六章 痛み
学年混合武術交流会の日に行われる新入生への投票について菱餅蓮香は思案している。投票資格のない一学年生を除いて格闘部所属の生徒から聞取りを済ませたので参考にする。
……さて、どうしようか。
感覚を遮断するように瞼を閉じて、頭だけを働かせる。
応援したい一学年生に投票するイベントだ。実力のある生徒を選ぶのが筋であるし、聞取りでもその声が聞こえた。投票理由として多く聞いた要素は、①実力、②信頼感、③思いやり、④安定感、⑤明るさなどと続き、常に①を求めている感じであったが──。㉟可愛さとか、㊱愛嬌とかも要素としてはあって、その点ではプウに追われていた雛菊虎押がやたらと人気を集めていた。
それはさておき、菱餅蓮香の聞取りでは格闘部が持つ団体票の行先は二人にまで絞られていた。雛菊虎押がその一人、と、言いたいところだが少数派だ。最も支持を集めたのは、野原花と竹神音羅である。二人の成長速度は現三学年生の誰より速いという意見が大勢を占めた。入学以前から誰よりも稽古していたことを窺わせる野原花は、試合において現三学年と肩を並べるほどの実力がある。その横で、入学当初は型もまるでできていなかった竹神音羅がぐんぐん成長し、持前の明るさも相俟って三学年生に匹敵する気合を発している。稽古量や技術、現段階の実力では野原花に軍配が上がる。将来有望という点では竹神音羅にも期待感がある。
と、美点だけを挙げるだけなら簡単だ。人間誰しも欠点があり、彼女らも例に漏れない。野原花は協調性に欠けており、竹神音羅の実力には疑惑があった。野原花の協調性のなさは無魔力特有のものと一概に括ると短絡的ではあるが間違いでもないだろうとの意見を多数得て一旦横に置いたが、竹神音羅の実力への疑惑は重いものがあって対処した。時折現れるプウが力を貸しているのではないか、と、いうものだ。プウは竹神音羅の近くでのみ姿を現したり消したりするようで、ほかの場所に現れたという証言は教員への聞込みでも得られなかった。出現・消失時に撒き散らす火の粉は見た目だけで触れても火傷を負ったりしないことからプウ自体は無害と教員方とも意見が一致したが、プウが竹神音羅に魔法的な作用を与えて実力を上乗せしている可能性はゼロではないと菱餅蓮香は考え、有魔力である園芸部部長此方翼や学園長星川英に観察を依頼した。二者によればプウが竹神音羅に魔法効果を与えている様子はないとのことで、それらを周知させて竹神音羅の疑惑は晴れた。
格闘を主とする格闘部・格闘科の試合で攻撃魔法を使うようなことがあれば失格となるが、そのような疑惑が湧かなかったのが〈竹神音羅〉である。有魔力でありながら、日頃の行いを多くの上級生に認められていたのである。
平等に評価するに当たって、野原花の欠点についても生徒・教員に聞取りを行ったことは先にも触れた通りである。そちらについては、野原花の自発的行動──みんなとの協調性を高めようとする動き──が観られないことから、欠点のまま残ってしまっている状態だった。無魔力の生徒、同胞ともいえる存在が大多数を占める第三田創で野原花が頑なに独りで存り続けるのはそれなりの理由があるだろう。一方、野原花を観察する上で、独りであることがただちに欠点となるかといえばそうではないという意見もあった。自分を高めるスタイルはひとそれぞれで、野原花は協調性を拒むことで強くなったのかも知れなかったから、それを全否定する生徒はいなかった。しかしそんな野原花に投票することの危うさを指摘しない生徒もいなかった。野原花は背水の陣を張っているようだ、と。切り込むことで活路を拓く姿勢は受身になればたちまち潰れる。独りの彼女は独りで戦うしかない。支える味方も守る仲間もいない。味方も仲間も必要ないと心から考えているなら彼女は完成していると捉えられ、誰も否定的に観ることはなかっただろう。彼女はそうではないと上級生は見立てたのである。協調性の欠如が野原花を苦しめることになりかねない。また、そんな彼女を三大新入生に選出したら学園全体への影響は。と、菱餅蓮香を始め上級生は危惧している。
野原花・竹神音羅への直接の聞取りは投票当日に行う。野原花の心理的な枷がなんなのかを探ることも、菱餅蓮香はそのとき併せて行うことに決めている。ひとは焦れば焦るほど本性が出る。怒れば怒るほど膨張した本性が顕れる。それを見極めてから投票先を決定する。菱餅蓮香にはその責任がある。
「まだ考えていたのか」
「年下大好き鷹押じゃない。バイト帰り」
「ああ」
寮の外で冷たい風に当たりながら考え込んでいた菱餅蓮香である。
「その顔は似合わない」
「何よ、あたしが考え事したら悪い」
「お前は担当じゃない」
「鷹押が頭脳班ならこんなことしてないってば」
格闘部副部長である雛菊鷹押は肉体派かつ不器用で頭脳労働派ではない。考え事が全然できないわけではないが、それを口に出すことに長けていないから向かない。
「明日だな」
「今年も愉しみね」
三大新入生選出投票。それは上級生からのエールであり、祝福でもある。この一箇月は、祝福を授ける側としての意識と責任感に向き合うことが、上級生に取っての鍛錬でもあった。
野原花や竹神音羅だけではなく、みんな頑張っている。事実上二択だとしても、菱餅蓮香の持つ団体票がそこを選ばなければ、大逆転で雛菊虎押が選出される可能性だってなくはない。最後の最後までしっかり観察する。それが、最上級生としても必要な姿勢だ。
五月三日、火曜日。学年混合武術交流会当日の昼。天気は雨。空気は湿れど清涼なり。
音羅は、雨空を見上げて道着の帯をキュッと結び直した。
……やれることはやってきた。
およそ一箇月だ。型の反復練習は数えきれないほどやった。部活や授業では試合のルールと流れを体で覚えた。その上で、先輩方と試合経験を積んだ。
やれることは、やりきった。
「気合が入ってるね、音羅さん」
「蓮香さん。勝ち進みましたか」
「うん。このまま勝ち抜くよ、必ず」
トーナメント戦の出場者控え室をかねた格闘道場の女子更衣室。待ちに待った野原との対戦を目前に控えた音羅は、精神を集中していた。蓮香は精神集中の時間を要することもないようで、普段通りだ。
「蓮香さん、緊張しませんか。慣れっこって感じです」
「緊張はそれなりにしてるよ」
にっこりと笑う気さくな少女は、紛うことなき格闘部部長。それを音羅が知ったのはつい最近のこと。新入部員に気兼ねさせないよう蓮香は多くの部員と仲良くなるまでその肩書を伏せていたのだった。格闘科の催しであるトーナメント戦に普通科の彼女が参加を許されているのは、格闘部部長ゆえ。トーナメント戦の壁であり刺激である。
「音羅さんは、ようやく花さんと戦えるね」
花とは、野原の名前である。
順調に勝ち進んだ音羅と野原は、準準決勝で相見えることとなった。トーナメント表を見れば予め判っていたことだが、上級生も参加しているので勝ち進める保証のない試合。毎日の稽古で体は鍛えられており、試合後は教員の治癒魔法で怪我を治してもらえるが、音羅は連戦で疲労している。ローカルルールでも試合は試合、手抜きが一切ない真剣勝負の連続だった。幸いにして三学年生は蓮香と鷹押の二人のみで決勝戦でしか当たる心配がなかったが、準準決勝に進むまでに戦った二学年生は学年トップクラスの強豪で、音羅は加点を取られながらもしぶとく食らいついて勝利を捥ぎ取ったのだった。
何はともあれ、野原との試合である。
「一箇月越しのリベンジ。果たせるといいね」
蓮香の言葉を背に、
「全力で行ってきます!」
音羅は更衣室を出た。
──あんなに稽古してその程度なのぉ?
碌に稽古していないくせにその同級生は強かった。試合後、倒れ込んだ野原花を、目線通りに見くだした。
──ま、当然よね。無魔力なんて底辺なんだから。
飲んでだべって遊びほうけていても、有魔力に生まれたというだけで無魔力の努力家を圧倒する。その事実に、野原花は直面した。
……こんなヤツらに──。
沈んだ畳の感触を、忘れない。
──無魔力は一生這いつくばってればいいわけ。それが役目なの、気づいてないわけぇ?
高笑いして去ってゆく絶対的優位者を、忘れない。
……絶対に、超えてやる──!
固く握った拳に血が滲み、嚙み締めた奥歯が割れるほどの感情だった。
「っ──」
汗とともに目が覚めて、野原花は溜息をついた。
安定の朝だ。
……ああ、今日も忘れてない。
最低限は睡眠を摂れるように計算している。食事は不足ぎみだが、体がなまらないよう最大限の稽古をこなしてきた。
カーテンを開けると眩しい朝日がわずかな清涼感を胸に運ぶ。目がすっきり覚めたならカーテンをすぐに閉める。意識の覚醒以外に、日光に求めるべきことなどない。体を動かすための熱は食事に詰め込まれている。不足ぎみでも、計算上、体が一日動くようにはなっている。
制服に着替えて、帯で結んだ道着を肩に担ぎ、寮を出た。
学年混合武術交流会当日の朝だった。毎日と変らず走り続ける。この道が、自分の追い求める未来に繫がっていると信じている。這うことなく、地に足をつけて、走り続けるだけだ。簡単だろう。簡単だ。今まで通り、やれる──。
今日は投票イベントがある。野原花は、そのイベントに期待している部分が少なくない。
商店街を縦断する歩道で、女子四人が野原花の前を歩いていた。
「──そう、竹神姉妹に決まりだよね〜!」
「でしょう?強いし可愛いし隙がないもん!」
「あたしもあんなふうに生まれたかったぁ」
「この前どさくさ紛れに子欄さんに洗濯してもらっちゃった〜!」
「『えぇっ!』」
「噂通りいい匂いだったよぉ」
「『ずる〜い!』」
生徒の声は嫌でも耳に入る。時を経るにつれて、竹神三姉妹の話題が増えた。次女竹神納月や三女竹神子欄の活動は気に留めなかったが、長女竹神音羅の噂は同部・同科所属ゆえにどうしても気になった。悪い噂も中にはあったが──、その手の噂は少数者に付き物で取るに足らない。野原花が気にしたのは竹神音羅の活動本体とその波及効果だ。竹神音羅には一種才能ともいえる前向きさがあり、何事も鍛錬に繫げる思考ができあがっているようだった。誰だって後ろ向きになることはあるし、マイナスに受け取れる事柄があると沈んでしまう。竹神音羅が近くにいるだけでその向きが正され、マイナスがプラスに変わるようだった。励まされたり勇気づけられたりすると、越えられない・打ち砕けない壁に立ち向かえる。励ましをくれた者に好意が芽生え、感化されやすくなる。そのような心理は正常であるし、仲間を作るために大切なものだろう。人間は今までそうして道を築き、発展してきたのだから。
野原花は、その道に立っていない。
学園に到着すれば意識は試合に向かった。何があっても負けられない。畳に沈むことは許されない。誰より稽古してきた。望む結果は、勝利のみ。
……行こう。
踏み出せば、気持は岩のように強く硬くなった。
これまで通りだ。
きっと、やり通せる──。
畳の敷きつめたられた格闘道場は多くの生徒が詰めかけており、歓声と試合の熱気でいつもと雰囲気が違う。衆人環視の的になって試合をするのは、言葉は悪いが見世物になったかのようで試合とは別の緊張感もあった。
音羅は、野原のもとへ向かう。
休憩時間いっぱい一人で更衣室にいた音羅に対して、野原はこの雰囲気の中、岩のように動ぜず胡座を搔いていた。
「来たな」
野原が立ち上がる。
朱色の長方形──四枚の畳──の脇に、審判役の三学年生アキラが控えている。
音羅と野原は、四枚の畳へと足を踏み入れ、向かい合った。
「一箇月でどれだけ強くなったか、観てやるよ」
「うん。野原さんから教わったこと、一箇月で学んだこと、全て受け止めてほしい」
両者が構え、アキラの両手の旗が振り上げられると試合が始まった。
「ふっ──!」
初めての試合と同様、野原が一つの息とともに攻めた。もとから畳一枚分の間もない。詰め寄られると一瞬で懐に入られてしまう。かと言って二歩も後退すれば場外で減点だ。減点3で負けが確定してしまう。
音羅は詰め寄った野原のわずか左へ回り込んでカウンタ的に右フックを繰り出した。
左膝を折って躱した野原が素早く右脚を伸ばして音羅の内腿を撥ね上げる。
「っ──!」
なんという速さの反射とローキック。野原の蹴りで浮いた音羅は宙返りして、場外を背に踏みとどまった。場内でも足の裏以外がついたら減点だった。ちょうど一回転して足の裏から着地したため減点は発生しないが、野原が休む暇を与えない。音羅が体勢を整えるも束の間、死角となっている後方へ左バックハンドブロウを繰り出していたのである。そこにはちょうど音羅の腹。目差と同様刃物のように鋭い攻撃であった。
……まるで見えているみたいに!
音羅は右掌で受け流してスペースのある野原の前に戻ろうとするが、出足払いをされた右足が場外に出てしまった。
アキラが右手の旗を上げた。
「野原花、加点」
「っ」
出足払いに誘われたのか。いや──。
立ち上がって見下ろす野原の眼は、太陽が如くぎらりと。
……肘打ちを餌にされるよりよっぽど恐い戦い方だ。
野原のスタイルを攻め一辺倒と捉えがちになる。攻撃が素早く威力もあって、一撃をまともに受ければ骨が折れることもあり得る。だからどうしても音羅はそちらに意識を持ってゆかれて、安全を求めてスペースの広いほうへ行こうとしてしまう。それが落し穴なのだ。野原の真のスタイルは、強烈な攻撃に紛れて繰り出される敏速かつ繊細な小技。それ自体の威力は弱いが、音羅の弱みと状況を見切って繰り出すため確実に野原を有利に導く。どんなタイミングで小技が来るかは流れ次第。流れを見切って戦わなければ負けてしまう。
……わたしも、臆さず攻めないと。
減点または加点が発生すると、場を整えて組み直す。
場内中央に向かい合って構えると、試合再開。
「はッ!」
「っ!」
野原の肘打ち。右肩を狙ったそれは、前進の加速と体重が乗っており受けては危険。音羅は屈んで掌底で反撃、腹を狙う。が、野原が右手で掌底突きを打ち払い、左手掌底で肩を突き落とし、音羅に膝をつかせた。並べば大したことのない身長差すら見極めた、完璧な防御と攻撃だった。
「野原花、加点」
と、審判。
見下ろす野原の目差は氷河のような冷たさである。
「その程度なのか。緊張感が保てないから早く本気出しな、有魔力」
あからさまな挑発。
逆上するほど、音羅は対等に戦えていなかった。
本気を出していないわけではなかった。二学年生にもなかった野原の素早さと技巧に押し負けている。攻撃を目で捉えることはできるが、動けないところで小技が襲いかかってくる。無論、大技を受けないようにしなくてはならず、しかしながら大技から逃げていると小技で仕留められてしまう。
……どうすればいい。
猛特訓を知っていた両親が、揃ってアドバイスをしなかった。猛特訓の成果が出ているからだと音羅は思っていた。ここまで勝ち上がれたことからして自惚れでもないが、野原との試合には全く活かせていない。反復練習してきた基本的な型が、野原に対して機能していない。今日これまでに試合した生徒が全員音羅より一回り大きかったことも影響している。大技を警戒していたこれまでの試合と違って、体格の近い野原との試合では小技も多分に警戒せねばならず一つ一つの動きに対応しきれなくなっている。
ほかのみんなと同じような期待をしていた部分があったか、
……この程度、なのか。
と、思ってしまったのは。
野原花と対等に戦えた同級生がこの学園にはいない。めきめき実力をつけた竹神音羅を、野原花は観ていた。彼女との試合の機会を作ろうと思えばできただろう。
だが、この試合、学年混合武術交流会での再戦の約束。それを撤回したくなかった。
意固地だったか。それとも単なる意地か。何にせよ、
……次は、どうやるか。
野原花はこれまで通り、冷静に考え、対応するのみだ。
対策を考える間もなくアキラの合図で向かい合い、構え、試合再開。音羅は、さまざま考えていた。野原の大胆かつ精細な戦い方にどう対処すればいいか、とか、こう動けば野原を誘導できる、とか、野原の減点を誘うためにわざと減点箇所に攻撃させよう、とか──。
どれもらしくなかった。
またも懐に飛び込んでくる野原。
……ダメだ、グダグダ考えていたら!
最初から野原のペースに吞まれていた。前の試合もそうだった。野原の手の内で踊らされて終わった。柄にもなく考えていては今回もそうなってしまう。
……本気──。
どこまで力を出していい。音羅は自身の腕力を過大評価しているわけではない。揮ってはならない力というものもある、と、解っている。けれども、自分の持味を打ち消したまま敵う相手ではないと判っている。野原は、持てる力を全て使って戦っているだろう。それなのに音羅は力を出しきっていない。武道において、それは失礼に当たる姿勢だ。全力で勝負しないのは、相手を侮るということなのだから。野原と戦うこの日を待ち望んでいたのに、なぜ、力を封じ込めておく。
……本気で──!
音羅は、これまでセーブしていた己の力をわずか解放する。
野原の得手、肘打ちが音羅の肩を狙う。それを左手で軽く受け止めた音羅は間髪を容れず、
ダンッ!
と、踏み込み、右手掌底で野原の腹を打った。
「ぐっ──!」
野原の反射すら擦り抜けたクリーンヒット。浮き上がった野原の体は、畳六枚分を軽く越えて吹き飛んでいた。疑う余地のない場外であったが、驚いたアキラの声が遅れた。
「た、竹神音羅、加点っ」
爆ぜた火炎のようなその一撃に観衆が沸いていた。
音羅に歓声は届かない。眉間に皺を寄せて立ち上がった野原に、集中していた。
「やるじゃん……、そう、有魔力は力を隠してるもんだ。……久しぶりに受けたわ」
言いつつ腹を摩り、道着を正した野原。構えると、苦悶の表情が消えて、眼に氷が宿った。
なんという力か。過去に受けた有魔力の拳のどれより重かった。鍛え上げてきたはずが、宙に浮かされるほどの打撃を許してしまった。
……焦るな。やれる。この手で、やるんだ──。
音羅も構え、ひらに集中。
後ろ回し蹴りを仕掛けた野原。音羅は彼女の捉えがたい脚を右脚で絡め取り、右手掌底で右肩を打ち据えて転倒させた。野原の敏捷性に応える形で、試合再開から二秒の速攻であった。
「竹神音羅、加点」
これで加点が2点ずつ。減点で打ち消されなければ、次で勝負がつく。
何が起きている。理解が追いつかない。
……おかしい。明らかに、力が増してやがる。
不安は、相手に気取られ、隙になる。立ち上がるまでの動作に深呼吸を潜ませ、野原花は竹神音羅と向かい合う。
真剣な眼。彼女がどれだけまじめに稽古してきたか、嫌でも理解させられる眼だった。力が増したのはその成果なのか。それとも有魔力としての秘めたる力か。どちらであっても、観察以上に鍛錬している彼女との試合だ。真向勝負しないことだけはあり得ない。
……あたしは、やれる。やれる。やれる──。
不安を気取られる危険性を知りながら、自然と深呼吸していた。
起き上がった野原がまっすぐに音羅を見据えていた。
一瞬の闇に感情を棄て瞼を開けた音羅は、目の前の相手を全力で打つことだけを考えた。
アキラの合図で構え、試合再開。
「『はっ!』」
気勢を込めた掌底と肘打ちがぶつかり、腕力で押し負けた野原が半身外へ流れる。が、その勢いを推進力に全体重をも乗せた右肘打ちを音羅の右肩に差し向けた。音羅の今の力ではそれを受けきれない。
……もう少し──!
さらに力を解放して野原の肘打ちを左手で受け止めた音羅は、それを押し返して詰め寄り、場外へ押し出さんと右掌底で彼女の腹を打つ。
凄まじい強打。内臓がいくつか破裂したのではないかというほどの痛みが野原花を襲った。
……なんて威力だよ──。
腕力が確実に負けている。が、……まだだ!
勝負を諦めるな。這いつくばるな。まだやれる。手を尽くせ。
……力押しなんかに負けるかッ──!
沈めば、見くだされて終わる。それを認められるか。手を考えろ。なんでもいい。「押している」と思い込んでいる相手を確実に退かせれば、次の一手を打つチャンスは必ずある。
「ギィッ!」
歯を食いしばり踏みとどまった野原が反撃の右掌底を音羅の顔面目掛けて──。
……っ!
音羅は一歩退がって躱した。当たっていたら野原の加点が一つ打ち消される(!)なぜ、減点箇所の顔面を狙ったかといえば冷静さを失ったわけではなく、音羅が反射的に避けることも予測して場外に押し出されぬよう牽制した。
しかし、野原は痛みに顔を歪めて、膝が微動している。立っているのもやっとなのではないか。当然だ。場外に飛ばしたときより高威力の掌底突きを音羅は繰り出したのだ。彼女にダメージがないはずがない。
……どうして、そうまでして立っているの。
場外に飛ばされて畳に衝撃を逃がせばダメージを軽減できた。減点される可能性がゼロではない手段を使ってまで野原が音羅に牽制を仕掛けたのは、冷静でありつつも作戦ではなかったのではないか。それが証拠に、これまで攻勢を緩めなかった野原が一切動かない。
……動けないんだ。
膝が微動しているのは、動こうにも腹の痛みで動けない。
「手が止まったな、どうしたってぇの」
音羅ははっとした。
野原が挑発した。まだ、余裕はあるのか(?)
……油断したら、いけないんだ。
試合中だ。怪我をすることだってある。攻撃した相手の様子を気にしていては試合にならない。勝負がつくまで気遣い無用。そんなことは知っていたのに、力を解放しすぎたのかと考えたら音羅は途端に攻撃の手が止まってしまった。
……油断したら──。
……今だ──!
野原花は、全身全霊で手を伸ばす。
道が、その先に繫がっている。手を伸ばせ。摑み取れ。その可能性を──。
音羅の、内心の間隙。
野原が倒れるように一歩前に出て、およそ威力のない拳を音羅の左肩にぶつけた。
トスッ。
拳に押されるようにして、音羅は場内で尻餅をついていた。
「……野原花、加点。累積3、よって、野原花の勝利」
呆気ない終りだった。
有魔力をくだした。
……これで、あたしは、やり通せる──。
緊張の糸は切れない。切ることはできない。道が繫がった。脚は震えても、手が動かなくても、負けられない。勝ち続けなければ、可能性はあぶくのように弾けてしまう。
無意識のうちに試合終了のお辞儀を終える。
野原が音羅に背を向けた。
「っ、野原さん、待って」
「なんだよ」
野原が振り向かず。「次の試合に向けて休みたいんだけど」
「ご、ごめんなさい。でも一言だけ伝えたかったんだ」
「なんだよ」
「──ありがとう」
「は。何が」
苛立っている野原に、音羅は頭を下げた。予定がやや狂ったが、伝えたいことは伝えたい。
「一箇月前、簡易試合のルールを教えてくれたよね。すごく解りやすかったよ。そのお蔭で、今は細かいところまで覚えられたんだ。わたし、負けちゃって、甲斐がなかったって思うかも知れないけれど、わたしはすごく感謝しているんだ」
「それだけ。じゃあな」
野原が、更衣室のほうへ去っていった。
……うまく、伝わらなかった、かな。
言葉を上手に選べるタイプではないが、気持を込めて話せば理解してもらえるものと音羅は思っていた。だから、野原のすげない態度が思いのほかショックだった。やはり、勝って言うべきお礼だっただろうか。
音羅は、場外の生徒に混じってトーナメント戦の続きを観戦した。
決勝は、順調に勝ち進んだ野原と蓮香がぶつかった。結果は蓮香の圧勝。素早くも重い蓮香の連撃を、それまでの試合の疲労やダメージを残していた野原が受けきれず場外を重ねた一方的な試合であった。
学年混合武術交流会というこの日、別室で他科または他部の試合も行われており、自由に見学できる。そちらへ皆が散ったため、トーナメント戦が終わった格闘道場はそれまでの熱気が噓のように静まり返った。
音羅は、東の窓際に立って、何も考えずにぼーっとしていた。
「プゥ。ピィ」
窓枠に垂れ下がるようにしてプウが鳴いた。思い做しか、励ますような声だ。音羅は、プウを両手で持って、軽くにぎにぎした。
「どうしたらよかったんだろう……」
「ピィゥ……」
野原に勝ってお礼を言い、気持が伝わってハッピーエンドの予定だった。負けてしまって、気持も伝わらなかった。それもそうか。野原は勝つ気で来ている。負ける予定などなかったはずで、負けた立場でお礼を言われてもちっとも嬉しくなかったはずである。また、先のように勝ってからお礼を言われても勝利の気分を害されるだけであるし、次の試合が控えていたので浮かれていられなかった。音羅の予定していたハッピーエンドなど端から存在し得なかった。
だというのに、音羅は茫然自失となってしまった。自分の予定が通らなくてもそうはならなかっただろう。気持を伝えることに考えが偏って野原への無配慮という致命的なミスに気づかなかった不甲斐なさゆえであった。
……わたしは、本当にバカだな。
他者への心遣いは、頭が悪くてもできるべきだろう。自分が嫌になりそうで溜息ばかりだ。
「ピィぃ……」
呆れたか、火の粉を散らしてプウが消えた。マイナス思考に転ずると、途端に沈み込んでしまう悪い癖。両親に注意されていたことだが気持はどうにも上向かない。
……もっと、頑張らないとダメなのに。
力をつけるためだけに学園にやってきているわけではない。重要なのは、友人や先輩、他者との触れ合いを通じてさまざまな経験をすること。それなのに自分のことで精一杯になってしまった。
……帰ったら、パパに叱ってもらおうかな。ううん、ママか。
どちらでもいい。叱られたい気分だ。溜息が止まらず、音羅は肩をがっくりと落とした。
何分過ぎたか。音羅の隣に蓮香がやってきた。
「音羅さんまだここにいたんだ。元気ないね。負けたのが悔しかった」
「……それも、あります」
「勝敗はおまけ程度みたいだね。じゃあ、別の何かが原因なんだ。自分でそれは判ってるの」
「野原さんのこと、何も考えていなかったんだ、って、自分を恥じています」
蓮香が察した。
「試合後に何か話してたみたいだけど、それのこと」
「はい。簡易試合のルールをわたしに教えてくれたのは野原さんで、そのお礼をさっき言ったんです。でも、うまく伝わらなかったと思います」
「試合のあとは特に興奮状態だから冷静にひとの言葉を受け入れたりするのは難しいかもね。それに、花さんは音羅さんを意識してるみたいだから、余計に、ね」
「野原さんが、わたしを」
「有魔力だからか音羅さんだからか、どちらともつかないけどね、意識しているのは間違いない。そういう相手の言葉だと過剰に聞いてしまったり突っ撥ねたりしてしまうものだから」
蓮香は、野原の心理をうまい具合に推測している。他者への心配りを忘れず、野原のことも日頃から観ていたのだろう。
……わたしはやっぱり──。
「ほかの教室を観に行きましょ」
蓮香が音羅の手を引いて言った。「せっかくの武術交流会なのにほかの教室を観に行かないのはもったいないよ」
「あ……」
引っ張られるまま蓮香についてゆくと、二階弓道場前だった。
弓道場は近的試合の真最中で沈黙が廊下をも支配していた。見学者は皆、廊下で正座している。格闘の試合と異なり見学者が少なく、試合に臨む生徒の姿を観られる位置が確保でき、音羅と蓮香も正座した。
……しーちゃんだ。
子欄が弓に矢を番え、今まさに放した。近的とは言え、角度的に音羅からは的が見えない。誰も歓声を上げないが、廊下に正座した見学者の多くが身動ぎしてざわっと空気が震えた。それで結果が判った。正鵠を射た、と。
……すごいな。みんなが、しーちゃんを見つめている。
目指すべき場所を見据えた目差。確実に未来を摑まんとする心の強さ。それらを顕したかのように子欄の一挙手一投足が美しく観る者を引きつけている。音羅も例外ではない。末妹の姿が、眩しい。
弓道は対人戦ではない。そのため、的に中たったか否かを競う。近的試合では中央でも端でも的に中てればいい。一人四本の矢を放す。外せば外しただけ負けが近づくと考えれば解りやすい。
子欄がもう一度矢を放し、無事中てたことを周囲の雰囲気が伝えた。
そこで、弓道場にいる生徒が固唾を吞んだ。
……何か、空気が変わった。
当の射手、子欄は全く動ぜず弓を引いた。淀みない射法八節──、弓道場で拍手が起きた。
「拍手は『皆中』、四本とも当たったってことを意味してるんだよ」
と、蓮香が小声で教えてくれた。「子欄さん、すごいんだね」
「わたしも初めて観ましたが……」
すごい。音羅は子欄の所作に魅せられて、息をするのも忘れていた。
子欄が音羅に気づいて微笑、弓道場の隅に正座した。
代わって射位に立ったのは男子生徒だ。
蓮香が近くの生徒に小声で試合状況を尋ねると、これは決勝戦とのことだった。
子欄は最高の結果を残した。男子生徒は分が悪い。見学者はそう思わざるを得なかった。それでいて、弓道場は先程よりも緊張感が張りつめていた。まるで、あり得ない結果が出ることを予感しているかのように。
一条目、二条目、三条目、続けて的に中てた男子生徒を、蓮香がじっと見つめている。
……蓮香さん、すごく真剣だ。
畑違いでも汲み取るべきものがあるのかも知れない。子欄や今の男子生徒の研ぎ澄まされた集中力は端からも窺えた。鍛錬から成る目差・姿勢・弓引く手、全てが柔軟かつ重厚だ。
男子生徒の四条目──、拍手が起きた。皆中。子欄と同じ結果を残した男子生徒に、弓術科の生徒が惜しみない称賛を贈った。
「──よし、行こうか」
と、蓮香が立ち上がり、先に歩き出した。ついていった音羅は、二階の弓道場前から別室の喧騒が囁く三階の格闘道場に戻ってきた。
部屋中央で止まった蓮香が振り返り、音羅も脚を止めた。
「蓮香さん、どうしたんですか。ほかのところを観に行くものと思っていました」
「そのつもりだったんだけどね、ちょっと吹っ切れたから──」
なんのことだろうか。
蓮香が天井を見上げて一呼吸置いた。
「試合、最後のあれはやっぱりいただけなかったね」
「……全力を尽くすべきだったと、蓮香さんは思うんですね」
「全力を尽くさない試合に意味はない。弓術科の試合を観たらなおさらそう思うよ」
魅了された。子欄が試合に全力で臨んでいたから。自分の試合はどうだったか、と、音羅は振り返る。全力を尽くしていたとは言いがたい。誰かを引きつけるような魅力溢れるものになっていたかも疑わしい。その点は、否定できなかった。
「行きつくところ、武術は魔物に代表される外敵を退治する力。外敵に及ばなければ自分が返り討ちに遭うから、勝敗・結果が全て」
蓮香が厳しい口調で述べた。「音羅さんは、正直この世界を舐めてる。生き死にを見越した勝負の世界で、協調や仲間意識なんてなんの力にもならない」
「そんな……、部長としての蓮香さんはみんなのことを考えて──」
「あたしの何を知ってるの」
「っ」
蓮香の目が冷たい。それはぞっとするほどの、殺気にも似た有魔力への憎悪。
「有魔力と仲良くなっておけば社会に出たときに役立ちそうだからね。無魔力に取って有利になるように部全体であなたを取り込むために躍起になってただけだよ」
「部全体で……わたしを利用するために、蓮香さんがそんなことを指示したんですか」
「でも、あなたみたいな甘っちょろいひと、付き合いきれないって意見がたくさん出てる」
音羅は蓮香の言葉に驚きを隠せなかったが、真向から受ける。
「わたしには、それほどの影響力はありません」
「子どもだもんね。だからあたし達もあなたを切り捨てることにしたんだよ。コネにもならない有魔力なんて要らないのよ」
「……」
「言い返さないの。表向きとはいえあたしに並んで仲間意識の塊みたいにやってきた音羅さんが、それを否定するみたいにだんまり。諦めが早いんだね。有魔力の仲間がいるから大丈夫、っていう余裕」
「そういうわけでは……」
先程から蓮香は何を話している。無魔力と有魔力の関係。コネクション。怨み・怨まれる間柄。知泉や虎押などからも窺い知ることのできるもののことなのだろうが、
……蓮香さんのこれは、少し違う気がする……。
野原との試合で音羅が本気を貫けなかったこと。それがきっかけの話だが、話が逸れてどんどん大きなことに向かっていっている。その大きな話は決して無駄なことではなく、あるいは野原の感情とも繫がっている話題であるのかも知れないが──。
「あたしみたいな無魔力は腐るほどいる。あたし一人にだんまりを決め込むなら、音羅さんが体現してた無魔力への仲間意識や協調なんてその程度だったわけ。信念の欠片もな──」
「やめてください」
子欄の試合を観たから音羅は冷静になれた。
「有魔力・無魔力なんて関係なく蓮香さんは優しい先輩です。鷹押さんを始めとする先輩方からもよく解ります」
理解できていない大きな話はひとまず横に置いて、目の前のこと・知っていることを音羅はしっかり確かめたい。
蓮香は優しいひとだった。有魔力の音羅に、型や準備運動の流れやストレッチの仕方と注意点、食堂のことまで教えてくれた。無魔力の生徒に対しても同じことを教え、有魔力の音羅に特別優しくしていたわけでもない。彼女は平等に優しいのだ。そんな彼女がむやみやたらにひとの感情を煽ろうとするのは何かが違う、彼女らしくない、と、音羅は感じた。その感覚を信じて、言う。
「噓は、やめてください」
蓮香が音羅を見やる。
「噓じゃないけどね。あたし達無魔力が有魔力に対して隠しても隠しきれない憎悪を持ってるってことも、武術において勝敗が全てってことも、だからこそ手加減するのは間違いってことも、ね」
音羅はうなづき、微笑む。
「蓮香さんが仲間を分け隔てなく大切にしているのも本当ですよね。その中に入れてくれていたことを、わたしは感じてきました」
知泉や虎押、仲のいい同級生にすら感ずることのある見えない壁を、蓮香には感じたことがなかった。蓮香が心の底で有魔力に対して怨みや憎しみを持っていたとしても、無差別に音羅へぶつけることはしてこなかった証拠だろう。仮にそれを感ぜられなかっただけだとしても、一人の仲間として迎え入れようという蓮香の気持を感じた。それだけで音羅は充分だ。
「……」
溜息の後、蓮香が微苦笑した。「ちょっとは粗が出るんだけどなぁ、逆になっちゃった」
「粗、ですか」
「ううん、こっちの話だから気にしないで。一つ、質問していいかな」
「なんですか」
「音羅さん、花さんへの攻撃を途中でやめたでしょう。あれはなんで」
蓮香が音羅を見据えて、真剣に、あるいは叱るかのように、問いかけた。
「勝てる場面だった。それも、あと一撃。花さんの懐はがら空きだったから、音羅さんなら確実に攻め込めた。それをなんでやめたか、教えてほしい」
「それは……」
自分の腕力で野原を傷つけた。試合であっても、立つのもやっとの人間に止めを刺すことはできなかった。
恐い、と、いう気持もあった。次の一撃を入れて、勝って、何を得るのだろうか。試合は真剣勝負だから、養護教諭がいるから、致命的なダメージを与えてもいいのか。不要に痛めつけて嫌われたりしたら気持を伝えるどころではない。それだと何も得られないのではないか。試合を通して野原と仲良くなりたかったから、音羅は最後の一撃を入れられなかった。
……ううん、それが大本じゃない。
自分の気持を偽れない。
音羅が力を磨く理由と、試合の経過が全く一致しなかった。それが、野原を追撃できなかった原因なのだ。蓮香の意見に逆らうようだが、試合の勝敗など音羅は最初からどうでもよかった。それを途中まで見失っていたから、野原に勝つことばかりを考えて力を解放した。
「──わたし、この力でみんなを守りたいんです。わたしの腕力は人並外れたものだと父が教えてくれたので、対戦相手と同等の腕力にセーブして、野原さんのときもそうして、挑んだんです。でも、全然敵わなくて、稽古不足を思い知りました。いま持てる全てをぶつけようと考えてセーブした腕力を少しずつ解放していきました」
「途中で一気に形勢が変わったのはそういうこと。動きがシャープになっていったから魔法も疑ったけど、そっか、身体強化効果を含んだ本来の腕力に近づけていってたんだ」
「魔力に下支えされているもの……、卑怯ですよね」
「そんなことないよ。身体強化効果はほとんどの有魔力が自由にコントロールできないから、格闘試合のルールで禁止されていない。音羅さんは禁止されている魔法を使っていないし、無魔力の対戦相手に合わせて身体強化効果も抑え込んでいた。本来の力を抑え込むのは重い足枷のはず。それなのに、全解放はしなかったんでしょう」
「はい……」
消極的にうなづいた音羅と対照的に、蓮香がにかっと笑った。
「花さんに止めを刺さなかったのは、少しでも自分の魔力に頼ったことを卑怯に感じた。それと、最初にいったように音羅さんが稽古しているのはみんなを守るためで傷つけるための力じゃないから、だよね。それって試合の勝ち負けよりずっと大事なことだと思うよ」
「そう、ですか」
「どうして自信がないの」
「蓮香さんは、ううん、ほかのみんなも、手加減は好きではないと思うので……」
「確かに、武術においては勝敗が全てだとはいったね。けど、格闘試合を殺し合いだなんて思ってないし、負けてもいいと思ってるんだ。音羅さんの指摘通りだよ、仲間を大切に思える試合もとい活動をしたいと思ってる。だから、音羅さんも胸を張っていいと思うんだ」
「……、野原さんへの感謝が全然伝わってなかったように感じて、どうしたらうまく伝えられたのか……」
蓮香の話を聞いたら余計に解らなくなった部分もある。野原が勝負にこだわっているとして音羅の敗北の仕方を「手を抜いたから」と観ていたら、試合後のお礼をどう思う。やはり手を抜いていた、と、捉えてしまうのではないか。勝負は勝負。全力でやるべきもの。そこで手を抜くような相手と手を握れるものか、と、気持が遠退いてしまうのではないか。言葉も、疑われてしまうのではないか。
「試合後のヤツだね。うーん……、それは、花さん個人に何か問題があるんじゃないかな。例えば有魔力なことを理由に音羅さんを嫌っているからとか。これ、無魔力あるあるだからね」
それはあるだろうが、それが全てでもないだろう。
「どうしても勝ちたかった」
と、尋ねる蓮香に、音羅は首を振った。
「勝てると考えていたなんてひどい思い上がりです。その上、感謝の気持を悦んで受け取ってもらえるなんて思っていましたから、駄目です、本当に……」
「前向きなビジョンを持っていることはいいことだと思う。けど、そう、音羅さんは自分よがりだと結論したから納得できてないってことだね」
「はい」
野原と距離を縮められなかったのがいい証拠だろう。
「参考になったよ。これであたしの腹は決まった」
「腹。お腹が空いたんですか」
音羅は自分のお腹を押さえた。「そういえばわたしもお腹が──」
よく動くとお腹が減る。じつに人間的な現象だ。
蓮香が大口を開けて笑った。
「っははは!違う、違う、投票のことだよ」
「投票」
「忘れちゃってる顔だね。三大新入生選出投票のことだよ」
「あ」
格闘科の授業や格闘部の活動の中で、たまに説明された記憶があった。最初に説明してくれたのはほかならぬ蓮香だったことも、音羅は思い出した。
「確か、応援したい新入生に投票するっていうイベントですよね」
「そう。音羅さんは新入生だから投票される側ね。二学年以上の在校生と学園支援者、それから先生達は投票する権利があるの」
「蓮香さんは誰に投票するか決めたということですか」
「そういうこと」
音羅が投票権を持っていたら投票先は決まっている。
「野原さんが一番です。日頃から物凄い努力を重ねていますし、トーナメントで蓮香さんのもとに辿りついた実績もあります」
「その選択肢もなくはないかもね」
「え、野原さんじゃないんですか。ほかには……」
知泉や虎押もいるが、トーナメントに参加した虎押は二学年生に敗北して一回戦で消えていた。野原以上に実績を挙げた一学年生はいない。稽古の姿勢を観ても野原の積極性は目を見張るものがある。限界まで鍛える一方でしっかり肉体を労って、継続的に鍛錬できるようにも考えているようだった。
横を一瞥した蓮香が、音羅を向き直って言った。
「日頃の努力は当然観てるし実績を軽視するつもりもないけどね、あたしの基準は違う。あなたに投票するよ、音羅さん」
音羅はびっくりして応答に詰まった。
「わ、わたしに!なんで……」
「応援したいからに決まってるじゃないの。そういうイベントなんだからね」
「でも、わたし、有魔力ですし、野原さんを超えていません、トーナメントで結果を出せませんでしたから」
「うーん、そうだね。──」
蓮香がうなづき、窓を一瞥、「関係ないよ、勝敗なんて。あたしが選んだのは『あなたを応援したいと思ったから』。それに、あたしは格闘部部長としての団体票を握ってる。投票資格のある部員全員の意見を総括・吟味した。意味、解るかな」
「い、いいえ、よく解りません」
持って回った言い方をされても理解できない音羅に、蓮香が簡単に表現した。
「あたしの決定は、格闘部全員分の重さがあるってことだよ」
音羅は、目を見開いた。
「そ、そんな、わたしは……」
「ダメかな。応援したいってだけなのに」
そうはいうが、学園支援者が学費を払ってくれることもあるという話だったではないか。成績を残せず、野原に感謝の気持を伝えることもできなかった自分が、みんなの票を受け取る資格があるとは、音羅は思えなかったのである。
蓮香の考えを変えようと、音羅が口を開いた矢先、
「なんで……」
道場に低い声が響いた。
次には畳が撓る音とともにわずかな振動、激しい足音が近づいてきた。音羅が振り向くと、怒気を放つ野原が後ろに駆け込んでいた。彼女の目線は蓮香に向けられている。
「部長、なんでですか。あたしは準優勝して、誰の目にも明らかな実力と実績を示した。この一箇月、いや、これまでずっと、どれだけ頑張ってきたと思ってるんですか!」
摑みかかる勢いだが、ぎりぎりの理性が野原を踏みとどまらせている。
「三大に選ばれなかったら困るんです。お願いです、あたしに票をください!」
蓮香が野原の肩に手を置いた。
「ごめんなさい。絶対に無理」
絶対。その単語が、蓮香の決意を示していた。
対する野原が、音羅を睨みつけた。
「なんで選りに選ってコイツなんですか。有魔力なら内申なんかなくても職にあぶれることも苦労することもないはずです!あたしたち無魔力と違って根本的に有利なのにどうして──」
野原の叫びは、無魔力が常日頃感じている理不尽やジレンマだろう。それを聞いたからには音羅からも蓮香に言いたい。
「わたしからもお願いします。応援したいと蓮香さんはいいましたよね。だったらわたしにも勝った野原さんを応援すべきです。野原さんは、蓮香さんが応援してくれたわたしより努力を積み重ねてきたと、わたし自身が身をもって感じたんです。応援してくれませんか」
擁護の姿勢を見せた音羅を訝るも、野原が蓮香を振り向いた。
「お願いします、部長……。あたしに、一票を」
野原の切願に、蓮香が譲らない。
「二度もいうつもりはなかったんだけど、理解できていないなら理由を教えてあげる。あたしの一票を投ずるに値しないから、野原花さん、あなたに入れることは、絶対にない」
「値しないって──、あ、あたしに、価値がないってことか……」
三大新入生に選出されることは無魔力の野原に取って将来さえ左右する大きな要素なのだろう。衝撃から、片膝をついてしまった。
……部活では、毎日先輩に稽古を頼んでいた。
実力ある上級生と試合することで、同級生では決して及ばない実力を身につけた野原は、努力の天才であり、人間として必要な忍耐力を養っているはずだ。
それなのに、蓮香は野原を支持しないと言う。音羅は蓮香に応援してもらえる立場だが、彼女の見方は偏っているように思えてならなかった。
が、
「試合後、あなたからも話を聞いた。それで、感じたよ」
蓮香が指摘したのである。「花さん、あなたの心には怨みが積もってる」
……怨み──。
「武道を歩んで学ぶべきことを、あなたはほとんど学んでない。そんなひとを、あたしは応援できない。いや、あたしだけじゃない、あなたの稽古に付き合っていた上級生全員があなたを危惧し、観察していた。そんなことにも気づかなかったの」
「……」
思い当たる節があったのだろう。野原が唇を嚙んで黙った。
「努力なら新入生の誰もがやってる。あたしだってやった。今もやってる。質や量を高め、力や技術を身につけてる。それは必要だし、やらないよりやったほうがいい。けどね、そんなことはこの学園では当り前だよ。なら、何が必要なのか。他者を重んじるまっすぐな心。理解し合うための努力・葛藤・苦悩、それらが必要なんだ。その全てを持ってるのが、音羅さん」
偏った見方や肩入れなどではなく、蓮香は基準を設けて各新入生と一票を秤に掛けていた。
「花さんは何。試合では結果を残したけど、立ち回りを観ていたら『自分さえよければ』って意図を感じた。相手をくだすことばかりを考えていたでしょう」
「試合ですよ、勝ち負けが必ず出る……、手加減しないのがフェアってもんです」
「それは同意するけどあたしの思ってるフェアとあなたのフェアは違うと思うから、一票をあげられない。『有魔力だから』。『無魔力だから』。そんなことが投票に影響を与えると本当に思ってる」
「っ、それは、だって、無魔力のほうが何倍も努力しなくちゃいけな──」
「だから何」
野原もまだ未熟と思わせるほどに、蓮香の眼が凍てついた。
「あなた、自分が偏見に曝されたからといって全てのひとが偏見に流れてるとでも思ったの。馬鹿にするのもいい加減にしろ。偏見ならあたしだっていくらでも浴びてきた。それに腐って堕落したことはない。他者を見縊ったこともない。その上で出した答。だから絶対なんだ」
「そんな、そんなこと……」
野原がわなわなと慄える。
蓮香がなおも続ける。
「どうしても納得いかないなら、投票を阻止してみる。この場で、あたしと勝負して勝ったら音羅さんに投票しないであげるよ。あなたに投票する気はないけど、多少影響はあるからあなたの思いに少しは近い結果が得られるんじゃないかな」
……蓮香さん、何を──。
冷静な音羅は、蓮香の言葉が明らかな噓だと判った。野原の心を試すための甘い誘惑だと、判った。
野原は、
「あたしが勝てばいいんですね!」
誘惑に、乗ってしまった。
その時点で、野原に対する蓮香の評価はなおのこと固まったのである。
「ごめんね、花さん。今のは噓だよ」
「え……」
「少し冷静なら気づいたと思うんだけどね。あなたはやはり自分のことしか考えてない。自分と向き合うことは大切だけど、自分の考えに閉じ籠もることはいい結果を生まないんだ。そんなあなたには、やっぱり一票の価値はない」
一瞬の希望を打ち砕かれて、野原が怒りを握り締めた。
「全部、綺麗事じゃねぇか、噓で釣るとか、どんだけ汚いんだよ!あたし以上に苦労して、そんでも努力してるヤツがどんだけいんだよ、いってみろよッ!」
畳を殴りつけながら泣き叫ぶ野原。「あたしが学園に通うのにどんだけ苦労してると思ってんだよ……、学費稼いで、寝るのも惜しんで働いたって飯ぃ我慢しなきゃ暮らしてけねぇし、そんでも授業も部活も時間いっぱいやって、そんで、葛藤だのなんだの、足りないなんていわれたって、自分のことで精一杯なんだからしょうがねぇじゃねーか……!」
音羅のおよそ知らない世界で、踠き苦しんできたのが野原だった。努力していないはずがない。葛藤していないはずがない。ましてや苦悩していないはずなど。
それでも、蓮香の答は変わらない。
「多少だらしなくても、恰好悪くても、間違いを犯しても、それは人間だから仕方ないよ。けど、心が落ちぶれたようなひとに価値はない。自分の努力を他者にひけらかして同情を得ようなんて考えは卑しさの極みだよ。どんなにつらくても、他者を助けようとする心を持ってこそ価値ある人間だとあたしは思ってるから」
揺るがない蓮香の一票。
退けない野原。
「だったら、コイツのどこに価値があるんだよ。葛藤や苦悩なんて外から見えもしないのに、どうやって判断してんだ!」
「そうだね。その点については音羅さんはまだそこまででもなかったと思うけどね──。授業では同級生の指導に当たって反復学習をしていたと担当教員方から聞いてる。部活では花さんと同じように上級生と試合って仕上げてきた。音羅さんによれば音羅さんを指導したのはあなただった。二人とも、同じように稽古・鍛錬していたといえるかも知れない。でも、上級生の評価は、音羅さんとあなたで真逆だった。あなたは、上級生を試合の相手として利用しているだけで感謝の姿勢もケアもなかった。音羅さんは、どんな無理難題を吹っかけられても、それができなくても、最後は笑顔でお礼をいって上級生のストレッチに付き合ったりマッサージをしたり、ときには雑談に乗って稽古ができないこともあったり、でも自分で時間を作ってひたむきに練習をしてる──。試合で花さんに負けたかったはずがないでしょう。なのに、音羅さんは花さんが苦しんでいると察して攻撃をやめた。そんなこと、普通、試合中にできる。あたしにはできない。格闘戦で痛いのなんて当り前だからお互いさまだし、手を緩めるなんてフェアじゃないし、選手としては失格だからね。けどね、あたしは、そんな音羅さんだから応援したいと思ったんだよ」
「なんだよ、それ。綺麗事ばっか……。負けてんのに、あり得ねぇだろうが……」
ゆらりと立ち上がった野原が音羅を睨みつけ、脇を擦り抜けていった。
……──。
いつの間にか格闘科の生徒が遠巻きに観ており、野原と入れ代わるようにして教室に駆け込む。野原の叫びが聞こえて集まったようだった。同情する声は無論あった。同じように自分の稼ぎで学園に通っている者もいる。しかしながら蓮香に同情票を促す者はいなかった。厳しいようだが、野原の嘆願は身勝手だという意見が一致した。野原の味わっている苦労や苦悩を、多かれ少なかれみんなが乗り越えてきたからだった。
……それでも、やっぱり、わたしは……。
野原の抱える問題の何分の一を体験しただろう。音羅は、両親のお金でなんの苦労もなく学園に通うことができる。眠る時間や食を削ったこともなければ、惰眠や大食を躊躇ったこともなかった。言うまでもないが、働いたことは一度もない。部活や授業で努力したのは蓮香にいわせても当り前のこと。音羅は人並にそれをこなしただけだと思っている。それらを考えたとき、音羅は、野原の泣哭を無視することができないと感じた。
音羅は野原を追うため、蓮香に一声掛けてから場をあとにした。
野原の姿を見つけることはできなかった。
放課後の部活。野原の姿はなかった。
次の日の朝練にも、野原は現れなかった。同日の昼となると、三大新入生選出投票の結果が構内放送で発表された。野原の名が読み上げられることなく──。
放課後の部活にも姿を見せなかった野原のことが音羅は気になって仕方がなかった。己の全てを否定されたと感じたのだとしたら野原は学園に来なくなってしまうかも知れない。あるいはもっとひどいことに、と、予感がしたからである。
学園寮に入っているという野原を訪ねようと思った音羅だが、それは蓮香に止められた。代りに蓮香が野原の様子を観て連絡してくれると約束した。
音羅は、帰宅してからずっと電話の前に立っていた。制服を着替える暇も惜しんだが、蓮香の報告は野原が部屋に戻っていないというものだった。バイトで帰寮が遅い。それは、野原がバイトをしていると把握していた蓮香が、電話報告前に予想していたことだった。
学年混合武術交流会の二日後、木曜日。放課後の部活で、格闘部顧問から予想だにしない知らせがあった。
──野原花は強制退部となった。
部活関連の話のあと、追伸的に、一瞬で伝えられたことだった。理由は、無断欠席。誰も、何も問い質さなかった。それが当り前だと言わんばかりに。
交流会のあと格闘科の授業にも姿を現さなかった野原が、退部。何か事情があるとしたら、その事情も話せず退部ということだ。彼女は、これからいったいどうなってしまう。それが気懸りで、音羅は野原を直接訪ねることに決めた。
部活が終わると走って帰宅し、私服に着替えた。
「こら、制服を畳むかハンガに掛けるかせんか」
と、父に叱られてしまった。
「急いでいるから」
「燃やすか」
「……はい」
父はだらしないが、音羅のだらしなさには厳しい。音羅はしかし、文句を言わなかった。
……冷静に、ならないと。
父の叱りで、平静を失っていることに気づいた。
いつものテーブル席についている父が、制服をハンガに掛けた音羅に訊く。
「なんかあったとぉ」
「うん、ちょっと、ね」
「ふうん」
やり取りはそれだけだったが、父の眼は全てを見抜いたかのようで、音羅は安心して尋ねることができた。
「帰り、少し遅くなりそうなんだ。いいかな」
「今日じゅうならね」
と、父がうなづいた。「気をつけて、いってらっしゃい」
「──うん。いってきます」
音羅は、父に会釈して家を出た。
第三田創の寮は商店街の北に位置。音羅の走りで一〇分と掛からない距離だった。
……ここが寮か。
じかに目にするのは初めてだ。洋風の建物で築年数が経っているためか壁が黒ずんでいるため無人であればおどろおどろしい雰囲気を放つこと請け合いである。
寮母に会い、野原が帰寮しているか尋ねるとバイトに出ていると言う。許可をもらった寮前の庇のもと、音羅は野原の帰寮を待った。
日が沈んでもしばらく暑い。音羅は汗を手で拭って待ち続けた。知合いの同級生や先輩が通りかかると、野原を待っているとは言わず挨拶や世間話をしてやり過ごしたが。
「よう、音羅、こんなところでどうした?」
と、現れた虎押が声を掛けてきた。横には知泉の姿もある。
「なんか浮かない顔ー。誰か待ってるー」
「ちょっと考え事があって、風に当たろうかと思っていたんだ」
「『じ〜〜──』」
「な、何かな」
「噓ついてる顔ー」
「だな。解りやすいヤツ」
「あはは……」
クラスメイトや部の仲間ならなんとかなったが、いつも近くで稽古していたせいか、虎押と知泉には態度の不自然さを見抜かれてしまった。
「何を考えていたんだ。いってみろよ」
「う〜ん……、……」
「いえないことー」
「……、……うん」
今からやろうとしていることは、野原への詮索に等しい。それをわざわざ待ち伏せてやるのだから野原本人には勿論、知泉や虎押にも不快感を与えてしまうだろう。
「まあ、ツッコまないことにするー」
と、知泉が言いつつ、ふんっと鼻を鳴らした。「なんだか残念ー」
「残念……」
「音羅さんって、なんでも話してくれる感じだと思ってたー」
「あ……。……ごめんね、わたし、」
音羅はお腹の前で両手をぎゅっと合わせて、俯いた。「みんながいってくれるほど、いい子じゃないよ」
「……そうか」
虎押がうなづいた気配。「ま、判っていたけどな。プウを嗾けてくるし、オレからしたらお前はいつでもヘビの使者だ。悪魔に等しいよ、まったく、たまったもんじゃない」
「……ごめんなさい」
「虎押君、いいすぎー」
「あいたっ」
虎押の肩を叩いた知泉が、「でもさ、」と、口にしたのは、虎押に近い意見だった。
「あたしは、音羅さんはいい子じゃないと思う。ただ誰も、──いい子だから友達になるわけじゃないよ」
「──」
「じゃあ、虎押君、行こー」
「ああ。……。音羅、またな」
遠退く声。「って、知泉っ、女子寮に連れ込もうとするなよ」
「あはは、ごめん、流れでー」
「ったく、お前は」
「じゃあー」
「ああ、また明日な」
愉しそうな二人の足音が、遠退いて、消えた。
……友達、か。
それを、いつしか当り前のように近くに感じていた。知泉や虎押がいなければ、そうはなっていなかったことを、音羅は再確認した心地だった。いい子でなくても友達にはなれる。それは決して、友達という存在を軽んじているからではないだろう。音羅は、知泉達を大切に想ってきたし、知泉達からも大切にされてきた感触があったのである。つまり、音羅が悪い子でも知泉は友達になってくれた。先程の知泉の言葉は、そういう意味なのだ。
……一段落ついたら、知泉さん達に、ちゃんと話そう。
音羅はそう決めて、前を向いた。
日が沈んで二時間。温度差の影響もあるだろう、ダゼダダの夜は急激に冷え込む印象だ。有魔力の音羅は温度差にあてられることが少なく、炎魔法が得意なのでいざとなれば炎を出せばいい。無魔力の野原は、どうか。
……寒く、ないかな。バイト先が屋内ならいいけれど。
星のない空を仰ぎ、音羅はそんなことを考えていた。
立ち始めた時間帯に比べて、夜は寮に出入りする者がほぼいない。いろいろな問掛けに答えず済むのは助かるがこんな時間帯まで野原が働いていることに音羅は刻刻と驚きが募った。いつもなら音羅は家族と食事を摂ってお湯をいただいている頃合である。
……独りで、仕事しているのかな。
図らずも、音羅は孤独感を感じたばかりだ。知泉の言葉に絶交のニュアンスはなかったが、音羅が知泉達を突き放すような態度を執ったことは間違いない。穏やかだった知泉達の空気を壊してしまったことを、自分自身で非難したくなった。独りでは、そんな思考が巡ってつらくなる一方だ。
蓮香の話が本当なら野原が職場で仲間に恵まれているとは考えにくい。自ずと孤立し、誰にも心を開かず独りでいることが多いだろう。学園でも独り、仕事場でも独り、寮でも──。それでも将来の活路を拓くために働いて稽古も怠らなかった。
簡易試合のルールを教えてもらったときもそうだったが、音羅は野原を立派だと思ってやまない。
……わたしには、真似できない。
魔力がなく、腕力もなかったら、きっと、ずっと、敵わない。そのように認めることのできる野原が、退部させられ、授業に出てこない。
無魔力の人間だったら風邪を引きかねない冷え込んだ夜一〇時半。冷気に急き立てられるようにして、野原が歩いてきた。寮に近づくと俯き加減だった顔を上げて音羅の存在に気づき、脚を止めそうになったが止まらず、音羅の脇を抜ける。
「待って」
音羅は野原の横をついてゆく。「待っていたんだ」
「知らねぇよ。とっとと帰れ」
「お願い、五分、ううん、三分でいい」
「ちっ──、っぜぇなぁ。三〇秒で帰れ」
「うん、解った……」
野原が寮へ入ってゆく。エレベータに乗るだろう足は、もしかすると三〇秒も掛からない。音羅は口早に伝える。
「野原さん、学園にちゃんと来ているの」
「アンタらみたいな気楽な金持と違ってバイトしてんだ」
「部活、退部になってしまったんだよ。大丈夫なの」
「……」
エレベータの階層ボタンを押した野原は、扉が開いた瞬間に叫んだ。
「アンタら有魔力さえいなけりゃ、あたしがこんなに苦労することはなかった!目障りなんだよ、クソがッ!」
「野原さ──」
「お前のことだよ。……失せろ」
「っ──」
刺すような目差を解かずエレベータに乗った野原に、音羅は何も言えなかった。扉が閉まって野原が去っても、串刺しにされたようにその場を動けなかった。
……、わたし……。
有魔力への、無差別憎悪。そうとは判っていても、静かな拒絶の言葉が音羅に向けられていたことだけは疑いようがなかった。
……、……──。
帰り道を覚えていない。気づいたら家で横になっていた。お風呂に入った記憶もない。眠れない。父に拒絶されたときと似ている。自分のできることを、存在を、否定されて、悲しさ、悔しさ、絶望が胸を渦巻く。感情の竜巻に吞み込まれてゆく。苦しいのに、疲れているのに、眠れない。瞼を閉じると、野原の拒絶が浮かぶ。
布団から這い出た音羅は、大窓から庭に出た。草履を引っかけ、禿げた芝生に立ち、空を仰いだ。
記憶が飛んで、
翌朝を迎えていた。
まだ、空を仰いでいた。
「朝ご飯ですよ」
と、いう母の声で、現実に引き戻された心地だった。
……学園に、行かなきゃ。
部活や授業を休むわけにはゆかない。音羅には音羅の責任がある。
……休んだら、いけない。
泥で足が重かった。
──六章 終──