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一七章 良心の衝突

 

 遥かで線路が鳴く。

 いつか暮らした馴染の音に紛れて、懐かしい声がしたようだった。

 

「あとんで、あとんでー、おねえたん!」

「えぇ、ややよー、また蹴るんやろー」

「だいぞーぶ、今度はこれっ、用意すたんっ」

「ただの紙切れじゃんっ」

「拾ったんらー。膨らまてるとね、ふぅ〜〜っ!ふぅ〜〜っ!ほらっ、ボール〜」

「すげぇ、こんなんあるんやぁ!」

「やから一緒に蹴ってあとぼーっおねえたんっ!」

「いいよ〜」

 紙風船を膨らませた洟垂れの少女を可愛がって、幼い野原花は一緒に紙風船を蹴った。あっという間にくしゃくしゃになって潰れて落ちて、思えば残酷に踏み潰した。飽きたように見向きしなくなった紙風船。見つけた石ころを蹴っ飛ばして、夕方だ。

「ざーねー、おねえたーんっ」

 手を振って隣のボロ屋に入ってゆく少女を見送って、野原花も自宅であるボロ屋に入った。

 その夜も、()()だった。

「オラッ!」

「出て来いや!」

「舐めてんのか、死ねコラァッ!」

 大人の男が複数。列車の走り去る音と戸を叩く音が隣のボロ屋を幾度なく襲っている。

 いつか自分の家の戸を突き破ってくるのではないか。恐怖心が募った。毎日毎日、恐怖心を押し殺して息を殺して時が過ぎるのをただ待った。ただ待って、待って、息が止まったかのように、翌朝。恐怖に気を失ったか、重い体と怠い意識は、普段なら朝日でゆっくりと目覚めてゆく。その日は両親の大声によって俄に活動を始めた。

「噓だろ!おい、お前っ……なんでこんな……」

「起きてよ!ねぇ、どうして!……ぁーーーっ!」

 両親こそどうしたのか。野原花は眼を擦る。壁の穴から顔を突き出した野良猫を見つめて、入り込んだネズミとともにボロ布から這い出ると、半ば朽ちた半開きの戸を避けて外へ出た。朝は寒い。隙間風の吹き込むボロ屋でも外よりは温かく、外気の立ち込めた外へ出れば冷気に体が震える。が、

 目の前で、現実が弾けた。

 殴られたように目が覚め、担架で運ばれてゆく洟垂れ少女に駆け寄った。冷気のせいではなく、体の内側から慄えあがった。

「な、なん……。どうしたん……。ねぇ。……ねぇ!」

 呼びかけても少女が応えない。口と鼻から洟か、何かが垂れていた。首に、縄の痕が浮いていた。それ以外は、あの紙風船のように無機質だった。

 そこに、生は、存在しなかった。

 運ばれてゆくのは洟垂れ少女だけではなかった。彼女の両親も同じような顔と首を見せ、運ばれていった。

 ……ナニガ、アッタ、ン。

 頭が、重い。息が、できない。声が、出ない。

 野原花は言葉を発せぬ口のまま倒れた。体を押し潰すような声で、線路が鳴いていた。

 

 噂には借金苦の末、一家心中。

 寮に入ってからは唐突に思い出すことがなかったあの日のことを、線路の声が蘇らせる。野原花は耳を塞ぎ、あの日が聞こえないところまで走った。

 ……いいんだ。これで。

 この苦しみは貧民にしか解らない。目の前で死を迫られた人間がいて、事実、死にゆき、自分もいつそうなるか知れないという恐怖を抱えていることなど。

 ……あいつなら、なんて、馬鹿だろ、ったく。

 貧民以外に貧民の気持を理解できる者などいない。そうと判っているはずなのに期待してしまうのは、なぜだ。

 迷うのは苦しい。野原花は、何かを切り捨てんとしてまた走り出した。

 ……あいつはほかの有魔力や金持と違う。

 いや、……違わない。違わないだろ。

 走って、走って、走るんだ。

 走れ、走れ走れ走れッ。

 鞭打つように急き立て、自分の気持を切り捨てる。

「ぐっ……!」

 ガードレールに脛をぶつけて一瞬怯むも脚を止めない。

 走れ走れ走れッ!走れッッ!

 切り捨てる。切り捨てる。切り捨てる。迷いも苦しみも、何もかも、切り捨てる。

 ……自分の行いならいくらでも引き受けてやる。()()は違う……。

 この迷いは新たな苦しみになる。この苦しみは新たな迷いになる。だから全て切り捨てる。

 ……なんで、期待して──、違う、期待なんか、してない!

 無神経な奴。そういって切り捨てなければ、どこまでも追ってきそうな気がした。

 ……でも、本当は、聞いてほしいんだ──。

 何をいっている。……話すな!聞くな!

 走れッ!もっと速く!壊れるくらいにッッッ!

 迷いは苦しみ。苦しみに迷う。環状の葛藤を切り捨てるため、永劫の苦しみと迷いを切り捨てるため、走れ。心臓が破れても!

 ……──もう、()や……。

 脛が痛い。

 心が痛い。

 疲れた。

 頭が痛い。

 頭が重い。

 心が重い。

 破裂しそうだ。

 脚が止まった。熱したアスファルトにぐらりと両膝を落とし、崩れた。

 熱い。痛い。重い。

 肌を焦がす自然の熱が降り注ぎ、身を焼くような人工物が接している。なのに動けない。走れない。

 ……頼む、もう追ってくんな、関わってくんな、話させんな、頼むから──。

 崖に立ったかのように視界がぐらついてゆく。

 

 

「大丈夫か」

 アスファルトから膝が離れ、横転しそうになった体が支えられた。

 ……鷹押さん。

「……。歩けるか」

「……」

 音羅は小さくうなづいて、鷹押の手を借りて歩き、並木道に向かう。

「竹神音羅がいるとは思わなかった」

「……ごめんなさい」

「謝ることはない。……何があった。怪我はほとんどないようだが」

 鷹押が音羅の膝にできた擦り傷を観て、「あんなところでどうした。……、話しにくいことか」

「……ごめん、なさい」

 話せない。父の傷に触れることである。それに、音羅自身の気持も整理できていない。

 ただただ、重くて、うまく動けない。それは傷であるのだろうが、身勝手の報いとするなら野原にこそ傷を負わせたことになる。音羅は、野原を傷つけたと思い、また自分も報いとは別に傷ついていると感じている。鷹押にこれらをどう説明していいか判らない。

「解った」

 と、一言。鷹押が音羅を抱き上げて歩いた。

 話さなくていい。

 鷹押の腕の中は、優しさに満ちている。

 ……パパ。わたしは、やっぱり頭が悪いな。

 野原の怒りに触れるのは、これで何度目か。学年混合武術交流会の日も、寮で話した日も、今日も、どう弁解しても音羅の無神経は否めない。同じことを繰り返した。学べていない。

 緑に包まれて、日差が和らぐ。川沿い。木陰のベンチに音羅を下ろして鷹押が隣に座った。

 何分も言葉を交わさず、俯く音羅を見ることもなく、鷹押がまっすぐ前を向いていた。それでいて鷹押の空気は柔らかく、いつでも包んでくれそうな気配を感じた。

 小川のせせらぎ。木木の囁き。風が髪を撫でると、音羅は口を小さく開いた。

「……鷹押さんは、後悔したことがありますか」

「数えきれない」

「……例えばど──、いいえ、やっぱりいいです、いわないでください、ごめんなさい……」

 本当に馬鹿だ。野原に言われたばかりだというのにまた同じことを繰り返そうとした。鷹押が後悔したことを聞き出して、それでいったい何になるのか。自分の知りたいことのために他人の傷や葛藤を穿鑿してはならない、と、何度叱られれば学ぶのか。たとえ鷹押が優しくて話す姿勢を見せていても、それに甘えてはならないのである。

 再び口を噤んだ音羅に目を向けず、鷹押が語りかける。

「何があったかは聞かない。だが、ひとに苦しいといえば楽になることもある。オレは、先輩だ。聞くことくらいは、してやりたいと思っている。お前が沈んでいるのを見るのは、しんどい……」

「……」

 鷹押は、虎押の見舞の帰りだろう。

「虎押さんは、大丈夫ですか」

「……ああ。すぐに元気になるから待っていてくれ、と。寮に戻ったら虎押の知人に伝えて回る予定だ」

「早くよくなるといいですね」

「ああ。……お前は、大丈夫か」

「……はい」

 大丈夫ではない。父に全否定されたときに次ぐか同等の落ち込みだった。

 ……人間じゃないとまで、思われてしまった。

 それほど野原とのあいだに溝ができていたということだ。それほど、野原に対して無神経だったということだ。そうなるまでに気づけなかったからあんなことを言わ──。

 ふわっ。

 大きな掌が、空を舞う羽のように音羅の頭を撫でていた。重くて動かなかった体が、噓のように軽くなる。縮こまっていた拳がほどける。固まった脚に感覚が戻る。

 不意に、涙が零れて、音羅は瞼を閉じ、手で頰を拭った。

 羽のような愛撫は涙が止まるまで続き、止まってもやまなかった。

 ……どんどん、楽になる。

 撫でられているだけなのに、これほど心が軽くなるのはなぜだろう──。しばらく黙っていた音羅だが、鷹押の手を両手で包んで、膝の上に下ろして、口を開いた。

「ありがとうございます。もう、本当に大丈夫です」

「そうか」

 鷹押のぬくもりを、音羅はそっと彼の膝に返した。

「鷹押さん。わたし、好きなひとがいるんです」

「……そうか」

 好意があるがゆえの動揺が、わずか顕れていた。

 音羅は、続けた。

「妹達が、鷹押さんを推しています。鷹押さん、とても優しくて、頼もしくて、いいひとだとわたしも思っています。でも、わたしの好きなひとはこれからもずっと変わりません」

「……そうか」

 鷹押の短い応答には、決意があった。「気づいている通りだ。オレは、お前が好きだ。後輩としてじゃなく、一人の人間として。学ばされることが多かったからだけじゃない。お前にはオレにない純粋さや純然たる感情がある。いいたいことや好きなことに正直だ。ひとの意見を聞き、受け止める心の広さもあって、オレのように口下手でもない。幼さもあるか、無防備に観えたそんなお前を、守ってやりたい。そう思っていた」

「そうだったんですね……」

「大きな間違いだった。竹神音羅は、オレよりきっと、ずっと強い。オレが守らなければならないのは、オレ自身の弱さだろう」

「そんなことは──」

「いや、そうなんだ。お前が知らないだけだ。でも、勘違いしないでくれ。お前が知らないのは、オレが話さなかったからだ。それもお前に話しにくかったからとか、お前が聞いてくれそうにないからとか、そういう理由じゃない。オレが、口下手で、いや、臆病で切り出せなかった。それだけなんだ。勇気が、足りなかった」

 費やそうとも無限に湧いてくるもの。消えた途端にどこからも手に入らないもの。

 鷹押の告白に、音羅は答える。

「鷹押さんの手は、とても優しい手です。虎押さんや、家族や、そのほかの多くのひとだって守れる手だと思います。わたしに向けようとしていた勇気を、どうか、みんなに向けてあげてください」

「──そうするのが、お前の望みなら、オレはなんの不満もない」

 音羅は立ち上がり、鷹押と向かい合い、お辞儀した。

「撫でてくれて嬉しかったです。落ち込んでいるひとをみつけたら、してあげてください。元気が、……勇気も、きっと湧いてきますから」

「うむ……」

 微苦笑の鷹押を残して、音羅は歩き出した。

 ……行かなくちゃ。野原さんのところへ。

 鷹押が言うほど、音羅は正直ではない。心が広くもなければ、強くもない。けれども、臆病なままでいるのは自分らしくない。

 勇気を出して踏み込まないことには、野原の真の苦しみに、到底思いが及ばない。何度叱られても、たとえ嫌われても、野原の苦しみを知り、抱えた苦悩を理解し、鷹押がしてくれたように、野原の心を軽くしてあげたいのだ。

 今は寮にいるだろう。音羅は急いだ。

 ……まずは、謝るべき。いや。

 そのあとにまた謝ることになる。距離を置きたいのでもない。……謝らず、行こう。

 嫌がられると判っていて野原から話を聞こうとしている。ここは開き直ってぶつかるしかない。謝ればなんでも許される。そう思っていると取られても仕方ないのだから謝るほうがよっぽど悪質だろう。思えば知泉や虎押と最初に話した入学式の日に、無神経に有魔力であることを告白したのが音羅だ。その結果どうなった。頭が悪く失敗ばかりで配慮もできない音羅は、いい子ではない。それでも、知泉や虎押は友人として一緒にいてくれたではないか。他者の心に踏み込むとき自分の体面を気にして正直さを欠いてはならない。入学当初できていたことをここのところはできていなかった。

 野原は言った。

 ──奥底にピリピリしたもん抱えてねえから他人のそれに無神経になれんだよ。

 それがどういう意味かといえば、野原の抱えているであろう出自や被った理不尽から生じた不満や葛藤を、音羅は持っていないということではないか。

 音羅がなんの不満も葛藤もいだいていないなどとは勿論野原も思っていないだろうが、野原の発言には確かな穴がある。音羅がなんの意志もなく生きているのではないかと、だから野原の心に踏み込もうとできるのではないかと、言ったことである。

 決してそうではない。自分がなんなのか、音羅はずっと疑問を抱えている。天才にして化物と称された父、世界を救った一二英雄を危うく殺害しかけた優しき母、創造神アースの転生体である二人から生まれて、人間でありながら人間とは全く違う成長を辿った自分を、音羅はやはり人間とは思いきれないところがあった。

 人間とは。

 神とは。

 化物とは。

 それらになんの違いがある。人間は神と違って弱いのか。神は化物と違って尊いのか。化物は人間と違って恐ろしいのか。

 区別することになんの意味がある。差別といえるそれを行うことでなんになる。無魔力個体と有魔力個体という、世界を隔てる差別もそうだ。なぜ区別し、差別する。同じ人間同士ですら、どうして(いが)み合い、(そし)り合う。

 そのような小難しい考え方をやはりしない音羅だが、自分の怪力についてはさんざん向き合ってきた。それで一度は野原とのあいだに壁ができたと感じたから余計にだ。

 生きている。その一点で何も変わらない。区別することに意味があるとするなら、ある種の保護や庇護のためであろう。弱き者を守ろうとする勢力があって、そのためにはどうしても無魔力個体を区別する必要があるのだろう。けれどその結果差別が生じて有魔力個体が優秀と思い込み無魔力個体を底辺とする社会になってしまったのではないか。

 難しいことを考えるのは苦手な音羅だが、そんな社会の構造を、自分の置かれた環境や学園に通う無魔力の環境から、大まかには捉えたのである。

 加えて、貧民とそれ以外のひとびとの格差である。野原と自分を比べるだけでも歴然たる格差である。有魔力であり中流以上である自分と、無魔力であり貧民である野原とでは生まれたときから天と地ほどの環境差が生じ、物の見方や感じ方が大きく異なってしまった。

 しかし、生きている。何も変わらない。と、いうことは、生きる上で生じる迷いや苦しみに同じように傷つくということだ。

 野原は傷ついている。

 音羅だって傷ついている。

 二人とも、これから何度も傷ついてゆく。

 ……それなのに、差別して離れていくなんて、嫌だ。

 支えることはできないのか。

 差別なく区別することは、できないか。一方が一方を守るとか守られるとかではない。互いが互いを、支えることはできないのか。

 

 ……わたしは、そんなひとになりたいんだ。

 

 たとえ人間でないと言われても、誹られて傷ついても、誰かを支えるひとでありたい。そうしてそんな自分を支えてくれるひとがいる。

 ……家族や、みんなのように。

 野原もそうであろう。家族や学園のみんな、学園長を始めとする先生、野原を支えるひとが必ずいる。道を踏み外した野原が学園に通い続けられるようにしてくれたひとびとがいる。

 野原を支えたいなら、

 ……恐れず、話さなくちゃいけないんだ。

 ひとを本気で支えるためには、踏み込むことに臆病になってはならないのだ。

 

 

 気づくと、野原花を抱える背があった。

 ……誰、だ。

 どこかで見覚えがある髪だ。キツめのウェーブが掛かった白髪混りのだらしない──。

「っ、アンタは、」

「おぉ、気づいたん。農道に倒れとったぞ」

「竹神父……」

「オッサンとかでもいいぞ、これでも十代やけど」

「……竹神父かダメ親父で」

「好きに呼んで〜」

 見覚えがあるはずだ。ここのところ毎日のようにその背中を観ていた。テーブル席と一体化したかのように動かないものだから、どれほど動かないのか、と、稽古の合間合間に観察していた。観察するまでもなく竹神音羅から聞いた通り動かないひとであった。

 だから気になったというのはある。野原花はつい訊いてしまった。

「今日はどうして動いてるんですか」

「いつも通り話しゃいいよ。なんか落ち込んどるっぽい音羅を迎えに行こうかと思ってね」

「(……。)その途中であたしを見つけた」

「うん」

「娘んとこ行けよ」

「勝手に落ち込んで勝手に自爆するとも思っとらんから。馬鹿だが馬鹿なりに考えてもおるやろうよ」

「馬鹿、馬鹿、って、ひどい言い草じゃね」

「娘をどういおうが俺の勝手。それに、馬鹿は馬鹿やろ。自分のことを差し置いて他人に物を言うんやから、見合った報いを受ければいい。それを相手のせいと思うならクズ確定やな」

 竹神音羅は、そうは思わない。竹神父はそう考えているのか。

「……、……。娘より……」

 野原花は尋ねかけて、口を噤んだ。

「ふぅふぅ」

「いっ……ワタボウ。なんでここに」

 野原花の肩に突如の綿毛。此方翼の近くにいるワタネの前の姿がワタボウだが、なぜここにいるのやら。

「その子、お前さんが気になるんやない」

「あいつの近くにいるプウとかアンタの近くにいる結師とかってヤツらと同じ、か」

「まあそうやね」

「ふぅふぅ」

「鳴声の割に涼しくはならねぇな」

「暑いからねぇ」

 灌漑用水に乗った若い稲の香りが心地よい。農道の途中に佇むアパートに竹神父が入る。竹神一家の自宅である。

「なんか飲んできぃ。喉乾いとんやろぉ」

「……あんがとっす」

 増殖するのと不気味なワタボウも一体くらいなら追い払う必要を感じないので野原花は放置できるが、「コイツ、部屋にいれていいのか」

「ん、なんかヤバイん、その子」

「いや知らねぇけど、部屋ん中にわざわざ綿毛連れてくヤツいねぇだろ」

「引っつく類でよく見られるものでいうと、ノゲシやコセンダングサなんかは痛いしアレチヌスビトハギなんかはメンドいけど、ふわふわ系なら気にしんよ」

「ヌスビトうんたらは知らねぇけど、そう……」

 竹神父が昔ながらのダゼダダ訛りのせいか、ワタボウの件も含めて野原花は少し気が楽だ。

 いつも入っている涼しいダイニング。その一席についた野原花は出されたスポーツドリンクをちびちび飲んだ。向いの席についた竹神父がテーブルにぱたりと突っ伏す。

「今日はテレビ点けねぇの」

「疲れたぁ。寝たぁい」

 動かなすぎで筋力が低下しているのだろう、グータラに磨きが掛かっているようだ。野原花は苦笑せざるを得ない。

「アンタ、本当にあいつの父親なの」

「ああ、まあ、テキトーに」

「橋の下で拾った子とか」

「んにゃ、違うが。ちゃんと俺の細胞を受け継いだ子やぞ」

「細胞て」

 思わず吹いてしまったが、咳払いして野原花は真顔に戻った。

「あんまだらしない姿ばっか見せてんなよな。父親ならさ」

「大丈夫。娘は学習能力ゼロってわけでもないから」

「アンタはゼロそうだな」

「うん」

 即答か。

「うなづくなよ……」

「倒れとった理由はなんなん」

「先輩かよ」

「どういう意味」

「あー、いや、こっちの話。判んねーよ、いつの間にか倒れてて……、気づいたらアンタに背負われてた」

「疲れとんやない」

「心配してんの」

「責任を感じとるだけ。音羅に振り回されて疲れとるんやないのって」

「……多少は」

「で、なんか学びはあった」

 ……本当に急な展開だな。

 此方翼が信頼する人物。竹神父は思考回路が似ているのだろうか。言うまでもなく竹神姉妹の父であり、竹神姉妹をあれほど大きく成長させるような魔法を使えるらしい術者である。調べたところによれば碌でもない噂がいくつもあった。中には裁判沙汰になっているものも見かけられたが、常識外れな行動をする者はいつの時代も大抵周囲の理解は得られず不和を生んでいるものだ。相反するような栄光もあったから竹神父は能力を活かすこともせず引籠りになり他者の目を避けて生きているのだろう、と、野原花は推察している。

 質問に戻ろう。

 学びとは、

「どういう意味」

「他者と触れ合うと良くも悪くも影響されるもんやからね。音羅の影響で馬鹿にはなれたん」

「……そうなら楽なのにな」

「まじめやからお前さんは損やわ」

「アンタくらい不まじめならあいつも楽だった。あたしに怒られることもなかったろうに」

「不まじめなら話題に上さんやろ」

「……アンタの振りで話しただけだっつーの」

「納月や子欄はどう」

「話をブツ切りにすんじゃねーよ」

「なんや、音羅について話したいなら早くいぃやぁよ、生まれたときの体重はね、」

「いやそうじゃねーけどっ、っつーか、さっきからアンタ、あたしから話を引き出そうとしてねーか。娘に情報売る予定だったりすんじゃね」

「えー……」

「なんだよぉ、その苦い顔ぉ……」

 ずっと伏せていた顔をわざわざ上げている竹神父である。

「いやね、心外で。俺はそんなに娘に甘くないよ」

「……娘の落ち込みを遠くから察して迎えに行こうとしてたのにか」

「っふ」

「悪い顔で笑うなよ」

「だって、傷に塩塗りたくったろうと思っただけやし」

「げぇっ、マジ、どチクショー」

「世に出たら誰もが助けてくれるわけじゃないんやからそれを俺が教えたるだけのことやん。それのどこがどチクショーなん」

「いいたいことは解っけど……」

 竹神父が憫笑(びんしょう)。この男は本当に不まじめだ(!)

 野原花は両親への怒りをこっそりぶつける。

「親は子の土台なんだよ。しっかりしやがれっての。じゃねーとグレんぞ、コンチクショー」

「そういえばいいのに」

「は」

「親に」

「……」

 竹神父が顔を伏せていて、表情を窺い知ることはできない。

 ……ったく、なんなんだよ。

 癪に障った。野原花は、両親に言わない。

「初等部」

「……なんだよ」

「中等部」

「……だから、なんだよ」

「義務教育だ」

「……」

「そこまで、両親は責任を果たしたんやない。授業料だの修学旅行だのの金を工面して。壊れた鞄や楽器なんかの買換えなんかもしてね」

「(っ、)なんでそんなこと判んだよ……」

「俺も一時貧民やったし、今は今で世間からは犯罪者として扱われとるからな。子どものときであれば、所持品に対する害となって感情が顕れてもおかしくない。初等部や中等部といえば通学鞄や持運びできる楽器の類やな。上靴に画鋲や虫なんて古い手もあるが、あれは履ければごまかせる」

「……」

「そりゃ両親を憎むわな。貧民って扱いはどこまでもついて回る。でもま、それは両親も同じやからね」

「……んなこと、解ってる」

「『武術でも学んでくれてりゃ』って」

「ああ、思ってる。事実、学園に無魔力の先生もいるし、手に職があれば金は稼げるって証明されてる」

「肩を持つようやけど、いくつか上の世代のそれは奇跡なんよ。政治がやっと動き出して今はマシになりつつあるけどね」

「それでも、死に物狂いになれば──」

「そんな背中を観たことがない」

「……」

「必死に頭を下げて、汗水流して、泥水を啜るような思いをしてお金を稼いどった姿。多少なり観とるはずやよ。唯一の拠り所なんやから」

「……説教ならたくさんだ」

 野原花はコップを置いて立ち上がった。

「じゃ、またね」

 と、竹神父が手を挙げて軽く振った。

「……何がしたいんだ、このヤロー」

「保護責任放棄は犯罪やから助けた。俺は自分のためにしか動かんよ」

「サイっテー」

「周りに当たり散らしとるガキよりマシ」

「うっせー……、じゃあな」

「ああ、これ持ってきなさい」

「……」

 うちわ。投げ渡されたそれを突き返すのも面倒で。野原花は竹神一家のアパートをあとにした。

 苛立つ。

 全部、言われた通りだ。

「ふぅふぅ」

 ……くそ。ダセーな。

 当たり散らしているガキ。苛立ちを紛らわすために竹神音羅に当たった。踏み込んでくる彼女が鬱陶しくて──。払い退けるしかなかった。なんのプラスにもならないのに、素直になれないガキのようで恰好が悪い。

「ふぅふぅ」

 ……解ってる。解ってるよ。

 農道を越えて職場のある通りを渡り、ネットカフェ前を抜けて商店街中央アーケードを横目にして、野原花は寮へ向かい続けた。脚を止めたら、どこか温かい竹神家を振り向いてしまいそうだった。いつでも迎え入れてくれたぼろぼろの実家へ駆け出してしまい、そうして、影のように痩せ細った両親の優しさを思い出して憎めなくなってしまいそうだった。

 ……何かを憎んで、怨んでなきゃ、やってらんねぇんだからよ……。

 野原花は決めたのだ。何にでもいいから食らいついて絶対に揺るがないと。這い上がるためには心を鬼にすることだってしてみせると。その思いが固まったのは中等部の頃だったが、野原花はそれ以前から漠然と、己の優しさは弱さだと捉え始めていた。優しさだけでは貧困から這い上がれないと両親こそが証明していた。

 ……今日は、仕事、休もうかな。

 とても、飲んで話していられる精神状態にない。

 ……なんで、竹神父はあたしなんかを助けたんだ。

 じつの娘が落ち込んでいて慰めに行く気はなく、それでいて倒れた他人を助けてやるというのは、どうにも解せない。

 ……イタズラ目的なんて、あるわけねぇしな。

 野原花は、自分が美形とは思わない。一般的な美形、例えば竹神姉妹などと比べてしまうと不細工とすら思う。竹神父の妻である竹神羅欄納も、絶世と表せられよう美少女であった。そんな妻を持つ竹神父が野原花に肉欲を発するとは考えにくい。言ってはなんだが、あの手の男は面食いだろうからして。

 だったら単なる親切心か。本当に保護責任。どちらにせよ、

 ……あたしに娘以上の価値はねぇだろ。

 片や可愛くて他人思いで有魔力の実子。片や不細工で自分勝手で無魔力の他人。秤に掛けるのもお粗末だ。実子のほうが価値があるに決まっている。親とは、そういうものだろう。

 その考え方が、間違っているのか。親は、実子より他人を大事にすることがあるとでも。少なくとも、野原花はそんな親の心理を想像できなかった。

 寮の部屋に戻った野原花はうちわで自分を扇いで、歩み寄ったタンポポの鉢植えに水を与えた。

「ただいま……。ちょっと、元気ねーな、お前も……」

「ふぅふぅ」

 暑いか、日差が足りないか。植物のことはよく解らないが、土が乾いていたら水をやるようにはしている。

 小さな鉢植えの、白いタンポポ。両手に持って向かうだけで苛立ちが治まるのは、両親を思い出す。

 ……今、何やってんのかな。大丈夫、かな。

「ふぅふぅっ」

 田創町内の実家。距離も遠くはない。線路が近いから離れたが、離れたら離れたで寂しい。甘えて鍛錬がおろそかになりかねないので帰る気はない。勝手に、一方的に憎んで、顔を合わせづらいというのもある。

 ……何やってんだか。マジでダセーな、あたし。

「ふぅぅふぅ〜っ」

 仕事には、出なければ。わけも判らず倒れて混乱していた。仕事を休もうだなんて考えも、冷静になってみれば愚かだ。やれることを日日しっかりこなせないで、どうやって未来を切り拓くのか。竹神父の言葉に感化されたのではないが、両親は九年も安い給料で働いて中等部までの学費を工面してくれたのだ。それ以前、赤ん坊の頃から、生まれる前から、懸命に──。その努力と自分自身の努力を無駄にしないために、野原花は気持を切り換える。

 ……一回、シャワでも浴びてこよう。

 汗を流せば体が軽くなる。気持の切換えもスムーズに行くだろう。

「ふぅふぅっふぅ〜〜っ」

「んだよお前、さっきからうっせぇぞ、もぉ」

 机に鉢植えを置いた野原花は、

 ガンッ!

 後頭部に鈍い音が響き、ほぼ同時に痛みが全身を駆け抜けた。

「な、ん──!」

 何かで殴られたような感覚だった。中等部の頃を彷彿とするその痛みは、しかしもっと強烈にも思えた。背後を振り向こうとすると、

「っ!」

 誰かの息遣いとともに、

 ガッ!

 後頭部に先程と同じような音が響き、一瞬にして目の前に白が散り、一転して暗くなった。

 ……な、んなん、だ──。

 最後に聞いたのは、何かが割れた音だった。

 視覚が戻ったとき、野原花の目の前にあったのは、自分の着ていた服だった。それを取ろうとすると、

 ……っ!

 ガシャッと耳障りな金属音が乱雑に響いた。両手首が吊るされている(?)前や下にはほとんど動かない。

 何が、起こっている。目だけを動かし、恐る恐る両手のほうを一瞥。暗い世界。やや赤らんで観えた腕と明らかに異なる無機質な黒光りが目に入った。

 ……鎖、だって。

 じっと見直す。内側に棘のついた腕輪が両手首に掛けられている。後方の壁と腕輪を繫ぐ鎖が垂れており、これのせいで自由が利かない。先程動かしたせいか、その前からか、手首に棘が食い込んで血が滴り落ちている。

 ……なんだよ、ははっ……、マジで、なんなんだ。なんかの、ドッキリかよ。

 混乱・困惑、続けて恐怖に苛まれ、体の芯から慄える。

 ……なんなんだよ、これは……!

「気づいたんだね?」

「っ。……」

 野原花は、今の今まで気づかなかった。正面に視線を上げると、膝の高さほどの古ぼけた木箱に腰を下ろした青年の姿があった。指先に引っかけた何かをくるくると回す姿は嘲笑も相俟って挑発的だ。

「なんでこんなことになったか、気づいてるかな、君」

「……なんの、こと」

 手首の痛みが、激しくなってきた。気を失っているあいだに鈍っていた感覚が恐怖心に同調して研ぎ澄まされてゆく。

 青年が木箱から下りて服を拾い、回していたものと一緒に野原花の眼前に指先で広げた。

「君は、こうやってボクをじらしたよね?早く見せてっていってもなかなか聞いてくれないからタイムアップになったこともあったっけ」

 青年の言葉で、野原花はようやく状況が吞み込めた。

「もしかして、視聴者……」

「もしかしなくてもそうでしょう、ねぇ?」

「うっ」

 首筋に青年の指が食い込み、すぐに緩まった。

「ごめん、ごめんね?ボクもこんなこと初めてするから気が立ってるんだ。でもつれないじゃない、何十万注ぎ込んだと思ってるの、君の放送にさ」

「……」

 口を一文字に結び、青年を睨み据えた。

「それは何、抵抗?くくく……、いいね、ゾクゾクするよ、すっごくいい」

「ヘンタイが」

「自分にいってるんだよね?こうして下着を胸の前に翳して下ろすか下ろさないか、ってさ。で、最初に裸を見せてくれたのは君のほうからだった」

「……んなもん、仕事だからに決まってんだろ」

 身を切る思いが嫌というほどあった。「誰が好きで見せるか」

「金のためならなんでもしちゃうんだ?」

 高そうなジャケットの内ポケットに青年が手を入れる。

「は、金持なわけだ。その中から札束でも──」

「せーかーい」

「っ……」

 帯封のついた、紛れもない札束。青年が帯封を切り、札束をうちわにしてヒラヒラと仰ぐ。

「見ての通り本物だよ?ちなみにまだ四束あるから、合計五〇〇万。ほしいならあげるよ」

 陰湿な笑みの奥に欲望が透けている。

 未だ慄えは止まらないが、野原花は自身を鼓舞するために強気を装った。

「面食いじゃねーところは見所があるけど、アンタ、頭おかしいぜ。それであたしを買おうってことだろ」

「再び正解。君、理解が早くていいね、ま、放送のときにそれはなんとなく察してた」

「お褒めの言葉ありがとさん。そんな端た金、要らねぇよ、鬼畜ヤロー」

「へぇ……。五〇〇万で靡かないくらいあの放送で儲けてたってことかな」

 そんなに稼いでいたらとっくに学費を先払いして親孝行もしている。

「アンタらみたいな薄汚ぇ連中から金を恵んでもらおうなんて思ってねーんだよ」

「なんだ、強がりか」

 青年が残り四つの札束を取り出して野原花の前に積んだ。それから、木箱の蓋を開け、その中から、バサッと、何かを宙へ放り投げた。

 ……な!

 一万ラル札。無数の一万ラル札が宙を舞っている。

「さすがに靡いてない?木箱の中にいっぱい入ってるよ。ちょっとしたお金持だから、このくらい、いくらでも、一日に稼げちゃうんだ。貧民の君と違ってね」

 ……あたしの素性を──。

「図星だった?」

 ……っ。

「くくくくくっ、可愛いよ、すごく好きだよ、そういう貧乏人。可愛くて仕方ないなぁ」

「テメー……」

「あんな商売してた時点で貧乏人か色に目覚めたばかりの女なんだと判ってたよ。それなりに頭もいいからさ、大体なんでも判るよ」

「はっ、エリートぶりてぇんならちったぁセレブらしいこともすんだな、ヘンタイ」

「……」

 ツカツカと歩み寄った青年が野原花の肩を摑み、思いきり抱き締めた。

 腕輪の棘が食い込み、声にならない声が漏れた。

「痛い?痛いよね。ごめんね、大好きだからやってるんだよ。貧乏人だからじゃなく、君が好きだから抱き締めたんだよ。ね?理解してね?それで、受け止めてほしいな」

 青年が腕を緩めると、片手をバックルに持ってゆく。軽い音を立てて外れたベルトを抜いて青年が──。

 ……お、おい、噓だろ。

「この日を待ってたんだよ、ずっと」

「じょ、うだんだろ、こんな……」

「貧乏人に拒否権なんてないよね。娼婦みたいな仕事しかできないんだから、優秀な種子を与えられることを光栄に思ったほうがいいよ。ボクの財産が子どものものになれば、君は金持に昇格って算段だ。合法だから誰に咎められることもない」

「ふざけんな!こんなことして許されるわけ──」

「黙る奴ばっかさ。金さえ積めば心さえ買えるんだから──」

 青年の手が、肌を這う。

 ……くそっ!

 壁際に体を捩って逃れようとするも棘と鎖が動きを制限する。一度、二度、離れた手が、都度、追いついてきた。

「たっぷり愉んで。それだけで、君は幸せになれるんだから」

 

 

 寮へ向かうと野原はまだ帰寮していないとのことで、音羅は一度家に戻った。すると、野原を招いて緑茶を出したという父の話を聞いた。うちわを受け取った野原が寮へ戻ったであろうことを父が話したので、音羅は再び寮へ向かった。

 ……行き違いになっちゃったんだ。

 野原が走って帰寮したなら走っても追いつけまい。寮にいるなら焦ることもないので歩いて向かうことも考えないではなかった。一刻も早く話したくて、音羅は猛暑の道を駆け抜けたのであった。

 寮前に到着した頃にはすっかり汗びっしょりになっていたが構うことはない。四輪手押車を押す宅配業者と擦れ違って寮に入ると、野原の帰寮を寮母から聞き、野原の寮室へ案内してもらった。夏の休校期間ともあってたくさんの生徒が廊下で雑談に興じていた。見知った生徒も多いので挨拶して進み、野原の寮室についた。

 思えばここへは初めてやってきた。ノックすると、

「あれ、開いている……」

「花さんが不用心は希しいね」

 扉がきちんと閉まっていなかったらしい。開き戸が室内へ向かってゆっくりと動いてしまった。

「失礼します……」

 と、声を掛けて中を控えめに覗く。見渡しのいい殺風景な部屋に野原の姿はなかった。

「野原さん、まだ帰寮していないようですね」

「そんなことないはずだけど」

 寮母が音羅の後ろから室内を窺い、「外へ出ていく姿は見てないから、誰かの部屋にいるんじゃないかね」

「そうですか」

 野原が訪ねそうな女子寮内の生徒といえば。

「菱餅蓮香さんや知泉ココアさんは帰寮していますか」

 寮母が出入寮履歴を端末で確認。

「ココアさんは虎押君の見舞ね。蓮香さんは寮にいるわよ」

「此方翼さんはどうですか」

「翼さんは不在ね。迎えが来ていたみたいだけど私用ってくらいで行先は判らないわ」

「教えてくれてありがとうございます」

 蓮香や知泉の寮室には何度か足を運んだことがある。寮母にお礼を言って別れた音羅は、現れたプウとともに蓮香の寮室を訪ねた。

 蓮香は衛と一緒にいた。野原は訪ねてきていないようで、「花さんに何か用だったの」と、いう蓮香の問に、「ちょっと聞きたいことがあって」と、だけ音羅は答え、「野原さんがどこへ行ったか心当りはありますか」と、尋ね返した。蓮香と衛に心当りはないようで、首を横に振ったのだった。

 ……どこへ行っちゃったんだろう。

 野原が訪ねるとすればほかは思い当たらない。と、いうのは少し失礼だが、音羅はこれと言える手懸りがない。野原が入口を通りかかったら知らせてくれるよう寮母にお願いして、一室一室訪ね回ることにした。女子寮だけでも一〇〇を越える部屋数で、全て回り終えたのは夕方であった。

 ……いない。どうして。

 共用スペースも随時確認し、部屋を借りている生徒一人一人に野原と会っていないか確認した。共用スペースに野原はおらず、誰一人野原と会っていなかった。

 入口にいてくれた寮母を改めて訪ねたが、音羅が寮を回っているあいだも野原の出入りはなく、端末で管理されている出入寮履歴も帰寮状態のままだった。

 入れ違いで部屋に戻っている(?)

 野原の部屋を再度訪れた音羅は、己の注意力のなさに愕然とした。

 ……これは。

 最初に訪れたとき遠慮がちに入口から覗いただけだったことが見落とした原因だった。扉の死角に鉢植え。机から落ちたのか、割れた赤褐色の中、白いタンポポが土に沈んでいる。

 部屋に足を踏み入れ、近くで鉢植えを観察して気づいた。割れて尖ったところに素材とは別の赤いもの。

 野原の身に何かあったのか。それとも、単に拾おうとして怪我をして手を洗いに、いや、それはない。共用スペースも確認したのだから。

 ……やっぱり何かがあって──!

 頭が真白になる。

「プゥ!」

 火の粉が弾けるような声で、我に返った。

「っ……うん、冷静に、ならないと」

 深呼吸して、心を整えた。

 寮母や履歴によれば野原は寮を出ていないが、本当にそうなら野原はとっくに見つかっているだろう。

 知泉の一件が脳裏を過った。

 ……誰かに、連れ去られたの。

 空間転移などを使われたのなら視認のしようもないが、……念のために聞いていこう。

 寮母を三度訪ねた音羅は、この数時間に不審な人物または生徒以外の出入りがなかったかを尋ねた。怪しい人物はいないとのことであったが、

「いつもの宅配便のお兄ちゃんが来ていたね」

 と、思い出したように。

 ……宅配便って、あのひとかな。

 寮に来たとき、ちょうど擦れ違った青年。四輪手押車に大きな箱を乗せて出ていった。

 ……まさか、あの箱の中に野原さんが。

 それだけで疑うのは早計だが、肌が引き攣るような、嫌な予感がした。

 ……野原さんの隙をずっと窺っていたんだとしたら。

 野原がずっと前から感じていた視線の主が、その宅配便の青年だったら。

「寮母さん。そのお兄さんって、いつ頃からこの寮に配達するようになったんですか」

「はっきりとは。う〜ん……、そういえば、花さんが退部やらなんやらで落ち込んでた頃だから、武術交流会の頃かねぇ」

「っ……、そうですか」

 音羅は、嫌な予感が的中しているような気がしてならなくなった。学年混合武術交流会は野原が退部になった五月のことで、ネットカフェでいかがわしい生放送配信を行っていた時期。そこに、視線の主の疑いがある青年の出現時期が重なった。

 ……たぶん、視線の主は、あのひとだ!

 音羅はガラス戸越しに外を睨み据えた。

「寮母さん、その宅配便の住所か連絡先を知りませんか。宅配を頼みたいので」

「あぁ、ごめんなさいね、あたしは知らないわ。どうしましょう」

「それでしたら構いません。よければ知っているひとを探しておいてください」

「ええ、三大のお願いだもの、調べておくわね」

「いろいろとご協力ありがとうございます」

「いえ、いえ、また来てちょうだいね、花さん、最初の頃より明るくなってきたの。きっとあなたみたいなお友達ができたお蔭ね」

「──また来ますね」

 音羅は、寮をあとにした。

 ……急がないと、取返しのつかないことになる。

 音羅の()()が正しいなら、あの青年は──。

 

 

 金持の、青年の、歪んだ欲求を呼び起こしたのが自分であるのだとしたら、自業自得と言うこともでき、そうであるならば受け入れなければならないと言うことも、できなくはない。眼下に散らばった万札。これらが全て手に入るのだとしたら、偽りの憎しみに曝した罪なき両親を楽させてやれる。自身の生活も楽になる。ひょっとすると一生楽になるやも。

 ……なんて、思えるかよ。

 汚い金だ。

 歪んだ青年を眼前に、プライドを棄ててまでお金に執着できたら、野原花は自分を人間と思えなくなりそうだ。

 ……チャンスは一回だ。どこかに、あるはずだ。

 両腕の痛みで妙に冴えた頭が、ここを脱する策を必死に探った。思いついたのは腕輪の解除と、暗がりの密室からの脱出。窓や扉といった出入口があるように観えないが、入ったのなら出ることもできるはずだ。相手に警戒心を与えてしまうことを考えるとチャンスは一回。腕輪さえ外れれば力技で逃げることができる。幸いにして、野原花は今も慄えている。素性を探られ、第三田創に通っていることが知られていても無力な貧困女子と思われているだろう。だから、鎖に繫がれた無防備な野原花に、青年が這いずり回っている。

 ……くっそ、気色悪ぃ、ぶん殴りてぇ!

 嫌な汗が噴き出すばかりで快楽などこれっぽっちもない。

 今はしかし堪えねばならない。脚を拘束されていない。青年が持っているであろう鍵を見つけて腕輪さえ解除できれば。

 ……いや、待て、冷静になれ。探すにも探せねぇ。

 あまりの悍ましさに慄えが止まらないが、思考まで怯えていてはならなかった。皮肉にも、腕の痛みに集中すれば恐怖が消えてほんの少しだけ思考が冴えた。

 腕輪の鍵があったとして野原花は手が自由に使えない。ほぼ無防備の状況で鍵を見つけて奪うことができたとして、奪い返される危険性のほうが圧倒的に高い。ならばどうするか。

 ……、……生きるために、手段なんか選んでられねぇんだよ、成金ヤロー。

 野原花は、一つの決意を持って事態に臨む。

「ちょ、ちょっと離れてくれねぇかな」

 慄えた声で呼びかける。「ちょっと、考えるから」

「何を?ひょっとして、前向きに受け入れてくれるの」

「ああ──」

 野原花は、全身全霊で目を細めた。慄えた体と声帯が、異常なほどの色香を醸し出した。

「──もっと気持よくなりたいの」

「っ……そ、そうだ、そうだよね!じゃあ、ちょっと趣向を変えよう!」

 青年が頰を赤らめて立ち上がり、あたふたする。

 ……コイツ、こんなことしといて結構免疫ねぇんだな。

 欲望が爆発して周りが見えなくなり、一線を越えてしまったのだろう。哀れとしかいいようがないが、今はそんな青年の心理を利用することを、野原花は考えた。

「ベッドはないの。腕あげっ放しで疲れちゃったから、横になりたいんだ。魔法薬なんかがあれば、怪我も治して」

 稽古に響いたら将来に関わる。「それか、傷薬を塗るとか。痛くて全く集中できないぜ」

「べ、ベッドも、魔法薬とかもないよ」

 そんな判りきった応答など求めていない。野原花は、痛みと疲労と恐怖心と憤りを艶に差し替えるようにして、呼吸をした。

 青年が過敏に動いた。

「ご、ごめんよ?いま外すから少し横になって!続きはそれからだ!」

 木箱の中から万札を取り出して干草(ほしくさ)のように床へ広げた青年が、ポケットから小さな鍵を取り出して野原花の腕輪を外した。一か八かの色気作戦が功を奏した。

 ……っ、くっそ、マジで痛ぇ。

 棘の刺さった痕を目の当りにすると、痛みが増したようだった。痛みを増させたのは、青年のお金の扱い方もだろう。

 ……金の本当の価値を、きっとコイツは知らねぇんだろうな。

 今まさに敷物のようにした万札。そのたった一枚を稼ぐのに貧民がどれほど努力せねばならないか。そのたった一枚で一家が何日食い繫げるか。

 覆い被さるようにして行為を再開した青年が一日にどれだけ稼げるとしても関係ない。一握の食事や九年間の学費、お金にもならないタンポポとともに咲いた笑顔。そっちのほうが野原花には価値がある。自分の半生を繫いだその価値を踏み躙りたくないから、ここで墜ちるわけにはゆかない。青年の「金」に、真に求める価値はない。

 ……手は、動くな。

 青年が欲望に身を委ねている。野原花は体を許すふりをしながら疲れた腕を休め、己の体が自由に動くことを確認していった。

 青年の手が、野原花の太股を撫で──。

 ……ここらで、終わらせてもらうぜ。

 野原花は青年の膝をそれとなく足蹴り(あしけ  )して崩し、手に手を絡めるそぶりで自然と腕を絡め取り、青年の背後に回って背中を足蹴にして組み伏せた。

「終りだ。ちっと黙っててもらうぜ」

「え、な、何っ?どうしたの、こういうプレイ?」

「はぁん、そうか、こういうのがお好きか。だったら……」

 心地いい痛みを与えつつ青年を壁際に引き摺ると、先程まで自分が掛けられていた腕輪を青年の腕に。

「い、いでっ、な、ちょっ、これはさすがに、──っ!」

「気づくのが遅ぇよ、ヘンタイ」

 野原花は剝がれていた衣類を着て、腕輪の鍵を部屋の隅へ投げ捨てた。

「だ、騙したのか……」

「プレイがしたいんだろう」

 野原花は青年を見下ろして、やっとのこと慄えが治まった。

「独りでやってろ」

「この……!」

「こっちは生きるのだけで必死だけどな、金で解決するようなアンタみたいな連中と違って、金でひとの心まで買おうだなんて真似はしねぇ。それがどれだけの侮辱か、そこでゆっくり考えやがれ」

「っ……」

 ひとの言葉をまともに聞くような相手ではあるまいが、一喝が効いたか、青年が俯き、動かなくなった。油断はできないが、距離を取れば安全だとは腕輪が証明している。

 ……あとは、ここを出なきゃな。

 服を着さえすればまともな未成年である。肌に纏わりついた不快感を洗い流したくて仕方ないが急がば回れだ。

 細い糸の上を歩いているかのよう。バランスを崩せば真逆様(まっさかさま)に錯乱しそうで、ある種の興奮状態のせいか、やたら暑い。冷静に、ならなければならない。青年と距離を取って深呼吸し、壁際にぽつんと置かれた燈が揺らす風景を隈なく観察する。

 ……改めて観ても、出口が見当たらねぇな。

 竹神音羅と稽古したアパートの庭とほぼ同じ面積、約一〇畳のコンクリート床。天井には照明具らしいものがなく、穴らしいものもない。壁には窓も扉もない。あるとすれば、部屋中央に置かれた万札の入った木箱と、壁と腕輪を繫ぐ鎖。屋外に面した部屋ではないか地下であるなら窓や扉がないのもうなづける。昇降できる梯子や穴のようなものが見当たらないので、最も怪しいのは木箱だ。

 野原花は重い木箱を動かし、床を確認した。

 ……汚ねぇ金も、ちゃんと重いんだな。

 心中に皮肉を浮かべる余裕が出たのはよかったが木箱下の床に何もない。

 青年が薄ら笑いを浮かべた。

「出口はないさ」

「なけりゃ入れねぇだろ」

「塞いだっていったら」

「んなことできねぇだろ、コンクリ業者でもあるまいに。そもそも手押車もねぇのに生コン運べねぇだろーが」

「床を埋めたなんていってないでしょ?」

「……壁か、天井か」

「いうと思う?」

 ナメクジのように這いずり回ったお返しにぶん殴ってやろうか、と、野原花は本気で拳を固めたが、手首が痛むし、怒りに任せて暴行するより脱出するのが先。脱出後に通報すればこの青年は法が裁くだろう。

 ……金で黙るヤツが担当しなければだけど。

 それはまた別の話。安全確保が最優先。青年付近を除いた壁全体を野原花は観て回った。

 ……おかしい。継目(つぎ)すらねぇのは不自然だろ。

 壁を触れると違和感を覚えた。(ろう)を撫でたかのようなぬめっとした触感だ。コンクリート床との壁の境目も粘性の高い液体を流して固めたかのように角がない。こんな造りの建物があるのだろうか。野原花は首を傾げた。

「くくくっ、お、ば、か、さ、ん、っくくくくくっ!」

 密室に青年の声が響く。

 ……コイツ。

 振り向くと、哀れんだような笑みの青年。……竹神父みたいな表情だけど。

 どうしてか全く違う。この青年から底のない欲望が立ち上っている。腕輪で動けないというのにどこか余裕があって不気味だ。

「とっとと出口を教えろ」

「ボクの後ろだよ」

「ふざけんな」

「本当なんだけどね」

 青年が底意地の悪い笑みを浮かべて胡座を搔き人差指を立てて背を示す。「ちょうど腰辺りの壁にスイッチがある。囚われの身のほうが安全に近かった、なんて、皮肉な話だね」

 近距離から確認させて反撃するつもりだろうが可動域は野原花が一番判っている。そこ以外に確認できていない場所がないので、警戒して距離を取り、横からよく観る。と、座った青年の腰の高さにそれらしい突起があった。あれを押せば妙な壁の一部が消えて外に出られるということか。カラクリか、機械仕掛けか、魔法か、なんでもいい、脱出さえできれば。

 ……鍵は、ぶん投げた。コイツの手は届かねぇ。

 暗い。恐い。早く逃れたい。

 青年が極力動けないよう両脚を膝で押さえつけて、スイッチと思われる突起に野原花は手を伸ばした。そのとき、耳許にあった青年の口が呟いた。それはどこかで聞いたことのある文。

「……出よ『火球(かきゅう)』、──集束(アリュー)

「──!」

 青年の右手の前、野原花の左耳間近で真赤な炎の球が形作られて渦巻き、すぐのこと、野原花は背を反って、

 ゴゥッ!

 射出された火球が眼前を抜けて壁に衝突、背面から風が煽った。

「ぐっ……有魔力、だったのか」

「残念、躱したか」

 青年の口許に笑みが残っていた。野原花は離れようとするも時すでに遅く、

 ドッ!

 新たな火球が野原花のお腹を撃ち、向いの壁まで弾き飛ばした。何かを潰したようなバチンという音が、全身を駆けたようだった。一瞬途絶えた聴覚が回復するにつれて、青年の高笑いが大きく聞こえた。

 野原花は床に崩れ落ち、動けなくなっていた。

 ……マジ、かよ……、デタラメな、打撃だ。

 先輩諸兄や竹神音羅の拳や蹴りを散散受けてきたというのに、そのどれより火球の一撃は重く、衣類とともに腹部が燃え落ちてしまったかのようだった。

「解ったかい。無魔力の貧乏人さん。ボクには従うしかないんだよ。そうしなきゃ。──」

 青年が先の文を口に出し、両手に火球を携えた。「これで君は死ぬかもね。一撃でそんなにダメージを与えるつもりなかったんだけど、無魔力の人間ってホントに魔法に弱いんだね、かわいそうに。こんなんじゃ魔物にだって対抗できない、紛うことなき弱者。それだっていうのに、なんで従わないんだ、度しがたい──」

 ……べらべらと。

 内臓まで効いているような打撃だった。動けない野原花を観て青年が調子づくかといえば、そうでもない。

「君はあいつらとは違う、理解し合えるはず……そう、そのはずなんだ」

 声だけ聞くと却って苛立っているようにも捉えられた。

 ……っくそ。頭、痛ぇな、腕も、背中も、そこらじゅう痛ぇ……。

 壁にぶつかり、床に落ちて、衝突したところ以外にまでダメージが及んだのか。それとも、これが魔法の威力か。だとしたら、確かに、有魔力は魔物に対して有利だろう。町どころか国も守る力だってあるだろう。鍛えに鍛えてきた野原花が、たったの一撃でノックダウンだ。

 ……くそ……。

 悔しくて、情けなくて、涙が出てきた。

 ……結局、あたしじゃ、有魔力を超えるなんて、無理なわけだろ。

 プライドを棄てるつもりなどない。しかし生まれながらに魔力があるかないか、ただそれだけの差で人格を問わずこれほどまでの力量差が生じている厳然たる事実。実感したからには、認めないわけにはゆかなかった。

「諦めたか。痛すぎてもう動けないか」

 ガシャンッ!

 耳障りな金属音が密室を反響。弾かれるようにして野原花は顔を上げた。そこには、腕輪を火球で焼ききった青年が、立っていた。

「こんなこともあろうかと脆そうな腕輪を買っておいてよかった。無魔力の君を拘束するには十分だったしね」

 ……っはは、こりゃ、参ったぜ。

 お腹の痛みは少しずつ和らいできた。が、叩きつけられたときに骨に罅が入ったのか、激痛が走る背中を中心に神経伝達が阻害されたかのように手脚が動かず起き上がれない。

 青年が詠唱文を口にし、またも両手に火球を携え、野原花に歩み寄り、背を足蹴にした。

「っぐぅぁぁっ!」

「っ……、どうしたの。そんなに力入れてないんだけどね」

 言葉に噓はない。

 ……ホントに、骨がやられてんな、これ。

 そうと観るや青年が言葉を覆し、足に力を込めた。

「ああ、そうだ、お返しだ。平等でなくちゃ、理解とはそういうものだ!」

「ひっぐっ……!」

 歯を嚙み締め、激痛をやり過ごすも、

 ゴウッ!

 密室の空気を大きく揺るがした火球が両脚を打ちのめし、

「ーーーーーーーッ!」

 野原花は、絶叫を余儀なくされた。

 両脚が焼き尽くされてしまったかのように、まるで失くなってしまったかのように、激痛の後、両脚の感覚がなくなった。

 再び、体の芯から慄え出した。同時に野原花は思う。

 有魔力には、敵わない。

 何をしたって、見くだされる。

 努力しても、食い潰される。

 無魔力に生まれたことで、ここで、この青年に殺されてしまう。それでなくても、悍ましい暴行の末、打ち捨てられるか、監禁されるか。

 到頭、気持すらも立ち上がることが、できなくなった。

 ……人生、ここ、で、終りな、ん、て──。

 許容を遥かに超えた痛みで、意識が遠退く。

 

 ──その怪我、誰にやられたん!

 ──病院、病院だ……連れてったるからちょっと我慢しぃよ、花!

 

 幻聴か。

 

 ──服どうしたん!

 ──持ってった金で、それ買ったんか。

 ──どうしてぇ!信じられへんわ、なんでそんなことできるん……!

 ──座りなさい。謝りぃ、花。解っとるんやろ。……な。

 

 ……声。

 

 ──進学おめでとう、花!

 ──制服、結構似合うやんなぁ!あははは!

 ──もう、お父さん親バカすぎやん。まぁ、……、んふふ。うん、いい感じやね!

 

 声が。

 

 ──ひどいこと。ボロボロやんか……。

 ──大丈夫っ、買い直してあげるから!

 ──な、泣くな、形あるものは壊れるんやって。

 ──こっちは縫ったるよ。やから、顔を上げてよ、ね。

 

 聞こえる。

 

 ──花。

 ──花。いつかきっとみんな笑顔だ。

 

 たくさんの、本当にたくさんの、大好きなひとの声が、聞こえた。そんな気がした。

 ……あたし、きょうは、がんば、ったよ。

 いつかのように、いつものように、答えた。もう届けられない声を届けるように答えた。

 闇に落ちかけた意識に、

 ドーーーンッ!

 爆音と一つの声が届く。

「野原さん、しっかりしてっ!」

 耳障りな、嫌いな声だ。

 追い払いたい、厄介者の声だ。

 だから、聞き間違えない声だ。

 ……た、けみ。

 指一本動かない。

 声を聞き、光へと這いあがりかけた意識もまた闇へ引き摺り込まれてゆく。

 ……し……、あたし──。

 

 

 壁を蹴破って見つけた暗がりの一室に滑り込んだ音羅は、意表を衝かれた青年を押し退け、満身創痍の野原に駆け寄った。

 呼びかけたが反応がない。息はあるようだが、か細く、いつ止まるか知れない。

 ……こんな、こんなのって──。

 擦れ違った宅配便の青年が有魔力だったように感じて空覚えの魔力を探り、希しく先を行くプウのあとを追って商店街の雑居ビルに行きついた。中に入って階段を下り、壁際を浮遊するワタボウらしき綿毛を見つけ、空覚えの魔力を壁奥に見つけてここに辿りついたが、──音羅は初動の遅れを感ぜずにはいられなかった。

「邪魔するな!」

 音羅の乱入に気を動転させていた青年が、敵意を顕に、「出よ──」と、詠唱を始めたが、

「やめてください」

 気迫で圧倒して、音羅は青年の詠唱を止めた。

「あなたが彼女をこのようにしたんですか」

「……報いだよ、ボクを出し抜こうと、あまつさえ見くだそうとした」

 音羅は、怒りのあまり、絶句した。人間というのは斯くも愚かか。

「その子はね、自分からボクに体を曝してきたんだよ。つまり合意の上。痛めつけられるのも望んだプレイだよ。君は起点を見逃しプロットを崩す乱入者。退場してくれ」

 音羅は野原を向き直り、怪我の程度を確認する。

 ……この怪我は、もう、魔法でしか治せそうにない。

「感じるよ。君も有魔力だろう。けど、ボクの魔力に到底及ばない。そっちの子は無魔力だ。無魔力は有魔力の小間使い。そりゃそうだよね。有魔力のほうがずっと偉い。多くの責務と重圧を課せられて生きていくんだ。地位も名誉も金も、力だってボクら有魔力こそが得るべきものだ。そうだろ?ボクと同じ有魔力なんだから君はよく解ってるはずだ。そしてそれら全てで全てを守っていくんだ……!」

「ピィ……」

「ふぅ〜……」

 プウとワタボウが呆れたように音羅の肩から青年を覗いている。

「……変なの連れてるね。話、聞いてる?」

 わたしと同じような考えを持っているんですね、と、譲りたいところであったが、それは言葉のみを捉えたの話だ。彼は、野原を傷つけた。傷ついた野原を見下ろした。助けようとしなかった。それで全てを守る、だと。

「聞くに堪えないので聞き流しました」

「……図に乗るなよ、雑魚が」

 青年の声音が低くなった。「こっちが頭下げて穏便に済ませてやろうというのに、黙って消えてくれよ、なあ!」

「それが本性ですか。……」

 青年の言葉をまともに取り合う気などないが、野原を連れてゆこうとすれば魔法で狙い撃ちにされるだろう。危険な状態の野原がダメージを負うような事態を避けねば。

「ボクとやる気か」

 対峙した音羅を青年が見くだす。「同じ炎属性魔力で低レベル。君は丸焼きだな」

 同属性魔力なら保有する魔力量の多いほう、要するに強いほうが圧倒する。それくらいは座学で眠る音羅だって解る。

 青年が両手を翳し、音羅を標的とする。

「もう止められたりしないさ。荒れ狂え『暴火(あばれび)』、──集束!」

 両手で放たれたのは部屋を覆うほどの爆炎であったが、音羅が睨むだけで炎が退く。

「馬鹿な……、操れない!」

「魔力も嫌なんでしょう。あなたに従うのが」

「馬鹿なのか。魔力は単なる元素。魔法は、術者の精神力を消費して操っただけの単なる現象だ。意志なんかどこにもないさ」

「そうですか──」

 この青年が人生のどこで誤ったか知る由もないが知ったことではない。強力な魔法は精神力を大きく消耗するので乱発できない。野原を助け出すなら今のうちだ。

「彼女が合意したとは思えませんので失礼します」

「っ、逃がすか!」

 ……精神力が尽きていない。なら、仕方ないよね──。

 爆炎が生き物のように入口を塞ぐが、青年の制御が利かなくなり、どんどん火勢が弱まる。

「うっ、馬鹿な、なんでっ、──っ!なんだ、その魔力……!」

 音羅を見やり、青年が青ざめた。

 音羅は体内に潜めていた魔力を解放していた。青年の魔法は、音羅の強大な魔力にあてられて鎮火されているのである。

 魔法はひとの手で形作られ、攻撃・防御・治癒・補助と性質を変えるものである。そうして性質を変えた強大な意志の塊ともいえる青年の炎魔法は害意といえるだろう。対して魔力は、なんの性質も持たず青年曰く意志はない。青年の理屈では、音羅の魔力にもなんの意志もないということになる。が、そんな音羅の魔力が青年の害意を鎮火している。音羅の魔力には、明確に意志があるからである。

「こ、こんな魔力、あり得ない。ぼ、ボクはS級の魔力をもってる、持ってるのに……!」

 部屋を覆っていた火炎の一切が消え、怯えた青年が尻餅をついた。

 音羅は野原をそっと抱きあげて、青年を視る。

「魔力の強さなんて関係ありませんよ。魔法は傷つけるためのものなんかじゃないんです!」

「っ……」

 言葉を失った青年を背にして音羅は地下室を出た。蠟で内側から固められていた金属扉は音羅が蹴破って壊れている。部屋の外には四輪手押車、その横には崩された箱ときよらうちわ。ワタボウがいたのもそこ。空覚えの魔力だけでは踏みきれなかっただろうが、これらを観て音羅は金属扉を蹴破る決心をしたのだ。この雑居ビルは例のネットカフェ付近で倉庫として使われているようだった。

「プゥ、ピィ」

「ふぅふぅ」

「プウちゃん、ワタボウさん、ありがとうね……」

 二人のお蔭で野原を見つけることができたと言っても過言ではない。音羅が地上階に上がると、昇降口に父が待っており、その肩に載ったクムがワンピースを差し出した。

「裸で外へ出すつもり」

「オト様お手製です。着せてあげてください」

「ありがとう。でもパパ、クムさんも、どうしてここに」

 音羅は単独行動。父達の出現は予想外だった。

「保護責任。と、いうか、お前さんが魔力を解放したから何事かと思って観に来た」

「相手が有魔力で手段を選ばなそうな感じだったから……、ごめんなさい」

 普段は魔力を潜め、魔法と腕力を極限まで弱めている音羅である。先程は怒りで魔力を潜められなくなっていたという部分もあった。

「まあいい。魔法を使っても構わんような状況やったのはこの子の状態からも解る。それでも魔力の解放だけで牽制にとどめたんやから上出来だ」

「……うん」

「ほら、早く着せたって」

 父が支えたあいだに音羅は野原にワンピースを着せた。

「パパ、野原さんの傷、大丈夫かな」

「腹部と背面全域の打撲、肩甲骨が骨折、加えて両脚は重度の火傷。ほっといたら死ぬね」

 音羅は血の気が引いた。気を失っている野原を抱え直し、父に懇願する。

「治してあげて、お願い!わたしじゃ、治せない……」

 いかに応用ができても、それは〈炎〉の性質を利用している。炎に治癒の性質はない。納月や子欄なら治癒魔法も使えるが、今はいない。

「パパならできるよね。お願いだよ……!」

「ふむ」

 クムが父の肩を叩いた。

「ほっとけませんっ、助けましょう」

「ふぅふぅ」

「ピィ」

 クムのみならず、ワタボウやプウにまで詰め寄られて、父が彼女らを押し返した。

「解っとるからほっぺた押すな。無駄遣いでもないし、ここはやろう」

「パパ……、ありがとうっ!」

 指示に従って野原を俯せにした音羅は、父の施した奇跡のような治癒魔法を目の当りにし、己を振り返っていた。

 ……おもいがあっても、使えない魔法はあるんだな──。

 自分には、できないこと。無い物ねだりだとは判っていても、努力ではどうにもならないと判っていても、野原の怪我をすぐに治してあげたかった。

 野原の痛みを取り除けない自分の無力さも、それを招いてしまったかも知れない注意力の散漫さも、音羅は嚙み締めたのである。

 全快した野原の表情が少し緩んだようなのは、そう思いたいからか。

「パパ、わたし……、野原さんに何もできなかった。こんなに痛めつけられていたのに、パパのところに連れていこうって思うことしかできなかった……」

「不甲斐ないね」

「うん……。治癒魔法が使えたら、パパみたいにその場でぱっと治せたんだろうな」

「顔を上げて、姿を見つめなさい、音羅。お前さんにはお前さんの癒やし方があるよ」

 父が野原を仰向けにして、音羅を見上げた。

「わたしの、癒やし方……」

「状況を察してこの子を救ったのはお前さんの努力やよ」

「そうかな……」

「この子は無魔力やから魔力では追えんかったやろ。プウや綿毛が導いてくれたんやないの」

「うん」

「この子を捜す必死な気持を、プウ達が察したから導いてくれたんやろうと俺は思うよ」

「そう、なのかな……」

「音羅様、自信を持ってください」

 と、クムがワタボウを両手で抱えて、微笑む。「わたし達は少しお手伝いするくらいしかできませんが、だからこそ相手を選んで姿を見せます」

「そう、なんだ。初めて聞いたよ」

「それはともかく、」

 と、父が言った。「事実を正しく受け止めぇよ。見落しや越度で悪いことが起きて受け入れがたいとしても、過去のことは変えようがないし、取返しがつかん。ならばそれよりも、自分がやれたこと、それで得られたものを確かめろ。悪いことに目を曇らせて、いいことに目を瞑るな。そんなことしたら、大切なものを見失って、落っことすぞ」

「……うん……そうだね、うん」

 積極的に動いた。それがなければ、野原を助けることができなかった。野原が傷ついたことは取返しがつかないが、野原を助け出せたことは間違いなくいいことだ。音羅は、その事実をしっかり吞み込んだ。

 ほわりと光を膨らませて現れた結師が野原の傷んだ髪を瞬く間に梳くと、父が息をついた。

「内臓に及んだ傷の治療はもとより全身の浄化もやっといた。髪もちょっとはマシになったやろう」

「ちょっとどころか世界一綺麗になってるわよぉ」

「はいよ、お疲れさん」

 結師のハイテンションな主張を受け流して、父が音羅を見上げた。「連れてきぃ」

「野原さん、これでもう、大丈夫なの」

「体はね」

 ……。

「帰宅時間は気にせんでいいよ」

「……うん」

 それが、音羅にできること。音羅の、癒やし方。

 ……野原さんのことを知りたい。そのことも、しっかり話したい。

 それはまた今度でもいい。彼女が目を覚ますまで傍にいて様子を見守ることも彼女を知ることになる。寮に行く用事もある。

 ……タンポポの鉢植え、あのままにしておけないものね。

「ほら」

 と、父が野原を抱っこして音羅におんぶさせた。

「あ、パパ、うちわが落ちていたから拾ったよ」

「その子にあげたもんやから持ってって」

「解った。じゃあ、寮に行くね。帰り、遅くなるかも知れない」

「仕事の件は学園長に連絡しといたるから、ゆっくり休ませたりぃ」

「うん、ありがとうね」

「ピィッ」

「ふぅふぅ」

 音羅はプウとワタボウを肩に載せて雑居ビルをあとにした。ふと、父を振り返る。

 ……パパは帰ったのかな。

 雑居ビルの中に父の姿はなく、魔力反応はもとからないのでどこへ行ったか判らないが、もう家に帰ったのだろう。

 ……いけない。早く寮に戻らないと。

 外はすっかり夜の帳を下ろして冷え込む手前。薄着の野原が凍えてしまう。魔法で温めてもいいが、それを嫌っていた彼女に無断で使うのは躊躇われた。急いで寮に戻らなくては。

 ……何より、あんなところに連れ込まれて、きっと恐かったはずだ。

 心配だ。野原の近くにいたい。

 世の中には身勝手な有魔力や金持が存在している。理解していたはずの現実と思わぬ形で対峙することになって音羅はショックだったが、野原の身を案ずる気持のほうが断然大きく、価値観を揺るがす衝撃に打ち崩されることはなかった。

 

 

 目を覚ますと、暗闇であった。

「ど、どこだ、ここは……。誰か。誰かいるか?」

 歩けども歩けども道がない。光がなく闇がある。方向感覚がとうにない。上も下も判らず、左も右も判らず、自分の体すらも判らない。

「だ、誰か、助けてくれ……、助けて!」

(愚か者に救いの手はない)

「ひっ!だ、誰だぁっ!」

 耳の奥から、まるで自分の思考が如く聞こえる他人の声。不気味なそれに敵意を向ける。

「ボクを誰だと思ってる!そのボクを指して愚か者?ふざけるなッ!」

(ふふ……)

 憫笑が響き渡るや、闇に百の眼が開いた。

「ーっ!」

 声にならない声を上げて、〈己〉は崩れ落ちた。無機質なのに、全てを見透かしている百の眼。これに曝された〈己〉は映写機と化し、闇をスクリーンとして過去全ての行いを映し出された。〈己〉は発狂した。闇の映画館。いつの間にか多くの人間がいた。全ての人間が〈己〉の過去を観て、非難の声を上げている。ひそひそと話し、見くだしている。

「や、やめて、やめてくれぇ!ボクが、何をしたんだよ!ボクだって必死だったんだよ!命懸けで魔物と戦ってみんなが悦んでくれるよう頑張って!……みんな、悦んでくれたのに、満足はしてくれなかった……すぐに次を求めた!ボクはやれることをやったよ!それなのに!それなのに満足してくれなかった!悪いのはみんなのほうだろ!ボクは悪くないッ!何もッ!何も悪くないッ!」

 取り囲んだひとびとの視線が、百の眼が、一斉に〈己〉を見眇めた。

(これが良心とは。見下げ果てたものだ)

「煩い!煩い!みんな死ねよ!ボクが命懸けで戦ってるとき、どこで何してんだ!どうせ気楽に寝そべってんだろうがっ!それでなんで偉そうに次を求める!なんで求められるんだよ!ボク、ボクはっ、がふっ!うぶっぅぅぶぉぁっ……!」

 〈己〉の中からヘドロが溢れ出す。

 ……なんなんだよ、これ!やめてくれぇ!

 止め処なく噴き出すヘドロに〈己〉は吞み込まれてゆく。

()()を知れ)

 数多の両眼、百の眼から解放されるも、ヘドロに沈んだ先は再び闇。百の眼が再び待ち、数多の両眼もまた現れた。幾度となく噴き出すヘドロ。現れる眼、非難、そして闇──。

 暗き流転に吞まれ続けた〈己〉は、最後、涙の先に小さな光を見た。

 ……痛い。つらい。虚しい。悲しい。苦しい。

 当り前の感情。自らのものしか視なくなったのはいつからだろうか。それしか視ようとしなくなったのはいつからだろうか。思い出せない。記憶にない。境目が定かでない。迷路を彷徨っていたように、ここまでの道筋がはっきり思い出せない。

 小さな光を振り返る。かすか照らされるは、ヘドロ塗れの迷路。歩いてきたか、走ってきたかも判らない過去の道へ、踏み出す。一歩一歩進むと、壁にぶち当たって横転し、ヘドロ塗れになった。そのとき初めて、〈己〉は人間の体を取り戻していることに気づいた。何度か横転を繰り返して、この脚のありがたみに気づいた。非難に曝され、逃げ出したくても逃げ出せなかった無機質な体はなんと不自由だったことか。それに比べて、ヘドロ塗れのこの体は、なんとありがたいのだろう。自分の意志で歩むことができる。手を使えば、壁を少しずつ確かめることもできる。横転しても、手をつき、脚を立て、再び前を向くことができる。ヘドロ塗れでも、迷路を進むことができる。それは後退でありながら着実の前進だった。

 ……ボクは、そうだ、そうだったのに──。

 迷路の先へと歩み出した。そこで〈己〉は、志を確かめ、悟ったのだった。

 

 

 

──一七章 終──

 

 

 

 

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