぶのに、すぐ帰れる道具なんて持ってたってつまんないし。
あー、楽しみ! ゴブリンの巣窟とか見つけて、あの子たちを放り込んで実力テストしちゃおっかな。ワクワクが止まらないよ!
……あ。一つだけ心配なことがあるとすれば、あの子たちが「遊び」のわからない、真面目くさった退屈な子じゃないかってことくらい。
グルトク様、どうか楽しい子たちでありますように……!




