第一章:目撃された奇跡
1.
その町は、地図からはとうに消えかけていた。
長野県の山奥、かつて炭鉱で栄えたその集落は、今では高齢者と廃屋ばかり。スマホの電波も怪しい。だが久世は、新聞社の特別休暇を使ってそこに来ていた。
「朝倉凛一って人をご存じですか?」
居酒屋のカウンターで焼酎を舐めながら、久世は隣の老漁師風の男に声をかけた。男は一瞬、目を細めた。
「ああ……あの変人科学者か。水で車を動かすとか言ってたな。確か5年前、急に死んじまったよ。心臓発作だとよ。」
「遺族は?」
「いねえ。独り身だったからな……家だけはまだ残ってるが。」
それだけ言うと、男は口をつぐんだ。町の人々の間には、朝倉の話を避けるような空気があった。
2.
翌朝、久世は指定された山奥の道を進み、朽ちかけた木造の小屋に辿り着いた。玄関の鍵は壊れており、内部は散乱していた。
だが、奥の作業室だけは異様なほど整然としていた。壁一面に理論式が描かれ、床には古いCRTモニターと、配線が複雑に絡んだ謎の装置が鎮座している。銀色のタンクに「W-Fuel Cell 3.7」と記されていた。
久世は携帯のフラッシュを焚き、周囲を撮影した。ふと机の引き出しに目を向けると、鍵のかかった金属製のファイルケースが見つかった。ナンバーロック式で、3桁の数字を入力する必要がある。
「ASAKURA……凛一……」
久世は指を動かしながら、最後に試しに“314”を押した。数学者ならばまず思いつく円周率の頭3桁だ。
カチリ、と音がして錠が外れた。
中には、鉛筆でびっしりと書き込まれたノート、フロッピーディスク、そして一枚の写真があった。そこには笑顔でピースサインをする朝倉と、若い女性が写っていた。裏には「詩織と、初号機完成記念」とだけある。
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3.
町に戻ると、久世は古い診療所の記録を当たった。亡くなった朝倉凛一の死亡診断書は、心臓発作とあったが、不審な点が多かった。
> ・死亡直前まで運転していた形跡あり
・胃の内容物に不明物質が混入
・死亡直後に何者かによって家が整理されていた
そして、町役場で住民記録を調べた結果、「詩織」という名前の女性が数年前までこの町に居住していたことが判明する。彼女の名前は「斉藤詩織」。現在の所在は不明だが、東京大学での研究歴があるらしい。
「彼女が鍵か……」
久世は、あの写真の中の女性がこの詩織だと確信した。
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4.
東京に戻った久世は、かつてのツテを頼りに東大の研究者名簿をあたり、ついに「斉藤詩織」の所在を突き止める。だが、連絡先に電話をかけても無音。所属先の研究機関も1年前に突然閉鎖されていた。
久世の胸に、ある確信が芽生える。これは単なる発明家の“妄想”ではない。
これは、世界を変え得る技術だった。だから、消された。