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妹にすべてを奪われそうなので、私は全力でメイドになります!

作者: yuyu


「ねえお母さま、お姉さまばかりずるい。私もアンが欲しいわ」



 ミルフィが言った。

 私は「またか」と死んだような気持ちで思った。愛らしい妹ミルフィは、私のものをなんでも欲しがる。

 それ自体はきっと大したことではないのだ。妹はまだ七つ。友達のものを欲しがって泣いた覚えは私にだってある。


(その時は、すごく怒られたけれど。貴族の娘がすることじゃないって。品がないって)


 私はだめだけれど、ミルフィはいい。

 ミルフィはお母さまに似て、とても美人だから。


 やっぱりお母さまは怒ったりせず、にこりと笑った。

「そうね、ミルフィ。リネア、悪いのだけれど、アンをミルフィ付きにしてもらっていいかしら?」

 まるでこちらの了承を取ろうとしているようだけれど、私が断れないことは決まっている。


『お姉さんなのだから』

 姉でいて得したことなどないのだけれど。

『ミルフィが生まれる前は、全部あなたが受け取っていたのだから』

 ろくに記憶のない3歳までのかわりに、一生譲りつづけろと言うのね。

『優しい気持ちを持たなければだめよ』


 私に聞いているのに、お母さまは私を見てさえいなかった。

「ミルフィはお勉強、がんばったものね」

 ほんの少しの間、座っていただけにしか見えなかったけれど。

「うん!」

 私の返事は必要なかった。

 私は何も答えていないのに、話はそれで終わったのだから。




 アンはずっと私付きのメイドだった。

 この家でメイドの仕事はミルフィを喜ばせることだ。気に入られれば待遇がよくなるし、嫌われれば追い出される。

 勤め人である彼女たちが私を構わなくなるのは当然だった。

 私の世話をしてくれたのはアンだけ。


「お嬢様。嘆いている場合ではありません」

「……え?」

 いつも明るく優しいアンは言った。

「このままではこの家は、ミルフィ様の夫が継ぐことになるでしょう」

「……」


 私は唇を噛み締める。

 わかっている。きっとそうなる。

 お母さまはミルフィしか見ていないし、お父さまは娘に興味がない。今はもう、どれだけ優秀な婿を選ぶかに必死だ。その妻は姉妹のどちらでもいいのだ。

 ミルフィはお母さまに似て美人だ。

 ミルフィの方が、きっといい夫を捕まえられるだろう。


「となれば、リネアお嬢様は外に嫁ぐことになりますが、それは旦那様の都合で選ばれた相手でしょう」

「……そうね」

 そうなるのだろう。

 家のためになる婚姻をする。それは貴族の娘なら当たり前のこと。

 それでも普通なら、できるだけよい縁を探すものだ。普通なら。


(お母さまは普通ではない)


 私は部屋を見回した。

 ミルフィの部屋とはあまりに違う。殺風景で、装飾品のひとつもなく、妹のおさがりのクローゼットはガラガラ。


 親も人間だから、姉妹に同じだけの愛情は注げない。

 それはわかる。けれどまともな良識があるなら、形だけでも公平にしようと思うはずだ。

(普通ではない母のもとに生まれてしまった。それだけ)


 それでも私は、自分が悪いわけではないことを知っている。

 部屋に積み上げられた本は私の味方で、ミルフィに取られる心配のないものだった。

 父はろくに家におらず、母はミルフィとしか話さない。そんな中、いつも心を慰め、正しいことを教えてくれた。


 どうして自分は愛されないのか。

 何が悪いのか。


 それに答えを与えてくれた。

 私は悪くない。

 ただ、美しくなく、親の気を引くものを持っていなかっただけだ。

 

「それが嫌ならこの家を出ることになります」

「えっ……」

 本のおかげで色んなことを知ったけれど、庶民の暮らしは自分には無理だということもわかっていた。


 自分で自分の生活費を稼ぎ、住むところを見つける。

 子供である私には、気の遠くなるような話だった。


「どちらにしても苦難の道です。お嬢様、アンはそれをお助けすることはできません」

「……わかっているわ」


 アンも勤め人だ。

 お給料を貰わなければ生きてけない。

「ですが、誰でも、誰かのために何ひとつできないということはないのです」

 アンは笑って言った。

「私がお嬢様に差し上げられるのは、掃除の技術です」

「え?」







 アンがくれたそれは私の宝物になった。

「ふふ。きれい……」

 私はうっとりと埃ひとつない床を見た。こうしてみると物が少ないというのも、悪いことではない気がしてくる。


 アンがミルフィ付きになってから、私の部屋は汚れた。あのお母さまが、私に新しいメイドをつけようなんて考えるはずがない。

 欲しいものがあると言ったって「いまはミルフィと話してるから、リネアはそのあとでね」と返ってくるのがせいぜいだ。基本は微笑みで無視される。


 けれど私はそんなことより、今までアンがひとりでどれだけ部屋をきれいにしてくれていたか、それを思い知ったのだ。

 その部屋が汚れていく。

 アンがやってきたことが無駄になっていくのが許せずに、私は掃除をがんばった。

 最初はうまくいかなかった。

 アンが教えてくれた掃除のコツは、あとになって考えれば素晴らしいものだったけれど、私は今まで塵を拾うことさえしたことがなかったのだ。

 それでもなんとか、少しずつ、私の掃除の腕は上昇した。


 床の埃が消え、

 窓が輝き、

 磨かれた古い家具は本来の色を取り戻した。


「ああ……」

「リネアお嬢様、すばらしいです」

「ありがとうアン、あなたのおかげよ!」

 ミルフィ付きになってしばらくしてから、アンも少しの間であれば私の部屋に顔を出せるようになっていた。ミルフィ付きのメイドは何人もいるので、ミルフィの興味がよそに移ればそんなものだろう。

 ぬいぐるみもドレスも髪飾りも、ミルフィは奪っておいてすぐに飽きる。

 その性質に苛立ったこともあるが、今のリネアにならばわかる。


「自分でするって、こんなにすばらしいのね」

 愛されていなくとも私は貴族の娘だから、部屋も生活も与えられてきた。

 でもどうだろう。

「私の部屋だわ!」

 目の前にある「みすぼらしい部屋」は間違いなく「自分の部屋」だった。

 私は初めて、自分のものを手に入れられた気がしたのだ。

「どうしようアン、嬉しいわ」

「ええ、ええ、お嬢様。でもまだ先がございます。壁紙です」

「ああ……でも……」


 確かにこの壁紙はいけない。

 きっとまだ妹が生まれておらず、愛されていた頃の名残なのだろう。かわいらしい桃色は、落ち着きすぎた部屋からあきらかに浮いていた。

 掃除道具はアンが置いていったものがあった。

 けれど壁紙は、新たに手に入れなければない。


「……余っているものを持ってくることはできます。家令さまがいなくなってから、管理がおろそかですから」

「まあ……」

 家令は優秀な人だったそうだけれど、ミルフィに苦言をして辞めさせられていた。

 喜ぶべきか複雑な気持ちになっていると、アンがじっと目を見て聞いてきた。

「でもリネア様、壁紙貼りは重労働です。……できますか?」

 身が震えた。

 できるだろうか?

 それはわからない。けれど。

「やりたいわ!」




 壁紙貼りのために武者震いをして過ごす日々、ミルフィがまた言った。

「お姉さま、そのドレス、ちょうだい」

「ええ、あげるわ、ミルフィ」

 私はその場でドレスを脱ぎ捨て、ミルフィに押し付けた。


「リ、リネア」

 お母さまに名前を呼ばれたの、ずいぶん久しぶりな気がするわ。

「なんてことを。人前で服を脱ぐなんて、」

「でもそれが最後だから」

 本当にいらなかったのだけれど、大胆すぎたかもしれない。

「え?」

「今日の夕食は部屋でいただきますね。それでお母さま、そのドレス、ミルフィのサイズに直せるの?」

「どうかしら……そうね、可愛らしく、このあたりにひだをつくって……」

 すぐにお母さまは、ミルフィの着せ替えに夢中になった。





 そもそもその頃の私はもう、食事の時以外はドレスなんて着ていなかった。

「邪魔だもの」

 あんな格好で掃除なんてできない。私はアンにメイド用の服をもらっていた。圧倒的に動きやすい。汚れも目立たない。軽い。着やすい。すばらしい。

 家令がいないからって、管理が甘いのはどうかと思う。このメイド服を着たら、簡単にこの屋敷に入り込めてしまうのに。

(お母さま、本当にミルフィにしか興味がないのね)




 貴族の食卓で着るものがないから、食事は部屋でとるしかない。といっても運んでくれる人なんていないので、厨房にまでもらいにいった。

「リネアお嬢様の食事ならそっちだ」

「……はい」

 どうやら私はメイドと思われたらしい。

 それはそうだ。

 メイド服を着てるんだから。

 娘と同じ年頃のメイドをお付きにするというのも、珍しいことではない。

「ふふ」

 なんだか楽しい気分になってきた。


「私はメイド。リネアお嬢様じゃない」


 そうなのだ。

 きっと最初からそうだったのだろう。これだけ掃除をするのが好きなのだ。そして愛されていないのだ。

 赤ちゃんの頃に本物のリネアと取り替えられたに違いない。

 愛してくれる本当の両親が、世界のどこかにいるのだ。きっとお金はない。でもちゃんと誕生日には私だけのものをくれる。妹のついでみたいなものじゃなくて。

(……違うか。ついでじゃなくて)


 私のものも、結局最初からミルフィのものだ。

 あのドレスだって、もともと私に似合う色じゃなかった。

 私のものなんてなにもない。


 だから作るのだ。


「……よし!」

 私は壁紙貼りに取り掛かった。

「ええと、まず今の壁紙をできるだけ剥ぐ……」

 アンに教えられたことを思い出しながら、私は丁寧に壁紙を剥いでいく。地道な作業だ。


 時間はある。

 時間しかない。やることがないのだ。

 以前は複数の家庭教師がついていたが、そこにミルフィも参加するようになると、次々にクビにされた。それはそうだ。

 長女である私につけられた教師はみな、お父さまが選んだ優秀な方々だった。甘やかされることしか知らないミルフィについていけるはずがないし、甘やかすだけで教師なんてできない。

(つけただけで満足したお父さまもどうかしてるけど)


 ミルフィとお母さまはあちこちのお茶会に出ているようだけれど、私は行かない。

 行けない。

 着るものがないから。

 次までにはちゃんと準備しましょうね、と優しく、まるで私が怠けているかのように言われた。それも数回だけで、今は誘われもしない。

 お母さまの中で、お茶会はミルフィと二人で行くものになったのだろう。


 他にやることといえば、本を読んで勉強はしている。

 厳しかった先生方が基礎を教えてくれたおかげでなんとかなっている。貴族の娘にそこまでの教養は求められないから、ほとんど趣味だ。

 部屋の片付けで体力を使い果たしたら、のんびり本を読むことにしている。


「……ふう。こんなものかしら」

 そうして有り余る時間を使ったのに、一画を剥ぎ取るのに三日かかった。壁に顔を押し付けるようにして、残ったものがないか確認する。

「いいわね」

 とてもきれい。

 もちろんまだきれいな部屋ではないのだが、きちんとした仕事はそれだけで気分がいい。


「次」

 まだまだ先は長い。


 そうして私は部屋にほとんどこもり切りで、壁と格闘した。

 すっかり壁を剥ぎ終わるまでに一ヶ月。新しい壁紙を貼るのに一ヶ月。けれど仕事が甘かったのか剥がれ始めてしまい、修復にまた一ヶ月。


 部屋には誰も来ない。

「リネア、どうして一緒に食事をしないの?」

 扉の前でお母さまが呼びかけてきたことはあった。


「着るものがないのですわ、お母さま」

「……しょうがない子ね。じゃあ、今度、仕立て屋を呼ぶわ」

 そんな日はこなかった。

 食事を一緒にしなければ、顔を合わせないのだ。顔を合わせなければ、お母さまが私を思い出すことはないのだろう。


 ミルフィが私の部屋にやってくることもない。

 もう私から奪うものはないと知っているのだろう。別にミルフィは私を不幸にしたいわけではない。母の愛を勝ち取れればそれでよく、つまらない姉に構う気はないのだ。

 溢れる物を受け取り、週ごとの茶会、たくさんの褒め言葉。きっと忙しいのだろう。

 もう私はそれを羨ましいとは思わなかった。




「できた……今度こそ、きれい!」

「お嬢様、やりましたね」

「ええ! アン、私、自信が出てきたわ!」


 なんてきれいな壁だろう。

 当たり前のように美しいことの裏には、たくさんの苦労がある。間違って、でも直して、繰り返して進んできた。

 私はそれをやり遂げた。ミルフィはそんなこと知りもしない。


「ではお嬢様、次は繕いものなどはどうでしょう?」

「あら」

 指差されて見れば、メイド服の裾がほつれてしまっていた。

「そうね。服は大事だものね」

 あんな使いものにならないドレスではなく、私はこのメイド服に愛着を持っていた。大事に使わないといけない。




 ある日、食事を取りに厨房に行くと、メイドに声をかけられた。

「ねえ、リネアお嬢様ってどんな感じ?」

「えっ」

「あなた、リネアお嬢様のお付きなんでしょう?」

「え、ええ、まあ」


 食事を取りに行く時、廊下で行き合って礼をする程度の、気付けば顔見知りになっていた相手だ。彼女も私がメイドと疑いもしないようだ。


「どうって……その、大人しいお嬢様です」

「そうなの? 結局、どうなのかしら。ここの女主人になるのはどっちだと思う?」

 彼女は困った顔をして、声をひそめて聞いてくる。


「……それは、ミルフィ様だと思います。リネアお嬢様はそういった気がないようですから」

「そうなんだ。じゃあお先は暗いかなあ……」

「なにか、あったんですか?」

「さすがにこの頃忙しいんだよね。ほら、ミルフィお嬢様のお付きが増えて」

「そうなんですか?」

「年頃になったから、毎日着飾る係と、褒める係がいるんだって」

「わあ……」

「はあ」

 私は彼女に共感できた。

 やっぱり私はメイドの娘なのだろう。


「それで、空いてる部屋の片付けの手が回らなくて。このまま忙しいなら他の職場探そうかな」

 ため息をついて彼女は離れていこうとする。

「あ、あの」

「なに?」

「リネアお嬢様、あまり手がかからないので……できる時だけでよければお手伝いしましょうか?」

「本当!?」

 彼女は私の手を握って喜んでくれた。


 人に喜ばれるのって嬉しいんだ。

 私はそんなことに気づいた。


 そして私は空いた時間、主にお母さまとミルフィが出かけてる時間、手伝いをすることになった。

「ありがとう! すごく助かった。あ、そうだ、あたしはリンジー」

「わ、私は……リラです。よろしく」


「リラ! ねえリラって、どこかいい家の人? なんかこう、上品だよね」

「……その、没落してしまったので、家名は、なくて」

「あー、そうなんだ、そんな感じする!」

「す、するんだ」

「あはは、でもそれ有利だよ。品のいいメイドは雇われやすいからね。ここを辞めても大丈夫」

「今のところ、辞める気はないんだけど……」


 どきどきした。

 他のところでも大丈夫。本当にそうなのだろうか?

 私はこの家を出ても暮らしていけるのだろうか。








「リネアお嬢様、お給料です」

「はい?」

 アンが持ってきた封筒に戸惑う。

「お給料って」

「お給料です。いえ、お嬢様ではなく、メイドのリラへの」

「えっ……そ、そんな」

「新しい家令が決まったでしょう? この家のメイドは出入りが激しいですからね。精査して、メイドの名簿を一新しました」

「アン、それって……」


「リラは正式にこの家に雇われています」


「あ、あ、……ありがとう!」

 私は震え、給料袋を胸に抱いた。嬉しい。まだ実感は湧かない。けれど、私が稼いだお金なのだ。

(私が稼いだお金!)

 叫びたい。

 私が、稼いだ、私のお金だ。


「お礼の必要なんてないですよ。働いたぶんだけ、正当な報酬です」

「大丈夫だったの? 私は、紹介状もないのに」

「リラの家は不名誉で没落し、家名を名乗れなくなった、ということになっています。そのような家との関わりを破棄するのはよくあることですからね」

「そう……本当に。本当に?」

「メイドになれてそんなに喜ぶ方はいませんよ、お嬢様」

「ふっ、ふふ! そうね、でも嬉しい! 明日から私、バリバリ働くわ!」


 そうして私、リラは本当にメイドになった。


 メイドのリラはリネアのお付きなので、普段はリネアの部屋にいる。リネアの朝の世話が終わるとメイドの仕事、主に掃除に参加した。

 掃除は得意だ。

「ふんふん」

 うっかり鼻歌が出てしまうくらいだ。メイド仲間に笑われてしまう。

「あんた、ほんとに掃除が好きだね」

「え、だって、楽しいわ。……なんてきれいな部屋!」

 満足して次の部屋に向かう。客間の隣だ。


「客間に旦那様とお客様がいるみたいだね。おしゃべりなし、鼻歌なしだよ」

「はい」

 私は口をしっかりと閉じた。

 万が一にもバレたら、私に無関心な父もさすがに怒るだろう。……と、思う。

 お父さまとは本当に、お母さま以上に関わりがないので、どんな人かもよくわからない。


「……」

「……」

 ちょっとしたおしゃべりもなく、静かに掃除するのは変な気分だった。もうすっかりメイドたちといるのに慣れてしまっていた。

(おしゃべりって、楽しいものね)

 最初は変に思われないよう緊張していたけれど、今ではただただ楽しい。

(ずっとこうしていたいわ)

 メイドとして。

 けれどもう数年もしたら、令嬢として社交界に出ることになるだろう。そして家のために結婚する。

(……いやだわ)


 考え事に気分が沈み、足音に気づかなかった。

 扉が開く。

「おい、あのソファーを汚された。掃除を」

 ひっ、と私は声をつまらせた。


 目の前にいるのはお父さまだった。


 何を言われたのか、理解するのに時間がかかる。

「……はっ、はい! すぐに!」

 お父さまは舌打ちをすると、すぐに部屋から出て行った。


 けれど、気付かなかった。

 一瞬のことだ。でも、まっすぐ、正面から私を見て、気付かなかった!


(そう……そうね)

 ろくに顔を見ていない娘が、メイドの格好をしていたら、きっとわからない。

(わからない……)

 私は笑った。

 なんてことだろう。


「リラ? どうしたの? そんなに怖かったの?」

「……ううん。ちょっと驚いただけ。大丈夫」

「そうだね、しっかりしててもリラはまだ小さいもんね。大丈夫、姉さんたちに任せなさい!」

「あの旦那様が大事にしてるソファーだね。コーヒーかな?」

「ま、最悪張り替えちゃえば大丈夫。前にもあったんだ」

「とりあえずしみ抜きまとめて持ってくるね!」


 みんなが動き出して、私はあたふたした。何をすればいいかわからない。

「リラは見てて。次の時にはやるんだよ。わかった?」

「わ、わかった」

 私が強くうなずくと、みんな満足そうに笑った。




 そんな大変だけれど心の躍る日々が続き、私はふと思ったのだ。


(もう二年以上、お母さまの顔を見ていない)


 もともとお母さまは、ミルフィばかりで私の顔など見ていない。私は美人のミルフィと違って、どこにでもいるような平凡な顔だ。

 この二年でぐんと身長も伸びた。


 もしかして、


(もうお母さまも、わからないんじゃないかしら?)

 

 そう思うと確かめずにいられなかった。

 もしバレたら、着るものが他にないのだと言おう。私はドレスを持っていないのだから嘘ではない。メイド服を勝手に使うことは褒められたことではないが、まさか裸でいるわけにもいかない。


 私は早朝、廊下で待った。

 お母さまの部屋から、ミルフィの部屋へ向かう廊下。

 それはとても長い時間で、短い時間だった。

「……おはようございます、奥様」

「ええ」

 低くした声で告げ、頭を下げた私の前を、お母さまはゆっくりと通り過ぎる。


 気づかれなかった。


(そう……)

 お父さまの時ほど驚かなかった。

 きっとそうではないかと思っていた。

 でも、もしかしたらとも思っていた。


「やっぱり、私は家族ではないのね」




 それからまた年が過ぎた。


「おはようございます、奥様」

「おやすみなさいませ、奥様」


 私は三日に一度はお母さまに挨拶したが、一度も気づかれることはなかった。おかげで安心して仕事に打ち込むことができた。

 使うことがないお給料はすべて貯めている。

 いつ家を出ても、これがあれば、すぐに飢えて死ぬようなことはないだろう。


 私がリネアお嬢様だと知られなければ、きっとこのまま生きていける。

(そんなわけはないけれど)

 いつかは家族も、忘れていた厄介者の存在を思い出すだろう。




 そしてその日はやってきた。

「リネア! リネア、いるんでしょう? お父さまがお話があるそうよ。リネア? リネア!」

 今日ばかりは引いてくれそうにない。


 それでも、私はもうリネアとして奥様の前に出る気はなかった。

 ドアを開けると、奥様は私に聞いてきた。

「リネアは?」

 やっぱり、わからないのだ。この部屋にいてさえ、わからないのだ。

「そ、それが」

 緊張で震える。

「これが、お嬢様の机に……」

 震えが良い方に作用することを願いながら、私はこの日のために用意していた手紙を渡した。


 奥様は表情をなくした。

 いつも貴族の夫人らしく浮かべていた、あの微笑みが消えたのだ。


「……そ、んな」


 手紙には、もう三年も家族の顔を見ていないこと。


 ドレスの一枚も与えられていないこと。


 教育も受けていないこと。


 自分は貴族の娘として捨てられたのだと、そう書いてある。


「そんなはずは……」

 私は不思議だった。

 奥様は何を驚いているのだろう?

(これだけ長い間放っておいたのに)

 どうしてリネアお嬢様が、ずっといい子でいるなんて思ったんだろう?

「リネア!」

 奥様は私を押しのけてお嬢様の部屋に入った。


 と、ぎょっとした顔で部屋を見る。何もないことに驚いたのかもしれない。


「……リ、リネア! どこなの!」


 どこにもいない。

 もしかしたらここにいるかもしれないけれど。

 見つけられないのなら、いないのだろう。


「リネア!」


 自分で捨てたくせに、どうして慌てているの。

 

「なんてこと……あなた! あなた!」


 奥様は部屋を出ていき、すぐに旦那様をつれて戻ってきた。

 メイドである私は部屋の端でうつむいていた。


「いったいどういうことなんだ!」

「……すみません」

「リネアは、リネアはどこに行った!」

「す、みません、わからないんです……」

 私は泣き崩れて顔を手で覆い隠した。


「この部屋のものは? まさか、リネアが持ち出したのか?」

「いえ、」


 最大限の緊張で気を失いそうだった。これだけ近くにいるのだ。お嬢様がいなくなったのだ。

 通りすがっただけとは違う。

 今にも気づかれてしまうのではないかと、私の心臓は大きく打っていた。


 それでも、盗人扱いはさすがに困るのだ。

「お嬢様のお部屋には、ずっと何もありません」


 旦那様が奥様を見た。

「そうなのか?」

「えっ……それは……」

「なぜ部屋を整えなかったんだ? うちの娘の部屋だぞ」

「あの子が、なにも言わないから……」

「……」

「こ、こんなに、なにもない、なんて」


 旦那様は信じがたいという顔で奥様を見ていたが、舌打ちして視線を外した。


「……馬を用意しろ! 人を集めてくる。そう遠くまで行けるわけがない」

「は、はい」

 気づかれなかった。


 気づかれなかった!

 ああ、なんて、なんて。

(なんて愚かなの!)


 そして私は初めてひとりで屋敷から出て、厩に飛び込んだ。

「お嬢様がいなくなりました! 旦那様が、馬を用意しろと!」

「なんだって? ミルフィお嬢様が?」

 厩番のものにも、この家の娘はミルフィだけだと思われているようだった。


「いえ、リネアお嬢様です」

「あ? ああ……」

 厩番はぴんとこない顔をしていたが、馬を引いて屋敷の前に行った。旦那様が出てくる。そのあとに奥様もついていた。


「あ、あなた」

「おまえは屋敷内を探せ。リネアがいつ出ていったのか、話を聞いておけ」


 旦那様は数人の共をつれて馬を走らせていった。奥様は震えながらそれを見送り、よろよろと屋敷に戻っていく。


 私はリネアお嬢様が、朝にはいたこと。仕事をしているうちにいなくなったようだ、ということを話した。

 奥様がドアを叩いたので、お嬢様をお呼びしたが、すでにおらず、机には手紙が置かれていたのだ。


「なぜ……リネアは……何か、言っていた……?」

「……いえ、何も。このところのお嬢様は、あまりお話しになることもなく……ただ、」

「何? 何でもいいから、聞かせてちょうだい」


 まるで子供を心配する母親みたいな顔で、奥様が聞いてくる。

 そんなわけはない。

 子供を心配する母親が、どうして目の前の子供に気づかないだろう。

 あまりに滑稽だった。


「ただ、もうすぐ三年だと、最近では、そればかり……」

「……ああ!」

 奥様は両手で顔をおさえ、悲鳴をあげた。




 ここまでくれば、どうやっても気づかれそうにない。

 私は安心し、この滑稽さを心の中であざ笑う余裕ができてきた。この人達は私のことがどうでもよかったのに「娘」という持ち物が急になくなったので慌てているのだ。


「お嬢様は、どのようなお顔で……」

 捜索のため、家にやってきた似顔絵師に、旦那様は難しい顔をして奥様を見た。

「……ど、どんなって……」

 奥様が言葉に詰まったのが、一番の笑いどころだった。


 探そうとしている娘の顔を知らない!

 似顔絵師も困っていた。


 奥様はぱくぱくと口を開き、青ざめ、助けを求めるようにメイドを順番に見た。

「あ、あなた……リネア付きなのでしょう? リネアの顔を……」

「はい。お嬢様は……」

 私は嘘をつく気はなかった。


 どうせ自分でもわかっている。平々凡々とした顔で、特徴なんてろくにない。この似顔絵を元に捜索したら、どれだけ引っかかるかわからない。

 それを奥様が思い出したように「リネアはもっと幼い顔立ちよ」と言った。三年前なら、きっとそう。


「お母さま! ねえ、今日のおやつは?」

「ミルフィ……今は待ってちょうだい。あとで……」

「なぜ? 今でなければ嫌よ」


 ミルフィが現れた時、私は緊張を取り戻した。

 私が一番警戒しているのがミルフィだった。ミルフィにとって私は母親の愛を取り合う相手なのだから。

 もしかすると気づかれるかもしれない。


「大事なことなの。リネアがいなくなってしまったのよ。だから、」

「リネア?」

 まるで誰のことかわからないというように、ミルフィが首を傾げた。

「ミ、ミルフィ、リネアよ、あなたの姉の……」

「ああ、お姉さま」

 そんなのいたわね、という調子だった。


 いたの。


 でももういない。









 騒動が一段落してから、私は熱を出した。

「無理もないわよ。大変なことに巻き込まれちゃったわね」


 リネアお嬢様付きのメイドの部屋で眠っていると、リンジー達が見舞いに来てくれた。


「ごめんなさい、仕事が……」

「いいのよ! 困った時はお互い様よ。いつも助かってるんだから」

「そうよ、その年で、リラほど掃除ができる人はいないわ」


 私は熱にふらふらしながらも「ふふ」と笑った。


「だったらいいけど」

「そうそう。だから早くよくなってね」

「ありがとう」


 私はとても幸せだった。

 すべてを知っているアンは、私を抱きしめて、背中をとんとんと叩いてくれた。私はやっぱり、ただありがとうと言うしかなかった。


「ねえアン、私もいつか、あなたに何かあげられるかしら?」

「ええ、もちろん! 楽しみにしてるわ」

 私を「お嬢様」と呼ばなくなった彼女のことが、私は変わらず好きだった。


 お嬢様は見つからない。見つかるわけがない。

 そうしたら、私は大部屋に移動になるだろう。リンジー達と過ごせるのだ。

 お嬢様のお付きじゃなくなったら、まとまった休みも取りやすくなる。熱が下がったら買い物に行こうね、と誘われた。

 とても楽しみにしている。



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