二七章 広がる影
植物状態が確定的と診断されたという文也の帰宅は、同時に退学を意味した。中流階級である佐崎家はいつ目覚めるか判らない文也の学籍を維持できないとの判断だった。
文也が帰宅した次の日、学園側が生徒側にその旨を伝えた。
さらに次の日、文也の容態や退学で受けた衝撃も冷めやらぬ中、別の方向からも状況が悪化してゆく──。誰より早く朝練に出るよう心懸けていたものの先日のショックで寝過ごした音羅は、遅刻ぎりぎりで駆け込んだ正門で、待っていたらしい納月に足留めされた。
「お姉様、今日は休んではどうです。寝坊するくらい、疲れてるんでしょう」
「疲れてなんていないよ。少し寝つけなかっただけだから」
「あ、ちょっ、待ってくださいっ」
駆足の音羅に納月がついてゆく。「顔色悪いですし、ホント、休んだほうが……」
「来る前に鏡を見たけれど、髪が多少乱れていたくらいで顔色は普通だったよ」
「そ、そうですけど、その──」
納月の様子がおかしいことに音羅は気づいていた。選び取った日常──、遅刻はできない。別館へ駆け込む。と、正面の掲示板に目を疑うようなものが張り出されていた。
……な、に、これ……。
思わず立ち止まり、張り出されていた写真と文章を見る。写真は、音羅、納月、子欄の写真が横並びに合成されており、また、その上に父の写真が──。活字の文章には、
〔格闘部副部長竹神音羅
園芸部部長竹神納月
弓術科竹神子欄
以上三名は、かの大犯罪者竹神音の娘で、現在三歳に満たない模様。
しかし外見は普通の中等部生徒や高等部生徒。
何かしらの実験によって生まれたホムンクルスや改造人間である可能性が濃厚。
竹神音羅は魔物らしき蛇を連れており非常に危険と推察される。
詳細は追って──〕
中傷であることが、一目で判る。
「何、なんなの、これ……」
「解りません。わたしが来たときにはもう張られてて……」
納月が動揺している。音羅も目眩がしたが深呼吸で心を落ちつけた。
「ホムンクルス、改造人間……、って、なんだろう。どこかで聞いたことがあったかな」
「ホムンクルスはゼロから作り出された人工生命体のことです。改造人間は、既にいる人間に手を加えた人間、のこと、だと思います。わたしも、そっちはよく知りません」
「プウちゃんのことも、魔物だなんて……」
「なんとなくしっくりきてましたけど、精霊ってのは野原さんの推測でしたっけね……」
休んだほうがいいと納月が言ったのは、これが原因のようだ。
「……お姉様、帰りましょう」
どこの部室へ行くにもこの掲示板は目に入る。格闘部の部員どころか朝練に来ている全ての生徒が音羅達の側面を、音羅達も知らない形で知った。音羅達にはどうしようもないことだが何かしらの非難や仕打ちを受けるかも知れない。
「なっちゃんは帰って、しーちゃんにこのことを伝えてくれる」
「お姉様は。まさか、事情を説明するとかゆうんじゃ」
「話せばみんな解ってくれるよ。花さんがそうだったし、知泉さんや虎押さん、先輩方だってパパのことを知っても受け入れてくれた。プウちゃんのことだってそう」
「じゃあ、わたしも行きます」
「それは駄目。しーちゃんに心の準備をしてきてもらわないと困るから」
「……だったら、わたしが戻るまで待っててください。それなら、子欄さんに伝えてきます」
「そ、うだね」
「一人で行くつもりですね」
「……」
「一旦どこかに隠れて待っててください、急いで戻りますから。いいですね、待つんですよ、そのくらい理解して、できますよね」
「褒めてはいないよね」
「……。じゃあ、行ってきます」
納月が走り去った。
……しーちゃんが来たあとじゃ遅い。
稽古の声で賑やかな別館が、今日は静かだ。……行こう。
魔力を潜めているので、魔力探知で行動を把握されることはない。音羅は、三階の格闘部部室へ向かった。
二階の踊り場に、知泉、虎押が待っていた。音羅に気づいて駆け寄った二人が、
「音羅、大丈夫か」
「ちょっと嫌な雰囲気になってるから行かないほうがいいー」
そう言って止めた。
「わたしは大丈夫。わたしのせいで気を遣わせちゃったね……」
「お前のせいじゃないだろう」
「張り紙、外しとこうかと思ったんだけど、音羅さん達が知らないまま来ちゃったらまずいかもって……」
「うん、いいよ、あのままで。一部は事実だものね」
幼い頃に犯した罪が裁かれぬままであることで父が犯罪者と受け取られたのなら、事実といえるだろう。それに、音羅達が三歳に満たないこと、これは、何も間違っていない。
「ホムンクルスとか、ってのは、でたらめだよな。音羅の話だと、魔法で成長が早かったってことだったはずだ」
虎押は存外記憶力がいい。
「うん、パパがそういっていたよ。改造人間っていうのとも、なんとなくだけど違うと思う」
「改造ってのを、魔法で大きくなったことを指しているなら間違ってもないのかも知れないけど、改造人間の定義がよく解らないしな……。プウも、あれでいて魔物なんかじゃないよな」
「うん。ひとを傷つけるような危ない存在じゃないもの」
あるときは花を捜し出す手助けもしてくれた。いま姿を見せてくれないのは音羅の心のぶれを感じているから。音羅自身は自分らしくあるつもりだが、プウから観れば何かが違うのだろう。以前と今で何かが確実に違う音羅だが、プウが悪意を持って現れていたとも悪意を持って現れないとも思えない。音羅と一緒に学園に通って、道場を這い回ってみんなをびっくりさせたり虎押を脅かしたりはしたが、誰も傷つけたことはなかったのだから。
「やっぱりひどい噓だ……。もう外してくる!」
知泉ココアは、そう言って一階へ下り、掲示板に向かい合った。
張り紙に書き連ねられているのはとんでもないデマだろう。そう推測しながら、それをすぐに外せなかった卑しさ、手を掛けながらまたぱっと剝がせない惨めさを感ずる。
……あぁ、あたしは。
画鋲を外して張り紙を見直すと、くしゃっと丸めた。……こんなもの、ないほうがいいに決まってる。
そうと判っていたのに、張り紙を丸めた手が最善を選び取っていたとは、とてもいえない。
知泉を見送った虎押が、口を開いた。
「疑うわけじゃないんだけど、やっぱり音羅達に話を聞いてからじゃないとデマとも真実ともつかないだろう。下手に外して、張り出したヤツを刺激したあとみんなに説明できないなんてことになったら厄介そうだしな」
「うん、正しい判断だよ。ありがとうね、虎押さん」
「いいって。問題は……」
「部室のほうだよね」
虎押がうなづいた。
ぐしゃぐしゃに丸めた張り紙を持って駆け上がってきた知泉を加えて、音羅は三階へ向かった。二階まではまだ雑談する声くらいは聞こえていた。三階、格闘部部室内からは声どころか物音すらしない。
「音羅を碌に知らない新一学年生がいる」
とは、虎押の注意だった。「お前のことだから理解を求めるために話し合うつもりなんだろうが、理解されるとは、思わないほうがいい」
「……。知泉さん、虎押さん、一人で部室に入るから、あとでこっそり入ってきて」
一緒に入ったら二人の株まで下がりそうだと心配した音羅を、知泉がぎゅっと抱き締めた。
「そういうのなし。なんでも一緒でいいー……」
「知泉さん……」
「そうだぞ、音羅。ほかのヤツはともかく、オレ達はお前を信じている」
虎押も、知泉と音羅の肩に手を置いて。「堂堂と行こうぜ。お前は何も悪くないんだ」
「変に叩くような人がいたらあたしがぶん投げてやる〜。だから、心配しない、しない〜」
二人の温かさが、緊張に震えていた脚をしゃんとさせた。
「ありがとう、二人とも。……一緒に、来てほしい」
「うん」
「ああ」
即答の二人を連れて、音羅は部室へと足を踏み入れた。扉が開け放たれた格闘道場は今日も藺草の匂いに満たされて気持が引き締まるようだ。空気は、緊張感と重重しい沈黙に支配されて普段のそれと全くの別物だった。息苦しくて足が進まない。朝練初日に遅刻したときとはわけが違う。足が、重い。
……みんなが、視ている。
みんなの前に佇んでいる部長花も、音羅を見つめている。緊張を湛えた瞳は心配の色を必死に隠し、部員の手前、口を開くことはなく、足は一歩もこちらへ動かない。
像のように動かないみんなの視線を浴びて、音羅は花の隣へ歩み出た。
同席したテーコフが口を開く。
「もうじき朝練開始時刻なので、そろそろ話をしましょう。張り紙の件です」
座っている部員を見て、テーコフが状況を話す。「張り紙は、わたし達が別館の鍵を開けて入ったときにはありませんでした。それから間もなくやってきた部長の花さんやほか複数の生徒が気づいて、わたしやほかの顧問に報告してくれました。現状、誰が張り出したか判っていません。仮に判ったとしても、学園側に処罰する意思はありません。生徒が、何かに迷い、苦しんで、過ちを犯したことも考えられるからです。勿論、わたし達教員や外部の何者かが張り出したのなら罪に問われ、罰せられます。ここは学園です。生徒が学び、育つ場所です。わたし達教員が、あなた達生徒を全力で守ります。生徒が張り紙をしたのだとしても、その生徒も守ります。何か心当りがあれば、報告してください。わたしからは以上です」
テーコフが音羅を向き、「音羅さんからは何か話したいことはありませんか」
「……」
弁明の機会である。知泉から預かった張り紙を広げて口を開こうとした音羅だったが、新入生山尾競が手を挙げた。
「家庭環境に問題がある生徒に、副部長の資格はないと思います」
問答無用の評価だった。
「挙手すれば意見できると思い込んでんなよ。家庭と個人は──」
花の言葉を音羅は掌で制して、手を挙げた新入生の話を聞くことにした。
「競さんがどんな家庭に育ったのか、聞かせてもらってもいいかな」
「両親の関係が良好な上流です。わたし個人は金に不自由しませんし、進路も概ね決まってます。家が磐石だから部活も授業も集中できます。無魔力ですが、中等部では学年首席でした」
無魔力の中では稀に見るエリート中のエリートであろう。社会では欠点とされる無魔力個体という事実も感ぜさせない、自信に満ち溢れた少女であった。
「わたしの周りの、家庭環境に問題を抱えた子は、上流でも性格や態度に難がありました。公平な判断ができなかったり、発言が的外れだったり、意味のないことで怒ったり、感情が不安定だったり、いろいろです。副部長、あなたもそんな一人だと思います。推測でしかありませんが、家庭に犯罪者がいることはフラストレーションを溜める大きな要素でしょう」
競が粗方代弁しているのだろう。ほかの生徒、主に新入生と二学年生が音羅を睨むようにしてはいるが言葉を発することはない。
新入生の競だけでなく、この場のみんなに音羅は話す。
「この張り紙には真実も書かれているので、そこを中心に話すね」
ホムンクルス。改造人間。よく知りもしない単語と自分との照合はできていないので虚偽と断言できない。知っていることを誠実に打ち明けよう、と、音羅は決めた。
「貴重な朝練の時間だけれど、よければ説明の時間をください。ただ、わたしの家庭のことでみんなの時間を奪いたくない。朝練を始めたいひとは始めてください」
音羅が言い終えると、新入生がほぼ一斉に立ち上がって道場に散ってゆく。
「気にすんな」
と、虎押が声を発した。「オレ達三学年生が聞く。二学年生はいやに不満そうだけど、聞く耳があるみたいだ。話を続けてくれ。一学年生も、耳には入るだろう」
新入生は張り紙を鵜吞にしてしまったのだろうが、二学年生の不満の理由は定かでない。
音羅は、張り紙の文章を掲げた。
「まず本当のことについて。前半、わたし達三姉妹が竹神音の娘という点、父竹神音が罪を犯したという点、わたし達が三歳に満たないという点、これらは、本当だよ」
二学年生の手が挙がった。
「あの、副部長、お父さんの話、初耳です……」
成長促進については文也や巴、雅や薫といった一部二学年生も聞き及んでいることであったが、音羅の父については、音羅と同学年以上の生徒しか知らない。
「三学年生の、同級生のみんなに、それからわたしが新入生当時、先輩方には話す機会を作ったんだ。父については知っているひとも多かったから」
別の二学年生が挙手。
「なんで、話してくれなかったんですか?知らないことをいいことにうやむやにして、わたし達を騙してたんですか……?」
訊かれなかったから話さなかった、とは、言訳だ。知らなかった側に取って隠されていたも同然である。
「話そうとしたことは、なかった。そのことは、……」
謝ろうとして、音羅は口を噤んだ。謝るべきことか。父のことについては、竹神家の汚点である。話さなくていいなら話したくはない。それに、父の汚点をわざわざ言いふらすようなことをしたくなかった。一昨年に成し遂げた融和。それに満足していたというのもあれば、壊したくない、とも。一歳未満の頃にはできたことが二学年の頃にはできなくなっていた──。
なぜ音羅だけが家の汚点を打ち明けなければならない。みんなだって打ち明けたくない家の事情があるのではないか。それを打ち明けなかったら、謝らなければならないのか。
そう考えていた音羅の意識を現実に引き戻したのは挙手していた二学年生の、
「それは騙してたのと一緒ですよ……」
と、いう、失望の声。「副部長に怨みはないですし、副部長が芯のあるひとだってことも解ってます、解って、ましたけど、……なんか、裏切られた気分で」
二学年生は一年間音羅についてきた。その経緯があるから、話してもらえなかったことに失望感が拭えない。音羅が謝らなければならないのは、父のことを打ち明けなかったことではなく、二学年生の気持を裏切ったこと、ひいては裏切ったと感ぜさせてしまう程度の浅い関係しか築けていなかったことだった。
「ごめんなさい……」
しばらく頭を下げた。
顔を上げると、別の二学年生が、手を挙げて話した。
「副部長の年齢、さっき、検索かけたらヒットしました。だいぶ前の書込みでしたけど、一歳に満たないとかなんとか……」
「それ、たぶん兄貴のいっていたヤツだな」
と、虎押が言った。「音羅達三姉妹は、入学前から話題になっていたらしいんだ。お前が見つけた書込みはその頃のだろう」
「だと思います。それで、年齢のことは本当なんだなって思いました」
「それから」
と、ほかの二学年生が口を開いた。「竹神音、副部長のお父さんの事件についても、いくつも見つけました。名前は伏せられてましたけどこの近辺の学園で目立った少年犯罪っていうのがそれくらいで、間違いないと思いますが、一〇歳の頃に罪を犯したと」
「……うん、それだね」
音羅も外面的な話を空覚えしている程度で、動機など詳細を知らない。
「多くの先生や児童を傷つけた……罪だ。裁かれるべきだとも思う。でも父は一〇歳だった。法律で裁くことができなかったんだ」
言訳だ。被害者が多数いた。人生が狂った人間も相応に存在するだろう。
「これについてはどう思ってるんですか」
と、怒気を発したのは、雅だった。「名前はやっぱり伏せられてますけど、〔一〇歳の頃に罪を犯した少年が一七歳で強姦殺人容疑。〕ってあります。これも副部長のお父さんのことですよね」
……何、それ……。
「記事によれば隣室の同級生を強姦、殺害したって。記事を辿ったら一〇歳の頃の事件も紐づいてましたし、間違いないですよね。強姦なんて……最低です。気持悪い……」
嫌悪の言葉が音羅の不意をついて突き刺さった。
……パパ、わたしに、黙っていた。どうして。
息が止まるような困惑に陥った音羅の耳に、テーコフの言葉が滑り込む。
「それについては容疑が掛けられただけです。後に証拠不十分で不起訴処分になっています。つまり客観的に事実とは認められなかったということです」
テーコフはそのことを知っているのか。ならば、文也の病と同じように、学園側は、学園長までが父の罪を承知しているだろう。音羅は知らなかった。
さらに知らない情報が齎される。
「でも、記事には罪を認めたって書いてあります。それに、仮に真犯人がいてもまだ捕まってないみたいじゃないですか。信用できません」
「気持は理解します。が、竹神音さんと竹神音羅さんは別人格です。なぜ、同一視しようとするんですか」
「そんなの親子だからに──」
「親と子がみんな同じ人格で同じ罪を犯す、とでも思いますか、雅さん」
「それはそう、ですけど……」
口を閉じる雅。納得しきれていない様子だ。
……信頼、できないよね。
強姦殺人。女性を蹂躙した上、殺すこと。卑劣な行いだ。よほどの裏づけがなければ容疑も掛けられない。父には疑いの眼が向けれられるほどの疑惑があったのだろう。
そんな人物の娘。それも普通の人間ではなく、三歳に満たない高等部三学年生。信頼どころか、不審がられるのが普通だろう。
「プウちゃんはどうしたんですか」
と、雅が少し怯えた様子で言った。「ここしばらく見てませんけど……」
「それは……」
雅の求めるような答を出せるか判らなかった。
言葉に詰まった音羅を観て、二学年生の一部が騒いだ。
「まさか、どっかからオレ達を狙わせてるんじゃ……!」
動揺と恐怖がみんなに伝染したのが一目で判った。
「そ、そんな、プウちゃんはそんなこと──」
「騙してオレ達を餌にでもするつもりかよ!」
「っ──」
動揺と恐怖が立ち込める部室。プウを知らない新入生も怯え、辺りを警戒し始めた。
……どうしよう。こんなの、どうやったら理解してもらえる──。
「落ちついてください」
と、テーコフが手を叩いて、「中央県は〈聖域〉の中であり、魔物は入ってこれないことをみんな知っているはずです」
侵入した魔物の弱体化もしくは死を招くのが聖域である。
「プウさんは元気に這い回っていたではありませんか。これは初等部で習う知識で十分に推察できること。冷静になりましょう。魔物というのはデマだと考えるのが論理的です」
冷静なテーコフのお蔭でプウへの疑惑が晴れ、部員達にも少しずつ平静が戻ってゆく。が、父の過去に一人ショックを隠しきれない音羅に、巴の指摘が追打ちを掛けた。
「プウのことなんてどうでもいい。一番問題なのは、これでしょ!」
携帯端末を掲げて声を荒らげて話した。「この書込みによれば、文也は竹神音に暴行されたから植物状態になったんだ!」
落ちつき払っていたテーコフも動揺を見せ、巴の携帯端末の画面を確認する。
音羅は、思わず花を見る。
花が想定外の情報に目を泳がせていた。
……どういうこと。
理解が追いつかない。
何も答えられない音羅に苛立ったか、テーコフの対応を待たず巴の怒りが爆発した。
「文也を両親に引き渡した竹神音は罪を否定せずに帰っていったとも書いてある。これって認めたも同然だろ。副部長……なんとかいえよ!」
部室に響き渡るほどの怒声が耳を突き抜けて、音羅はふらついた。
「巴さん、落ちついてください。音羅さんも──」
テーコフが何か呼びかけているが、音羅は何も聞こえなくなって、眩んだ目を閉じた。
判らない。速やかに巴の言葉を否定しようと思ったが、振り返ってみれば父が文也を暴行していないとする客観的証拠がない。父はなぜ文也を見つけることができ、なぜ独りで両親のもとへ帰しに行ったのか。そもそも、いつも動かない父があれだけ熱心に動いたのが不自然ではないか。
因果の糸。空間転移。闇。心のぶれ。そんなワードによって音羅達は父に誘導されていたのではないか。正義面をして協力するように装って、裏では文也を暴行して、文也の両親を嘲笑うために独りで帰しに行ったのではないか。
……いや、パパが、そんなこと──。
しない。
そう言いきるだけの、証拠がない。学園長や広域警察の捜索打切り以前に捜索もしてくれなかった。それが、父だった。
……パパは、どうして捜してくれなかった──。
音羅自身がそうであるように、感情論だけでは誰も納得できない。
「『副部長!』」
二学年生から催促の呼声がいくつも上がった。
……駄目だ、言葉が、出てこない。
何を言っても浅い言訳になってしまう。音羅自身が動揺しているというのに、納得できていないというのに、みんなに信じてもらえる説明ができるはずがない。頭が、くらくらする。
「やっぱり騙してたんですよね」
と、一学年生の声。型の練習をしていた男子生徒である。「副部長、ひとがよさそうな顔してるから騙しやすいんでしょう。化けの皮ハガれてますから取り繕わないで大丈夫ですよ〜」
「テメェ……」
花が一学年生のほうへ歩き出す。音羅は透かさず彼女の腕を摑んだ。
「音羅、止めんな」
「……」
三学年生の列にいた知泉もまた我慢の限界で拳を固めていることを知っていたから、音羅は花の腕を摑んで黙るしかなかった。
「部長も騙されてんですって、いい加減気づいたほうがいいですよ〜。脳ミソ弄られた改造人間か人工生物か知りませんけど?イカれてるに決まってますからね」
「っ、音羅、放せ。ちっとぶん殴ってやんねぇと──」
……それは、駄目だ。
力任せに屈服させても意味がない。そんなことをすれば選び取った日常を崩すことになる。
「……」
音羅の眼を視て、花が足を引いてもとの位置に戻る。動き出そうとしていた知泉も音羅の眼に制されていた。
音羅は、花の腕を放し、知泉から目を外した。
三学年生の一部からまで、疑念の目差が向けられている。
……これは、もう……。
現状、打開策がない。
諦めるほかない。
批判に耳を傾けて相手の感情を理解しても、自分の置かれた状況を説明できなければ、理解してもらえない。下手な説明をすれば逆効果だ。
言いたいことだけは言わなくてはならない。正直に、本音で。できることはそれだけだ。
「誓って、騙してはいないよ。けれど、全てに答えられない。わた、っわたしも……、(次次知らないことが出てきて、)混乱しているんだ。(何を、どういえば、いいんだ……)」
「だから化けの皮ハガれてんですって〜」
一学年生の言葉。「お涙ちょうだいならほか行ってやれよー」「時間の無駄なんだよ」「キメェんだよ改造人間」「強姦魔のガキは噓つきの淫乱ってかぁ?」「誑かせるのはロリコンくらいじゃね?」「『っははは』」「三歳だもんな、ヘンタイだヘンタイっ!」「エセの副部長なんて要りませーん」「エセ副部長、とっとと出てけー!」「出てけー!」
「『出ーてーけっ!』」
「『『出ーてーけっ!』』」
「『『『出ーてーけっ!』』』」
「『『『『出ーてーけっ!』』』』」
……──、……。
張り紙が音を立てても聞こえないほどの、拒絶の斉唱。
「音羅──」
花が手を差し伸べようとする。
音羅はその手を遮り、零れかけた感情を強引に拭ってみんなを見渡した。
「安心して。信頼されていないのに副部長を続けるつもりはないから」
「音羅っ……!」
「部長、後任を選んでください、この場で。わたしは、出ていきます」
「お前、あたしに敬語なんか使わ──」
「選んでください」
距離を置かなくては。
……今は、その勇気が必要なんだ。
このまま疑念が払拭できなかったら──。情報の多くはインターネットでの書込みのよう。文也の両親が出どころの可能性は大いにあるが、それ以外の誰かである可能性もある。どこに書き込んだ人間が潜んでいるか知れない。関わりのあるみんなを巻添えにするおそれのある態度は絶対に避けねばならない。
花が、眉間に皺を寄せ、刺すように音羅を見ている。音羅は、目線を外した。
……ごめんなさい……、支えるって、言ったのに。
支え合うと、言ったのに。音羅独りの判断で、関係を絶ってしまう。……こんなの──。
悔しい。当然だ。花と一緒に部を盛り立てる日日に充実感を覚えていたのだから、手放しがたいに決まっている。それでも、今はそうするほかない。見えざる情報元が花や友人の将来に影を落とすような真似をしないとどうして言いきれる。懸念はもとから取り除いておくのが一番だろう。
頭が割れそうだ。どうしてこうなった。
しばらくして、花が声を張った。
「竹神音羅、要らぬ混乱を招きながらの弁明不足。部の和を乱したこと、……看過できない」
二学年生の頃、纏まりつつある部に水を注すまいと、竹神音の娘であることを告白しなかった。告白していたら、少しは状況が変わっていただろう。
音羅は、花を向いて静聴した。
「従って、無期限休部処分とする。復帰は今後の態度を観察し、検討するものとする。以上、部外者は速やかに退場しろ」
厳しい処分を下した花に、音羅は頭を下げた。
頭が、揺れる。痛くて、重い。
顧問、それから部員のみんなにもお辞儀して、音羅は部室を出た。
……花さんは、やっぱり、優しいな。
階段を降り、二階の踊り場につくと、音羅は転ぶようにして膝をついた。
……、……。
音羅の気持が堪えられそうにないことを、花は察していた。拒絶の斉唱と刺さるような目差から逃がすために退場を言い渡したのである。
……情け、ないな……。
ほとんどの責めは、父の行為による間接的なもの。
父のことなのだから。
知らなかったのだから。
知らなかったと堂堂と言えたらよかったのだろうか。音羅にはそれができなかった。知っていて当り前のことまで知らない気がして。答えられたはずのことまで答えられなかった気がして。知ろうとしていなかった気がして。音羅は知らなかったと言えなかった。
父に言わせれば、これもまた行動力が欠けていたということになるのだろう。父の稀有な行動がなんのためだったか、〈父〉であるから油断し、追及していなかった。本当に文也を暴行したか否か、そも文也を連れ去ったりしたのが父なのかさえ知らない。きっとどこかで、それらを知るチャンスがあったはずなのに。
力の入らない脚を父への疑念で奮い立たせて一階へ降りたところで、駆け込んできた納月、子欄と合流した。
「『お姉様──』」
音羅の先走りを、二人が一目で察した。
「どうして待たなかったんです!隠れてろっていったのに……!」
「納月お姉様、それよりも張り紙の文言についてですよ」
「今は、外へ行こう……」
音羅は、二人の手を引いて別館を出た。今すべきは、父に対する疑念の払拭だ。全てを聞き出して、みんなの疑問に答えられるようにしなければならない。音羅達が納得できなければ、何も始まらない。
強姦殺人の疑いを掛けられたのか。
文也の失踪に無関係なのか。
文也の暴行に関与しているのか。
文也を独りで帰しに行ったのはなぜか。
帰途、音羅は格闘部で聞いた話を妹に聞かせて、父への質問内容をその四点に決めた。
母もいる時間。父を問い質すためには母に手伝ってもらうのが理想的だが、父を擁護する可能性もなくはない。どうしたものか。などと話しているうちに、音羅達は家についていた。訊くべきことを全て整理できたとは言えないが迷うことはない。扉を開け、飛び込むようにしてダイニングへ。
「騒騒しいな」
普段の父だ。テーブルに突っ伏して動きそうにない、普通の父だ。
……、……立ち止まるな。
父の様子に安心しかけた自分を切り捨てた。
キッチンでは母が朝食の片づけを終え、音羅達が帰宅したあとに食べるお菓子を作っているようだった。
音羅はまず母のもとへ。
「ママ。パパから聞きたいことがあるから、こっちにいてくれないかな」
音羅の声を耳にして、卵白を搔き混ぜていた母が手を止めた。
……メレンゲ。確か、一気に搔き混ぜて作る、って、いっていた。
その手を止めたのは、音羅の尋常ならざる心境を酌んだからだろう。味方してくれるかどうかは不明だが母は聞く耳を持っていると判った。
冷蔵庫にボウルをしまった母を連れて音羅がダイニングに戻ると、席につくことなく父を見下ろす妹の姿があった。
「お母様は座ってください」
と、納月が言った。「わたし達は……、座って、落ちついて話すことができる心境じゃないですが、お母様には中立で、それか、できたら味方してもらいたいと思います」
「何やら不穏ですね」
場を和ますためか、音羅達の緊張を解きほぐすためか、あるいは平常心か、母が微笑のままで席についた。
「話を聞きましょう。オト様、よろしいですか」
「構わんが、音羅、納月、朝練はどうしたん」
父の問に、音羅と納月は短く答える。
「休部処分になった」
「非正規部員もいませんしどうにでもなります」
「じゃ、話を聞こう」
顔を上げることもなければ起き上がることもなく音羅の休部処分に驚くこともない父にも、聞く耳はあるようだ。
くしゃくしゃになった張り紙をテーブルに置いて、音羅は立ったままで話を始める。
「質問が四つ。パパに対する疑問があるんだ。もしママが知っていることがあるならママが答えてくれてもいい。とにかく、わたし達が納得いく言葉を聞かせてほしい。いい」
「本題はなんやの」
「では、まずわたしから」
子欄が尋ねる。「お父様が一七歳のとき、同級生の女性を乱暴した挙句殺害した容疑が掛けられたというのは本当ですか」
「忌むべき事実やろうな、お前さん達に取ったら」
父らしい、清清しいほどあっさりとした回答だ。こうも付け加えられた。
「俺は検察の取調べにおいて自白した。事実、彼女を殺害したのは俺だったからだ」
「……」
常に微笑の母が、そのときばかりは父を慮るように視ていた。
音羅達は、新事実に驚愕して父にしか目が行かなかった。
「不起訴処分になったって先生がいっていた。疑惑を持たれただけで証拠はないって」
「残念なことやな。無能な連中のせいで犯罪者がこうして野放しになった」
「……お父様、開き直ってないで、なんとかゆってくださいよ」
納月が声を荒げた。「殺した。本当に。どうしてそんなこと!おまけに、強姦してだなんて最低最悪のクズですよ……」
「納月ちゃ──」
「何が悪い」
母の言葉を遮って父が開き直りを続けた。「無防備な女が目の前にいた。俺に好意を寄せる女だった。少し可愛がってやった。すると抵抗した。呼応して殺した。自白は相手の印象を操作、結果的に不起訴へ持ち込むための布石。疑わしきは罰せず。ダゼダダ司法の仕組を利用して結果は『この通り』。以上だ」
父を見つめていた母が、音羅達を向く。
「納得はできましたか」
納得。
できるわけがない。
一方で、どこを問い質しても答が変わることはないと判る。いつか訊かれることを想定して用意していたかのように、父の回答には隙がない。父がその気になれば、捜査や聴取に関わる人間の心理を操って無罪放免となることなど簡単だろう。三姉妹はそう考えた。
「ママは、どう思う。パパがそのひとを殺したってこと、知っていたの」
「知っていました」
「……結婚前から。わたしが生まれる前から」
「はい」
「隠された理由があるんじゃないのかな。ママは犯罪者が好きとか、そういうことはないと思うんだけれど……」
「私はオト様に付き従うと決めております。この件については、オト様が仰ることが全てと捉えてください」
「本当に。これが本当の本当に事実、ってこと」
「長い」
父が溜息混りに。「部外者にだらだら質問するな。当事者の俺以上に事の真相を知るもんがどこにおる。ふむ、被害者がおるけど、死んどるから口は開けんな」
「っ……」
父の物言い。理想としてきた優しい父は、愛した父は、完全なる虚飾だったということか。残りの質問の答も出たようなものではないか。
……でも、聞かなければいけないんだ。
知らなければ、みんなに説明ができない。
みんなが納得して受け入れてくれる道は最早ないように思えたが、せめて音羅達だけでも廉潔で存らねば。
「次です」
子欄が継ぐ。「佐崎さんの失踪に、お父様は関わってますか」
「容疑が『拉致したか』などの意味なら、関わっとらん」
ここまで来ると、それは意外な回答に思えたが。
「……じゃあ、佐崎さんの暴行に荷担してないんですよね」
「いや、間接的に荷担しとる」
暴行に、間接的に荷担している。つまり、
「暴行を『見て見ぬふりをした』、『知っていて見逃していた』。どっちですか」
「後者だ。目撃はしとらんが助けてはやらんかった」
「そんな……そんなのって……」
これが父か。ひとを助けるためなら魔法を使ってもいいとした父か。暴行に苦しむ文也がいたはずだ。血を流した文也がいたはずだ。それを察しながら助けなかったのか。なんということだ──。音羅にその手段があったなら必ず助けた。父は、助けなかった。
三姉妹の胸を蝕んでゆく鈍痛は、絶望感であった。
子欄が気丈に尋ねる。
「最後です。佐崎文也さんをお父様ひとりで帰しに行きましたね。それはなぜですか。一昨日の言葉なら『大人に任せなさい』でしたね、それが真意ですか」
「苦悶するといい、そんなもんは噓に決まっとるんやから。俺が自分の思う通りに暇潰しするための言葉遊びに過ぎん」
「どこが言葉遊びですか……」
子欄が、肩を抱き、口を噤む──。
納月が剝き出しの怒りをぶつける。
「お父様はわたし達のことも騙して鼻で笑ってたわけですよ」
「半端な大人や悪い友人に騙され絶望する。肯定的なことばかりやないんよ、世の中は。撓るように受け流すといい。最悪の結果は避けられるやろうよ」
「とっくに最悪ですよ!因果の糸を辿って佐崎さんを捜したってのはフェイクですよね」
納月が指摘した。「お父様はそれ以前から佐崎さんの居場所を心得てた。それだからこそ、暴行を看過できたんでしょう」
納月や子欄も文也を捜索するための情報拡散を行っていた。学園長の募った捜索隊や教員、広域警察、延べ二〇〇〇人以上が文也を捜索し、巴や雅が心待ちにしていた。父はそんなひとびとの気持を無視していた。音羅が看過できないのは、
「花さんの気持まで弄んでいたなんて……」
文也を真剣に心配した花の気持まで父が嘲笑っていたことだ。
……許せない!
我慢の限界だ。
バンッ!
テーブルを叩いた。が、音羅ではない。大人しく礼儀正しい子欄が、だった。子欄としてはあり得ない暴挙。我慢の限界だったのだ。それでも飽くまで冷静に子欄が促す。
「広域警察に自首してください。わたし達のできる最大の譲歩です」
父が含み笑いとともに言い放つ。
「証拠がなければ裁けんよ」
皆が目を見張った。まさか証拠を隠滅し、罪に問われないと言うのか。強姦殺人容疑と同じように、文也の件も逃げ遂せると。
「この世界は幻のように穴だらけ。俺のような化物がのうのうと生き存えられるようにできとる。お前さん達は、そんな化物の子どもとして生きてく宿命だ」
「……理不尽だ」
音羅は、子欄の手に手を重ねて、身を乗り出して父を見下ろした。かつて愛した父は、そこには一片も残っていない。容赦などしない。
「自分で行かないなら、わたしが連れていってあげるよ。歩けない。歩かない。なら首輪をつけてでも出頭させてあげる。それが娘としてできる償いだ。裁かれなくても行動はみんなに伝えられる。わたし達はパパの罪と無関係だって証明できる、証明しなくちゃいけないんだ!」
「理解は浅いが決断やよし。──ふむ」
顔を上げた父が、それに、母が、同時に東を振り向いた。
それから間もなく、音羅も、感じ取った。
……な、何。
妙な、異常な、いや、表現のしようがない感触。先の話からの影響もあるだろうが苛立ちを増幅するような気持の悪い接触感。
……ふらついて、は、いない。頭が揺れたみたいに感じる。
この感触は、なんだ。
「魔力流動……。アレに似てるけど、もっと重くて、纏わりつくような……」
と、納月が表現した通りであった。感触の正体は魔力の流れ。重い波が押し寄せるように、東方からやってきている。
父が頰杖をついた。
「何かお気づきの点がござりますか」
「羅欄納は仕事の準備をしやぁよ。生計が立たんし」
「ですが──」
のんきにやり取りしている場合か。音羅は、感じた。この魔力流動は、負の感情に満ち満ちている。
「ママ、なっちゃん、しーちゃん。パパが逃げないように見張っていて」
言うや音羅が外へ飛び出していった。
「音羅ちゃん……。オト様、私達も──」
「必要ない。広警が動き出した」
父が腕組をして、「面倒なこった……」と、呟いたようだった。納月は音羅ほど耳がいいわけではないので聞き間違えかも知れないが、一縷の望みを託して父を窺う。
「お父様。開き直ったり、悪態をついたり、全部、演技なんてことないですよね」
答えたのは母であった。
「一部は真実です」
「一部……」
子欄が直立。「何が、真実ですか」
母が、父を伺う。
「斯様な噓、つき通せそうにございません。話をしてもよろしいですか」
「止めん限りは自由にしていいよ」
父がそう言って東を視ている。無表情だが、魔力流動の源を睨み据えるよう。
その傍らで、母が口を開いた。
「強姦殺人、それは現実に起きました。しかしながらオト様は強姦をしておらず、被害を受けた当時の恋人の……願いで、殺害したのです」
「被害者が、お父様の恋人……。それが、本当に、本当のことなんですか」
納月は訝しむ。「正直もう、何が真実で何が噓でも、信じらんない気分です……」
「きっと、混乱している中でしたからね。後後頭の中を整理してください。そのときに真実を見つめられるでしょう」
「待ってください」
子欄が口を挟む。「噓は、それだけなんですか」
「……はい。ほかのこと、感情を除いた経過はオト様が仰った通りです。少なくとも私はオト様から左様に伺いました」
子欄が父に詰め寄る。
「だとしたら、やはり佐崎さんの暴行に荷担していたということ……。それは、否定しないということですか」
「否定せんよ。その当時に佐崎文也とは承知しとらんかったが、ダゼダダ内で二度の空間転移が発生した。空間転移先に監禁されて長らく動かずにいた経過も感じとった」
「……そうか、佐崎さんは有魔力。魔力反応で居場所を──」
「気づくのが遅い」
と、父が溜息。目線は東のまま。「そこに気づいて突っ込んでくれば多少真実を話さんでもなかったがな、お前さんらの洞察力が不足しとるようやからそれなりに対応したまでのこと。見えるもんにしか見えん事実がある。と、いうことだ」
……そういうことですか。
少なくとも父は強姦をしていない。……被害者を救うためなら、殺害すらお父様らしい。
佐崎文也の動きを把握するのも父なら可能だろう。
「が、改めていうまでもないが証拠はない。俺を疑うことを忘れるな。予めいっといたるが、まだ真実を伏せとるからな」
「わたし達が辿りつくまで話す気がないんですね」
納月はそう理解した。先の回答に噓がないと言い、真実を伏せていると言った父なので、今は全てを進んで話すつもりがないことも推測できる。
「プウさんが魔物の疑いを掛けられました。町は聖域で魔物は入り込めないからデマとわたしは判断してたんですけど、そういう魔法学的知識の応用編みたいな返しができなくてお姉様は非難されたでしょう……。この際ですから、プウさんの正体を教えてください」
野原花が表したように精霊か。言葉を発せず、子どもあるいは赤ちゃんのように動き回るプウの姿は家でも学園でもよく見られた。精霊結晶に宿っていた闇の精霊を思い起こすとプウが同じ精霊だとは考えにくかった。かと言って聖域であるダゼダダ中央県に魔物が入り込むことは考えられない。では、何者か。明らかに人間ではない。ヘビという爬虫類動物であるなら先天的に聴覚がなく音羅達の言葉を理解したかのように食事を摂ったりせず、火の粉を散らして出没することができない。これらの要素から、プウは魔法に関わる何かであると推察できた。
父がテーブルをとんと指で叩くと、ほわりと光を膨らませて現れた結師が櫛を杖にして、大袈裟に構えた。
「正しき髪結、正しきんんっ──」
結師の口上を指先で制した父が、話を再開する。
「俺は、この子らを〈分祀精霊〉などと呼ぶ」
「分祀精霊……」
「あら、その話をしてたのぉ」
結師がぴょんぴょん跳びはねる。「やっとわたし達の存在を再確認するのね、娘さん達ぃ」
隠してはいなかった、と、いう姿勢の結師を納月は凝視した。三姉妹の中で唯一の癖毛で毎朝髪を梳いてもらっている納月は特別結師と付合いが多い。いることが当り前でわざわざその存在の定義を考えたりしなかった。姿形がプウとは異なるものの、手乗りサイズであったり、神出鬼没であったり、共通点があるから同類だろう、とも、考えつかなかった──。気づいたからには尋ねねば。
「いまさらですけど、結師さんは何者なんです。分祀精霊っていったい……」
櫛を杖のようにしてテーブルを突き、結師がでんっと構えた。いつもコミカルに振る舞う彼女だが、その所作には後光が射しているようで、
「天の贈り物。あらゆるものから生まれたモノであり、祀られるがゆえに神である存在」
声音も厳めしかった。「八百万神社を知っている」
「ええまあ、この辺りにもたくさんありますし、(お父様は引き籠もってましたけど)年末年始にお参りにいきました」
「わたしは要するに、そこで祀られている特殊な精霊よ」
「あ……、なるほど、祀られて、崇められているから、神──」
あの闇の精霊のように山に埋まるなどして自然界に住んでいる場合はただの〈精霊〉だ。八百万神社で祀られることで本尊すなわち神と定義される存在に変わる。そうした特殊な立場にある精霊を、分祀精霊や単にギフトというそうだ。
「要するにプウさんもギフトだったんですね。野原さんが推測した精霊ってのは当たらずといえども遠からずだったわけか……」
「わたし達は認めた相手にしか力を貸さないしサポートもしないのよぉ。あなた達が毎日髪を梳いてもらえるのはわたしが音を認めているからということでもあるわねぇ」
「頼んでないですけどね」
「あらつれなぁい。音の遺伝子がちゃんと受け継がれてるわねぇ、うん、うん」
「……」
納月は、子欄と一緒に父を一瞥して、結師を見つめていた。
「哀れむような目ねぇ」
「お父様についてくのはやめたほうがいいと思います」
納月は、真剣に言った。けれども、結師もまた真剣に微笑んだ。
「昔っからそういう目で見られちゃうのよねぇ」
「え──」
「あなたもステキなぼさぼさよ、納月。機会があればまた梳くわねぇ」
「あ……」
光を散らして結師が消える。と、気持の悪い魔力がどっと流れ込んできた。
……結師さんが神というのは納得です。
現れただけで邪悪なものを退けているのだろう。今の今まで、すぐ近くで妙な魔力流動が起きていることを忘れていた。
八百万神社に祀られている分祀精霊。プウがそれであることが判ったから、状況がやや好転した。ダゼダダ人は古くから八百万の神、言うなれば分祀精霊を信仰している人種である。信仰対象であるプウを粗末に扱うわけがないし、プウに認められたであろう音羅を蔑ろにするはずもない。懸念は、プウが姿を消していること。危険な存在と憶測された状況ならプウ消失は安心材料と捉えられるが、信仰対象と判明した状況で消失が続けば旗色が悪くなるだろう。
納月は魔力流動について触れることにする。
「この魔力流動、佐崎さんと関係があったりしますか」
「疑わしいやろうけどそこは正直に答えよう。『ある』」
「なんか、嫌な予感がしてます」
一度遮断されて再び体感したから余計に感ずる。「お姉様、直感的にそれを察したんでしょうか」
「さあね」
「追ったほうがいいですか」
「さっきもいったが広警が動いとるから心配要らん。間違っても音羅の身になんかが起きるわけやないから、お前さん達は勉強しぃ」
「……信じていいんですね」
納月は、子欄とともに父を見つめた。
一度だけ、視線が返ってきた。
「今いったことについてはね。義務教育であっても俺は登園を強いんから自由にしぃ」
父が東へ目を向けて、瞬きすらしない。
納月と子欄は顔を見合わせ、父、それから母を見て言った。
「お姉様の様子を観てきます」
「同じく、行ってきます」
ホムンクルスだの改造人間だのというデマめいたことはまたあと。音羅や佐崎文也の状況が気に懸かる。
家を飛び出すなり東へ向かった。その途端、風に煽られた。ダゼダダの朝は冷気が立ち込めて寒いくらいなのに、この風は熱い。
音羅は少しだけ魔力を解放して魔力流動を和らげると、東へ突き進んだ。
進めば進むほど風が強くなる。魔力流動は主に魔法によって起きるので、原因はこの不自然な風ということか。熱い風というのは魔法ならば起こり得ないことではないが、いつか翼が見せてくれたような攻撃的な力を伴っていないのはどういうことか。普通の魔力流動にはない、重く纏わりつく感触も不可解だ。
……こっちって──。
ここを、音羅は何度も通ったことがある。
……文也さんの実家のある道だ。
偶然の一致か。しかし、もうすぐ文也の自宅。その近くに魔力流動の発生源がある。
……偶然じゃない。きっと、何か関係している。
文也の身に危険が及んでいるかも知れない。意識がなくても生きている。助けないわけにはゆかない。音羅はそう思った。
魔力流動の発生源。そこには、
……そんな……。
火炎旋風を身に纏って暴れる文也がいた。……意識が戻ったの。いや、でも、あれは。
錯乱しているのか。火炎弾を放ち、足下からは植物の根のようなものが躍り出て文也の自宅はおろか周囲の家屋をも破壊、植物の根が送り込む火炎旋風の熱が延焼を加速させる。言葉が乱暴だったり喧嘩腰なところがあったりした文也だが、気が狂ったように破壊を愉しむ少年ではない。友人と肩を寄せ合って笑い、恋人と睦まじく手を繫いで照れていた、根は素直な少年だった。今の彼に、その面影はない。
……それに、妙だ。
精神力欠乏によって長時間の運動もできないはずの文也が、なぜあれだけの魔法を使っている。身体強化効果も持って一時間程度だと言っていたのに、精神力消耗が激しい魔法を乱発して大丈夫なわけがない。
……止めないと、命が危ない!
音羅は突撃を仕掛ける。行く手を阻む植物の根を音羅の炎で焼き払うが、次次に地中から突き出てくる根に隙を衝かれ、文也と距離を離されてしまった。動きが軽くなめらかだが、根の打撃は花の拳に似て非常に重い。
……近づけない!
音羅にも精神力消耗がある。焼き払っても這い出してくる根を焼き払っていてはすぐに精神力が枯渇してしまう。
……冷静に、見極めないと。
救えるものも救えない。
火炎弾や火炎旋風、植物の根。それらから魔力の流れを感ずる。魔法で動いているから魔力流動を起こしている。だが、失踪前の文也は炎属性の魔力しか宿していなかった。木属性の魔法は使えない。植物の根を誰かが動かしているのなら、そちらを対処したほうが文也に接近しやすくなるだろう。
音羅は、植物の根を動かす魔力の発信源を探り、己の感覚を疑った。
……変だ、これって……。
文也の体から炎属性とは別に木属性魔力が発せられている。
……短期間で木属性を宿したのか。そんなの、変なんじゃ……。
納月や子欄のように魔法について熱心に勉強していないので音羅は明言できないが、炎属性の有魔力が別の属性魔力を宿すことはあり得ないことではない。ただ、納月達の魔法に関する勉強内容について音羅はこう聞いたことがある。「音羅は炎属性魔力を宿して生まれたので、次に宿すとすれば水・風・光・聖いずれかの属性魔力だ」と。また、「普通は生まれ持った一つの属性魔力だけで終りだ」と。
つまるところ、一つの属性魔力を宿しただけで一生を終えることがほとんど、と、いえる。
……パパやママならいざ知らず。
強大な魔力を持って生まれた者なら短期間で別の属性魔力を取得することがあり得る。その代表例が音羅の両親。文也の魔力は一般的な強さであるから、比較対象を音羅にして考える。一般的有魔力より圧倒的に強い魔力を有する音羅でも炎属性魔力しか宿していない。文也が別の属性魔力を宿すことは考えにくいのである。
だったら、あの文也はなんなのか。錯乱して、火炎弾・火炎旋風・植物の根を同時に操るあれは、本当に文也なのか。精神力だって、とうに底をついていてもおかしくない。
……魔力反応は、確かに、文也さんだ。でも、なんだか、違う。
木属性魔力。それが、文也の個体魔力を歪めているように感ずる。理由は定かでないが音羅は可能性を見出す。
……もしかして、木属性魔力が文也さんをあんなふうに錯乱させている!
放っておいたら命が削られてゆく。……木属性魔力をどうにかできれば、なんとかなるかも知れない。なのに──。
その術を、音羅は知らない。木属性魔力が本当に文也に宿っているのか判断しかねる。そんな状態で下手に手出しするのは危険な予感もした。
手がつけられないまま、音羅は誰かの手に引かれて後退させられた。
「危ないから下がりなさい」
広域警察だ。紺色の制服に身を包んだ男性が音羅を庇うようにして後退、その間に別の警察官が文也を取り囲む。水属性魔法によって火炎旋風を抑え込んで植物の根を切り裂いて文也を取り押さえんとするが、湧いて出る植物の根が警察官の腹を貫いて突き放す。火炎旋風のような血飛沫とともに警察官が次次地に叩きつけられる。切り裂かれた分だけ根が増え、炎を反射するぎらぎらした赤い池が広がる──。
「文也さん、やめて……!」
観ていられない。
再び巻き上がった火炎旋風が赤い池ごと倒れた警察官を舐め、周囲の家屋をも吞み込んでゆく。命を削る精神力消耗、警察官や周辺住民を傷つける行為、全てが文也の負債になってしまう。望むはずのないことが、起きてしまっている──。
「文也さんッ!」
一か八か文也を力づくで取り押さえよう。音羅は、自分を守ろうとする警察官を押し退けて踏み出した。
「ッ!」
火炎旋風を魔力で押し退け、植物の根を打ち据え、文也のもとに駆けつける一歩手前で、
ギィィーッーーーーーッ!
……っ!
文也の脳天を光の刃が貫き、一線上の地面に突き刺さる。耳を衝く破裂音の直後、衝撃波が文也とは逆方向へ音羅を吹き飛ばした。
音羅は受身を取って、魔法の軌道から推測した光魔法の発射地点を振り向く。延焼していない家の屋根に、文也のほうへ手を翳した黒服の男性がいた。
……あのひとは、広警の署長だ。
天白和、彼が暴走を止めた。文也を殺めることで。
そう思った矢先、後方から熱風が吹き抜けた。
振り返って、音羅は言葉を失った。
頭を光で貫かれている文也が磔状態で両手を掲げてなおも魔法を操っている。
人間なら脳を攻撃されては生きていられない。
……どういう、こと。
息を忘れた。
文也は人間ではないのか。それはない。あるはずがない。精神力欠乏で苦しがっていた。大切な友達や恋人と支え合って、稽古に励んでいた。ワタボウやプウと触れ合って笑っていた。あの姿が何よりの証拠だ。文也は、人間だ。
……あの木属性魔力。あれが全ての元凶なのか。
そうは思うも、……どうすればいいの、文也さん──。
「音羅や、下がるんじゃ」
「っ」
どこからともなく現れた糸主が音羅の腰に糸を巻きつけて西へ引き寄せる。
と、同時に、天白和が文也に追撃を開始した。両手に携えた銃剣を盾に熱風を裂いて文也に近接、首を刎ねた上で心臓を貫き、体内に銃弾を何発も、何発も、執拗なほどに撃ち込んだ。
がくがくと震えながらも天へ向けられていた文也の手が、次第に下がり、ゆらりと垂れ下がった瞬間に火炎旋風が植物の根ともども消滅した。魔力流動も治まり、熱風もまた治まった。
ドッ……──。
崩れ落ち、また落ちた文也を、音羅は──。
……あ、ああ、あぁ…………。
傷の手当を終えた警察官が水魔法を再び繰り出して、延焼を抑え込んでゆく。その傍らで、文也は微動だにしなくなった。
……こんなことって……。
「音羅や」
「!」
音羅は糸主を払い除けた。
「ぐっ……、音──」
「放っておいて」
「……うむ」
糸主を見もせず、音羅は、両手をついて項垂れた。
なんなのだ。ひと一人があんなふうに痛めつけられて、殺されるだなんて──。
文也の自宅が全焼している。文也の帰りを待っていた両親は、花は、みんなは、このさまをどう思う。
……なんで、こんなことに。
思い起こされる、父の言葉。
──俺は、捜索を勧めん。
こうなると父なら判っていただろう。可能性の一つとして父なら予測していただろう。それなのに、父は見過ごしていた。
……──。
だとしたら、納月や子欄、花、学園のみんなも、捜索に携わったひとびとも、〈竹神音〉という化物に翻弄されていたということだ。一番の被害者は、錯乱のすえ無慈悲に殺された文也と、文也を育ててきた両親だ。
……許せない……。許せない、絶対!
軋むほどに拳を固めた。赤い池が広がってゆく。確かに生きていた彼を、救えなかった。
歩み寄った天白和が、音羅を見下ろす。
「君は竹神の娘だな。こんなところで何をしている」
「魔力を辿ってきました。彼は……わたしの後輩です」
「……気持は察しよう。観ての通り家屋が倒壊するおそれがある」
魔法が治まっても燻る火がパチパチと、折れゆく木材がミシミシと、音を立てている。後退を促された音羅だが、一つだけ心配があった。彼のご両親は無事なんでしょうか。そう問おうとした。
「焼死体、二体発見!搬送を!」
焼け落ちた文也の自宅から、そんな声を上げる警察官が這い出てきた。次には、別の家屋から焼死体の発見を知らせる声、声、声……。
……、……これも、それも、どれも、全部──。
父、竹神音のせい。
「大丈夫か」
「平気、です……」
よろめいた音羅は天白和の手を借りるも、すぐに力が抜けて座り込んでしまった。息が、できない、頭がぼやける、くらくらして、景色が黒く塗り潰されてゆく。
「お姉様!──」
「──」
声も、音も、遠退いてゆく。
音羅が倒れた。佐崎文也の切断遺体が目に入って納月は総毛立ち、吐き気を催した。状況は察するに余りある。子欄とともに音羅を抱えた納月は広域警察本部署長天白和の指示もあって退避、急いで自宅に戻った。
納月は学園でのことを改めて伝えつつ、母に音羅の様子を診てもらった。音羅が倒れたのは心労だろうということであった。
そんな中でも父はテーブルに突っ伏して、音羅を心配せず、見向きもしなかった。母の証言で強姦容疑は晴れているが。
……。
姉音羅が倒れたのは、信じていた父の裏切りと文也の死が立て続いたからと考えて間違いないだろう。姉を追いつめ、心配もせず、怠惰を貪る愚かな父など信ぜられない。
「お父様……、ちょっとぐらい、動いたらどうなんです。ねぇ!」
音羅が横になっている傍でテーブルを叩いたりはしない。が、納月は静かに、父に詰め寄った。すると、
「じゃ、あとはお前さん達で頑張りぃよ」
「え──」
動くはずがないと高を括っていた。納月も、子欄も、母でさえも、驚いて身動きできないあいだに、父が家を出ていってしまった。まるで、帰る予定がないかのような雰囲気だった。
納月達は遅れて玄関へ向かったが、閉まる扉を垣間見るのみ。扉を開けて外を見るも、父の影も形もなかった。
佐崎文也の暴行を看過していたような父だ。ひとの命をどうとも思っていない、幼い頃の父とは異なる、危険な父だ。もし一時の外出でも居場所を突き止めなくてはならない。
母なら父の行先を知っている。そう考えた納月だったが、手狭な玄関ホールでいつまでも扉を見送る母の目は動揺に揺れていた。
「お母様。お父様、どこへ行ったと思──」
どっ。母が崩れ落ちた。「お母様っ」
「……」
言葉を失ってなお扉を見つめる母が、やや引き攣った微笑で、「な、なんでしたか、納月ちゃん」
母が、言葉を聞き漏らしていた。そんなことは初めてだった。納月は、感じ入った。母も、父に裏切られたのだと。
……わたしはいい。お姉様や子欄さんでも、まだ、百歩譲って許します。けど──。
父は、誰よりも大切にすべき母をも裏切った。
信ずる者をことごとく切り捨ててゆく。
父としても、男としても、人間としても、見下げ果てた。もはや家族とも呼べない。
納月は、子欄とともに母に手を差し伸べた。
「お母様、立てますか」
「……はい」
茫然自失の母。座り込んでいることに、自分の脚を観てようやく気づいたようだった。
「っふふ、……少し、待ってくださいね」
床に手をついて、それから壁に手をついた母が、ゆっくりと立ち上がって、寝室へ向かう。いつもと変わらないような足取りが思い做しか不安定な足場を行くように危うげに観えた。納月と子欄はついてゆく。眠る音羅を見つめてしばらく瞼を閉じ、太股を押さえていた両手をお腹の前で合わせた母が尋ねる。
「納月ちゃん、子欄ちゃん、学園へ行きますか」
今日だけではなく、通える日に通うか、と、いう問掛けだ。
「わたしは……行きますよ」
と、納月は答えた。音羅が父のことを告白した二年前の夏は好意的に受け入れてくれたひとからそうでないひとまでいろいろだったが、時間を掛けて理解を深めて受け入れないひとが少数というところまで状況が回復した。四箇月間で築いた生徒との関係や学園での実績、三大新入生の肩書もあってのことだろう。今回は、三姉妹のことをほとんど知らない新入生までが悪名高い竹神音のことを聞いてしまった。関係も実績もなく、三大新入生の肩書も意味を成すか不明。音羅の話から察するに、格闘部では佐崎文也の件で一部同級生からも否定的な目差を向けられていた。信頼回復は、厳しいだろう。
そんな中で学園に通うと決めたのは、納月は飽くまで納月だからである。母どころか姉妹と比べても能力に劣るが、登園を避けるのは父の罪を背負うかのようで嫌だった。
「わたしも行きます。でも、」
子欄が音羅を心配する。「目覚めたとき独りだと、心細いでしょう」
家に残るのだろう。
「お母様は仕事、行くんですか」
と、納月は窺う。「お父様、捜したりします」
「依頼が入っているので仕事は参ります。オト様のことは……行先を調べてからに致します」
闇雲に捜したところで見つからない。佐崎文也のように連れ去られたりすることは絶対ないだろうが、
……お父様が簡単に自分の行動を摑ませるとは思えません。
結師たち天の贈り物を授かった力。能力が上がることはあっても下がることはないだろう。人助けのために魔法を使わなかった父が、自分のために魔法を使うのだとしたら絶対に誰にも捕まらない。納月はそう思ったのである。
部屋が静まり返っている。音羅の苦しそうな寝息。怒りに震える納月の衣擦れ。答を手繰り寄せるように考え込む子欄の溜息。そこにあるべきオトの息遣いがなくなって。
オトがいなくなった理由を考える上で、彼の最後の言葉はヒントだろう。ララナ達で頑張ること。それはなんだ。一昨年の夏、ララナや娘、新しい家族のためテラノアへの攻撃をやめたオトが倒れた音羅を見捨てるように出ていったのはなぜだ。
──佐崎文也さんの捜索に、手を貸してあげませんか。
ある日、そう問いかけたララナに、オトは応ぜず──。
瞼を開いたララナは、納月、子欄をそれぞれ観た。
「少し質問です。二人は、私とオト様から継いだ記憶をどれほど思い出せますか」
「『お父様とお母様の記憶』」
双子でもないのに声が揃った。顔を見合わせる仕草まで鏡写しのようになった二人である。生まれてしばらくは色濃く残っていた継承記憶。時間経過とともにほとんどが薄れると確認したそれを、納月や子欄はどれほど覚えているのか、ララナは気になった。
この状況は極めて深刻なのだ。
張り紙によってオトのことが最悪の形で知れ渡っただけでなく、音羅達の出生についても批判的に観る者が出てしまっている。プウへの疑いは晴れるだろうが、ときに噂が事実を覆してしまうこともある。音羅達を苦境に追いやることが目的の情報発信源がいたとしたら、恐れから拡散された不実ほど質の悪いものはないといえる。
そんなときに限ってオトが動き、ララナにも予告なく家を出たのは、音羅達の成長の機会と捉えたからだろう。ひとは、弱い。独りではどうしようもないことがたくさんあるから助けてくれるひとに縋ろうとしてしまう。音羅達に取ってはオトが救いをくれるひとだった。張り紙をきっかけとした苦境が父オトのせいであると肌で感じて責任を負わせようとしていた。オトの責任も皆無ではないため音羅達が広域警察に突き出そうと考えたのも理解できるが、それで音羅達への非難が根本から消えることはない。此度の非難は、生まれ持った異質に対する不安や恐怖に等しい。音羅達が自らの意志でみんなとの和に踏み出して理解されないと蔓延した不安や恐怖は消えない。異質なモノに対する厳酷さが音羅達の人生には付き纏う。それがいま起きたに過ぎないのに、ララナ達が一回一回音羅達の手助けをするわけにはゆかない。それに、オトに罪があっても──、解放されるのが落ちなので警察組織へ突き出すのは無意味。その選択を続けても、自身らとオトの異質性を切り離す現実逃避にしかならず、音羅達は成長できない。だから、安易な逃げ道を完全になくし、別の解決策に目を向けさせるためにオトは出ていったのだろう。
音羅達が頑張らなければならないように、ララナも頑張らなければならない。オトがいなくなって一瞬、いや、今も動揺している。考えてみれば道はある。そのための先の質問である。ララナとオトから継いだ記憶を、納月や子欄はどれほど思い出せるか。その度合によって娘がこの苦境を堪えられるか、成長できるか、見極めるのである。もしも継承記憶が強く残っているなら娘自らが積んできた記憶と経験で乗り越えたことにはならない。その逆なら、逃げ道に頼らず、出生の特異性に卑屈になることもなく、娘は大きく成長することができる。
納月と子欄が記憶を探って、時計の針が動いた。
「特には思い出せませんね」
と、先に納月が答えた。「なんかあったような気がするんですけど、……なんでしたっけ」
「わたしも」
と、子欄が腕組。「確か、わたしは弓の経験的な記憶が残っていたはずですが、いつからか的を外れるように……。最近まともに射ることができるように修正できましたが、……それがどうかしたんですか、お母様」
「ちょっとした確認でした」
音羅はまだ定かでないが、二人とも苦境を自らの足で乗り越えることになる。その背を押すのは少し苦しくもあるが、成長著しい二人のさらなる成長を、ララナは願っている。
「オト様の居場所に繫がる記憶がないかと思ったのですが、他力本願ではなりませんね」
「そういうことでしたか。って、お父様の記憶を引き出すんなら本人から聞き出したも同然ですから他力本願とは違うような気もしますけどね」
と、納月が微苦笑した。「ったく、使えない継承記憶ですねぇ。広警に突き出そうにも突き出せないなんて……」
「お姉様、そうかりかりしないで。思い出したことがあればお母様に知らせればいいということでしょう。そうですよね、お母様」
「ええ」
二人がオトの居場所について思い出すことはないとララナは悟っていたが。
「……と、いうか、なんか暑いですね」
と、納月が言った。
納月と子欄の肌に汗が滲んでいることで間接的に認められるが、ララナ自身は障壁に覆われているので体感で把握できない。遅ればせながら魔力環境の変化で室温上昇を察した。
「クーラが切られているのでは」
ダイニング南大窓の上方に設置されたクーラを子欄が覗いた。「ほらお姉様、ランプが点いてません」
「ホントだ。あのグータラ親父、出てく前に透かさず切ってったんですか。お姉様がこんなときに追打ちかけやがることを……」
と、文句を垂れる納月だが、リモコンの電源ボタンを押して、「あ、あれ、電池切れてません、これ」と、何度もボタンを押すが意味はない。当然だ。
「入っていませんよ」
と、ララナはリモコンを受け取って、電池ボックスを見せた。
「空っぽ……。じゃあ、お父様、どうやって切ってったんです」
「クーラはもともと点いていませんでした」
テレビラックに置いていた替えの電池を入れて、ララナはクーラを利かせた。
室内温度の上昇理由を察した子欄が窺う。
「室内温度がいつも一定だったは、お父様の魔法だったんですか。だから、お父様が出ていった途端、上昇し始めて……」
「オト様の魔法なら、少し離れたくらいでは消えないでしょう」
「では、なぜ」
と、子欄が首を傾げる。
「結師さんが現れたとき、魔力流動が遮られていたのを感じませんでしたか」
「感じました」
と、納月が言った。「あれは結師さんの力でしょうけど──、室温は誰が」
「クムさんの力ですよ」
「『クムさんの……』」
生息域を適した環境に調える力をクムは持っており、香りもその一種だ。力を貸した相手がいる場合その者の住む環境を最適化でき、クムの場合、オトの指示に従っていたことだろう。
「……わたし達のこと、ずっと守ってくれてたんですね」
子欄が呟く。「全然知らなかった……」
感動すらしている子欄に対して、納月が夜の砂漠のように冷めている。
「つまり、今は守るつもりはないと。見捨てたわけですよ……。お母様、気は解りますが、お父様に入れ込むべきじゃないです」
「私の感情は私のものです。『べき』などと決めつけられたくはございません」
厳しいようだが、ララナはオトを信じている。
「……そうですか、置き去りにされてショックを受けてたのに、立ち直りが速いんですね。演技だったんですかね、さっきの」
納月が疑うのも無理はない。人間不信に陥っていてもおかしくない状況であるから、ララナは咎めない。テーブル席のように斜めに対されていたとしても、常に面と向かって話す。
「私はどこにも行きませんので咎めたくば咎めてください。いくらでも聞きます」
「……、……すみません、いいすぎでした」
「謝る必要はございません」
惑っていることを納月自身が一番理解しているだろう。それも納月が乗り越えなければならない苦境だ。ララナは見守るのみである。
「子欄ちゃん。今日は音羅ちゃんのことを観ていてくれますか」
「はい」
音羅の体内を巡る魔力の乱れが精神的ダメージと動揺の顕れ。横にしてから随分と落ちついてきているので、目覚めるまでそれほど掛からない。独りにして妙に考え込んでしまわないようララナは子欄の申し出を聞き入れた。
納月が学園に向かうのを見届けたあと、ララナはお菓子作りを終え、いつも通り出勤した。
……私も乗り越えなければなりません。
苦境に、学業に、娘が集中できるようにしたい。オトが戻ってきたとき、彼が望まぬ状況に陥っているようなことだけは避けたい。
オトの行動や思考について懸念がないわけではない──。が、彼が何を思い、何を考えていたとしても、それがララナたち家族を蔑ろにした結果を生むためのものとは思えない。ララナはララナのしたいことをする。三年前と同じだ。距離が離れていたとしても、心が通じ合っていなかったとしても、突き放されても、嫌われても、ララナがしたいことは何も変わらない。
オトの行先に心当りがないので身一つで捜すのは難しい。テロや再建などで大変だったので瑠琉乃に人員を借りるのも控えたい。彼が魔力を発するのは不意に眠りに落ちたときや意図的に発したときくらいだが、そのわずかな手懸りを得られるよう魔力探知を惑星アース全域に掛けておくのがいい。精神力を長時間消耗するので、もしも、そう、万一、オトが帰る気がないのだとしたら押しかける算段も必要だ──。
……、……私は、相変らず待っていられないのですね。
気持の軟弱さや自信のなさは情けないが、掛けるべき保険を掛けないのは危険だ。オトがじつは、「いっぱい捜してくれないなら帰らないよ〜」なんて、捻くれた考え方をしているかも知れない。娘は聞きたいことが山積みであろうし、そういう意味でも居場所の把握はしておくべきだ。彼の魔力を探ることをララナは決めた。
戦争の機運が高まった頃、ララナはオトに、「その日が来たら、ご帰宅をお待ちしております」と、言った。戦争ではないが今がそのときなのかも知れなかった。ララナはオトとは違う。家に引き籠もっていることができない。待ちながらも待つだけではいられない。そんなことは、オトもとうに知っているだろう。
……必ず見つけますよ、オト様。
彼曰く押掛け女でストーカ。そんな呼称に恥じない働きを見せなければ、彼を裏切るようで悔しかった。
──二七章 終──




