四章闇節 本意
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。とは、美人の立居振舞を表す言葉である。他者の想いに軽はずみに応えることはできるはずがなく、本音で応えることこそ誠意だと考えたから、子欄は申し訳なく思ったりしない。
……わたしの想いは、いつか届くんだろうか。
秘めた想いを口にすることすら今は想像できない。
……いつかは、言葉で伝えることになるんだろうか。
告げることでどんな関係になるのか予測できず、恐い。仮に受け入れられたとしても、短い人生で培われてきた関係がどのような破綻を来すか予測できず、恐い──。未来が見えぬは皆同じとしても未来が闇の塊にしか思えず。一方で、気持を秘することは苦しく、これを胸に生きてゆくのもつらいのである。
母は父に想いを告げて、受け入れられた。こんな苦しい思いをして、想いを秘した時期が母にもあったのだろうか。
子欄には、学園は都合のいい場所だった。音羅が世話になる別館三階で出た汚れ物の洗濯をしたり、納月が愉しそうに園芸仕事に取り組む姿を眺めると、気が休まる。自分の気持に蓋をすることで、苦しさを忘れることができたからだろう。
朝の連絡会が終わると別館へ各自で移動するのが普通だが、一学年一組では子欄が移動するとその周囲に群がるようにしてほかの生徒も移動した。クラスメイトの言葉を聞くには、
「頭よくて憧れちゃう」
「朝の魔法、すごかったね。尊敬だよ」
「魔術士なのに偉ぶらないって簡単にできることじゃないぞ」
洗濯の魔法を観ていたクラスメイトがそれを広めていたことが原因だった。みんなのことを考えて魔法を使った。その一点が、クラスメイトの心を鷲摑みにしたようだった。第三田創を選んだ無魔力の多くが有魔力に嫌な思いをさせられてきたようで、有魔力が無魔力に対して奉仕的な行動をすることは絶対にないと考えていたよう。それゆえに子欄は有魔力の鑑と受け取られて瞬く間に伝わったということだ。この学園は無魔力がマジョリティであるから、子欄を持ち上げることで悪さをさせない圧力を数の力で発生させているとも考えられるが、クラスメイトに悪意は感ぜられない。彼らが素直に子欄を尊敬できたのは、武芸を磨くストイックな心を持つことや、無魔力を理由に排斥された過去がある。マイノリティの屈辱と苦悩を深く体感し、排斥でなく受容こそ正義と考えているのだろう。
思わぬ好待遇に子欄は戸惑う気持もあったが、姉の活動支援や見守り以外に、気持に蓋をできる時間が増えた点はよかったといえた。
別館に入ると、専攻科目ごとに散り散りとなった。
人気を集めた剣術科の教室がある一階を素通りして、子欄は二階に上がった。廊下を北へ行くと槍術科、南へ行くと弓術科の教室がある。子欄は弓術科。廊下を南へ歩き、開け放たれた木製の引戸を抜けて弓道場に入る。その際は誰がいなくても一礼するのが礼儀。子欄のクラスメイトを含め、何名かの生徒が弓道場に見えた。
ここは弓道部の部室でもあり、授業となれば教室に変わる。一括りにすれば「弓道場」だ。
……人間というのは不思議な生き物だ。
設備が何一つ変わっていなくても、時と場合によって弓道場という一つの場を別のものとして扱う。
弓道場は、縦長の一室と二つの小部屋から成る。小部屋は男女ごとの更衣室、縦長の一室は六、七人が並べそうな幅のある板張りの射場、射場から二八メートルを空けた奥に安土と一尺二寸の的がある、いわゆる近的場だ。天井高は約四メートル。別館の大きさからして遠的場は建てようがないが、──はて、空間が歪んではいないか。別館は南北に五〇メートルほどしかない。壁を隔てて隣接している槍術科と教室の広さを等分しているはずの弓術科が、なぜ奥行三〇メートル超の弓道場を確保できているのだろうか。
「やあ、竹神さん。おはよう」
「星川さん。おはようございます」
準備万端の男子生徒は三学年一組星川衛。学園長の曾孫で弓術科専攻・弓道部部長だ。音羅の朝練を観に行く前、子欄は彼に廊下で会い、弓術科で使う諸諸の道具をどのように調達するか訊き、弓術科の生徒は備えつけの道具を学費のみで借りられると聞いた。
「竹神さんは初授業だね。覚えることは多いだろうけど、頑張って」
「はい」
弓道について下調べをしていた子欄であるからある程度のイメージトレーニングも済ませている。プレッシャはほとんどないが、弓道場に対する疑問を後回しにして授業に集中できなかったら困る。そう考えて尋ねた子欄に、星川衛が感心した。
「竹神さんは変わったところが気になるみたいだね。別館二階は、槍術科と弓術科がスペースを等分していないんだ。いつからか正確には知らないけど、近的場としての体が立たないから槍術科のスペースをもらう形で広げたらしい。毎年弓術科のほうが少し人数が多いというのも、スペースの振分けに影響したのかも知れないね」
弓術科・槍術科の二部屋が廊下からは同時に見えず、一目で判るほどスペースが増減したのでもない。加えて、スペースをフルに使える槍術科と違って弓術科は射場に生徒が密集するのが当り前。ついでに、実際に使う教室と使わない隣の教室の広さを比べることなど誰もしなかったということだ。スペースに関する説明は槍術科教室を使う生徒や保護者にしており、仕様に不満が出ていないので丸く収まっている、とも、星川衛から聞けた。
疑問が解けてすっきりした子欄は女子更衣室で道着に着替え、髪を一つに結い上げると、星川衛のいる弓道場に戻った。先程より生徒の数が多いのは、準備を終えた生徒が更衣室から出てきた。持参した道着に着替えさえすれば、更衣室に置かれた弓矢、麻弦を始め、弽や胸当を借りて弓道場に足を運べる。持っていなければ始まらない弓矢はもとより装備品も借りられるので、全て持参品の弓道部部員より出費が抑えられる。そのため、金銭的なネックを抱えた生徒は弓術科を専攻して弓道部には入らないこともあるようだ。部活は概ねお金が掛かるものだが、弓一本や弽一つにしても数万ラル、最悪破損して買い直すこともあり得る。弓を引けば引くほど弦が消耗するし、弓の握る部分に装着する当てゴムや握り革など高価ではないとしても消耗品。各種の手入れもタダではない。と、お金が掛かる部分を数えると切りがない。
一学年から三学年まで約七〇名の生徒が着替えて射場に集まり一時限目開始時刻となると、弓術科担当教員が各学年について指導し始める。と、いうのが流れであるはずなのだが、担当するはずの教員がいつまで経っても現れず一学年生は待ちぼうけを食った。
授業初日から授業が受けられないとは思いもよらなかった一学年生はざわついたが、
「先生がいらっしゃるまで一学年のみんなはぼくが指導します」
と、星川衛が言い、一学年生の列の前に立った。それから道着や胸当、弽を確認、まずはゴム弓を使って近距離にある巻藁を狙うよう指示した。
一学年生の様子をしばらく観て、星川衛がゴム弓練習を止め、射法八節なる弓道の基本を説き、弓の構え方、矢の番え方を教えるとともに心身の姿勢について語った。
「──と、試合において中てることは大切だけど、授業では、と、いうか練習でも無理して中てに行く必要はないんだ。中てようとすると無駄な力が入ってうまくいかないことが多いからね。弓道における弓の使い道は的を射ること。それは弓術における対人を意識した動きにも繫がってることと思う──。小難しくいうと、射法八節でいう『引分け』から『残心』、つまり、弓を押して、弦を引いて、的を射たあとまでの、基本動作がある。まずはこの挙動を繰り返し練習していくことになるよ」
星川衛が終始笑顔で易しい説明をするので、みんな聞き入っている。
「言葉だけでは分かりにくいと思うから、実際の動きを観ながら聞いてね」
そう言うと、星川衛は最寄の列で練習に入っている二学年生に掌を向けて、一学年生の視線を促した。
二学年生が、左手に弓を握って右手に矢を持つと両拳を腰に当て両足を揃えて立つ「執り弓の姿勢」に入った。射法八節「足踏み」前の挙動だ。
「ここから弓を射る位置『射位』に入って、的右手方向を正面にして両足爪先の延長線上に的の中心が来るように両脚を踏み開く」
星川衛の説明に二学年生がタイミングを合わせて「足踏み」を行う。
「彼は武射系と呼ばれる実戦的な性質の射法による開き方だ。学園では武芸における重要性からもう一方の礼射系という射法も織り交ぜていることが多いけど、彼の射法は一貫して武射系なのでその前提で観察してみてね」
……実戦的。対象を意識した射法ということか。──。
一学年生は、星川衛の説明に続いて、二学年生の一挙手一投足を観察した。
ゆとりのない言い方になるが、武術は、他者の命を奪って自身が生き延びるための手段として存在し得る。相手が魔物であれば罪にはならないが、命を奪うことに変りはない。ときには人間同士の争いの中で武術を行使することもあるだろう。子欄は、生き物が的となる武術を学ぼうと考えている。殺戮がしたいわけではないが、ここのところダゼダダ警備国家はテラノア軍事国との緊張感が増すばかりで、いつ戦争になってもおかしくないとメディアが伝えている。戦争は、他者の生活と命を奪う行為だ。仮に戦争が起こったら対抗するのにそれなりの力が必要であり、その力を得るには覚悟が必要だ。その覚悟こそ、武術が殺人術と成り得ると認識して学ぶことと、他者の血を見ることを恐れぬこと。子欄は、そう考えた。
二学年生が射法八節「残心」を終えて次の生徒と入れ代わると、
「練習では、一人一回しか引かないんですか?」
と、一学年生が星川衛に質問。
星川衛が的を示した。
「見ての通り的は六つ。射る側も各学年二〇人超が二列に分かれ、計六列になって射る。単純計算だね。例えば、ちょうど一〇人が一回ずつ引いて全て中たったとしたらどうなるかな」
「一〇本が的に……多い、ですよね」
「そう。後半のひとはほとんど矢に向かって弓を引き絞ることになってしまう。試合では違うんだけど、練習は一本ずつで交代って考えてね」
むやみに引くことはできない。
質問者が納得すると、星川衛がゴム弓を掲げて微笑む。
「とはいっても、一学年生の君達は引続きゴム弓を使って巻藁に向かって練習し、基本動作を試験する。動作が整ってきたと判断したひとから順に的に向かってもらうよ」
「先輩、一ついいですか?」
「何かな」
先程とは別の一学年生が手を挙げていた。
「ぼくは初心者じゃないです。自前の弓矢も持ってます。的に向かわせてください」
と、言った彼は、各種装備品が小洒落ている。経験者なら問題なさそうだが、星川衛が首を振る。
「申し訳ないけど許諾できない。弓術科の慣例でもあるから、みんな平等にゴム弓の試験を受けてもらうよ」
「そんな……」
不満そうな自称経験者。見回すと、彼以外にも経験者らしき生徒が複数いる。知識しか詰め込んでこなかった子欄には理解できなかったが、装備を整えた経験者に取ってゴム弓の試験はそんなに屈辱的なのか。再度手を挙げる自称経験者。
「そんなにいうなら、ぼくを納得させてください。慣例だかなんだか知りませんが、ぼくは中等部のとき大会で入賞したこともあるんだ。いまさらゴム弓なんて使う必要はない」
「納得、か。どうしたら納得してくれるかな」
と、星川衛が首を傾げた。「剣道のように打ち合うわけにはいかないし……」
困った様子の星川衛を観て、別の生徒が畳みかけるように言う。
「先輩の実力を見せてください。一回でど真ん中撃ったらゴム弓でもなんでもしますよ!」
「それでOKですよ」
と、また別の生徒が乗り出した。「弓道はメンタル勝負ですからね〜。プレッシャに負けて的を外れるなんてこと、ないですよね?」
煽った生徒に対して、二学年生の控えから、
「いい加減にしないか」
と、制止の声が入ったが星川衛が掌で制した。
「いいよ、やろう。でも、それじゃあ君達が納得するとは正直思えない」
笑みを潜めた星川衛が提案する。「経験者なら解るね。宣言するよ、『一手、正鵠に中てる』と」
調子づいていた自称経験者がしんと静まった。
……それはそうだ。
一手とは甲矢・乙矢の二本の矢のこと。正鵠とは的の中心を指す。星川衛の宣言は「二連続で的の中心を射る」という意味なのだ。
二、三学年生が練習を続ける中、一学年生の中には緊張が走った。そんなことができるものか、と、思いながら電気の如くびりびりと伝う予感がみんなにあるようだった。
星川衛が己の弓矢を取り明鏡止水、呼吸のような自然体──、甲矢が正鵠を射ると、乙矢は甲矢の矢筈を捉えて真二つに割いてなお正鵠を捉えた。呆気ないと表せられるほど自然に、奇跡の一手が顕れていた。
残心を終えて振り返った星川衛が、一学年生にゴム弓を差し出したのは言うまでもない。そのときには一学年生は皆、星川衛の言葉に従うと決めて進んでゴム弓を取った。経験者と声高に言った一部の生徒は全くの初心者で、ゴム弓から卒業するにも時間が掛かる見込みだった。
──あんなに中て気を迸らせた経験者は見たことがなかったからね。
とは、後の星川衛の言葉。彼は一学年生の態度から実力を推測し、練習を前向きに挑めるよう誘導したのである。
ゴム弓試験をクリアして、
「使ってごらん」
と、星川衛から弓を渡されたのは子欄だけであった。
「何年もやっていたみたいに上手だね。慣例に則れば今日一日は一学年生みんながゴム弓の予定だったんだけど、君の構えは本物だ。どこかで習ったことがあるのかな」
「いいえ。初めてですよ」
と、子欄は謙遜ではなく正直に言った。
「そうかい。驚いたな、天賦の才かな……」
傍らで星川衛が驚いていたが、子欄の心は既に的に移っていた。
……そう、まるで、前にもやっていたかのよう。
父の記憶だろうか。母の記憶だろうか。継承記憶に弓術があったか。それにしても体が記憶と同期して完璧に動くことはなかなかないのである。父母ともに家庭では戦いの気配など微塵も見せないが、父はかつて魔法学園で神童と呼ばれ、母は戦時第一線で戦っていた。その両親の記憶が体にまで馴染んでいる可能性はゼロではなかった。
……弓を構えると、どこか落ちつく。
戦場で落ちつくことは決してないはずだが、的を見据え、一条を引くことに躊躇いなく、一連の挙動は呼吸のように自然。息を吐き終えると弓を下ろし、正鵠を捉えた矢を確認する。それが当然のことと驚きもせず悦びもしない戸惑わぬ心にこそ戸惑ってしまいそうだ。
矢が、狙い通りに対象を捉えている。再度その現実を見つめると、ひどく悲しいのは、なぜだろう。一説には人体の一部を模して的が設計されている。と、調べたときに知ったからか。
……これで、命を奪えてしまうから。
思い出せないだけで、殺傷の経験が継承記憶にあるのか。胸に押し寄せる感情を怺えるように、子欄は瞼を閉じた。
残心にも似た呼吸を置いて、子欄は星川衛を振り返った。
すると、星川衛だけでなくゴム弓で練習していた一学年生全員が子欄を見つめて納得したような顔をしていた。皆の総意を伝えるように、星川衛が口を開く。
「予想通り、いや、予想以上だ。君は、弓道家として名を挙げるかも知れない」
「星川さんは持ち上げるのが上手ですね」
と、子欄は控えめに応えて本意を言葉にしなかった。子欄は弓道を学ぶためにこの学園にいるのではない。行動は、己の気持に蓋をするため。あえて学園の方針に沿うなら、
……お父様やお母様のように強くなるためにはどうすればよいか。
それを考えるのに授業の時間を利用しているに過ぎない。両親が進学手続きを進めなければ子欄は家で魔法の勉強をしていた。そこでは気持に対する蓋がなかったため煩悩が尽きないことは想像に難くないが、弓道を極めたい、と、いう気持が湧かないことは家であっても学園であっても変わらないのである。それなのに弓道家として名を馳せたいなどという無責任な発言はしたくなく、誰かにその期待をさせたり、期待を押しつけられるような状況も子欄は望んでいない。
子欄は本意を潜めて本音を伝える。
「わたしは家族を内側から支えたいので、極めるなら武芸でなく料理や家事です」
「そうなのかい。君のような才能を持っていたらぼくは迷わず武道を歩んだだろう」
ひとの価値観はそれぞれで、考え方の相違で些細な行き違いが起こる。星川衛が残念そうにしていても、子欄が責任を感ずる必要はないのだ。が、星川衛が一種の悲しみをいだいたことに、子欄は密かに責任を感じてしまった。
「ひとは、往往にして非現実的な理想や高すぎる目標を掲げ、求めます。わたしは、確実に得られるものに手を伸ばしたいんです」
子欄は弁明した。「武芸の道は険しいです」
「それは同感だよ。〈魔法社会体制〉において人間単位でしか有効でない弓術を極める意味は半ばなくなって、使いどころも需要も少ないから、余計に厳しい」
と、星川衛が理解を示した。「弓道場で立ち話ばかりしていてはいけないね。竹神さんは続けて引いて。ぼくはほかのみんなの様子を観て回るから」
「はい」
星川衛を見送ると、子欄は次の矢を取って的に向かった。
弓を引くこと数回。その全てが的を捉えるも後半は正鵠を外れていた。集中力が欠けつつあると考えていたところ、借物の弓に張った弦が切れた。近くで立ち控えしていた二学年生から替えの弓弦が更衣室にあると聞いて子欄は取りに向かった。そこで一時限目終了のチャイムが鳴り、休憩時間に入った。
各更衣室は広く、男女別に全生徒が入る余裕がある。休憩時間になると、独立洗面所も設えた更衣室に女子生徒が押し寄せるのは自然。納月ほどではないが他人の占める割合が多い空間に居続けられるタイプではなく、弓弦を張り替えた子欄は更衣室を出て弓道場へ。一学年生の射位に戻り、矢を番えず弓を構え、的を視線で射る。
「熱心だね」
弓を握っている星川衛。「君を観ていると、ぼくも負けていられない、もっと鍛錬を重ねなければ、って、思うよ」
星川衛の言葉を世辞とは思わなかったが、子欄は自分の努力を高く評価していない。子欄としては、星川衛の姿勢のほうが称えるに足ると思えた。
「先程、弓道部部長であることを、なぜいわなかったんですか。一学年生を説得するのにわざわざ奇跡のような一手を披露する必要はなかったと思います」
「弓道部部長というのは授業とは関わりのないことだから、では、説明にならないかな」
「はぐらかしているように聞こえますね」
構えを解いた子欄は、星川衛の真意を聞く。
「じゃあ、君には教えよう。ぼくも少なからずそうだったように、一学年生は先輩達の力量を観ている。先輩達が己より低レベルであれば指示に従うことはできないんだ。成果が出るか判らないからね」
子欄が射ていた的を星川衛が見据えた。「この学園に来る生徒のほとんどは、将来を真剣に考えて、あるいは進路に行きづまって、切羽つまっている。だから、師事するなら、教わるなら、素晴らしい技術を持つひとであるべきと考えている。それを示すには言葉や肩書だけでなく行動や実績が伴うべきだとぼくは思う」
実力をまざまざと見せつけるための、奇跡の一手。しかも、星川衛にしてみれば正鵠を射ることなど当り前。どんな時でも一〇〇%成功させられる自信と経験があるからこそ、それでもって未熟な一学年生に理解させた。あえて挙げるなら粗もあったらしい。
「気をつけてたつもりだったんだけどね、矢が割れてしまうのは想定外だったよ」
と、笑う星川衛である。粗という名の奇跡中の奇跡は、研鑽によってたびたび起こっていたのである。
「納得しました。星川さんの日頃の鍛錬を凝縮した一手。それ以上に優れた説得方法などここにはありませんでした。わたしは、努力不足です」
「一時限中、引き続けていたらぼくだって正鵠を外すことがあるよ。あれだけの矢を射て的を外れていない君は間違いなくセンスがある。現段階で努力を欠いているはずもない」
星川衛が微笑みかけたところで、
「星川〜、カケの予備ってあるか?」
と、男子更衣室から三学年生が顔を出した。「あるよ、ちょっと待って」と、星川衛が返事して、子欄に手を振る。
「君は努力しているとぼくが保証するよ。引続き頑張って」
更衣室に去ってゆく星川衛。
子欄は的を見つめて、
……そうだといいんだが。
想像がつかないような努力を日日続けてきたであろう星川衛に認められたことは、一つの自信となった。それだけで安心できるほど子欄は満ち足りてはいなかった。不安のほうがずっと大きい。安心を餌に不安が成長した感すらある。
この不安はいったいなんだ。安心感の陰に隠れ、寝首を搔こうとしている化物のように、恐ろしく思えた。
……駄目だ、気持の蓋が──。
子欄が緊張の糸を張り直すと、
「竹神さん、星川部長と仲良さそうだね」
と、一人の女子生徒が声を掛けてきた。隣に二人の女子生徒を伴っている。星川衛が弓道部部長と知っているということは、弓道部か上級生だろう。
「初めまして」
と、子欄は会釈した。三人の女子が会釈を返し、男子更衣室に目を向けて話す。
「外見や性格、学力まで完璧だから部長ってモテるんだよ。竹神さんってもしかして部長狙ってたりする?」
唐突な問である。周囲にそのような誤解を与えているなら、きっぱり答える必要がある。
「わたしはだらしない男性のほうが好みなので星川さんは圏外です」
「そうなの。って、竹神さんって特殊なシュミね。それホント?」
「できないひとのほうが世話が焼けていいと思いますが、いかがですか」
「お節介なのね……」
やや引かれたが、誤解は解けただろう。休憩時間とあって女子生徒がその場で話を続ける。
「しっかし、星川部長も恋人作ればいいのにね。学園生活、独りで寂しくないんかな」
「前にコクった子は撃沈だったみたいだし、誰か好きな相手がいんじゃない?けどその相手に恋人がいて待ちの状態とか」
「あんなイケメンなのに片想いなんて〜。あたしなら即オッケーなんだけどなぁ」
「あんた顔がよけりゃ誰でもいいんじゃん」
「そんなことないしっ。竹神さんどうよっ」
そこで振られても。
「待ちの状態かは定かではありませんが、相手の気持が変わり得るなら待つこともありそうです」
変わるなら、子欄はきっと待てる。
「竹神さんは長期戦オッケーなタイプなのね。あたしは堪えらんないや」
「面食いな上に気が短いなんて恋愛力ないわぁ。星川部長とは絶対合わないと思うよ」
「合う・合わない、と、いうのは、どのように決めるんでしょう」
と、ふと気になって子欄は尋ねた。経験豊富そうな落ちついた女子生徒曰く、
「食べ物や音楽の好みが合うとか、結構どうでもいいことでも話のネタになる分、距離を縮めやすかったりするでしょう。一緒にいる時間が増えれば性格が判ったり、駄目なところが観えたり、好きなところがもっと見つかったりもするからさ。そういうの全部ひっくるめて自分と合うか合わないか、要するに一緒にいて愉しめるか愉しめないか、ってのを見定めるのよ。恋人になろうって思えるのは当然愉しめるほうでしょ。一緒にいてつまらないひとなんて無駄に老けそうだしわたしはごめんかな」
「(そういうものか。)参考になります」
「竹神さんはだらしないひとが好きっていってたけど、それって愉しめるの?」
子欄は愉しめる・愉しめないで決めていないが、そこに当て嵌めて考えてみると、
「愉しめそうにはありませんね」
と、いう答になる。
「そりゃ、一方的に尽くすような状態になりそうだからね。それでもいいってひと以外、だらしないひととは合わないと思うよ」
子欄は女子生徒の意見に賛意を示した。
「わたしはそれでいいんです」
「お節介だから?それなら愉しくなくてもいいってこと?」
「はい。尽くせれば」
「ホント特殊なシュミね。それ、下手すると後ろから刺すとかヤバイ方向に拗らせそう」
それはないと言いたかったが、あいにく二時限目を報せるチャイムが鳴ったので雑談の面子は散り散りとなった。
一学年生は二時限目もゴム弓での練習を続けたため、子欄は再び的に向かった。
……尽くせれば──。
反復した言葉は、子欄の心を研ぎ澄ます。一条の矢が正鵠を射た。女子生徒の合う・合わない論が為になった。
……わたしには、わたしの想い方があるから。
気持に蓋をする。そう、気持を隠して尽くすのが子欄には向いている。そうせざるを得ないという理由もあるが。
本日は土曜日。午前授業と帰りの連絡会を終えると、子欄は帰宅した。
生徒との付合いが多そうな姉や家庭教師を始めた母の姿はない。
ダイニングテーブルの席で迎えたのは父。
「おかえりなさい」
と、言ったきり気怠げにテレビを観ている。今日のように糸主やクムがいないときは、緑茶荘の頃からこの調子だった。
子欄は父の斜め後ろに回って、肩を軽く揺すった。
「お父様、テレビばかり観ているんですか。目が眠そうですよ」
「大丈夫、大丈夫、寝んよぅ」
草原に寝転がっているかのような安らいだ声で言われても説得力がない。
「仕方ないですね。そのままでいいので、聞いてもらえますか」
「学園でなんか発見でもあったん」
自分の席についた子欄は、父の側頭部を視る。
「弓道の経験がないのに、弓道部の部長さんに大層褒められてしまいました」
「へぇ、いいんやない」
「本気でそう思っているんですか」
「両親の記憶が技能に影響しているのではないか」
「察してるじゃないですか。なんだか、申し訳なくなりました。部長さんを始め弓術科や弓道部の皆さんが日日努力して得たものを、なんの努力もなく手にしてしまっていることが……」
「不安か」
……どこまでも察しているんだ。わたし以上に、わたしのことを。
子欄の不安は、そう、継承記憶の影響で他者より優位に立ってしまっていること。それでいて、己にはなんの経験もないことだ。
父がテレビを観たままで言う。
「『案ずるより産むが易し』という諺がある。不安に思うより先に、自分の心でやってみ」
「心で」
「数学だの理論だので分析・解釈する動きもあるとは思うが、武道をただの技術や所作と考えとるんならそれは心でやれてない証。どんなにやっても経験にならんし不安は消えんよ」
「理屈は解ります。でも、半日集中してみましたが、とても心が動くようなものでも……」
「じゃ、やめてしまえばいい」
簡単に言ってくれる。
「学費を出してもらっている身で授業を受けないような真似ができると思いますか。それと、学費を出していないお父様が無責任にいっていいことではないと思います」
「無責任は同意するが、エスケープしろとはいっとらん。それに、なんだかんだでつまらんとは思わんのやないの。相談するくらいには興味がある」
「……そうかも知れません」
言われるまで気づきもしなかったが。
子欄は、弓を引いたときの落ちついた心地がなんともいえず気に入った。それが己の心であるなら、続けるのがいいとも思える。肝心なのは、己の心か否かだ。
「お父様やお母様に、弓道の経験はありますか。それと、好き嫌いはありますか」
「俺は不登園になる前までに授業で何度もやっとるが、好きでもなく嫌いでもない。羅欄納は戦時に〈魔弓〉を使っとったことからも察せられる通り弓術の心得があるし、恐らく使用感として好んどるから得物にしたんやろう」
「お父様には曖昧な気持しかないのは解りました。お母様は、好きだったんでしょうか」
「前述した。──」
弓といえば奇襲や暗殺に用いられ、一撃の重い武器として知られている。銃のなかった時代は、魔法を除けば遠距離からの狙撃で最も活躍したといわれている。魔法を用いた魔弓ともなれば飛距離も威力も桁外れになる。また、毒を仕込めば掠っただけで危険な代物に、麻酔薬を仕込んで暗躍のともに、火種や火薬を仕込めば木造物や木木を焼き払う役に、と、いった具合に臨機応変に活躍する弓は、武器以上の価値を有しているともいえよう。そのような使用感を好んで母は戦時に弓を活用、戦況を好転させたのだと父が言った。
「──。まあ、人殺しの武器であることに変りはない。そんなもんを好きなんていうなら、俺はあの子を選ばんよ」
「では、お母様は弓が嫌いだと」
「競技的な弓なら好きやろうけどな」
そうであるなら、弓を引き絞ったときの心地は母の感情であった可能性を否定できない。子欄は己の感情であることを願っていた。
「不安が尽きんか」
父がようやくテレビから目を外す。不意に目が合って、子欄は俯いた。
「わたしは、剣や槍を握ったり、拳や蹴りを入れたり、ましてや斧を振り回したりするのは想像ができません。でも、弓を引いて思うのは自分の体感が果して自分のものか、と、いう疑念ばかりです。そんな調子では、長く続かないと思います」
「それが普通やと思うけどね」
「え」
首を傾げた子欄を見つめて、父が微笑する。
「お前さんは勉強家やから知っとるやろうけど、弓道は的に向かうから、己との戦いっていわれとる。俺達の記憶を継承してまっとるのは残念ながら変えようがないが、弓を握り的を狙えば自ずと己との勝負になるんよ。技術ばかりに目を向けると集中がおろそかになるし、欲を出せば無駄な力が入る。技術を伴わせつつ程良い注意を体の芯に持ってくる感じが、常に必要になる」
「それが弓道の醍醐味ですか」
「人生かもね。思索が大事。弓道にも思索はある。己は何者か、何者であるべきか、ってね」
自分がそうであったと言わんばかりの父。
子欄は、思いきってお願いする。
「お父様、魔弓を使えますよね。わたしに観せてくれませんか、お父様の弓を引く姿を。わたしには、それが必要に思えるんです」
自分がなんなのか。父や母の記憶を受け継いだだけの空っぽな存在ではなく、別の何かで存りたい。そのために。
父が、父らしく斜に構える。
「嫌やね」
「魔法だからですか」
「そ。物的素地の弓でも嫌やけど」
「なぜですか」
「メンドーやん」
「もう……」
父は怠けてばかりだ。何を言おうと、大抵のことは「メンドー」の一言で拒否してしまう。それを知っているから、一度でも拒否されれば子欄は自分の意見を押し通そうとは考えてこなかった。
今回、子欄はもう一押しする。
「わたしの将来が懸かっているとしても、駄目なんですか……」
「熱心やね。これはそんな大事なん」
数分で済むことが大事なものかと父は思ったか。子欄は、父の眼を視て訴える。
「わたしが目指しているのはお父様とお母様です。目指すべき姿を目に焼きつけたいんです」
見つめ続ける子欄と向き合って、父がばつの悪そうな顔。
「そこまでゆう。曰く無責任な俺より羅欄納に頼んだほうが賢いんやないかな」
「も、勿論お母様にもお願いしようと思ってます。でも、お父様の立も観たいんです」
「っふふ」
父が含み笑い。
「何か思い出し笑いするようなことでも」
「いや、分身でもないとな、とね」
「いったいなんのことですか」
「……ふむ、気づいとらんならまたいづれでいいよ」
父が、重い腰を上げた。「仕方ない、一度だけね。めんどいし、我流やから射法八節とか完全無視やけど文句いうのなしね」
父がお願いに応えてくれた。それだけで、子欄は柄にもなくぴょんぴょん跳びはねたくなった。シャクヤク、ボタン、ユリと続いて、跳んだらなんになるのだろうか。
「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
「……ん、いいよ」
微苦笑ながら、父の無精髭が優しく隆起したようだった。
「外、行こか。中じゃ壁に穴ぁ空いてまうし」
「魔弓ですからね」
魔弓の飛距離は一〇〇メートル超で、鉄板に穴を空けることが容易いほどの威力もある。魔物などの外敵が出現しない限り、町中での攻撃魔法の行使は罪に問われることも。従って、魔法にはそれぞれ専用練習場がある。
「どこで引きますか。魔弓の練習場は近くにありますか」
「俺に使用料を払う甲斐性があるとでも」
「思えません」
「やろ。こっそりやればいい。証拠もなしに令状を発行できんしな」
法律の抜け穴(!)だが、要請した立場の子欄に止める気はない。
「練習場以外となると、どこですか」
「上だ」
「上、屋根の上ですか」
「まずは着替えぇ。下になんか履いてきてね」
「解りました」
母の言いつけで今日も一枚重ね穿きしている子欄は私服に着替えて父と合流。二階建て安アパートことサンプルテの屋根に手を引かれるまま跳び載った。なるほど、跳び上がるから覗き対策をしてこいと言ったのか。覗きたくなるらしい男の心理はよく理解できないが、子欄は父の配慮に感謝して、一方では配慮に欠けていることがないかと尋ねる。
「ここで引くんですか」
見渡せば、半径一〇〇メートル以外に家屋や田畑がある。
「きっとひともいます。いろいろと危なくありませんか」
「大丈夫、大丈夫、地上に落ちる前に矢が消えるように仕込んどくし、広警のレーダには掛からんようにもしとく」
広警とは、ダゼダダの治安維持組織〈広域警察〉の略称だ。
「こっそりとはそういう意味もあったんですね。そんな細工ができるとはさすがです」
「小細工を褒めんといて。一度しかやらんで、しっかり観とりゃあよ」
「はい」
父母の魔法技術を疑う必要などなかった。子欄は安心して観察する。
「タイミングは俺が決めるが、いいか」
「はい。むしろそうあるべきでしょう」
「ん。じゃ、取りかかろう」
父が左手に魔力を込めて一張りの弓を瞬時に形作る。──これが魔弓。魔力が波立って刺刺しく光っているのが並の魔弓だが、父の魔弓は魔力の流れと密度が安定しており形成が丁寧、日中の屋外では暗くさえ感ずる光を湛えている。曇り空になっていなければ闇を纏っているように観えたかも知れない。
「外形や技術ばかりに目を向けるな」
魔力で形成した矢〈魔矢〉を右手に持ち、父が「足踏み」に入った。
「武道とは、何より動ぜぬ心。これを知り置け」
「っ、はい!」
やると決めた父が厳しいことは母から聞いて想像していたが、いつもの父とは別人だ。語調の重み、凛とした姿勢、だらしなく伸びた無精髭は歴戦の勇士の象徴が如く厳粛、何より強く優しい眼。
……おと……さま──。
心を鷲摑みにされて、子欄は息をするのも忘れてしまいそうだった。
我流だから無視していると言いつつも射法八節に則り、「足踏み」から「胴造り」、「弓構え」、「打起し」、「引分け」まで観せてくれた父が「会」の挙動で止まって微動だにしなくなった。
どうかしたのだろうか。ここまで来たら、あとは「離れ」で矢を放ち、「残心」で終わりなのだが。父のタイミングでいいと言った子欄は、口を挟まずじっと父の姿勢を観続けた。いつ「離れ」が行われるか判らない。そも、父がお願いを聞いたのは子欄の忍耐力を鍛えるためだった可能性もある。最初にいわれた通り大事なのは「動ぜぬ心」だ。子欄は自分が弓を引くときのように集中力を高めて、父の無言の指導を受け止めた。
雲が蓋となっているために蒸し暑い。じっとりと汗が滲む。授業中とて同じ。汗一つかかず微動だにせず虚空を狙う父の、その動ぜぬ心を、子欄は心を澄ませて見つめた。
ときは唐突。
ーーーーッッッッッン!
耳を何かが突き抜けるような音とともに弓から矢が放たれて、父の足下で風が破裂した。
駆ける一条が高い曇天を貫き、直後、雲の向こうで赤褐色の閃光。遅れて、重くて鈍い爆発のような音が聞こえた。
子欄は、ひたすらに父の姿を目に焼きつけていた。
「離れ」から「残心」、魔弓を消すと、虚空を向いていた視線が子欄に移った。
「さ、帰ろ」
いつもの、怠そうな声だった。
父は家に入ると、子欄を真先に浴室へ向かわせた。浴室に繫がる脱衣室に押し込まれた恰好の子欄は、汗を洗い流すとパジャマに着替えてダイニングへ。テーブルに既視感の父がいた。子欄は冷蔵庫から緑茶の入った容器を取り出してコップにそそぎ、父に届けた。
「お風呂、ご無礼しました。それから、先程はお疲れさまでした」
「でしたはよせ。俺はいつも疲れとるんよ」
どの口が言うのか。子欄はそんな父が可愛くて仕方がない。
「お茶、ありがと」
「ついでです」
子欄は自分のコップを持って。「お風呂、お父様は入らなくてよかったんですか」
「その言い方、一緒に入りたかったみたいに聞こえるぞ」
「そんなことは一言もいってませんっ。大黒柱は一番風呂のイメージなので……」
「そうか」
のっそりと立ち上がった父が浴室へ。「じゃあいってきます」
「いってらっしゃい」
脱衣室に入った父が扉を閉めると、子欄はほっと胸を撫で下ろした。
……言い当てるんですから、もう……。
一緒に入ってもいいじゃないか。子どもなのだから。
……そういえたなら──。
無邪気を装えない。
一緒に入れたとしても、バスタオルを巻いてしまうだろう。そんなことでは。
……いけない。これは、本当にいけないっ。
蓋がいつの間にかなくなっていた。感情が溢れて仕方がない。ダイニングの南東に位置するテレビ。父が落とした電源を入れ直して、子欄は気を紛らわせることにした。
〔──、と、いうことはまたミサイルが発射されたということでしょうか〕
「と、いうことは」とは、なんぞや。話の流れが全く判らないが、固そうな緊急報道番組なので今の浮ついた心を鎮めるにはちょうどいい。子欄はコップ片手に画面を眺める。
〔魔導レーダにも掛かっていなかったようで定かではありませんが、近海上で撮影〜、された映像〜、えー、出ますか〕
〔はい、いま出ます〕
画面が、どこかの空の映像に切り替わった。船の上で撮られたもののようで、上下に揺れる不安定な映像。しばらく観ていると空の一点で丹色が弾けた。
〔この映像では、防衛機構の迎撃を受けたようには観えませんし、魔導レーダに掛かっていなかったという警備府の発表もあります。映像をもっと解析しなければ判らないでしょうが、察するに、途中で自爆したか、制御系の誤作動で誤爆したものと思われます〕
〔一ついえるのは、ミサイルがまたもテラノアから飛んできたということです。これについて警備府は改めて抗議していますが、これまでテラノアが聞き入れず弾道ミサイルを打ち続けている現実を考えますと心配になります。抗議だけでどうにかなるものなんでしょうか〕
〔事実上、ダゼダダは防衛するしか手のない国です。攻撃兵器の開発を推し進めていた元総理火箸凌一の考えはある意味では正しかった。無論、そのために罪を犯していいということではありませんが、ダゼダダが身を守るためには、ときに攻勢に出る体制を作る必要があった。そういった意味で時代を捉える眼が彼にはあったということです〕
〔ふぅむ、なるほど。ですが、ダゼダダ所有の防衛機構が全ての脅威を防いでいるのが現状ですから、安穏としていいものでもないにせよ、制裁を掛けるにとどまらず攻撃兵器を所有することはわたし個人としては考えてしまいますね。ダゼダダに着弾可能なdt軌道や通常軌道内での圧力で──〕
ダゼダダとテラノアの緊迫感は薄れるどころか戦争が差し迫っているように感ぜられる。現在の憲法ではダゼダダから攻撃を仕掛けられないが、「話し合いの場はもうない」とテラノアから一方的に戦いを仕掛けられることはあり得る。
……お父様やお母様の働きかけで戦争に発展することなく済んだというのに。
子欄が生まれる前の話だが、わずかにその記憶が残っている。奇襲を仕掛けてきたテラノアの師団を逮捕したダゼダダだが、外交を意識して本国へ強制送還した。捕虜を取らず、人質も使わず、飽くまで戦わない姿勢を貫いたダゼダダはテラノアに軍事行動をしないよう訴えかけていたが、テラノアが核弾道ミサイルをちらつかせて宣戦布告したという流れだった。ダゼダダとしては、情を掛けたのに無視された恰好である。
……テラノアというのは、本当に碌でもない国だ。
自国のことしか考えていない。他国のことを占領できるかどうかでしか観ていないようで、子欄は好きになれない。
……しかし、先程の映像。
引っかかった。……まさかとは思うけど、お父様の魔弓がミサイルを射たのでは。
爆発は漁業関係者が携帯端末で撮影したもので、時間的にはつい先程のようだ。子欄がお風呂に入っていたのは三〇分ほどであるが、短い時間でも緊急報道番組は放送に漕ぎつけるだろう。父の矢が的中してミサイルが爆発した可能性は、方角的・タイミング的にはあり得る。
矢を放つタイミングが遅かったのはミサイルの軌道を父が読んでいたからではないか。魔弓でミサイルを迎え撃つことと同様に軌道計算は困難だろうが。
現実的に考えてみよう。テラノアが使っているのは、物理や魔導の攻撃兵器である。魔導ならば魔力探知レーダ──通称〈魔導レーダ〉──で探知できるが、物理兵器は魔力探知レーダに掛かりにくい特性がある。従って、物理兵器を確実に迎撃するには物理的な防衛機構が必要になる。ダゼダダには物理的防衛機構が充実しているが、長らく魔導機構をレフュラル製に頼っていたため魔導機構の開発はそれほど進んでいない。これまでテラノアがダゼダダに撃ち込んできたのは、巨大な熱源体を除けば物理的なミサイルだけ。父が物理的なミサイルを迎撃するには魔法で察知するか、物理的防衛機構で探知するか、もしくは、
……ミサイル発射を知っていたか。
魔法をめったに使わない父が魔法で察知することはないだろう。物理防衛機構を保有する甲斐性もなければ設置場所の確保もできないだろう。父に限ってテラノアと通じているなどという、反ダゼダダ的なことはないだろうが──、一つの可能性に子欄はもやもやしてしまう。
脱衣室から父が出てきた。寝間着を持っていない父は下着とTシャツというラフな恰好である。
「ズボンを穿いてください」
「男はずぼらなもんやよ」
「……穿いてください」
「メンドー」
「もう……」
向いに座った父が子欄に半眼を向けた。
「希しい。子欄がテレビ点けとるぅ」
「あ、はい、緊急報道番組ですが」
点けた動機は言わないが、子欄は質問する。「お父様、ミサイルが来ることを知ってましたか」
「なんのこっちゃ。ああ、なるほど」
先程も流れた爆発の映像をバックに、これまでテラノアが撃ったミサイルについてテレビが解説を始めている。父はそれだけで子欄の問の真意を見抜いた。
「テラノアの内部事情なんぞ知らんよ。つーか家に引き籠もっとるのにどうやって知りゃいいんだか。できるとしたら報道に基づく憶測くらいのもんやろ」
それもそうだ。ミサイルの正確な発射時刻や軌道が憶測で判るわけがない。メディアだってそんな情報を摑んでいたら政府に上げるだろう。
「ミサイルを〈遠見〉の魔法で察知したんですか」
「さあ」
「さあ、とは」
「あいや、遠見の魔法じゃなくても探知・視認する魔法はあるからね」
「では、その魔法でやったんですか」
「さあ」
「はっきりしてください、もう」
「っふふ」
弄ぶような微笑で父が答えた。「感覚で」
「感覚ですか」
そんな馬鹿な。
父がいつもの無表情。
「なんか来るなー、と、思って、もしかしたらそれが危険物かもと思い立ってちょうどいいから的にした。それだけやよ」
「『離れ』が遅かったのは」
「いったやろ、タイミングは自分で決めるって」
「ミサイルが魔矢の射線に入るのを待っていたということですか」
「正確には射線に入る直前なんやけど、概ねそういうこと。あれはミサイルやったんやな。高速で押しといてよかったわ」
テレビを振り返って爆発の映像を観る父。「現代の携帯端末での望遠撮影なら捉えられんレベルになった頃に中てたはずやし、解析してもまさか魔矢が撃ち抜いたとは判断できんやろう」
「ミサイルだと、本当に知らなかったんですね」
「お前さんは羅欄納に似た追及をするね。鋭角で大気圏に侵入した隕石かなんかかと思った。知っての通り破壊的魔法の不正使用を見咎められたら罪に問われかねんし、隕石を撃ち抜いた面白動画に扱われたら単純に嫌やから、人目につかんよう手を打っただけやよ」
ミサイルを迎撃した映像が面白動画かどうかはともかく、父は飛翔物体が隕石かそれに近いものと考えていたということだ。
「人目につかないようにする必要はありましたか。今回のことは罪どころか──」
「功績になるって」
「違いますか」
「要らんな、そんな功績」
国に貢献すれば悪評を拭うこともできるだろうと子欄は思ったが、広域警察に目をつけられている父の場合、悪目立ちするだけの可能性がある、と、いうことか。
父が緑茶を一口飲んで頰杖をついた。
「そんなことより、俺の立とやらを観て得るもんはあったん」
「はい。感銘を受けました」
ミサイルは余談。魔弓による父の実演は子欄の心で何かを生ぜさせるに寄与した。
……自分が何者か。
父は、それを確実に見定めている。
「古い話をしようか。子欄に受け継がれとる記憶の補完もかねて」
「お父様のことですね」
「ん。天才とか神童とか呼ばれたこともあったが、俺は自分をそう思ったことはない。一〇歳での犯罪行為以降表現された『悪童』や『化物』のほうがよっぽど似合うと考えとるよ」
「お父様は、それを受け入れたんですか」
「事実やと思ったかんね。羅欄納も最初はその辺りを納得しがたそうにしとったが簡単な話やろ。自己主張は自由だが自分を評価するのはいつも他人だ。新生活にありがちなニックネームの創出なんかはその一端やないかな。子欄はクラスメイトにどんなふうに思われとるか聞いたか、また、どんなニックネームで呼ばれた」
「頭がよさそう、と。ニックネームはありませんでした」
「ニックネームなしで頭がよさそう、ね。それは『口数が少なく特徴がない』ということだ」
子欄は、心の虚無を見抜かれたようだった。
父が半眼のままつまらなそうにしている。
「ま、一概にはいえんけどね。子欄は外見で人目を引くし、中には好意を寄せるもんもおるやろうけど、いざ話してみると自我が欠如しとるから『個』として扱いにくいんよ」
「だからみんな、わたしを苗字で……」
「ボケの音羅とツッコミの納月がおれば二人で話が進んでまうやろうし、無駄話をするタイプでもないから口数が減り黒髪と顔立ちが相俟ってクールで頭がよさそうな印象を与え、評価は内面より外面を捉えたものになり自身と他者の認識の狭間を捉える。と、そんなところやろ」
「いってませんでしたが、今朝、男の子に告白されました」
「付き合わんかったんやろ」
「なんで判るんです」
「幼いもん」
「浮ついてない、と、いうことですか」
「男と触れ合って培われる艶がない」
そういうものなのか。子欄は、顔が幼いとか艶がないとかいわれてもよく判らない。
「話がずれたわね。ともかくね、」
父が両腕を枕にして子欄を仰ぐ。「慌てずゆっくりいきなさいね」
「……、はい」
知識を詰め込んでも判らないことばかりだ。父のいうことのほとんどを理解できていない。それが幼さの裏打ち。子欄は幼さから脱したい。だらしない姿を曝しているにも拘らず心を惹きつける父のように、子欄はなりたい。
……この気持だけは、紛れもなく、わたしのものなんだ。
そう思って、子欄はようやく気づいた。
……そうか、だから──。
弓道は己との戦い。気持に蓋をしていてはならなかったのだ。
……この気持と向き合うことこそ、何者であるかを見定めるために必要なんだ。
母の記憶に引き摺られた気持か否か。弓道を通じて突きつめることで、子欄は己を見定め、ひいては幼さを卒業できる。
……いつか、認めてもらえるように。
それも、簡単に口外できることではなかった。
──四章闇節 終──




