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一八章 感情論者

 

 ベッドに横たえた野原の息が乱れていないことを改めて確かめると、音羅はひとまず鉢植えに向かう。

 ……翼さんなら鉢植えの替りを持っているかな。

 初めて見た白いタンポポ。納月によれば翼が野原にプレゼントしたものである。割れた鉢植えから零れたままでは枯れてしまうかも知れないので、園芸部部長としても翼を頼りたい。

 寮全体を回ったときは不在だった翼を訪ねるべく、部屋を出ようとノブに手を掛けると、

 こんこんっ。

 振動が掌に伝わってきた。

「どちらさまでしょうか」

 と、いう音羅の返事に、

「此方翼よ」

 と、応答があった。「その声は竹神音羅さんね」

「いま開けます」

 扉を開けると私服姿の翼が立っていた。隣にいた寮母が、音羅と翼に軽く挨拶して立ち去ると、翼が口を開いた。

「昼はあなたが大騒ぎだったと寮母から聞いたわ」

「噂になっていましたか」

「ええ。野原花さんのこともね」

 翼がベッド脇に歩み、ワタボウが頭にくっついている野原を観る。「眠っているようね」

「はい」

「ワタボウがいるわね」

「はい。ワタネさんもいますね」

「ずっとわたしの肩に載っていたわ」

 ワタネが進化前に戻ったのではなく、別人ならぬ別個体ということか。それよりも、「一ついいですか」と、音羅は翼に切り出した。

 翼が振り返り、机脇に目を落とす。

「鉢植えのことかしら」

「はい……」

「萎れている」

「替りの鉢植えはありませんか」

「別館ね」

 外はもう冷え込んでいる。休校期間中も部活動をしている部は多いが、制限時刻を過ぎた今は学園に入ることができない。鉢植えは後日買い替えるしかないか。

 鉢植えを四方八方から観て翼が手を打つ。「応急処置ならできるわね」

「そうなんですか」

 すすすっと部屋を出た翼が寮母を呼んで一旦立ち去ると、スコップ・レジ袋・チューブ型接着剤を持って戻った。スコップで土をレジ袋に入れて上にタンポポを置き、二種の薬剤を混ぜた接着剤を空っぽになった鉢植えの断面に塗りたくって修復した。

 約一時間後、鉢植えに土とタンポポを戻すと、罅割れこそあるが立派な鉢植えだ。土はまだ水分を含んでいるので根腐れしないようあえて水をやらず、翼が机に鉢植えを置いた。これでタンポポは問題ないはずだ。

「さすがは部長ですね。手慣れています」

「なんとなくぱぱっとやればできるわ。モチベーション次第ね」

「(部長ってやっぱりすごいな。)翼さん、ありがとうございます」

「そうだわ」

 翼が野原を振り向いた。「わたしの留守に何があったの」

「宅配便の男性に野原さんが連れ去られたんです」

「視線の主ね」

「……聞きそびれましたが、そうだと思います」

 事実確認できなかったのは失態だった。ほかに視線の主がいたら警戒を続けないと危険だ。

「聞きそびれたにはそれなりの理由がある。責任を感じる必要はないわ」

「……、はい」

 青年の発言は聞くに堪えなかったというのが理由の一つだが、野原を治療するため一刻を争っていて気が回らなかった。

「通報はしたかしら」

「あ、それも……」

「場所を教えて。わたしが通報するわ」

「解りました。お願いします」

 場所を聞いた翼が携帯端末で広域警察に通報し、指先で円を作った。

「これでOKよ。犯人がとどまっていなくても、最低限の証拠は集められるでしょう」

「何から何まで、ありがとうございます」

「ひとは完璧ではない。穴に気づいたひとが埋めればいいのよ」

 支え合うこと。音羅の目指すものが、翼の言動に体現されていた。

「そうだ。翼さんはどちらにお出掛けだったんですか」

「実家よ。休校期間に何日か戻ろうと思って予定の確認をしていたのだけど、タイミングが悪かったわね。仕事の送迎はどうする」

「野原さんが休めるように手配すると父がいっていました」

「そう」

 ならば安心と翼が部屋を出てゆく。「竹神音羅さんはここにしばらくいるのね」

「はい。野原さんが目を覚ますまででも、傍についていたいんです」

「念のための警戒もあるわね。わたしは寮母にそのことを伝えておくわ。宅配便など外部の人間に注意を配るようにと」

「はい。ありがとうございます」

 翼が手を振って扉を閉めると、室外の賑やかさがくぐもった。

 音羅は鉢植えが落ちていたところを観て、部屋中央へ視線を移した。そこだけフローリングの色が剝げている。野原がここで稽古しているのだ。懸命に。

 ……どうにか、してあげたいな。

 果してその思いだけでいいのか。……野原さんも、わたしと同じように、いや、もっとたくさんの稽古をしているはず。

 生活のために収支の計算をして、仕事をして、稽古をして、疲れ果てて眠るのが彼女の日常ではないか。音羅も疲れ果てて眠ることは多いが、彼女のそれと自分のそれとでは未来に懸ける思いの強さが全く異なり、重さもまたしかりであろう。

 音羅は、〈野原花〉を知らない。

 音羅は野原を知ろうとして、しかしながら同じ立場にないがゆえに知り得ない。野原本人もそのように拒絶した。

 無論、同じ立場になど成りようがない。そも親が違う。仮に同じ貧民だとしても全く同じには成り得ない。個は個で、別の個と異なる。別の個でありながら別の個と同じ立場になるならそれは「個」ではないだろう。生命にコピなどない。

 他者を知ろうとするのは、相手に近づきたい。

 ……近く、か。

 五月頃からずっと思っていたことだ。それでも音羅が積極的行動をしなかったのは、野原が復帰を果たし、多少雑談を交わすようになって、距離が近づいている印象を持ち、「それで今は充分」と、思っていたからだった。

 ……十分じゃなかったな。

 野原からの拒絶を受けて彼女を独りにし、結果として危険を招いてしまった。

 後悔してもしきれない。

 それがたとえ音羅の責任でないとしても、野原を気兼ねなく追える立場だったらもっと早く寮に辿りついて危険を回避できた。そう思わずにはいられない。

 ……わたしは、きっと、まだ友達ですらない。

 歩み寄る心が足りなかった。知ろうとする本気が足りなかった。足りないことばかりだ。

 ……わたしは、やっぱり、もっと踏み込むべきなんだ。

 攻めの姿勢が足りない。試合ではないが、野原に防戦一方では勝ち目がない。彼女はどんなときも攻めの手を尽くすひとなのだから。

「いたのか」

 と、声がしたのは、音羅が意を決した直後である。振り返ると、野原が上体を起こして肩を回していた。頭の上には器用なワタボウ。

「野原さん、大丈夫」

「……よく解んねぇけど、怪我がねぇな。お前の魔法」

「ううん、パパのだよ。わたしは治癒魔法を使えないんだ」

「……そう。ま、どっちでもいいわ」

 野原が自分の脚を確かめるように触れて、呼吸をいくつか、溜めた。

「ピィゥ」

「ふぅふぅ」

 沈黙に堪えかねたか、音羅と野原の頭の上でそれぞれプウとワタボウが鳴いた。それに促されたのでもないだろうが、野原が口を開いた。

「あたし、汗、かいてなかったっけ。寝てるあいだに風呂でも入れた」

「ううん。パパが浄化したっていっていたよ」

「浄化……」

 母が身に纏っている障壁にも同じ機能があると記憶していたので、そこからの引用で音羅は野原の疑問に答えた。

「たぶんだけれど、お風呂に入るより綺麗になる魔法だよ」

「そんなことまでできんのかよ、あの男は」

「パパは最強だもの。って、そういうの、よくないよね……」

 有魔力であることをことさら優位なように語っては距離を置くことに等しいのではないか。音羅はそう思ったが、

「……」

 野原が掛布団を退けて、脚をベッドの横に垂らす。「いいんじゃね、別に」

「え」

「自分の父親を最高だ、って、アンタは本気で思えてて、素直にいえる。それは、結構すごいことだ、って、思うよ」

 こういっては失礼か、野原がどこか変だ。弱気というのか、いやに素直で。

 野原に歩み寄って膝をつき、音羅は目線を合わせた。

「さっきあったこと、覚えているかな」

「覚えてるに決まってんだろ。忘れようと思っても忘れれねぇ、クっソみてぇな体験だ……」

「ごめんね、もっと早く助けに入れたら……」

「付け込まれたあたしの責任だろ。それに、アイツ、あたしの放送の視聴者だったんだよ」

「だから、野原さんを狙った」

「身から出た錆ってヤツだ。だからアンタの責任じゃねぇ。それに、」

 野原が額に手を当てて、溜息のような息をついた。「正直、あたし、……」

 口を噤んだ野原。

 音羅は彼女の惑う指先を見つめて待ち続けた。

 膝に下ろした両手をぐっと合わせて、野原が悔しそうに声を漏らす。

「……、もう、勝てる気がしねえ……」

 拳を零れ伝う挫折。

 針で刺されたような痛み。彼女の痛みは、音羅の感ずるそれの何倍であろうか。

「アイツさ、あたしの拳より(つえ)ぇ火の球をたった数秒で撃ちやがんのな。きっとアンタもできるんだよな、そういうの。いや、ほとんどの魔術士すらできる。初等部の授業で聞いたことある詠唱文だ。下級の炎属性魔法〈火球〉だったっけ。下級の火球、ダジャレみてぇなのであれなんて……、なんの冗談だ、笑えやしねぇ。……あたしの努力って、なんだったんだよ。何年も懸けて築いてきた筋力も、技術も、経験も、なんも意味がなかった。有魔力の前じゃさ、ゴミみてぇな──」

「それ以上いったら許さないよ」

 震える両手を音羅はひしと摑んで、気づけばそんなことを言っていた。

「努力が無駄。それこそなんの冗談なの。だったら!わたしが思ったことも全部無駄なの」

「……なんのことだよ」

「わたし、前にいったよね。野原さんが簡易試合のルールを教えてくれて理解が進んだんだって、だからわたしは部を続けられて、稽古や試合を愉しむことができたんだって。どう教えたらわたしが試合のルールを学びやすいか、知らず知らず考えるなんて努力なしにはできない」

「部長がいってたろ、努力するなんて当り前って。あたしじゃなくても教えられたことだ」

「違う」

 音羅は頑として伝えたかった。「教えてくれたのはほかでもない野原さんだった。わたしの最初は野原さんだった。それがわたしの全てだ。だから野原さんの努力のお蔭なんだよ」

「そんなん、こじつけだろ。代りなんかいくらでもいんだよ」

「代りなんかいない。野原さんから教わったから解った、それがわたしだもの。だから野原さんの努力を否定するのを許さない。わたしの思いはわたしだけのものだから、わたしの思いを否定するのと同じだから許さないんだ」

 言ったことは感情論だと音羅はなんとなく判っている。また何か反論される、とも。

 予想に反して、野原が俯いた。言葉を返さなくなった。反論する気力すら残っていないかのように。

 ……、本当に、弱っているんだ。傷ついているんだ。

 追いつめてしまったのか。

 ただ、解ってほしいだけなのに。

 どうしたら、わかってもらえる。

 ……野原さんの、大切さを──。

 そのためならいくらでも言葉を紡ぎたい。けれども不用意に言葉を発せられず、音羅は、野原を見つめた。

 ……わたしはどうしたら、伝えられるんだ──。

 言葉が出ない。考えが浮かばない。でも、退けない。前に進めなくても、退きたくない。音羅は野原を必死に見つめ続けていた。

 不意に──、野原の手が音羅の頰を撫でた。

「なんだよ、なんであんたが……」

 野原が歯を食い縛るようにして、「あんたが泣く必要、ないだろが」

「だって……」

「ホント……、変な有魔力……」

 音羅の涙をその手に握り、野原が顔を上げた。漏れるのは反論でなく、彼女の思い。「あんたが助けに来たときのこと、ちょっとだけど憶えてる。そのあと何があったかは全然記憶ないけど、確かに聞こえた。野原さんしっかりして。できるわけねぇだろってのにさ」

「……、駆け寄るので精一杯で、野原さんの苦しさを全然解っ──」

「少し、救われた気がしたんだ」

「え……」

「あの大っ嫌いな声で……」

 ……わたしの、声で。

「有魔力に勝てる気がしねぇ。今も、思ってる。この身で体験しちまったから、どうしても、そう思っちまう。けど」

 野原が微苦笑して、音羅をみつめた。

「あんたみたいなお人好しも、中にはいるんだって、身に沁みた」

 野原が初めて目を逸らして、照れ笑いを浮かべて、鼻を鳴らした。

「まあ別に、恩に着るとはいってねーけど、ソフクリくらいなら奢ってやってもいいかなぁくらいには思ってるからよ、今度、どっか食いに行──っ!」

 音羅は、野原をぎゅっと抱き締めていた。

「……なんだよ、離れろっつーの」

「嬉しいんだ……」

 腕から力を抜けない。野原を放せない。

 一瞬間の沈黙。

「お前、また泣いてんの」

「だって、野原さんも泣いているし」

「ゴミ入っただけだっつーの」

「だとしても、野原さんから誘ってもらえるなんて思ってもみなくて、嬉しすぎて!」

「……ホント、変なヤツ」

 野原が、音羅をそっと離して、「あのクソヤローにも強引に抱き締められてさ」

「えっ」

「腕輪されてて動けなくて、抵抗もできなかったんだ」

「そうだったの……」

 反射的に離れようとした音羅の背中を野原がぐいっと()()て、離れさせなかった。

「いいってお前は……。スッゲェ判ったんだ、お前は、ホントの馬鹿だって」

「えぇっ」

「だから、いいんだ、お前は変で」

「そ、そっか……」

 拒否されているのではない。まして貶されているのでもない。音羅は背中に感じている。握り拳の形をした、拙い許容を。

「褒めてんだぜ、言葉は悪ぃけど、な」

 野原が頰を搔きながら、「……、なあ」

「うん、何かな」

「音羅」

「っ!」

「そう、呼んでいいか……」

 どこを向いて言っているのか。しかし野原が切り出した望みだ。音羅が断るわけがない。

「わたしも、花さんって呼びたい。だから、一緒ってことでいいんじゃないかな」

「……そうか、じゃあ、それで。っへへ」

 安心したように微笑した野原改め花が、「あっ」と、声を上げて、()ち上がった。

「ど、どうしたの、野原さん、じゃなくて花さん」

「い、いや、今、何時!」

「えっと……」

 机の上に置かれた時計を二人で見る。

 二〇時五六分。

 花の顔から血の気が失せた。

「残り四分だと……!」

「仕事のこと」

「それ以外に何があんだ!」

 慌てふためいて着替えを始めようとする花を止めて父の手筈を伝えた。へなへなとベッドに座り込んだ花を、音羅は横で支えた。

「そういうことは先に言えぇ。マジで死ぬかと思った……」

「そ、そんなに時間に厳しい仕事だったんだね」

「いや、別にそうじゃねぇんだけど、」

 花が肩を落として話したのは、「……、ファミレスのバイト、クビになったんだよ」

「えっ。初耳だよ」

「そりゃ誰にも言ってねーもん」

「あ、そういえば、今日の昼のバイト……」

「あれは、まあ、その、噓の予定だった」

 そうだったのか。だからと言って、音羅は怒らない。首なんて、稼ぎたい野原が望んでなるものではないだろう。

「いつそんなことになったの」

「結構前だ。学園長の紹介してくれた仕事以外にファミレスも土日にやる予定だったんだけどさ、平日のシフトから抜けた途端、『仕事断るなら辞めてくれ』ってさ」

「そんなことってあるの」

「さあ。時間の空きにきぃあたしより自由の利く貧民見つけたんじゃねぇかな。それで厄介払いって流れだ。ま、代えなんていくらでもいるだろうよ、貧民は数知れねぇしな」

 それにしても扱いが悪い。代りがいる、と、いう考え方は首にされたこともあって定着してしまったのか。

「抗議したの」

「しねぇよ。時間の無駄だし、こっちの事情でシフト増減して混乱させたのは確かだし、紹介された仕事にすぱっと切り換えるためには仕方ねぇと思うことにした。そんなわけだからさ、今の仕事を辞めさせられるようなことになるとマジで困るんだ」

「カフェテリアで働いていれば学費は払いきれるんだよね」

「まあな。休むと休むだけ万一の治療費や最悪生活費を切りつめる必要があっから、休みたくはねぇかな」

 ……まだまだお金が必要なんだな。

 音羅は、長く疑問だったことを尋ねた。

「どうして、花さんは一人で学費を稼いでいるの。両親を頼ったりはできないのかな」

 気持の整理が必要だったか、花が沈黙を置いて応えた。

「普通、そう思うよな」

「……やっぱり話しにくいこと、かな」

「いや。カッコ悪ぃけど、意地だからな」

「意地」

「父さんも母さんも、あたしを中等部までしっかり入れてくれた。貧民の中には義務教育の費用を出せねぇ奴や、故意に出さねぇ奴までいる。そんな中で、寝る間も惜しんで働いて、体壊してまであたしの学費とかいろいろ捻出してくれたんだ。あたしが格闘に集中できるように、バイトする時間があるなら稽古するようにっていってさ。スゲェよな。まともに食ってもないのに、どこから来るんだろうな、あのエネルギは」

 花が、誇らしげに微笑む。「父さんと母さんの努力を、あたしが実らせる。立派に稼げるようになって、楽させてやって、いつかは──、って、『意地』。底意地ともいえるかもな」

 困難な道程を覚悟している花の横顔は、力強い。いつも見ていた、美しい表情だ。

 ……少し、遠いな。

 距離はこんなに近づいたのに、花が遠いひとに観えてしまうのは、経験や考えが足りない。

 音羅は学費どころか生活費のことも気にしたことがない。それは中流以上でも少数派ではないかと音羅は思う。

「わたし、働いてみたいな」

「お前も金が必要なのか」

「ううん、そうじゃないけれど、価値が、ね」

「金の価値を、お前はよく解ってないわけな」

「う、うん、まずいよね、そういうの……」

「生まれた環境のせいだろ。お前は、その価値を知りたくて働きたいと思ったんだよな」

「うん」

「だったらいいんじゃね。価値を知りもしないより、知りたいって思ったのが成長だろ」

 花が肩を当てて澄まし顔。

 音羅は花の肩に寄りかかって微笑んだ。

「ありがとう、花さん」

「別に礼いわれることでもねぇよ。とりあえず頑張れよ、向き不向きもあるし、探すのは、もしかしたら貧民より大変かもな」

「どういうこと」

「貧民は賃金安いだろ。現場の判断で雇っていい場合は安く雇えて長く働いてくれるヤツのほうが重宝するはずだ。それなりにしっかりしたヤツじゃねぇとクビだろうけど」

「中流以上は給料が高くなるから敬遠されるのか……」

 その考えは音羅にはなかった。給料事情に寛容な職場を見つける必要があろうか。花の立場に近づいて物を考えるためには乗り越えなければならない障害の一つといえよう。

「職場探しもそのあとも、努力次第だな」

「花さんの得意分野だね」

「ひとをバカみたいにいうな」

「褒めたんだよ」

「解ってらぁ」

「もうっ、意地悪なんだから」

「っはは、いいだろ、別に」

「ふふっ、そうだね、いいね、別に」

 こうして笑い合うことができるようになったことが大事だ。

「プゥ、ピィ」

「ふぅふぅ」

 成行きを見守っていたかのように黙っていたプウとワタボウを、音羅と花は自分の膝に置いた。

「そう、そう、プウちゃんとワタボウさんがいたから花さんを見つけられたんだよ。二人には感謝しないと」

「そうなのか。不気味くせぇ綿毛と蛇公のくせに。そういえばお前、あたしが襲われる前にふぅふぅ煩かったっけ」

「ふぅふぅ〜」

「危険を知らせてくれていたんだね。優しいね、ワタボウさん」

「蛇公、……プウだっけ」

「ピィゥ」

「お前もあたしを」

「ピィッ」

 尻尾を支えにピンッと立ち上がって恰好をつけようとしたプウだが音羅の膝の上はバランスが悪く転倒、羞恥をごまかすようにくるくる回った。

「変な有魔力もいれば、変なヤツもいっぱいだな……」

 花が微笑してワタボウとプウを順に撫でた。「経緯はよく解んねぇけど、ま、ありがとよ」

「ふぅふぅ」

「ピィ〜」

 どことなく誇らしげな二つの鳴声。

 それらを聞いて、野原が苦笑した。

「じつはずっと違和感あってさっき気づいたんだけどさ」

「うん、何かな」

「これ」

 花がワンピースの胸許を抓んで、「あたし、こういうの似合わねぇから持ってねえはずなんだけど、もしかしてお前の」

「ううん。パパが作ったってクムさんが言っていたよ。花さんが何も着てなかったからくれたんだと思う」

「げ。ってことは、あんのヤロー、あたしの裸、見たってこと」

「一瞬くらいは、たぶん。ただ、大事なところは見えていなかったんじゃないかな」

「フォロになってねぇけど、……ま、いいや、クソヤローにさえ見られちまったんだし、見られて減るもんでもねぇ……と、諦めるしかア」

「あはは……、(黒いオーラがたくさん出ているような気が)」

 そのオーラを潜めた花が、

「けどまた魔法か」

 と、肩紐を引っ張って観察した。「一見、つーか、こう観てみても既製品みたいだな」

「パパ、服を作るのが好きみたいでね、わたし達の服を結構作ってくれるんだよ」

「へぇ、意外。あのグータラ親父がこんなにいいものを。いっそ売り出しゃいいのに、あんたやあたしに着せる分だけ作ってそれで終いってのはもったいねぇな」

 花らしい考え方だ。

「お金を稼ぐこと自体に興味がないみたいなんだ。言われてみて思ったけれど、もったいないかも知れないね」

「得意なことや趣味なんかで儲けられれば楽なもんだろうにな」

「販売を促してみようかな」

「そうしたらますますお前は働かなくてよくなっちまいそうだけどな」

「あ、それは困るから放置しよう。少なくともわたしが働けるようになるまでは」

「変なの。まあ、お前らしいな」

「えへへ」

 和やかに時が過ぎる。第三田創入学から約四箇月、話せなかったことを出し尽くすように、けれどもネタは尽きることなく出て、あっという間に、

「──。っと、二四時回ってんな」

 と、花が時計を瞥て(み )言った。

 二人が口を閉じると寮の静寂を感ずる。ワタボウを頭に載せたプウが枕許でくねったまま動かない。瞼を閉じているので、眠っているのだろう。

「話し込んだかもな。音羅は家に帰るよな」

「そうだね。泊まってもいいなら泊ま、れないよね」

 あいにくベッドはシングルで、個室とは言え寮生用。二人分のスペースはない。

「名残惜しいけれど、……明日、また来てくれるよね」

「別館でよくね」

「えぇっ」

「冗談だ。行くよ」

「もう……。じゃあ、ここは一つ早く切り上げないと」

「だな」

「プウちゃん、行くよぉ。ワタボウさんまたねぇ」

 立ち上がった音羅は小声で呼びかけてプウを連れてゆく。プウの頭についたままだったワタボウをわしっと摑んで肩に載せた花が、寮の前まで見送った。冷たい夜風と、絵に描いたような美しさの満天。

「また明日ね」

「ああ。今日、じゃねぇな、昨日は、マジで……、ほんと、ありがとな」

「うんっ。あ、その服、要らなければ売っちやってもいいと思うよ」

 父のことだからそれも見越しているだろうと音羅は思ったが、花には別の予想があった。

「いや、まあ、取っとくよ。返せって言われたら返せるようにさ」

「それもそうだね」

 ワンピースが自分に似合わないと花は言った。音羅と同じようなデザインのワンピースだが、音羅より背の高い彼女が着るとスタイリッシュだ。

「花さん。ワンピース、恰好よくて似合うよ」

「そうか……、ふぅん、そうか」

 裾を見下ろして、花が綻ぶ。「ま、たまに着てみんぜ。せっかくのいい服だしな」

「うん、そうして。パパも悦ぶと思うし、わたしも花さんの可愛い恰好を見たいもの」

「カッコいいんじゃねーのかよっ。ってか、恥ずかしいこというな、とっとと帰りやがれ」

「えへへっ、じゃあ、帰るねっ」

「ちぇ、このヤロー。……気をつけてな」

「うん、ありがとう」

 音羅は手を振り、駆足。音羅の姿が見えなくなるまで花は寮に入らないだろうか。

 案の定、遠目に振り返ると花がまだ寮の前で見送っていた。

 ……ありがとう、花さん。

 花が風邪を引いたら大変だ。音羅は、前を向いた。胸が弾み、視界が弾んだ。

 

 

 ……ったく、ちんたらスキップしてんじゃねーよ。

 野原花は竹神音羅を苦笑で見届ける。柄にもないからやらなかったが、自分までスキップしたくなるような、不思議な気分だ。

 寮に戻ると、ホールに佇むパジャマ姿の此方翼と目が合った。

「先輩、起きてたのか」

「お風呂のあと道に迷ったわ」

「寮母呼ぼうか」

「仲良きことはいいことね」

「……掌返したって思うか。打算だよ打算。こうすりゃ、あいつを利用できる」

「そうね。いいことだわ」

「……信じろよ」

「彼女にならいずれこうなると思っていた」

 妄想家の眼に真偽は無関係だった。

 溜息ひとつ、野原花は正直に。

「あいつも、あんたや納月みたいに、変なヤツだからな」

「そんな有魔力が存外たくさんいるわよ」

「悪いヤツもやっぱいるけどな」

 あの男もそうだ。

「通報したわ」

「……。あいつから話を聞いてか」

「ええ」

「犯人は、視聴者だぜ」

「予想はしていたわ」

 あの青年が逮捕されて花の生放送の件が明るみに出たら、最悪の場合、花も逮捕される。そうなれば退学確定だ。

「退学になったらあんたのせいだな、先輩」

「わたしは約束を守るわ」

 野原花が在学できるようにするという。

「……あれは宣言だと記憶してたぜ」

「わたしに取っては約束だわ」

「……」

 善なる有魔力がこうして存る。

 悪なる有魔力もああして存る。

 ……、……。

 思い出しただけで、慄える。

「その恰好では冷えるわね。引き留めてごめんなさい」

「別に構わねぇよ……」

 脳裏に浮かんだ屈辱的な光景を打ち消して、野原花は此方翼を部屋に送った。

 自室に戻った野原花は、日課のようになっている鉢植えの観察をして、変化に気づいた。

 ……罅が入ってる。

 連れ去られたであろうとき、何かが割れた音が聞こえたようだった。

 ……これが割れてたのか。

 罅の隙間から接着剤がにょこにょこ出ている。

 ……たぶん先輩だな。

 此方翼は仕事が雑だ。上流出身だからとかではなく、手先を細やかに使うタイプではない。

 ……頭はいいくせに。全く、変なヤツばっかだ。

 その変なヤツの一人に、野原花は救われた。そんなヤツと他愛のない話で盛り上がって時を忘れていた。ヘビや綿毛にしても、観ていたら愛着が湧いてしまった。

 ……同世代とこんなに話したの、いつぶりだっけ。

 燈を消そうとして、やめて、横になり、竹神音羅の座っていた辺りに不意に手が当たる。

 ──だから野原さんの努力を否定するのを許さない。

 竹神音羅がそこにいるかのようだ。

 ……あったけぇ。

 ひとのぬくもりを、これほど優しく感じ入ることができたのも、いつぶりだろう。第三田創に入学して四箇月以上、全てを敵視するように気を張って、苦手な仕事もやり抜いて、安らぐ時間がほとんどなかった。

「ふぅふぅ」

 ワタボウを両手で包むと、いい香りがして、心が落ちつく。

 ……これからは、もっと、そう、みんなが──。

 両親のように生きられる。竹神音羅がそう思わせてくれた。頑なだった心を解きほぐして。

 ……未来を、必ず切り拓くんだ。

 有魔力に勝ち目がないという絶望を感ぜずにはいられない。それでもそう思う。竹神音羅が信じてくれたように、自分の努力が有魔力にも影響し得ると知ったのだから諦めるには早い。

 ……葛藤も苦悩も、いくらでも来い。

 弱音を吐きたくなったら竹神音羅に意地悪してやればいい。彼女はきっと理解し、笑って許してくれる。

 ……ああ……、いつの間にか、あいつを信じてたんだな。

 竹神音羅のすることなら、無魔力にも悪いようにはならない。野原花はそう思える。

 ……明日から、また、頑張ろう。

 彼女とともに。……お前も、な。

「ふぅぅ〜」

 ワタボウを額に置いて瞼を閉じると、疲れた体がすっと眠りに落ちた。

 

 

 音羅が家に戻ると、両親が寝ずに待っていた。

 花の表情や吐露したことを伏せて、花と親睦を深めることができたと音羅は話した。そのあと入浴を促された音羅だが、

「話があるんだ」

 と、仕事の件を切り出した。

 できるだけ花の身になって物を観るため、と、いう理由を聞いて、母が歓迎した。

「着実に学んでいるようですね。誇らしいです」

「えへへ、ありがとう。仕事も頑張るからね」

 歓迎する母と対照的なのが父である。

「物好きやね、働こうなんて」

「パパだって働けるよ。服を作って売ればいいんだ。あ」

 口を滑らせた音羅は仕事を許されてから指摘すべきだったと思ったが、

「嫌だね」

 と、いう父の応答に救われた。「魔法の無駄遣いだ」

「花さんの服は作ってあげたのに」

「未成年でも補導はされる。素裸を背負っとればいろいろメンドーなことになっとったぞ。やからあれは無駄遣いじゃない」

「パパにしては感情的な気がするよ」

法令遵守(コンプライアンス)

「昆布アイス」

「うまく作るのに技術が要りそうね。要は、汚点を残す行動を控えさせただけ」

「緊急事態だったから許されるんじゃないかな」

「汚点一つで世界は変わるんよ」

「気にしすぎじゃないかな」

「今日の友が明日には刃物を投げつけてくる。ともかく、」

 父がテーブルから顔を上げて言うのは、「俺は、働くことを勧めん」

 服を売ればいいという意見が影響したのではないだろう。

「どうして」

「自分で考えろ。働きたいなら勝手にしぃ。他者の気持が完全に解るなんて思わんこった」

「そうだとしても、少しでも理解できるようになりたいんだ」

 父の意見は大体の場合で当たっているだろうが、音羅には音羅の考えがある。満足するまでやってみてからでなければ譲れない。

「音羅ちゃん。くれぐれも無理はしないように」

「うん。ありがとう、ママ」

「できないことは職場の先輩方に教えてもらい、できるように頑張ることです。よろしいですか、諦める前にやってみる、ですよ」

「うんっ、勿論だよ」

 そうでなければ仕事をしてみようだなんて考えもしなかった。

「で」

 と、父が半眼のまま訊く。「どんな仕事を探すん。当てがないわけじゃないんやろ」

「それなんだけれどね」

 花の話を聞いてどうしても引っかかったこと。「ファミレスを当たろうと思うんだ」

「ふぁみ……、ファミリーレストランか」

「うん。できればホールスタッフで」

何故(なにゆえ)

「花さんの働いていたところでね、納得できない解雇のされ方だったみたいなんだ」

「ふぅん。自分で首を体験してみようって」

「そこまでは。それ前提で働くのはいろいろ失礼でしょう。まじめに働くよ。その上で、どういう状況なら首にされてしまうのか、観てみる予定だよ」

「頭を使いそうな仕事やね。お金を稼ぐために仕事をしながら自分の目的もこなさないかんとは。できるん」

「やってみせるよ。朝にも当たるつもり」

 言っておいてなんだが音羅は苦笑ぎみに母を窺う。「どうやったら雇ってもらえるのかな。手続きとか、あるんだよね」

「そうですね。ファミリーレストランの業態ならまず履歴書を──、思ったのですが、」

 母が父を窺う。「音羅ちゃんは働けるのでしょうか」

「ママっ、いまさら疑っているの」

「音羅ちゃんの気持は理解しております。年齢の問題です」

 母が父に訊きたいのは、「音羅ちゃんは生後一年未満。ダゼダダの労働法はどのように規定しているのでしょうか。レフュラルですと一六歳未満の就労は原則禁止です」

「ダゼダダも同じやよ。ただし、一六歳未満の子でも健康や福祉に有害でなく軽易な仕事ならいい。テレビ番組や演劇の出演、モデル撮影、新聞配達とかも該当するんやない」

 ……テレビ番組、か。

 父が昔やっていた仕事だが音羅とは無縁だ。

「わたしはファミレスのウェイトレスってことになるね。それはどうなんだろう」

「さあ。俺はウェイタなんぞやったことないから判らん」

「私も厨房なら経験がございますが就労という形では。軽く調べてみましょう」

 母が携帯端末を取り出して、画面を確認しつつ話す。

「──ダゼダダの労働法、一六歳未満の児童は使用できないようですが、所轄労働監督署長の許可を受けた場合に限り使用が認められるとのことです」

「許可が要るってこと。署長ってことは人間か」

「労働監督署の長ですね。労働監督署に電話等で連絡して済めばそれでよろしいかと。書類が必要であればそちらに必要事項を記入して申請しましょう」

「形式張ったのは俺には荷が重いな」

 父が面倒くさそうに溜息をつく横で能動的な母が携帯端末を観る。

「引続き、労働法です。

 〔衛生又は福祉に有害な場所における業務に就かせてはならない〕

 と、ございます。有害な原料・燃料を扱ったり、塵埃(じんあい)・粉末・ガスが飛散、もしくは有害放射線が発散されている危険な場所などでの業務を禁止しているのですね」

 父が手許の糸主とクムをそっと撫でる。

「放射線は危険場所の極みとして、危険業務には酒席も含まれるやろうな」

「ウェイトレスは酒席の対応をすることもございますから、気になる点ですね」

「しゅせき、って」

「『酒の席』と書いて酒席ね。この場合、酒が提供される店全般か。音羅の働きたいファミレスで酒が提供されとるかが問題。酒が出されんなら福祉的危険業務には当たらんやろう」

「お酒を出されていると駄目なんだね」

「酒に酔った連中と絡むのは子どもにとって有害ということやな。──」

 未成年の少年少女が酔った客にむちゃな給仕を求められても立場的に断りにくい。そうでなくても成人と未成年の接触において酒が介在すると碌なことがない。と、父が言った。

「──。危険性を無視して働きに行かせるわけにはいかんよ」

「法律で規制されているのでその点は問題ございません」

 母が携帯端末でさらに調べる。「商店街のファミリーレストランではお酒を出していないようです。労働監督署の窓口はネットワーク上にあるようですから早速連絡してみましょう」

「気が早いな」

「音羅ちゃんの意志を尊重しております」

「深夜やぞ、たぶん業務時間外やで明日にしぃ」

「そうでした。日が昇ったあとに致します。音羅ちゃん、よろしいですか」

「うん。よろしくお願いします」

 音羅は丁寧に頭を下げた。頭のプウがずれ落ちかけて這い上った。

「面接のときはプウは置いてきぃよ」

「え、なんで」

「お前さんや納月達は物心ついた頃に既におったから違和感がないかも知れんが、プウみたいな存在が希しいことくらいもう知っとるやろ」

「う〜ん、そうだね」

 初めて見る、と、第三田創のみんなが口口に言うことからも察していた。ヘビが嫌いだという虎押などは未だプウを避けている節がある。

「恐がらせちゃうかな」

「最悪雇ってもらえんぞ」

「な、なるほど」

 雇われない要素を自分で作っては、花との距離も縮められない。

「では音羅ちゃん、プウちゃんがいなくても平気なように、お風呂に入りつつ面接の練習をしておきましょう」

「うん、頑張るっ!」

 その夜、浴室でいろいろ教わった音羅は就労に向けてうきうきした気分で就寝した。

 朝となり、母が労働監督署に連絡を入れると、音羅の就労先が決定次第許可が下りるとのこと。よって、音羅がすべきは履歴書を書いて、バイト先を見つけること。プウを父に預けた音羅は母から履歴書をもらって、氏名・生年月日・住所・電話番号・経歴・特技などなどの項目を埋めた。その様子を横からずっと窺っていたのは父と妹。仕事に出るまで母も窺っていたが音羅は集中していて気づかなかった。

 音羅が書き終えたのを見計らって納月が声を掛ける。

「お姉しゃまがペンを持ってるのは違和感が物凄いでしゅねぇ」

「座学のときもあまり持たないからね」

「それでどうやって筆記回答をしているんですか、お姉様……」

 と、子欄が困惑したが、「その割に履歴書を書くことには集中していたようですね」

「あ、うん、そうだね。書くことが少なかったから集中が持ったのかも」

「その一端でしゅかね。経歴が〔第三田創魔法学園高等部入学〕だけというのはなんとも」

「事実だよ」

「試験のこと忘れたん」

 とは、父が言った。

「試験ってなんだっけ」

「中等部卒業程度魔法学(まほうがく)修了(しゅうりょう)資格(しかく)試験のことでは」

 子欄が教えてくれたが、音羅の耳を素通りしてしまう。

「なんとなく聞き覚えが。入学試験のことかな。書いたほうがいい」

「順序が逆転するから今回はいい。書くなら、〔3024年 3月 中等部卒業程度魔法学修了資格試験合格〕で、いいな。次に必要になったときにはそう書きんさい」

「う、うん、じゃあそうする」

 内心ほっとした音羅である。中等部卒業なんたらかんたら、と、いうのは長い(!)

「けども、年齢に〔0歳〕と書くヤツを初めて見た。我が娘ながらなんというかむちゃやな」

「パパ、応援してくれないの」

「二度いわすな」

 仕事を勧めはしないと。

 音羅はむうっと頰を膨らませて、「ふぅっ」と、諦めた。結果がついてこなければ父は認めてくれない、と、思うことにした。

 音羅が履歴書を書いている横で母が妹に事情を話したので、妹はすっかりその気で話を進めている。

「ファミリーレストランには連絡したんですか」

「面接が一〇時からだね」

「もうすぐじゃないですか」

 壁掛時計が九時半を指している。

「商店街のファミレスだから走れば一〇分も掛からないよ」

「その恰好で行くんですか」

 子欄が音羅の私服を観る。いつも通りのワンピース。色やデザインは多少違うが、「面接向きとは思えませんね」

「そうなの」

「音羅お姉様は本当に大丈夫なんでしょうか」

「駄目やろ」

「しーちゃん、パパ、応援してほしいよ」

「そうしたいですが、面接に私服で行くのはいかがなものかと思いますよ」

「駄目なのかな」

「駄目やろ」

 即答した父が、席を立ち上がった(!)リアルタイムでテーブル席から離れたのを見たのは何日ぶりか。父が向かったのは寝室のタンス。

「あっ、そこ、ママの引出しっ!」

「お父しゃまっ、それこそ駄目でしゅよ!」

「煩い。ストーカな盗人が下着漁っとるわけでもないんやから黙っとけ阿呆ども」

 手際よくタンスから服を取り出してはしまい、取り出してはしまった父が、

「はい、これ」

 と、テーブルの上に服を置いて、もとのように突っ伏してしまった。

 音羅は、綺麗に畳まれたその服を広げる。上下が繫がっている。

「ワンピースだ」

「借りてけ」

「いいの」

「いいんやない。面接に使ってもらえるなら一回しか着られとらんセミフォーマルも誇らしかろうさ」

「なんだか生地が違うね。これがセミフォーマルってことなのかな。これを着ているママは見たことがないけれど、もしかしてわたしが生まれる前」

「そんなことはどうでもいいから早く着てけ、どんくせぇ」

 なぜか機嫌の悪そうな父である。「面接遅れたら間違いなく不採用やげ」

「そ、それは困るよ」

「あの子も来るんやろう。早く終わらせてきぃ」

 花と稽古を始めるのは昼一五時過ぎなので余裕はあるが、面接の合否を考えると急ぐに越したことはない。

 音羅は母のワンピースを着込み、父と妹に見せた。

「どうかな、変なところはない」

「お姉しゃまらしくなく決まってましゅ!」

「お姉様らしくありませんが恰好いいですよ」

「お前さんらしくないが──」

「スト〜ップっ、わたしらしくないは余計っ」

「いわせんか。せっかく褒めようとしとんのに」

「前置きがもう褒めていなかったもの」

「そうけぇ」

 父が顔を伏せて、「しかし音羅が着ると丈が短いな」

「ママより少し身長が高いからね」

「面接でミニスカートっていいんですか」

 と、子欄が首を傾げるが、父が間髪を容れず、「却っていいかもな」と。

「パパ、どういうこと」

「商店街のあの店のホールスタッフ希望なら着るのはたぶんミニ丈の制服やろ。ミニを着た感が判っとるほうが第一印象から採用しやすいと思って」

「そうなんだ」

「あとはお前さんの気合を伝えればいい」

「気合。それならわたしにもできそうだね。じゃあ、行ってきます」

「こら」

「えっ、な、何」

 玄関へ向かおうとした音羅を父が止めて、納月が封筒を渡した。

「履歴書忘れたら門前払いでしゅね」

「あはは……、締まらないね」

「お姉しゃまらしいでしゅけどね」

「だね。ありがとう、なっちゃん。それに、パパ、しーちゃんも」

 音羅は履歴書の入った封筒を胸に、家族に会釈。「いってきます」

「『いってらっしゃい』」

 三人の声に背中を押されて音羅は家を出た。

 ……いざ、面接へ!

 どのようなことを言われ・訊かれるか母が教えてくれたので心の準備ができている。全て想定通りとはいかないだろうから、そのときは気合を伝えよう。

 ……働かないと、知り得ないことがあるはずなんだ。

 花を始めとする貧民の実態に近づく。花がなぜ首にならなければならなかったか、その経緯を探る。それらが、音羅の目的である。

 幸いにして雲が覆って日差がなく、走ってもさほど汗をかかなかった。

 以前花が働いており、納月や翼が偵察に訪れたことがあると言っていた場所、商店街北区にあるファミリーレストラン〈sugars(シュガーズ)〉。そこに、音羅は到着した。入口はガラス張り。固定されたガラス窓にバイト募集の貼り紙がある。

 〔時給600〜1000ラル〕と、大きな幅がある。

 ……なっちゃんが言っていた通りだ。

 働きが認められれば昇給するのだろうか。それとも出身階級で異なるのだろうか。採用されればそれらも判るだろう。

 音羅が入店すると、出迎えたウェイトレスがマニュアルの挨拶。面接を受けに来たことを伝えて、音羅は従業員の休憩室に通された。待っていたのは店長の男性で、音羅が「おはようございます」と、普通に挨拶をすると、

「採用ね」

 と、煙草を銜えたまま言った。

 面接で何を答えるかイメージトレーニングしつつやってきた音羅としては拍子抜けである。

「面接はいいんですか」

「ああ、いいよ。面倒くさいのは省こう。あ、履歴書は出してね」

「はい。これが履歴書です」

 音羅が渡した封筒を受け取るや履歴書を取り出して店長が首を捻る。

「話には聞いてたが、本当に零歳なんだね。もしかしてホムンクルスか何か?」

「(ほむんくるす、って、なんだっけ。と、答えないと。)いいえ、魔法で成長が早いそうです」

「なるほど、魔法か。竹神……、()()竹神音と関係があるのかい」

 眉を顰めて言う店長である。母が想定していた問であるから、音羅は動ぜず隠さない。

「父です」

「とんでもないな……。お母様は?何してる人なの」

「家庭教師をしています」

「階級欄が〔上流〕になっているのはお母様が稼いでいるからかな?」

 履歴書には、〈階級〉という項目がある。一世帯の総月収によって下流・中流・上流と分けられる。父の稼ぎはゼロであるが、履歴書の説明書を読んだ父によれば音羅は上流であった。

「家庭教師でそれほどの稼ぎとは、よほどの学歴を持ったお母様なんだろうね。父親が不出来でも苦労はしなさそうだ」

 店長が不躾な物言いをしたのはいつかの蓮香のようにわざとか。蓮香ほど付き合っていないので判断に困るが、父のことで何かいわれても過剰な反応をしないよう母に釘を刺されたので音羅は心構えできていた。予め注意喚起されていなかったら反論しただろう。「パパは不出来ではありません」、「パパが父親で幸せです」、そのように。

「第三田創入学って書いてるけど、これ、そこの学園だよね」

「はい」

「初等部や中等部は行ってないってこと?」

「はい。試験を受けて第三田創への入学を許されました」

「ふむ。お母様の教育が功を奏してるって感じか。父親がアレだっていうのに、めげずによくやってる……」

 うん、うん、うなづいている店長。感心したのか。いちいち父について棘があるので音羅は反論しないよう我慢した。

 ……たぶん、いや、絶対、パパはこうなることを知っていたんだ。

 働くことを勧めなかったのは、自分の能力とは別のところで非難されたり、価値観を否定されることが予想できていたから。父の優しさは嬉しいが、それで目的を見失って行動しないのは音羅らしくない。

「いろいろごめんよ。改めて、採用だからよろしく。うち、女性は基本的にホールスタッフって決まってるから制服はあれね」

 店長が指差す。花がネットカフェで持っていた可愛らしい制服がハンガに掛かっている。

「制服の上からこのエプロンを腰につけて接客スタイルの完成ね」

 テーブルに置いたフリルつきエプロンを指差した店長が立ち上がり、制服とエプロンを纏めて音羅に渡した。

「いつから、どの時間帯に働けそう?シフト割を決めるから」

「夏の休校期間は毎日朝から昼一五時くらいまでです。休校期間を過ぎたら土日の昼一四時くらいから一八時半までですね」

 花との稽古や、花を職場に送る時間を考慮するとそれが最長だ。

「ふん、ふん、あそこの休校期間って確か八月末までだよね?」

「はい。ご存じなんですね」

「前に辞めた子が、そう言ってた気がするから」

 ……花さん、かな。

 断定はできないが、花のことだとしたらひどい言い草だ。花は辞めたくて辞めたのではないだろうに、あたかも花が自ら辞めたような口振りではないか。

 店長が何やら紙と睨めっこして、音羅にその紙を渡した。

「はい、これ。こんなんでどうかな」

 シフト表だ。音羅の要望が全て通った内容になっており、花の稽古・送迎などに不都合が出ない内容になっているものの、よく観ると疑問が湧いた。

「これ以上に自由が利くんですか」

「君は上流だからな。中流以下の子のシフトを削ったりずらしたりして調整できるよ」

 ……やっぱりそうか。

 シフト表には複数のホールスタッフのシフト割が印刷されており、その上から音羅のシフト割が上書きされている。恐らく正式に決まったら印刷し直すのだろう。

「ほかの皆さんの勤務時間を減らさず、ずらさず、調整することはできませんか」

「できるっちゃできるけど、それでいいの?時間不定期になって結構大変だよ」

 父が悪名高い音羅でも上流ゆえに雇用元から気遣いが発生し、中流以下には上流からの皺寄せが発生する、と。ここへ来てまだ一〇分と経たないのに早くも理不尽を見つけてしまった。

 音羅は自分が働くために中流以下の人間を押しやるつもりはない。

「不定期でいいですよ」

 と、応えた音羅はずっと気になっていたことを訊く。「時給はどうなりますか」

 たったの三時間で一時間分以上の賃金差を生む、時給の謎。その要因がなんなのか、音羅は知りたい。

 店長が煙草を灰皿に押しつけて火を消した。

「一〇〇〇でどう?ほかの子に合わせて入るなら時間外がつかないペースになっちゃうし、」

「すみません、初めて働くので教えてほしいんですが、時間外というのはなんですか」

「時間外手当のことだよ。労働時間が嵩んで少し高い給金の入る労働時間に突入するともらえるもの、と、思ってくれればいいよ」

「(ふ、複雑だ。けど、)なんとなく解りました……」

「で、それがつかないから、一〇〇〇にしないとお母様が納得しないでしょう」

 ……ママが納得しない、か。

 時間外手当について完全に理解できていなかった音羅であるが、一つ、確証を得た。

 ……上流には、下流に働かない気遣いが確実にあるんだ。

 店長が、母の顔色を窺っているのも気に掛かる。過去に上流出身者の給料を低くして何か問題になったことでもあるのだろうか。

「どうかした?」

「いいえ。許可が出ているとはいえ零歳ですし、六〇〇ラルでいいんですが」

「えぇっ、それはこっちが困るから一〇〇〇にしようよ」

「困るんですか」

「ほら、上流には上流の働き方ってのがある。法律上そうなってるから」

 花によれば安く長く雇える人間は重宝するとのことだった。これも上流出身者への対応か。しかし法律上とは。

「上流出身だと法律で高い時給が約束されているんですか」

「その辺りは不勉強かなぁ。まあそんな感じだよ。下流からは文句が出ることもあるが、一概に悪いこととは思えないね」

 文句が出ると面倒という理由で店長が下流労働者に法律をことさら伝えなかったのだとしたら、納得はしがたいが花が知らなかったことに納得がゆく。

「利点はなんだと思いますか」

「ん?働けば確実に給料が増えるでしょ。世帯ごとの給料で階級が上がるんだから、下流だって中流に、中流だって上流に上がる機会はあるんだよ。逆に、頑張った分だけ給料が保障されて階級脱落の可能性が低くなる。努力型社会制度ってことだ」

「そうなんですか……」

 難しいことが解らない音羅でも肌で理解できることはある。

 ……わたしみたいな上流出身がシフトに割り込むことが罷り通るんだ。

 そのせいで中流以下の者がシフト──給料──を削られ、世帯総月給が減り、階級上昇の機会を奪われることだってあるのではないか。今まさに店長がしようとしたように現場のトップが上流階級を割り込ませても下流階級では反論できまい。

 ……それで自分からシフトを減らそうものなら、花さんのように首になるのかも知れない。

 細かなシフト割をさせようとする中流以下はリセットする。それが現場の思考ではないか。

 シフト表をさらに確認して、音羅は店長に尋ねる。

「わたし以外にホールスタッフは五人。比較的不定期の方が三人と、週一休暇で連日決まった時間に勤務している方が二人みたいですが、この中に上流のひとは何人いますか」

「いないよ」

「中流は」

「二人。連日の子ね」

 連日働けると安定した給料をもらえる。同時に、それが中流階級であるなら下流階級では割り込めないだろうし、

 ……中流のひとですら下流のひとのシフトを奪っている可能性がありそうだ。

 と、音羅は捉えた。ますます割り込むわけにはゆかない。時給は法律上の問題もあるようなので一〇〇〇ラルにしてもらうが、シフト割の要望はきちんと伝えておく。

「わたしのシフトは先程伝えた時間ならいつでもいいので、よろしくお願いします」

「う〜ん、給料めっちゃ減ると思うけど、本当にそれでいい?」

「そのお気遣いは規則ですか、法律ですか」

「ははっ、どちらでもないが……」

 店長が当惑して、「アイドルリッチとまではいわないが、そんな働き方してたら中流に転落しちゃうぞ?」

「転落したらいろんなところで働けばいいんです」

「……ヘンな子だなぁ」

「よくいわれます」

「……解った、じゃあ、そうする。シフトは夜、履歴書に書いてある番号に連絡するよ」

 店長が微笑して、「労働監督署に連絡入れてくるからちょっと待っててくれる?」

「はい」

 事務所に入っていった店長を見送り、従業員休憩室に一人となった音羅は、制服を抱えてひとまず深呼吸。

 ……とりあえずどうにかなった。

 いきなり採用と言われて戸惑ったが、面接のようにいろいろ訊かれたので、順序が逆になっただけでやったことは想定内だ。

 あとは実際に働いてみてどのような収穫があるか。花の解雇事情がもう垣間見えたような気がしないでもないが、貧民の実態に近づくということからは遠退いているような感がある。

 ……時給一〇〇〇ラル。

 これが大きい。花は六〇〇ラルだったはずだ。四〇〇ラルの差を花はどう思う。または、どう思っていただろう。

 ……なんだか煙いな。

 ただでさえ低い思考力の邪魔をするような空気は、やや濁っているように観える。店長が吹かしていた煙草か。二〇歳を超えている母も煙草はやらないので家の空気がこんなに淀んでいたことはない。空調は利いているようだが煙の排出が追いついていない。店長がどれだけ吸っていたか、灰皿が物語っている。

 煙を追い払うべく制服で扇ごうとした音羅を制するように、事務所から出てきた店長が手を振って一枚の書類を取り出した。

「正式に許可出たから、雇用契約書( こ れ )に親御さんの署名・捺印と君のサインをよろしくね。そしたら正式な雇用関係が成立、早い話、君はここで働けるようになる。明日にも働けるよう手続きするから今日は帰って明日持ってきて」

「はいっ」

 煙を振り払うようにsugarsを出た音羅は、帰途、見通しのいい農道で契約書を読んだ。

 ……手書きで一〇〇〇ラルって書いてある。

 給料計算の項目だ。そこが手書きになっているのは、階級によって変化するため。

 帰り際、ホールを忙しなく歩き回る制服姿の少女二人を遠目にした。彼女達が中流の二人だろう。

 ……あの子達は、自分が下流階級者のシフトを押し退けた可能性を知っているのかな。

 それについて質問することもあるだろう。貧民の実態に迫るため情報は多いに限る。店長によればサインさえあれば明日にも働けるようなので、訊く機会は遠くない。

 

 

 

──一八章 終──

 

 

 

 

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