一四章 心の輪郭(3)
夫婦水入らず。
ララナの作った料理を昼に食べるのは土日だけだが、オトは満足であった。
「静かですね」
「音羅がおらんだけでな」
揚げ出し豆腐。食事はこの一品だけだが、刻み葱の香り・出汁のコク・豆腐の旨みの調和が取れた逸品だ。ララナのような洗練された味とはいえなかったが、母の作ったこれが好物であった。ほかにも好きな食べ物はたくさんあったが忘れるようにオトは食を放棄していた。
「落ちつく味やな」
「恐れ入ります。もう一つお作り致しましょうか」
「唯一の価値もある」
腹が満たされずとも、ララナの作ったものはオトを満たす。
「こうしてのんびり物を食べられるのも、もうしばらくのことやろうな」
「それまでは、お愉しみいただきたいです……」
魔力還元体質のオトが魂器過負荷症を遅らせるには、食べないことも重要だ。
「いつか、動くことも自制なさるのですね」
「動く気なんかもとからないから自制とはいわんのやけど。……」
「いかがなさりましたか」
「列車祭、やっぱ行こっかな」
「よろしければお伴させてください」
「いいよ」
「ありがとうございます。心境に変化がござりましたか」
「気まぐれ。なんか、ルーレット当てたい気分」
完食したオトは両手を合わせて、「ごちそうさまでした」と、挨拶して、立ち上がった。
「行こっか」
「はい。ルーレットとはなんですか」
「毎年やっとるメイン会場のイベントの一つやよ。景品がなかなか豪華やったりするんよ」
「なるほど。食材などがあると嬉しいです」
「常夏の野外ステージやよ」
「無形を得ましょう」
「理解が早くて助かる」
ララナが何を調達したいかは別の話。
「オト様、ララナ様、気をつけていってらっしゃい」
と、クムがテーブルでぴょんぴょん跳ねている。
「ん。いってきます」
「クムさん、お留守番をお願いします」
「はい」
蜜柑山の主のようになっているクムを残して炎天下へ出ると、相末学がちょうど訪れた。
「どこかお出掛けですか」
「そういう相末君、今日は土曜やなかった」
相末学が微笑む。前に出された両手には紙袋。
「いつもお世話になっているお礼もかねて、商店街で有名なタオルを贈ります」
「タオルて」
「いろいろ考えたんですが、お菓子などは羅欄納さんも作りますし、贈答品にはタオルが一番と思い立ちました。用途が幅広いので邪魔にならないと思います」
相末学の心遣いに感謝すべきか。
「まあ、こんな暑い日に食品を持ってくるのは悪意があるしな。素直に受け取ろう」
紙袋をララナに渡して、彼女が部屋に戻った間に、オトは相末学を窺う。
「前から思っとったんやけど、お前さん恋人おる」
「いませんよ」
薄薄そうだろうとは思っていた。
「作る努力をしたほうがいいんやない。研究所の後継者が要るやろう」
「所の存続より目の前の目的を達成していかなくては。ぼくに取ってそれは竹神さんとの交流や防衛機構と魔導機構の知識を身につけることです」
「そう。ならもういわんとくわ」
誰かと列車祭に行くという発想も今の相末学にはない。逆に、相末学を誘う者もいない。なお、オトも誘うつもりがない。
「じゃ、相末君、この辺りで帰りぃ」
「はい。また近いうちに伺います」
一礼して去ってゆく相末学。今日は話をするためでなくプレゼント──、あれを渡すためだけに来た少年である。
……。
オトは瞼を閉じて、ララナを待つ。
家から出てきたララナに相末学が帰ったことをオトが伝えると、祭の会場へと足を向けた。
「なんか体が重いな」
オトが右袖を振るので、糸主は袖の内側を這い上がった。毛玉の形だと袖の生地が盛り上がったり腕に異物感を与えたりして、ついてきたことがばれてしまう。服の裏地と一体化するため体を平たい面状に広げて落ちついた。
「と、おるんやろ、糸主」
「ふぉ」
「おや、糸主さん、ついてきていたのですか」
オトの目から逃れられると糸主は思っていなかったが、ばれるのが早すぎる。
「表に出れば。暑かろうに」
「ここでよいのじゃ」
空調の利いた綺麗な家の中もいいが、昔から糸主は汚れきった場所に住んでいたから多少の湿気や熱は慣れっこだ。
「俺が暑いんやけど」
「ふぅむ、そういわれては敵わんのぉ」
襟からするっと抜け出てハンカチーフに化けてオトの胸ポケットに収まってみる。
「まん丸お目目が不自然よ」
「うぅむ、ではこれはどうじゃ」
ネクタイ。
「びしっとしたネクタイは服にも俺にも合っとらんな。お目目はカジュアルで悪くないが」
「目立たん場所なら……これはどうじゃな」
オトが纏わりつくような衣服を好まないことを知っているので、ベルトに化けてループにするりと滑り込んだ。
「肩辺りに突っ張りを感ずるが、まあ、この程度ならいいか」
「お目目はどうじゃ」
「ぎりぎりやな。黒でよかった」
全身黒のオトであるから、目立たない場所にさえいれば糸主の黒眼が目立つことはない。
「糸主さんに左様な秘技があったとは存じませんでした」
と、ララナが両手を合わせて微笑む。
「ふぉ……」
「糸主、子どもの目線には気をつけてな」
「しょ、承知したぞぃ」
身長の低いララナとばっちり目が合う糸主である。オトのシャツの裾から覗いている恰好であるから、瞬時に黒眼を見つけられたりはしないだろうが、子どもの狭い視野は注視には向いているので用心である。
オトとララナの歩みで農道を行く。
「オト様、ルーレットのほかは何をご観覧されますか」
「露店、演奏会、パレード、民族舞踊、蚤の市、雑技団の公演や動物系サーカスなんかがあった年もあるが、ダゼダダでも最たる集客力の祭やから人間観察もいいんやないかな」
「なるほど。散歩のように巡るのも一興ですね」
……うむ。
積極的なララナと真逆、消極的なオト。最初に二人を観たときは、果してうまくゆくのかと思ったが存外うまくいっている。消極的参加をララナが不満に思うこともなく、オトはオトで消極的ながら自ら外へ出た。
……これで、よい。
かつてのオトに少しずつ戻っていってくれたら。
幼いオトと出逢ったのは、毛玉の姿を得る前のこと。
ダゼダダ中央県は九条町。北に長良山脈、南に平野を有する高低差の激しい地区で、豊富な地熱によって温泉が湧き、畜産業が盛んな土地である。平野部の一角に建立された八百万神社で当時から掃除の神様として祀られていた糸主だが、その姿は八百万神社どころか九条町にもなかった。本殿を抜け出しては掃除をし、気づけば隣町である田創町までやってきていた。田創町は農業が盛んな土地。ゴミを食べ、それを浄化して体に取り込むことができる糸主には目立ったゴミがないものと思われた。ゴミと一言にいっても種類はさまざま。九条町ではやたらと発生する動物由来のものが糸主の主食だった。人間や自然物が処理しきれない分を食べ、その身を通して自然界のサイクルを再現し、代謝する。それが糸主の食事である。その身からときどき土や蒸気が零れるのは自然の摂理であり、正常に代謝が済んだことの顕れでもある。金属・樹脂・ゴム・合成物質──、缶・瓶・電化製品・自動車・魔導機構──、人間の作り出した便利な道具も、糸主に取っては等しく食物であり、代謝できる。粉粉に分解・吸収し、その身に吸収できないものも無害化してから零して自然界に還す。田創町の田畑は自然動物による循環も含めてよく管理されており、極めてゴミが少ない環境になっていた。そんな土地に糸主がやってきていたのは、九条町のヘドロを代謝するうちに川に流されていた。田創町の川底にはヘドロが少なく、その点も環境がよいといえた。
糸主が際立ったゴミを探知したのは、ヘドロのなくなった川から高水敷に這い出たときだった。
……これは。
不法投棄。自然豊かで循環も極めてなめらかに行われている土地でありながら、一瞬でそう判った。奥には、植物が筋状に禿げた堤防が感ぜられた。近くに車両で乗りつけ、堤防の上から棄てていったのだろう。山積みになっているのは概ね金属製の産業廃棄物と思われた。雨を浴びたからか、川の増水で浸水したか、腐蝕して異臭を放っている。
……放っておいては土も川も汚染されてしまうのぉ。
近くの川は水棲生物の宝庫になっている。化学物質が流れ込んだりすれば、水棲生物の多くが住処を失うことが予想できる。有害な化学物質が空気を漂えば悪影響は水棲生物の限りではなくなる。
ヘドロを綺麗な土に代謝したばかりで眠くないこともないが、産業廃棄物を放置できない。神様として崇められている糸主であるから次次産業廃棄物を丸吞して体内で粉粉に──、
……ぐ、これは──!
何か、変なものを食べてしまった感がした。自然物や人間の作ったものではないだろう。いや、自然物ではあるのだろうが、食べてはならないものが、混じっていた。
「ぐぅぅぅうぁぁぁあ!」
糸主の、黒くて大きな泥のような姿が、反り返るようにして高水敷に横転した。
……これは、ワシには、代謝できん!
粉粉にもできない。
それは、魔導機構に搭載されたままだった精霊結晶。が、普通の精霊結晶ではない。精霊の意志を感じない。眠っているのか。吸収しても、粉粉にしても、精霊を殺してしまう。
悠長なことは言っていられない。体じゅうが痛む。食べてはならないものを食べてしまったことで、拒絶反応が起きている。「見え」さえすればこんなことにはならなかったか。
「ぐっ……」
糸主は体の一部を尖らせ、それでもって体を斬り裂き、精霊結晶を取り出した。
「あが……あぁ……」
力が抜けてゆく。斬り込みすぎたか。高水敷の草陰にころっと転がり出た精霊結晶は無事だが、糸主の体はまさしく泥のように融けて、草陰に沈んでゆく。体が死んだとしても、祀られた九条町の八百万神社で復活することができるのでそれほど痛手ではない。これまでも何度も死んできた。危険な化学物質を代謝して、死んできた。
……すまんかったのぉ。
未だ眠っているのか意志を感ぜられない精霊結晶に謝り、消えんとした。死ぬことは恐くない。ひとびとの祀る意志があれば、何度でも蘇り、そんなひとびとのために、環境を整えて、死ぬ。それが糸主の役目だった。
……何度目の、死か。
そんな憂いを、感じないはずもない。不法投棄を始めとして、ひとは環境汚染を繰り返す。かつては、放射能によって自分達の住処すら失いながら、核の開発を続けた人間がいた。それでも環境を整え、死んだ糸主がいた。何千、何万と死んでやっと浄化したのに、放射能が撒き散らされたことがあった。何度死ねばいい。何度死ねばひとは学んでくれる。いずれは浄化される。それが、ひとの学びなのか。それが、ひとの成長か。なんと、ゆっくりした歩みか。何千、何万あるいは何億の人間の死体が積み上がらなければ理解できないのだろうか。
今回の死が放射能浄化によるものではないとしても、同じ未来がやってくるのかと思うと、
……やりきれんのぅ。
沈む体ではなく、心が、疲れきっていた。
強大な魔力が糸主を包んだのはそのときだった。体内に取り込んだあらゆる物質が急速に代謝されて、融けた体が再生し、同時に、体が小さくなっていって、色が、見えた。
「間に合った」
色がふわりと綻んでいた。それが「ひと」なのだと糸主はそのとき認識していなかったが、それこそが、幼いオトだった。
「追っかけて警察に突き出したろっかな」
綻んでいたのは噓だったかのようにあらゆる者を怯ませるような眼光を閃かせるオトに、糸主は問いかける。
「助けてくれて感謝するぞぃ」
「気にせんといて。言葉真音やよ、よろしくね」
また綻んだ。ころころ変わる表情は、子そのもの。
「オトか。何やら懐かしい香りのする、よい名じゃて」
「ところでおじいさんはなんて名前なの」
「うむ、ワシか。ワシは、」
幼子に言って解る名前か、と、糸主は寸時迷って、温かい両手に埋もれた。「特に決まっとらんのぅ。お主が決めてくれんか」
「そうなん。じゃ、糸主!」
「糸主と。泥のようなワシには高等な名前じゃな」
そう言った糸主は、オトの目差に促されるようにして、遅れて察した。
……この体は──。
そも、光も感ずることのなかった体が、光を介して物を捉えている。すなわち、眼がある。その眼でもって自分の体を見下ろすと、ふわふわとした毛があった。
「こ、これが、ワシか。なんじゃ、いつの間に──」
「産業廃棄物なんか、食べたらいかんよ」
オトが精霊結晶を拾って、「これ、人造精霊結晶やね」
「人造……。ひとが作り出したものじゃと」
「うん。精霊の意志なんかない作り物」
オトが指先で撥ねると、人造精霊結晶は逆巻く流れ星のようにしゅんっと消えた。
「だから意志を感ぜなんだか……」
「そのくせ『意識』だけ残してあるから不自然やよ」
「意識……」
吞み込んだとき変な感じがしたのはそのせいだった。精霊結晶のような確たる意志を持たないのにオト曰く精霊の意識が根づいている結晶であるから、食べてはならない生き物のような感触があったのである。
「糸主はここでゴミを食べとったん」
「うむ、そうじゃが。お主こそ、こんなところで何を」
観たところまだまだ幼い子であったが、
「ぼくは──」
産業廃棄物を睨み据える。そこに、底知れぬ憎悪が滲んでいる。
「ゴミは許せぬか」
「なんでここに棄てるんやろうね。ここじゃなくてもいいのに」
「……ここは、お主に取って大切な場所じゃったか」
「散歩コースやよ」
「つまり目障りじゃったんじゃな」
と、そのとき糸主は解釈した──。
幼いオトは、ある意味では容赦がなかった。後に聞けば、糸主を毛玉に変えたのも、ぱちくりしたお目目ができたのも、オトの魔法だった。聞かなくてもあの状況なら察するべきだったといえばそうなのだが、当時の糸主は掃除に邁進しすぎて観察がおろそかであった。人造精霊結晶を丸吞してしまったのだってそのせい。オトはそんな不注意な糸主を懸念して、お目目をくれた。
これも後に聞いたことだが、糸主の姿はところどころで魔物のように認識・警戒されていたらしく、討伐されないよう毛玉に変えて保護したとのことだった。
産業廃棄物は後日オトの手で分別処理されて、川や大気に汚染が広まることはなかった。
子らしく無邪気で、どこか達観していて、それゆえに容赦しない。そんなオトを、糸主は見守ることにした。毛玉の姿になってからは繊維類が主食となって、危険なものを食べなくて済んでいる。汚染物質を代謝することもないから死ぬこともまずない。
散歩コースを守るための産業廃棄物への憎悪。オトは当時そういったが、それだけではないだろう──。あのときオトは糸主の死を食い止めた。目の前で死なれたくなかったから、その死を与えんとした産業廃棄物を憎悪していたのだ。オトの憎悪は、ひとに限らず、物にも向く。それが憎悪したいがためではなく、ひとを想ってこそだということを知ったあの日から、糸主は、名実ともに「糸主」になった。
「そうや。糸主、ちょっとリボン出して」
「ほいさ」
繊維類は概ね作り出せる。オトの作る服のように立派な耐久性はなく、大量生産品にすら劣るが、そんなものを、オトは糸主の存在とともに認めてくれる。
不出来なリボンで髪を束ねて、オトが小さくうなづいた。
「これで少しは首ん周りが涼しい。糸主、ありがとさん」
「お安いご用じゃよ」
オトが再びひとのために行動するなら、どんなことにも力を貸そう。それに優って、オトが失った時間をオトらしく過ごさせてあげたいとも糸主は思っている。そのためにできることがあるなら、微力であっても力添えを惜しまぬ所存である。
……実際に眺めてみると圧倒的な質量を感じる。
子欄は、混雑した歩道を歩いて、そのエネルギのうねりのようなものを肌で感じた。画面の中で観た文字や数字は、息遣い・声・足音の多重感や露店の雰囲気、食べ物の香りや賑わう会場の熱気までは伝えてくれなかった。それを愉しいと感ずるわけではないが、好奇心は湧いていた。
……この香りは、ソースだろうか。
近くの露店が焼きそばやタコ焼きの看板を出している。食べ物の香りは祭の彩りとして子欄の五感に訴えかけるものがあった。けれども、子欄が目を向けるのは祭本体ではなく祭を守る者達である。駅南口のイベント会場と役場前のメイン会場、二つを繫ぐ動線や露店がある近隣の通りに観られるのは、安全確保を担う警備役や迷子の保護などを行う案内係だ。等間隔に並んでいる彼らは来場者数二五〇万人超という列車祭を陰で守る縁の下の力持といえよう。構成員の内訳は、広域警察本部署・支部署の刑事が二〇〇〇人、八百万神社の巫女が一〇〇〇人、一般のボランティアが一〇〇〇人だそう、とは、母に借りた携帯端末で調べた。来場者は祭を愉しみにやってきているので、警備役や案内係は背景程度にしか感じていないだろうが、子欄の目は彼らを主役のように捉え、自身すら背景だった。
……どこにでも、陰で見守ってくれるひとがいる。
普段は気に留めず、気づかないことも多いだろうが、子欄は常日頃から感じている。父は家で特に何もやっていないが、子欄が帰れば一番に出迎えの挨拶をくれて、勉強をしていればそっと見守っていてくれる。母は毎日のように仕事をして、おいしい食事を作ってくれる。両親の目と働きなくして、子欄は学習の日常を送れない。見守られていなければ、稼ぎがなければ、子欄はまともな生活ができない。
一緒に来なかった両親に、子欄は日頃の感謝をかねて土産を買って帰ることにした。普段からお小遣いを貯めていたので祭用にもらったお金と合わせてそれなりに予算がある。どちらも母からもらったお金だから、大事に使おう。
……どうしようか。
高ければいいというものでもないだろうがお金以上に気持を込められるものがいい。
……とはいうものの。
夕食は母が用意してくれているだろうから、食べ物は除外。メイン会場脇に展開した露店で竹弓やカーボン弓を見かけたが、引籠りの父はもとより家庭教師の母も要らないだろう。弓術科の子欄らしくはあるが土産に武道の道具というのは。蚤の市にはほかにも骨董品・陶器・グラスの類や生活雑貨が豊富で使い古したものが多いか。中にはハンドメイドの商品を並べる店主もおり、そちらは服や装飾品が多いようだ。
露店の前で品を観察していると、一際明るい声が響いてきた。
「──ははは、でさぁ、わたし、言ったわけ、そんなじゃ禿げるよ、って」
「考え込みすぎると頭痛くなるし、血行悪くなってそうだもんなぁ──」
仲のよさそうな男女二人組だった。その二人組ではなく、後ろから歩いてきた一五歳ほどの少年と子欄は目が合った。すると、引き寄せられるようにして、少年が歩み寄った。
「あの、何か困っていますか」
「あ、はい」
ついうなづいて、子欄は露店の品に目を移す。色取り取りの茶碗やグラスが並んでいる。土産選びに困って無難な品に目が行っていた。幸いにして親切な少年だった。
「ほしいものが見つからないんですか」
「いいえ、どんなものをお土産にしたら悦ばれるか考えてたんです」
「お土産ですか」
子欄の眺める品を少年も同じようにして眺めた。「誰に贈るか、何人に贈るか、決まっていますか。その辺りから絞れば少しだけ決めやすくなると思います」
「なるほど……。両親に贈りたいので、二つですね」
「両親に。夫婦茶碗とか、ペアグラスとかがいいんじゃないでしょうか」
少年が指差すのは、同型・異色の茶碗やサイズ違いの同型グラス。それらを夫婦茶碗とか、ペアグラスと呼ぶらしいことを理解して、子欄は腕組。
……夫婦茶碗なら普通だ。無難でもある。でも、似たようなものが家に……、あ。
引っ越した時点でサンプルテの食器棚はほぼ満杯だったから、茶碗やグラスは十分に揃っているともいえる。少年には申し訳ないが、
「すみません、店を変えます」
「あ、はい。何か思いつきましたか」
「いいえ、全く……。食器棚がかくかくしかじかで」
「それじゃあ別のところを当たったほうがよさそうですね」
嫌な顔一つしない少年が手を合わせた。「そういえばあっちに装飾品の露店がありました」
子欄も見かけたので覚えている。
名も知らぬ少年を連れ回すのも申し訳ない。
「あとは一人で探してみます。付き合ってくれてありがとうございました」
「あ、はい、頑張ってください」
と、言ってすぐ、「待ってください」と、少年が引き止めた。「あの、ぼくくらいの歳のグループを見かけませんでしたか」
「え」
「あ、その、……じつはぼく、はぐれちゃったみたいで」
苦笑いの少年。迷子だったようだ。「あまり動くのも得策じゃないかと思って、この辺りにとどまろうと思うんですが、どうせなのであなたのお土産探しを手伝おうかと。すみません、勝手に時間潰しに利用してしまって……」
巫女やボランティアもこんなに大きな迷子はサポート対象外だったか。少年が自分から迷子と名乗り出ないとグループの呼出し要請もできないのかも知れない。この少年が此方翼のような方向音痴っぷりということは考えにくいが、動き回ると却って合流しにくくなるというのはありそうだ。少年は申し訳なさそうにしたが、子欄は時間潰しに異論なしだ。
「ついでというならこちらも助かります。付き合ってもらっていいですか」
「あ、助かります。いいんですか」
「その替りといってはなんですが、お土産探しのアドバイスをください。一人だと手詰り感があります」
「解りました。ぼくにできることなら、」
快く少年が受け入れてくれたところで、
「あ、いた〜、史織〜、何してんだよ〜」
少年と同じくらいの少女が、人込みの奥から跳びはねて手を振っている。
「おや、グループの子が見つかったようですね」
「あ……、はい、そうですね」
少年が少女に手を振り返して、子欄を向き直る。「引分史織といいます。付き合ってくれてありがとうございました」
一礼する少年こと引分史織。
名乗られたからには名乗り返すのが武道に携わる者の習慣である。
「竹神子欄といいます。こちらこそありがとうございました。さ、戻ってください」
「はい──」
少女のほうへ走るも子欄のほうを振り返り再び一礼、引分史織が去っていった。合流した少女に手を引かれてその背はあっという間に人込みに紛れた。
……此方さんのように方向音痴ではないようで何より。
親切な少年だ。仲間に見つけてもらえたのは日頃の行いが影響しているに違いない。
……さて、どうしよう。
思考は振出しだが、親切心に触れたお蔭か着想があった。
ハンドメイドの商品を扱っている二つの露店に立ち寄って、木製枠に嵌めた大きめの鏡と自然素材のエプロンを買った。料理を作ってくれる母にエプロンを贈るのは当然として、鏡はテーブル席から離れない父に贈る予定だ。
持ってきたお金はほぼなくなったが、
……割といい買物だった。
鏡は丁寧な彫刻の施された木枠が美しい。エプロンは母の白い髪に似合いそうな淡い色調と可愛らしいデザインだ。父が美しいモノを好きだとは白磁が如く美しい肌の母を娶っている時点で明らかであろうし、母は母で父の好きそうな恰好というものを未だに理解していない様子なので、たまには遠回しにサポートしてあげたいところである。ダイニングとキッチンは壁があって双方死角だが、鏡を部屋の境目に置けば目線が通る計算。それが実現すれば、キッチンにいる可愛いエプロン姿の母を父はテーブルから眺めることができるわけだ。
……我ながら名案……、と、いうよりは迷案か。
両親はずっと仲がいいから気を回しすぎだろう。せっかくならもっと仲良くいてほしいと思わないでもない。
……お父様──。
父への想いは消えていないが、父と母の仲を壊したいだなんて思えない。その程度の想いだというならそれでもいい。父が幸せそうにしてくれるなら、見つめる相手が母でも構わないと子欄は思ったのである。梱包してもらった鏡とエプロンを両手で抱えるようにして歩くと姉納月と合流し、一足先に帰途につくことを伝えた。
家に戻ると、留守番しているはずの両親が不在だった。引籠りの父が重い腰を上げたのなら母との親睦を深めるためで帰りは遅くなるか。と、予想しながら、子欄は鏡とエプロンを取り出してダイニングのテーブルに置いた。
シャンプーハットが手放せなかった幼い頃。
──はい、ホットドッグ。
──わぁ、おっきいソーセージっ!
──こーら、慌てて食べると詰まらせるぞ。
小さな神社の小さな祭で、父と母が菱餅蓮香にホットドッグを買った。
両手に収まらないほど大きなホットドッグは、波を描いたケチャップと艶のあるパンが提灯を浴びてきらきらと。
宝石を食べる、と、いうことは実際にはないが、菱餅蓮香は手に入れた宝石を勢いよく食べた。そこへ、
──あ、蓮香だ!
菱餅蓮香と同じように両親に連れられて、同い年の星川衛が現れた。そちらを振り向いた菱餅蓮香は咀嚼不足の宝石を誤って吞み込み、喉を詰まらせ、周囲が泡を食う騒ぎとなった。
……初等部一学年のときのことなのに。
星川衛が憶えていたこと。
菱餅蓮香は忘れていて、どこかで憶えていた。汗の不快が消えて、清涼感が胸を巡る。
「ゆっくりだね」
「何が」
「食べるの」
「勝手でしょ。それともガツガツ食えって」
「そのほうが蓮香らしいかな、とか」
「外だし、……」
──女の子なのよ。お上品に食べなさい。
男勝りな食べ方を、今はできない。
「そっか」
と、星川衛がうなづき、自分のホットドッグを食べ進めた。
「昔はあんなに大きかったのに、今では片手でも持てるね」
「一八歳、大人みたいなものよ。バゲットくらい大きなパンならあの頃のホットドッグを再現できるかもね」
「合うソーセージがあるかな」
「特注よ。高くつくわね」
冗談を言いつつ、菱餅蓮香も食べ進める。
──むちゃをしてはいけない。現実を、足下を確かめて、歩みなさい。
あの頃と同じ。波を描いたケチャップと艶のあるパンは、提灯もとい木洩れ日を浴びてきらきらと。なのに、どこかくすんで見えるのは歳月のせいか。幼いころ見えていた美しい景色のほとんどは幻想で、ホットドッグの中に観たそれも今では観ることが叶わないものなのか。宝石とは、もう思うことができない。
「これからもこうして蓮香と食べられたらいいな、と、思うよ、ホットドッグ」
「何よ、それ」
「軽い気持でいったんじゃないよ」
「……真剣な冗談ってこと」
「ぼくは芸人じゃない」
知っている。
昔の星川衛は上流階級出身ゆえか態度が鼻につくこともしばしばであった。時を経るに連れて、狭いコミュニティの中では上流階級が決して多数派でないことを彼は理解していった。中流階級の菱餅蓮香とも生活に格差があると気づいたのだろう。いつからか星川衛はみんなに対してフランクに接しながらも見くださないよう誠実な態度を心懸けるようになっていた。悪い冗談など絶対に言わない。人格者たる一つの素養を幼くして備えていた。
それゆえに、星川衛の言葉を冗談と処理したい二律背反が擡げていた。菱餅蓮香は両親を失ってからというもの、星川家の財力に支えられてきた。中等部卒業まで星川家に居候した上で学費や部費を全額払ってもらい、食費や寝る場所、歯磨き粉や洗顔料、そのほか諸諸の必需品の調達、生活面での物質的アメニティが不足することはなかった。高等部の学費も全額星川家が肩代りしてくれた。それらだけでも大きな借り。菱餅蓮香がそれらより重く受け止めているのは、両手の怪我の手術費用と、手術以降受けている定期検診費用の肩代りである。星川衛が剣を置くこととなった事故は菱餅蓮香のせいで起きたのに、慰謝料ともいえるお金を星川家から毟り取っている。生産性が低く社会的地位も低い無魔力の菱餅蓮香が、だ。卑下しようとしてそう捉えたのではない。現実的に考えて、未来性のない無魔力の貧民に対してすべき資金的援助の域を超えているのだ。下流階級出身の同級生は、中等部の頃から働いていても貯金がなく学費工面のために時あらば働いている。時は金なり、と、皆が口を揃える。異口同音となった意見の正体は、賃金格差で時間の浪費を強いられて口を衝く嘆息なのである。菱餅蓮香は恵まれすぎている。だのに、享受した恵みに報いることができるとは限らない。報いないつもりなのではない。返せるものは返したい。だが両手の後遺症を抱え、無魔力という社会的弱みが付き纏い、下流階級として賃金格差まで負わされている。不安ばかりが押し寄せる。希望は、見え透いた玉の輿くらいである。そしてそれは望めば叶うだろう。星川衛が求めてくれているのだ。──卑しくて、浅ましい希望だ。生きるということを放棄する愚かな希望だ。星川衛に、菱餅蓮香は希望を打ち砕いてほしかった。希望がなくなれば、不安から逃げなくて済む。目を背けずに済む。生きている、と、胸を張れる。命を失った両親に、何を失っても顔向けできる生き方をするには自立が絶対なのだ。
──堅実に生きなさい。できることを疑わないで、自分を信じなさい。
ホットドッグが掌より小さくなった。
……この祭で、最後にするんだ。
星川衛が将来を見定めている。
菱餅蓮香も己の見出した世界で生きてゆく。
社会的地位を高めない限り、菱餅蓮香の世界は星川衛の将来とリンクしない。
……あたしの力で成り上がってからでないと、駄目なんだ。
そうでなければ、不安に押し潰されて星川衛に甘えてしまいそうだ。甘えたら最後だ。ずるずると堕落して何もできなくなってしまう。その後押しはいくらでもある。後遺症の盾。星川衛の罪悪感。両親がいなくなったことに対する気持の捏造。誠実な気持が全てねじ曲がって、全てが卑しさに特化した強みになる。菱餅蓮香の求める強さは、そんな強さではない。
「星川。あたしは……、」
ホットドッグが宝石に見えなくても、未来の自分が輝くためには。「一人で走りたい」
「……ぼくじゃ頼りないとか、そういうことじゃないよね」
星川衛が、小さくなった自分のホットドッグを見つめた。「蓮香は、ぼくに頼ることで自分が堕落するって思ってるんだ」
「(解ってるんじゃない。)少なくとも今は、星川の気持に応えられないんだよ」
星川衛のくれた気持は、素直に嬉しい。心が通じ合っている。解っている。なおのこと、頼るわけにはゆかない。
……それが、わたしの育ての母の教え。
昼下りの祭は真夏の陽光に照らされ、情緒よりも眩しさばかりが際立っている。賑わいも、雑踏も、目が眩むようで、蓮香は自身の落とした影を見下ろす。と、影に手の甲が差し伸べられた。視線でなぞると、星川衛が眩いステージを見つめていた。
「君は、変らずぼくを置いてくんだね」
「どういうこと……」
「それなら、ぼくも勝手にする。置いてかれても、ぼくは勝手に君についてく。昔からそうしてたように、ぼくは勝手に君を好きになって、ずっと好きでいるだけだよ。何も変わらない。ずっと変わらないよ」
星川衛が菱餅蓮香を振り向いた。「君の気持は解った。堕落したくないって気持もすごく解る。ぼくはそんな蓮香の一番の応援者になる。ぼくだって、君を失いたくない」
賑わいも、雑踏も、ステージも、霞んでゆく。木洩れ日に照らされた笑顔は何よりも眩く。
「何よ、それ……」
細めた視界が不意に雨を浴びたよう。菱餅蓮香は目許を荒っぽく拭った。
──わたしは、あなたを許すわ。
「(でも、おばさん、わたし……。)さっきから、手の甲出してるけど、何」
「気持の上でリードできればいいかなって」
「っはは……、何よ、それ」
笑いとともに、何がなんだか判らない感情が恵みの雨になって零れゆく。淀んだ沼のような心が洗い流されて、幼い頃の純粋さをその目で視るようだった。
──だから、あなたもいつか、自分を許しなさい。
……おいしいな。
彼に見られた雨をごまかすようにして食べたホットドッグは、宝石の味が弾けた。
口が空になってしばらくすると、少し落ちついた。
「星川は、これで満足なの」
「満足さ。それに将来だって心配ない。ぼくだって自立する」
「自立、って、家を出るってこと」
「家はある意味でもう出てるけどね。自分で稼げるようになって、自分で身を立てて、きっと蓮香を応援できるようになる。そしたら改めて告白するよ」
「めげないね」
「散散置いてかれたから。いまさらめげたりしないし、腐りもしない。それが、ぼくが弓道を選んだ理由なんだ」
「弓道を選んだ理由」
「的を射る──。一つの目的のために全身全霊を懸ける。ぼくはこれを学びたかった。静かに目的を見定め、確実に射抜く。外れたって、また挑む。限りあるチャンスの中で、挑む。ぼくの人生に必要なことだよ。蓮香が格闘を選んだことと、近いものがあると思う」
「……この手で道を切り拓いて、自分の脚で歩みたい。星川が罪を思わないように、自分の力を見せたかった。『あたしは今もこんなにできる!』ってところをいつか見てほしくて。全部がむしゃらだ、省みずで、無鉄砲で……」
不自由な両手なのに。それが、自分らしさであった。
星川衛の表情がやや陰る。
「蓮香は、もう、剣への未練はない」
「(やっぱりそこを心配してたんだ。)未練がないっていったら噓になるけどね、できないことよりできることを精一杯やるよ。そのほうがあたしらしい」
「ん……、そっか」
「あたしにも聞かせて。あなたは、本当に剣を置いていいの。置いて、よかったの」
菱餅蓮香は、ずっと心配していた。かつては天才と称された二刀流剣士、それが彼なのである。
星川衛の陰りが消えた。
「ぼくは蓮香に怪我をさせて思い知った。剣は相手を殺すための道具だって。ぼくはそれを握って道を歩みたくない、そう、強く思った。進路に迷ったとき、父さんが狙撃部を勧めてくれたりしたけど、銃声を聞いてるとあのときの音を、発砲の反動を受けるとあのときの感触を、思い出して仕方なかった。これは、ぼくの道じゃないと思った。狙うのが同じ無機物の的でも弓は静かで、ときに運が絡んでも、自分の力と心で動き出すんだ。これこそ、ぼくの道だって思ったよ」
「本気で、そう思ってるんだ」
「こんな言い方をしたらいけないのかも知れないけど、蓮香のお蔭だよ。君がいなかったらぼくは人殺しの邪道を突き進んだかも知れない」
剣を握っていても星川衛はきっとそうはならない。道具がひとを殺すわけではないからだ。菱餅蓮香はそう思う。
星川衛の言葉に噓など見受けられない。彼の心に及ぼした大きな影響を見逃すほど、菱餅蓮香は鈍感ではなかった。
「それならよかったわ。あたしも、自分の道を突き進んでいいってことよね」
「ああ、勿論だよ。いつか互いの道が重なるように修練しよう」
星川衛が、同じようなことを考えていた。菱餅蓮香とは違ってただ前向きに、考えていた。菱餅蓮香はその考えにこそ、希望を感じた。卑しい希望と似て一八〇度違う、眩い希望だ。
「そうね」
──子どもが気を使うものじゃないわ。それに、──。
……全部、おばさんがいう通りだったわ……。
星川衛にトラウマを刻んだかも知れない。そう謝罪したとき、星川衛の母が全て教えてくれた。
──あの子はあなたが思うほど弱い子じゃないわ。安心しなさい。そして、信じてあげて。
……うん……信じます、あかあさん。
他人だった頃、誰より厳しかったおばさんが、誰より優しい育ての母になってくれた。その母にも、星川衛にも、報いることを密かに誓って、菱餅蓮香はうなづいた。
思わぬものを見てしまい、知泉ココアと雛菊虎押はメイン会場脇で踵を返した。
「蓮香姉、衛兄とあんなに仲がよかったんだな。高等部で会っているところを見たことがないけど……」
「星川先輩は美男子って女子の中で有名で恋人がいないらしいとも聞いてたけど、まさか蓮香先輩とジッコンの仲とは〜」
「それ、実質上の婚姻関係とかって意味じゃないぞ」
雛菊虎押がツッコむが、知泉ココアの意識は別のところへ。
「思わず引き返しちゃったけど、メイン会場のホットドッグ食べたかったな〜」
「別のところにもあると思うけど、そんなに食べたいなら買ってきてやろうか」
「おー、意外に気配りできてる〜」
「もしかしてオレを単細胞と思っていないか。そのくらいできるって」
「じゃあお願〜い」
「ああ、ちょっと待っていてくれ」
「は〜い」
駅南口に向かう川沿いの小路。麺処の壁に寄って佇んだ知泉ココアは雛菊虎押を見送った。ここも含め、日陰に退避するひとがまばらにいる。
……みんな考えることは同じだー。
ハンカチで額を拭って一息ついた知泉ココアは、なんの気なしに向いのマンションを仰ぎ見る。と、影がちらっと覗いた気がした。
……目が眩んでるなぁ。
今日は一際暑く、体力をどんどん消耗してゆく。天気予報によれば各地四〇度を超えるとのことであるから、過酷だ。
……一人では来なかったな。
無魔力以外の人間で知人ともいえない者との集合を初めて前向きに受け入れて、知泉ココアはやってきたのである。有魔力でありながら友人と思えた竹神音羅がそこにいたからである。流れで組が別れたが、組の内容を観れば、そこに知泉ココアが知る無魔力・有魔力の差別はなかった。
……これから三年間、音羅さん達と付き合っていけるんだ。
有魔力との付合いが愉しみだなんて。第三田創に進学したのは無魔力との結束を固めて有魔力へ抗っていこうと思ったから、と、大きなことを考えていたのではなく、無魔力の人間が未来を築くための近道だった。竹神音羅達との出逢いは意外かつ最高だった。一生続くと思われた有魔力との争いが思い込みである可能性を見出すことができたからだ。
戻ってきた雛菊虎押からホットドッグを受け取った知泉ココアは、これにかぶりついた。
「音羅さん達と合流したら、また食べたいね〜」
「食いきってからいえよ」
「予約〜」
「えぇ……」
「飲物もあるとサイコ〜」
「はぁ……。はい、はい、解りましたよ」
不承不承を装った雛菊虎押が寛容な微笑で応じた。
役場前のメイン会場は大賑わい。ひとの流れこそ外周だけだが、背が小さい音羅は鷹押に手を引いてもらって、はぐれないようにした。
「極暑日なのに物凄い人気ですね」
「戦後復興を後押ししたのは列車だった。列車祭は、復興の一シンボルということだ」
「みんな、思い入れがあるんですね」
戦争を体験したひとびとの思いが現代人まで受け継がれてきたのである。たかが六五年、されど六五年。絶える思いは絶えただろう。復興に懸けたひとびとが蒔いた種は尊く、育つべくして育った。
「あ──」
音羅は人込みの中に日向像佳乃の姿を見かけた。
「知合いか」
「はい。前のアパートの大家さんで、お世話になりました」
アパートを危うく全焼させそうになった音羅を赦した心の広い老婆である。老婆といっても背筋がすらっと伸びており若若しい。
……少しだけ学園長に似ている。
学園長と日向像佳乃は、三大国戦争を生き抜いた世代。復興にも携わったことだろう。
「列車祭への思いも一入なんでしょうね」
「当時の列車はいろいろな物資を運ぶほか、遠くから人材を運んだとも聞く。その頃、他国からダゼダダに移住したひとびともいるらしい。そういうひとびとに取ってこの祭、いや、列車にも思い入れがあるだろう」
「自分達が乗ってきたんですものね。もしかして南口に展示されていた車両が」
「レプリカだが、当時走っていた車両と同型とのことだ」
展示された車両は車輪が外され、倒れないように固定されて、乗車することができる。運転席に入ることもでき、主に男の子が、愉しそうに操縦レバを捻る姿があった。
「展示された車両に興味を持っているのは男の子や男性が多かったように思うんですが、鷹押さんはどうですか」
「両親曰く昔は興味があった。今は、特別に興味があるとは」
「そうなんですか」
「竹神音羅は」
「ホームに入ってきた列車は凛凛しかったです。たくさんのひとを乗せて遠くへ連れていってくれるので力強くもありますね」
「興味があるんだな」
「なっちゃんのほうが興味はあると思います。わたしはそれなりに、ですね」
見慣れないものを目が追ってしまう。興味があるかないかでいえばあるのだろうが、それが音羅自身の意識的なものかというとそうではない。揺れる狗尾草に狩猟本能を刺激された猫が反応してしまうのと似ているか。本能的なもので音羅の意志とは異なる。かといって観たものに何も思わないのではないので雑感を言えた。
「列車はどうやって動いているんでしょうね」
「電力を供給されている。車両の天面についたパンタグラフを送電線である高架に接させることで電力を受け取って車輪が回る」
「そうなんですね。炎が出ないのにどうやって加速しているのかと思っていました」
音羅は一時的になら炎魔法で飛行できるので、推進力といえば炎という考え方であった。
「推進力は列車のようなものもあれば風や水を使うものもある。難しいことは知らないが船がそれだ。帆船は風を受けて進む。魔導船舶などはスクリュを回すことで水の推力を得る」
「いろいろあるんですね」
「いろいろある」
音羅はずっと鷹押を見上げて話しているのだが、鷹押は全く目を合わせない。いつもそうなので気にしなかったが、ほかのひとに対しては目を見て話している鷹押。また、小会場のほうでは目を見て話してくれたので、音羅は違いが気になった。
「鷹押さん。わたしの眼が苦手だったりしますか」
「どういうことだ」
「鷹押さんはいつもわたしを見て話してくれませんから、どういうわけか知りたいんです」
「……」
黙った鷹押がメイン会場のステージを見つめている。どこを見ているかは曖昧だ。
……気に障るようなことを訊いてしまったかな。
そうは思うものの、鷹押が変らず手を握ってはぐれないようにしてくれているので、拒絶されているわけではないと判った。
「わたしが悪いことをしているなら直そうと思います。遠慮なく言ってください」
「……、竹神音羅が悪いんじゃない」
ステージを見つめたまま。同時、彼の手が縮こまったようだった。
「オレは、気の利いたことをいえるタイプじゃない。頭が回るタイプでもない」
「わたしと話すのが苦手ということですか」
「そうではない。なんとなく、見づらく、目を合わせにくい」
「容姿が苦手、ですか」
「それは違う」
「あ、身長。鷹押さんは背が高いので、首を曲げてわたしと話すのはつらいですよね」
合点がいったので音羅は爪先立ちしたが、鷹押が首を捻る。
「平気だ。普通に立っていてくれ」
「じゃあ、いったい……」
「……」
「ピィ……」
鷹押がいつも以上に口数を減らしている。特別に理由がないのか、自覚がなかったため理由を探っているのか、それとも話しにくいことなのか。プウが心配したか、鷹押を覗き込んでから音羅に目を向けて首を傾げた。
困らせてしまっていては申し訳ない。音羅は軽くジャンプして周囲を窺った。
「露店がたくさんありますね。行ってみたいんですが、いいですか」
「……、構わない。ついていこう」
「ありがとうございます」
鷹押、プウと露店を回る。イカ焼き・タコ焼き・タコ玉・ホットドッグ・お好み焼き・焼きそば・唐揚げ・クレープ・綿飴・リンゴ飴などなど、小さい露店がステージ脇にいくつも並んでいる。目移りするが、母からもらったお小遣いに限りがある。帰りがけにも買いたいので、どれか一つに絞らなければ。
「唐揚げ……、唐揚げにします」
「解った。あっちだったな」
露店の近くはひとの流れがある。昼食どきということもあって露店に人山が押し寄せているので、密集したひとを鷹押が搔き分けるようにして進んだ。
……体が大きいっていいな。
音羅は体が小さいので避けてもらえない。稽古や試合で力加減は摑めてきたが、相手を傷つけてしまうかも知れないので力づくで進むことはできない。鷹押の背中に頼もしさを感じながら音羅は手を引かれた。
行列に並び、唐揚げを売る露店に到着したのは一〇分ほどあとのことであった。
「毎度〜」
「ありがとうございます」
唐揚げの入った縦長の器と竹串を店主から受け取ると、思ったより大きくて、両手が塞がった。
「あ、財布が取れません……。鷹押さん、わたしの財布、取ってもらえますか」
と、音羅は体を捻ってワンピースの腰許を持ち上げた。ポケットに赤い財布が入っている。ところが鷹押が店主を向いて、
「オレが払おう」
と、自分の財布を取り出した。
……取り出しにくかったかな。
屈むのは躊躇われる人込みであるからして、音羅の腰に鷹押の手は届かない。肩のプウが音羅のほっぺたを尻尾でぺちっと叩いた。
「プゥ〜」
不手際を叱られたようだ。
「すみません、あとで払いますね」
「構わない。オレが払う」
鷹押が何か頑なだ。いつもより口下手な気がするのは気のせいか。ともあれ、
「ありがとうございます」
音羅はお礼を言い、摘まみ食いしているプウを眺めて露店の脇へと流れていった。そのままひとの少ない役場西へ移動し、プウに次いで唐揚げを頰張った。
「はむはむ、ピゥ」
プウが一つの唐揚げをついばむようにして何回も口に運ぶが、音羅は手が止まった。
「ん〜……、オイシイ、ですね」
「……うまくないか」
鷹押が察したので、音羅は苦笑。
「おいしいです。でも、父が買ってきてくれるものと比べると、少し、油っぽかったり、味が不足しているような気が。プウちゃんはおいしそうに食べていますし……」
「味覚が違うんだろう。露店の出店者はプロばかりではないはずだ。スーパの惣菜のほうがうまいこともある」
「と、いうことは、素材を活かせていないんでしょうか」
「祭気分で値段が上乗せされていることは間違いなさそうだ」
「そうなんですか」
露店というだけで特別感があって、音羅は目を引かれて愉しかった。上乗せされた値段は愉しさを提供した代金ということだ。
「竹神音羅の父親は、どんなひとだ」
鷹押が尋ねた。「うまいものを買ってきてくれるような、美食家か」
「いつもテーブル席から動かない引籠りです」
引籠りは社会的に観れば道を逸れた者という扱いなのだが、音羅は恥ずかしげもなく。
鷹押が指摘したのは、
「……、買物には行くんだな」
「いわれてみると……、普段はいつ行っているんでしょう」
音羅達と一緒に行くときもあるが、それ以外だと家族がいない時間帯に済んでいるよう。音羅達が登園後、母が頼んでいる可能性もあるが、父一人で行っていることに変りはない。
「唐揚げ以外には何を買ってきてくれるんだ」
「プリン、ゼリ、アイスクリーム、チョコレートにケーキ、お菓子がメインですね」
「お前はお菓子が好きなのか」
「食べ物ならなんでも好きですっ」
「おやつやデザートをメインに買ってきているということだな」
「そうですね」
父が毎日している父らしいことといえばそのくらいだろうか。竹神一家全員が知っているがテーブル席を動かずテレビを観るばかりで何もしない怠け者、母のヒモである社会不適合者、それが父である。慣れればどうということはなく、動き出したら却って何事かと不審に思ってしまうだろう。
「父はお菓子が好きなので、自分の分を買うついでに買ってきているんだと思います」
「なるほどな──。引籠りかも知れないが、優しい父親なんじゃないか。竹神音羅のところは五人家族だろう」
「はい。母を入れて五人、プウちゃん達を含めると九人ですね」
「市販品のお菓子、特にゼリやプリンは二つから四つの纏め売りが多く、単品売りは単価が高い。逆に、纏め売りは安くなる」
「同じ商品でも、違う値段になるんですか」
「既製品にはよくあることだ。竹神音羅の家では五人乃至九人分、つまり二や四の倍数で端数が出る」
「プウちゃん達にはわたし達の分からあげることが多いので、五人分しか買ってきていないと思います。父は単品売りを買ってきているということになるんでしょうか」
「それ以外の可能性もあるが」
「なんでしょう」
「憶測の域を出ない」
「……」
鷹押は察しているようだが、確証がないからか話すつもりはないよう。格闘もそうだが、自分で考えて覚えることが大事。音羅は意見を催促しないことにした。
唐揚げの山が少し減ったところで、音羅はプウの唐揚げを抓んで、唐揚げの容器を鷹押に差し出した。
「鷹押さん、食べてみませんか」
「もらっていいのか」
「味見をしてほしくて」
「味見を……。じゃあ、一つ」
鷹押が竹串を持とうとして、「ちょっと器を貸してくれ」と、器を手に取る。器を傾けて転がってきた唐揚げを一つ抓み取った。
「すまないな」
器を音羅に返した鷹押が唐揚げを食べ、口を押さえた。
「むぐっ……。祭価格が九〇%を占めた味だな」
つまり、まずい。「よく我慢して食べてくれた。油っぽい。味がない。粉っぽいところに、生焼けの部分まで。生の鶏肉は食中毒のおそれもあるというのにあの店主、告発せねば──。ここまでひどいものはそうそう、ない……」
「あはは……。(ここまで饒舌な鷹押さんは初めてだ)」
「もはや売り物ではない。突き返してもいいと思うが」
「帰ってから母に再調理してもらおうかと思います。母ならおいしく──」
「呼びましたか」
「えっ」
右手を振り向くと、母の微笑み。それと、「パパも!」
「声が大きい」
「ピィ〜〜」
怠そうな半眼と無精髭が音羅を見下ろしている。その父を見下ろす高身長の鷹押が、希しく緊張した面持だ。
一方、父に跳び移って頰擦りしているプウは、唐揚げに満足したことを伝えているのか。父の指先で頭をなでなでされてプウが少し落ちついたのを見計らって、音羅は口を開いた。
「鷹押さん。わたしの父と母です。パパ、ママ、こちらがいつもお世話になっている先輩、雛菊鷹押さんだよ」
「母竹神羅欄納です。娘がいつもお世話になっております」
「竹神音だ。お前さんのことは音羅から良く聞いとるよ」
「初めまして、雛菊鷹押です。娘さんからは日日学ばせてもらっています」
鷹押が敬語を使うのは希しいが、父と母はさすがというのか何も変わらない。
「音羅ちゃんが何か迷惑を掛けましたら遠慮なく叱ってあげてくださいね」
「ま、ママ、大丈夫だよ、わたし頑張っているからね!」
「頑張っていても間違うことはございます。誤りを正せるなら周囲が叱るべきなのです」
鷹押が察する。
「娘さんを信じてこそのお言葉と受けました」
「鷹押さん、しっかりしていますね。学園で音羅ちゃんのことを見守ってくれる方として信頼できます」
「いいえ、オレなんかは若輩者、まだまだです」
「謙虚やね」
と、父が言うと、鷹押が質問を投げる。
「ご評価いただいて早早すみません。世界情勢についてお伺いしてもいいですか」
「音羅と一緒にお笑いは観るが、国だの政治だのは専門家の領域やん」
「子を持つ世代の意見を聞きたかったんですが、ご興味がないとは」
鷹押が世界情勢に興味を持っていることが音羅は驚きだったが。
「養育放棄しとるし、親目線の意見は出しようがないな」
「そうなんですか」
「それに、外国の敵意なんか生まれる前からのもんやから気にしても無駄ってのが、無責任で無関心なもんの意見やないかね。ちゃんとした意見なら、現役教育者で曾孫までおる学園長にでも訊きぃな」
「そう、ですね」
「水が薄いね」
「水、ですか──」
「反応の必要はないよ。意味なんかないテキトーな言葉やから」
「パパってば、そういうのは駄目だよ。ごめんなさい、鷹押さん、父は自分の調子で話すひとなので気にしないでください」
音羅は父の軽口を叱ったが、当の父は興味のあることにしか時間を割きたくないのか、音羅の持つ唐揚げを見下ろした。
「油ぎんぎんやな、それ」
「ピィ〜」
プウが嬉しそうだが、鷹押が申し訳なさそうに会釈した。
「オレが買ったものなんですが、どうやらハズレらしく……」
「出店料に首が回らんエセ露店もあるが祭に乗じた荒稼ぎヤローに捕まったか。溝に金を捨てていい勉強だ」
父が毒舌を弄した。「これに懲りたら自分で作るんやね」
「胸に刻みます」
「傷を忘れることも大事やぞ」
父が歩き出し、鷹押の脇を抜けてゆく。
「私も失礼します。音羅ちゃん、後程会いましょう」
「うん」
音羅とともに鷹押が振り向き、両親を見送った。
雑踏に消えた背中。音羅は驚き半ばに一息ついた。
「……ママだけならいざ知らずパパが来ているなんて」
「希しいことなんだな」
「はい。パ……、父が歩いている姿も久しぶりに見た気がします」
「それほどか。養育放棄、謂わば虐待しているとのお話だったが」
「父から物を教えてもらったことはほとんどないので、そういう意味だと思います」
「普段はテーブル席を離れない、だったか」
「はい。食事中に上体が動くくらいです。……父も列車祭に思い入れがあるんでしょうか」
「オレと歳がそれほど変わらないはずだが──」
「あれ、父の年齢って教えましたか」
「子欄から聞いた」
「しーちゃんから」
別館三階の朝練洗濯係になってから、格闘部や隣の柔道部の部員と話す姿がよく観られた子欄である。鷹押ともいつの間にかよく話す間柄になっていたようだ。
「父は今年で一九歳ですね」
「一つ先輩だな。オレが二学年当時、一つ上の先輩方と試合をすることがあったが、しかし、竹神音羅の父ほどの存在感はなかったな」
「父は押しも押されもせぬ怠け者ですから。活動的で意欲的な先輩方とは目線が違うんだと思います」
「うむ……」
鷹押が、消えた父の背を見つめるように、「彼は、──そう、特異といえる」
何かに気を乱して、落ちつきを取り戻すかのように、鷹押が深呼吸した。
父にくっついたまま行ってしまったプウが、足許から這い上がって音羅の肩に戻った。
「父は確かにすごいひとだと思いますが、大丈夫です。鷹押さんはいいひとですから」
「悪いヤツはどうなるんだ」
「意味はよく解りませんが、社会的制裁を加えるとかなんとか。なっちゃんは通報のことだっていっていましたが、それって、いいことですよね」
「ああ。正義感が強いひとなんだな」
「だと思います。ただ、やっぱり普段は怠け者です」
ふと唐揚げの器を見下ろす音羅。「あ、先程渡しておくべきでした」
「すっかり忘れていたな」
と、鷹押が微笑し、「口直しに別のものを奢ろう。何がいい」
「いいんですか」
「曰く勉強になった。次もいい勉強をしなくては」
「ハズレを引く前提なんですね」
少し天然な鷹押の発言に笑って、音羅はタコ焼きを提案した。それは唐揚げと違って香ばしく出汁も効いた絶品で、勉強になったかはともかくお腹は健全に満たされたのであった。
露店巡りを続けた音羅達は、鷹押の出身地である長良町の特産品〈きよらうちわ〉や〈清流提灯〉といった風情のある工芸品を見物した。四季の変化が濃くないダゼダダにあって夏の情緒を思わせるそれらは実用的。うちわで扇ぐと涼しくて汗がす〜っと引き、提灯は夜闇を彩りながら目に優しい燈となる。残念ながら観たのが昼であるから提灯の風情は味わいきれなかったが、世界一薄くて丈夫という和紙を用いたり、組子を用いたり、と、細部までこだわられた作りはそこにあるだけで強い存在感を放っていた。
工芸品を見ながらもせっせと食べていた音羅は、気づくとゴミを抱えていた。各所に置かれた公共の屑籠にするんっと棄てるのはいつからかの愉しみでもあった。初めて棄てたのは母と買物に行った日だったか。屑籠の中には不思議な魔法があって何を入れても綺麗に分別されて処理場に運ばれるというからすごい。町を歩いていてもゴミを見かけることが少ないのは、手当り次第ゴミを棄ててみたくなるからではないだろうか。
とはいうものの、食べ残しの唐揚げは棄てない音羅である。工芸品を観終えてゴミを棄てたときには夕方となっていた。昼に遇って以降両親の姿を見かけることはなく、ほかのみんなとも遇うことがなかった。帰り前の集合時刻が迫っているので、鷹押に手を引かれてみんなとの集合場所、駅北口へ向かう。と、漫才を観たり鷹押と睨めっこしたり自分の唐揚げを平らげたりして満足げに眠ってしまったプウを、最後は両手で包んで歩いた。
「──。鷹押さんにたくさん買ってもらってしまいました」
「野原ほどではないが、オレもバイトをしている」
「もしかしてこのあとはバイトですか」
「交通整理だ。夜間に掛けて行うバイトは比較的賃金がいい」
つまるところ音羅の胃袋に消えていった食べ物は鷹押のバイト代が元手だったわけで。
「甘えてしまってごめんなさい。仕事を探してちゃんと払いますね!」
「いや、構わない。オレは、」
ホームに続くトンネルの中、北口の光を見て鷹押が言った。「お前と一緒に回れて愉しかった。プウと遊べて、いろんなものを観て、食べて、笑って……。オレばかりが、お前からもらっている。だから、金くらい払わせてほしい」
何をあげたか音羅は自覚がなかった。
「じつは、少し不安だったんです」
「……何がだ」
「鷹押さんの趣味を知らないままお祭を回ることになって、つまらない思いをさせていたらどうしようって」
「……そうか。すまない、気を遣わせた」
「いいえ、鷹押さんが愉しんでくれたって聞けてほっとしました。何も知らなくても、愉しんでもらえるんだって判りましたから」
あるいは野原に対して、あるいは父に対して、不知のことばかりで音羅は不安が尽きない。同じように深く知らない鷹押とともに祭を回って、不知のことがあっても互いを思いやったり愉しませたりすることができると音羅は学ぶことができた。
「鷹押さん、ありがとうございます」
トンネルを抜ける間際、一際強い陽光を浴びた鷹押に音羅はお礼を言ったのだった。
鷹押の応答は、これまでにない笑顔であった。
──一四章 終──




