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浄水槽のささやき

都会での消耗戦に敗れ、再起を誓って過疎化が進む限界集落「水楢村みずならむら」に移住してきた若い夫婦、健太と由紀。手に入れた格安の古民家と、村人たちの過剰な歓迎。だが、その村の生活用水は、山奥の古い共同浄水槽から供給される「特別な水」だった。蛇口から聞こえる微かな「ささやき」が、やがて夫婦の愛と正気を蝕んでいく。村の水を飲んだ者は、決して村から出られない。なぜなら、浄水槽に潜む「何か」は、常に新しい「器」を求めているからだ。これは、逃げ場のない共同体で、愛する人を犠牲にしなければ生き残れない、究極の選択の物語。

東京という街は、巨大な擂り鉢だった。俺、立花健太のささやかな夢も、妻・由紀との未来予想図も、その中で容赦なくすり潰され、形を失っていった。デザイン会社での過労で心身を病み、休職。貯金は、あっという間に底をついた。家賃の安いアパートへ移り、切り詰めた生活を送る日々。窓の外に見えるのは、隣の建物の、汚れたコンクリートの壁だけ。かつては笑い合っていた俺と由紀の間には、いつしか、重く、冷たい沈黙が横たわるようになっていた。

そんな俺たちに、一筋の光が差し込んだのは、インターネットで見つけた、一つの自治体の移住支援プログラムだった。

『清流の里、水楢村みずならむら。豊かな自然の中で、新しい人生を始めませんか? 古民家バンク登録物件、格安で提供。手厚い支援金制度あり』

画面に映し出されたのは、青々とした山々と、その麓に抱かれるように点在する、黒い瓦屋根の家々。写真の中の空は、東京では見たこともないほどに、青く、澄み渡っていた。


「ねえ、健太。ここ、どうかな……?」


由紀が、久しぶりに、期待の色を宿した目で、俺を見た。その瞳に、俺は賭けたかった。失ってしまったもの全てを、ここでなら、取り戻せるかもしれない。俺たちは、なけなしの貯金をかき集め、ほとんど逃げるようにして、東京を後にした。

水楢村は、想像以上に、静かな場所だった。村役場の職員の話では、現在の人口は五十人にも満たない、典型的な限界集落だという。俺たち夫婦のような、三十代の移住者は、まさに、村の存続を賭けた希望の星なのだと、村長は、皺だらけの手で俺たちの手を握り、何度も言った。

村人たちの歓迎は、正直、過剰なほどに、温かかった。家の前を通りかかるだけで、採れたての野菜や、手作りの漬物を、当たり前のように渡される。誰もが、俺たちの名前と、東京から来たという事実を知っていた。プライバシーという概念は、この村には、存在しないのかもしれない。だが、都会の無関心に、心を凍らせていた俺たちにとって、その、少しお節介なほどの温かさは、むしろ、心地よく感じられた。

俺たちが手に入れた古民家は、村の中心部から、少しだけ離れた、丘の中腹に建っていた。太い梁が渡された高い天井、陽光が差し込む広い縁側。確かに、古くはあったが、丁寧に手入れされており、すぐにでも生活を始められる状態だった。そして、何より、その家が、信じられないほどの、格安の値段で、手に入ったのだ。


「なんだか、夢みたいだね」


由紀は、縁側から、眼下に広がる、棚田の風景を眺めながら、本当に、久しぶりに、心の底から、笑った。その笑顔を守れるなら、俺は、何でもできる、と、本気で思った。

生活を始めて、数日後のことだった。村のインフラについて、村長から、説明を受けた。


「この村には、上水道は、通っとらんのです。生活用水は、全て、あれで、賄っとります」


村長が、指差した先。それは、村を見下ろす、山の、さらに奥。鬱蒼とした木々の間に、辛うじて見える、古びた、コンクリートの建造物だった。

「村の共同浄水槽ですわ。山からの湧き水を、一度、あそこに溜めて、各家庭に、配水しとる。昔から、『楢水様ならみずさま』と呼んで、村の大事な、命の水として、守っとるんです。水質検査も、ちゃんとしとるし、都会の水道水より、よっぽど、美味いですよ」

村長は、そう言って、にこやかに笑った。

確かに、その水は、驚くほど、美味かった。蛇口から、直接、グラスに注いだ水は、ひんやりと冷たく、口に含むと、僅かな、甘みさえ感じられる。ミネラルウォーターなど、足元にも及ばない、清冽な味。俺も由紀も、すっかり、この「楢水様」の虜になった。料理に使えば、野菜の味が、引き立つ。風呂を沸かせば、肌が、すべすべになる気がした。この水こそが、この村の、豊かさの、象徴なのだと、俺たちは、疑いもしなかった。

異変の、最初の兆候は、本当に、些細なことだった。

夜、俺が、一人で、書斎で、デザインの仕事をしている時のことだ。静まり返った家の中で、ふと、奇妙な音が、聞こえた気がした。それは、家の、どこかから、聞こえてくる。

(……し……て……)

囁くような、か細い声。風の音か、あるいは、家の、どこかが、軋む音か。俺は、その時は、特に、気にも留めなかった。

だが、その日から、その「声」は、頻繁に、聞こえるようになった。そして、気づいた。その声は、いつも、水回りから、聞こえてくるのだ。キッチンの、シンク。風呂場の、シャワーヘッド。トイレの、タンク。

そして、それは、ただの、空耳では、なかった。

それは、明確な、言葉を、持っていた。


『……こ……わ……し……て……』


それは、女の、声のようだった。ひどく、苦しそうな、懇願するような、声。俺は、由紀に、このことを、話すべきか、迷った。せっかく、元気を取り戻しつつある彼女を、不安にさせたくなかった。これは、まだ、都会でのストレスを引きずっている俺の、幻聴なのだと、自分に、言い聞かせた。

しかし、ある晩、俺の、その、淡い期待は、打ち砕かれた。


「ねえ、健太……」


ベッドの中で、由紀が、震える声で、俺に、話しかけてきた。


「最近、変な声、聞こえない……? お風呂に入ってると、聞こえるの。『壊して』って……」


俺は、心臓が、氷水に、浸されたかのように、冷たくなった。由紀にも、聞こえていたのだ。これは、幻聴などでは、ない。

俺たちは、二人で、家中を、調べた。だが、もちろん、声の、発生源など、見つかるはずもなかった。声は、不規則に、そして、唐突に、水の中から、湧いてくる。

俺たちは、村長に、相談することにした。何か、この家に、纏わる、因縁でも、あるのかもしれない。


「ああ、そのことですか」


俺たちの、切迫した訴えを聞いても、村長は、少しも、動揺した様子を見せなかった。その、落ち着き払った態度が、逆に、俺たちの、不安を、煽った。


「それは、前の、住人でしょうな。少し、心を、病んでおられた方で。最後は、この家の、風呂場で、自分で、命を……。まあ、古い家には、よくあることです。気にせんことです」


村長は、そう言って、話を、打ち切ろうとした。だが、俺は、食い下がった。


「でも、聞こえるんです!『壊して』って、はっきりと!」


すると、村長は、それまで浮かべていた、人の良さそうな笑顔を、すっと、消した。そして、その、皺深い瞳で、じっと、俺たちの目を、見つめ、言った。


「立花さん。あなた方は、もう、この村の、家族です。家族なら、村の、ルールには、従ってもらわんといかん」


「ルール……?」


「この村のことは、外には、漏らさんこと。そして、何があっても、決して、この村から、出ては、いかん。あなた方は、もう、『楢水様』を、飲んでしまったんじゃからな」


その言葉は、静かな、しかし、絶対的な、響きを持っていた。それは、警告であり、そして、宣告だった。

俺たちの、背筋を、冷たい汗が、伝った。村人たちの、あの、過剰なまでの、歓迎。格安すぎる、古民家。全てが、俺たちを、この村に、縛り付けるための、巧妙な、罠だったのだ。

その日から、俺たちの、生活は、一変した。

村人たちの、目は、もはや、温かい、歓迎の目ではなかった。それは、監視者の、目だった。俺たちが、どこへ行こうと、何をしようと、常に、誰かの、視線が、突き刺さる。

俺たちは、村から、脱出することを、決意した。夜、村人たちが、寝静まるのを待って、車に、最低限の荷物を、積み込んだ。だが、エンジンが、かからない。何度、キーを回しても、うんとも、すんとも、言わない。昼間、村の、男たちが、俺たちの車の周りで、何か、作業をしていたのを、思い出した。彼らが、何か、細工をしたのだ。

携帯電話も、いつの間にか、「圏外」の表示になったまま、戻らなくなっていた。俺たちは、完全に、この村に、閉じ込められたのだ。

そして、「声」は、さらに、エスカレートしていった。


『……こ……わ……し……て……わたしを……ここから……だして……』


『……か……わ……り……を……つれてきて……』


俺と由紀は、疲弊しきっていた。眠れない夜が続き、互いに、苛立ちを、ぶつけ合うようになった。かつての、東京での、悪夢のような生活が、形を変えて、再び、俺たちを、苛んでいた。

俺は、もう一度、一人で、あの浄水槽について、調べることにした。昼間、村の、図書館で、古い、郷土資料を、漁った。そして、一冊の、手書きの、古文書の、中に、その記述を、見つけたのだ。

『水楢村、禁忌。

山の、浄水槽、人呼んで、楢水様。その、実体は、古き、水の神を、鎮めるための、生贄の、器なり。

水の神は、常に、人の、魂を、喰らう。

故に、村は、常に、一人、生贄を、その水に、捧げなければならない。

生贄の魂は、水に、溶け、浄水槽の、壁となり、神を、封じ込める。

だが、魂は、永遠ではない。時と共に、その力は、薄れ、水の中から、叫び始める。「壊して(私を解放して)」「代わりを(次の生贄を)」と。

声が、聞こえ始めたら、村は、新たな、生贄を、探さねばならない。

水の中から、選ばれたる、次の、器を。

そして、その役目は、多く、村に、新しく来た、ヨソモノが、担うことになる』

俺は、全身の、血の気が、引くのを感じた。

前の住人が、心を病んで、自殺した、というのは、嘘だ。彼女は、生贄に、選ばれたのだ。そして、今、水の中から、聞こえる声は、その、彼女の、魂の、叫びなのだ。

そして、「代わり」とは。

その時、俺は、理解してしまった。

俺と由紀。俺たち、二人のうちの、どちらかが、次の、生贄なのだ。

家に、帰ると、由紀が、青ざめた顔で、俺を、待っていた。


「健太……村長さんが、来て……」


由紀の、手には、一枚の、和紙が、握られていた。そこには、ただ、一言。


『どちらか、選びなさい』


と、書かれていた。

それは、悪魔の、選択だった。

俺が、生き残るか。

由紀が、生き残るか。

俺たちが、愛し合い、再起を誓った、この場所で、互いの、命を、天秤に、かけなければならない。

その夜から、俺たちの、最後の、戦いが始まった。

それは、村人たちとの、戦いではなかった。俺と、由紀の、心の、内側での、醜く、そして、悲しい、戦いだった。

「声」は、もはや、俺たち、二人にしか、聞こえなくなっていた。そして、その内容は、より、具体的で、甘美な、囁きに、変わっていた。


『……ユキを、選びなさい……そうすれば、あなたは、助かる……』


俺の耳元で、水が、そう、囁く。


『……ケンタを、生贄に……そうすれば、あなたは、自由になれる……東京に、帰れる……』


由紀の、耳元で、水が、そう、誘惑する。

俺たちは、互いを、信じられなくなった。

相手が、自分を、犠牲にしようとしているのではないか。そんな、疑心暗鬼が、毒のように、俺たちの、心を、蝕んでいく。

かつて、愛を、囁き合った唇は、今や、互いを、罵り、傷つけるための、刃と化した。


「お前が、いなければ、俺は、こんな村に、来なくて済んだんだ!」


「あなたこそ、甲斐性がないから、こんなところにしか、住めないんでしょ!」


俺たちは、壊れていった。ゆっくりと、しかし、確実に。

ある晩、俺は、キッチンで、一人、水を飲んでいた。

その時、背後で、物音がした。振り返ると、そこに、由紀が、立っていた。その手には、台所にあった、包丁が、握られていた。

その、目は、俺の、知っている由紀の目では、なかった。それは、水に、心を、乗っ取られた、何かの、目だった。


「……ごめんね、健太……でも、私、生きたいの……」


由紀が、ゆっくりと、こちらへ、向かってくる。

俺は、恐怖で、体が、動かなかった。死ぬ。由紀に、殺される。

その時、だった。

蛇口から、水が、ぽたり、と、落ちた。

そして、声が、聞こえた。今度は、はっきりと、俺の、脳内に、直接、響いた。


『……チャンスだ……彼女を、突き飛ばせ……そして、浄水槽へ……彼女こそが、器に、ふさわしい……』


それは、悪魔の、囁きだった。だが、その、囁きは、俺の、心の、最も、暗い部分、生き延びたいという、本能的な、欲望を、的確に、突いてきた。

そうだ。俺は、生きたい。

由紀を、犠牲にしてでも。

俺は、床を、転げるようにして、由紀の、攻撃を、かわした。そして、無我夢中で、家を、飛び出した。

向かう先は、一つしかない。

山の、奥にある、あの、共同浄水槽だ。

夜の、山道は、獣道のように、険しかった。木の枝が、顔を、打ち、足は、何度も、もつれた。後ろから、由紀が、狂ったような、叫び声を上げながら、追いかけてくるのが、聞こえる。

俺は、ただ、走った。生きたい、という、一心で。

そして、ついに、たどり着いた。

月明かりに、照らされた、コンクリートの、巨大な、塊。

共同浄水槽。楢水様。

その、側面には、古びた、鉄製の、梯子が、取り付けられていた。俺は、それに、しがみつき、上へと、登っていく。

上には、点検用の、マンホールがあった。錆びついた、鉄の、蓋。

俺は、渾身の、力を込めて、それを、こじ開けた。

途端に、濃密な、水の匂いが、噴き出してきた。

そして、その、闇の中から、無数の、囁き声が、まるで、合唱のように、聞こえてきた。


『……おいで……こちらへ……』


『……新しい、器よ……』


俺が、中を、覗き込んだ、その時。下から、由紀が、追いついてきた。彼女もまた、梯子を、登ってくる。その、形相は、もはや、人ではなかった。


「……わたしの、かわり……」


由紀の手が、俺の、足首を、掴んだ。

俺は、咄嗟に、足を、振り払った。

その、反動で、バランスを崩した由紀の、体が、ぐらり、と、傾いだ。


「あ……」


短い、悲鳴。

そして、彼女の、体は、梯子から、離れ、闇の中へと、吸い込まれるように、落下していった。

ざぶん、という、鈍い、水音が、響き渡った。

その後、水面は、すぐに、静けさを、取り戻した。

そして、あれほど、俺の、頭の中で、鳴り響いていた、「声」が、ぴたり、と、止んだ。

俺は、マンホールの、縁に、座り込み、ただ、呆然と、していた。

俺は、由紀を、殺したのだ。

いや、違う。彼女は、事故で、落ちたのだ。俺は、悪くない。

俺は、そう、自分に、言い聞かせた。何度も、何度も。

翌朝、俺が、村に、降りると、村人たちが、総出で、俺を、出迎えた。

その、彼らの、顔には、もう、監視者の、ような、険しさは、なかった。

そこには、安堵と、そして、感謝の、ような、表情が、浮かんでいた。

「ご苦労様でした、立花さん」

村長が、俺の、肩を、叩いた。

「これで、また、しばらくは、村は、安泰です。あなたは、この村の、英雄ですわ」

俺は、何も、答えられなかった。

新しい、生活が、始まった。

村人たちは、俺を、本当の、家族のように、扱った。由紀のことなど、誰も、口にはしなかった。まるで、最初から、存在しなかったかのように。

蛇口から、聞こえていた、あの「声」も、もう、聞こえない。

水は、ただ、元の、美味しい水に、戻った。

俺は、この村で、生きていく。

静かで、穏やかな、生活。

俺は、英雄なのだ。この村を、救ったのだ。

だが、夜、眠りにつくと、夢を見る。

暗い、水の底。そこに、沈んでいる、由紀の、姿。

彼女は、何も、言わない。ただ、その、大きく、見開かれた、虚ろな目で、じっと、俺を、見つめている。

そして、時々、その、口から、小さな、泡が、一つ、こぼれる。

ぽつり。

その、泡の、音が、俺には、こう、聞こえるのだ。


『……いつか、あなたも、こちら側よ……』


『……こ……わ……し……て……』


俺は、この村から、出ることはできない。

なぜなら、俺は、知ってしまったからだ。

この、清冽な、水の、本当の、味を。

そして、いつか、この水が、再び、囁き始め、次の「代わり」を、求める時。

俺は、この村の「英雄」として、新たな、獲物を、探し、この村へと、招き入れる、役目を、果たさなければならない。

由紀が、そうであったように。

俺が、そうであったように。

蛇口を、捻る。

グラスに、注がれる、透明な、液体。

俺は、それを、一気に、飲み干す。

喉を、通り過ぎる、冷たい、感触。

ああ、なんて、美味しい、水なんだろう。

これは、俺の、血となり、肉となる。

俺は、この水と、共に、生きていくのだ。

永遠に。

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