一五章 抗う者達
ひんやりとしたトンネルを抜けると集合場所はすぐそこ。戦前から多い馬車や戦後増えてきた魔導車の乗場があるエリアの脇で、午前の集合場所と同じ。日はまだあるが、時間的には夕方。来場者の入れ代りが激しい時間帯でもあるのだろう、馬車・魔導車を含む車両の発着が途切れない。
先に集まっていたのは納月、野原、翼、蓮香、衛の五人とワタネ。そこに音羅はプウ、鷹押とともに合流。納月によれば子欄が先に帰宅したとのことで、残りは知泉と虎押のようだが、みんなの表情が芳しくない。
鷹押が尋ねると衛が腕組のまま、
「虎押が知泉さんを捜してる。どうやらはぐれたらしい」
「はぐれた」
「と、いっても状況が少し変なんでしゅ。雛菊しゃんがトイレに入ってるあいだに、近くで待ってたはずの知泉しゃんが消えたらしくて」
と、納月が横から言い、続いて翼が口を開いた。
「お手洗周辺はひとが込んでいなかったと雛菊虎押さんがいっていた。それで『消えた』というのは変。自発的移動ならここに来るけれど、雛菊虎押さんが離れてからも知泉ココアさんは現れていないわ」
野原が想像を話す。
「女子トイレに入ってて行き違ったなんてオチは考えにきぃな。知泉は部活の態度からいっても時間にルーズじゃねぇ。集合時刻の一七時半を回ってここに戻ってきてねぇのは変だ」
「事故にでも、……」
と、蓮香が沈黙した。
音羅は周囲を見回して、
「もしそうなら、それらしい騒ぎになっているはず。きっと大丈夫です」
「そうだな」
と、鷹押が言って、蓮香を窺う。「捜すなら虎押だけでは効率が悪いが、全員ここを離れるのもまずいだろう」
蓮香が最悪の事態を考慮して動く。
「人攫いなんてことは考えたくないけど、お祭騒ぎに乗じて荒れる連中はどこにでもいるし、可能性を切るのは早計ね。あたしは広警本部に通報して応援を呼んでくるわ。……星川、あなたはここに残ってココアさんを待ってて」
「解った。ぼくの携帯からも広警に通報しておくよ」
「お願いするわ」
「知泉さんが合流または状況に変化があったら鷹押の携帯に連絡を入れる」
「そうね、そうして。ほかは祭を回った組でそれぞれ別方面を捜索して。ココアさんがなんらかの犯罪に巻き込まれているのだとしたらミイラ取りがミイラになりかねない。だから絶対、単独行動は駄目よ。ココアさんを見つけたらここに戻って。もし、……もしそれができそうにない状況に陥ったら、とにかくひとの多いところへ逃げて。犯罪者は他人の目を嫌うはずだから下手に手出しができないはずよ」
緊迫感に満ちた蓮香の指示に皆がうなづいた。
「担当箇所はみんなで決めて。あたしは逸速く広警本部に行くから」
駆け出した蓮香の背中はすぐに小さくなった。
「手っ取り早く担当を決めよう」
と、衛が切り出した。「鷹押組は足が速いだろうから一番遠い役場前メイン会場周辺を、此方さんの組はこの辺りから小会場のある駅南口周辺を、それぞれ観て回ってほしい」
「一つ質問です」
「音羅さん、なんだい」
「知泉さんが消えたというお手洗の場所はどこですか」
「メイン会場と小会場を結ぶ小路の一角、仮設トイレだそうだよ。メイン会場裏の麺処に面した小路を北に二〇〇メートルほど行ったところだ」
「メイン会場へ行く際、そちらも観てきます」
「そうだね、お願いする。じゃあ、一旦散会だ」
二組が担当区域へ散る。
音羅と鷹押はトンネルを通り、メイン会場へ走った。
「知泉さん、大丈夫でしょうか……」
「……、姿を見た人間がいないか、聞込みしながら急いで捜す」
「そうですね」
トンネルを抜けたところで虎押が向かってくるのが見えた。
「虎押さん、知泉さんは」
「いない!どこ行ったんだ……、どこへ……」
虎押の目線が落ちつかない。鷹押が虎押の肩を叩いた。
「少し休んで、平静になれ」
「っていったって、消えたんだぞ……!ついさっきまでいたのに一分もなしに突然だ!」
そんなに短い時間で。
「……。休むのが嫌なら、一緒に来い」
「当然だ、どこへ行く」
「仮設トイレだ。案内を頼む」
「ああ、ついてきてくれ」
息を切らしていた虎押が駆け出して、音羅と鷹押は後ろをついていった。
駅南口から少し進んで西へ曲がり、人通りのまばらな小路を走ると間もなく仮設トイレに到着した。ボックス型のトイレが男女別に一つずつ。東から順に、仮設の蛇口、女子トイレ、男子トイレが並んでいる。メイン会場と小会場の中継点にあるものの、両会場を繫ぐ道はここが唯一でもなければ特別広いわけでもない。日陰が少なく暑いため人気はない。
「知泉はこっちで待っていたんだ」
と、虎押が指し示したのは女子トイレの東側、蛇口・排水口付近の土曝しだ。この辺りで日陰になっているのはそこだけ。好き好んで動くことはないだろう。
「ますます一人で消えたとは考えにくいですね」
「知泉が待っていたところは入らないように、二人は周辺を観てくれ。痕跡がないか観る」
音羅と虎押は指示に従って仮設トイレ周辺を観察するも、知泉の姿はおろか知泉のものと観られる物すら見当たらない。
が、知泉のいた場所を観察していた鷹押が口を開いた。
「足跡が消されていないか」
「『え……』」
音羅と虎押は、鷹押の視線に促されるようにしてその場所を視た。影の掛かった土曝し。今し方その周囲を歩いた音羅達の足跡がくっきり残っているのに、知泉がいた場所には足跡一つ残っていない。
ぞわりと、肌が慄えた。
「まさか、本当に、人攫いが知泉さんを……」
「そんなはず!」
虎押が頭を抱えた。「悲鳴もなかったし、物音もなかった。あの知泉が黙って連れ去られるわけが……」
一学年生の中でも知泉は優秀な武芸者である。場所としてはそれなりに開けており、体を動かせないような場所ではない。狭所戦に特化した格闘を学んでいるとは言え開けた場所で完全に不利でもなく、襲撃されて無抵抗だったとは考えられない。
皆の動揺が伝わったか、目を覚ましたプウが男子トイレの上にひたっと跳び移った。
「ピィ、……プゥ」
「プウちゃん、どうしたの。煩かったかな……」
プウが目線を寄越す。
「そこに何かあるのか。……」
少し考えてから鷹押が男子トイレに上がる。と、天面から凹んだような音が鳴った。二つのトイレの天井を確認した鷹押が、女子トイレ側の天井へ顔を突き出すようにして日陰を見下ろした。
「兄貴、なんかあったか」
「……知泉はそこの影に立っていた。死角はほとんどないが、知泉が北か南を向いていた場合背中ががら空きだろう」
「そこを狙われたのか。一撃で気絶させられたなら悲鳴を上げることもできない……。でも、そこらじゅうに警察官が立っているみたいなのに、どうやって連れ去ったんだ」
「巫女さんやボランティアのひともいますよね」
とは、音羅も観て言った。メイン会場や小会場、そこを繫ぐ大きな通りなどと比べれば数は少ないようだが、警備や案内を担当している人員が全くいないわけではない。広域警察がその辺りも聞込みをしてくれるだろうが。
「憶測の段階だが、人目の多い場所では堂堂と連れ去ったと考えられる」
「意味が解らない。どういうことだ、教えてくれ、兄貴」
「憶測だといった」
「……なんで知泉が」
「考えたところで憶測にしかならない」
プウが音羅の肩に戻ると、鷹押が地面に降りて携帯端末を取り出した。「ひとまず経過を衛に連絡する。蓮香が広警の応援を連れてきたときにこの場が荒らされていると問題だ。誰も入らないようオレが見張ろう。竹神音羅と虎押はメイン会場を見回ってきてくれ」
「単独行動は駄目です」
と、蓮香の言葉を借りて音羅は鷹押に意見した。
「音羅のいう通りだ。知泉の身は心配だけど、状況からいって手懸りはここにしかない。広警の応援を待ったほうが得策だし、最悪、兄貴の身に何かあるかも知れないんだ」
「それはない……、と、いいたいが、そうだな」
鷹押がメールの文面を打ちつつ答えた。「悪いが、ここでしばらく待機だ。メイン会場へは三人で行く。場合によってはそれを省いて広警に協力しよう」
音羅と虎押はうなづき返し、鷹押が衛にメールを送るのを待った。それから、鷹押が念のために広警へ連絡を入れ、蓮香が呼びに行った応援をこちらへ向かわせるよう呼びかけた。一高等部生徒の通報に警察官が大量動員されることはないと思われたが、やってきたのは意外にも一〇人もの大所帯であった。音羅達の守っていた仮設トイレ東に警察官が規制線を張って現場保全した。現場の観察を始めた警察官が微物採取や足跡の型取りをする。音羅達はそれらを観つつも靴の型や髪の毛を採取され、別の警察官から事情聴取を受けた。
捜査活動から解放されたのは空が焼けた頃。仮設トイレ東での現場検証は続いていたが、警察官がやってきたときに合流した蓮香を連れ立って音羅、プウ、鷹押、虎押はメイン会場へと足を運んだ。
「いよいよもって穏やかじゃないわね……、なんでこんなことに」
歯嚙みする蓮香に、陰った虎押がいう。
「人攫いなんて、どこかの童話みたいな話だ……。なんで、知泉がそんなことに巻き込まれなきゃなんないんだ……」
「犯人に不都合なものを観たんだろうか」
と、言った鷹押を、虎押が睨む。
「冷静なんだな、兄貴は。事情聴取にも慣れた感じで対応していたし、なんか、あんまり心が動いてないみたいに観えるぜ」
「虎押、苛立つのは解るけど冷静になりなさい。鷹押は深刻に受け止めてる。だからこそ冷静に対応してたのよ」
さすがの蓮香も、事件性ありと観た警察官の姿にショックを隠せなかったのだろう。警察官の眼で事件性なしとしてくれないものかと一縷の望みを持って応援を呼んだに違いない。望みは裏切られた。最悪の事態だ。
鷹押が、小さな声で謝った。
「気に障ったなら謝る。オレも、動揺している。冷静に努めたい」
「……解っている、解っているとも。……でも、悪い、兄貴、ちょっと、疲れて──」
メイン会場を観て回る最中、虎押が膝をつき、そのまま横転しかけた。鷹押が支えて虎押の額を触れる。
「熱があるな。無理を──」
「してないって。知泉がどうなったか知れないんだ……。オレが目を離しさえしなけりゃ、こんなことには……」
何を言っても励みにならない。自分を責めざるを得ない虎押に皆が言葉を失った。
虎押がぐらっと項垂れた。気を失ったか。
鷹押が虎押を脇に抱えて、音羅、蓮香、プウを見た。
「病院へ連れていく。恐らく熱中症と脱水症状だ」
「急いで行って」
「すまない」
蓮香の応答を受け、東隣に位置する〈田創総合病院〉へ鷹押が向かった。
残された音羅、蓮香は、暑さとは別の異質な汗を拭う。プウは汗をかいていないが、音羅の肩や背中を落ちつきなくするすると動き回っている。
「集合場所は星川達が待機してるから変化があれば知らせてくれる手筈だけど、嫌な感じね、ココアさんが無事なのかどうか……」
携帯端末は鷹押が持っているので衛からの通信を音羅達は受けられないが、恐らく野原が状況を伝えに来てくれるだろう。
「虎押さんの様子も気懸りですね。自分のせいで知泉さんに隙ができてしまったと感じているんでしょう」
「生理現象を我慢するのは体に毒、なんていっても無駄ね。ココアさんが無事に戻るまで虎押は思いつめてしまう……。なんとか、早く見つけてあげないと」
そもそも、知泉はいったい誰に狙われたのか。
「知泉さんは誰の不都合に触れたんでしょう」
「鷹押の推測ね。ひょっとするとココアさん自身がそれとは認識していないことで狙われた可能性もある。よくある身代金目的略取って可能性もある」
「そういえば、ダゼダダはそういう犯罪が多いと父が前にいっていたような……」
「そう、主に上流の人間、子どもが狙われてるわね。犯人はほとんど検挙されてるし、犯行に及んだのとは別の貧民に広く手厚い保障を政府が公布していたから、件数は減ってきてるんじゃないかしら。正直、わたしは忘れてたくらいよ」
「それに、知泉さんは中流ですよね」
「だから身代金目的に拐かされたとは考えにくい。その辺りを広警は口にしてなかったけど考えてはいたでしょうね」
ならば鷹押のいうように知泉は誰かの不都合に触れてしまったのか。
「ココアさんが独りだったから襲ったとも考えられるわ」
「独りだったから。なぜですか」
「無差別の害意を抱えている人間、他人を傷つけようとする人間が、ゼロじゃないという現実がある。欲求を満たすため弱者を狙う人間も。可能性を探ったら無数……。独りでいる女の子は、そういった連中に狙われやすいと思う」
「……」
なんということだ。蓮香のいうことが現実だとしたら、組分けを受け入れて行動した音羅達みんなが知泉行方不明の一因を担っている。虎押だけではなく、みんなの責任だ。それなのに虎押は自分の責任だと全てを背負って、無理をして、倒れてしまった。虎押が無理をしてしまうことも予想がついたはずなのに、知泉捜索に前のめりだった彼を音羅は止めなかった。
「なんとしても捜し出さないといけません」
「わたし達にできることはやり尽くしたわ」
「……やれることは、まだあります。きっと」
音羅は、周辺の魔力を探った。無魔力の知泉を捜すことはできないが、両親の魔力反応がないか探ったのである。
……パパやママなら、きっと何か手を考えてくれる。
父はいつも魔力反応がないのでどちらかといえば母を捜した音羅であった。予想に反して父の個体魔力を捉えたものだから、それがサインだと察した。
「蓮香さん、わたしの父が、きっとどうにかしてくれます」
「音羅さんのお父さん。もしかして、あの竹神音──」
いつかみんなが知ることだと解っていたが、音羅は萎縮してしまう。
「知っていますよね……」
「音羅さんには悪いけれど、悪名高いもの。苗字が同じってことで可能性だけ考えていた。まさか本当にそうとは……」
蓮香の言葉は拒絶的なようだったが、「わたしが信じるのは音羅さんのお父さんじゃなくて音羅さんよ。だから関係ない。手があるなら尽くそう」
と、彼女らしい心に満ちていた。
「……ありがとうございます。では、ちょっと失礼します」
「わぁっ!」
音羅はお辞儀もそこそこに蓮香を抱っこし、プウが火の粉を散らして消えるのを確認してメイン会場を跳び上がった。魔力の出し惜しみをせず、高さ五〇メートルほどの放物線を描いて音羅が降り立ったのは広域警察本部署の屋上。そこに父と母、それから見知らぬ男性一人が佇んでいた。
蓮香を降ろした音羅は、父に駆け寄る。
「来たな」
「パパ、わざと魔力を出して呼んだでしょう」
「そろそろかと思ってな」
相変らず父の言葉は摑みどころがないが、今は少し意味が解った音羅である。
「知泉さんが消えたの。何かを知っているんだよね」
「知泉ココアはこちらで保護した」
と、見知らぬ男性。
「保護……、見つかったってことですか」
蓮香が男性に詰め寄った。「会わせてください、無事を確認したいんです!」
「あとにしてくれ。今は事情聴取の最中だ」
「……無事なら」
振り返った蓮香がほっとした様子だ。音羅も胸を撫で下ろす思いであるが、父を見上げて尋ねる。
「いったい何が起きたの。パパがここに来たのは、何かを見越してのこと」
「遊びに来ただけやよ。お前さんの友人についてはたまたま」
「犯人を見かけたってこと」
「推測が立っとるようやね」
「誰かが誘拐したんじゃないかって、みんなが」
「そうか。犯人は逃がした」
「知泉さんが無事ならいいけれど、パパの腕なら捕まえられたんじゃ……」
「引籠りやぞ。毎日鍛錬しとるお前さんよりなまっとって骨粗鬆症で骨折が恐いくらいやのにまともに動けるかいな」
「こつそしょう……、それもそう、かな」
やや理解できなかったので釈然としなかったが、知泉が無事だったとのことなので充分。
「ところで、お前さんらの仲間に連絡してきたらどうなん」
「あ、そうだね!蓮香さん」
「そうね。あの、電話はありますか」
「これを使うといい」
「ありがとうございます」
男性──後に広域警察本部署長と判明──から借りた携帯端末で蓮香が衛と鷹押に連絡、知泉の無事を伝えて、祭のあとの大騒ぎはひとまず収束したのだった。
音羅の背を見送ったオトは、
「しっかり職務を遂行せぇよ」
と、一言。
広域警察本部署長天白和が眉間の皺をザクッと深めた。
「いわれるまでもない」
「可愛げのないヤツやねぇ」
「寄るな」
オトが近寄ろうとすると天白和が跳び退いた。手乗りサイズの象がひょこっと顔を出して天白和の肩で「パォッ」と鳴いた。
「前言撤回、随分と可愛いやん」
「黙れ、帰れ、事故れ」
「最後のは警察官としてまずくない」
「申請あらば渋渋火葬はしてやろう。ではな」
「お役所仕事やな」
オトは全く構わない。天白和を見送ると、しばらくしてララナと署をあとにした。
「オト様──」
ララナの言葉を手の甲で遮って歩く。
「祝われるべきじゃないってこった。他人がどう思おうが俺は構わん」
「この一件は……」
「ああ、そうやね」
娘の友人知泉ココアを連れ去ろうとした輩は、自分に縁のある人物に関係しているとオトは観ている。
「報いを受けてもらわんとな……」
無表情下、オトは血を滾らせた。
広域警察本部署に雛菊兄弟以外が集合した。
仕事のある野原を送迎する音羅と翼は時間ぎりぎりまで署に残って、事情聴取を終えた知泉と再会できた。
母から預かった小遣いを使って馬車を呼んだ音羅は、走り出した車内で野原、翼と向かう。
「知泉さん、元気そうでよかった……」
「一時はどうなるかと思ったけどよ」
攫われたとき気を失わされたため取調べに当たった刑事から聞いただけのようだが、攫われて間もなく音羅の父〈竹神音〉に救われたと知泉が言っていた。
「不幸中の幸いだったよ……」
「犯人は取り逃がしたんだよな」
野原が脚を組んで、「お前の親父も案外大したことないんだな」
「そうだね」
「否定しねーのな」
「わたしもその点は少し驚いたんだ。なんというか、パパらしくないというか……」
「考えあってのことよ」
と、翼が断言した。
「お得意の妄想か、先輩」
「当たっている自信があるわ」
「聞く前からなんだけどよ、相変らずどっから来んだよ、その自信は」
「経験則ね」
「翼さんの推測を聞かせてください」
「犯人を泳がせているのよ」
「まさか」
と、野原が肩を竦めた。「知泉を取り返すので精一杯だっただけだろ」
「犯人が有魔力なら個体魔力、広くいえば魔力反応を追跡できるわ。無魔力なら何かしらの目印となる『魔力』を仕掛けておいたのね」
「目印となる魔力、ですか」
「回り諄い魔法だな。直接発見する魔法を使えばいいじゃん」
「考えてみて。有魔力なら魔力の集束、すなわち魔法を感じやすいわ」
「魔法じゃなく、魔力ってとこがミソなわけか」
「ええ。少量の『魔力』なら自然界に漂う数多の魔力と区別することは困難、無魔力個体が相手なら不可視だからなおのこと便利ね。そういった少量の魔力を他者に施しておいたのなら目印として十分に機能する。世界にありそうでなかった便利な魔法や魔法技術。竹神音さんならできるわ」
「抜け目ない感じが父らしいです」
「って、結局それは先輩の妄想じゃんよ。普通に考えて取り逃がしたって線が濃いだろ」
「それはないわ」
「だからその自信は〜いや、まあいい」
諦め半分の野原が首を傾げた。「目印とやらを施して、なんの意味があったんだ。そこで捕まえちまったほうが確実だし早いじゃねーか」
「知泉ココアさんの安全確保と犯人追跡、両方を同時にこなした。二兎を追うなら一兎を仕留めるべき、臨機応変に事態を処理すべきよね」
「ん〜、順を追ったってことなら少しは納得できるけどよ」
翼が人差指を立てた。
「犯人には仲間がいると竹神音さんは考えた。犯人が複数なら、アジトに帰ったところを一網打尽にするほうが効率的だわ」
「それも解るけど、どうやってそんなの察するんだ。有魔力の特殊能力か何かか」
「有魔力全員にそんな能力があるわけではない。新しい出来事に触れても、経験からある程度の結果を類推することは人間誰しもやっている。俗にいう『勘』よ」
「竹神父は相手が複数犯だと経験で察したってことか」
「それ以外に逃がす理由がないわ」
推測の裏づけとなりそうな根拠が翼にはいくつかあった。「ひと一人が入るのだから仮設トイレの高さは二メートル強が一般的ね」
「そうですね。あのお手洗は鷹押さんよりも背が高かったです」
「副部長の身長は一九〇センチくらい。トイレが二メートルってのは確かそうだが、それがどうかしたのか」
「そこに気づかれずに上って知泉ココアさんを気絶させるのだから並の人間ではないとは思わない」
「た、確かに。駆け上がるにしても跳び載るにしても音を立てちまいそうだ。仮に副部長クラスのデカブツが静かに上ろうとしても質量があるから無音ってのはムズそうだ」
「そういえば、鷹押さんが載ったときもボコンッて凹むような音が立っていたよ」
「そう。犯人は普通の人攫いではないということよ」
それに加えて、翼が父の実力から推し量る。「竹神音さんは初等部時代にして武術も魔法も大人を凌駕していた」
「そんなにすごいヤツなのか。竹神父はぎりぎり未成年なんじゃなかったか」
野原が少し疑っているのは、大人が子どもより絶対的に強いとは考えていないからだろう。
野原に合わせて翼が視点を変えた。
「竹神音さんは毎年学年首席だったわよ」
野原が、目を見開いた。
「……マジかよ。学年首席っつったら同学年の中のトップ争いでしょっちゅう入れ替わるイメージだぜ。それを毎年って、もう最強ってことじゃん……」
「ええ、そのサイキョーよ。彼はその域にとどまらなかったけれどね。先生方が飛級を勧めたという話も事実として伝わっていたわ。それも初等部二学年のときから初等部六学年によ」
「飛級なんて一学年分か二学年分しか聞いたことねぇんだけど……」
「実際には頂等部卒業と同等の魔法学の成績を残していたわ。名門高等部卒業相当の魔術師試験を彼は初等部進学前に合格していたと新聞が伝えている。その力量は教員すら及ばない。一学年下にいたわたしが生き証人」
「父はそんなにすごかったんですか」
「お前も知らなかったのかよ」
「知らなかったよ。パパ、昔のことはほとんど話さないもの」
父のその頃の記憶を持っていたはずだが、音羅に取って強烈な記憶以外はすっかり薄れている。父本人から聞いたとしてもほとんどのことを想起できないだろう。父が過去に出演していたテレビ番組ならネット上で見つけたものを納月や子欄と一緒に視聴したこともあるが、そこでは音羅達がびっくりするような魔法は使っていなかったから、翼がいうような資格や経歴があるとは思いもしなかった。
「……ある意味、黒歴史なのか」
野原が再び首を傾げた。「昔にいい成績を収めてたとしても今はそうじゃないとかだったら世間に出づらいだろうしな」
……それはあるかも。
何せ引籠りだ。成績に限ったことではない。魔法の無駄遣いを嫌う父であるから、テレビ番組で魔法を使っていた過去の自分を咎めて気に病んでいる可能性もある。
「そもそも論だけど、知泉はなんで狙われたんだ。実力が買被りじゃなかったとして、竹神父が泳がせたとしたらヤバめな、デカイ犯罪組織ってことなんじゃねーの」
「そこは知泉さんも刑事から聞いていないみたいだったね。翼さんはどう思いますか」
「わたしも想像が及ばない。憶測だわ」
「先輩のはいつも憶測だっての。いまさらだから聞かせてくれよ、暇潰しにさ」
職場まであと数分で到着する。景色を眺めて翼が口を開いた。
「知泉ココアさんは誰かの不都合、要するに犯罪行為に触れた。仮設トイレの場所柄を考慮した組織的犯罪といえば、灯台下暗しを狙った武器や薬物の密売犯、テロを含めた広域警察本部署襲撃計画犯が真先に思いつくわ」
「襲撃は去年あったばっかだもんな」
「テラノアが使った空間転移装置。これによる奇襲を警戒する必要が出たから、相末防衛機構開発所が魔力探知レーダを追加配備してダゼダダ中央県は漏れなく警戒できる体制が整ったと報道されていたわね。従って、空間転移によるここ中央県への白兵奇襲や工作は考えにくい」
「じゃあ、国内の反乱分子とか」
「下流階級、俗にいう貧民がいるけどその線は薄い」
「政府が貧民救済政策を進めているからですね」
「あぁ、年始公布してたあれか。月に三万前後の救済金が出るようになるとかなんとか。施行が九月だから実感ねぇけど」
「野原花さん。あなたは今、貧民としての鬱憤を晴らす」
「もとからやんねーけど、仮にやろうとしてたら、救済金もらえなくなるかも知んねぇし心変りしてたかもな。もらえるもんはもらっとかねぇと損だろ」
「だから貧民が事を起こすとも考えにくい」
「あたしがいっちゃなんだが、貧民以外の反乱分子ってダゼダダにいんのか」
上流階級や有魔力に憤りが募っている野原の言葉には実感が籠もっていた。
「わたしの憶測に入ってこないような要素が恐らくあるわ。野原花さんもいうように、現在のダゼダダに貧民以上の不穏分子がいるとは考えにくいけれど」
「先輩がこうならたぶん誰も想像つかねーな。あ、これは皮肉じゃないぜ」
「解っている。着いたみたいね」
馬車が停まった。すっかり見慣れた古いカフェテリアの前だ。野原が馬車から降りて、音羅と翼に軽く手を振った。
「いい暇潰しになったぜ。じゃなー」
開かれた扉から音羅と翼も手を振って、野原がカフェテリアに入るのを見届けてから扉を閉めた。翼を送るため馬車が寮へ向かう。
「翼さん」
「憶測外のことかしら」
「父が察しているであろう、翼さんの憶測外のことです。言葉通り、翼さんは察していないということですか」
「国内外でならいくつか想像はしているわ。過激な思想を持った元総理大臣火箸凌一の支持者は全滅していないでしょうから、現政府の専守防衛という生温い保守思想を打ち砕かんと虎視眈眈でしょうし、レフュラルとしては兵器売買の観点から過激思想によるダゼダダ対テラノアの戦を望んでいる側面もあるわね。レフュラルの戦争屋がダゼダダに入り込んで過激思想の黒山を刺激したとしたら、保守派を打倒すべくダゼダダを荒らし回るでしょう、これはタイミングとしてはあり得なくない」
「過激なひとびとは今の政府に満足していない、と、いうことですか」
「過激派の思考はテラノアの影がちらついているからこそといえる。だからテラノアが滅亡でもしない限り消えない」
テラノア滅亡は非現実的。ダゼダダ国内の過激派思想が潰えることはないのだ。
「仮にテラノアが滅亡しても今は見えていない敵が出てくるでしょうから過激な思考はゼロにならない。過激派というのは往往にして不安の爆発だから」
「不安がある限り力で相手を封じ込めようとする思考は消えないということですか……。力で封じ込めたところで相手に同じ不安を与えることになるのに」
「それが解っていてもやってしまうのが人間だわ。解らずにやっている人間もいる。解らずにいる人間を利用する人間もいる。それらを変えられないと諦めている人間もいる。それら全てに無関心な人間もいる。どこに悪があるのかしら──。不安は消えない。過激派が消えないわけね」
悪循環にもほどがある。
馬車が寮に到着し、翼とともに降りた音羅は料金を払って馬車を見送った。
寮を見上げて翼が言う。
「この国がなくならないよう、と、願うわ。愚かな闇を潜めながらも、暑くて寒いこの国が、わたしは好きだから」
「……わたしは、国というのがまだよく解りませんが、みんながいるから守りたいです」
「それが国の始まりよ。そしてあなたの世界だわ」
「わたしの世界……。大事なことですよね」
競い合って高め合って大切なことを学ばせてくれる仲間や場所、それが、音羅の世界。
「草がなければ原は成らない。木がなければ林は成らない。小さなものが寄り集まることで大きなものができる」
「翼さんは、なんだかすごいですね」
「……受け売りよ」
「もしかして、父の」
「また後程」
「はい。送迎、頑張りましょう」
翼が寮に入ったのを確認して、音羅は商店街へ歩き出した。
知泉のこともある。いつ誰に狙われるか判らないので、野原の送迎は重要性を増した。
……知泉さんを狙ったひとは、何が目的だったんだろう。
犯人の不都合に触れた知泉を狙ったのだとすると、その不都合、犯人の「本来の目的」がなんなのか。翼ですら想像がつかないのだから考えても判るまい。受動的ながら対策を強化するしかなかった。
帰途につこうかと思った音羅だが、知泉の様子が気になって広域警察本部署に舞い戻った。そこにみんなはおらず、署内の警察官によれば知泉を連れて帰途についたとのことだった。
……みんなが知泉さんを送ってくれたんだな。
皆、武芸を磨く頼れる存在であるから安心。音羅の両親も帰ったようで、姿がなく魔力を感ぜられなかった。
……あとは総合病院に寄ろう。
虎押がどうなったか鷹押から聞こう、と、署から出たところで音羅は鷹押と遭遇した。段差を上りきっていないのに顔の位置が同じなのだから鷹押の身長はやはり高い。しばらく姿を消していたプウが現れて、鷹押の様子を窺っている。プウが言葉を理解しているかは未だ怪しいが、音羅は鷹押から話を聞くことにした。
「今からそちらを訪ねようと思っていました。鷹押さんはみんなに会いに来たんですか」
「ああ。もう帰ったか」
「はい。野原さんと翼さんを送ったあとでもう一度来ましたが入れ違いでした」
「知泉が無事だったようで安心したが、お前は一人で帰るつもりか」
「わたしだけなら跳んで行けますからね」
そうやって先程も十数歩で寮から移動してきた音羅である。魔力で身体強化をしての移動であるから父にも無駄遣いとは咎められまい。
鷹押も理解を示した。
「お前だけなら却って安全ということだな」
「はい。ところで虎押さんの様子はどうですか」
「蓮香から聞かなかったか」
「知泉さんと会って間もなく野原さんの送迎に出たので聞く時間がなくて」
「数日入院して経過を看る」
「状態、ひどいんですか」
「命に別状はないそうだ。二学期までには体調も戻るだろう」
「そうですか。よかった……」
祭に浮かれていただけに急転直下の出来事だった。知泉や虎押が無事で音羅は心からほっとした。
「ついでだ。家まで送ろう」
鷹押が歩道を進んだ。「やはり、一人で帰すのは心配だ」
「虎押さんのところには戻らなくていいんですか」
「交通整理のバイトがある」
「現場が学園方面なんですね」
「ああ。竹神音羅の家は学園の近くといっていただろう。ついでだ」
「ありがとうございます。鷹押さんも一人では危ないかも知れませんものね」
「いわれてみれば、そうだな。頼む」
「はい、一緒に行きましょう」
「ピィっ」
「お前も、だな」
「ピィ〜」
プウも含めた全員の安全のため。と、いう理屈は解っていないか、プウが道中愉しそうに鷹押にじゃれついていたので、サンプルテの前まで送ってもらった音羅はそれも込みで改めてお礼を言い、学園のある北へ走る鷹押を見送った。
家に入ると、先に戻っていた納月と子欄が出迎え、
「鷹押しゃんと何か進展はありましたか」
「手を握って歩いていたという知泉さんの証言もあるそうですが、本当ですか」
と、質問を受けた。
「ひとまず挨拶をしようね、二人とも。ただいま」
「おかえりなしゃい」
「おかえりなさい」
二人が口早に挨拶を返して、ダイニングに移動した音羅に続いた。
「二人ともお風呂は入ったの」
「今からでしゅよ。お姉しゃまが帰ったのでお姉しゃまが先でもいいでし。しょんなことより鷹押しゃんとはどうだったんでしゅか」
「鷹押さんは先輩だよ。手を繫いでいたのは、はぐれないようにしてもらっていたんだ」
「それはどちらが提案したんですか」
「しーちゃんまで」
「プゥピィっ」
「プウちゃんまで……」
プウも言葉を理解しているのだろうか、それともノリか。ともかく三人の圧がすごいので、音羅は答えるが。
「鷹押さんだけれど、それがどうかしたの。って、よく考えたらプウちゃんはその場にいたのにっ」
プウは納月と子欄の圧に感化されただけだろう。寝室のタンスから着替を取り出した音羅は後ろの妹を振り向いた。
「鷹押しゃんは絶対お姉しゃまに気がありましゅよ」
「そうかな。わたしが小さいから心配なだけだと思うよ。お祭の途中も迷子の子を率先して保護していたもの」
「そうなんですか」
「うん」
あちらこちらに見えたボランティア達に迷子を任せるのが普通だが、「安全確保を見届けなくては」と、言って会場に近い広域警察本部署に出向いて預けていた。それだから今日、音羅達は知泉のことがある前に警察署に何回も出入りしていたのだった。
「鷹押さんは親切なだけじゃなくて、小さい子を心配になってしまう、根っからのお兄さん気質なんじゃないかな」
虎押を心配する姿も兄であった。
「だとしても、二人きりになろうとお姉しゃまを誘ったのは鷹押しゃんでしたよね」
「蓮香さんと衛さんを組ませたかったからだっていっていたよ」
当初は久しぶりに合う衛と回る予定だったが、衛が蓮香と回ると意志表示した時点で気軽に誘える相手が音羅に限られたらしかった。
「わたしなら部や専攻が一緒で話しやすいんじゃないかな。鷹押さんを見て最初から恐がらなかった後輩は希しいらしいからね」
浴室へ向かう音羅に妹が続く。
「鷹押しゃんがかわいしょうに思えてきました」
「どうして」
「お姉しゃまが鈍感だからでしゅよぉ」
納月が怒っているようなので、音羅は苦笑するほかなかった。鷹押がはっきりと好意を伝えてくれれば反応のしようもあるが、音羅は「そう」と断ずるのは早いと感じている。
音羅は脱衣室に入って、
「脱ぐから扉を閉めてね」
と、妹に言った。すると納月が、
「しょうゆえば唐揚げはどうしたんでしゅか」
唐揚げ。
……あれ、どうしたんだっけ。
残り半分ほどの唐揚げを音羅は持っているつもりだった。
「警察署では持ってましたよね」
「うん」
蓮香と屋上に着地したとき唐揚げが跳びはねたので、慌てて竹串で押さえた覚えがある。
「野原しゃん達の送迎前後はどうでした」
「持っていたね。そのあとは……、署を出たところで鷹押さんと会ったときも持っていたんだけれど、いつ……」
「こちらにはないですね」
と、子欄がダイニングや寝室を覗いて戻った。「雛菊さんにあげたんですか」
「ううん、ママに再調理してもらおうと思っていたから。どこへ行ったんだろう」
知泉の消息不明に比べれば可愛いものだったが、三姉妹は唐揚げの消失に首を傾げた。プウはといえば唐揚げをまた食べたくなったか、ぽーっと口を開けていた。
「ね、パパとママはまだ帰ってないでしょう」
「帰ってましぇんね。しょれがどうかしましたか」
「プウちゃんと四人でお風呂に入らない。背中の流しっこしようよっ」
「唐揚げ消失事件ッ、が、未解決でしゅが」
「誰の命も奪いませんし、不良の唐揚げより体を洗うほうを優先したいですね」
「ピィっ」
「ほら、しーちゃんもプウちゃんもこういっているよ。なっちゃんも入ろうよ」
「むぅ、気になるんでしゅけどね」
納月が悩むうちに子欄が着替を持って脱衣室に入った。
「扉を閉めましょう。納月お姉様は独りで寂しく入るそうです」
「しょんなこといってなぁいっ、ちょっと待ってくらしゃいよ〜!」
慌てて着替を持ってきた納月を音羅と子欄は受け止めて、みんな仲良く狭い湯船に浸かることとなった。
駅北口雑居ビルの一室へ、斥候の男が警戒しつつ駆け込んだ。
国内で購入した魔物討伐用の武器と魔導具で武装した屯に、斥候の男が慌てて言い放つ。
「気づかれた!」
「手短に報告」
屯の長は、飛び込んできた斥候の男の報告を促した。
斥候の男が呼吸を整えることもせず、
「偵察中に女に見られた。口封じしようとしたところ『赤身』の横槍が入って女を奪われた」
「場所を移すぞ」
長が裏口へ動き出すと、斥候の男を含めて六名の部下がついてゆく。サラリーマン風の面子だがスーツの下には先の武装をして、銃弾や刃物を防ぐためのチョッキを着込んでいる。
淀みない動作で鉄階段をカツカツと下り、周囲の死角となる隣のビルへ跳び移ると用意していた合鍵でドアを開けて中へ入り、中から施錠し直した。七人の脚は止まらない。借りきったビルの一室を無機質なほど整然と一線に歩く。窓を開けて、予め開けておいた隣接ビルの窓へとまたしても跳び込む。三つのビルを跨いだ後、二、三〇分置きに七人がばらばらに一階から脱出する。五階までオフィスが入っており比較的ひとの出入りが多いビルは、監視されていても一人一回だけ出てゆく分にはリスクが小さい。
長は、駅南口駐輪場の裏手に当たる小路を側壁沿いを歩き、突き当りを曲がって住宅地へ。列車祭のメイン会場にも通ずる小路の一角、ビルを跨いだ間に斥候から聞いた女略取未遂現場は人気がなかった。
トイレの東脇に女物と思しき小さな靴跡。
魔導具で風を起こして風化を偽装、足跡を消した。長がそこにとどまることはなく、端から観れば素通り。予想していた事態ゆえに対策は瞬時に済ませられた。
淀みない足取りで向かうのは役場裏の民家。そこは、先程のビルの階層とともに短期賃借契約した戸建てで、アジトの一つである。
暑い。武装が重く感ずるのは汗と熱気のせいだ。鍛え上げた体も自然には敵わない。長は民家に入ってすぐ武装を外してシャワを浴びると髪型を変え、武装し直して別のスーツに着替えた。
このような生活を続けて何年だろうか。国の命ずるままに動き、ときにマニュアルに従い、ときに緊急事案で出動し、恐ろしいほどのプレッシャを受けてアジトを転転としている。
〔赤身を伐れ〕
暗号で指令が届いたのはつい先日のことだった。暗号文は既に灰。胸に焼きつけて行動。それが長と部下の任務である。
赤身とは竹神音のこと。伐れとは、暗殺しろ、と、いうことだ。
……今回の任務は、果してテラノアのためだろうか。
テラノアに亡命した言葉真本家当主言葉真国夫に国王ゾーティカ゠イルが肩入れしての命令であろう。
長はこれまで、母国テラノアの忠実な犬であった。命令に従い、任務を完璧に遂げた。だが今回は犬の思考で一応することがよしと思えずにいる。
──赤身はテラノアに敵対思想を持っていない。
ダゼダダで動いているテラノア所属のスパイが何人もおり、そのうちの一人がそう報告してきた。報告を上層部に上げた長だが、暗殺指令の撤回は下りてこない。
長は、じつのところ竹神音を、旧姓の頃から知っている。テレビ番組のメイン出演者として幼き日の竹神音がいた。彼は有魔力も無魔力も分け隔てなく救ってみせた。魔法界の常識を覆す術式──通称〈音式〉──と才能でもって、それを成した。
奇跡の少年。困っている人間を次次に救っていった彼は魔法にとどまらず弁も立った。
──僕が目指すは最上の魔術師。誰を等しく想う器がようやく立ち行くものと考えます。
人助けが全てではないが最上の魔術師となるためには他者の幸福を祈る心がなければならない。その心がなければ魔術師として最低限の素養すら備わっていない。そんな意味だと知ったとき、既に成人していた長は敵国の幼い少年に未来を観た。
──彼ならこの国を救えるかも知れない。
世界は残酷だ。
長は、未来を殺さなくてはならない。
命令は絶対だ。母国には体の不自由な母や妻子が暮らしている。命令に背けば連帯責任と称して処刑されてしまう。
……やらなければ、ならない。
それが母国のためとは思えなくても、やるしかない。
長は、武器の手入れに取りかかった。ルーティンは心を凍結させ、任務完遂へ導く。部下が一人また一人と集まって、体だけが一層動くようになる。皆、家族がいる。家族の最大単位たる国のために、己の意志や心を殺して働いてきた。夢に見るほどの恐ろしさに曝されながらも堪えて、堪えて、堪え抜いてきた。これまでと同じ。己を殺し任務を遂行する。それだけだ。何も変わらない。
変わらない。
日が落ちてしばらくすると斥候が戻り、竹神音の居場所を報告した。
「赤身、メイン会場ステージ前に入った」
「間伐着手だ」
畳に脚を突き立て、暗殺者一同が風となった。
民家南、メイン会場のあるステージ前へ向かう。
田創町で数少ない祭の夜。有名芸能人を迎えて大盛り上りのメイン会場は、混雑を極めている。先の広域警察本部署襲撃で警備人員の警戒心はやや高めだが、他国の祭同様、この列車祭も酔っ払いが続出するため、ボランティアや巫女のみならず警察官や刑事も酔っ払いの対応が得意な者を多めに配置している。そのため、偵察やテロを目的とした特殊集団に特化した配置とはいいがたい。本部署長天白和や本部署副長田辺天道が現場に出てくるなら身を潜めることも視野に入れるが、そんな動きはないと調査済みゆえに任務に障害はない。懸念があるとすれば、女略取を妨害した竹神音の警戒心。下手な接触で暗殺を気取られては次の機会は訪れまい。一度で、終わらせなければ。
するすると人込みを抜けた長は竹神音の背を通り抜けるそぶりで、
……終りだ──。
掌に握るのは刺突特化の暗器。掌に隠れるサイズでありながら背中からでも心臓を貫ける。暗殺の技術を極限まで磨き上げたから使える、一切の無駄を排した殺人のためだけに用いる道具。それを差し向けた途端──。
……本当に、これでいいのか。
暗器を握る腕に心が融け、一瞬を逸した。それを見逃した時点で失敗だ。長居はできない。異常な事態だった。部下も次次一瞬を逸して──、七人は民家に戻った。
本当にいいのか。
一同の胸に渦巻いている迷いを、皆が判っている。今回の任務を心から受け入れた者は一人もいない。
……しかし、今日を逃せば、チャンスはない。
作戦パターンはいくつも用意した。どんな状況にも対応できるように組んだ。祭のあいだならどうにかなる。
任務失敗は体制への反逆と受け取られる。やらなければ斃れる。自分も、家族も。
再び仕掛けるか。
しかし、
いや、
やらねば、
駄目だ、
やれ!
本当に、いいのか──。
「『……』」
皆と目線を交わしたとき、
(もう休め)
耳奥に響いた男性の声とともに意識が途絶えた。
目が覚めると長は真暗闇を這っていた。
「っ。(ここは、どこだ……)」
(冷静だ。さすがの熟練)
まただ。男性の声が耳奥に響く。
……何者だ。
暗器がない。スーツに忍ばせた武器を握ろうにも手が空を摑む。……全て剝がれたか。
(四八年)
「……、お前は、何者だ。姿を現せ」
ウィンドミルで何かを捉えた気がするが周囲に物体を感ぜず、片膝をついて低姿勢から周囲を警戒するも濃い闇の中、己の姿すら見えない。
(若かりし頃は己のため、国のためにと、時を刻んで妻のため、息子のため、と、懸命に働いた。よくやった)
……っ、国王──。
声も顔も直接には触れなかったヒエラルキの頂点。
(お前さんはよく働いた。家族のため、ひいては国のため、身を粉にして尽くした。さあ、心安らかに眠るがいい)
「……ですが、国王、わたしはまだ──」
(斧は折れた)
「っ」
任務を、遂行できなかった。暗闇の中で、長は肩を落とした。
優しい声が語りかける。
(働きは十二分だ。背負子を下ろすといい)
「家族は、……」
(……これよりともに存れ)
「ありがとうございます!」
意識が、急激に遠退く。
「国お、う……わた、しは、国に、資する……が、でき……か……──」
(無論だとも)
「あ……き……こと……──」
再び真暗闇を這った。
家屋の中に一つの影が忍び込んだ。
影の目的は殺人。国の密命ゆえ罪を問われない。
影は、家人を薬で眠らせた。老婆はベッドの上に置いたまま、中年女性と少年は居間のテーブルに突っ伏させた。続いて家の隙間という隙間を粘着テープで塞ぎ、ガス栓を緩めた。
翌日、一家はガス中毒死、荼毘に付された。
計画通りに事が進み、影は評価された。
影も、一つ思ったことはある。火葬後に遺骨が一つも残っておらず埋葬できなかった、と、いう不思議な話を聞いたのだ。
……いいさ、間違いなく伐ったんだから。
影の負った仕事は殺人まで。事後に報酬を得た。それが任務完遂を意味し、密命上の責任は果たされている。死体がどうなろうと関係がない。
遺骨が消えたという事実に不気味さはあったが、世の中、理解できることばかりではない。影を使ってまでこの国が殺さなければならない民の命はなんなのか。影と民を比して影のほうが有価値か。そも、問掛けが成立しているのか。考えるだけ無駄なこともある。世の中、理解できないことは概して不条理である。そこには影の手の届かない権力や優れた力を持つ者の鍔迫り合いがあるのだろうから考えない。今回の不気味さは権力者や力ある者の争いとは別の何かを感じないでもなかったが、影とは縁遠い価値観から生じたものであろうことを悟って考えなかった。
「──申し訳ありません」
「いや、いい。定位置に戻れ」
連絡を受けて、携帯端末をしまった。厳重取締班の砂縁圭が竹神音の動向を見失ったあと、天白和は役場裏の民家、ここにきた。眼下には息絶えた七人。一見するとサラリーマン風。こぞって武装しながら甲斐もなく、外見年齢からは不自然としかいいようのない自然死をしている。体が温かい。髪が濡れた者も数名。先頃生きていたことを疑う余地はない。
他殺と観たいところだったが、署に運んで監察医に解剖させても不審な点は見つからなかった。遺体が所持していた古いタイプの偽造パスポートから判ったのは、テラノアから不正入国した人間ということだった。
……貴様か、竹神音。
関与を疑いたくなった。彼は今日、間違いなく現場の近くにいた。現場に彼の痕跡はなく、遺体解剖所見が〔自然死〕である。どう捉えても竹神音の関与を裏づけられなかった。だが、だからこそ竹神音の仕業ではないかと思えもする。
テラノアから不正入国し、武装し、あるいは事を起こそうとしていた可能性も見出された人間であるからといって、遺体を母国に返さないわけにはゆかない。天白和はダゼダダ政府を通じてテラノアに抗議するとともに遺体送還を申し出たが、テラノアは抗議を虚偽と突っ撥ねて、あろうことか遺体の受け取りを拒否した。ミサイルを撃ち込んできていた過去と矛盾するようだが、不正入国者の存在を認めることでダゼダダとの関係が今以上に悪化することをテラノアは望んでいないのである。ダゼダダとの関係がさらに悪化すれば戦争に突入せざるを得ないが、テラノアの最終兵器と目される熱源体攻撃は連発できない。去年末にはその熱源体がダゼダダ上空で打ち消されてダゼダダは無傷で存続してしまった。核兵器を持つテラノアだが、それが及ぼす環境汚染とそれを介して自国が被るであろう悪影響を無視することはできない。生活圏が狭い割にダゼダダのインフラストラクチャはかなり整っているため、テラノアとしては破壊に踏みきれない側面もある。思想排斥やダゼダダ人殺戮を主とした破壊による生産力の荒廃と、大陸規模の環境汚染を結末とする核の使用は事実上不可能であり傘としても機能しておらず、核と異なり環境汚染をしない頼りの熱源体も連発できないため、テラノアは下手に戦争を仕掛けられない立場になってしまったのである。一昔前に不正入国させていた人間を本国に戻してダゼダダとの関係改善を図ることはできない。テラノアに帰投させるにはレフュラル系企業の運営する空間転移サービスやダゼダダ東部港から出ている船に乗って国境を越える必要があり、それらには身分証明が必要だ。自然死の七人が持っていた偽造パスポートは今では他国側が簡単に見抜けるもので、ダゼダダから出ることは叶わなかったのである。それならばテラノア側で最新の偽造パスポートを用意して不正入国者へ渡し、密かに帰投させればいいと考えそうなものだが、テラノアはそうしなかった。テラノアは、少なくとも死亡した七人を見捨てていた──。そんな不正入国者を認めてダゼダダとの関係が悪化することをテラノアは望んでいないから、不正入国者は存在しないなどと屁理屈を捏ねた、と、いったところだろう。無論、テラノア国王ゾーティカ゠イルも苦しい言訳だと自覚があるだろう。熱源体が有効と観ていた頃の方針で送り込んだスパイを、自身の現方針のもとでどう扱うべきか定まっていないものと思われる。あるいは、ゾーティカ゠イルとしてはもう方針が定まっているが、ダゼダダ側の天白和から観れば不合理に観えているだけかも知れない。スパイであろうと自国民を切り捨てるような考え方が、天白和にはないからである。
今後ダゼダダを防衛してゆく上で、自国民を切り捨てるテラノアの方針にどう対処するかが大切になる。核も熱源体も使えないテラノアが、最悪、切捨て決定済みのスパイに自爆テロを命ずる危険性がある。そうすることで戦争可能と示し、ダゼダダやレフュラルとの外交をこれまで通り強圧的に進めようと考える可能性があるということだ。ダゼダダ国民を守るため、不審な者が潜伏しているなら徹底的に摘発して未然に事件を防がなければならない。そのためには不確定要素たる竹神音の動向はできる限り予測して妨げたいところなのだが、七人の自然死に関与しているかどうかも摑めない始末だ。おまけに、熱源体消失のみ観るなら竹神音はダゼダダの全国民を救ったとさえいえる。その動きは不規則すぎて、どう扱っていいか判らなくなっているのが実状だ。天白和は天白和で、ある種の方針が定まっていないといえるだろう。それでも思考を止めないのは国を守ることを使命と定めて揺るがない。
情勢を読み解きつつ、テラノア人七名の火葬に立ち会った天白和は、遺骨が忽然と消えるという不可解に遭遇した。火葬場の中だけでなく周辺も捜索したが、ついぞ遺骨は見つからず、埋葬することができなかった。
思い起こされたのは、発見したときの七人の死に顔だった。
……なぜ、あれほど穏やかだった。
幸せそうですらあった。あんな遺体は観たことがなかった。仮に竹神音が関与していたとしたら、母国に切り捨てられた哀れな七人に苦痛のない最期を与えたと考えられる。殺人を容認するのではないが、母国に戻れたとしてあの七人がゾーティカ゠イルに笑顔で迎え入れられたとは考えにくい。救いの未来がなかった七人に言葉真音なら手を差し伸べただろう。
……死の救いか。焼きが回ったな。
そんな救いは許容できない。人命は可能な限り救うべきであり、奪っていいものではない。あるいは現在の竹神音なら殺すことで救うということすら気まぐれにやってのけそうだが遺骨の消失までは理解が及ばない。全ては天白和の憶測でしかない。
不可解なことだらけ。
それゆえに、遺骨の消失もどこか納得できてしまった。
……数多ある世の不可思議に、偶然触れたのかも知れない。
有魔力なら誰もが知る呪いすら存在する世界だ。誰にも手が出せず変えられない現実が厳然と存在しているということである。それはある種の限界があるということであり、その限界を超えんとする気概を育てる環境でもあるはずだ、と、天白和は考えている。不可思議とは、その超えるべき限界の一端ではないか。それに触れたということは、超えられる時代もやってくるという可能性の証明でもあるだろう。
不可思議といえば、捜査中もずっと肩に載っていたこの小さな象もそう。竹神音曰くこれは吉兆である。不可思議の全てが吉兆などということは決してないだろうが、自然死の七人やその遺骨の消失は、本人に取っては悪いことばかりではなかったのではないか、と、天白和は勝手ながら想像する。遺骨紛失という失態を世間に公表せねばならない立場にありながら自分でも理解しがたい穏やかな風を胸に感じた。それが世界の風向きであれば、と、願い、それを決定的な流れとすべく未来に目を向けてゆかなければならない。
鳴った携帯端末を取ると、本部署副長田辺天道の声だった。
「先程、テラノアからの攻撃がありました」
「何。被害は」
「それが──」
齎された一報から、天白和は風向きを感じ取った──。
音羅達の登園が始まってすぐの日曜日。
オトは、ララナと娘を連れて外出した。夫または父が自ら提案して外出するなどということは一生ないと考えていたからだろう、みんなの反応は、驚きに染まっていた。
もう誘わないでおこう。どこへも連れてゆかないでおこう。みんながそれを想定していないなら余計な手間を取らせるだけで、迷惑でしかないのだから。
そんなふうに考えて、オトはみんなとの外出をした。近くの商店街に赴いて、ぶらぶらとショッピングするだけ。無職のオトにお金はない。妻であり母であるララナが全てを支払う竹神一家。特別なことは、何もなかった。
オトは、各人に物を勧めた。本人には不要なものばかりだっただろう。長女音羅には髪留め用のゴム、次女納月にはポーチ、三女子欄にはペンシル、そして、妻ララナには──。
帰途。ララナ、音羅、納月、子欄、四者それぞれが笑顔を向けてくれる。お礼を言って、くっついてきてくれる。その重みを両腕に感ずる。
引籠りの自分に何ができようか。きっと多くのことをしない消極性の塊のような自分が、この子達にどれだけ報いることができる。
この子達を守れて、自分がすべきと思えることなら躊躇わない。容赦もしない。それはかつて戦争に突き進んだララナの心理に似て異なるものだ。オトは己の過ちを理解した上で行動する。誰に疎まれようと構わない。この子達に嫌われ、怨まれ、拒まれても構わない。オトは、そう思うほどにこの子達を──。
だからもう誘わないでおこう。そう決めていたはずなのに、人間性は心を簡単に揺るがして弱らせる。
隣には妻ララナ。不出来な唐揚げを持ち、夜の潮風に凍えるような薄着で平然と佇む。
ダゼダダ大陸外周県は東部海岸。オトは、遺骨を包んだ魔法の膜を三〇個、海にとどめている。空の膜も七個あり、そちらには、不法入国していたテラノア人暗殺者七人の遺骨が入ることになる。それが実現したあとは、海にとどめた各家族の遺骨と引き合わせて海に流す仕掛けになっている。テラノア人暗殺者とその家族の判別は造作もない──。
「これが、あの暗殺者達の家族ですか……」
「ああ。暗殺された時期はまちまちやけど、つい最近のことではある」
オトは、暗殺されるつもりがなかった。ララナもオトを失うわけにはいかなかった。
現国王ゾーティカ゠イル・テラノイ一七世下のテラノアは悪神討伐戦争以前からの圧政。自国が最先端であると全国民が幼い頃から刷り込まれ、国民の多くが自由に国外へ出ることを許されず外国のことを知る機会も少ない。家族同士ですら監視し密告し殺し合う。体制に歯向かえば家族単位で病人すら過酷な労働を強いられ、最悪は見せしめの処刑が待っている。従うことが絶対、体制を崇めることが至福、監視し・されるのが普通、そう刷り込まれて育つ。体制に違和感を持っても、その違和感の正体に気づけるだけの情報を与えられていない。違和感の正体に気づけても処刑されて存在ごと消されてしまう。ひととひとの助け合いや思いやり、持ち得た善意の一切を奪い去さられ、駒として生きることを強要される「至上の社会」である。
かつてララナの仲間がテラノア王城を陥落した。その際、ゾーティカ゠イルはその力を称えて恩赦を与えたが、体制を変えたわけではない。圧政は変化なく続いている。
「七名がオト様を狙ったのはなぜなのでしょう」
「叔父さんの復讐の一環やろう」
「言葉真国夫さんですね」
「瑣末なことにテラノアの人員を使うんやから気が狂っとるのかも知れんな」
不法入国していたテラノア人暗殺者とその家族は時代の奔流に吞まれて己の手では二進も三進も行かない状況に追い込まれていた。命令は絶対。背けるものも背けない。
「戦功は人殺しの推奨だが称賛と捉えるならマシか。水面下の戦争が続いとる現代において称えられもせず向上もせず過酷を強いられとる人間が掃いて捨てるほどおる」
「一部権力者の思惑に振り回されているひとがたくさん存在しています。人生をついばまれていることに気づかぬまま食い潰されてしまうひとびとも」
「食い潰される前に微かな望みを叶えるくらいいいやろ」
「私達と同じような思いであるならばなおのこと……」
家族とともにいたい。
国富増強という大義名分で許されると考え、なぜ国民の思いまで国が食い潰そうとする。テラノア軍事国の礎は、テラノア人そのものだ。テラノアはそれに飽き足らず他国民も食い潰そうとしている感がある。否。手段さえ整えば食い潰す前に消し去ることをも考えている。人間の歩む道とはとてもいえない。
「愚かな鉄槌を圧し折ってやらんままは、むかむかするな」
「テラノア軍事国は、科学兵器の最たる核に加えて魔導兵器を持っています。そこに持ってきて終末の咆哮です」
「うまいことやれば、弾道ミサイルなんかの物理と魔導兵器の波状攻撃で警備府くらい落とせる。向こうもそのくらい気づいとるやろう。──叩く必要があるな」
「いかな手段を講ぜられますか」
テラノアには物理──いわゆる化学を含む科学──の弾道ミサイルと魔導の弾道ミサイルがあり、その二種が遠距離兵器の主力。核兵器は物理弾道ミサイルに搭載可能。念のため核を制することも視野に入れるならミサイル発射台の破壊が効果的だ。
「ダゼダダが落とされん程度まで、ミサイル発射台を潰す」
「テラノアに戦争の大義名分を与えてしまうおそれがございます」
「軍事力を削れば戦争には踏みきれんよ」
「専守防衛に反するのでは。オト様が罪に問われます」
「直接の攻撃ならね」
「〈良心開眼〉の魔法ですね」
「そう」
七人のテラノア人暗殺者に用いた魔法。彼らを殺したのは、彼ら自身だ。と、いっても、魔法で操って殺し合いをさせたとか、そういった単純な仕組ではない。彼らに用いた魔法は、
「その者が最も強く持つ良心に訴えかけ、真の正義を遂行させる」
それによって、テラノア人暗殺者はオトを暗殺する寸前で踵を返し、民家に戻った。そこでこれまでの行いを振り返り、己に従った──。
「今度はあの魔法で、軍事施設縮小、いや、破壊を行わせる」
「精神を支配し操ったのほうが確実です」
「掌返しならご勝手に」
「私は戦術的事実を申しました。止めてはおりません」
盲信だ。
「オト様は、まだ私の覚悟を信じていらっしゃらない」
「戦場で素裸も同然。むちゃくちゃやよ」
「それが私の覚悟です。オト様にお伴したく存じます」
武器を持たずただ傍にいて、使えるであろう攻撃魔法で荷担するわけでもない。本当にやりにくい相手だ。結婚前からずっとそうだったが、盲信が過ぎる。
「具体的に、どのような形でミサイル発射台を破壊させるのですか」
「悪手かも知れんな。俺は軍事施設に詳しいわけやないから、兵の知識を借りて壊してもらうことになる。そもそも、魔法を掛ける相手が国に尽くすことを善と考えていた場合、ミサイル発射台を主とする軍事施設を壊すどころかそれで攻撃を開始するやろう。そんなもんが多勢なら、良心に目覚めて発射台を破壊してくれるもんを反逆者として殺す。発射台破壊は進捗せん上、今後は魔法に対する警戒が厳しくなる」
「公平です。これは、いいえ、先程の暗殺者に対しても、魔法の無駄遣いに成り得る策、確実性に欠けます。しかしながらひとに資する魔法としては十分な代償です。そうでもなければオト様は魔法をお使いにならないでしょう」
己の利ばかりでは済まない状況でも他者のためには魔法を使う。利があれば損がある。ララナもその辺りを考えるようになったということ。
「魔術師の多くは、幼い頃から成果を追って魔力と技術を磨く。そんなん本当の魔術師じゃない。魔術師の真髄は、損も引き受ける覚悟を持ってどんな幸を導き出すか。遍く心を受容・包括して行動すべきなんよ」
「……。お言葉を借りるなら、国王ゾーティカ゠イルは民心を拒絶してあまつさえ抑えつけている、と、いうことですね」
テラノア兵団所属の人間は他国の情報を比較的多く与えられる。そこにしか、オトの魔法は効果がない。監視されることも受け入れ、家族ですら密告することをよしとし、それを善としている国民達は侵略こそ正義と叫びかねない。体制に対する違和感の正体を摑んだ軍人は圧政に与するくらいなら体制崩壊のためにその心を砕きたいのが本音であろう。その本音・良心が存在するとオトは信じている。この機にテラノアの体制を大きく変化させることができるかも知れない。自分達が犠牲になると解っていてもテラノア兵団の人間は自分達の反乱の意味を理解し、心に従って行動を起こす。それが自力では叶わないのが現テラノア。軍人同士とて監視し・される社会で反乱を示し合わせることはできなかったのである。オトの魔法で意思決定のタイミングを揃えることで、不可能だった反乱を可能にする。
「解放する。突然の死に繫がるとしても、心を食い潰されるより幾分か救いがある」
テラノア人暗殺者に起きたのは、欺き背き押し潰した良心に目覚めたがゆえの、自身への呵責である。呵責は後悔を呼ぶ。押し潰した良心が大きければ大きいほどに呵責は重くなり、限度を超えた呵責は堪えきれぬ後悔と死を招く。しかしながら良心に従おうと決めた者は幸せな感情に満たされる。最後、心臓がゆっくりと停止に向かい、意識が遠退き、やがて息が止まって、生命体としての死を迎える。
単純な精神支配の魔法で操ってミサイル発射台を破壊させるほうが効率的ではある。だが先も述べた通り、オトはそれができないし、しない。精神支配はその者の心を無視した魔法ゆえに、オトの意志に反する。事後のことを考えても賛成できない。記憶がなくなるためにその者はただの反逆者として人生を終えることになり救いがないのである。オトの魔法は精神を支配しないため記憶が残る。生き残った者は良心の叫びを国じゅうに届け、国民にも違和感の正体が気づかせるだろう。そこまでうまくゆくか定かでないが、ひとの生き死にが関わり得、多くのリスクとリターンが起こる、それが良心開眼だ。
「仮に現体制を良心としてきたとしても死ぬかも知れん。結局殺すのは魔法を掛ける俺だ」
「オト様はそれでも行動なさるのでしょう」
「動くからには容赦せん」
「私はいかが致しましょう」
「経過を知り、事実を知る。それだけ」
ララナがその手で他者を殺めたくないことをオトは知っている──。本当ならオトに人殺しをさせたくないと考えていることも、オトは知っている。オトの行動を看過するだけで、実行犯に等しい苦しみをララナが負っている。自身の守る規範を打ち破って行動するのが最も大切なひとであるという現実。この堪えがたい苦しみに堪えねばならない。だから、観て、知るだけで充分なのだ。オトは、ララナの心を知っている。そんなオトを、ララナが知っている。互いが知っているだけで、崩れそうな脚に力が籠もる。罪深かろうとも、そういう関係で存りたい。
「可能なら、皆さんが生き延びてほしいです」
「それが可能な国ならとっくに話し合いで解決しとるやろうな」
「存じております」
「見たくないなら、目を瞑りなさい。苦しいなら、いつでも消しなさい」
「……」
ララナの目は、オトを捉えて離れない。
オトは東の空へ静かに手を伸ばした。さあ、終わらせなければ。
無駄に広い視界に、ちらっと繊維が入った。髪を束ねた糸主のリボン。
「オトや」
「……」
「本当に、よいのじゃな」
ベルトに化けた糸主の、綺麗な眼が空を見つめていた。その眼を与えたのは、なぜだった。
容赦しない──。それが過ちと解っているなら踏み越えてもいいのか。目を瞑り、消し去りたいのは自分の行為のほうではないか。
「オト様……」
「……」
ララナと娘。この子達を守るためなら、死に等しい呵責に苛まれる者を利用してもよく、あまつさえ殺してもいい、と。
「オトや。お主はもう、──あの頃のお主ではない」
「……」
ベルトが震えている。
「必要とあらば、利用し、殺す。か……」
歪んだ自己肯定だ。殺しに正義はない。それが、テラノア人暗殺者七人の苦悩の末だったとしても、その苦悩を未来に繫げる道があったかも知れない。その可能性を良心開眼の魔法によって葬ってしまったのは間違いなくオトだ。良心に従った死ならば悔いはなかろうという考えは飽くまでオトの自己弁護で保身だ。七人が幸せな最期を迎えたのだとしても、それを全面的に救いと捉えるのは誤りだ。死を与えてしまうと判ってなお自己弁護と保身で魔法を放つことをなぜ踏みとどまらない。正当防衛なら殺してもいいのか。殺されそうだったから殺したという理屈を法が認める狂気の世界だが、抵抗はしても加害者に手を出さず殺された者がこの世にはたくさんいる。そんな被害者に敬意を表さないか。
テラノア兵団は、加害者であり被害者であろう。その加害者であり被害者を、見ず知らずのひとびとを死に追いやる一手を、家族を守るためといって打つのか。それで、胸を張っていえるのか、自分はこの子達の──。
「……」
オトは、手を下ろした。魔法は使っていない。ベルトの震えが、止まった。
「容赦しないのではござりませんでしたか」
「家族をやめるならね」
「……ええ、そうですね」
心の奥底に浮かない気持を潜めた彼女が覗かせた微笑みは眩しかった。
テラノア人暗殺者の家族を、視る。
「でも、俺はもう七人も殺した。終末の咆哮を使わせた時点で、一万人を殺した。生きるために、あと、何人殺すんやろうな……。この力があるから、殺しの手が浮かぶ、視野に入る。力がなければ、こんな傲慢な思考は、働かんかったんやろうにな」
「良心開眼の魔法はオト様の創作ですね。本来、あの魔法は良心に気づかせ、本人の辿るべき道を示すためのものでしょう」
「好意的観察やね」
「暗殺者の件がなければ、死が齎されることまでは、想定外だったのではござりませんか。オト様も自らひとを殺めたいとはお考えではなかったはずですから」
「好意的に観すぎ」
「オト様は、踏みとどまりました。それが全てです。過ちは、役立てれば立派な学びですよ」
「……ん」
彼女を連れてきたことは、正解だった。糸主がついてきてくれたのも、幸いだった。間違いにこうして気づけた。己の魔法の不完全さから学ぶこともできた。良心開眼の魔法、これに欠陥があった事実が、過去に施した魔法への観察を深めた。踏みとどまるべきは魔法行使の瞬間のみならず、魔法の創作も含めた過去にもあると観ることができるだろう。
「俺自身の過ちは、まだまだあるかも知れんな」
「それはどのような、──!」
言いかけてララナが空を見上げた。夜闇を切る赤い軌跡は物理弾道ミサイル。まばらだが間違いない。
「何が、起きとるんじゃ……、オトや」
「判らん。ちょっと待って」
オトは魔法を発していないが、テラノアから飛んできていることは疑いようもない。魔力探知を掛けると、遠くテラノアの各軍事施設でいくつもの魔力環境の変化が爆ぜるようにして発生している。
「暴動が起きとるようやな。ミサイル発射台か、爆発で魔力環境が部分的に変化しとる」
「オト様の魔法、ではござりませんね」
「寸前でやめたしな」
頭上をテラノアのミサイルが飛翔したが、ダゼダダの防衛機構が作動して撃ち落としてゆく。まばらなミサイル攻撃であるから完璧に防ぎきれるだろうが、念のため、オトは警戒した。
しかしおかしい。良心開眼の魔法を用いた際に起きるであろう一状況が、目の前で発生している。魔力探知でテラノア国内を隈なく検索すると、軍事施設の九〇%が二分ほどで壊滅していた。これも、良心開眼を用いた際の一被害予測と合致していた。
「俺の魔法を誰かがコピしたか──」
「創作魔法とはいえ音式ではないのですよね」
「古い言葉やな。まあ、事実そんなふうにいわれとったが」
音式──言葉真音術式や言葉真音式──と呼ばれる、オトにしか使えないとされている術式がある。多くは補助性質の魔法だが、良心開眼についてはオト以外が使うこともできる精神魔法の一種だ。ただ、学園支配事件後に構築した魔法で、公衆の面前で使ったことがなく、構造を口外したこともない。
「創造神アースが知識を外に漏らしたのでしょうか」
「可能性はあるかもな」
それが期せずして活きたのか。まるで、オトの代行だ。これほどタイミングよくできるか。
創造神アースから借りられる創造の力なら良心開眼の及ぼす影響と結果をそのまま創り出すことができるだろうが、オトは使っていない。
「違和感があるな……」
「ですが、状況は好転しましたね」
「……ああ」
失った戦力が大きいためテラノアは戦争に踏みきれなくなった。ダゼダダは安泰だ。
が、もし良心開眼が用いられたのだとしたら、テラノアで起こっている暴動にはオトの予測したリスクとリターンが、全て発生し得るということだ。
ミサイルが止まっている。テラノア国内で暴動はまだ続いているようだが、一部は既に──、
「もし、これが俺の創作魔法による結果なら、責任があるな」
「ハンマを使った殺人事件が起きたとして、開発者や製造者に罪がないことは明らかです」
「……そうやけどね」
納得していいものか。ひとを救うための魔法がひとを殺してしまう。開発時に危険性を考慮しきれていなかったことに、本当に責任はないのか。
オトは創造神アースと意識を繫げた。聞きたいことがある。
(久しいな、オトよ)
(単刀直入にいう。良心開眼について漏らしたか)
(漏らしておらぬ)
噓を言われるほど、オトは創造神アースに厳しくもしていないし優しくもしていない。
(良心開眼がどうかしたのか)
(なんでもない。邪魔したな)
(待て)
創造神アースが引き止めて言うのは、(わたしが何かしたのか)
(しとらんから気にするな)
(うむ……、そうか)
(高慢・尊大なお前さんはどこへいった。胸を張れ)
(ないものは張れぬが。完全無欠なる我にも闇は応えるものがあると思うてな)
(まだ大丈夫そうやね)
(件のこと、待っておるぞ)
(ああ)
創造神アースとのやり取りを終えると、「さて、やるか」
「何をなさるのですか」
「身から出た錆の始末やよ」
〈良心〉たる反逆者がいるならテラノアではその家族が処刑対象となる。反逆者も当然処刑される。そうでなくても魔力探知の状況から観て七人のテラノア人暗殺者と同じような死に方をしている者が先程から多数観測できている。〈良心〉の家族が狙われた際は判るようにし、〈良心〉と引き合わせて海に流す反射発動型魔法をオトは施した。
ダゼダダ外周県東部海岸。そこは、テラノア大陸に向かう潮流を俯瞰する。呪わしくも故郷であるテラノア大陸へ、ここから密かに帰す。オトは、その手助けをする以外に報いる方法を知らない。彼ら家族を直接的に守ることはできない。ダゼダダ国籍のオトがテラノアの体制に表立って切り込むような真似をすればダゼダダが国としての責任を問われかねない。体制には触れられない。〈死後のテラノア人〉にしか尽くせない。いっそ化物であれば。オトは、人間で存りたいと思ってここにいる。
「あなた達は、必死に生きた……」
生きるため、菜を育て食う。
生きるため、家畜を育て食う。
命は、生きるため、ほかの命を食う。
行いが善たり得ないのは、いかに繕っても命の本質から逃れることができない。愚かはオトとて同じ。ほかの命を食って道を繫げたことはテラノアとなんら変りない。オトは大いなる矛盾をしかし受け止めている。あの熱源体を打ち消し暗殺対象とされる危険性を高めた時点で、暗殺の失敗による被害者が出ると想像がついていた。オトは、生き存えることを望み、家族を守ることを選んだ。
そうして選び取った意志を手放すことはないが、
「来たる世に、思いを遂げてほしい──」
家族を想う者にせめてもの願いを手向けたかった。
──彼こそが、と、ララナは思う。
その手を伸ばす先に夥しい数の遺骨があるとして、それが夥しい数の悲惨だとして、本当はそれ以外のものがあるのではないか。オトはそれを、自分が得たいがためでなく、得るべき者のために、手を伸ばしているのではないか。
ララナも考えた。テラノアを黙らせるためにすべきことを。ミサイル発射台を破壊するのが最善だった。テラノアの兵器に奪われる命と虐殺者の種たり得る軍人の命など重さを比べる必要もない、と。軍人の集まりたる軍隊は国の繁栄のためなら殺人すら行う必要悪であるから、そもそも人間として扱わない。
命を奪うという悪を成す替りに等しい扱いを受けることを是認する。それが、必要悪たる軍人・軍隊の責任と代償である。命を奪う責任。命を奪われる代償。無論これは論理が破綻している。殺し続ければ責任を果たしたことになり生き延び続ければ代償がないなど生物としておかしな話。極論、殺し続け生き延び続けた者が独りとなり、種を繫ぐことができない。それが代償の果てであるから、責任と代償の果てはじつは同義ということ。戦争で民間人を狙ってはならない、と、いう論理は民間人が「種を繫ぐための必須善」であるとする論理に等しい。一方ではこの善たる論理も破綻している。動物だろうと植物だろうと鉱物だろうと生命に位置づけられないものはなく、それらを食って民間人は生きている。動物はいうまでもないが植物が根絶やしにされればひとに必要な酸素は失われ、あらゆる鉱物が失われればひとは必須ミネラルを失い体調を崩して自滅するにとどまらず、母なる生命体「星」を失って斃れることになる。これもまた論理破綻だ。殊、脆弱な動物はともかく、植物や鉱物が突如として消え失せるのは星の生死に巻き込まれたときくらいのものだろう。軍人でも民間人でも命を奪った罪がただちに清算されることはなく、そも、植物や鉱物を多少食っても咎められることがない。繁殖可能である程度の人格を投影できる動物だけが生命と捉えられ、そうでない鉱物は対極の無機物とされて人間倫理・社会・法律的に罪にならないだけだ。実際は、植物も繁殖する生命の一種、鉱物も大地から誕生し続けてひとびとを支えている生命の一部ではないか。ゆえに、ひとは自覚すべきである。ひとは、無機物をも失うことはできず、また、同時に確実に食ってもいるということを。ひとは、生まれた時点であらゆる生命の循環を乱す──殺し続ける──罪の本能を握っている存在。命を奪う罪は、誰もが犯しているのだ、と。食う必要のない人間間において人間を殺す目的を有する軍人並びに軍隊は、殺し・殺されることを前提とする生きた矛であり盾、生け贄であり、人柱である。
そんな軍人・軍隊にすら手を差し伸べた彼こそが無垢だ、と、ララナは思う。彼のものに限らず、差し伸べられた手は尊いとも。生物は脆弱。あらゆるモノを循環して、奇跡的なバランスの上で生を繫いでいる。零れ落ちていった生命は淘汰されているに過ぎない。過ちの正当化ではなくララナはそう考えている部分がある。
だというのに、尊い手に救われている自分が彼の望むような存在であるのか、ララナは不安に思ってしまった。
サンプルテに戻るとオトが寝室を覗いた。
「眠っとるみたいやね」
「そうですね……」
普段と違うことをして疲れたのだろう、納月と子欄がぐっすり。音羅は花を送迎している頃だろう。
襖をそっと閉じたオトがダイニングの席についたので、ララナも自分の席についた。テーブルの上に子欄の書置きと、見覚えのないエプロンと鏡も。書置きを読めば、嬉しいものだった。
「私達へのプレゼントのようですね」
「ありがたくもらっとこう」
「はい。……」
エプロンを手に取ると、鏡越しに、オトの表情が観えた。その眼は底なしの慈愛に満ちていて、ララナは思いを切り出すほかなかった。ここで口を開かなかったら、彼に対して噓をついてしまいそうだった。
「……『卑怯に手を染めるな、──』。オト様はそう仰りましたね」
「随分前の話やね。忘れとったよ」
蜜柑山に埋もれるようにして眠っているクムと、ベルトからもとの毛玉に戻った糸主を、オトが撫でている。手は眼に等しく、糸主もすぅっと眠りに落ちた。
「オト様が彼らを止めなければ、私が手に掛けました」
「過激なことやね。やらんかったんやから気にすることはない」
「オト様が彼らを止めた結果です」
急速接近した七人。その暗器が及ぼうものなら全耐障壁でオトを保護し、暗器の使い手を潰しただろう。反射的に、だ。殺意が迫ったあのとき、ララナは戦場での感覚が蘇っていた。意思とは関係なく、反射的に体が動こうとしていた。
「七名の不測の死をオト様は罪と思しです。が、それを招いたのは、……私です」
「いいたいことは判っとる」
「いいえ、オト様でも──」
「ううん、判っとるよ」
ララナが言わんとしていることを、オトは正確に読んでいる。「そんなことをいわせてまうのは、罪を考えさせてまうのは、俺が弱いからやよ。苦しい枷を掛けて、ごめん」
無垢を強いたことで、自責の念を再燃させてしまったこと。
「謝られなくともよいのです。お心を否定するつもりはございません」
悪神討伐戦争を勝利に導いた師匠の教えと鍛錬が抜けきっていない。そんなララナが反射的に動こうとしたのを察して、彼が良心開眼を講じた。ララナが踏みとどまっていたら、彼はきっと別の穏便な手段を講じただろう。
「何がほしいか、いって」
「一つ、教えてくださりますか」
数多のひとびとを殺し、挙句、星を破壊し、仲間をも手に掛けんとした。そんな過去を持ち今もって戦場の感覚が蘇ってしまう自分。そんな自分を、オトが無垢と認めてくれるのか。認めてもらえなかったら、どうなる。彼の眼を視て心が痛むのは心に疚しいことを抱えているからだ。罪の意識を察してもらえることに甘えていた。自分で伝えるべきことを怠っていた。あるいは、過去における未来改変に予期せぬ変化が生ずるかも知れないから、と、過去を明確に話すことを避けるふりをして逃げていた部分も、ある。
納月が生まれた日、オトと創造神アースの意識共有が絶たれたまさにその日から、ララナはオトの優しさに正面から向き合えなくなっていた。汚れている、と、突き放されそうで、無垢の仮面を被っていた。納月の抱えた姉妹への劣等感は、オトに対するララナの負い目が掏り替わったものだった。納月がそれを立派に乗り越えようとしている、または、継承記憶が薄れたがゆえかも知れないが新たにそれだけの経験を得ているということだろうに、娘の成長に反してララナは負い目に折合をつけられないまま立ち止まって、成長していない。
「教えてほしいことって、なん」
と、オト。何をいっても許してくれそうな微笑みだった。
「……、……」
何も返せないララナに、オトが言う。
「俺ね、納月の生まれた日に作ってくれたアレ、好きやよ」
さくっとしたビスケット生地と蜜柑ピューレがアクセントのチーズタルト。
「……私も、好きです」
「チーズケーキになったらもっと嬉しいかもね」
「本日は、真率でいらっしゃるようですね」
「そう観えとるのなら、仮面を外しとる証拠やね」
「……」
「俺はゴミやけど、羅欄納は堆肥みたいなもんやと思えばいいんやない」
「堆肥ですか」
「何に使われたのか、何に汚れたのか、知らん。あるいは、何に使われるかも。気にせんよ。前の形が腐っても、また形になっとるんやから」
直視することもできないのに、鏡越しの目差が包んでくれる。「どんなゴミも、いつか分解されて、あるいは腐らさたりして、やがては形になるのかも知れんね」
彼にも過去がある。数えきれないひとの心に傷を負わせた罪を抱えている。そんな彼の言葉が、夫婦を表していた。
どんな過去も消すことができない。罪を忘れてはならない。それとともに、他者を抱擁することも。
全てを知らずとも、全てを包んでくれる。
その寛容さに、毎夜のようにララナは包まれていた。今日もまた、包まれたい。
──一五章 終──




