第一話「この感情を××と呼ばずして何と呼ぶ!」後編
幼い頃、よくすっ転んでは傷だらけになっていたことを、何故か今夢で見ていた。
呆れ顔で心配してくれる父と泣きじゃくる幼い自分。
(父さんが帰って来れない日は…1人で泣きながら絆創膏貼ってたっけ…)
父さん…父さんね、あのクソ親父。今となっては信頼も何もないただのオッサンだが、昔の記憶が自分を温かくさせるのは確かだった。
まだ、寝ていたい。というかどうなったんだろうか、俺。
朦朧とする意識の中で思考を巡らす。もしかしたらこれは死後の世界でさっき俺の手を引っ張ってきた謎の人物に殺され…そうなるとこの夢のような回想は、所謂走馬灯ってやつなのかもしれない。
思考の渦に陥っている俺の頬に何かが触れるのを感じた。
(…?なんだ…?俺は今、眠くて…)
イラつきを覚えながら、恐らく人の手であろうそれを振り払う。
「お、起きてるじゃないか〜君。なんか緊急ぽかったから、ここに連れてきたはいいけどさぁ…よく見なくてもめちゃめちゃ傷だらけだし、まあ気失うよね〜ってかんじだったよ。」
そこまで一息。
ベラベラと話す男…いや、少年の声で、一気に現実が降り注いでくる。
(なんだ、これ)
「いやあ、この重傷は滅多に見れるもんじゃないよ。これで2ヶ月は生きていけるな〜俺!助かる!というか、色んな意味でラッキーだったよ。理事長が探してる帝ちゃんがこんなところですぐに見つかるとはね〜」
のらりくらりとした少年らしき声に若干のイラつきを覚えながら、意味の分からない言葉の羅列をなんとか咀嚼しようと試みていた。
「(ん…?帝ちゃん…って、友達がふざけて呼んでた俺のあだ名…)をなんでお前が知ってんだよ!!」
勢いに任せて目を開き、体を起こそうとする。何故か全身に激痛が走ったがあの手の主を確認することは出来た。
暗くて顔がしっかりと確認できなかったが、同い年くらいの少年だった。小紫色の短髪にどこか見覚えのある学ラン。気崩されているが、これは隣町の私立中学校…だった気がする。
「うわっと、びっくりした…動かないほうがいいって帝ちゃん。かなり痛いんじゃないか?それ。よく見なよ。」
「体?」
そういえばさっきから体の至る所から何かに斬りつけられたような痛みを感じる。言われるがままに自分の着ていたブレザーに目をやった。
「…!?な、なんだよこれ…!」
服こそは無事だったが体が全く無事じゃない。
体の至るところから溢れ出る血液のような何かとそのせいで出来上がったであろう服のシミ。
その異様な光景に思わず吐き気を覚える。
(意識し始めたら途端に痛い…!血…ではない、なんだこの色、気持ちが悪い)
ハッとして辺りを見渡す。なんでこんな状態になったのか、そもそもここは何処なのか。やっぱり俺は死んだのではないか、と。考えるだけで目の前が真っ暗になる。
しかし目に入ってきたのは、毎日見ている、見覚えしかないいつもの風景…何年も暮らしてきた自分の家だった。
「は…なんで……なんで俺はここに…」
呆然とする俺に向かって、目の前にいる少年が口を開いた。
「うーん、半分は正解だぜ!兄ちゃん。もう半分は惜しい!まあ分かるわけないだろうけどね〜?」
少年は続ける。
「ここはリビングかな?おっ、テレビでかいな何インチ?それにしてもこのソファー、お前と…誰かの感情で汚れまくってるけどマジで高そうだな…さてはお前ボンボンか??」
そう言って振り向きながら怪しげな笑みを浮かべる少年。
耳を塞いでしまいたかった。なんなんだこいつは、そう思うのは今日で2回目な気がしたけれど、それはとりあえず置いておこう。
「えーーと?なんだ〜この書類。借金…ふーん凄い額。返せてないんだ。君、親は?」
(…五月蝿い。)
「あちゃーー…こいつは酷いな!まるで殺人現場だ!見てごらんよほら、テーブルの下あたり!血痕みたいで怖いねぇ。文字が読めないメモが落ちてるけど…何があったの?」
(…五月蝿い五月蝿い五月蝿い…!)
「あ、写真みーっけ。ふーん?これが父親?顔見えないけどね。なんでこの感情で塗りつぶしちゃったの?てか君母親は?」
自分の中で何かがぶち切れる音がした。
「うるっせぇんだよさっきからベラベラと!!なんなんだ一体お前は!脳みそを引っ掻き回されてる気分だ!もういいだろほっといてくれよ!お前には何も関係ないし、そもそも俺はお前のことなんて知らない!人の心にズカズカと入り込まないでくれ!」
立ち上がり、そう吐き捨てると少年はこちらに向かって言った。
「…もう半分も正解ってことでいいよ。詮索して悪かった。もうしないから。」
少年はお手上げだといった風に手を挙げ、さっさとは違う、優しげな笑みをこちらに向けた。
「そうだなぁ、なんて言おうか。ここは君の精神世界だよ…って言ったら伝わる?君の感情の転換点。君の場合…自宅だったみたいだね。ここで何かショックを受けるようなことがあったんでしょう?
あと、その液体は君の感情だ、それも行き過ぎたね。この世界では何らかの感情によって付けられた心の傷がね、身体にそのまま傷として現れるのさ〜理解してもらえた?」
(何を言ってるんだ。こいつは)
全く意味が分からず、はぁ?というなんとも情けない声を出してしまった。
「っていきなり話されても意味わからんよな〜はは。」
腕組みをしてケラケラ笑う少年は笑って言った。
「ちょっとその辺のもの触ってみなよ。何かわかるんじゃない?君の家だろ」
手の届く距離に置いてあった写真立てを手にとってみる。
とってみようとはしたのだが、デジタル画面のノイズのように、不吉な音をたててそれはいつの間にか消えてしまっていた。
「…は!?一体どうなって…!!」
頭の中が白く溶け落ちるような衝撃に襲われ、辺りをもう一度見渡す。
そういえばさっきからこの部屋は何かがおかしい。
壁にかかっている時計の針は、しきりに反時計回りに高速回転し続けているし、テレビはずっと砂嵐だ。近くに落ちていたレシートを見ても、文字化けしていて何も読み取ることが出来ない。
「…信じてもらえた?この部屋はねぇ、放っておくと、もうじき壊れてしまうよ。だってほら、こんなにもバグってるじゃない。君の精神も心も。バグというより綻びか?痛そうだもんな、それ。」
「どういうことだよ…説明しろよ!」
壊れそうなほどの恐怖心に駆られ、無意識に声を荒げる。
「説明?もうしたじゃないか。だからさぁ、それ。どうにかしたくないの?」
「どうにか…って意味がわからない。お前が言うようにもし仮にこの…よく分からない液体が感情なんだとしても、感情なんて俺1人でどうにかできることじゃない。お前でも分かるだろ?」
この時の俺の声は、なんとも情けなく聴こえていただろうと思う。少年はうんうんと大袈裟に頷きながら俺の話を聞いていた。
「だから…関係ないんだってば、お前には。そもそも誰なんだよ…なんで俺をこんなところに連れてきたのか知らないけど。もう早く俺の中から出てってくれ…もう何も聞きたくない。」
「ふーん?いいんだ?このままお前のこと放ったらかしとくと、その感情に押し潰されて数週間後に餓死か、自殺の未来が見えるけど?」
「死…!?」
「まぁあくまでも俺の予想だけどね。あ、でも今一瞬怖いって思ったでしょう?ふふ、いいよいいよ、もっと絶望してくれたまえよ捨て子ちゃん。」
そう言いながら、イタズラ好きの少年のような笑顔を浮かべる彼はこちらに向かってきた。思わず身構えてしまう。
「とは言ってもだな??俺達はキミを死なせるわけにはいかねーわけっすよ、旦那ァ。大切な恩人からの頼みでね。」
人差し指をこちら側に向け、おちゃらけた口調で少年はそう言った。
俺…達?と一瞬思ったが、次の言葉で全ての思考が停止した。
先程のニヤニヤとした笑みからは考えられないほど真面目な顔をして、グイと近づいてきた少年は言う。
「帝解縁。我が校の理事長校長兼、感情研究同好会顧問、宰原李子先生からのご依頼だ。
…俺達は、君を助けに来た。」
その言葉を最後にグニャリと歪んだ視界が暗転する。
まさかここで、母の名前を聞くことになるとは。