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五章 幸せの在り処

 

「『いってきます!』」

 声を揃えて学園へ向かう三人の背中は、一回り大きくなったよう。

「音羅ちゃんや納月ちゃんが早起きするとは思いませんでした」

 とは、テーブルに戻ったララナの言葉である。

 温かい卵スープを一口いただいてから、オトは右手のララナを向く。

「朝練もないのに、子欄までさっさと行ってまったし、みんな、いろいろと思うところがあるんやろう」

「なんだか、嬉しいような切ないような、不思議な心地です」

 そう言う顔は、にこにこ。彼女の精神がいかに成熟しているか判る表情だ。

「オト様は、やはり切なさが優りますか」

 娘が自分の手を離れてゆく。表情に出ていないはずの心の機微をララナが見抜けるのは、孤独なオトを寸毫(すんごう)なりとも知っている。

「ずっと一緒にはおられん、なんて、百も承知なんやけどね。娘の成長が世への貢献になるからとか、広く前向きに捉えることができへんのよ。視野が狭い、と、いうか、身勝手極まりないんやけどね」

「子欄ちゃんに行射(ぎょうしゃ)を観せ、心によい影響を与えたでしょう。行動なさったことをあえて後ろ向きに捉える必要はございません」

「ん……、そうやね」

 心偽り行動するは呼吸と同じ。死んでも変わらない。

 一昨日・昨日と学園で体験したことを娘から聞いて過ごし、そこからも成長を窺い知った若き夫婦である。

「納月は自分のよさに気づいたようやし、音羅は周囲のひとびとを観て自分をより高めようとしとるようやから、学園に入れてよかったよ」

「私は、自衛や敵を仕止める手段の一つとして武術を学びました。子達はスポーツ的な観点で学んでいるようなので時代は変わったのだとも思います」

 三大国戦争では成人していない子どもまでも戦場に駆り出されたと記録があり、悪神討伐戦争では非力な子どもにも死が降りかかった。

「戦の気運がまた高まりつつあるが、あの子達が対人戦争で力を使うことはないやろう」

「オト様は戦争が起きないとのご高察を」

「目下起き得る戦争は利益が目的。そんなもんは起こした連中が対処すべきと考える。そんな連中にすら傷しか生まん争い事に子どもが関わるべきじゃない」

「仰る通りです」

 いざとなれば自分が前線に出る。そんな眼のララナを余所にオトは尋ねる。

「ところでお前さんも子欄に行射を観せたったやん。ミスを指摘したん」

「指摘しておりません。左様に仰るオト様もご指摘なさりませんでしたよね」

「まあね」

 子欄は行射のことを「立」と言っていた。弓道で立といえば行射を行う団体のこと。子欄は誤用していることに気づいていない。

「上級生なり同輩なりが正してくれるやろ」

「私にお願いに来たとき子欄ちゃんが立という言葉を使ったのでオト様がご指摘なさらなかったことを拝察致しましたが、大丈夫でしょうか」

「親の俺達や先達だって言葉の誤用をせんわけじゃない。誤りは恥とともに学ぶと為になる」

「私達が指摘するのでは恥になりませんか」

「親が指摘するんじゃどうしても知識の押売り(おしう  )になる。子達からすれば鬱陶しいだけ」

 オトが観た限りでは、子欄が継承した記憶に「五感」はない。そのため、極めて抽象的な知識が焼きついていて、体感が引き摺られ、自我の形成を妨げている感がある。

「三姉妹の中で継承記憶が一番曖昧で、だからこそ振り回されとる子欄は個を見定めるのに時間が掛かるやも。そんな子欄には恥が教えてくれることがあると思う。恥は、最悪にして最良の薬やからな」

 子欄は体面がいいので音羅や納月の失敗とは比較にならないほど羞恥することになるだろうが、それも社会勉強である。それに、オトから観れば子欄にはちゃんと〈子欄〉が存る。

「些細な間違いに荒療治を施すのは気が引けます」

「勉強家に磨きが掛かるからいいよ。あの子は自分と他者を比較して相手を見下げるようなことはないやろうし、正しい知識を身につけるのは大切やろ」

「なるほど、大きな間違いを犯す前の予防線ですね」

 ララナが納得したところで、オトは卵スープを飲み干した。

「納月や子欄はいい。心配なのは音羅やな」

「何か問題がございますか」

「純粋すぎるからな。ほら、生まれたての頃に一回あったやろ」

 炎のように明るい音羅だが、延命手段をオトに拒否されたときは消え失せた花火のように見る影もなかった。己の正義を打ち砕かれると脆い者はどこにでもいるが、納月や子欄ほど柔軟でも頑丈でもない音羅はその傾向が強い。

「たださえ多くの人格が集まる学園。注意深く見守る必要がございましょうか」

「お前さんは仕事が忙しいやろうから食事のことだけでも十分。無理せんように」

「公私はきちんと分けます。一緒に見守りましょう」

「……ん、よろしくね」

「畏まりました」

 各所に問題が起こり得る。全てに対処しようなどと考えるのは驕りでしかないが、手を差し伸べるべき場面はある。そのときはそっぽを向いてはならない。()()()()()()()()に、それだけは絶対だ。

 

 

 涼しい朝はダゼダダにおいて最も運動に適した時間帯。第三田創では朝練が心身を鍛えるのに大きなウェイトを占めるため気合を入れてやってくる生徒がほとんどだ。日曜明けでもだらだらしている生徒をほとんど見かけないのが、意識の高さを示している。

「アンタ、ちゃんと来たんだ」

「おはよう、野原さん。勿論来るよ、強くなりたいもの」

「ふっ……」

 更衣室に去ってゆく野原を音羅は見送った。

「あれはなんですか」

 とは、音羅の隣にいた子欄が言った。「お姉様に対する敵意を感じましたね」

「気合が入っていていいんじゃないかな」

「そういう問題では」

「いいの、いいの。真正面からぶつかり続ければ解り合えるものだよ」

「そうだといいんですが」

 不安そうな子欄に音羅は尋ねる。

「しーちゃんは帰宅部だったよね。格闘部に入る気になったの」

「違います。朝練限定で洗濯係になったでしょう。それだけではつまらないので、朝練の様子を観ていくことにしたんですよ」

「偉いなぁ。汚れの原因を調べておくんだね」

「なぜそんな解釈を。わたしは弓道以外の武芸に触れることがないと思うので、洗濯物が出る前までにいろいろな部活を観て回ろうと思ったんですよ。要するに見学です」

「あ、そういうこと。てっきり洗濯の研究とばかり」

「それほど凝り性ではありません」

「帰宅部は変えないんだね」

「魔法の勉強もしたいですし、お母様の負担を減らすためにお姉様方の道着などを洗わないといけませんからね」

 そうだった。帰宅部にした理由を一度聞いたはずなのに音羅は忘れていた。

「しーちゃんやっぱり偉いなぁ。ありがとう」

「どういたしまして。しばらくここで観てますね」

「ゆっくりしていって。しーちゃんのサポートに負けないくらい頑張るからね」

 更衣室で道着に着替えて道場に戻ると、音羅は壁際の子欄に手を振って準備運動を始めた。すると間もなく、一昨日中に知り合った部員一〇人以上が音羅の近くに集まって一緒に準備運動を始めた。

 同じクラスの女子部員田中(たなか)アズキが口を切る。

「ねえ、ねえ、トラちゃん、あの子って妹さんなんだよね」

 トラちゃんというのは、主にクラスメイトが呼ぶ音羅のニックネームである。

 アズキを始め、集まった部員の目線は子欄に向けられていた。

 音羅は腕を伸ばしてうなづいた。

「うん、しーちゃん、じゃなかった、子欄っていうんだ。仲良くしてくれると嬉しいな」

 三学年野村(のむら)コウスケが色めき立って言うのは、

「その、髪色以外音羅と全然似てないけど、スッゲェ可愛いな。あ、いや、音羅が可愛くないわけじゃないんだけど、違う部類っていうか」

「先輩、気にしなくていいですよ。しーちゃんは可愛いです」

「だ、だよな、可愛いよ、一昨日見たときは口から心臓が飛び出したもん」

「えっ!」

 音羅は慌ててコウスケの心臓を捜したが、あるわけがない。

「トラちゃん、先輩はそのくらいビックリしたってことをいったんだよ」

「そ、そうなんだ。それならよかった……」

 ほっとした音羅は準備運動を再開し、子欄を一瞥。見慣れた子欄も、ひとの目では随分と印象が強くなるよう。道を空けるような現象も子欄が現れたから起きたのだろう。

 同級生平石(ひらいし)クニヒロもどぎまぎして話す。

「弓術科の友達が話してたんだけど、弓の腕前も一級で、近くで見てたら肌も綺麗で興ふ、あいやドキドキしたって。オレも、この距離で見ててもちょっと緊張しちゃうよ」

「そういうものなんだね」

 聞き慣れた言葉を聞き流してしまうような厄介な性質が人間にはある。子欄に対する音羅の感覚は、それと同じようなものだろうか。

「わたしは見慣れているから平気なのかな」

「有魔力ってこともあるのかもだけど、なんかミステリアスってーか、とにかく吸い込まれそうな美少女ってーか……」

 みんながしどろもどろだ。

 子欄の思わぬ人気ぶりを、音羅は素直に悦んだ。

「魔法を洗濯に使ったりとか、今まで見たこともなかったし、いい子そうだし、わたしファンになっちゃった」

 と、二学年池田(いけだ)リンがにこやかに。「有魔力って変なヤツばっかだから余計にね」

「それな」

 と、同じく二学年枯山(かれやま)イチロウが同意。「音羅もいいヤツだし、竹神ん家は教育が特殊だったとしか思えないな」

 三学年瓶詰(びんづめ)アキラが前のめりで口を開く。

「それより、それよりよっ。わたしはもう一人の妹さんが気になるっ」

「なっちゃん、あ、納月ちゃんのことですか」

「そう、納月ちゃん。あのなんともいえない豊満なボディ、憧れちゃうなぁ、わたし筋肉質でマナイタだしなぁ。それにやっぱり可愛いんだよねっ。それなのに銃を使いこなしてるって話も聞いてギャップ萌えっ」

「解る、解るっ」

 と、二学年小嵐(こがらし)テツロウ。「あの胸になら挟まれて死んでもいいや。いっそ挟んだ上で舌っ足らずな口調で罵りつつ銃で撃ってくれてもいいっ」

「『うっわ、キモぉっ!』」

「うっせぇ、いいだろ、ドMなんだよーっ」

「あははー、マジ引くわぁっ」

 わいわいと盛り上がる部員の和。

 妹に人気があるのは姉として嬉しいのだが、音羅は一つ不思議に思った。

 ……どうやってこんなに情報が広まったんだろう。

 子欄はともかく納月は格闘部に顔を出していない。容姿や口調まで知れているとなると、噂話や友人からの伝播だけとは考えにくかった。と、なれば、インターネットか。携帯端末でアクセスできるので、みんなが情報を共有できるだろう。

「皆さん、妹のことはどこで聞いたんですか」

 と、音羅は跳びはねた。

 答えたのは今し方やってきた格闘部副部長こと雛菊鷹押である。

「察しているだろう、インターネットだ。第三田創の生徒が共同管理する掲示板がある」

「そうだったんですか」

 音羅は知らなかった。と、いうわけでもないか。入学前から音羅達の噂が流れていた、と、虎押が話していた。第三田創の専用掲示板を知る鷹押から情報が伝わったのだ。

「そこには写真もあるんですか」

「オレは観たことがない。以前先生方の写真がアップされていたことがあった。今は竹神音羅達の写真がアップされているのか」

「されてますよ、副部長。多重ロックの掲示板で国の削除対象にならないから顔写真とかも結構自由ですよね、あそこ。オレが観たのは『美少女三姉妹』ってタイトルで制服姿でした」

 と、イチロウが証言した。

 すると、複数の部員がそれを観たと言い、中には、

「『清楚な弓使い』ってタイトルの子欄さんのを見かけたよ」

 とか、

「『働き者な巨乳少女』ってのもあった。あれは納月ちゃんの、園芸部の活動じゃないかな」

「別んとこに音羅のもあったよ。『一生懸命な元気っ子』って」

 などなど、情報が尽きなかった。音羅は驚きであんぐりと口を開けていた。

 ……めたんこ出回っている!

 たくさんのひとと話す機会ができそうなのはいいことだが、情報の出回り方が過剰な感もある。

「わたし達がそんなに取り上げられているのは有魔力だからでしょうか。それか、ほかに理由がありますか」

 ほかの部員も耳を傾ける中、鷹押が音羅を見ず言った。

「際立っている」

「『目立つ』と、何か違いますか」

 自分達が目立っていることを音羅は初登園日に感じた。

「うむ。無魔力が多い学園で有魔力の入学者が目立つというのはあるだろうが、同じ有魔力でも魔法研究部や魔導研究部のメンバは目立ってはいない。要するに竹神音羅達が、別の有魔力より際立っている。同時に、無魔力の生徒と比べても、魔力とは別の何かを『持っている』」

「その何かってなんでしょう」

「美貌っすよね」

 と、横からクニヒロ。「ほら、ここを見渡してもイモしかいないじゃないっすか」

「『誰がイモよ』」

 と、複数の女子部員が声を揃えたのでクニヒロが正座した。「だ、っその、すんません。でも、事実音羅も、その、可愛い、よね?」

 音羅へ目を向けて言うクニヒロを同級生谷富(たにとみ)ヒマリが指で突っつく。

「アンタ〜、音羅に気があんのー?」

「ひっ、そそそそそういうわけじゃっ」

「わかりやすーい」

「も、もういいっしょっオレの話はっ」

 挙動不審なクニヒロはさておき、腹筋を始めた音羅は首を傾げるばかりである。

「美貌……。わたしは小さいので不釣合な気がします。鷹押さん、どう思いますか」

「それも、だろうか」

 鷹押が目を合わせず曖昧な返事。「オレがいいたいのは、やはり、竹神音羅は際立っているということだ」

 鷹押の友人山口(やまぐち)リョウタが口を開く。

「そりゃお前、もしかして──」

「もしかして」

 と、音羅はリョウタを見上げたが応答はなく、顧問の合図が掛かって話は中断となった。話の続きをすることなく朝練本番となり、音羅は疑問をすっかり忘れて型の反復練習に取り組んだのだった。

 朝練の制限時刻一〇分前に戻ってきた子欄にみんなが洗濯物を任せ、各自干し終えると次は授業と相成った。

 部活でも授業でも格闘技術を学ぶことになって新鮮味に欠けるかと思いきやそんなことはない。教科書に則った授業では動き一つ一つの技術や意味を学び、着実な進歩を感じて音羅は充実感に満ちていた。ただ、それゆえということもあろうか、慣れない早起きなどしたからか、もしくは気合を入れすぎたか、午前の授業が終わると音羅は畳に突っ伏していた。

 ……お腹、減ったなぁ。

 入学式の日は授業がなくすぐに帰れたし、一昨日は午前の授業と部活だけだったので乗りきれたが、今日は初めて午後の授業もある。

 ……お昼って、どうするんだろう。

 道場を見渡すと弁当箱を開いている生徒がいない。冬も真夏の気温となるダゼダダ。細菌繁殖に適した気温が保たれて午前中にお弁当が腐敗してしまうので誰も持ってこないのだろう。家では母の手料理を食べていたが、学園ではどうすればいいのか。

 昼ご飯に当てがない一学年生がちらほら。音羅と同じように座り込んでいる。

「みんないる〜」

 明るい声が降ってきて、音羅と一学年生は出入口へ顔を向けた。

「あ、れんかさん」

 格闘部で基本の型を教えてくれた三学年生菱餅蓮香。彼女は普通科なので制服姿だ。

 腹ぺこの音羅は出迎えることもできず情けなく床に溶けていた。

「音羅さ〜ん、どうしちゃったの、元気ないね」

「おなかがへって、うごけません……」

「あっははっ、そっか、そりゃそうだ。朝練全力だったもんね」

「みててくれたんですね」

「可愛い後輩だもん。それに全力で挑む姿って目を引くじゃない。みんなもお疲れさま」「『お疲れさまです!』」

 蓮香に手を引かれて音羅は立ち上がった。

「ありがとうございます。蓮香さん、どうして格闘科に」

「格闘科専攻の格闘部部員の様子をたまに観に来るの」

「熱心ですね。自己紹介のときも思ったんですが、意外です、普通科」

 蓮香の両手に包帯が巻かれていることに、音羅は触れる。「もしかして、その手の怪我が原因ですか」

「これは古傷だから最近のものじゃないよ。それに専攻は面接のときに決めるものでしょ」

 そうであった。

「じゃあ、蓮香さんはずっと普通科なんですね」

「社会に出たら一般教養も必要だと思うからね。格闘科じゃその辺りを深くは教わらないし、部活とのメリハリも出ていいかと思ってね」

「物凄く計画的ですね」

 蓮香は進学前から展望があったのだろう。とても堅実なひとだ。

 そんな蓮香が誘うのは、

「みんな、一緒に学食どう」

「ガクショ……、食べ物があるんですかっ」

 食い意地なら負けない、と、争ってはいないが音羅は一番に反応した。

「そう。生徒ならお昼はタダだよ〜」

「た、タダ」

「ま、学費に含まれてるからお金を払ってはいるんだけどね、手ぶらで行けるし、何よりおいしいよ。どう」

「行きます、行きましょう!」

 急に元気が湧いてきた現金な音羅である。

「はははははっ、ホントになんでも全力だね。みんなも案内するからついてきて」

 音羅と同じように昼ご飯に困っていた生徒が元気に立ち上がると、

「『ありがとうございます!』」

 感謝が揃った。

 蓮香の案内で本館四階へと向かった音羅達は、漂う香りだけで生き返ったようだった。

「いい匂いがしますね」

「なんせ学食だからね」

 他階層とほぼ同じ間取りで教室が並んでおり、どこも生徒でいっぱい。席にはさまざまな料理が並び、生徒の笑顔が溢れている。四階の席が取れなかった生徒は自分の教室や屋上など学園内なら自由に場所を選んで食べていいとのことである。

 蓮香の後ろに続いて音羅達は廊下を西へ。

「みんな違うものを食べていますね。メニュが複数あるんですか」

「武芸者だからね。みんながそのとき必要なものを食べられるようにメニュがいろいろあるんだ。常連は栄養バランスを考えて組まれてる日替りランチを選んで食べていたりするけど、トレーニングメニュや体調、気分の変化に合わせて選ぶのもいいよ」

 教室ごとにメニュが決まっているようで各教室から廊下に行列ができている。蓮香が向かっているのはなんのメニュの教室だろうか。

「蓮香さんは今日、何を食べるんですか」

「あ、そうだった、みんなが何を食べたいか聞かないとね」

 脚を止めた蓮香が、「あたしは奥から二番目の山盛(やまもり)サラダだよ。食べたい物をここで確認して」と、壁に張られたメニュ表を指した。

 ……メニュと配膳している教室が書いてあるんだ。

 蓮香によれば、これとは別に一箇月分のメニュ表が朝の連絡会で配られていた。連絡会で配られるプリントというのも一種「ありがちなこと」のようでここにいるみんなはすっかり見落としていたようである。音羅に至っては、

「座って話を聞くのは少し苦手で、寝てしまっていたのかも……」

「へぇ。音羅さんは体を動かすのが得意なタイプ、風の子なんだね」

「炎の子です」

「はははっ、音羅さんらしくていいね、炎の子」

 考えるのは納月や子欄のほうが得意だ。家では両親が完全無欠の思考力で物事を動かしているので納月や子欄ですら考えることはほとんどないだろう。音羅の出番はもっぱら力仕事で、引越し作業以外ではそんなに出番がない。

 蓮香から学食の豆知識などを聞きつつ、音羅達はメニュを決めた。音羅の選んだ唐揚げ定食は山盛サラダの隣の教室。そこまで蓮香と一緒に行き、行列に並んだ。ほかの一学年生もそれぞれ好みのメニュを見つけて教室へ向かった。

「それじゃあまた部活でね」

「はい。いろいろと教えてくれて、ありがとうございます」

 一つ奥の行列に並んだ蓮香と手を振り合うと、さて、揚げ物は人気が低いのだろうか、この列に限れば出遅れた一学年生は音羅一人で、受け取りもスムーズだった。

 ……あっちもこっちもすごい人気だ。

 ほとんどの生徒はここで昼食を確保する。近場のコンビニエンスストアや隣り合った商店街で済ませる生徒もいるが、くたくたの空きっ腹で学園外へ出たがる者は少ないらしい。

 ……なっちゃんにこの人込みはつらそうだな。

 人込みに拒絶反応のある納月。入学式前、別館廊下に並んだほどでもないが、ひとが密集しているので学食を利用しにくいだろう。

 ……なっちゃんの分、持っていってあげよう。

 壁に張られたメニュ表を再度確認して、納月が好きな()()()()を探す。

 ……シチュと白パンのセット。今日はこれがよさそうだ。

 配膳室は東隣の教室。唐揚げ定食は味噌汁以外汁物もないので、手間は掛かるまい。

 音羅は納月の昼食を確保。配膳室の席は空いていたが、納月にシチュセットを届けるため一階にある一学年五組の教室を訪ねた。すると納月はおらず、狙撃科の教室にいるかと訪ねるもおらず、音羅は困り果てた。

 ……どうしよう、シチュが冷めちゃう。

 炎の魔法で温めてもいいが、観ていないはずの父に、「魔法の無駄遣い」と、叱られそうなので控えたい音羅である。

「お姉様」

 声のほうを振り向くと、子欄がいた。しかもその手にはシチュセットのトレイが。

「気が合うね」

「納月お姉様は」

「ここにもいないよ」

「自分のをまだ確保していないのでこのシチュはわたしが食べてもいいんですが、問題は納月お姉様の居場所ですね。園芸部の部室も訪ねたんですが不在でした」

「そっちはまだ行っていなかったんだけれど、いないんだね。しーちゃんのことだから魔力探知は試したかな」

「それはまだ。狙撃科(そちら)を訪ねてからと思って。納月お姉様の教室は訪ねたんですよね」

「うん。そっちにいなかったからこっちに来たんだ」

「では、当ては捜し終えましたし魔力探知を試しましょう」

 子欄がわずか集中して、「上。別館脇のようです」

 音羅は子欄とともに地上階へ上がり、別館を出て、日陰となっている東側へ回り込んだ。

「なっちゃん、いたっ」

「あ、お姉しゃま、それに子欄しゃんも」

 歩み寄った音羅と子欄を見上げたのは納月だけではない。ほかにも、倒れた朽木の脇に七人の生徒が屈んでいる。

「なんかやっているの」

 首を傾げた音羅に対して、子欄が思い出したように話す。

「ああ、あれですね、闇属性魔力の溜り場の後処理。魔力を正常化して新しい苗木を植えて、もとのように緑化するんです」

「一昨日話していたっけ。なっちゃん、そう」

「はい、子欄しゃんのゆう通りでしゅ。こちらの方方は概ね先輩方で、──」

 闇の精霊結晶に纏わる騒動で知り合った面子であった。魔導研究部部長山口(やまぐち)マサシ、魔導研究部部員斉藤(さいとう)リツと田坂(たさか)ユミ、魔法研究部部長三沢(みさわ)カヤ、魔法研究部部員米丸(よねまる)レイコと小野(おの)ミク、園芸部部長此方(このかた)(つばさ)の七人である。

 納月が掌で示した面面がそれぞれ短い自己紹介をすると、音羅と子欄は会釈。

「初めまして、納月ちゃんがお世話になっています。姉の竹神音羅です」

「わたしは妹の子欄といいます」

 と、挨拶してから、音羅達は目的を切り出す。

「作業中にお邪魔してすみません。納月ちゃんのお昼ご飯を持ってきたんですが、皆さんはどうしますか」

「これはぼくへの罰もかねているんだ」

 と、山口マサシが眼鏡を光らせた。「朽ち木をぼくが運ぶべきところ、この細腕では残念ながら無理で、みんなに手伝ってもらっている。みんなは先に食べたほうがいいかも知れない」

「水くさいこというなって」

 斉藤リツが山口マサシの肩を叩いた。「オレはこのまま手伝うぜ。竹神、お前は食べろよ」

「ありがとうごじゃいましゅ。そうしましゅ」

「わたしも食べるわ」

 と、此方翼が納月に続いて立ち上がった。「段取りは済んだから、昼休みや放課後が本番。まずは食べて力をつけましょう」

「そういうことなら、先に食べることにしよう。じゃあ納月君、またあとで」

 と、山口マサシが立ち上がり、みんなが本館へ向かった。

 残った三姉妹は、小岩に腰を下ろして昼食と相成った。両手を合わせると、

「『いただきます』」

 箸やスプーンを手に取って各各のペースで食べた。

 ……あ、これはなかなか。

 唐揚げ。移動中に少し冷めてしまったが肉汁の閉じ込められた衣がサックサクで香ばしく、濃厚ながらさっぱりとしているのは黒胡椒のお蔭か。

「お〜いし〜」

「確かに。お父しゃまのカレーならいざ知らじゅ、なんとか野菜も行けましゅ」

「どうせならカレーが食べたかったですね」

「子欄しゃん、もしかしてわたしのためにシチュを持ってきてくれたんでしゅか」

「そうだよ。わたしとしーちゃん、考えがダブっちゃったの」

「ちょっと悪いことしちゃいましたね。お姉しゃま、子欄しゃん、ありがとう」

 納月の感謝に姉妹は微笑で応えた。

「シチュが二シェット出て、ほかが余ったりしないんでしゅかね」

「人気の有無で売れ残るメニュがありそうですね。人数分しかないなら誰かが希望のメニュを手に取れないことになりますが」

「蓮香さんによれば食事は体作りの一環だから、栄養が偏らないように各メニュを多めに作っているそうだよ」

 一人二食分という暴食は学園側の想定になく、最初から余りが生ずる計算ということ。蓮香がいうにはそうして余ったメニュにも役割がある。

「余ったメニュは商店街にある子ども食堂でその日のうちに食べてもらうんだって」

「子ども食堂。一日三食得られない貧しい子ども達に開放され、食事を安価で提供する食堂、でしたか」

「第三田創は食品ロスを防ぎつつ地域に賢く貢献してるんでしゅね。見直しました」

 音羅も同じことを思ったものだった。第三田創は無魔力の生徒を募るだけでなく、生まれつきの障害を持った人材を教員として招いていたり、広い意味で弱者に目を向けている、と。

「ところでなっちゃん、人込みに酔わなくなったんだね。みんなに囲まれて平気そうだった」

「屋外でしゅし、あのくらいなら平気でしゅよ」

「そうなんだ。普通にひとと話せているみたいで安心したよ」

 人込みへの拒絶反応に加えて人見知りのきらいもある納月を音羅は心配していた。要らぬ心配だったようで、音羅は自然と納月を抱き締めていた。

「なっちゃんがみんなと仲良くなれているなら、わたし、嬉しいな」

「っもう、お姉しゃまは変なとこで心配性でしゅ。大丈夫、わたしは無事にやってけてましゅよ。そっちはどうでしゅか。朝練や授業でお馬鹿なことをいったりしたりしてないでしゅか」

「う、(今日は連絡会で寝ちゃっていたんだけれど、)大丈夫だよ、たぶん」

「変な間が。絶対なんかやらかしてましゅね」

「きっと大丈夫!元気さえあればみんなにこにこ愉しいよっ」

「凄まじいごまかし感でしゅ」

 などと音羅と納月が雑談して、それを子欄が眺めて、昼食の時間はあっという間であった。

 本館四階に食器を返しに行って昼休みに入ると、別館東に戻る納月が去り際、子欄に言う。

「明日からはわたしも自分で食事を取りに行きましゅから、自分の好きなものを食べてくだしゃいね」

 子欄が会釈し、音羅とともに納月の背を見送った。

「しーちゃん、明日からカレーにするの」

「一箇月分のメニュ表を見たところ、カレー類は人気が高いのかほぼ常にあるようなので、そうしようかと思います」

「それはよかったね。って、カレー類って」

「カレーにもいろいろありますよね。カレーライスだけでも甘口・中辛・辛口とあるのに、カレーパン、カレーうどん、ドライカレーなんてものもあります」

「あ、カレー焼きそばとか、カレーの煮つけとかね」

「煮つけは魚です」

「あ、あれ、しーちゃんまでツッコミを」

「単なる指摘です。納月お姉様がいないので致し方なくですよ」

「ふふっ、これはツッコまれないようにしないと、だね」

「無理でしょう、お姉様ですし」

「どういう意味っ」

「『お姉様』という意味ですよ」

「なんちゅう言われようっ」

 意味不明の解釈で突き刺されて音羅はびくびくしたのだが、子欄が愉しそうにしている。

 ……なっちゃんもそうだった。

 園芸部の活動を通して苦手なことを克服しつつあるようで、充実もしているようだった。

「ふふ〜ん、なんだかお姉ちゃんとして嬉しいなぁ」

「わたしも。音羅お姉様も納月お姉様も、充実しているようで何よりです」

 どうやら子欄も同じことを思っていたようだ。納月もきっとそうだろう。専攻も部活もまちまちなのに学園生活を満喫していることは同じ。

 ……ママがいっていたのは、こういうことなんだろうな。

 三姉妹が一緒にいることが当り前だった家。そこでは決してできないことを、まさに今、音羅達は体験している。

「これからもっと愉しくなりそうだね」

「五月には学年混合武術交流会があります。成果が挙がるように鍛錬したいですね。お姉様はそこで野原さんと戦いたがっていましたよね」

「うん。同級生なのにすっごく強いんだよ」

 試合でぼろ負けしたのが音羅の記憶に鮮烈である。

「次はいい勝負ができる気がする。それに、勝ちたいんだ。魔力や魔法を使わずに、体だけでぶつかって」

「それもいってましたね」

「あ、あれ、そうだったっけ」

「無意識に口に出してしまうほどに、負けたことが悔しかったんじゃないでしょうか」

「そう、なのかな」

 勝ちたい。その気持が負けた悔しさと同居しているという構図は音羅にはなかった。悔しむ暇もなく負けていたせいもあるかも知れない。野原が圧倒的に強かった。ただ、腕力では負けないと思っていた音羅は自信が打ち崩された恰好である。型を学び、簡易試合を経て、腕力だけで格闘試合を制することはできないということを理解した。が、強い腕力を活かせば有利になったとも理解している。それなのに負けていた自分にこそ悔しい気持が湧いて、日に日に思いは強くなっている。のかも知れない。

「もしかしたら、お姉様に取っては野原さんが目標なのかも知れませんね」

「そうかも。初めて試合したひとだから余計にライバル意識が燃えて、自然と彼女を目指しているのかも。今度こそ、この力を活かしきって戦って、それで、認めてもらおうって。お礼もまだしっかりいえていないし」

「お礼、ですか」

「うん。簡易形式のルールって五月の交流会でも使うらしいんだけれど、先生が話してくれた内容はすごく細くて難しかったんだ」

「簡易形式なのに難しいんですね」

「うん。学園の中だけで通じる正式なルールの一つみたいでね、飽くまで『そういう名前』ってことらしい」

 野原の言葉を借りるならローカルルールだ。第三田創内で一番使われているそのルールを適用する試合が「簡易試合」という呼称になっているだけで、「簡易」は「簡単」や「手軽」という意味ではない。

「呼び名ひとつ取ってもややこしいですね」

「だよね。その中身を、初心者のわたしが解りやすいように野原さんは教えてくれたんだよ」

 説明を最小限にして早く勝負したかったという理由もあるだろう。だがあえて言えば、野原が省略した部分には彼女が有利になりそうなルールがいくつもあった。彼女は自身に有利なルールを音羅との試合の中で一切使っていなかった。つまり、簡略化したルールの中で、格闘試合初心者の音羅に合わせて戦ったということだ。

「あの説明と試合がなかったら先生の説明がちんぷんかんぷんで、今も理解できていなかったと思う。型の重要さとかが理解できて愉しめたのは、野原さんのお蔭」

「教科書を読めばなんとか、……なりませんね」

 音羅は「えへへ……」と笑ってごまかした。教科書の図を観ることはあっても文字は一切読んでいない。

「お姉様は体で覚えたほうが間違いなく早いですね」

「うん。だから、お礼をいいたいんだ」

「交流会の試合で相見える実力となれば、お礼もいえる。そういうことですね」

「うん。わたしは野原さんと同じ土俵に立てていないから、お礼はまだ早いかもって思う」

 野原に教わったことを吞み込めたと成長で示してからお礼を言う。そうしなければ、単にルールを教わっただけで弱いまま、野原の親切に報いることができない。

「頑張ってください、お姉様」

「うんっ。しーちゃんもね」

 昼休みだというのに、二人とも稽古のため別館に入っていったのだった。

 

 

 部活や授業に慣れてきた水曜日。放課後の部活中、雛菊虎押は稽古している兄雛菊鷹押の背中を見つめていた。

 ……まだ大きく見える。

 兄の背中。それに、肩。あの肩に、昔はよく乗っかって遊んでいた雛菊虎押である。

 ──無事か。

 肩車から転落して泣き喚き、抱き起こしてくれた兄におんぶされていた頃を懐かしく思う。何年も経っているのに、距離が縮まった気がしない。

「上の空〜」

「知泉……」

「ブラコン〜」

「ちっがうよ」

 断固ブラコンではない。でも、「ふと思って。兄貴ってつくづく強いな、って」

 今や格闘部副部長だ。故郷ではその運動神経を活かしてたくさんのスポーツを人並以上にこなしていた。不器用で口下手だが、優しくて強い兄はいつでも友人に囲まれていて、雛菊虎押に取って尊敬の対象だった。今もそうだ。逞しい筋肉でも判る通り、稽古の姿勢がまじめで、真剣で、思わず見入ってしまう。

「兄貴も無魔力なのに、オレ達の中で唯一、有魔力とも対等に渡り合っていた気がするんだ。たぶん、人徳だな」

「それは贔屓目〜」

「かもな。けどさ、そう思わないか?」

「う〜ん──」

 知泉ココアが雛菊鷹押を見つめる。稽古中でも声を掛けられれば手を止める雛菊鷹押。試合の申し込みなら相手をし、アドバイスを求められれば答える。先生からの頼み事もノーとは言わず確実にこなし、自身の稽古を怠ることもない。高身長やがたいのよさで最初こそ恐がられるが、自分のことよりみんなのことを考えて動いている雛菊鷹押を信頼する一学年生が着実に増えている。二学年以上の生徒には冗談を飛ばされるくらいだから、近いうちに一学年生全員の信頼を獲得するだろう。しばし観察していた知泉ココアも、

「まあ、いいひとだ〜、お兄さん」

 と、好意的である。「虎押君はそんなお兄さんに憧れてる〜」

「まあ、な。憧れているだけで、終わりたくはないけど……」

 人徳があって優しくて強い人間。そんな兄を超えられるように雛菊虎押は頑張りたいが、

「──プウちゃんっ!」

「いっ──!」

 爪先から太股に何かが這った感触がしたかと思うと、その感触が頰まで登ってきて雛菊虎押は震え上がった。頰に張りついたソレを引っ摑んで、自分でも驚くほどの、

「ほぎゃあぁっ!」

 と、いう大きな悲鳴を上げてぶん投げる。すると、竹神音羅がソレをダイビングキャッチした。間違いない、あの形は──、

 ……へ、ヘビぃっ!

 ゾワ〜っ。体を這い上がったあの感触がぶり返して雛菊虎押は鳥肌が立った。

「あらら、ちっちゃい男だ〜、ヘビくらいでー」

「へ、へへへびぐらいじゃないっでばぁっ!」

 竹神音羅の両手をウナギのように擦り抜けようとしているヘビの動きを見ているだけでぞわぞわしてしまう。

「ご、ごめん、虎押さんっ」

 と、竹神音羅が近づいてくるから雛菊虎押は再び悲鳴を上げて、今度は逃げ出した。

「ひぎゃぁぁっ来るなぁ〜っ!」

 竹神音羅が追ってきていないことにも気づかず隅まで逃げた雛菊虎押は、

「お前は何をしているんだ」

 と、兄に抓まれて、子猫のようにもとの位置に戻されてしまった。

「だっだだって、ヘビっ!」

「……、慣れろ」

 一言で去ってゆく兄である。

 ……なんでオレをそんなにあっさりと見捨てるんだよっ!

 と、ツッコむ余裕もなく、雛菊虎押の膝許にヘビが這い寄っていた。

「ふひぃっ!」

 思わず固まった雛菊虎押は、ヘビと目が合ったまま生唾を吞んだ。

 ……これ、漫画なら食われる一歩手前のコマじゃないかな。

 走馬灯が見えそうだ。と、思っていると、ヘビがペロンと膝を舐めるのでびくっとしてしまった。道着を着ているので直接舐められたわけではないのだが。

「虎押さん、大丈夫だよ。この子はプウちゃん」

「ぷ、プウちゃん?そんな可愛らしい感じの眼じゃないんだけど」

 縦長の瞳孔が威嚇的だ。今にも食われそうで恐くて仕方ない。と、雛菊虎押が怯える横から知泉ココアがプウの頭を撫でた。

「わぁ、なんか思ったよりやらかいし、ひんやり〜。何これっ、ヘビってこんななんだ〜」

「火の粉と一緒に出たり消えたりするんだけれど、ひんやりしているのはヘビだからだろうってしーちゃんがいっていたね」

 と、竹神音羅が説明して、知泉ココアと一緒にプウの体を撫でる。「学園では現れたことがなかったんだけれど、わたしが学園の空気に慣れたからかな、知らないうちに出てきていたみたい」

「出たり消えたり。普通のヘビじゃないんだ〜」

「知泉、よく平気でさわれるな……」

 雛菊虎押は膝歩きで少しずつ後退していた。目が合ったままだ。いつ飛びつかれるか。

「虎押さんもさわってみて。恐くないよ」

 と、竹神音羅がプウの尻尾をぎゅっと摑んで言った。「ほら、こうしていればこれ以上先には動かないし」

「そ、そうはいってもな」

 ヘビだ。ヘビだぞ。毒があるかも知れない。「火の粉と一緒に出たり消えたりなんて……」

 木彫りのような外見だからまるで騙し打ちだ。竹神音羅に尻尾を摑ませているふりをして、嚙みついたり、火を吹いたりするのではないか。

「どうしてそんなに恐がるー、弱っち」

「知泉、お前なぁ……」

 山にある実家ではよくヘビが出没しており、嚙まれたこともあってトラウマなのである。小さい頃は兄がいてなんとかなっていたが、今は助けてくれそうにないわけで。

 ……精進、か。

 ヘビに触れることが修業になるとはとても思えないが、この蛇プウは竹神音羅がいうように今のところは大人しく、恐そうでもなく、知泉ココアが触れていても暴れたりしておらず、トラウマを克服するにはいい機会かも知れない。兄が進学するたび逃げ回るしかなかったヘビに真向から立ち向えるようになるなら、精神的には確実に成長できるとも雛菊虎押は考えた。

 ……一か八かだ。

 どうせ目が合っている。逃げても追われて嚙まれてきっと終りなのだ、と、いう、消極的な後押しもあって、雛菊虎押はプウに近寄った。

「ほら、プウちゃん可愛いよ〜」

「うん、うん、可愛い〜、可愛い〜」

「か、可愛くは全然ないけど……」

 雛菊虎押は、慄えきった指先でプウの頭を掠めて、ビュンッと跳び上がって退却した。

「はいはいっ、はいぃっ、さわったっ、さわたぁっ!」

「虎押君、よっわっ」

 知泉ココアの冷たい目線が突き刺さる。

「いいもん、恐いもんっ、どうしようもないだろう、ヘビだもんっ!」

「ゲンメツー」

 なんといわれようと構うものか。苦手なものは苦手、恐いものは恐いのだ。気を遣ってくれたのか、プウが微動だにしていないが、その目が少しだけ哀れんでいるようだった。

 ……ヘビ本人に哀れまれるオレって……。

 情けない。掠めた程度とは言え少しだけさわれたからか、いまさらながらプウが手乗りサイズの小さな体格であることに気づいた。兄の背中とは別の意味で巨大に観えていた。恐ろしい錯覚だ。まだ汗と慄えが止まらない。

「少しずつ慣れればいいんじゃないかな」

 竹神音羅が笑って、プウを自分の頭に載せた。「これから長い付合いになるから頑張ろう」

「付き合うこと前提なのかぁっ」

「音羅さんが出したり消したりしてるんじゃないっぽいし、そうなりそー。器を大きくするいい機会だ〜虎押君〜」

「マぁジぃかぁ……」

 どれだけ鍛えれば爬虫類耐性が身につくのだろう。そもそも鍛えて得られるものなのか。

 ……体を鍛えるより、よっぽどキツそうなんだけど。

 田創町にはヘビがいないと思って油断していた雛菊虎押、痛恨の誤算だった。

 

 

 金曜日の帰り道、知泉ココアは雛菊虎押を誘って商店街のファミリーレストランに寄った。注文した品が届き、各各食していたがしばらくして、

「──で、なんだよ、いきなり誘って」

 と、雛菊虎押が切り出した。知泉ココアは「特別に用がある」と言って誘った。が、本当は特に用がなかった。

「なんとなく話したい〜」

「なんだそりゃ。小遣いに余裕があるわけじゃないし、外食なんかは控えたいんだけど」

「ちっちゃい男だー、働け、働け〜」

「なんだよ、特別な用があるっていうから付き合ったんだぜ。説教なら帰るぞ」

「あたしはバイトしてるー」

「う……、そうなのか」

「説得力あるでしょ。交遊費をケチるなんてちっちゃい男だー」

「……言葉が出ない」

 カフェオレを飲んだ雛菊虎押が質問する。「働いているのって、週末だよな」

「うん、第三田創に入ってからだから先週が初めて。スーパの裏方で商品の出し入れー」

「へぇ。で、ソレ?」

 雛菊虎押が指したのは知泉ココアが口に運ぶ厚切りステーキである。

「手取りでもらっちゃったから早速。それに今日もすっごいお腹空いたー」

「あはは、腹減りは同感。音羅と試合しているとやたらと動くことになるからな……」

「──音羅さんとの試合、嫌じゃないー」

「ん?まあ、そうだな……」

 言われて気づいたわけでもないだろう。が、雛菊虎押が自らの胸に何か小さな疑問を見出したことに知泉ココアは気づいた。その疑問は、知泉ココアが持っているものである。

「音羅さんって不思議だ〜。有魔力なのに、全然『恐くない』」

「……、そう、だな」

 小さな疑問を、雛菊虎押より明確に捉えていたから知泉ココアは言える。

「虎押君」

「ん?」

「あたしのことは、恐くないー」

「……今は」

「最初は」

「……ちょっとだけな。今は、そうじゃないから安心してくれ」

「ならいい〜」

 有魔力は、宿した魔力によって生まれながらに髪や虹彩の色が鮮やかなことが多いらしい。その性質を捉えて、知泉は恐がられた経験があり、同時に、それが起因の苛めを受けたことがある。

「あまり訊くのはアレかと思って控えていたんだけどな……、知泉の髪や眼は血筋なんだな」

「うん、──」

 プウにも怯えるような弱腰だから、と、いうわけでもなく、雛菊虎押が相手だからすんなり話せることだ。知泉ココアはダゼダダ人とレフュラル人の両親を持ち、レフュラル人の形質が強かったためか生まれながらに金髪碧眼だった。金髪といえば、金属性魔力を持つ者の象徴とされているそうで、初等部中学年の頃、有魔力と勘違いされてしまった。無魔力には恐がられたが有魔力の友人ができた。どちらも一時的なことだった。魔力がないことが判ると、有魔力の友人は「騙された」と言い、知泉ココアはあっという間に苛めの対象になっていた。

 ──その〜、言い出しにくくて、ごめんねー……。

 ──そんなん通じるか、生まれつきの落ち零れの分際で!

 日頃の言葉遣いや、苛められた際の反論に対する非難は凄まじいの一言だった。さらには、

 ──苛められたくないのは解るけど、有魔力になりすますとか……。

 ──髪染めるとかセコイことしてんなよ。みんなそういう目で見られるじゃんか!

 味方になってくれるはずの無魔力の同級生にも仲間外れにされていた。当初はそれが苛めとは認識できなかったほど立場が一瞬で変化していた。そうして、いっとき声が出なくなるほど知泉ココアは追いつめられた。

「──。進んで騙してなんてない……、不幸な勘違いだったー。けど、一瞬でも仲良くなったひとから非難されたのとか、同じ無魔力のひとにハブられたのはさすがに、キツかったー……」

「……オレも苛められた経験はあるから、少しだけど、解る気がするよ」

 無魔力に生まれた以上、有魔力からの苛めは宿命的だ。初等部入学前に親から教わるほどに長い年月連鎖し常態化していることだとは、実際に苛めを受けて初めて理解した。知泉ココアがもし子どもを持つ親の世代になったとしたら、同じように子どもに心構えを促すことが想像できるほど、受けた苛めは理不尽で、容赦がなかった。苛めを認識しても「苛めだ」と自ら口にすることもできないほど追いつめられていた。振り返れば狭い世界のことだとしても、その狭い世界が生涯続くおそれがあるがゆえに、だ。

「知泉が無魔力だってことは入学式の日、廊下で話しているあいだに判っていたが、……勘違いからの苛めか。なんか、オレなんかが想像するより、ずっと苦しかったんだろうな。プウにすぐ慣れたのとかも、そういう経験が活きているのか?」

「それは単純に可愛いから〜」

「いや可愛くはないっ」

「虎押君はまだまだだー、う〜ん」

「唸るほどか……」

 苦笑する雛菊虎押に、今度は知泉ココアから質問する。

「虎押君、音羅さんと試合したりするのは平気」

「ああ、まあ、平気だな。『いつ本気でぶん殴られるか』って、ビクついているところがないっていったら噓になるけど」

「それは虎押君の弱さだー」

「悪かったな、小心者で」

「プウちゃんをさわれるようになったら大物になれる〜」

「それはないから」

「気持の問題〜、……音羅さんとの試合と同じ、だよ」

「……だな」

 いつ本気でぶん殴られるか。格闘部・格闘科所属であるから物理的な意味も含んでいるが、どちらかといえば物理的な意味ではなく、いつ苛められるか、と、いうのが本音なのだ。一歳に満たないという竹神音羅は少女のなりと同様に精神も幼く知泉ココア達の知る有魔力とは異なる可能性が十分にあるが、一度きりでもなかった苛めを振り返るとどうしても「有魔力」というファクタを無視できない。生まれながらの社会的優位者だからである。

 生まれながらの社会的劣位者である無魔力として、知泉ココアや雛菊虎押は有魔力に蔑まれ続ける人生が確定している。それを知っていて、苛められた経験もあって、すぐに竹神音羅という同級生を信ずることは難しく、竹神音羅の妹も同様だ。

 それでも感じているのは、竹神音羅は恐くない。裏表がないのか、それとも猫を被っているのか。どちらか判らないから、知泉ココアも苛められることへのおそれが消えていない。心の問題だ。現状竹神音羅は恐くないが、知泉ココア達が恐がってはいる。

「いつかさ──」

 と、雛菊虎押が微苦笑で言った。「いつか、解り合えたりするのかな」

 疑問ではなく独り言のようだった。

 平らげたステーキ皿にフォークを置いて、知泉ココアは輪切りのレモンを口に銜えた。

「すっぱーっ!」

「何をやっているだ」

「ちゅ〜っ」

 と、輪切りレモンを吸い干して、「頭冴えた〜っ!」

「唐突だな」

「重い話だったから気分変えたくて〜」

「お前が話したかったんだろう」

「まあねー」

 理解してもらえなさそうなら話さなかった、特別な用。雛菊虎押は、理解してくれた。知泉ココアは、輪切りレモンを雛菊虎押の口に突っ込んで、

「聞いてくれてありがとうね、虎押君」

「っ──」

「ん〜、どうかした〜」

「あ、いや……、すっぱぁ」

 雛菊虎押がレモンを置いてカフェオレのグラスを仰いだ。

「うわぇ、なんかマズゥ……」

「あはははっ、ごめん、ごめん、冴えすぎちゃった〜」

「ああ、──冴えすぎたかもな」

 苦笑ながら、雛菊虎押が愉しげだった。

 ……ちょっぴり大きくなったかな。

 それを狙ったわけではなかったが、雛菊虎押の変化が少しだけ嬉しい知泉ココアであった。

 

 

 四月の末日。その昔に何度か足を運んだ円卓にオトはやってきた。空気は変わっていない。作り物めいたにおいがしないだけ生きた心地のする場所である。

 ザッとノイズが入って天井のスピーカが稼働、男性の声が呼びかけた。

〔竹神音さん。お久しぶりです〕

「おはよう。どうやらほかのもんは来とらんな」

〔あなたが早すぎるんですよ〕

「そうかい」

 マイクもセットになっているので、スピーカの向こうの人物とやり取りできる。

 五つの席が置かれた円卓。オトはその上の書類を手に取った。約一〇万人いる魔術師のうち一部のデータを記したものだ。

〔ご請求の資料です。そちらでよろしいですか〕

「OK。手間を掛けさせて悪いね」

〔この程度の資料であれば一日も要りません〕

「持出しは」

〔不可です。記憶してください〕

「苦手なんやよな、記憶は」

〔ご冗談を〕

「本当やけど。これから少し黙っとってね」

〔──動くんですか〕

「二度いわすな」

〔……〕

 スピーカが沈黙した十数秒で必要事項を捉えて、オトは書類を置いた。

「もういいや。沈黙を強いて悪かったね」

〔構いません。一つ、質問してもいいですか〕

 スピーカ越しの男性の声が躊躇いがちだ。オトは先読みで答えた。

「悪いが不在で。バランスは取れとるやろ」

〔はい──、ですが、〕

「じゃあばいばい」

〔あっ──〕

 話すと長くなるので、オトは会議室を出た。やることがほかにいくつかあるが、最優先は会議室を出て雪山を跳び越え、海へ突撃して海中を一直線に潜った先にあった。雲を突き破る高さからの落下加速度を利用しているので泳ぐ必要はほぼない。目的地はただただ深い海底。魔力反応で捉えられる、生活感のある場所であった。

 海中に人間の吸える酸素はなく、深海へ一気に潜れば機械ですら水圧で駄目になる。オトの体は化物の如く頑丈であるから無事である。ゆえに、

「『何奴──!』」

 暗がりの海中を漂うように生活している尾鰭を持つ者達〈人魚(にんぎょ)〉が警戒して銛を構え、オトを一瞬にして取り囲んでいた。四方八方、天地に至るまで、銛の壁である。

 オトは両手を挙げて無抵抗を示した。

「ここにおることは判っとる。タルコスを出してもらいたい」

「貴様、何者か。なぜ人間がここで話せる」

 銛の先端が詰め寄ってできた壁で視界が妨げられて誰が話したか定かでないが、オトは答える。

「人魚には水圧を耐え言葉を発する能力があるな。それを使っとる。(と、いうことにしとこう)」

 体の丈夫さや理屈の通らない発声の仕組を話すと経緯が込み入っていて説明が大変なので、話が円滑に進むような建前が必要であった。一部人魚はオトの言葉に理解を示したが、先程と同じ人魚が質問を続けた。

「タルコス。その名をどこで知った」

「剣を教わった弟子でね、ちょっと相談事があってきた。(と、いうことに以下略)」

「名乗るがいい、確認してやろう」

「デインデ・マァズだ」

 そんなやり取りがあって銛の壁の中で待つこと数分、海流のわずかな変化からオトは目的の人物〈タルコス・ガラータ〉の訪れを感じ取った。

 タルコスはと言えば警戒心の塊であった。

「貴様、何者だ。デインデ──、その名を騙るからには覚悟はできているんだろうな」

「今回はお互いのための『きっかけ』だ。殺されるつもりもなければ死ぬつもりもない」

「……せめて名乗れ」

「竹神音だ」

「……」

 銛の壁で表情は観えないが、タルコスの緊張が伝わってきた。鍛え上げられた元軍人の神経であるから一瞬のこと。それを、海の伝播力が耳敏いオトに完璧に伝えてくれた。取り囲んだ無数の人魚の息遣いや緊張、銛を向ける意志の強さも漏れなく。

「謝る。会えんと話にならんから確実に会える名前を使わせてもらった。すまなかった」

「目的はなんだ。次第によってはサメの餌にする」

 アイアンメイデンを閉じるように銛の壁がギヂッと迫るもオトは動じない。

「今回はもう帰るよ。次があるならここに来てほしいんやけど可能かね」

「オレだけなら可能だが、罠でない証拠が要る。貴様が竹神音である証拠を示せ」

「証拠ね」

 何かあるか。自分が自分であることを示すのは存外難しい。オトは身分証明書を持っていない。一度は明確に噓を言っているから言葉では信じてもらえまい。が、銛の壁が遮っているので物が通るまい。オトは言葉に頼る。

「誕生日やなんやはそちらも知るところやろうからあえていわん。が、俺は父親の煙草が大嫌いでね、あるときカートンごと家の中で焼き尽くしてぶん殴られたことがあった、なんてことまでお前さんは知っとるんやないかな」

「……」

「この話を知っとるのは、あのとき俺を監視しとった国内外の治安維持組織くらいだ。お前さんは国外の軍人でも当時頂点に程近かった。報告くらいは上がったはずだがどうかね」

「……」

「銘柄まで示すべきやったな。焼き尽くしたのは『blue world』、ダゼダダの煙草産業を牽引するDT(ディーティー)の主力──」

「解った。次、ここで会うことにしよう」

 安易な約束ではない。タルコスがしばし無言だったのは、ここにいる人魚が害された際にほかの皆が逃げるだけの時間を稼げるよう伝達役の配置をし、避難誘導の手筈を整えた。時速二〇〇キロを超えて人魚がそこらじゅうで泳ぎ回っていたことからオトは察した。

「銛を退けてもらえる」

「ああ、いいだろう」

 瞬間、迫る銛の壁。全てが同時に迫っているように観えて同時ではない。最も突き出ていた銛を引き抜きぶん回したオトは、銛の壁を崩壊させて脱出、衝突した大半の銛の音に耳を塞ぎつつタルコスの前に躍り出て折れた銛を押しつけた。タルコスも無防備ではなく、正面に構えた剣の樋でオトの銛を受けている。

「はい、証拠」

「……まさか、ここまでとはな」

「もう勘弁して。久しぶりに動いてあちこち悲鳴を上げそうやし」

 宣言通り、オトはその場でタルコスと別れた。タルコスがオトを竹神音と認めて次に会うこと、話を聞くことを約束したのは言うまでもない。

 帰りの海中、オトは浮力に任せてゆっくり浮上する。人魚が警戒を強めていた気配があったので刺激しないように、と、いう意味もあったが、暗がりの深海が世に出ざる(いで    )頃を彷彿とする穏やかさで、心が洗われるようで、いつまでもいられるような心地さえしていたというのもある。浮上し、少しずつ明るい世界に這い出してゆくような感覚は、水圧の低下と相反して過酷な現実に引き戻されるようで、体の解放感と裏腹に心は抑圧され始めたように感じた。

 家に戻るといつも通りの引籠りとなって翌日を迎えた。娘の背を見送るのが日課になってからは日が経つのが少し早いようである。

「──最近、音羅さんはずっと稽古していますね」

 と、椅子に座った相末学が庭を向いて。

 日差も気にせず庭で型の反復練習をしている音羅。道着は汗でびっしょり。踏み鳴らして草も生えなくなった地面に汗が染み込んでゆく。環境破壊とはいうまい。人間の営みの範囲内である。

「明後日に迫っとるからね」

「あ、例のですね」

 毎週日曜日にやってくる相末学に、オトは娘の話をよくする。

「武術交流会。少し懐かしいですね」

「そうか。お前さんに取ったらついこの前まで似たようなことをやらされとったと思うけど」

「いつも下から数えたほうが早いくらいの成績で悩ましかったです。でも、ぼくがいったのは初等部の話ですよ」

 相末学がにっこり。「剣術や弓術の試合、魔法の模範演技、どれもすごくてみんな毎回そわそわしていました。毎年学年首席なのもうなづけるって、先生や父兄方も感心していたので、ぼくのことでもないのになぜか誇らしく思ったのを憶えています」

「古い話を。今や時代も知らん引籠りだ」

「そんなことは」

 相末学が魔導機構の構造を描いた資料をそっと持ち上げた。「アドバイスをいただいたお蔭で理解できてきました。所のほうでは少しずつ試験稼働に近づいているんです」

「アドバイスなんて最初の一回だけやん」

 過去諦められていた空想が現代技術によって可能性を見出された、と、いうことであって、オトのアドバイスが特別優れていたでもない。

「細かい設計は研究所の面面がやっとるんやからそっちを労いぃな」

「そちらのことは所長であるお父さんもやっていますから、ぼくは最初に竹神さんにお礼をいいたいんです」

 どこまでも善人の相末学が、音羅に目を向ける。「反復練習をあそこまで熱心にできるのは感心ですね。コツコツはぼくも意識していますが、炎天下で長時間、体を動かすのはできそうにありません」

「集中すれば強い子やけど、いつか裏目に出そうやな」

「ネガティブに考えることはないんじゃないでしょうか。努力は裏切らないといいますから」

「誰がいったこっちゃ」

「え〜っと、……、誰の格言なんでしょうね」

「そこはテキトーに偉人の名前を挙げればいいんよ、裏づけなんか取りゃせんから」

 相末学ではないが、オトも音羅の努力に感心している。けれども、努力して報われないこともあれば、望む結末を得られないこともある。

 努力が裏切らないのは、形だけ。心が救われる保証はない。「形」という結果に満足がゆくかどうかは、音羅次第であろう。

「明後日、愉しみですね」

「なん、改まって」

「その、これだけ観ていたのでどうなるかすごく気になってしまって」

「観に行きたければ行けばいいんやない。保護者でもないから追い出されそうやけど」

「公開が前提の交流会というわけではなさそうですし、出資者でもないと視察名目も不自然ですよね。ちょっと残念です」

「相末君が応援しとるのは音羅も知っとるし、雑談ついでに結果は教えたるよ」

 そう約束したオトに、相末学が尋ねる。

「納月さんや子欄さんはどうしていますか」

 納月は、書き物をしたり園芸部の活動で植えた苗木がちゃんと根づいているか観ることが日課になっている。休日の今日も日課をこなして苗木の観察に出ている。

「──で、子欄は隣で勉強中やよ」

 襖を閉じた寝室で、魔法の筆記勉強をしている。「勉強効率はリビングをかねたこっちのほうがいいと思うけど、まあ、ひとそれぞれやからな」

「みんな頑張り屋ですね」

「誰に似たか暑苦しいったらない」

 ララナ似だ。オトはそう思ったが、

「竹神さんそっくりですね」

「それはボケか、それとも挑発か」

「挑発なんてっ。ちなみにボケでもないですよ」

 相末学が春風のように微笑む。「竹神さんが未来に引き継がれているんだと実感しました」

 彼は大袈裟だ。

 グータラ者よりよほどいいのは確か。社会貢献がひとの価値を決めるなどとは毛頭思わないが、自分の分まで娘は社会進出して他者に影響を与えてゆく。荷を丸投げするつもりもないがオトはそんなふうに思った。

「ふと思ったんやけど相末君は毎週日曜ここに来てほかの人間と付き合う暇はあるん。勉強もやっとれんやろ」

「っ、竹神さんがぼくの心配をしてくれたの、初めてですね」

 半ば涙が零れそうな相末学。

 オトはポーカーフェイスを維持し、いっそ冷めている。

「単純な疑念やよ。頂等部では不慣れな魔導科で肩身が狭かろうし、そんな中での勉強が講義内で済むとは思えん。自習が平日中で終わるとも思えんし、将来が不安とお父上に詰られ(なじ    )そうなもんだ。ここへ来る時間をどうやって調整しとるん」

「根性ですね」

「それ、武術訓練の表現やぞ。時間不足なんやろ」

「その……、はい。睡眠時間を削ったり早起きしたりして勉強は済ませていて、今のところ単位も取れています」

「今のところね」

「う……、その、ぎりぎりです」

 だったら頂等部にしっかり通うことを選べばいいものを。いまさらであるが、オトは、彼の優先順位を正すことにする。

「今の相末君が魔導機構開発に携わることでダゼダダが得るものはほぼない。相末防衛機構開発所の魔導機構に対してできるアドバイスも正味な話、ない。相末君が俺に対して友人以上の思い入れをもって接しとることは感じとるがそれに対して俺は応えるつもりがない。あらゆる意味において君の行動は非効率的だ。ダゼダダや開発所の状況を改善していきたいなら、まずは己の知識や技術、潜在的な素養や選択能力の向上を目指し、世界の水準に目を向けるべきと進言するよ」

「アドバイスありがとうございます。進言、と、いいましたよね。ぼくは目上ではないのに」

「俺は落伍者(らくごしゃ)やから世に出とる全てのもんが俺の目上だ。慇懃無礼(いんぎんぶれい)を働いとることも多いけどね」

「竹神さんは、もう世に出ないんですか」

「音羅達を介して関わっとるから十分。それに、これ以上関わっても困るというのもある」

「え……」

 オトは、相末学の状況を見抜く。

「広警に何回か事情聴取されたやろ、俺について」

「……」

「『ぎりぎり』になっとるのは家族からも俺との接触を止められつつあるとか、成績が上向きにならんとか、いろいろやろうけど、何より俺に関わることを切り捨てられへん自分を追いつめとるから精神的に、なんやないのかね。ここに来るとそれが和らいで少し回復するが、外に出れば現実に引き戻される」

 深海のようなもの──。「君は、目を向けるべき事柄と順序を間違っとるんやないかな」

 広域警察についてはオトが気にすると思って伏せたのだろう。彼らしい心遣いだったがオトには要らない。それだけならオトは指摘しない。彼らしからぬ言行は止めるべきと考えた。

「俺は観ての通りだ。相末君が自己犠牲してまで心配する必要はない」

 ララナという妻を得て、三人の娘に囲まれた。帰るべき家がある。「不幸だ」などということは絶対にない。

「他者を理由に、選ぶべき己の道から逸れようとすんのはやめろ。迷惑だ」

「……すみません」

 自覚がなかったわけではないだろう。かと言って完全に自覚していたわけでもないだろう。彼は根から、他者に心を配れてしまう。心を配りすぎて己の気持を見失ってしまうほどに。それに気づいた他者は、彼に教えてやるべきなのだ。

「相末君。君は、大事にされるべき人格だ。君を大切にしとる人間を悲しませるようなことだけはするな」

「……はい、ありがとうございます、竹神さん。その、そうですね、すみません、心配を掛けてしまって」

 申し訳なさそうに頭を下げた相末学に、オトは頰杖をついて言う。

「無理するくらいなら来るなとはいうが、俺は来いとも来るなとも無条件にはいわん。とにもかくにも、自分の足下を固めてからにして」

「そうしたら、来週も来ていいですか」

「俺は呼びも追い出しもせんって。全ては相末君次第やて」

「──はいっ、頑張ります」

 来るたび、顔色が悪くなっていった彼に、少し生気が戻った。

「じゃ、早速帰れ」

「えっ、追い出さないんじゃ」

 と、びっくりした相末学をオトは掌で制した。

「用ができた」

「そうなんですか。じゃあ今日のところはお暇しますね」

 急な用といったら建前を疑うものだが相末学は疑いもしないで受け入れてしまう。そういういいひとっぷりは見習わねばならないと思う反面心配にもなる。この子、ちゃんと生きてゆけるのかな、と。しかしながらオトは本当に用ができたので相末学を家に帰した。

 学習に集中している娘に声を掛けず家を出ると、オトは広域警察の本部署に赴いた。()()()一歩。時間にして五秒も要らない。屋上から入り込んで本部署長執務室に滑り込んだ。

「何者だ、ッ」

 オトに気づいて顔を上げた署長天白和が息を吞んだ。「そっちから出向いてくるとは」

「用があってね」

 オトは気配を消して足音を立てず歩き、天白和の眼に捉えられながら気づかれずして背後に回った。

「人外めいた動きを──」

「んなことどうでもいい」

 オトは天白和の顎を指先で撫でて顔を迫らせた。

「お前さん、何を勘繰っとる(かんぐ     )。ん。いってごらん」

「っぐ……」

 オトは魔法を使っていないが、天白和が身動きできない。その間に、オトは目的を果たす。

「信じまいが、相末学は俺が罵倒しようと構わず心配するような善人だ。親への介入なんぞやめることやな、電話一本、時間の無駄」

 ようやく動いた天白和がオトの手を払い除けようとするが、そのときにはオトは彼から離れて机の前にいた。

「いいことを教えたるよ」

「なんの腹積り(はらづも  )だ。裏があるんだろう」

「警戒は尤も。無駄な勘繰りに割く時間があるなら防衛に役立つ行動をすべきやろう。こちらにも利がある。相末学に妙なちょっかいを出さんように情報を渡すということだ」

「取引か。相末学に、なぜ肩入れする」

 天白和の問にはダゼダダの未来が載っている、と、いうのも彼からすれば大袈裟ではない。相末学の父が営む相末防衛機構開発所はダゼダダ政府〈警備府〉の方針に沿って国家防衛の一端を担う機構を形にしている。将来的にはそこの所長になるであろう相末学と曰くつきの竹神音が関わり合いになることを政府は警戒し、末端で実働しているのが広域警察である。

「気まぐれ。俺の行動はいつもそうやったやん。それともそんなことも()()()ほど広警は無能なん」

「──情報による」

 天白和ならそう言うと思っていた。オトは、彼の立場を理解している。

「いいきるが、警戒しろ。テラノアが近いうちに物理の弾道ミサイルを超高軌道で打ち込んでくる」

「馬鹿な、ロフテッド軌道ということか。ミニマムエナジ軌道でなければ三〇〇〇キロ超離れたテラノアからこちらに着弾させることはできない。しかも推進力の弱い物理兵器だと」

 ミニマムエナジ軌道は、最小エネルギで遠距離から標的を狙うことのできる低軌道で、迎撃されやすい。対してロフテッド軌道は、遠い標的を狙うことができないものの高軌道から落下し、レーダでの捉えにくさなどの要素から迎撃されにくい。テラノアがミサイルを撃つとなれば後者は採用されない。テラノアのミサイル発射台からロフテッド軌道で飛ばしても距離の遠いダゼダダ大陸を狙えないからである。推進力の強い魔導ミサイルでも、ロフテッド軌道で飛ばすとなるとダゼダダ大陸には届かない。が、

「年始を起点に、ダゼダダに放たれたミサイルが何発か覚えとるか」

「昨日ので一八発。全て物理ミサイルでありミニマムエナジ軌道だ」

「布石だ。昨今ダゼダダの近海は警備が行われとらん。各種索敵レーダ開発が進んどることと火箸凌一の失墜で費用の掛かる部隊運営ができんくなっとるのが影響しとるし、魔導を使えんのも予算不足ゆえとは周知の事実やから反論すまい。すなわち」

「ステルス潜水艦──」

「それへの無警戒はダゼダダに限ったことじゃないが、駆逐艦なんかを海に配備しとるレフュラルと違って、ダゼダダは船乗りの目視や感覚が不十分で発見できん」

「だがここまでの情報では推測に過ぎない」

「レフュラルは無警戒に観えても国王の幻術なんかで錯視の可能性を否定できんから侵略しにくい。懐ががら空きの敵が目の前におって侵略せんほうが不自然やろ。陸ですら侵入を許した奇襲の件、もう忘れたん」

 昨年師走上旬。テラノアの師団一万二〇〇〇人にダゼダダは広域警察本部署を奇襲された。接近されたような予兆もなければ、各地の防衛機構がテラノアの軍事行動を捉えた様子もなかった。それにより、テラノアが兵団を空間転移させたことは明白だった。

「潜水艦を海中に空間転移させていると」

「お前さんにいわせれば憶測なんやろうけど、嫌になるくらい当たるからな、その憶測は」

「……貴様の考えが当たるとしよう。改めて訊く。なぜそれが相末学への聴取をやめる理由と成り得る。貴様は、相末学のなんだ」

 オトはそんなことを考えたこともない。

「二度もいわん」

「気まぐれと」

「あえて理由をつけるなら、広警の能力の低さが顕になるのを防ぐ。俺が相末学のなんなのかなんぞ、そもそも理由に組み込まれとらん」

 オトは、天白和に釘を刺す。

「遠い耳にも入るよう今一度ゆう。相末学に妙なちょっかいを出すな。無駄な時間だ」

 オトの目差は、押し潰したかのように天白和を圧倒した。それでも天白和が「うん」と言わないとオトは判っていた。

「何か質問は」

「取引外だが一つある」

「どうぞ」

「貴様が熱源体を相殺したあの日以降、──」

 天白和の肩に小さなゾウが姿を現し、「パオォ〜」と、鳴いた。可愛いゾウだが、天白和が心底困った顔である。

「このようなモノが我我のもとに姿を現わすようになった。言葉は通じているようだが、無意味に鳴かれては業務に支障が出かねない。一般人のもとに現れた事例も報告されている。無認知の事例もあるだろう。現状は危険なモノと捉えられないが、未知ほどの恐怖もない。貴様、何か知っていることがあるなら報告しろ」

 天白和のゾウは姿形こそ違うが結師や糸主と同じ。オトの監視についている厳重取締班が音羅のプウにも気づいているだろう。が、オトは詳しく教えてやらない。

「現れたことは吉兆と思っていい。害獣ではないし、お前さんが自分を貫くなら、そのゾウは惜しみなく力を貸すやろう」

「力。このような矮小なゾウに何ができる」

「さあね」

 国防に有利な力となるのは間違いないが、それも天白和の心持次第。彼にいわせれば不確かな力であるからオトはあえて伝えない。

「取引はどうするん」

「──海を警戒しておく。取引成立は、結果を観てからだ」

「観るまでもない。取引成立だ」

 

 約二週間後の日曜日、オトの推測が現実となった。テラノアの潜水艦が物理弾道ミサイルを広域警察本部署に向けた。近海を警戒した広域警察と連携して相末防衛機構開発所が事に当たりミサイル迎撃に成功。潜水艦の拿捕(だほ)にも成功し、乗組員を拘留するに至った。ダゼダダとテラノアの関係はますます悪化──。

 これを受け、天白和が約束通り相末学への介入を表向きやめた。相末学がオトと接触しているため監視は続くが、相末学が監視を認識していないことを重要視したオトとしては納得のゆく形であった。

 

 

 

──五章 終──

 

 

 

 

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