第三話 春雷
「ささ、職場でいっぱいもらってきたから、穂香ちゃん、沢山食べてね?」
突然帰ってきた母さんは、スーツ姿のまま、ダイニングテーブルに並んで座る俺たちを交互に見やりながらニタニタ笑っている。何でも、担当していた作家さんの原稿が早く仕上がったとか。小学生の俺には仕事のことはよくわからないのだが、母さんの仕事は少し特殊のようでいつも不規則だ。こんなふうに突然帰ってくることもあれば、数日間職場に泊まり込みで帰ってこないこともある。
穂香は目の前に並んだ色とりどりのケーキに夢中で、母さんが意味深な笑みを向けていることになど微塵も気付いていない様子だった。
その証拠に、口元についたホイップクリームにも気付く様子が全くない。
「大体、帰ってくるなら連絡しろよ。不審者かと思うだろう??」
「ごめんごめん、でも…あんたのビックリして今にも泣き出しそうな顔と言ったら……クックッ」
「??」
「母さん!!」
俺が恥ずかしさのあまりふるふると肩を震わせ赤面しているのにもかかわらず、目の前のこの母親はそれが楽しくて仕方のない様子だった。
――本当に性格が悪い。
◇◇◇
「遅くなる前に家まで送ってあげなさい」
そう母さんに言われて家を出たのは17時頃だった。お土産にと、片方の手には食べきれなかったケーキの箱を持たされ、もう片方の手には雨が降っていたので傘を差し、穂香と並んで歩いた。
外の風は、4月とは言え少し冷たく、おかげで頭がスッキリとした。
家まで送るといっても、俺と穂香の家は徒歩10分もかからないので、そう離れてはいない。俺たちはいつもの公園の中を横切り、コンビニ、交番郵便ポスト、空き地の前を通って、穂香の家に向かった。
穂香の家は3階建てのアパートの2階、203号室だ。壁が薄く、最近上の階に引っ越してきた若い夫婦の痴話喧嘩が堪えないのだと少し不安気味に話してたっけ。
アパートの前についた。相変わらず、建物の後ろが雑木林になっているからか、少し薄気味悪い印象を受ける、日光もあまり入らなさそうだ。
穂香の部屋に灯りは付いておらず、香澄さんはまだ仕事のようだった。
「お母さんが帰ってくるまで、ゲームしない?」
「いいよ」
穂香の不安そうな表情から、ゲームが口実だということは分かっていた。
錆びた鉄製の階段をトントントンとリズミカルに登っていく穂香。俺も後に続いた。
◇◇◇
穂香の家には、もう何度も遊びに来ている。
部屋は1DKで決して広くはないのだが、外観からの印象とは裏腹に、中はとても綺麗に整理整頓されている。
「ケーキ、冷蔵庫に入れとくぞ?」
「う、うん」
そう言って勝手に人様の家の冷蔵庫の扉を開け、空いているスペースに持ってきた箱を収めた。
保存容器はどれも綺麗にラベリングされており、香澄さんのきちんとした性格を表わしているようだった。
しばらくすると、先程から降り続けている雨が雹に変わった。ベランダに小さな氷の粒がコツコツと音を立てながら積もっていく。
穂香は不安げに俺の服の裾を掴んで離さなかった。もう片方の手には俺が以前、穂香の誕生日にプレゼントした熊のぬいぐるみ。本当は大きいのをプレゼントしたかったのだが、小学生の俺には手が届かなかった。それでも穂香は本当に嬉しそうに笑っていたのを覚えている。
そんな思い出に一人浸っていると、ピカッと夕暮れ時の空が光った。かと思うと、秒も待たずにゴロゴロゴロと激しく雷鳴が轟ぐ。ここから近い証拠だろう。
そして――
ブレーカーが飛んだ。
「ひぅッ」
「?!」
部屋は真っ暗になった。
◇◇◇
見ると辺り一帯の建物の灯りが消えていた。
どうやら停電のようだ。
「ゲ、ゲーム出来なくなっちゃったな??」
「……うん」
俺は、脳天気を装う努力をしたのだが、どうやら、今の穂香には必要なかった。なぜなら、穂香は小刻みに震えていたからだ。当然俺の声も届いていない様子。
無意識に握っていた穂香の手は氷のように冷たかった。
俺は心のなかで、早く香澄さんが帰ってくるように祈りながら、この瞬間がずっと続けば良いのにとも思った。
香澄さんが帰ってきたのは、それからしばらく、部屋の灯がついてからのことだった。
◇◇◇
「ごめんね、律君。ずっと穂香のこと見てくれてたんでしょう?」
香澄さんは、腰にしがみついたまま眠ってしまった穂香の頭をよしよしと撫でながら、俺に本当に申し訳ないといった表情を向けた。
「いえ、穂香とゲームする予定で寄っただけなので……。勝手にお邪魔してすみません」
「律君は優しいのね」
そう言って香澄さんは温かく微笑んだ。
香澄さんの話によると、担当のお婆さんの容態が急変し、こんな時間になってしまったのだそうだ。香澄さんは介護施設で介護士の仕事をしている。人の命を扱う仕事なので体力と精神力がいるのだと、以前教えてもらったっけ。
「本当はもっと、この子と一緒にいる時間が取れれば、こんな思いさせなくて良いんだけど…」
香澄さんは、そう言いながら愛おしそうに、目尻に涙を浮かべる穂香の顔を眺めるのだった。
「あの、俺そろそろ帰ります。冷蔵庫に母さんに持っていくように言われたケーキが入ってるので、良かったら穂香と食べてください」
「いつも気を使わせてごめんね。恭子ちゃんにもよろしく伝えてちょうだい」
「はい」
その場の空気に居たたまれなくなった俺は、逃げるようにその場を後にした。俺がもっと今より大人だったら、穂香をあんな風に怖がらせなくても良かったんだろうなと考えずにはいられなかった。
次回作もお楽しみに!