表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

凶拳のバイオリニスト 世界ヘビー級王者 ジェム・メイス(1831-1910)

作者: 滝 城太郎

近代ボクシングにおいてフットワーク革命を起こしたジェームズ・J・コーベットを「近代ボクシングの父」、「近代ボクシングの革命児」などと讃えている文献は多いが、グローブボクシングに対応したコーベットの防御技術やフットワークの原型はメイスが編み出したものである。ただし、メイスの全盛時代はベアナックルファイトの時代でプロレス技も融合されていたので、メイスの先進性にはあまり注目が集まらなかった。だからこそメイスの進化系といっても過言ではないコーベットは、メイスのことを先駆者として尊敬していたのだ。


 ジェム・はメイスはベアナックルファイターとして一時代を築いただけでなく、世界各地でボクシング教室を開き、世界ミドル級、ライトヘビー級、ヘビー級の三冠を制したボブ・フィッシモンズや十九世紀最強の黒人ヘビー級ボクサーとして活躍したピーター・ジャクソンらを世に送り出した指導者としても著名だが、本人にとっての終生の本業はバイオリニストであった。

 イギリスのノーフォーク州の辺鄙な田舎町ビーストンの鍛冶屋の息子として生まれたメイスは、子供の頃から木こりの手伝いのような仕事をしていたが、趣味であるバイオリンにどっぷりはまってしまい、十代中頃には家を出てストリートミュージシャンへの道を歩み始めた。

 もっとも独学で学んだバイオリンを街角で弾いているだけで生活が成り立つほど世の中甘くはない。

 地方の祭りから祭りへと渡り歩くジプシー生活を支えていたのは、凄腕のスリという裏の顔を持っていたからである。

 十九世紀中頃のボクサーの戦績は、公式戦と単なる見世物の区別がつかないばかりか、勝敗もはっきりしないものも多いため資料によって数字もまちまちだが、現存するメイスの最も古い試合記録は一八四五年四月十日となっていることから察するに、元々腕力は強く、ジプシー生活のかたわら賭け試合のようなものに出場していたと思われる。

 大抵のメイス関係の記事では、ボクサーになるきっかけは、十八歳の時に港町で三人の酔っ払いから喧嘩を売られ、全員を返り討ちにするところを見ていたサーカス団の団長にスカウトされた、ということになっている。

 以後、サーカス団とともに旅し、行く先々で挑戦者の相手をするようになったとのことだが、一八五〇年四月十七日にノーウィッチでジョン・プラットに五十ラウンドKO負けの記録が残っており、本格的にボクシングを始めてわずか一年足らずでこれほどのマラソンファイトをこなせたとは考えにくい。

 やはり港町での喧嘩話は著名になってから後付けされた講談のようなもので、ジプシー時代からそれなりにベアナックルファイトをこなし、ボクサーとしての下地は出来ていたと見るべきだろう。

 因縁のジョン・プラットに八ヶ月後に報復(八ラウンドKO勝ち)して以降、順調に勝ち星を重ねたメイスは一八五八年には英国ミドル級王座に挑戦するまでになるが、ボブ・ブリットに二ラウンドでKOされ、タイトル獲得はならなかった。

 二年後のブリットとのリターンマッチも六ラウンド引き分けに終わるが、直後のラバーマッチは五ラウンドにKO勝ちし、二十九歳で英国ミドル級の頂点を極めた。

 メイスの凄いのはここからである。翌一八六一年六月十八日、一七七センチ七十二キロとほぼミドル級の体格のメイスは、一九〇センチ八〇キロの英国ヘビー級チャンピオン、サム・ハーストに挑戦し、八ラウンドにストップ勝ちしてしまうのだ。

 荒々しいファイトが身上のハーストは、独学で編み出したメイスのジャブとダンスをしているようなフットワークに全くついてゆけず、もはや勝ち目がないと見たセコンドが試合を止めてしまった。

 英国ヘビー級王座は一八六二年十一月二十六日の二度目の防衛戦で、トム・キングに二十一ラウンド判定負けで失ったものの、一八六六年八月六日にミドル級時代からの好敵手ジョー・ゴス(キング引退後に王者となる)に二十一ラウンド判定勝ちで奪還している。

 英国ボクシング界の雄ジェム・メイスの名声はやがて海の向こうのアメリカにまで轟き、一八七〇年五月十日、ルイジアナ州ニューオリンズで全米ヘビー級チャンピオン、トム・アレンとの事実上の世界一を決することになった。

 実はトム・アレンは英国人である。アメリカに渡ってチャンピオンになったので、メイスとの試合は同国人対決ということになり、文献によっては世界選手権として認めていないものもある。

 一八〇センチ八〇キロのアレンは当時のヘビー級としては平均的な体格で、メイスよりは一回り大柄である。しかもつかみ合いありのロンドン・プライズルールで試合が行われたため、離れては殴り合い、接近戦では首を絞め合うという壮絶な喧嘩ファイトになったが、圧倒的不利と予想されていた三十九歳のメイスのジャブが八歳年下のアレンを右目を完全に塞いでしまい、メイスのペースで試合は進んでいった。

 十ラウンド、アレンが捨て身の投げ技でメイスをマットに叩きつけるも、自身の打ち所も悪かったため(腕の捻挫か骨折だったらしい)試合続行が不可能となり、メイスが勝者として宣せられた。

 アメリカでも英雄となったメイスはその知名度のおかげで、ブロードウェイのミュージックホールでのバイオリンの演奏の方が半ば本業となっていった。一八八〇年代には建立後間もないメトロポリタン・オペラハウスの舞台にも立っているくらいなので、腕前も玄人はだしだっただと考えられる。

 世界ヘビー級王座の防衛戦は翌一八七一年に二度行われ、二度ともノーコンテストになっているが、その後いつまでタイトルホルダーと見なされていたのかは不明である。

 一八七七年一月二十六日にサンフランシスコで行われたビル・デイビスとの一戦は、メイスのボクシング人生の大きな転機となった。

 この試合はこれまでのような素手ではなくグロープをつけて行われ(クインズベリー・ルール)、四ラウンドにKO勝ちを収めたメイスは、三月にオーストラリアに渡ると、各地でエキジビションを通じてグローブボクシングを広めてまわったからである。

 メイスがに近代ボクシングのパイオニア」という称号が与えられているのは、今日のルールに基づくボクシングを世界中に根付かせた実績に基づくものだ。

 一八八二年二月までオーストラリアで暮らしたメイスは、メルボルンでホテルを経営する一方、弟子のラリー・フォリーとともにボクシング教室を開いて後進の育成に当たった。この時期にフォリーが見出して一流のヘビー級ボクサーに仕立て上げたのが、シドニーでは著名な水泳選手だったピーター・ジャクソンである。

 一八八二年三月にはニュージーランドのオークランドに居を構えて同地でのボクシング指導に専心した。その中の練習生の一人に後の重量級三冠王ボブ・フィッシモンズがいた。

 ジャクソンとフィッシモンズはメイスと直接の師弟関係はないが、メイスがオーストアリアとニュージーランドで熱心にボクシングというスポーツの魅力拡散に尽力しなければ、彼らの輝かしいボクシング人生はありえなかったことだけは確かである。

 一八八三年、メイスはニュージーランドで目をかけたハーバート・スレイドというアイルランド人とマオリ族のハーフのボクサーを従えて、ニューヨークやロンドンでエキジビションツアーを行った。

 メイスより一回り大きなスレイドはボクサーとしては大成しなかったが、ジョン・L・サリヴァンのスパーリングパートナーとして重宝されている。

 久々に故郷イギリスに戻ってきたメイスは、時折エキジビションやレフェリーで大衆の前に姿を現すことはあっても、ほぼセミリタイア状態で、ホテルや居酒屋の経営に精を出していた。

 ところが口は災いの元で、イギリスボクシング界の悪口を吹聴しまくったのが仇となったか、メイスの言動に立腹した英国ヘビー級チャンピオン、チャーリー・ミッチェルからの挑戦を受けるはめになってしまった。

 ミッチェルはヘビー級で活躍しているとはいえ、元々ライト級上がりで、体格もメイスと変わらないミドル級だったので、安直に請け負ってしまったのかもしれない。

 一八九〇年二月七日、スコットランドのグラスゴーで開催された英国ヘビー級タイトルマッチに出場したメイスはこの時五十八歳だった。

 現役の世界ヘビー級チャンピオン、ジョン・L・サリヴァンの王座に挑戦し、ダウンを奪いながらも引き分けという実績を持つミッチェルのパンチは強烈で、同時代のボクサーの中では卓越した防御技術を誇ったメイスもお手上げだった。

 結局この試合は、ご老体のメイスが一方的に打たれているところに警官が止めに入り試合終了という締まらない幕引きとなったが、なぜかいがみ合っていた二人は本気で殴り合ったのを機に意気投合し、翌月からは二人して国内をエキジビションツアーで回っている。人気者の二人だけに、このツアーは大盛況だったようだ。

 すでにメイスの時代は終わっていたが、根が目立ちたがり屋なのか、再び渡米すると、一八九七年九月と一八九八年十二月に元世界ミドル級チャンピオンのマイク・ドノヴァンと四ラウンドの試合を行い、いずれも引き分けている。ドノヴァンも四十代半ばの高齢だが、メイスは六十代後半である。よく試合の許可が下りたものだ。

 公式戦の記録はここまでだが、老いてますます盛んなメイスは一九〇三年に今度は南アフリカに渡り、翌年までケープタウンでボクシング教室を開いていた。ここでもボクシングを広めるためにエキジビションのリングに立っているのだから驚く。

 残念ながら反英感情が高まっていた当時の南アフリカでは、オーストラリアやニュージーランドのようにボクシングは受け入れてもらえず、メイスは一年足らずで帰国の途につくが、彼ほど世界中を巡ってボクシングを広めた男もいないだろう。

 ドノヴァンとの対戦のためニューヨークに戻った際に時の世界ヘビー級チャンピオン、ジェームズ・J・コーベットから「このスポーツの地位向上に貢献した人物」として称賛されたのは当然のことといえよう。 

 一九〇五年四月にロンドンで行われたエキジビションが彼にとって記録上最後のリングとなったが、一九〇九年(七十八歳)までリングに上がっていたという未確認情報も残っている。

 前身がスリのジプシーということもあってか私生活はでたらめで、五人の女性との間に十四人もの子をもうけたほか、ギャンブル三昧の日々を送り続けたあげくに、全財産(百万ドルは稼いだといわれる)をすっかり使い果たしてしまった。リングに上がれなくなったメイスに残されたものはバイオリンだけだった。

 死の直前の一九一〇年十一月、ニューカッスルのコンサートホールの満員の観客の前で演奏したシューベルトの「白鳥の歌」がメイスのバイオリンの聴き収めとなった。

 同じ月の終わりに、浮浪者のように行き倒れて亡くなった。享年七十九歳、生涯愛してやまなかったバイオリンを抱いたまま路傍で事切れていたそうである。

 生涯戦績 二十五勝五敗(十六KO)四分 判明分

メイスのボクシングの継承者であるピーター・ジャクソンとボブ・フィッシモンズにはさすがのコーベットも痛い目にあっていることから、全盛期のメイスとコーベットが戦っていれば、メイスの方が勝っていた可能性もある。何といってもメイスは名うてのスリだったから、ハンドスピードはとてつもなく速かったはずで、もしかしたら現代のボクサーでもメイスのジャブは見切れないのではないだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ