一章 心の春
引越し当日は新鮮さより目まぐるしさに浸かるようであった。
荷下しが済み、引越し業者のトラックを見送ると、音羅、納月、子欄の三姉妹は一部ダンボールの開封作業に入った。すぐに使わないものは後回し。冷蔵庫を使える状態にしたあと両親が買出しに出たので、三姉妹は着替と食器を最優先で取り出し、それぞれタンスと食器棚へ収めてゆく。
玄関を入ると小さなホール。お手洗と浴室をそれぞれ右手にして動線を抜けると南に大きい窓があるダイニングキッチン、その西隣には寝室という間取り。寝室にも大窓があり、ダイニングキッチンと同じく小さな庭へ出ることができる。耕作区域に位置しており遮蔽物がなく、見通し・風通し・日照率がばっちりである。
「窓の景色以外は前の一〇三号室と瓜二つだね」
以前と同じ位置に家具を運んでもらったため、積み上がったダンボールが風景の違い。
「お父しゃま達もゆってたことを改めて見回して確認する必要はないと思いましゅ。それに喋る暇はないでしゅよ、まだわたし達の服が全然しまいきれてないでしゅ」
「食器も残ってますね。ずっと手を動かしていないと終わりそうにありません」
納月と子欄が額に汗して整理整頓を続けている。音羅は、重たい荷物を中心に運んで一息ついたところ。
「ごめんね、何か手伝おうか」
「この食器を上の棚に上げてもらえますか。重くて、ちょっと恐くて……」
子欄のお願いを聞いて踏台にした椅子を交代、音羅は綺麗な大皿を受け取った。
「これ、上の棚でいいのかな。上の棚には軽いものを置いたほうがいいって、ママがいっていた気がするけれど」
「そうなんですが、下のほうには入りそうになくて」
「本当だ……」
適度な隙間を空けて皿やカップが綺麗に並んでいる。適度に重ね置きもされており、隙のない収納だ。
「できる限り記憶通りに収めたつもりなんですが、どこか間違ってしまったんでしょうか」
「パッと見、同じにしか見えないけれど、どうなんだろうね」
重い皿を上段に置いては災害時に危ないだろう。重心はできるだけ下に持っていくべきだ。と、音羅が小難しいことを考えることはないが、
「考えても判らないことは判らない。ママが帰ってきたら訊くことにして、今はなっちゃんの応援をしよう」
「そのほうが効率がよさそうですね」
食器収納を見送った音羅達は、寝室のタンス前で悪戦苦闘する納月のもとへ。木彫りのようなヘビ〈プウ〉が「ピィピィ」鳴きながら屋内をちょろちょろと動き回っているが、無害なので放置しておく。
「納月お姉様、手伝います」
「あ、子欄しゃん、お姉しゃまも、よろしくでしゅ。どれが誰のだか判らなくなってましゅ」
「畳み直しながらだと混乱しますよね」
「自分のかどうか観て、仕分けしていけば大丈夫だね」
と、音羅は意見。「わたし達のじゃなければママのかパパのだからしまわず除けておこう」
三人で一着一着確認してゆく。
「あ、これってパパが作ってくれたヤツだ」
「お姉しゃまに似合いそうなシンプルなワンピースでしゅね。と、こっちはわたしの」
「納月お姉様が好きな柔らかい色合ですね。あ、音羅お姉様、それ、わたしのです」
「しーちゃんのは真黒だからすぐ判るね。スカートじゃなかったらパパのかと思っちゃう」
「お父しゃまも黒、好きでしゅもんね。子欄しゃんはなんで好きなんでしゅか」
「なんでといわれても、なんとなくなので深い理由はないですよ。納月お姉様はなぜ淡い色合やこんなフリフリなのが好きなんですか」
「う〜ん、深く考えたことなかったでしゅよ」
「ふふっ、好きって気持に理由なんてないのかも知れないね」
「格言めいたことを」
「音羅お姉様はときどき核心を衝きますからね」
「自分では判らないな」
「褒めしゅぎました。お姉しゃまはやっぱりお馬鹿でしゅ」
くすくす笑い合ったところで、納月が疑問視する。「ここの服って誰がダンボールに入れたんでしゅ。自分のと自分以外のを混同しないようにってお母しゃまがいってたはじゅでしゅ」
「……あ」
「『あ』」
音羅が声を漏らすと、納月と子欄が「『もう、駄目じゃないですか』」と声を揃えた。
「あははっ、ごめんなさいっ、みんな忙しそうだったから進んでないところをついパパッと片づけちゃって」
妹の溜息が重なった。
「まぁ、お姉しゃまでしゅからね。気持だけ受け取っとときましょう」
「作業が忙しかったのは確かですからね。こうしてお互いの服を観て愉しむのもありですし、よしとしましょう」
「観て愉しむ、か」
音羅は瞼と口を閉じた。
「ん〜。お姉しゃま、お肉の妄想は食前だけでお願いしましゅ」
「えっ、今はそんな妄想していないよっ」
「いつかはしてたんでしゅね」
「あはは、ご飯にはやっぱりお肉かなあって」
「脱線はここまでにして、突然黙り込んでどうしたんでしゅ」
「妄想、じゃなくて、想像していたんだよ」
音羅は瞼を開けて笑った。「わたしのワンピースを着たなっちゃんとか、淡い色を着たしーちゃんとかをね」
「わたしには想像できないですね」
苦笑する子欄はブラウス・リボンタイ・スカート・靴下、上から下まで白黒であるから、淡色を着ている印象がない。
「わたしにワンピースが着れるとは思えないでしゅが……、子欄しゃんは可愛いのでなんでも似合うと思いましゅよ」
と、にこにこしている納月はパステルカラで纏めている。音羅のワンピースが着れないと考えているのは、主にロングスカートを着ているからだろう。
「物は試しっ。なっちゃん、しーちゃん、着てみてよっ」「『えっ』」
と、声を揃える妹であるが、服をじっくり観ると興味が湧かないわけではない様子。そこで音羅は、
「じゃあ、わたしはしーちゃんのスカート借りるねっ」
と、率先して黒スカートを穿いた。ワンピースの上からではあるが、スカートの腰に手を当てて回って見せる。がらっと雰囲気が変わったようで、妹が驚きの視線をくれる。
「どう、どう、ちゃんと着れているよね」
「お姉しゃま、少し口を閉じていたら結構いい感じかもでしゅ」
「ですね、わたしが着るより少し恰好いい感じに観えます」
「わたしが着れるならなっちゃん達も行けるよね」
大切なのは積極性。服を前にして問うのは、着るか・着ないか、だ。
「ほら、ほら、試してみよう」
と、音羅は勧めた。「来たる学園生活も新しいことがたくさん起きると思うから、第一歩を踏み出す練習をしておかなくっちゃ」
納月と子欄が目線を重ね、うなづいた。
「しょれもしょうでしゅね。服くらいなら抵抗は少ないでしゅから、練習と思って挑戦でしゅね」
「では、納月お姉様、服を借りますね」
「わたしはお姉しゃまから」
「はい、どうぞ」
そうしてファッションショーのようになった新居であったが、
「遊びは捗ったようやな」
と、声が掛かり、三姉妹は震え上がった。名前の割に音もなく帰宅した父がいつもの無表情で見下ろしていた。母はダイニングテーブルに食材を置いて微笑している。
「よろしいではございませんか。たくさん遊んで多方面への興味を育むべき時期なのです」
「自ら可能性を探るのも大事やけどね、頼んどいた食器・衣類収納が終わっとらんし、寝室は見るも無残だ」
三姉妹は足下を観て苦笑するほかない。服を着回しているうちに、収納作業など忘れて服を脱ぎ散らかしていた。父の帰宅を気取ったか姿を消しているプウと違って、逃げ場がない。
「片づけようっ」
「『はいっ』」
音羅の一声に妹が返事、揃って収納作業に戻った。表情の読みにくい父ではあるが、そんな父が怒ったことはないと三姉妹は感じている。母から聞かされている父の恐さを目の当りにしたくはなく、怒らせる一歩手前はなんとなく察知して気をつけるようにしていた。
「利口やよし。粗方片づいたらご飯にするから、そっちはしっかり片づけやぁよ」
「『はいっ!』」
二度目のお叱りを回避すべく三姉妹はしゃきっと返事をした。
音羅は一つ思い出して、ダイニングテーブルを向いた父に尋ねる。
「食器、しーちゃんがやってくれたんだけれどうまく収まらなかったみたい。パパ、頼んでいいかな」
「メンドーやけど、やらななぁ。って」
父が食器棚を観て、「結構しっかり収まっとるのになんで溢れたんやろ」
テーブルの上には食器棚の許容量を超えて折り重なった食器(?)がある。
「羅欄納、一部は鍋とか調理器具か」
「はい」
と、母がうなづいた。「新聞紙に包まれていて外から判りにくいですが、残りはほとんど調理器具ですね」
「食器と同じくダイニング行きのダンボールに入っとるのは大目に見るとして、それでもこの大皿は収めようがないんやない」
子欄の手に余った代物を両手に取って指摘した父に、対する母がにこやか。
「大丈夫です」
「楽観の理由は」
「そちらの大皿は毎日使うので収める必要がございません。五人家族ですから、この日のためにとおかず用の大皿を新しく買っておいたのです」
「だ、そうだ」
と、父が三姉妹を振り向いた。「さっきは食器の件で責めてすまんかった。俺すら知らんことやったしこれはどうしようもなかったわ」
「じゃあパパ、ほかのものの収納お願いしていい」
「ん。音羅達は引続きそっち頼むわ」
「『はい』」
元気よく返事をして、三姉妹は衣類収納作業を進めた。父のいる程良い緊張感が三姉妹の収納作業を促し、散らかしたものも含めて衣類がタンスに収まった。誰かがクーラを入れてくれたか途中から涼しくなり、母が加わると仕分け速度が格段に上がったのであっという間であった。それでようやく気づくことがある。
「ママの服はあったけれど、パパのはどこに行っちゃったのかな」
「オト様のものは別のダンボールではございませんか」
母が寝室に運ばれたダンボールを確認して、「……ありませんね。オト様」
キッチンへ向かう母を見送って、音羅は一息ついた。
「とりあえず終わったかな」
「お父しゃまの分が終われば担当のものは終りでしゅね」
「ちょっと疲れましたね」
周囲を観て子欄が苦笑する。「圧縮袋がありますね。中身は布団ですか」
「布団なら軽く干しゅくらいで使えましゅね」
納月が圧縮袋から取り出した布団を抱えた。「快晴でしゅし、とっとと干しましょう」
「そうだね。あ、窓を開けなきゃ。なっちゃん、ちょっと待ってね」
音羅が開けた窓から納月が庭に出ようとすると、
「そ、外履きがないでしゅっ」
「えっ、あ、本当だ。ちょっと布団を置こうか」
「そ、そうでしゅねっとと」
一段下がった外へ出ようとしていた納月がバランスを崩しぎみにぼふっと敷布団を置くと、子欄が目を丸くした。
「埃がすごいことに。……あっ、お姉様方、これはちょっとまずいです」
「まずいって」
音羅は首を傾げたが、納月が思い至った。
「しまった服に埃がついてたかもでしゅ」
「えっ、そうなのっ」
全く気づかなかった音羅である。
子欄がキッチンのほうを眺める。テーブルには竹神一家の好物である蜜柑の山。テーブルの下では糸主がその身から無数の糸を伸ばしてせっせと掃除している。
「荷物を出し入れしたばかりですし、埃がたくさん出ていたんでしょうね。こちらは片づいていなかったので糸主さんもノーマークだったようです。お母様」
「はい、なんでしょう」
父のもとから戻った母が呼出し理由を察した。「埃ですね。糸主さんはキッチンを掃除中ですので、掃除機を掛けましょう」
「しょれもしょうなんでしゅが、服についてたかも知れないんでしゅ……」
「地べたに広げましたものね。よく気づいてくれました」
父と別にして、母も怒ったことなどなく微笑を絶やさない。「纏めて洗濯してしまいましょう。洗濯機は脱衣室に運んでもらいましたので、もう使えますよ」
「ごめんね、ママ、手間を増やしちゃって……」
「音羅ちゃん達は初めての引越しですからよい勉強です。次に活かしましょう」
「次って、すぐに引越しする予定があるみたいですね」
子欄が疑問符を浮かべたのは、「神界移住計画はまだまだ先の話でしょうし、わたし達が高等部を無事修了できるか判りませんよね」
「最速で二年でしょう」
と、母が言った。「音羅ちゃん達が飛級した場合、三学年に上がって卒業するまでの期間です。それまでに神界で引越し先が見つかっていれば引越しです」
「とはいっても、簡単には飛級できないですよね」
「魔法学だけでなく武術、一般教養なども優秀でなければまず不可能です」
「パパやママは飛級していたんだっけ」
「俺はしとらんぞ〜」
と、キッチンから父の声。寝室と一〇メートルは離れていて壁もあるのだが、三姉妹の両親は耳が利く。
「オト様は初等部高学年から不登園でした。私の就学期間は初等部進学から頂等部卒業までの四年です」
「どちらも別の意味ですごいでしゅ、……って、お母しゃまのは計算が合わないんじゃ。頂等部って高等部の上でしたよね。初・中・高・頂の間は飛び越えられないはずだから、」
納月が指折り数える。「八年は掛かるんじゃ……」
「通常はそうです。ほとんどの国で初等部と中・高等部は所管省庁が違いますし、各国が運営していることもあれば私立もございます。その関係で飛級範囲はほとんどが各学園単位と決まっております」
「それでもお母様の四年で修了という話は相当に早いですね」
子欄の指摘に、母が応えた。
「具体的には、初・中・高・頂、各各七月の期末テストの評価で飛級確定して最高学年をその年度中に修了しておりました。期末テストでの飛級確定は初めてだと当時の教諭には驚かれたものでした」
「あはは、わたしには関係がなさそうな話だね」
と、音羅は驚きつつ笑った。
「おや、おや。やる前から諦めていては何事も成せません」
「お母様の例は極端すぎるんじゃないでしょうか。納月お姉様もそう思いますよね」
「子欄しゃんならできましゅ!頑張って!」
「期待が大きすぎませんかっ」
子欄が腰を抜かしそうになったところで母が話を戻した。
「私の場合は止むに止まれぬ事情もあっての裏口卒業のようなものです」
「まさかの不正っ」
「飽くまで便宜的な表現ですがそう捉えても構いません。教養があったか自問するところですから飽くまで一つの例。要するにあなた方のペースで励めばよいのですよ。三年で卒業を目指すのが一般的ですが、場合によっては留年しても構わないということです」
「留年はわたしの場合かな」
「お姉しゃま運動特化でしゅもんね」
と、納月が鋭くツッコんだ。その通りだから音羅は反論しない。いつの間にか現れていたプウをひょいと捕まえて、存外柔らかいその胴体をにぎにぎしながら不安を口にする。
「家でやる勉強とかも出されるんだよね。わたしにできるかな、そういうの」
「宿題ですね。ございましょうが、私がいっているのは宿題のことではございません」
母が三姉妹をそれぞれ視て、どこか感慨深げに目を細めた。
「あなた方が将来何をして、何を目指すか、あるいは何をしないかを決めてゆくための、大事な、大事な、学びの時間です。その学びの時間が二度と来ないこともあるでしょう──。そんな無二の時間を、ときに愉しみ、ときに苦しんで、過ごしてください」
「え、苦しむのっ」
「はい」
笑顔で放たれた言葉に三姉妹はぎょっとしたが、母に悪意はない。
「言葉の意味は、きっと学園生活が教えてくれます」
そう言って、くすりと笑った母はいつもの微笑を浮かべていた。「期せずしてまじめな話をしましたが、よい機会でしたね。以上です。さあ、洗濯に取りかかりましょう」
タンスに手を掛けた母にうなづき返して三姉妹は大量の洗濯物と格闘した。併行して布団を干し、糸主に倣って室内掃除も。洗濯機が最後の仕事を終えた頃には太陽が中天を飛び越えていた。
目まぐるしい物干で汗を流した三姉妹がぐったりと倒れ込むと、
「水分補給です」
と、母がスポーツドリンクを届けた。それをありがたく頂戴して一息ついた三姉妹はやっと余裕が出て鼻が利いた。音羅の胸の上で体をSの字に立てたプウも感じ取っているようだ。
「なんだかいい香りがしますね」
「すんすん……、おいししょうな、初めての香りでしゅね」
「あ、これって」
「プゥ、ピィ〜!」
プウの鳴声に促されるようにして音羅が一番に立ち上がってダイニングに向かう。テーブルに並んだ五枚の皿に、盛りつけがされていた。
「お米に、スープが掛かってます」
と、子欄が音羅の横について料理皿を眺めた。「なんだか懐かしい感じが……」
「これがカレーだよ」
と、音羅は教えてあげた。
遅れてやってきた納月も子欄の横について、
「これが例の。不思議でしゅね、初めての料理なのに懐かしい感じがしましゅ」
「納月お姉様も。テレビで観たときはスープだけでしたが、不思議とこのほうが自然に観えますね」
「私達の記憶に影響されているのでしょう」
とは、東の席についていた母が言った。
「いや、私達じゃなく主に俺の記憶やろうけどな」
と、右肩にクムを載せた父が南の席について言った。
「これは市販のカレールウを俺がアレンジして作ったもんやからな」
「お父様がこれを──」
音羅が西の席につく傍らで、子欄と納月がカレーをじっと見つめた。
「一品で悪いが、昼ご飯はこれで」
「一品なのはいいんですが、お父様が料理を作るなんて、驚いてしまいました」
「焼きそば麺しか焼けんと思っとるんじゃないやろうな」
「しょんなことはないでしゅが、子欄しゃんがいいたいのは、お父しゃまが料理を作ってくれたことに感動したってことだと思いましゅ」
「感動するほどのもんじゃないよ。飽くまで市販のルウがベースやし、テキトー、テキトー」
「と、仰りますが、買出し中はずっと悩んでおいででしたよ」
母がにこにこと暴露。「みんなが悦ぶようにと食材選びのお目も真剣そのものでした」
「勝手な観察を話すな。自分でお金を出さんで買物できるいい機会やったからランラン気分やっただけやよ。ほら、納月、子欄、二人の席は北やぞ、早く座りゃあ」
父が煙たそうにそう言ったが、母の見方が真実と思えた三姉妹は普段無愛想ですらある父の内面を感じて頰が緩んだ。
納月、子欄が北席に並んで座ると、テーブルに降りたクムを含めて六人が揃って両手を合わせ、プウがにょっと直立した。
「『いただきます』」
「ピィ〜ゥ」
それは心のように。家族と仲間の挨拶が重なって、三姉妹はますます笑顔になった。
スプーンを手に取り音羅はカレーライスを一口頰張る。
「んふぅ〜。んむんむ〜、おいしいぃ」
働いたあとの食事。父の作ってくれたものだからなおさらだろうか。どこにでもあるような一品が至極に思え、一口含めば幸せな甘みに心がとろけそうだ。
「はい、プウちゃんも」
「プゥっ、ピッ。はむっ」
小さな口なので、スプーンの上に顔ごと突っ込んで食べるしかないが、プウがジャガイモを齧って体をくねらせた。
「ふふっ、プウちゃんもおいしいって」
「それはよかったです。せっかくです」
と、母が小皿にカレーを盛ってプウの前に出してくれた。「はい、プウちゃんの分です」
「こんな小皿あったっけ」
「子欄ちゃんがうまく収納してくれていましたね。これもプウちゃん用に新調したものです」
懐いているのか、音羅の近くに現れるプウである。神出鬼没のプウに合わせて食事を作ることはできないが、同席しているなら予め分けてあげたいというのが母の優しさであった。
「ありがとう、ママ」
「プウちゃんもすっかり馴染んでいますからね」
「そうだね」
正体不明のヘビ。木彫りな外形やすばしっこい動きに音羅も最初は驚いた。納月や子欄も小さなときは泣いたりしたが今ではすっかり慣れている。
米五〇粒ほどで過積載となる小さな口でぱくぱくと食べているプウの頭を撫でつつ、音羅はカレーを口に運ぶ。
「ん〜っ、これならプウちゃんも大満足間違いなしだよ」
プウの食べっぷりがその証拠。「クムさんはどう」
「とてもおいしいですわ。仄かなスパイスが旨みを引き立てていますね」
「それならよかった」
わずかなカレールウを浸した白米一粒を父の指先からもらって頰張っている和装の小人は、頭に咲かせた花をふわふわ揺らして愉しそうである。体が小さいからか、スパイスまでよく判らなかった音羅と違って味覚が繊細そうだ。
クムと同じように父の近くにいる糸主を音羅は窺う。
「糸主さんは食べなくていいの。いっぱい働いてくれたから食べたほうがいいよ」
「ほっほっほっ、ワシのご飯は埃じゃからとっくに満腹じゃよ」
「あ、そうだった」
埃を食べた糸主は綺麗な糸を作り出して自分の体として操っている。お腹が減ることはそもそもほとんどないようだが、掃除をすればするほど埃を食べることになるので飢餓に陥ることはない。掃除に使った汚れた糸も食べて綺麗な糸に作り変えることができるので常に清潔な体を保つこともできる、自給自足のサイクルが完結している優れた生命体である。
「たまには野菜なんかも食べたほうがいいんじゃないかな。おじいさんなんだから健康に気を遣わないと」
「ワシはこれでもイケイケのピチピチじゃからダイジョウブイじゃ〜、ほっほっほ〜っ」
「台詞の端端に説得力がないよ」
と、父がツッコんだ。「ま、糸主に普通の食事は毒やから、無理に食べさせたらいかんよ」
「そうなんだ。それじゃ仕方ないね」
こんなにおいしいものを食べられないなんて不憫だな、と、感じつつ、まさか毒を食べさせるわけにはいかない。掃除を頑張ってくれた糸主になでなでをあげた音羅はおいしそうに食べる面面しか目に入っていなかったが、スプーンを手に取って固まった人物が二人もいた。
「……ちっ、流れで口に運ぶかと思ったらそうはいかんか、ちっ」
わざとらしく二回舌打ちした父が見つめるのは、野菜嫌いの二人。
「こ、この茶色いスープの中に見え隠れしているのは、ニンジンと、ジャガイモと──」
「竹輪でしゅかね……、それと、キノコと、キノコ、でしゅね」
「ブナシメジとエリンギね」
父が溜息。「うまいのになぁ……」と、言って、スプーンを口に運ぶ姿を見せつける。
父の挑発に乗ったか、触発されたか、納月の手が動き出す。
「き、キノコとキノコ、あ、あいやブナシメジとエリンギ、おいしい、オイシイぃ、美味しいぃ、はじゅぅっ、きっとぉ、……〜ぉんぐっ!」
勢いよくスプーンを口に運んで咀嚼する納月。苦い顔をしたのは数秒のこと。
「んむんむ、んっ……。あ、あれ……、これ、お、いしい、でしゅ」
全身の強張りが抜けた声。それから力むこともなく、自分が一番不思議だとでもいう顔でスプーンを何度も口に運んでゆく。
「キノコだけじゃないでしゅ、ニンジンも、ジャガイモも、おいしいでしゅ。こ、これは、なんなんでしか、魔法のシュープでしゅか……」
スプーンが進む、進む。
……なっちゃんが野菜を食べている!
嫌な顔一つせず野菜を食べる納月の姿を初めて見て、音羅は胸がほっこりした。
「納月ちゃん、どうやらカレーが気に入ったようですね」
「な、納月お姉様がこんなに野菜を。魔法のスープ、ですか……」
次は子欄の番。と、誰が言ったでもないが、妙な緊張感が場に生まれた。それを感じていなかったのは、すっかり野菜を克服してカレーを食す納月と、一心不乱に食すプウくらいのものだろう。納月の一種裏切りによって子欄が崖っ縁に立たされた。スプーンの中、嘲笑うようにどっかりと居座るニンジンを見つめている。
「わ、わたしは、む、むむむ、む、りです──」
我慢しないとなったら納月より激しい野菜嫌いが発覚した子欄。
スプーンからニンジンが落ちかけたところで震える手を後ろからそっと支える手があった。
「ったく、しょうのない子やな」
「っ、お父様……」
父の手が添えられたことで偉そうに笑うニンジンが皿に落ちることはなかった。いつ背後に回っていたか定かでない父が子欄の頭を撫でて言うのは、
「ニンジンなんかに負けていいん。嘲笑われとるぞ、ほーら」
涙目の子欄に挑発。鬼畜だ。「悔しくないん、こんな雑魚に笑われて」
「うぅ、無理なものは無理なんです……」
「そうか、そうか。ところでこんな話は知っとるか」
「え……」
「『雑魚』とは色んな種類が入り混じった魚のことだ。その中には、大きくなると高値がついたり優れた栄養素を有する、つまり、うまい魚になるもんがいっぱいおる」
「そ、それがどうかしたんですか」
「カレーはその雑魚をただちに出世させる、納月曰く魔法のスープだ。一度口に運べば、よほどのことがない限り虜になること必至だ」
「虜……」
目を背けていた子欄が再びニンジンと相対する。
「見んくてもいいぞ」
「え」
「目を閉じなさい」
……あ、パパに妙なスイッチが入っている。
音羅は自分のカレーを食べつつ様子を見守ることにした。
言われた通り瞼を下ろした子欄に、父が囁く。
「クリアすべき課題。それは直視することではない。さあ、何をすべきか応えなさい」
「野菜を、食べること、ですか」
「いいえ、ただ口に運ぶだけでいいのです」
「運ぶだけで……」
「そう。運んだあと、わたしの問に応えなさい」
言いつつ、子欄の手を動かす父。「さあ、まずは口を開けて。そう、上手」
言われるまま口を開いた子欄がスプーンを銜えていた。父が操る子欄の手がスプーンを引き抜いて、魔法のスープとともに憎たらしいニンジンが子欄の口に入った。
「さあ問題です」
「んぅ」
「子欄さん、どんな食感か教えてください。はい、舌で撫でて、嚙んでごらん」
「んむ……んむ……」
「今、口に入っているものはどんな大きさで、どんな舌触りですか」
「……う〜ん、」
……しーちゃんがニンジンを食べた!
瞼を閉じた子欄は無意識のようで、父の問にただ応える。
「えっと、最初は大きくて、嚙むごとに細かく分裂して、表面は滑らかな感じでした」
「味はどうですか」
「甘い感じで、あ、でも、仄かにスパイシな香りが混ざって複雑な、それでいて融け合っている感じで──」
そのとき父が子欄の両肩にぽんっと手を置いて、
「よくできました」
言うや席に戻った父が、弾かれたように目を開けた子欄に不敵な笑みを向けた。「カレーの中の野菜を観てみぃ」
「……」
先程まで子欄の肩にへばりついていた力みがなくなり、自然とスプーンが野菜を掬う。
「なんだか、平気、ですね。恐くない、ような気がします」
「やろ。今のうちだ、もう一口運んでみぃ」
「はい」
まだ言われるままだが、子欄が目を開けたままスプーンを口に運んで、今度はジャガイモを食べた。しっかり嚙み砕き、味わい、吞みくだして、ぱちぱちと瞬きした。
「口溶けがよくて、どこかに大地の香り──。これが魔法のスープの力……」
「もう一口どう」
「……、はい」
今度は言われるままではなかった。自分で考えて、しっかりスプーンを持って、野菜を口に運んだ。
「んくっ……。おいしいです、おいしいですよ、これ。不思議、……これまで苦手だったのが噓みたいです」
野菜を食べた子欄が、気の緩んだ笑みを見せた。
「パパってばすごいなぁ。しーちゃんの野菜嫌いまで克服させちゃった」
音羅は感嘆したが、子欄に対して笑っていたのは演技だったと言わんばかりにすっかり無表情の父が言い放つ。
「まだカレーに限ったことでほかの料理も試す必要はあるがね、好き嫌いは家庭内食品ロスの温床。根絶するに越したことはない」
「同意見です」
母がみんなを視た。「その日の食も得られないひとが世界には存在します。生産に携わる方方や食材に感謝して残さず食べることが、食を得られた者の使命です」
「大袈裟でしゅね」
と、納月がツッコみ、音羅は、
「でも大事だよね、そういうのって」
漠然と理解して、うん、うん、うなづいた。「わたしは最初から残さないよ」
「お姉しゃまはいつも食べしゅぎなのでそこを注意すべきでしゅけどね」
と、言う納月の皿が空になっていることを音羅は確認した。
「いいの、いいの、使命だから!それに、今日はなっちゃんも心から使命を成し遂げたから、わたし、嬉しいよっ」
「う。しょう言われるとこしょばゆいでしゅね」
照れ笑いをする納月の横で、子欄も完食した。
「あぁ……、何か、物凄いことを成し遂げた心地です。野菜をこんなにおいしく食べたのは初めてですよ」
「ママのご飯もおいしいんだけれどなぁ」
音羅は母にフォロを入れる。「好きになるきっかけがなかったのかな」
「そうかもな」
と、言った父も完食。「身構えんければ羅欄納の料理も行けるやろう。頼んだぞ」
「畏まりました。オト様、お力添えありがとうございます」
母が丁寧にお辞儀すると、父が首を小さく横に振る。
「市販のルウの偉大さを改めて知ったわ。俺はスパイスを調合したりせんからな」
「オト様のアレンジあってこそです。醤油とソース、それから、昆布出汁ですか」
「俺一人のときはルウ少なめ、水多めにして米粉でトロみつけて食べとった。昆布出汁を使えばカレー本体の薄さをごまかせた」
「へぇ〜、昆布なんだ。全然判んなかった」
言いつつ音羅は皿を突き出した。「ママ、お替りっ」
「音羅ちゃん、次はしっかり咀嚼を。また少なかったですよ」
「あはは、観ていたんだね」
少し厳しいことを言うも母がお替りを運んでくれたので、音羅は感謝して、二杯目のカレーを味わった。プウが小皿二杯分を平らげ、クムが米粒一つをようやく食べ終わった。一杯で空腹が治まってしまう納月や子欄の胃袋を理解できなかったが、二人が野菜嫌いを克服できたことが音羅は本当に嬉しかった。
実り多き昼食を終えると、すっかり乾いた洗濯物を取り込み、払った布団を寝室に畳んで、明日の準備をした。
明日──四月一日──が、入学式だ。一般的な魔法学園は、魔力が備わった〈有魔力個体〉が魔法技術を学び、魔法を習得するための学舎である。魔力が備わらなかった相対的少数〈無魔力個体〉の生徒には、武術中心の学舎として開放されている。三姉妹こと音羅、納月、子欄が通うことになったのは、第三田創魔法学園高等部。ここサンプルテの北約一・二キロに位置、最寄の商店街に程近い私立の学園である。出自が特異で初・中等部を卒業していない三姉妹は、面接のみで済む進学手続きの前に中等部卒業相当の魔法学の試験を受けて高等部進学を認められた、と、いう流れである。音羅だけは筆記が壊滅的で、満点だった実技試験で相殺してぎりぎりの及第点であったが、合格は合格である。
母の配慮で私服とは別のダンボールに収まっていた制服。これをハンガに掛けた三姉妹は夜食を摂ってお湯をいただくと、太陽の香りに包まれて横になった。緑茶荘からサンプルテまで距離はなかったが不慣れな引越しに疲れた体。すぐにも眠りに落ちるはずであった。
ハンガに掛けた制服を視て物思いに耽る納月が目に留まって、枕許のプウの背中をさわりながら音羅は窺う。
「なっちゃん、愉しみで寝られそうにない」
「いえ、不安で眠れそうにないんでし」
「あらら、なっちゃんはやっぱりそっちか」
顔を観れば判る。「わたしも一緒に行くんだから大丈夫だよ」
「お姉しゃま……」
納月が音羅にくっつく。いつも同じ布団で寝ているがこれからはスペースの関係でも同じ布団に寝ることになっている。ひんやり冷たいプウから手を下ろし、音羅は納月をそっと包んであげた。
「甘えん坊さんだなぁ、なっちゃんは」
「しょ、そんなことゆうと甘えてあげましぇんよ」
「怒ったなっちゃんも可愛いなぁ」
「うぅ……。あ、しょうゆえば」
「ん〜、どうかしたの」
納月が振り返ったのは隣の布団に寝ている子欄である。燈は点いているものの、
「ぐっしゅりでしゅね。野菜嫌いも治って子欄しゃんは恐いものなしになったんでしょうか」
「不安だとは思うよ。でも、パパもいっていたように、みんな不安な気持で入学してくると思う。みんなが一緒の気持なら理解し合うこともできるし、打ち解けることもできると思う。これもパパがいっていたけれど、あとはわたし達次第だ」
父と母は仲良く入浴している。「パパとママだって最初は理解し合えなくて喧嘩ばかりしていたみたいだけれどね、今はそんなことないでしょう」
音羅を向き直って納月がうなづいた。
「わたし達、生徒しゃん達と、しょんな感じで仲良くなれるでしょうか」
「ママがいっていたね、やる前から諦めたら何もできない。仲良くなれると思わなきゃなれないってことなんじゃないかな。前向きに考えないと積極的になれない。積極的に接していかないと一人で大丈夫なひとって思われてほっとかれちゃうかも知れないし」
「しょれは嫌でしゅね……」
「じゃ、わたしと一緒に積極的にみんなに話しかけていこう。ね、なっちゃん」
「は、はいっ、がんばりましゅ……!」
人見知りの激しい納月だが、甘えん坊で、家族想いで、優しい子。馬の合う友人が見つかるだろうと音羅は思い、自分のことは「なんとかなる!」と深くは考えていなかった。
後ろからララナを抱くようにして、オトは湯に浸かった。
「今日もお疲れさん」
「オト様、お疲れさまです」
ララナの冷たい体を温めるように体を密着させたオトは、指摘を受ける。
「音羅ちゃんが生まれてからもう三箇月以上、オト様がほとんどお怒りでないことを意外に存じます」
「ん、そうか。俺としてはちょくちょく怒って見せとるつもりやけど」
「今日においては家庭内食品ロスの件でしょうか」
「あの子達は幼い。俺自身の負の感情に曝すのは早いんよ」
「──なるほど。思い返せば、私には最初から全開だったようですね」
「不満か」
オトはララナの頰を親指で撫でて、「あのときは家族じゃなかった」
「それもそうですね」
彼女は納得するのが早い。
「俺の理屈全てに納得するな。噓かも知れんぞ」
「証拠のないことを否定は致しません」
「そうとも限らんやろ。お前さんは自分の都合のいいように捉えがちやから」
ちゃぷっと湯が揺れる。ララナがオトを少し振り向いていた。
「私の都合のいいように、と、いう点を否定は致しません。が、これまでの経験上、先程のお言葉は真実と捉えました」
「お前さんの中で俺への信頼度はどんどん増しとるんやな。痛い目を見んように気ぃつけぇ」
「夫婦なのですよ。私が痛い目を見るときはきっと二人揃って災難に遭っております」
「ほう、俺が敵になる可能性はゼロと」
「はい」
迷わずうなづいた。どうすればそんなに他者を信ぜられるのか。彼女の美点だが、誰にでもこうだと困るのでオトは念のため注視することにした。
……痛い目に遭うべきはお前さんじゃないからな。
「ところで、昼に話していたことですが、よろしいですか」
と、ララナが話を変えた。
「音羅達を通わす学園の件か」
「はい。無魔力個体に重心を置いた、私立でも無二の魔法学園──」
ララナが言う無魔力個体とは、生まれたときから魔力を持たず魔法を使えない無魔力の人間を指している。
「魔法に特化した音羅ちゃん達です。進学が可能になったのは魔法学園のマニュアルに沿った手続きをクリアしただけのことで、第三田創魔法学園高等部の教育に適合するがゆえのことではございません。音羅ちゃんは力全般に優れるので辛うじて素養はあるでしょう。でも、納月ちゃんや子欄ちゃんは武術の素養もなければ素質も高いとは。別の学園を探すべきだったと考えております」
「いまさらやな。学園選びを俺に任せた時点でその文句は受けつけん」
その結論に達すると察していたオトは、話の展開自体を昼に制していた。ララナは納得がゆかない様子であった。
「絶対にいけないとは申しません。ですが、あの子達の教育に最適とはいいがたいと、今は考えております」
「俺が最初に第三田創を推したとき反論がなかった。お前さんに異見が生じたのは試験を受けさせた日かね」
「はい」
三姉妹が進学のための試験を受けたのは春の休校期間中であったが、部活動をしている生徒が多数おり、そのほとんどが無魔力であることをララナは気づいた。それでようやくオトが第三田創を推した理由を考え異見が生ずるも、一度賛成した手前口に出すことができなかった。
「入学を取りやめられんよ」
「存じております。音羅ちゃんは愉しみにしておりますし、不安を抱えながらも納月ちゃんと子欄ちゃんも新たな一歩を踏み出す決意を固めていることでしょう。前向きな気持に水を注すことはできません。今は、私の意見を述べたかったに過ぎません……」
だろうとも。
試験を受けた二四日から数えて八日間、ララナが異見を述べるチャンスはあった。ララナが何も言わなかったのは、三姉妹の自主性を重んじた。
試験を受けた日、三姉妹は己の考えで専攻する科目──習う武術──を選んだ。
「音羅ちゃんは格闘術、納月ちゃんは銃による狙撃術、子欄ちゃんは弓術。興味があるのか、向いていると感じたのか、単に簡単そうに観えたのか、いずれにしてもそれぞれ気になる点があって選んだことでしょう。私は、見守ることに決めました」
「レフュラルの名門を卒業したもんとして、何か質問されたら教えたるん」
「必要とあらば。答がただちに判っては考える力が身につきません」
「周囲の生徒が教えてまうかもよ」
「左様な心配、オト様はしていらっしゃらないでしょう」
「まあね」
第三田創に通う生徒は、真摯に武芸を学んでいる。ストイックに技を磨く者が解らないことを一緒に悩むことはあっても、答を与えて楽させるようなことはしない。ましてや有魔力の音羅達に対して無魔力の生徒は羨望や疎ましさを感ずるだろうに、教科書に書かれていない技術や閃きを無条件に授けることなどあり得ない。
「納得がゆかない気持はございますが、オト様がそこまでお見通しならば、第三田創を勧めたことにも深いわけがこざるのでしょう」
「深くもないけど理由はある。とりあえず見守って」
「はい」
ララナが会釈して、オトの手に両手を添えた。
「……これからは、お風呂だけ、ですね」
「ん、何が」
「……」
ララナがちょこっと振り返って俯いた。彼女の気持を察せられないオトではない。子の頃から緊張感を持って生きてきた大人しい彼女の稚い表情を引き出したかった。
「そう、そう、拗ねなさいな。布団も一緒やろ」
「……はい」
ララナの指先にきゅっと力が籠もった。
……まだまだ甘え下手やな。
娘のことは勿論見守る。オトは同時に、ララナが得られなかったあどけなさや幼く生きられたはずの時間を取り戻させることにも、思いを向けたかったのである。
大黒柱としてオトが考えるべきことは星の如く多いが、優先度を見極めて効率よく処理してゆかなくてはならない。その中で自分の欲求も解消してゆかなければストレスが溜まって爆発してしまうだろうから要注意だ。
お湯から出た二人は着替えを済ませると娘の待つ寝室を静かに覗く。燈が点けっ放しだが、感覚鋭い四つの耳が捉えた通り寝息が三つである。
「疲れとったんやろうな」
西に頭を向けて眠る三姉妹。北の壁際から音羅、納月、子欄の順に川の字。燈を消したオトは、自分達の布団がある窓際へ。
「ほら、おいで」
先に横になったオトは掛布団をそっと捲ってララナを誘った。
「失礼致します」
音もなくすすっと歩み寄ったララナが奥床しく三つ指をついて隣に横たわると、オトは掛布団を掛けた。敷布団と掛布団の中央にはいつかのように空気が横たわる。
湯船でもそうだが、オトが近づかないとララナはなかなか距離を詰めない。夫婦になる前、オトが突き放していたころ気持の距離など構わず家を訪ねてきたのが噓かのようにララナは消極的だ。男に慣れていないというよりは、オトへの好意が深すぎてどの程度距離を詰めたらよいか判らなくなっているようだった。
慌てず騒がず。背中を向けているララナをオトは無造作に抱き寄せた。
「結婚したら俺の我儘にうんざりしたか」
「お戯れを。左様なことは決してございません」
「ならこのままでいいな」
「も、勿論、あ、ふぇっ……」
オトはララナのお腹に右手を当てて、お尻に腹を押し当て、膝で股を割って脚を絡ませた。一メートル先には子欄が眠っている。
「このくらいならいいやろ、最後までするわけでもないし」
「はい……」
緊張に息を詰まらせるララナを、オトは愉しむ。もともと彼女で遊ぶのが好きだったが、夫婦となった今は前より大胆に迫れる分、羞恥を含んだ反応により多く出逢える。
ララナの太股を膝で上に撫でなぞり、オトは耳許で囁く。
「息が乱れましたね。何を期待しているのですか」
耳まで真赤にしてララナが縮こまってしまったので、オトはくすっと笑って脚を解いた。
「っふふ、遊びすぎたわね。ララナは仕事あるし、ゆっくり休まんと──、あら」
ララナが縮こまったまま気を失っている。
「まったく……、苛め甲斐のある子やな」
彼女の縮こまった体の各部を優しく撫で解して、オトは遊ばず、囁いた。
──おやすみなさい。
天井が目覚めの景色。
……あ、引っ越したんだっけ。
外観が同じなら間取りも同じだが、壁紙が違うことに音羅は初めて気づいた。
開け放たれたカーテン。窓から朝日。目につられて意識もぱっちり。
「希しく早いね」
と、声を掛けたのは父。ダイニングのテーブル席についている。
「パパ、おはよう」
「ん、おはよう」
納月の腰の横に手をついて立ち上がった音羅は、掛布団を納月に掛けて父のもとへ。テーブルの隅に座っているクムと話していたようで、その手許にサンドイッチが。
「音羅様、おはようございます」
「おはようございます、クムさん」
と、音羅はクムと挨拶を交わしてから、父を向き直る。
「もう食べているの」
「娘との生活初日に最後に起きるのも引籠りの父親としての面子が立たんし、ついでに食べとるよ」
父の理屈は音羅にはよく判らないが、「毎日食べるのは嫌やけど」と、言うのでツッコみどころがあった。
「日を置いても大丈夫なのが不思議でしようがないよ。わたしだったら絶対に持たないもの」
「やろうな」
父が時計を一瞥。「六時半。いい傾向やな」
「なんの話」
「早起きできること。感心、感心」
音羅はえへへと笑って、
「サンドイッチ、わたしの分ってあるかな」
「こちらにございますよ」
と、母がキッチンから出てきて、皿に盛ったサンドイッチを音羅の席に置いた。
「顔を洗ったら食べてください」
「え〜、今すぐ〜」
「要らないのでしたら私が食べてしま──」
「あ〜っ、行く、洗うから、食べないでお願いっ」
「ええ、勿論」
母の急かし方が父に似ている気がして音羅は慌てながらもうきうきした。顔を洗ってサンドイッチをぺろりと平らげると、蜜柑の山からもいくつか頰張り、キッチンで洗い物をしている母に蜜柑の皮ごと皿を渡して声を掛けた。
「制服ってもう着ておいたほうがいいのかな」
「慌てて忘れ物をしては大変ですし、制服慣れするためにも早めに着るとよいでしょう」
と、言った母が、少ししてから手を拭いて寝室へ。制服をハンガごと持ってきて音羅の体に翳した。
「オト様。斯様になりますが、音羅ちゃんに似合いましょうか」
父がテーブルの上で両手を合わせた。
「制服なんか似合わんのが幸いだ」
「それもそうですね」
……それもそうなんだ。
両親の話すことが音羅はときどき理解できない。
「ですが、第三田創の制服はほかとは違って少し可愛いと思うのです」
「ふうん、お前さん、いつから『可愛い』を理解できるようになったん」
「正確には、『制服を着た音羅ちゃん』が可愛いと思うのです」
「理念や意図はさておき、音羅には合うように観えたってことか」
「音羅様、新生活らしくびしっと決まりそうですわ」
クムが母に並ぶ高評価をして、「ほら、蜜柑をあげますからオト様も観てあげてください」
「蜜柑は羅欄納の財力で買っとるんやけど」
と、反論するも父が立ち上がり、音羅の前で屈む。上から下までまじまじ観察する父を、音羅は見つめた。
「ふふっ、どうっ、キマりそうかな」
「まあ、まず着てみろ。あ、パジャマは脱げ。間違ってもその上に着てくなよ」
「あはは、いくらわたしでもそんなことしないよ」
クムが言うようにびしっと決まるようにしなくては。「じゃあ、着替えてくるね!」
音羅が制服を手に脱衣室へ入っていった。見送って沈黙したオトに、ララナが尋ねる。
「しんみりしておいでですか」
「いや、そうじゃないよ」
寂しかったり、悲しかったりするのではない。嬉しいとは少し違うが、近いか。
明朗な音羅は無防備なところが見受けられたが、ララナの教育の賜物か、父とは言え男の前で着替えることはなくなったようだ。
「好調だ。羅欄納、音羅の教育、引続き頼んだよ」
「おや、オト様もお力添えください。共同の役目、連帯責任ですよ」
「教育に義務めいた言葉を使いたくないが、できることなら俺も手伝うよ」
ララナが働きに出るのに対して、オトは家にとどまることを選んだ。相変らず労働意欲がないことも要因の一つだが、優れた経歴を有するララナが働いたほうが稼ぎがよい。その差たるや最低でも三倍であるから、オトが働いてララナが家にとどまる選択肢はあり得なかった。共働きも選択肢にあり得たが、外で働くくらいなら洗濯物を取り込んでみんなの帰宅を待つほうがオトの性に合っている。
「家庭教師を始めるくらいやから自信もあるやろう。勉強を観るのはお前さんに任せたいところやな」
「オト様は何を観察されるのですか」
「男親が観ることなんか少ない。ましてや思春期と反抗期を迎えるであろう娘に下手な目を向けようもんならウザい・キモい・クサいの三拍子で追い払われるのが落ちだ」
「くさいのですか」
「知っとって言っとらんか。思春期の娘は父親の体臭を嫌うようにできとるんよ、自己防衛のためにな」
一説には、奇形児誕生リスクなどが高まる近親交配を回避するための本能である。
「音羅ちゃん達に限って本能に身を委ねることはないと信じております」
「お前さんのように理想混りでも理性でガチガチな理論派ならいいんやけどね」
「ご指摘のように理性のみの理論でもございません。私とオト様の関係を知らず知らず観ている音羅ちゃん達ならオト様の愛情を感じ、オト様に対する本能的拒絶を押し退けられるはずなのです」
そんな理屈はとっくの昔に知っているオトである。
拒絶されたい心理と理由が、あるのだ。大人になり子を産んだ後、父を頼りにする娘の心理があるように。
「オト様っとっと、どうぞ」
クムが危なっかしい足取りで差し出した蜜柑を、オトは受け取った。
……う〜んと、これでいいのかな。いいよね。
爪先立ちして独立洗面台の鏡を見つつ襟のリボンを結んだ音羅は、今度は軽く跳んで全身を観た。リボンの先がふわりと舞って、スカートがひらりと揺れる。
「……」
いつもワンピースを着ていてスカートには慣れているつもりだったが、制服を抜けた風を音羅は少しだけこそばゆく感じた。
両親は、この姿をどう思うだろう。成長したと褒めてくれるだろうか。
ボワッと火の粉とともにプウが現れて、ひょこひょこと鏡を覗き込んで笑ったようだった。
「ピィ、プゥ」
励ましの言葉のようで、プウが頰ずりしてくれる。
「ふふっ、大丈夫だよね。(まだまだ子ども扱いされているけれど、少しずつ変えていけばいいんだ)」
やる前から諦めることはしない。母の助言を胸に、音羅は歩み出す。
……さあ、見てもらおう!
──一章 終──