プロローグ
……まさか自分が“店長”になるなんて、夢にも思わなかった。
ザルツブルク本社の応接室でその辞令を受け取ったとき、ゼル・リーバスの脳内はお花畑だった。
長年、しがないウェイターとしてホールを走り回っていた自分が、いきなり“店舗運営の要”を任されるとは。人生には突然ボーナスステージがやってくるものらしい。
「店長ですか!? はいっ、やります! 絶対にやり遂げてみせます!」
あのときの自分を、今なら小突いてやりたい。
何の疑いもなく飛びついたその辞令には、地雷マークでも刻印しておくべきだったのだ。
――配属先、イーストランド諸島最大級のショッピングモール「ランドリンク・イースト」。
地元民には「駅くっつきデパート」と揶揄されるこの都市型モールは、海沿いの開発区画に聳え立つ、イーストランドの発展の象徴。
だがその輝きも、ゼルが配属された“トラビア地方第1号店”の前では、急に曇ることになる。
「え? あの店に……? 店長? マジで?」
引っ越し当日、地元のタクシー運転手が信じられない顔をした。
曰く、そのカフェは「変人製造機」だの「奇人奇店の終着点」だの、散々な評判だったらしい。
でもゼルは、笑顔で言い返した。
「そんなのは過去の話ですよ。これからは違います。俺が、変えてみせますから!」
運転手は「お、おう……がんばれよ」と気圧されていた。
到着したモールは想像以上に立派だった。
高架鉄道と連結された6階建て複合施設、吹き抜けにはガラス張りの天井、エスカレーターはすべて魔力駆動。異種族対応型の案内パネルには12言語が表示されていた。
モール管理スタッフに案内されながら歩くゼルは、何度も「うわっ」「すごっ」「おおっ」と一人で感嘆詞の独り芝居。
――だが、カフェに近づくと空気が変わる。
テナントゾーンの隅、やたら暗がりの角、隣は雑貨店や服装品へと続く広い区画、そして周りには、誰も座っていないイートインエリアのスペースが、ででーんと。
ありありと“敗北のにおい”が漂っていた。
モール内にはたくさんの種族や人で賑わっているのに、まるで絶海の孤島のように寄りつく人の気配がなかったのだ。
カーテンか何か、店の周りを覆い隠しているかのように。
「こちらが、……イーストランド店です」
管理スタッフの声に、“どうも”と会釈するゼル。
その先にあるのは、古びた木製ドアと、傾いた看板。
ドアを開けると、チリン、とやる気のなさそうな鈴が鳴った。
そして出会ったのだ――彼女に。
「いらっしゃいませぇー……って、は? 誰?」
カウンター奥に立っていたのは、超絶無愛想なエルフの女性だった。
長い銀髪は無造作にまとめられ、目元はアイマスクのように重く垂れ、接客の「せ」の字も忘れてそうな態度。
袖口のネームプレートには《ミーナ》の文字。
「き、君がこの店のパートさん……?」
「えぇー……まぁ、そうだけどぉ? 社員は今どこ行ってんの? あ、まさか、アンタ?」
「そ、そうです。あの、今日から新しく……ゼル・リーバスです。よろしくお願いします!」
名刺を差し出すゼルに、ミーナは無言でガムを噛みながらコーヒディスペンサーのスイッチを入れた。
エプソンははだけてるし、ガムって…
――それは接客態度としてどうなんだ??
「ちなみに、今スタッフは何人いるんですか?」
「さぁー……知らなーい。最近、誰も来てないから」
「えっ」
「厨房のコボルドは辞めたし、バイトのドワーフは結婚して引っ越したし。あ、配膳担当のケットシーは急に“悟り”開いて辞めたよ」
「辞め方が多種族的すぎる」
⸻
ゼル・リーバス、着任初日。
それはもう、嵐の幕開けだった。
まさかこの店が、後に異種族系カフェチェーン最大手の第一号店になるとは……この時のゼルも、ミーナも、まだ知る由もなかったのである。