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一三章 心の輪郭(2)

 

 初等部五学年生から中等部までの現実は、ときどき夢という形で追体験する。それがいかに重い過ちだったか。それがいかに軽率だったか。そう振り返ることができるから、今の自分は成長できているといえる。が、夢に見るほどに一連のトラウマともなっていることを菱餅蓮香は否めない。

「蓮香さん、電話よ〜」

 と、寮母に呼ばれて、出入口付近の共用電話に出ると、

「もしもし、蓮香さんですか。竹神音羅です」

「音羅さん。何か用だった」

「はい。列車祭というものがあるそうで──」

 アルバイトや自主稽古以外に特別な予定が入っていなかった菱餅蓮香は誘いに乗った。驚いたのは、そこにやってくる面子。菱餅蓮香の快諾を受けて、電話口の竹神音羅が愉しげに参加者の名を挙げた。

「翼さんの提案なので翼さんと後輩のなっちゃんが来ます。ほかには野原さんと知泉さんと虎押さんが。それから、虎押さんが鷹押さんを誘って、しーちゃんの誘いで星川衛さんが応じてくれました。蓮香さんを加えて一〇人、ワタネさんやプウちゃんも含めたら一二人です。愉しくなりそうですね」

「……、そうね」

 返事が少し遅れたが、竹神音羅が変に思わないように言葉を継ぐ。「花さんと夏休みも遊ぶ仲になれたみたいでよかったね」

「あはは……、一時はぴりぴりして心配させてしまいましたよね。見守ってくれてありがとうございます」

「部長としても先輩としても、あなた達一学年生が結束を固めてくれて嬉しい。こっちこそ感謝したいくらいよ」

 魔法を使えない無魔力個体のために創設された第三田創魔法学園高等部に、竹神音羅のような有魔力個体が入学した。それは、来たる時代、有魔力との融和が必要になると学園長が考えたからだろう。竹神音羅と同世代の野原花達がその先駆けになるかも知れない。菱餅蓮香は関係構築を手助けしてゆきたい。

「それじゃあ、列車祭の日を愉しみにしてるわね」

「はいっ。集合場所は追って連絡しますね」

「待ってるわ」

 受話器を置くと、菱餅蓮香は胸に手を当て、呼吸を、いや、心を整えた。

 ……大丈夫。もう、お互いの道を進んでいるんだから、大丈夫──。

 八月六日、彼と再会することになる。菱餅蓮香は学園生活でそれを唯一避けてきた。三学年生となり、後輩に教える立場になった。逃げ続ける選択は、しない。

 ……覚悟、決めないとね。

 過去と向き合ういい機会だ。

 

 

 八月六日。田創駅開設記念日列車祭、通称〈列車祭〉当日。

 まるでそこに根差していると言わんばかりに今日も父はテーブル席についたまま、列車祭に向かう音羅達を糸主達とともに見送った。

 集合場所の田創駅北口に向かう農道は赤道直下の太陽光線を浴びて、長良山脈(ながらさんみゃく)からの冷たい雪解け水も砂漠県を縦断する前に田中で日向水(ひなたみず)と成り果てているようだった。

「お父しゃま、だらけしゅぎでしゅね。きっと心は溶けたアイシュよりドロドロでしゅよ」

「学園に通い始めて一層思いましたが、お父様、社会不適合者ですからね。もう取返しがつかないでしょう」

 妹の酷評。

 音羅は否定しなかったが先日の目差、あれを思い出すと父を擁護したい気持が湧く。

「疲れているんじゃないかな。家に閉じ籠もっているのって、わたしならきっと疲れるよ」

「だったら動かないといけましぇんが、お父しゃまは労働どころか行動を放棄してましゅ。駄目人間まっしぐらでしゅ」

「納月お姉様の意見に概ね賛成です。お父様はひとびとに貢献できる能力がある。それを役立てなくて何をするんですか」

「う、うん、そうだね……」

 単純な擁護はできそうもない。妹の意見のほうがまっとうだ。

「お母しゃまの経済的負担を考えたらお父しゃまも働くべき。わたし達が学園に通うのと同じ理屈でしゅよ」

「聞けばわたし達の学費は纏めてお母様の貯金で払ったそうです。食費・水道光熱費・家賃もお母様持ちです。はて、お父様は何をしてるんでしょうか」

「テーブル席でテレビを観てばっかでしゅよ。誰かが拾わないと役に立たない置き忘れた傘、いいえ、もう屑籠に投げ捨てられた塵紙では」

「そ、そうですね」

 と、子欄が少し詰まり、「しかし、お母様曰く動くときは動くのがお父様ですし、全く期待できないわけではありませんよ」

「そうだよ」

 と、音羅は実感を持って口を挟んだ。「パパはダゼダダ大陸を破滅から救ったんだよ」

「しょうなんでしゅか。破滅って」

 と、首を傾げた納月に子欄が応えた。

「確か、テラノアの攻撃でしたね。前代未聞の魔法的攻撃をお父様が一人で止めたとお母様がいってました」

「なんだか噓くしゃいでし。お母しゃまはお父しゃまに盲目的に甘いでしゅから、『一人で』の辺りにしょこはかとない偏りを感じましゅ」

「事実だよ。なんとかって防衛機構の障壁を突き破っちゃった太陽みたいなのをパパが魔法の槍で貫いて相殺したんだ。わたし、その記憶を持っているから間違いないよ」

 鮮烈なる記憶。世界を蒸発させんと地上へ迫った熱源体を父の放った魔法の槍が食い破って夜を取り戻した。音羅が父を目指すきっかけとなった記憶の一つである。

「障壁が威力を弱めてたんじゃないでしゅかね」

「それは、ええ、お母様もいっていましたね……」

「じゃあ『一人で』は過剰表現、障壁があってこしょ。弱った相手に止めを刺しただけで、お父しゃまの貢献度は『手柄の横取り』くらいのもんでしゅよ」

「そういわれると、そうかも知れませんね」

 子欄が理解を示す。「ただ、納月お姉様は少しお父様の見方が厳しくないですか」

「一緒に暮らしゅようになってからず〜っと、ず〜〜っっとぉ、あんなお父しゃまの姿を観てるんでしゅよ、これでも甘口でしょう。なんならもっと厳しく評価しましょうか。自分はだらしないくせになぜわたし達のことは──」

「駄目、駄目、それ以上はなんだかダメっ」

 音羅は感情的に止めた。「せっかくのお祭前にパパ批判ばかりじゃ愉しめないよ」

「確かに」

 と、納月が空を見上げて。「気が緩んでついつい。と、いうことで話を祭に移しましゅが、二人はどこを回るか決めてましゅか」

 ポーチから取り出した列車祭の蛇腹折(じゃばらおり)パンフレットを掲げて納月が姉妹を窺った。

 パンフレットは翼から受け取ったもので、音羅と子欄も持参している。列車祭のメイン会場がある役場とパレードなどが催される駅周辺のマップのほか、去年撮られた各所の写真、今年のイベント予定、主催者などの情報が載っている。

「九時半に始まる主催者挨拶はもう終わってる頃でしょう。一〇時半から駅南口でやる中等部生徒の演奏会は鑑賞したいですね」

 と、子欄が言った。「そのあとは駅のホームに行ってみたいです」

「駅のホームは何もないみたいでしゅが」

「ほら、わたし達、駅に行ったことがないじゃないですか」

「そうだね」

 三姉妹は生まれてこのかた駅に用がなく、行ったこともなければ観たこともない。

「駅デビュですね」

「保育園前の砂場みたいでしゅ。ホームを観たいというのは同感なので行きましゅ」

「音羅お姉様もどうですか」

「うん、二人についていくよ」

 実際に走行していた昔の列車がパンフレットに載っているが、どうせなので実際走っている列車も間近で観てみたいものである。

 常夏のダゼダダでは二度の収穫期を授かる田んぼがサンプルテからずっと眼前に広がっており、来月の収穫を待つように首を垂れ始めた稲を観察することができる。昼間は温められた灌漑用水から熱が逃げにくくなるため水位を下げて水の体積を減らし、放射冷却を利用する。夜間の冷え込みに対しては水位を上げることで対応し、水温差で稲に悪影響が出ないようにする。そんな気遣いに満ちた米農家の姿をちらほら見かける農道を東に抜けて並木道を進むと、香ばしい稲とは別のあおあおとした緑の香りに包まれた。

「ホームを観察したり列車を観たりしたら、次はどこへ行きましゅか」

「ピィっ」

 パンフレットの一部に尻尾をぺんぺんしてプウが主張。そこは、駅南口にあるイベント会場の紹介欄だ。音羅だけでなく父ともよくテレビを観ているプウであるから、催し物の一つに目が留まったようだ。

「ピィ〜」

「演奏会と同じ場所で漫才やコントがやるみたいだね」

「それならメイン会場のほうでもやるみたいです。メイン会場のほうが知名度の高い芸人が訪れそうですがどうしますか」

「知名度と面白さは別問題かな」

「ピゥッ!」

「出た、お姉しゃまの変なこだわりっ。てか、もしやプウしゃんもこだわっちゃうタイプなんでしゅかね」

「ずっと一緒にいるし、シンクロしているのかも。なっちゃんやしーちゃんが気になるほうへ行こうよ」

「特別に芸人を観たいわけじゃないでしゅし、どちらでもOKでしゅよ」

「ここは音羅お姉様やプウさんの好きなほうへ行きましょう」

「ありがとう」

 漫才やコントの出演者は営業メインの芸人なのか過去に名を馳せた芸人なのか、音羅の知っている者はいない。ずっと一緒に回るかはまだ判らないがほかのメンバと相談して鑑賞場所を決めることにした。すぐにも芸人を観たかったかプウが臍を曲げたようだったが、単独行動してはみんなで集まる意味がないので、音羅はプウをにぎにぎして笑わせ、みんなでの行動を理解させた。

 緑に覆われた道を一歩出るとアスファルトのにおいが立ち込める。東へ三〇〇メートル、馬車の行き交う本道に差しかかる。向いの間道が駅北口に通じているのでそちらへ渡った。高架線路を支える側壁や商店によって間道は一部陰っているため、やや涼しい。景色を観る余裕が出ると、音羅は側壁を見上げて歩いた。

「学園の校舎みたいに大きな壁だね。この上に線路があるんだったっけ」

「知識はありますがこの眼で観てみたいですね」

「枕木、しょの上に整然と敷かれた金属の線路、架線やパンタグラフ、ホームでは電光掲示板などなどでしゅね」

「ホームもこの側壁の上なんだよね」

「ここらは高架鉄道らしいでしゅ。屋根が見えてるあそこがたぶんホームでしゅね」

 ホーム下の東西に二つのトンネルがあり、南北の通行ができるようになっている。また、西のトンネルには乗車券の無人販売機があり、改札を通過、階段かエスカレータを使ってホームに上がることができる。

 ホーム下方、駅北口に目線を下げると、

「野原さんと翼さんだ」

「星川さんもいますね」

 野原以外の格闘メンバ──知泉、虎押、鷹押、蓮香──はまだ来ていないようだ。

 先に到着していた三人と音羅達は合流。すると、星川衛が子欄に手を振った。

「今日は誘ってくれてありがとう、竹神さん」

「愉しんでいってくださいね。わたしが主催者でないのは明白ですが」

「そうだったら田創町を牛耳っていそうでびっくりだよ」

 衛が音羅と納月を向く。「改めまして、星川衛です。よろしくね」

 衛と初見であった音羅と納月は彼の挨拶に続いて自己紹介、プウの紹介をしたあと、人通りのないトンネル脇にみんなで移動し、格闘メンバを待つことになった。

 知泉、虎押、鷹押がともにやってくると先程音羅達がしたように自己紹介して落ちついた。

「学園で会っているみんなの私服姿ってやっぱ希しいよな」

 と、虎押が首の後ろで腕を組んで笑った。「何度か見ているけど別人みたいだ」

「いえてる〜。三姉妹も翼さんも可愛いけど、制服じゃないから印象変わった〜」

「そういう知泉は随分ボーイッシュな恰好だよな。まさかオーバーオールとは……」

「な〜に〜、色っぽい服でも着てきてほしかった〜」

「いや、いや、そういうわけじゃないけど、ほら、オレってあまり女子と遊ぶことなくて服装のこととか知らなかったんだ。知泉はもってないのか、納月みたいなヒラヒラのとか」

「納月さんは似合うけどあたしはなー」

 苦笑する知泉に虎押が笑顔で、

「似合わないわけじゃないと思うんだけどな。物は試しで着てみればいいんだ」

「機会があったら〜。花さんは意外にもあたしと気が合いそうだ〜」

「は。あたしと」

 野原が眉を顰める。「オーバーオールよか尖ってないけど普通にTシャツとズボンじゃん」

「女らしい恰好してない感じが〜」

「あたしは別に着たくて着てんじゃねぇよ。上下セットで一〇〇ラルだったから買っただけ」

「買物上手っ、いい嫁になる〜」

「よ、よよめ、嫁て。何いってんだお前は、なるか、んなもんっ」

 ……野原さんが慌てている。希しいなぁ。

 同じ一学年生でも野原は群れたがらない。知泉や虎押ともあまり話さないので距離感が摑みにくいのだろう。

 過去の距離を確かめるような二人もいた。鷹押と衛だ。

「久しぶりだな、衛」

「そうだね、こうして会うのは。……久しぶり、鷹押」

 張りつめたら切れる糸を双方で手繰っているような感覚を、二人が密かに共有している。

「蓮香も来ると知っているだろう。なぜ、来た」

「……、あのときと同じ三学年生だ。逃げるわけにはいかない」

 野原や知泉と話している子欄のほうを瞥て、衛が鷹押に言った。「がむしゃらに目的を探して、がむしゃらに(どう)を歩んで、今、心に少し余裕ができた。彼女もそうだろう。と、思う」

「……慎重にな」

「鷹押は変らず慎重なんだね」

「お前達曰く、口下手なだけだ」

「却ってよかった。堅実さを、ぼくはいつも鷹押から学んでた。どっしり構えて、ブレない。そんな男らしさを──」

「……そうか」

 どこか満足そうにうなづいた鷹押が、音羅の横にやってきた。

「竹神音羅。暇か」

「手持無沙汰ですね。蓮香さんが来れば行先の相談ができるんですが」

「行先か。衛」

 鷹押が衛を向き、「お前は誰と回るつもりで来た」

「ぼくは、──、蓮香と行こうと思ってるよ」

「星川しゃんは菱餅しゃんと知合いだったんでしゅか」

「鷹押とぼく、蓮香、ついでに虎押も、幼馴染だからね」

「オレはついでかよ、衛(にい)

「ごめん、ごめん。それはそうと、君達は誰と回るか決めたかな。全員で回るのも悪くないけど、どうせだから何組かに分れて親睦を深めるのもいいんじゃないかと思うよ」

 衛の提案にみんなが目配せする。

 口を切ったのは野原である。

「あたしは此方先輩と行くわ。この方向音痴をほっといたらどこ行くか判ったもんじゃねー」

「同感でしゅ。しょれに発起人でしゅからね。わたしも此方しゃんと行きましゅ」

「自然、わたしは野原花さんと竹神納月さんの案内で行くことになるわね」

 野原、納月、翼──それから翼の肩に載ったワタネ──が固まった。「わたしの提案で集まってもらった祭だけれど、みんな自由に組んでくれていいわ」

「じゃ〜」

 と、知泉が寄ったのは、「虎押君と行く〜」

「え、オレっ?なんで」

「女子慣れしたほうが将来のためにいいから慣れさせようと思う〜」

「いや、いや、なんで知泉がオレに免疫つけるんだ?」

「純粋に心配」

「キメ顔でいうな……」

「それともあたしだと女を感じない〜」

「そうはいっていないが」

「だったらいい勉強と思って。子欄さんもどう〜」

「わたしは特に決まってませんでしたし、そうですね」

「じゃ『免疫組』で。虎押君も、さあ、さあ」

 オーバーオールの知泉が子欄を引きつれ、妙に色気を漂わせて虎押を壁ドンした。「はい、決めて〜」

「断れない雰囲気を出していうなよ。いいよ、一緒に行こう。ほかの面子は加わらないか?」

 虎押が音羅に視線で助けを求めたが、鷹押が視線を遮るように音羅の前に立った。

「竹神音羅。余りで悪いが、オレと一緒でいいか」

「わたしでよければ。虎押さん、ごめんね。しーちゃんをよろしくね」

「あ、ああ、オレは五人でもいいんだけどな……」

 「それじゃ意味なくないー」と、言うでもないが知泉が見つめているので、状況に承諾せざるを得ない虎押である。

「兄貴のこと頼んだぜ」

「うん。どちらかというとわたしのほうが迷惑を掛けちゃいそうだけれど」

「心配要らない」

 鷹押が頼もしげに、「祭は久久だが、地図は頭に入っている」

「(鷹押さん、愉しみにしていたのかな。)では、案内、お願いします」

「任せてくれ」

「ピィッ」

「ふふっ、よかったね、プウちゃん」

 鷹押に跳び移ったプウが頭を撫でられてから音羅の頭に戻ってきた。部活でも授業でもよく世話になる鷹押にいつからかプウが懐いているので、いい組かも知れない。

 「納月、翼、ワタネ、野原」の組、「子欄、知泉、虎押」の組、「音羅、プウ、鷹押」の組が固まり、衛が蓮香と行くことに決まった。翼の思い出作りのためにと集まったが、翼の勧めもあるので帰る前の集合時刻を決めて、各組で祭を回ることとなった。

 納月の組とプラットホームを観て、走り抜ける列車の風を感じたあと、鷹押と二人で漫才を鑑賞した音羅は、芸人が入れ代わるあいだに口を開いた。

「蓮香さん、来ると思いますか」

「来るだろう。愉しみにしていたようだからな」

 鷹押はそう言うが。

「……鷹押さんと衛さんの話を聞いていたんです」

「小声で話していたつもりだった」

「耳がよくて、……よくないですね、盗み聞きです。ごめんなさい」

 耳がいいのが本当でも謝るべきことは謝るべきだ。

 鷹押が寛容に応ずる。

「いい。聞かれて困ることでもない。衛も覚悟を決めたようだ」

「蓮香さんと何かあったんですね」

 新たな芸人の漫才が始まり、プウと観客が沸く中、鷹押が語った。

「衛と蓮香は中等部当時、剣道部で腕を磨いた。どちらも大会で成績を残すほどの実力者だった。昔から二人は競うようにして腕を上げていたが、剣道部での競争は苛烈だった。二人の実力ならば当り前といえたが、鬼気迫る打ち合いは周囲の者が近づけないほどだった。オレもその一人だ」

 現在の蓮香も格闘部部長として凄まじい勢いで稽古をしており、一学年生はほとんどが近づけもしない。

「周りの感覚は、そうして麻痺していった。三学年に進級してから、二人の打ち合いは極まって、木刀が何本も折れていた。誰も止めなかった。鬼気迫る打ち合いが当り前になっていた。そして、事故が起きた」

「事故──」

「衛の木刀が、蓮香の籠手を打ち破った。運の悪いことに、同時に衛の木刀が折れ、蓮香の両腕を傷つけた」

「……」

「蓮香は今でこそ拳を握れるまでに回復したが、両手が全く動かないほどの重傷だった。剣道部はやめるほかなかった。衛もまた、責任を感じてやめた。それからだ。衛も、蓮香も、距離を置くようになった。高等部に上がってから蓮香には後遺症があると判明した。完全には、治らないらしい」

 ……そうか。だから──。

 蓮香はいつも両手に包帯を巻いていた。格闘で指を痛めると普通科での勉学に差し支えるからだと音羅は聞いた。しかしそれ以前には古傷があるのだとも聞いた。包帯は、生生しい傷痕を隠すための目隠し。傷痕を見られれば後遺症のことを、ひいては衛との過去を話さざるを得ない。蓮香に取って傷痕は、衛との関係であり、触れられたくない事柄の鍵だったのだ。

 漫才が落ちを取り、芸人が再び入れ代わる。

 音羅は、思い出したことがある。

「武術交流会の日、蓮香さんに連れられて弓道部の試合を観ました」

 あのとき、子欄と決勝を競っていたのは衛にほかならない。その衛を見つめていた蓮香を、音羅は憶えている。

 鷹押が驚いた様子である。

「本当か。蓮香が率先して」

「蓮香さんは、あの頃からきっと前に踏み出しています。もしかしたらもっと前から心の準備を進めていたのかも。お祭に衛さんが来ることを知っても誘いを断らなかったのは、きっと、もう一歩踏み出すためでしょう」

「過去から、逃げないために」

「はい」

 音羅は第三田創の蓮香しか知らなかった。それでも彼女の強さを知っている。

「蓮香さん、いつも前向きに戦っています。衛さんともきっと向き合えます」

「──。そうだな」

 鷹押が音羅を視る。「お前は本当にすごいな」

「え」

 漫才と笑声。絶え間ない賑わい。音羅は鷹押と見つめ合っていた。いつも逸れていた鷹押の視線が、いつになく真剣に向かってきた。

「オレは無用な心配をしてしまう。蓮香が衛と鉢合せしないようにしたこともあった。竹神音羅は違うんだな。蓮香を信じている」

「変ですか。鷹押さんが蓮香さんを見守ってきたように、普通のことだと思います」

「そうか……」

「はい」

 音羅は微笑む。「鷹押さんは頼り甲斐があります。蓮香さん、手の自由が利かなくて苦労していると思うんですが、鷹押さんがいて頼もしかったと思います」

「……、そうだな。そう思うことにしよう。前向きが一番だ」

 漫才が落ちを取って、演目はコントに移った。駅南口は賑わいが絶えない。

 

 

「気を遣っただろう」

「バレてたー」

「尾行しているからな」

「それもそっか〜」

「子欄も呆れて早早にどこかへ行ってしまったな」

 知泉ココアは雛菊虎押と並んで、竹神音羅と雛菊鷹押を窺っていた。尾行を始めてすぐに竹神子欄は「覗きの趣味はないので失礼します」と別れていた。

「呆れたふうに見せかけて、子欄さんは単独行動したかったんだ〜」

「そういうことだったのか?」

「女子の言葉をそのまま受け取っちゃうのはどうなのー。あたしも引き止めなかったでしょ。子欄さん、たぶん断りづらくて来ただけじゃない〜」

「えっ、そんな状況だったのか。全く解らなかった……」

「この機に子欄さんとも仲良くなれないかな、と、思ってたから少し残念ではあるー」

「それもそのまま受け取ったらアホなのか?」

「今のは本音〜。解らない〜」

「解らなかった……」

 理解が追いつかないか、雛菊虎押が首を傾げてしばらくして、「漫画だけかと思っていた」

「なんのこと〜」

「いや、女は色恋に関心が高いんだなぁってさ。オレだけだったら尾行はしなかった」

 尾行は知泉ココアの提案で決行している。竹神子欄の単独行動は聞き入れたが、雛菊虎押に拒否権を与えない。

「お兄さん、音羅さんと何を話してるんだろうね〜」

「声、声、声で全然聞こえないな」

 駅南口の小会場は大盛況ゆえの大混雑。竹神音羅と雛菊鷹押の斜め後方数メートルの位置に知泉ココア達は潜んでいる。混雑しているとは言っても距離を詰めたらバレるだろう。

「知泉は兄貴を応援してくれているのか。それとも音羅か」

「どっちも。と、いっても、音羅さんは気があるか全然判らないよー」

「兄貴が音羅を気にしているのは判ったのか」

「いっつも音羅さんのこと視ているから。かと思えば、音羅さんが目を向けてるとめったに目を向けないからお兄さん可愛い〜、照れ屋さんだ〜」

「兄貴は図体がデカくて大概恐がられている。そんなふうにいってくれる女子は少ないから新鮮な気分だよ」

「中身が判れば男子なんて恐くないよ。お兄さんも結構な子ども、子ども〜」

 知泉ココアは雛菊鷹押の格闘の腕を認め、副部長としても先輩としても信頼しているが、それはそれ、これはこれである。

「音羅も兄貴を恐がらなかったっけ。兄貴、それで気になったのかと思うけど、音羅のほうは脈がないのかうまくスルーしているのか判断できないな」

「全く脈がないか、男として観てないか、恋愛感情が芽生える歳じゃないか」

「なんか報われなさそうなんだが」

「音羅さん結構感情的だから、プウちゃんにつられて懐いたり、お兄さんの必死な姿とか観たら好きになっちゃうかも」

「共感か。理屈は解らないでもないけどそういうものか。でも待て、兄貴は必死な顔なんてしないぞ。鉄仮面とは違うけどほとんど感情を面に出さないから希望が薄いんじゃ……」

 などと話しているうちに、雛菊鷹押と竹神音羅が見つめ合う。二つ三つやり取りがあったようだが、何十秒か見つめ合って、竹神音羅が微笑んだ。

「いい雰囲気〜」

「そうか。なんか面白いこと、を、兄貴がいう姿は全く想像つかない」

「でしょ〜」

「仲いいのかな、二人。ちょっと意外だ」

「凸凹カップルなんていまどき希しくないって〜。よかった、よかった〜」

 知泉ココアは雛菊虎押の腕を取る。「さて、あたし達もどっか行こっ」

「え、尾行はどうするんだ」

「もー、野暮だな虎押くーん」

「言い出しっぺがいうことか」

 呆れた虎押を引き摺るようにして知泉は歩き出した。

「いったでしょう、虎押君の免疫を鍛えてあげる〜」

「い。それ、本気だったのか。尾行の口実だと思っていた」

 雛菊虎押の頰に擦り寄った知泉ココアはわずか上目遣いで呟く。

「明日は二人きりで来ちゃおっか」

「っ……、な、ほ、本気かよ……」

「どうでしょ〜」

 知泉ココアは屈託なく笑った。

「お、おまっ、からかうなよっ」

「だって免疫つけるためなんだから色っぽく誘わないと意味な〜いよ」

「そりゃそうだけど。って、そうでもなかったケドさっ!」

「っはは〜っ、本音漏れたー、かぁわい〜」

「あぁもうっ、魔性か、魔性なのかっ」

 翻弄されている雛菊虎押。そんな彼をからかいつつ、知泉ココアは祭を愉しむ。

 ……あっちもうまくいくといいな。

 

 

 プラットホーム。列車が通り抜けると涼しいそこで、納月は電光掲示板を見上げた。

「これが本物でしゅか」

「そんなに希しいもんでもねーだろ」

「年齢的にはまだ赤ちゃんだもの。知的好奇心はわたし達より旺盛よ」

「むぅむぅ」

 野原花、此方翼、ワタネが納月の横について電光掲示板を見上げる。

「まあ、希しくもないから逆に観たりしないな」

「改めて観てみると以前より明るさが上がったわね」

「新しい魔導技術が使われてるんでしゅよ」

「そういうの詳しいのか」

「教育テレビなんかを観て知識を仕入れてましゅし、自習もしましゅからね。上辺くらいは知ってるかと」

 電光掲示板から横に目を向けると、線路直上に架線が伸びている。それを眺めて此方翼がやはり唐突に話題を提供する。

「相末防衛機構開発所が最新の駆動機関を製作しているともっぱらの評判ね。先進的であるのは勿論、革命的だとも報道されていたわ」

「駆動機関ってなんだっけ」

 無魔力であり魔導についてほとんど学んでいないという野原花が知らないのは無理もない。

「駆動機関というのは、魔導機構や魔導具といった機械を起動させるもの、科学的なものに置き換えるならエンジンみたいなものね。魔導機構等による魔法的現象すなわち魔導を発動するために必要で、これの開発が進むということは全ての魔導のクオリティが上がることを意味するわ」

「なんとなくすげぇのは判ったけど、具体的に何がすげぇの。あたしらの生活がなんか変わるレベルなのか」

「変わるわね。例えば学園でも使っている洗濯機や空調設備。あれらの起動速度が上がる」

「どんくらい」

「参考データによれば約一・三倍よ」

「そんだけ」

「時間短縮は大事よ。生活に余裕が出る」

「時間が大事なのは同意するけど、起動に一時間掛かるって話でもねぇ。一・三倍になったところで数秒の差だろうし、革命的って割にセコイ時短だな」

 洗濯機や空調設備などの家電製品はそう、起動に数秒しか掛からない。が。

 納月は架線より上、ちらほらと雲の漂う空を仰いだ。

「戦争に転用されたらひどいもんでしゅよ」

「ミサイルとかか」

「魔導の名を冠するあらゆる兵器ね。いいえ、それより、それらを制御する魔導コンソールの稼働率が高まること、操作性が高まることが大きいわ。送られる操作情報が大量になり、大量の兵器が短時間に遠隔操作できるようになる。その一つ一つに一・三倍の時短係数が加わることになる」

「加速度的に兵器が射出しゃれるようになりましゅから、時代遅れの魔導コンソールを使っている国は必然的に押し負けるということでしゅよ」

「難しい計算は知らねぇけど解った。格闘に例えりゃ、手数で相手の守りを崩せるってことだな。しかも威力は相手と同等、常に一〇〇%で落ちもしねぇと」

「野原花さんには勉強になったかしらね」

「ああ、有魔力は碌でもないってことが一層解ったぜ。あ、でも解んねぇ」

「何がでしゅ」

 野原花の疑問は、空での戦いである。

「ほら、漫画とかアニメとかで観たんだけどよ──」

「ネットカフェでしゅね」

「わ、悪ぃかよ、観たら」

 貧民の野原花は、年齢相応に触れてこられなかったものなのだろう。

「愉しむものはみんな自由でしゅよ。で、その漫画やアニメで観たものとはなんでしゅ」

「ああいうのって、ロボとか戦闘機とか出てくるだろ。変形ロボなんかはあたしらみたいに格闘できたりするじゃん。あれが空でできりゃ、少しくらい数で負けても対応力次第でなんとかなんじゃねーかなぁ、と、思って」

「格闘経験豊富な野原花さんらしい意見ね」

「駆動機関とやらが劣ってても操縦士の腕や人間の知恵なんかでなんとかなるだろ」

 レーダなども活用して先を読んで戦えば、着弾前のミサイルを空域で広く迎撃できるという発想と提案だ。野原花の意見はじつに彼女らしく、また、無魔力らしい無知でもあった。それを、此方翼がやや演技掛かった節回しで指摘する。

「この世に張り巡らされしは()も知らぬ未知なる呪いなり。だから無理なのよ」

「は、はぁ、呪い。なんだそりゃ」

 知らなければ納月も同じ反応をしただろう。此方翼もいうように、世界には呪いが掛かったかのような現実がある。

「〈世の(よ )呪い(のろ  )〉といわれてるヤツでしゅよ。有人飛行物体は必ず落ちるんでしゅ」

「落ちる。墜落するってことか」

 そう。無人機は昔も今も飛んでいるし、ミサイルなども無人であるから飛んでいる。ところが、そこにひとが搭乗すると、それまでうまく飛んでいた飛行機も呪いに掛かったかのように墜落する。ここダゼダダや魔法大国であるレフュラルのみならず、軍事に力を注ぐテラノアも自国の技術で何度も実験を行った結果、「有人飛行物体は墜落する」と、いう結論に至った。

「ここからは眉唾な神話の話だけれど、世界を創造した神は大地を司る存在だったそうよ。その神が『ひとを大地に縛りつける呪いを掛けた』と魔法界が公言しているわね」

「あんたが眉唾っつー時点で怪しさしかねぇのに、輪を掛けて胡散くささしかねぇな」

「でも事実として墜落してるから未だに有人飛行物体がないんじゃないでしゅかね。野原しゃんがいうようなロボなんかがあれば恐らく各国が秘密兵器として開発しましゅが、ロボにしても飛行できないんじゃ魔法の的でしゅから開発しましぇん」

「う〜ん、なるほどな。呪いかぁ。あぁでも、なんっか胡散くせぇ」

「まあ、そうね、実際に墜落現場を観たのでもないものね」

「その点の胡散くささは同意でしゅ」

「むぅむぅ〜……」

 携帯端末が普及して動画撮影を個人で愉しめるようになってきたご時世だ。有人飛行実験があれば墜落時の映像データが流出──したらゆけないのだろうが──しそうなものだ。そんな流出映像やフェイク的なものすら出てこないので、呪いの一言で信ずるのは難しい。各国が有人飛行物体を動かしていないという現実を傍証とするほかないのが現状である。

 どこからともなくやってきた鳥の群れが空を横切ってゆく。自然生物はああして空を飛べるというのに、ひとは飛ぶことが許されないとはまさしく呪いのようだ。と、納月達は感慨に耽るように空を仰いだ。と、

 ヒューッ!

 列車が駆け抜けていった。

「プラットホームで飛行物体の話って、脱線通り越して飛躍だな。喉渇いてきた」

「買うわ。何がいいかしら」

「むむぅ〜」

「こっちでしゅよ」

 此方翼があらぬ方向へ歩み出したので、納月達は自動販売機へ誘導した。此方翼の奢りで飲物を調達し、並んで飲み干すと改めてホームを観て回って高架を下りた。

「ちょっとスーパ行っていいか。歯磨き粉ぉ切らしてんだ。忘れねぇうちに買っときたい」

「わたしはいいわよ」

「わたしもOKでしゅ」

 駅北口へ出て、歩道のひとの流れに乗って西へ向かう。車両通行止めになった区画で営業を始めた露店が増えたからか、来たときよりずっと人通りの多い歩道である。一人になったら確実に迷子になる此方翼の手を握って、納月と野原花は歩いた。ワタネは此方翼の肩の上にいて列車の風にも飛ばされないので問題ないだろうが、念のため納月は指先で押さえて移動していた。

「ありがとうね、二人とも。感謝するわ」

「改まってどうしたんでしゅ」

「だな。あたしが園芸部にいたときよりすんなり案内を委ねてる分、成長したとは思うけど」

「成長。そうね、成長したわ。わたしは迷いやすい。いい加減自覚しなければね」

「やっとかよ」

「やっとでしゅか」

 溜息が重なった。

「自覚したなら、もっと素早く竹神を頼れよ」

「しょうでしゅよ。真横の自販機も見失うような方向感覚には愕然でしゅから」

「そうね。でも、いつまでも頼れないでしょう」

 感傷的だ。「こういう人込みの中にいると強く感じるわ。あなた達のような仲間がいてくれることの心強さを。来年にはそれを失うことも」

「此方しゃん……」

 卒業は成長の証であり、新たな生活へ踏み出す第一歩でもあるから、本来は祝うべきことであろう。道に迷うことを自覚したなら自分の頼りない方向感覚で歩んでゆくことに不安を覚えないはずはなく、卒業という一つのラインを前向きに受け止められないのも仕方ない。遅らせようと思って遅らせられるものではなく、確実に迫ってくるものだから余計に不安だろう。

「失う、ね……」

 野原花が呟いた。

 此方翼の不安を、野原花も感じないわけではないだろう。

 ……わたしなら、どうするでしょうね。

 方向音痴の想定はできないので、飽くまで不安を抱えているという点での想像だが、此方翼はもとより姉音羅や妹子欄がいないところで生活してゆくことの不安感は生半可ではない。学園にいるあいだだけなら堪えられている両親のいない状況も、姉妹や此方翼、仲間がいてこそ成り立っていて、精神的に支えられている部分が大きい。支えが一切なくなったらどうなる。

 ……わたし一人じゃ、とても、穏やかではいられませんね。

 此方翼がいるから今はツッコみながら愉しく過ごせている部活の時間。一人きりになったら喫茶店で相談する相手もなく、非正規部員と一人で向き合って問題解決せねばならない。常に正しい選択肢を選べるかどうかも不安だが、正しい選択肢を選ぶまでに、弱っている非正規部員の心を支えつつ問題解決の糸口を探る胆力が足りなくなりそうだ。間違った選択肢を選び、非正規部員に取ってマイナスの状況を招こうものならその時点で逃げ出すことになってしまうだろう。そんな想像ができてしまうくらいに、納月は弱い。

 ……此方さんがそんなふうに自分を思っているなら、どうすればいいんでしょう。

 ずっと一緒にいることができないなら、卒業後の此方翼には何もしてあげられない。納月はそう思えてしまった。

 野原花も同じように考えたのか、途中までは納月と閉口を同じくした。が、人込みを縫うようにして歩く中、此方翼のように唐突に野原花が言った。

「ありがとな」

 と。先頭の野原花は、前だけを見て歩いてゆく。背中を向けていた彼女の言葉であるから聞き間違えかとも思ったが、殿の納月は此方翼と目を合わせ、捉えた声を本物と認識した。

「急にどうしたんでしゅか」

「悪いものでも食べた」

「お前ら、素直に受け取れよ……」

「あ、わたしにも向けられてた言葉だったんでしゅね」

「そうだよ。ま、脈絡もなかったし、あたしらしくねーのも認めるよ」

 羞恥心の覗いた野原花の声。「あんたらのお蔭もあって復帰できたと思ってる。代替単位がなかったらとっくに退学になってただろうし、それだってあたしが園芸部なんて不似合な場所で取らなきゃならなくて……内心不安だった。園芸部は園芸部っぽくなくて、知識なくても受け入れられて気楽だったからさ、いわなかったけど、ホントは、すげぇ助かったんだ」

 ……野原さん。

「言おう、言おう、と、思ってて、でもこの三人になること少なかったし、勇気も……、言えなくてさ」

 此方翼も口を閉じて聞いている。

「こういうのって、『失う』なんてこと、たぶんねぇよ。中等部んときに有魔力のヤツらにバカにされてさ、結構、陰湿なこともされて、そういうことされてる無魔力のヤツを何人も観てきてて──、最初はあんたらもそうなんだろうって思ってた。けど、違ったな。有魔力に感じてた違和感みたいな、矛盾みたいなのが、違った……。だから、礼くらい、ちゃんと言っときたかったんだ。それが、格闘やってるもんとしての心構えだと思った」

 野原花が少し振り向いて、「ありがとな、……納月、翼先輩」

 どこかそっけない彼女の、精一杯の感謝が滲む横顔。

 納月は、じ〜んと胸が熱くなって、気づけば野原花の腕に飛びついていた。

「なっ、なんだよっ」

「むっふふふ、嬉しくって」

「っ、そ、そう……、って、先輩までっ」

 此方翼が野原花の空いた左腕に腕を絡ませていた。

「あなたのいいたいこと、伝わってきたわ」

「そ、そうかよ」

「わたしは道に迷うけれど、そのときは野原花さんや竹神納月さん達と過ごした思い出を振り返ればいいということよね」

「つらつらといわれるとアレなんだけど、まあ、そういうことだよ」

 野原花が咳払いして、「人間関係、嫌なことが多すぎて忘れらんねぇ。だけどさ、いいことだって忘れたりするもんじゃねぇと思うからさ」

「そうね」

 と、此方翼が相槌を打った後ろで、納月もうなづいた。

 ……失わないもの。

 近くにいないからといって、それまで築いてきた関係がなくなるわけではない。そんな当り前のことに、納月は気づけなかった。普段は意識の外に不安を追いやることができていたからだろう。いつも不安なのだ。両親や姉妹、仲間に支えてもらえなければ、自分に何ができるだろうか、と。自分の能力を活かして人生という荒波に立ち向かうにしても、その能力がどこまで有効かは自分という小舟が沈むまで判らないかも知れない。沈んだあとでは遅いから、不安で、恐くなる。だから余計に、浮力を与えてくれる今の支えを欲してしまう。その支えは、野原花がいうように、よくよく振り返ればしっかり生きていて、その場に本人がいなくても励みになったりするもの。溺れたって浮力を与えてくれるものに違いないだろう。

「野原しゃん、いいこといいましゅねぇ」

「んだよ、悪ぃか。ってか、いつまでこうしてるつもりだよ」

 ツンとした野原花だが、納月も此方翼も離れない。

「両手に華ね、野原花さん」

「あたしゃそっちの属性と思われてんのか」

「嫌なんでしゅか」

「嫌なのかしら」

「……別に。嫌じゃねーけど」

 空を仰ぐ野原花の頰が少し赤い。

「あ〜、野原しゃんが照れてましゅっ、可愛いでしゅね〜」

「なっ、こんのヤローっ、屋台でも見てやがれっ」

「可愛いところもあるのね。感動したわ」

「むぅむぅ〜」

「ぐっ、……いわなきゃよかった、くそぅ」

 項垂れる野原花。俯いても口許が緩んでいる。飾らない笑みは可愛らしく、心の開放感が顕れていた。いつか此方翼と話した余裕のなさがそこには感ぜられず、今は逆に満ち足りているよう。野原花は此方翼のことを想って自分のことを切り出したようだが、それも彼女の心に余裕があるからこそだ。

 ……よかった。本当に。

 此方翼が不足感を口にしていただけに、野原花の心に十分尽くせていたことが納月は嬉しく涙腺が緩んだ。いつもは無表情の此方翼も、

「いい思い出ができたわ」

 このときばかりは野原花と一緒に笑みを浮かべて愉しそうだった。

 ……わたしに取っても、きっと、この思い出は浮力になります。

 溺れたときは思い出そう。築いてきた仲間との関係を。

 

 

 眠ると、あの日の出来事が、闇の中から蘇る。

 ──早く養護教諭!救急隊も呼べ!

 ──衛!ぼさっとせず養護教諭を呼んでこい!

 ──ぼ、ぼくは、──はい……。

 ──わたし、救急隊に連絡します!

 ──頼む!

 ──蓮香先輩!しっかりして!

 ──蓮香ッ!気をしっかり!

 ──衛のヤツ、なんてことを……。

 ──手加減しろって何回も……。

 目を閉じていたからか、一人一人の焦燥した声がやたら鮮明に再生される。剣道場の畳を踏み鳴らして部員や顧問が駆け寄る音。携帯端末を開いてキーを押す電子音。数多くの息遣い。普段効果音や雑音として耳を通り抜けてゆくものが全て記憶として残っているようだった。鮮烈だ。思い出したくないのに、何度も何度も、ゾンビのように起き上がってくる。

 目覚めた菱餅蓮香は、過剰に重力を感ずる体を起こし、雨に撃たれたような衣類を脱いでシャワを浴び、私服に着替えた。それらをするのも苦労が多い。初等部時代に作った不細工な工作物のように指の付け根からがくがくと動く指は繊細さに欠ける。怪我は治ったはずなのに腕全体の節節に痛みを感ずる。脳の誤作動と医者が言っていた。一生治らないだろうとも。シャワーヘッドを取るのも、蛇口を捻るのも、タオルを握るのも、ホックを掛けるのも、ファスナを上げ下げするのも、ボタンを掛けるのも、小さなときより難しくなった。感覚に欠ける指先ではまるで他人がやっているかのようで不気味にも思える。それでも、終わってしまえば些少(さしょう)の達成感とともに自分のできることを確認できる。包帯を巻けば爛れた傷痕が隠れて心が幾分軽くなる。

 ……諦めるには、まだまだ早い。

 体が全く動かなくなってしまった者が戦時たくさんいたと歴史にある。軍隊のあらゆる攻撃に曝されて無辜の民も被害に遭い、生存した者の多くが不自由な体を、心の傷を、不条理を、強いられた。

 菱餅蓮香の怪我は慢心の報い。諦めは、生の敗北宣言だ。挫けて投げ出すのは学びの否定。武芸は凶器にあらず、築くは寛容の礎。己の強さと弱さを知ってでき得る限りを尽くす心と、他者のでき得る行いを認める心を養う。

「行こう……」

 カーテンを開けると昼としては柔らかな光。

 集合場所である駅北口に向かった菱餅蓮香は、一つの影に足が竦んだ。心を決して訪れたが、反射的に選択を拒絶しようとしてしまう。三年間、そうして彼と距離を置いてきたのだった。

 星川衛。菱餅蓮香の両手を不自由にした、稽古試合の相手──。

 ……星川……。

 菱餅蓮香は星川衛を怨んでいない。それどころか菱餅蓮香は己の慢心を怨んでいる。星川衛が剣の道を離れたのは菱餅蓮香の怪我に責任を感じてのことであり、試合で付き物の相手の怪我に過敏となってしまった。菱餅蓮香はそう推察し、星川衛に申し訳なく思っている。それだけなら距離を置くことはなかったかも知れないが、菱餅蓮香には距離を置かねばならない事情がいくつもあった。星川衛と一緒にいてはならない、と、自分に言い聞かせてきた。

 集合時刻だ。引き伸ばせない。

 星川衛は菱餅蓮香の存在に気づいている。近づけずにいる菱餅蓮香の気を察してか、その場から見つめている。

 菱餅蓮香は見つめ返すだけでなかなか動けなかったが、遠目に観ることしかできなかった武術交流会の日に比べれば踏み込んだもの。

 熱い風が何度か吹き抜けて、草木が揺れた。

 菱餅蓮香は、額の汗をハンカチで拭って、側壁の陰に入っている星川衛に、少しずつ、ゆっくり、歩み寄った。

「……、……来てくれたんだ」

 およそ三年ぶりの待合せ。口を開けば言葉が本心を浮き彫りにした。星川衛が来てくれないのではないか、と、菱餅蓮香は本当はひどく恐れていた。来てくれたのだと判って、それだけで胸が詰まるほど嬉しかった。

「……、蓮香、久しぶり。部長になったって、四月に聞いたよ」

「鷹押から、よね。……」

「それまでも頑張って、今も、すごく努力しているんだろうね」

「まあ、ね、それなりに、頑張ってるよ」

 心の探り合いなんかではない。距離の探り合いでもない。闇の中で剝き出しの心を傷つけまいと互いが互いの声を確認するようにして、ぎこちなかった。

「……」

「……」

「みんなは、来たの」

「何組かのグループに分かれて祭を愉しんでるよ。ぼくは、……蓮香を待ってた」

 菱餅蓮香は、疼く傷痕を押さえた。

「あたしを。どうして……。ほかのひとと、子欄さんなんかと回ってもよかったんじゃない」

 当たるような言回しになってしまった。口にしたことは戻せない。

 かつての星川衛なら臆しただろう。

「ぼくは蓮香と一緒に回ろうと思って来たんだ」

 星川衛が肩幅踏み出した。「君もそうだと思ってる。ぼくが来ることを知っても来ないとは言わなかったんだろう。だったら、……一緒に回ってくれると思った」

 誰かのようにどっしりとはいかない。星川衛はそれほど胆力のあるひとではない。が、覚悟を決めてここに来た。菱餅蓮香と同じように。

 ……あたしと、一緒に。

 菱餅蓮香は、包帯の下の疼きを怺えて、小さくうなづいた。

「行こ、星川。あたし、ついてくから」

「……うん。じゃあ、行こう」

 星川衛がトンネルの中を歩いてゆく。菱餅蓮香は、宣言通り後ろをついていった。

 幼い頃のこと。故郷の長良町では菱餅蓮香が星川衛と雛菊鷹押、それに雛菊虎押を引っ張り回して遊んでいた。菱餅蓮香が突き進むところには、嫌と言いながらもみんながついてきた。急流の中にも、深い山の中にも、立入禁止の札が立てられた謎のフェンスの奥だって、みんな一緒だった。

 その頃の自分の背中を今の星川衛に重ねて、菱餅蓮香は少しだけ彼らの気持を知った。

 ……頼もしかったんだろうな。

 菱餅蓮香はそんなことを考えもしないで、むちゃをしてばかりだった。怪我をすることは日常茶飯事。毎日、星川衛の母に叱られた。

 ──またあなたなの。いい加減、危ない遊びはよしなさい!

 トンネルはホームに繫がっている。初めて田創町に訪れたとき、ここを一人で通った菱餅蓮香がいた。星川衛もここを通ったのだろうと感慨に浸ることもなく通り抜けた無心。今は、全く異なる心境だ。星川衛と二人で、それも彼の背を追うようにして歩いている。

 ……こういう日を、待っていたんだろうけどな。

 菱餅蓮香の理想と明らかに違う。……手を、取ってもらえない。

 中等部時代、剣道の練習試合を率先して持ちかけたのは菱餅蓮香だった。進学するに当たって、もっとスキルアップしたいと言った星川衛を応援したくて、試合を申し込んだ。

 両親が亡くなって貧乏だった菱餅蓮香は、それまでの練習や試合で籠手が傷んでいたことを知っていた。買い替える予算は()()()()()()が頼りきりになりたくなかった。

 事故が起きた。

 最悪の事態だった。

 目を開けることができなかった。星川衛の顔を見ることができなかった。きっと涙を浮かべているだろう彼の顔を見ることなど。

 それまでのどんな怪我よりその怪我は痛かった。折れた木刀が突き刺さり、止め処なく血が溢れた。頭の中がふわふわして意識が遠退いていった。気味の悪い感覚が腕から下を覆ってゆくのをいやにはっきりと憶えている。

 意識が途絶えそうな、気味の悪いその感覚は、罰だろうか。傷痕のある手は差し出せない。

 高等部に上がって、まったく話したことがないわけでもなかった。同じ学園、同じ学年だ。廊下で擦れ違うことはしょっちゅうで、ときに声を掛け合ったりしたが、数メートルの擦れ違いで済む挨拶や世間話が限界だった。

 そんな関係が、溝が、罰が、今日だけで変わるなんて思っていないが、菱餅蓮香は言えることを言おうと決めて来た。合流して星川衛の顔を直接観て感じたのは、自分と同じように覚悟を持っている。

 駅南口に出るとロータリを封鎖して行われているコントショーを遠目にした。賑わう場が、二人の固い空気をちょっぴりほぐしたようだった。

「昔はよく、ぼくの家でお笑い番組を観たりしたね」

「……そうだったね。飽きもしないで、〈ヤチョウ〉のお決りのコントを観てた。星川は『跳んだだけで地面が揺れるわけない』ってよく批判してたっけ」

「あの頃はそういう遊び心が全く解らなかったよ。あるわけないこと、全部否定してた、捻くれた子どもだったと思うよ」

「論理的だったといえなくもないよ。あたしはその辺、苦労したかも。感情だけで突っ走ってみんなに迷惑掛けてた」

 コントにわはははっ、と、沸く小会場。

「おかしくなったのは、初等部五学年のときからだったんだと思う」

 と、星川衛が言うので、菱餅蓮香はどきっとした。初等部五学年──、その頃、菱餅蓮香は両親を失い、以前から付合いのあった星川衛の家の居候のようにして暮らし始めた。施設に預けられそうになっていた菱餅蓮香を星川衛の父星川(ほしかわ)(とおる)が引き取ったのだ。戸籍には入っていなかったが、菱餅蓮香は事実上星川家の一員。星川衛が兄弟同然となった。

「父さんが蓮香を引き取らなかったらぼく達はあの頃ばらばらになってた。ただ、そのせいで蓮香は少し変わった」

「無鉄砲さはなくなったかもね。悪いことじゃなかったと今は思う」

「蓮香は無鉄砲な省みずでよかったんだよ、だから籠手を──」

「それはないよ」

 菱餅蓮香は彼の言葉を遮った。「あの籠手は叔父さんからもらったもので、本当なら手に入らなかったものだった。それを当り前のように装備して稽古相手になっていたのが間違いだった。あたしの慢心、報いだったんだよ」

「それこそないよ。蓮香は頑張ってくれてた。ぼくのために、みんなのために、剣の腕を惜しみなく揮ってた。木刀が何本も折れて父さんに買い直してもらってたから比較的消耗の機会が少なかった籠手は遠慮することになって、後回しになって……、壊れるまで使ってしまった。ぼろぼろになっていたのをぼくは気づきながら、君の謙虚さと優しさに甘えてしまった」

 賑わいが耳を擦り抜けて、星川衛の声は菱餅蓮香の心に融け込んだ。

「全部ぼくの責任だった。剣を握れなくなったのは、そのせいだよ」

 剣を握れなくなった。そのことを星川衛の口から聞くのは、これが初めてだった。菱餅蓮香は、胸を締めつけられるような心地でおもむろに俯き、涙腺が緩まないように怺えた。

 ……そっか。

 双方が双方を思いやるあまり、自身の責任を痛感した。剣を置いたも握れぬも表現は違うが同じだ。柄を握る感触には、責任の重さとまっこうから向き合う強さが必要だった。しかしながら二人は幼かった。傷つけた者と傷つけられた者という単純な構図ではなかった。重い責任を感ずることに精一杯で、幼さゆえに真の意味で責任を取れず、自身を怨んで目を逸らすことでしか償い遂せないと思い込んでしまった。

「あたし達、なんだか似てる」

「うん……。それじゃ駄目なのに、嬉しいのは、なんでだろう」

「(約三年……、)溝が埋まった気がするからかも」

「……ぼくは、到底許してもらえないって思ってるけど」

「そんなことない。あたしの慢心で報いだっていうのは、紛れもない本心だから」

「……そう」

 怒涛の笑いを生んでいるコントを、星川衛が深刻な顔で見つめている。「武術交流会の日、ぼくを観に来た」

「っ。それ、誰から」

「背中が見えた気がしたんだ」

「……去り際か」

「やっぱり来たんだ」

「……相変らず」

「鎌を掛けたこと、白状するよ」

「狡賢いな」

 昔のように自然な会話だったといえなくはなかったが、たどたどしさが残っていることに気づかない二人ではない。かつて前を突き進んでいた菱餅蓮香のように、星川衛が口を切った。

「ぼくは、新たな道を見つけた。だからってわけじゃないけど、ぼくはもう逃げない。君から逃げない」

 星川衛の言葉は、告白も同然だった。

 無鉄砲な菱餅蓮香なら悦んで受け入れた。今だって嬉しい。受け入れたい。

「難しいよ」

 と、菱餅蓮香は断った。「逃げるわけじゃない、それに、逃げない。距離を詰めることもできない。溝が埋まっても、壁がある。距離は詰められないんだ」

「……。そうだろうね……、ぼくは飽くまで未成年だ。君を養うことができない」

「養ってもらうつもりはない。あたしは自立する」

 両親を失ってから菱餅蓮香は星川通の経済力に頼ってきた。いつか返済できるようアルバイトをしているが、星川通がいなければ退学になるほどしか稼げていないのが現状で、自立には程遠い。学園生活の時間を仕事に割けば、と、いうほど甘くない。野原花の身の上は、じつは菱餅蓮香の身の上だった。腐るわけにはゆかない。諦めるわけにもゆかない。今できる限りのことをする。不足しているとしても、それが菱餅蓮香の人生だ。

「路頭に迷ってもあたしの責任がいいんだ。星川に全てを背負わせるなんてことしたくない」

「……そういうところは変わらないんだから」

「省みずでごめんね」

「……、それでこそ君だよ」

 星川衛の納得が、菱餅蓮香にはつらかった。

 コントが途中だが、菱餅蓮香は歩き出した。

「別んとこ行こ」

「解った、行こう」

 星川衛が菱餅蓮香の隣についた。「どこへ行こうか。方面的にはメイン会場だね」

パンフ(これ)によれば蚤の市(のみ  いち)があるわね。雑貨でも探そうかな」

「生活感があるね」

「寮で暮らしてたら普通でしょう」

「石鹸とか地味に消耗が激しい」

「そう、そう。それと櫛の歯が折れちゃったから買い直したいわ」

「なるほど。男子寮の箒が随分毛羽立っていたからぼくはそっちを見繕おう」

 世間話は、気軽だ。

 メイン会場のある役場は駅南口から南西へ行ったところ。安全が保証されている場所のはずだが去年テラノア兵団の奇襲を受けたのでその限りではなくなってしまった。

「未来がなくなったらどうする」

 と、雑談のような、そうでないような問掛けを星川衛が。

 菱餅蓮香は広域警察本部署奇襲事件を思い出して答えた。

「あたしは奪われないように対抗する」

「奪ってくる相手を想定してるね」

「現にテラノア兵団がいるし」

「そうだね」

 駅南口に設置された小会場より大きな壇を設けたメイン会場。その脇にある蚤の市を見て歩き、二人は話した。通りや会場の中に警備・案内係の者が等間隔に立っている。広域警察の刑事や八百万神社の関係者、ボランティアなどで警備態勢や来場者のサポートは万全に観える。

「可能性は考慮すべきなんだろうと思う。でも相手が軍隊じゃぼく達の力は微微たるものだ」

「有魔力の星川でもそう思うんだ」

「知ってるよね、ぼくが小心者だって」

「臆しちゃうわけだ」

「そうならないといいきれないし、軍隊は兵器を持ってるから一般人が抗おうと思って簡単に抗えるものでもないと思うんだ」

「現実的というか、考えすぎというか」

「人間同士でも、軍人と一般人は一線を画していると思う。装備以前に、心構えもね」

 身を守ろうとする一般人と、相手を殺すことも視野に入れている軍人。

「そうかもね。あたしは相手の命を奪おうとは思わない。一武芸者だから、それは絶対」

「ぼくも同じだ。軍人じゃないから、命を奪おうだなんて思えない。相手が魔物でもなければ斃そうだなんて考えもつかない」

 たとえ自分が兵器を向けられても、相手の命を奪って助かろうだなんてきっと思えない。全力で抗って逃げようとは思うだろうが。

「あたし達、やっぱり似てるわね」

「子ども時代を一緒に過ごしていたんだ。きっとどこかで繫がってる」

 本当に溝が埋まったかのように懐かしい気分だ。幼い頃、意図せずそうだったように、菱餅蓮香は星川衛の考えていることが手に取るように解った。

「──弓があるわね」

「あ、気づいた」

「じっと見てるからよ」

「いや、意外に立派なものがあるんだなぁって感心してね。野曝しにしておくにはもったいないくらい上質な竹弓だよ。店長さん、ちょっとそれ引かせてくれませんか」

 星川衛が出店者の許可を得て竹弓を握る。「うん、やっぱりいいね。調整していないのに弦の張りもちょうどいいし、よく撓りつつも緩すぎない弓だ。これは矢がよく飛ぶんじゃなかな」

「そんなこと判るんだ」

「これでも弓道部部長。多少は判るよ」

「……頑張ったんだね」

「もっと頑張るよ。目標は遠い」

 竹弓を返した星川衛が、冷やかしの詫びとして少しばかりの代金を出店者に払った。

 別の店へ移動して、菱餅蓮香はどこにでもありそうな櫛を見下ろした。

「まあ、これでいっか」

「一〇〇均みたいなものが」

「それはいっちゃ駄目なヤツ。頭いいのに空気読めないんだからな、星川は」

「あはは、ごめん。それで、その櫛でいいの」

「こだわりがあるわけじゃないし、ちゃんと握れればそれでいいのよ」

 柄が少し太い櫛。菱餅蓮香は握力が弱いので、持ちやすいものがいい。

「お金は──」

「バイト代でどうにでもなるから大丈夫」

「……ごめん」

「……、ほんと、空気読めないんだからなぁ」

「……」

「しんみりしないの」

 櫛を買った菱餅蓮香は星川衛とメイン会場のステージ前にやってきた。マイクを持った司会者がスイッチ一つでルーレットを回し、来場者がルーレットにダートを投げる。ダートが当たった場所に応じて商品がもらえるという来場者参加型の定番イベントだ。

「みんな結構外してるわね」

「距離があって届いてないね。子どもや年輩ばかりのようだから、そりゃ当たらない」

「当てられちゃったらすぐ終わっちゃうし、仕方ないか」

「蓮香は蓮香で情緒のない言い方……。選ばれたらぼくは当ててみせるよ」

「わ、出た、見えっ張り」

 星川衛がぎょっとした。

「見えかな。飛び道具を放つことに自信を持ちたいだけなんだけど」

「自信がある、の、間違いじゃないの」

「例えば矢を中てるのは難しい。だから、弓を引くまでは自信があるけれど、中るかはその日の運次第だ」

「呆れた。仮にも弓道部部長が当たるも八卦当たらぬも八卦みたいな言い草を」

「どんなに優れた弓道家も的を外すことはある。判りきった噓はつけないよ」

 物は言いようだなと菱餅蓮香は思いつつ、星川衛の意見を否定しなかった。格闘試合も、力や技巧に優れたほうが勝つとは限らないからだ。

〔はい、次の挑戦者さんはいますか〜?〕

 と、司会者が来場者に呼びかけたが、手が挙がらない。そこで菱餅蓮香は星川衛の手をぐいっと持ち上げた。

〔はい、元気に手を挙げたそこの美少年!君、上がってきて〜〕

「ちょっ、まさかぼくかっ」

〔そう、そう、君だよ。上がって、上がって〜!〕

「えぇっ、蓮香っ」

「はい、はい、行った、行った。今日最高の運を見せてよ」

「……。仕方ない」

 見えとはいわない彼だが、男子たるもの見えを張ることもときには必要だろう。

 星川衛の男を上げる機会を作った菱餅蓮香であるが、星川衛はダーツがめっきり駄目で三回投げて全部明後日の方向へ飛んでいったのだった。

「あれだったらあたしのほうが上手だったわね」

「まさか一つも当たらないなんて……」

 星川衛が肩を落としてしょんぼりしている。

 ……思ったより、と、いうか、かなり落ち込んでるわ。

 小さい頃、五〇メートル走で菱餅蓮香に負けたときも星川衛はこんな感じだった。

「元気出してよ。たかがイベントじゃないの」

「……それもそうなんだけど、ね」

 次の挑戦者を待つルーレット。星川衛がそこに書かれた文字を見つめた。

「〔九条温泉無料宿泊チケット〕、ほしかった」

「ペアじゃない」

「駄目かな」

「駄目ね」

「……そっか」

「直球すぎや。捻んさい」

「……頑張ったつもりなんだけどね」

 壁を壊して、距離を詰めたい。星川衛のその気持は伝わってきた。落ち込んだのは、気持を伝える手段を一つ逃したからだとも。菱餅蓮香は応えられない。

「この際だから、言っとくわね」

 牽制のつもりで切り出した菱餅蓮香だったが、星川衛が掌で制した。

「解ってるよ。ぼくの父さんに負い目があるから、ぼくと距離を置いてるんだろう、」

「っ」

「そういうの、やめてほしい」

 星川通の経済力、ひいては星川家の財力に、菱餅蓮香は守られていた。壁は気づいたときにはできていて、崩すのが難しいことだけ、判った。

「……空気読みなさいよ」

 と、菱餅蓮香は少し強めに断った。「あたしが悪い。それでいいじゃない」

「『それで』か。ぼくはそんな妥協案を受け入れられない。君の心を犠牲に何かを諦めるなんてできない」

 犠牲は本当に菱餅蓮香の心か。ほかにこそ犠牲がある。お金だけのことではない。お金に換算できないものが犠牲になった──。菱餅蓮香はそう考えてきた。

「……空気読んで。何回いわせる気」

 菱餅蓮香は呟くように言って歩き出した。星川衛が後ろをついてくる。

「どこへ行くんだい」

「ついてこないで」

「ぼくは君と回ると言った。君はぼくについていくって言った」

「気が変わった」

「図星だったから」

「馬鹿なの!」

 駆け出した菱餅蓮香の腕を、星川衛が摑んで引き戻す。菱餅蓮香の鼻先を馬車が駆け抜けていった。

「飛び出したら危ないよ……」

「……、……。ごめん」

 夏の疾風が菱餅蓮香の血潮を一気に冷やしていた。

 星川衛が、菱餅蓮香の腕をそっと放した。

「無事で、よかったよ」

「……なんで」

「なんでって。身の安全が──」

「ううん、今のことじゃなくて」

 菱餅蓮香は、疾風の尾を見送った。「なんであたしなの。あたしじゃなきゃいけない理由は何。いうまでもないけど両親がいない、財産もない下流だよ。上流の星川が選ぶべき相手じゃない」

「どっちが読んでないんだ」

 星川衛が声を少し荒げた。「君のほうが空気読めてないじゃないか。下流とか、上流とか、関係ない。ぼくは、……ぼくは、君が好きってだけ、それだけだ。それしか理由はない、それ以外、何が要るんだ!」

「っ……」

 そんなことは判っている。気持があればどんな苦難も越えられる。格闘だってそうだった。強い気持で鍛錬して、菱餅蓮香は格闘部の部長にまで昇りつめた。これからだってもっと昇ろうとしている。気持さえあればそれはできる。不可能と思ったらそこで終り。

 しかし、可能性を図る一方で恐怖も垣間見えるのだ。

「あたしにはあとがないの。お母さんもお父さんも突然いなくなって、家もなくなって、お金もなくなった。足下に、何もない。未来も見えない。いっつも、宙に浮いてて、不安定な感じなの……。自分の力で未来に動ける気がしないときもあるし、何も摑める気がしないときもある。そんなときに誰かに頼ることの危うさを、察してよ……。恐いの……。今度は、あたし自身が消えてなくなるかも知れないんだから」

「蓮香……、……。そんなことを、思ってたの」

 気づいたときにはできていた壁に、星川衛の手が届いたようだった。

「おかしい」

「ううん、おかしくなんか。君の両親や家のことはぼくも驚くしかなかった、突然だった。当事者の君はぼくが及びもしないくらい唐突に傷ついて……。しっかり心配りできてなかったことは本当に、ごめん……。だからこそ、なおのこと、君の傍にいたい」

 星川衛が菱餅蓮香の前に佇む。「空気を読んでいないんだろうけど、ぼくはぼくのいいたいことをこれからもいうよ」

「……それはあたしも同じだわ」

 菱餅蓮香は心中を吐露する。「不安だわ。星川があたしを選ぶのは、単なる罪滅しかも知れないじゃない」

「……」

「いつでも両手の傷痕を盾にあなたを脅せる。そんなことしないって今は思ってるけど、それができるって思ってるあたしがいる……。可能性の問題。心はいつでも壊れる。簡単に壊れるの。だから不安。星川を脅したくないし、星川が罪滅しのためにあたしを娶るなんて言い出すのも聞きたくない。不安なの、恐いのよ……」

 感覚の欠けた手で、菱餅蓮香は自身の両腕を抱く。「空気読んで、立ち去って」

「昼だよ」

 星川衛は、空気を読まない応答をした。「ぼくは、少なくとも夕方までは君と愉しみたい」

「話、ちゃんと聞いてた」

「聞いてたよ。だからいってる」

「星川が行かないならあたしが帰るからいいわ」

 菱餅蓮香は踵を返したが、星川衛が前を塞いだ。

「みんなに挨拶もなしに帰るのか。それは君らしくないんじゃないか」

「こんな顔見せろって。見世物じゃないわよ」

 ひどく荒んだ顔をしている、と、自覚している。苛立って、眉間に皺が寄りっ放しになっている。誘ってくれた竹神音羅や発起人の此方翼には申し訳ないが今は最悪の気分だ。誰とも会いたくない。そうなると解っていて覚悟を決めて来たというのに。

「不安だから、ぼくから逃げて帰るのか」

「誰が逃げるなんていったの」

「逃げてるよ」

「逃げてない」

「だったらここにいてよ。ホットドッグ買ってくるから」

 躊躇して、不意に、「……なんで」と、菱餅蓮香は尋ねていた。

 寄り添うように、彼が言う。

「昔、屋台で食べたよね。蓮香、大口開けて食べてたら喉詰まらせそうになって大騒ぎになった」

「……忘れてた。よく憶えてたわね、あんな小さいときのこと」

「ずっと、君を追っかけてたからだ」

 なぜだろう。菱餅蓮香は、少しだけ落ちついてきた。

「待っててくれる」

「……早くしてね」

「うん。すぐそこだから」

 そう言ってメイン会場脇の露店へと駆け出す星川衛。

 菱餅蓮香は、その後ろ姿を見送って、指を緩めた。




──一三章 終──




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