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七章 鉢植え

 

 娘がサンプルテをあとにして間もなくララナが心配の声を発したが、オトは動じない。

 音羅の様子がおかしいことは把握している。昨晩帰宅してから心ここに在らずで、本人に時間経過の認識がほとんどないだろうことも察している。

「音羅ちゃん、大丈夫でしょうか。頼ってこないので心配です」

「頼ってくるほうが心配やけどな」

「過保護でしょうか」

「俺にはそれでいいけど」

 と、言いはするが、オトは音羅に関しての意見も加える。「音羅の性格を考えてみぃよ。ひとのこといえんけど、馬鹿のくせに頭脳労働も進んでやってまうタイプやぞ」

 失敗しても気にせずトライするので危なっかしいが一貫性はある。そんな音羅が自分達に泣きついてきたらそれこそ何事かとオトは心配になる。失敗に気づいてなおかつそれを自分ではどうしようもないと諦めてしまった、と、いうことなら、はなはだ音羅らしくないからだ。

「オト様が頭脳労働を苦手とするかは別として、音羅ちゃんがご飯の催促以外で頼ってくることは少ないですね」

「やろ。やから、今しばらく観ておく」

「畏まりました」

 仕事に出たララナを見送ると、オトはいつものように冷蔵庫を覗いた。昨夜出したプリンを音羅は食べなかった。今も残っている。音羅が目の前の食品に興味を示さないのは初めてであったが、オトは驚かなかった。音羅の関心が食品ではなく別のところに集中しているのだと観察し、悦んだ。

 オトが台所に向かうと、テーブルにいたクムがひょこひょことついてきた。

「お手伝いしますわ」

「呼んどらんが」

 クムが冷蔵庫に跳びつき、扉を開けて生クリームのパックを取り出した。そこから俎板に跳び移らんとするが、

「たぁあっ。ふぎゅっ!」

 失敗だ。キッチンにぶつかって床に落っこちそうになったので、オトはクムをパックごと両手で受け止めた。

「何をやっとるん」

「ありがとうございます。クム、お役に立ちます」

 クムがパックの口をせっせと開け、飛び散った生クリームで顔をべたべたにしている。開けっ放しの冷蔵庫を閉めたオトは、彼女の顔の生クリームを指で拭って、頰を撫でた。

「ありがとさん」

「わふふぅ〜。作りましょう、オト様ぁ」

「ん」

 クムの送る香りを生クリームに織り込んでゆく。

 もう一息、頑張れ。

 重くなってゆくホイップクリーム。娘の成長を重ねて、オトは祈る。重くなれ。もっと、もっと、重くなれ。

 

 

 朝練が終わると、部員を解散させた蓮香に駆け寄り、音羅は考え続けていたことを尋ねた。

「どうして野原さんにあんな言い方をしたか、教えてくれませんか」

「交流会の日のことだね」

 音羅はうなづき返した。

 有魔力を野原が嫌っているのは疑いようのない事実だが、それを理由に授業を欠席してしまうひとではないだろう。野原は何かに追いつめられて、部活のみならず授業まで欠席してしまったのではないか。ならば、原因を解消すれば出席してくれる。音羅はそう考えた。

 野原を追いつめたのは音羅である。が、音羅だけでもなかったはずだ。交流会での蓮香の発言も、一端を担っていると音羅は思ったのである。

「騙すような真似をされたら誰でも怒ります。あれが、野原さんを追いつめた原因の一つになってしまったんじゃないでしょうか」

 野原が平静を失ったのは、あの日が初めてだっだ。因果関係がないはずはない。

 蓮香が、「そうだね」と、認めた上で、続けた。

「怒らせたかったからね」

「え」

「誰しも怒ったときに本音が出るってのが相場だよ」

 蓮香はこう考えていた。「花さんの心には怨みが積もってる。それが誰のせいかは知らないけどね、そのせいで自分の気持をひとに話せないんだと思う。結果、自分の考えに閉じ籠もってしまったんじゃないかな」

「わざと怒らせて本音を引き出したんですね」

 蓮香曰く、ひとを助けようとする心を持ってこそ価値ある人間。蓮香なりに野原を助けようとしていたのである。けれども、野原は退部になってしまった。

「蓮香さんは、野原さんのことをどう思いますか。このままでいいとは思えないんです」

「気持には同意するけど、今は待とう。花さんに接触したところできっと話は通じないから」

 音羅は野原と会ったことを蓮香に伝えていない。蓮香はどんな結果になるか想像していた。その想像通りになって、音羅は意気消沈している。

「部長になる前から何回かあるんだよ、不幸自慢されたことが」

 と、蓮香が切り出した。「それを話したひとの目当は何かといえば、評価が上がるように先生達に働きかけてほしいって嘆願だった。三学年になったらあたしが部長になるって話は結構前から出てたからね。当然、突っ撥ねた。それで嫌われた」

「なんだか、ひどいですね」

「それが人間だよ。追いつめられたら誰かを責めたくなる。弱い者苛めしたくなったりする。そうして自分が安全なところにいるって確認したり、自分は大丈夫だって錯覚しようとする。一時凌ぎでもそうして救われることはあるんだ。ひとの心はそんなに強くないからね」

 野原に嫌われる役を買って出た蓮香。それは一見野原を追いつめているように観えて、救っている側面もあるのかも知れない。それを計算していた蓮香がその先も考えていたことを、微笑で語る。

「ねえ、音羅さん。あたし達が花さんにしてあげるべきことは、彼女が帰ってきたときに迎えてあげることだと思うんだよ」

「……え、でも、野原さんは退部に──」

「企業だったら復職も難しいんだろうけどね、間違いを学ぶのも学園であり部活だよ。花さんの怒りを、本音を、真正面から受け止めたあたし達が率先して受け入れることで、一人で閉じ籠もるような姿勢を変えてあげなきゃね」

 いい子だから友達になるわけではない。と、いう知泉の言葉を音羅は思い出す。野原が怨み全開の本音を語っても決して排斥されることはないと理解させ、独りで抱え込むことがないように、蓮香はあえて彼女の痛いところを衝いて怒らせていたのである。

「蓮香さん、そこまで考えて野原さんを怒らせたんですね」

「そうでなきゃわざわざ煽らないよ。と、少なくともあたしはその姿勢だから、花さんが格闘部に復帰したいなら迎え入れる」

「わたしもそうしたいです。テーコフ先生や宇田先生は納得するでしょうか」

「是が非でも納得させる。あたし、部長だからね」

 頼もしい蓮香の言葉は、野原だけに向けられたものではない。野原の退部や授業欠席に影響を与えたと思っている音羅にも向けられたものだ。

 ……一緒に野原さんを助ける。そういうことなんだ。

 野原のことをみんなで考えてゆこう。そういってもらえたようで、音羅は嬉しかった。

 すると、

「っ、大丈夫、音羅さん」

「あ……、はい」

 音羅は力が抜けて、膝をついていた。蓮香が支えていなかったら横転していた。

「花さんのことでずっと悩んでたんだね」

「野原さんの苦労に比べたら、わたしの悩みなんて大したことないです」

「そういう考え方はダメ。疲れてるのは観てて感じたよ」

 蓮香が音羅の頭を綿のように撫でた。「そんな状態じゃ大して身につかないから却って(かえ    )効率悪いよ。あたしから格闘科の先生に伝えておくから何時限か休んで。これ、先輩命令ね」

 蓮香がこれほど休むのを勧めたことはなかった。自覚が薄かったが、支えられてやっと立ち上がった身では反論のしようもない。音羅は、一時限目と二時限目を休み、三時限目から授業に出ることとなった。

 

 

 放課後の部活。

 納月は、園芸部の部室である別館四階に足を運んだ。精霊結晶暴走に纏わる一連の後処理が一段落して、今日からようやく学園外の花壇や樹木の観察に戻ることができるとのことで、朝から愉しみにしていた。

 ところが、である。部長の此方翼以外誰もいないはずの部室に、見知らぬ人間が一人増えていたのである。じつはこれで二度目なので驚きは半減していたが、予期できることでもないので慣れやしない。

「此方しゃん、しょのひとは誰でしゅか」

 腕組をして壁に凭れて(もた    )立っているのは、睨まれたらつい目を逸らしてしまいそうな目つきの鋭い女子生徒である。

 部室最奥の部長席に座っていた此方翼が答える。

「部活を移動してきた野原花さんよ。今日から園芸部で一緒に活動するわ」

「(やっぱり。)何をしましゅか。予定通り外回りでしゅかね」

 納月が此方翼を窺うと、野原花が苛立ち混りの声を発した。

「あたしは一緒にやるなんていってねぇからな」

 ……ああ、やっぱりそうですよね。

 前に園芸部に突然やってきた生徒もそうだった。

 その反応が二度目の納月は動じない。部長の此方翼はと言えば文句を聞いてすらいない。

「竹神納月さん、行きましょう」

「はい。行きましょう」

 野原花が怪訝に目を眇める(すが    )。無視されたからだろう。

「待てよ」

 制止の声に此方翼が反応するはずもないので、代りに納月が口を開く。

「言いたいことがあるならはっきり言ってくだしゃいね。来たくないなら来なくていいでし。その()()はここへ来る前に先生から聞いてるはじゅでしが」

 野原花が眉間に皺を寄せて、口を噤んだ。

 代償。──ここ、園芸部にやってくる生徒は皆、問題を抱えている。白兵学園などといわれる第三田創魔法学園高等部において文化系唯一の園芸部が必要な部員定数を満たさず堂堂と活動できている理由が、そこにある。納月がそれを知ったのは、野原花の前に園芸部へやってきた生徒のことがあったからである。所属する部活で問題を起こした生徒は園芸部に転部することで更生の機会を与えられる。また、授業で問題を起こした生徒が園芸部での奉仕活動を通して代替の単位を取ることが認められる。しかし、ここでの更生が認められなければもとの部や授業への復帰は叶わなくなる。部活動で問題を起こした生徒は帰宅部となり、授業で問題を起こした生徒は退学となる。それが、代償である。

「悪く捉えるだけもったいないでしよ。これは救済措置でもありましゅ。野原しゃんがどんな問題を抱えてるかわたしは知りましぇんが、更生の手助けをすることに吝かじゃないでしゅ。まずは、状況を受け入れることでしよ」

「んなこと言われたって……」

 戸惑っているのだろう。なぜ文化系、それも園芸部なのか、と。園芸部の存在意義を知っているのは教諭陣と園芸部に所属したことのある生徒だけだ。野原花が園芸部の役割を知ったのだって今日のことだろう。部活・授業復帰への道が園芸部にあるなどと、ただちに吞み込むほうが難しい。

 だから、納月はこうも言った。

「自分のペースを守って、ゆっくり考えてくらさい」

 ほぼ嚙まずに言えた(!)と、内心悦びつつ、納月は野原花に背を向けた。

「待ちな」

 と、野原花が呼び止めるが、此方翼がさっさと部室を出ていってしまったので納月も追うようにして部室を出た。

 野原花があとを追ってきた。敵意か。威圧と疑問を投げてくる。

「アンタ、竹神納月っていったな」

「此方しゃんが呼んだだけで自己紹介は済んでなかったでしゅね。そうでしゅ、一学年の狙撃科専攻、竹神納月でしゅ」

「竹神音羅は姉妹か。似てねぇけど……」

 その質問はいつかされるだろうと思っていた。

 納月は納月で、野原花の名前を音羅から聞いて知っていた。まさか園芸部に入ってくるとは思わなかったが。

「竹神音羅はわたしの姉でしゅよ。ちなみに妹もいましゅから三姉妹でしゅ」

「アンタも有魔力」

「観ての通りでしゅ」

 鮮やかな水色の髪は有魔力の証として通る。一方、無魔力だと虹彩や髪が黒くなりやすいという特徴もある。その特徴が示す通り、学園の生徒や教員の多くは虹彩と髪が黒い。無魔力でも知泉ココアのような金髪碧眼のケースもあれば、有魔力でも父や姉妹のような黒髪のケースがあって外見一つで判断できないので、納月は差別しない。

「差別しゅるなら結構。じゅ……釈迦に説法でしょうが、しょの差別は野原しゃん自身への差別でし」

「んなこと、解ってる。嫌ってほどな……」

 理解力のない人間ではないのだろう。野原花が呟くようにそう言った。

「それなら安心でしゅ。理屈を理解できる人間になら大人の話が通りましゅからね」

「……」

 反応しなかった野原だが、納月の後ろをついてくる。

 ……自分の立場をちゃんと理解してる証拠です。

 更生の芽がある。

 野原花はどうやら切羽つまっている。その様子から察するに園芸部での評価に退学が懸かっている。更生の芽がなければ園芸部に入れられることなく退学させられるだろうことを考えると、野原花には学園側がチャンスを与えるだけの事情と才能がある。

 前に園芸部にやってきた生徒もそうだった。下流階級、俗にいう貧民であったために自らの稼ぎで学費を払おうとしていたが、新生活と仕事の疲れで授業中に居眠りすることが多くなった。学費を確保して退学を回避するため、日中に働いて放課後に園芸部で活動することで代替単位を取って、約三週間で授業に復帰した。今は週末に仕事を入れることで学費の工面ができるように頑張っているとのことである。──さて、ここでの問題は、野原花のことである。

 ……野原さんはいったいどんな事情を抱えてるんですかね。

 園芸部の正規部員である納月と此方翼の仕事は、園芸部にやってきた新入部員もとい非正規部員の問題解決の糸口を探ること。要するに、復帰や更生の手伝いである。

 ……お姉様の話では、すごく強くて、頑張り屋ということくらいしか判りません。

 直接会ってみると音羅の話にあるより随分と印象が悪かった。現状への当惑などもあるのだろうから、悪印象はあえて排除して考えるべきか。

 野原花の態度を観る分には、感情論よりは理詰めで更生を促すのがよいだろう、と、大まかな方針を捉えて納月は歩いた。

 別館を出ると、先頭の此方翼に続いて学園の外へと向かう。

「っと、此方しゃん、どこ行くんでしゅか」

「左よ」

「方角は」

「北を向いたときの左、西よ」

 此方翼が向かっているのは東。このひとはずっとこれだ。

「此方しゃんの頭の中でどんな地図ができてるかそろそろ見てみたいでしゅね」

「アンタら、まじめにやる気あんの」

 野原花が苛立っているが納月は気にしない。野原花が思わずツッコんでしまったであろうことを、ひいては園芸部での活動に目を向けたことを、察したからである。

「まじめでしゅよ。ほら、此方しゃん、行きましゅよ」

「あなたには敵わない。ぐるっと回れば行けるのだけれど」

「無用な回り道を世間では無駄足とゆうんでしゅよ」

 前に非正規部員が訪れた頃もワタボウがいなかったが、今回もいない。非正規部員の心が落ちついてくると姿を現わすので、活動のバロメータとして考えていいと此方翼が言っていた。

 ……さて、今回は何週間で現れますかね。

 野原花は見るからに手強そうだ。同学年でも年上であることは言わずもがな。父と比べれば大したことはないと思えるが、町で出会したくない威圧感と眼力である。

 東へ向かおうとする此方翼を引っ張って止めた納月は、西へ向かう。野原花がついてくる。

「で、何をするわけ」

「草花や樹木の観察よ」

 と、此方翼が答えた。「ここ三週間は事件の後処理や前のメンバの問題解決で外回りには行けなかった」

「……前のメンバって、何だよ」

「野原花さんのような非正規部員のことよ。今はもういない」

「あたしみたいなのがほかにも……。事件ってのは」

「魔導研究部で一悶着(ひともんちゃく)あったわ。後処理を園芸部主体で行ったのよ」

「まるで便利屋だな」

 と、馬鹿にしたような声音で野原花が言ったが、此方翼が同意した。

「便利屋。その見方はなかった。充実しているわけだわ、いろいろできるもの」

「頭沸いてんのか」

「ありがとう、あなたのお蔭で煮沸消毒できたわ」

「……なんだ、コイツは」

 下手な皮肉は通用しないと察したか。野原がまともな疑問を口にする。「観察ってのは具体的にどうやるんだ」

 お誂え(あつら   )向き(む )の木が隣家の庭に佇んでいる。

 木の根元をじっと観たあと幹を撫でて、此方翼が独り言を始めた。

「おや、おや、これは、これは、一年ぶりですかいのぉ、娘さんやぁ。(わし)ゃまだ齢七〇の若木ですがの、少し栄養が欲しゅうなってのぉ、しおしおなんですじゃ〜」

 納月は、野原花を覗き見る。

「なんなんだぁコイツぁ……」

 ドン引きしている。

 ……そりゃそうですよね。

 納月だって最初は見て見ぬふりをしようとした。一日二回、三日連続で目にすれば慣れてくる。休み明けはぞびっとするがまた慣れる。

 此方翼が納月と野原花を振り返り、途端にいつもの調子に戻る。

「少し栄養が足りないわ。植物活性剤が必要ね」

 言いつつ、持参したレジ袋から植物活性剤が入った容器を取り出し、木の根元の土壌にズッと突き立てた。

「え。対応はそれだけ」

「雑草や蔓の類はないからこれでOKよ」

「……雑」

「適当よ、専門家じゃないもの。下手なことをするよりマシ」

 園芸部部長がそれを言ってしまうのか。野原花がいうように対応が雑だが、不思議なものでどうにかなってきた実績がある。

「次に行きましょう」

「はしたないから隣家の柵を越えようとするのはやめてくだしゃいっ」

 柵に跨がろうとする此方翼の脚を、納月は押さえて止めた。

「次の木がそこにあるのよ。一旦門を出たら方角が判らなくなるわ」

「次の木を視ながら移動しゅれば大丈夫でしゅよ。と、ゆうか、そろそろ先導役をわたしに一任しやがりなしゃいよぉっ」

「それもそうね。忘れていたわ」

 方向音痴は忘れっぽいからではないか。などとツッコんでいる時間も惜しい。納月は此方翼と野原花を伴って隣家へ向かった。

 いくつかの樹木を観察、適宜対処したとき、それを観ていた野原花が口を開いた。

「文化系は楽だな」

 と。「こんなテキトーなことやってるだけで単位をもらえるなんて。体がなまりそうだわ」

「野原しゃんはほとんど汗もかいてないでしゅね。運動系だと日差も平気なんでしゅか」

 納月と此方翼は有魔力なので多少高温に強いが、首に巻いたタオルがずぶ濡れになるほど汗が出ており制服が体に張りつく勢いだ。野原花は時折手の甲で拭うだけで済んでおり、制服もほとんど濡れていない。

「格闘、舐めんじゃねぇ。こんなでへばってたら一〇分で死ねるぜ。部活で体を動かしてたら汗で池ができるっての」

「そうなんでしゅね。(家で練習してたお姉様もそうでしたね。)部室の畳、しゅぐダメになりしょうでしゅ」

「道場じゃ畳の下で強めの換気がされてるからそうはならないけど、畳はしょっちゅう買い替えてるらしい。地味に金が掛かりそうだな、道場の管理」

「しょれに比べると園芸部はお金が掛からなそうでしゅね」

 植物活性剤・除草剤・肥料・種苗などなど消費するものが多いが、ここ一箇月はほとんど何も使わなかったし、道場の畳と比べれば単価が安い。此方翼がいうには纏め買いで節約もしている。

 部活動の制限時刻が迫って部室に戻ると、素早く帰寮準備を済ませた野原花が不安そうに首を傾げた。

「あたし、なんもやってないんだけど、ホントにこれで単位手に入んの」

「報告するから大丈夫よ」

 と、此方翼が言うと、野原花が不安の顔色。

「先輩の言葉は信用できませんねー」

「なぜ」

「センコーに報告する前に道に迷いそうだからだっての」

「竹神納月さんに連れていってもらうから大丈夫よ」

 野原花が納月を睨む。

「マジで頼んだぞ、竹神(たけみ)(いもうと)

「あはは……。任せてくだしゃい、報告は確実にしましゅから」

「マジで、()()()、頼んだかんな」

 と、釘を刺して、野原花が部室を出ていった。

 部室の扉が閉まり、

 タッタッタッタッ……。

 足音が遠退く。

「これから仕事でしょうか」

「学費のためにね。寮では夜食が出るけれど、野原花さんの場合、夜食の時間も働いていて食べていないでしょう。まかないが出ているならいいけど、夜食が自腹になっている可能性はあるということね」

「……心を開いている様子はなかったですね。いろいろと生活が違いすぎるからでしょうか」

「それもある。けれど、核心は、心。余裕がないのよ。原因は貧困ね」

 前の非正規部員と状況は同じだが、前の非正規部員について話したとき、此方翼は心に余裕がないとはいわなかった。野原花の問題は状況にではなく心にあると推測しているようだ。納月は此方翼の見立ての詳細を促す。

「貧困によって心に余裕がなくなるというのは、なんとなく解りましゅ。が、前の件とどのように違いましゅか。お金に困ってるという意味で、貧困という状況は同じな気がしましゅ」

「そう、状況は同じね。別館を出ましょう。制限時刻よ」

 制限時刻を守らず別館にとどまっていると活動停止や自粛を迫られてしまう。園芸部が活動制限を食らっては野原花の単位に響く。

 納月と此方翼は鞄を肩に掛けて別館を出た。本館職員室へ寄って顧問(かわら)に野原花の部活参加を報告した。瓦を始めとする教員から野原花の事情を聞くことも不可能ではないが、園芸部の活動も部活である以上は生徒を主体としている。教員を頼るのは、問題解決の詰めの作業のとき、もしくは最後の手段だ。

 二人が向かったのは商店街、入店したのは此方翼行きつけの喫茶店である。前の非正規部員の問題もここで話し合って解決に導いた。

 コーヒが届くと、此方翼が話の続きを始めた。

「貧困というのも往往にして差別を生むわ」

「親のこととか、自身の身形でしゅね」

「体臭とかもね。初等部の頃、わたしの同級生に貧民の子がたくさんいた。ひどい話だけど、わたしは彼・彼女の体臭が自分と明らかに違うことに気づいた。汚泥(おでい)を身に纏っているのかと疑うくらいに鼻を衝いたわ。それだけで、差別が始まるのよ」

 此方翼からは汚泥のおの字も感ぜられない。香水をつけているふうはないがいい香りが漂ってすらいる。野原花がいなくなってワタボウが現れているので、その影響もあろうか。ワタボウからは草花のような香りがするのである。

「竹神納月さんのいうように親や身形への露骨な差別も表現され、刃物のように突きつけられる。『親はどんな仕事をしているのか』、『お前はなんでそんな服を着ているのか』、『なぜにおうのか』、なんてことを口汚くいわれる。最低限清潔な空間を保つことは公然のルールになっているから、それを盾に個個の事情を掘り下げることもなく画一的に蔑視される。いわれた側は萎縮するしかない。大人なら己の怠慢ともいえるでしょうけれど、生活が親に依存している子どもよ。口汚ない指摘はそのまま親へ向かい、親への不満に変わる。不満は負の感情を増長させる。増長した負の感情は疑心を誘う。疑心は自身にも向かい、他者への不満に繫がる。負の連鎖ね」

「野原しゃんもそうだってことでしか」

「全てが当て嵌まる(あ は  )とはいわない。でも、過去から現在に掛けて一部か大部分が当て嵌まっているとは想像しているわ。それに──」

「それに」

「まだ情報不足ね」

 時折口を開いたものの、野原花は自分のことをほとんど話さなかった。

「お姉しゃまなら何か知ってるでしょうかね」

「そうね。野原花さんの問題解決の糸口を探るため、当面は情報不足を補いましょう」

「解りました」

 コーヒとともに届いていたミルクを、納月は一口飲んだ。

 此方翼が唐突に、

「竹神納月さん、三大新入生選出おめでとう」

 と、お祝い。コーヒーカップをちょこんと持ち上げてカジュアルな感じではあったが。

「此方しゃんが投票してくれたんでしゅよね」

「わたしだけじゃないわよ。魔導研究部と魔法研究部、それから各部の顧問があなたの働きを認めたの」

「此方しゃんに振り回されてただけな気がしましゅけど」

「暴走した精霊の説得、魔力環境の正常化、園内環境回復への尽力。全部わたしが振り回した結果だなんてことはないわ。特に前の二事項はあなたが率先していた。あの判断と行動力は投票に値した」

「荷が重いでしゅ」

 三大新入生。謂わば新入生の代表者であり模範となるべき存在である。

「深く考える必要はないわ。わたしもこんなだもの」

「え。此方しゃんも三大新入生に選ばれてたんでしゅか」

「ええ。噂に聞く学費支援などはされた覚えがないけどね」

「わたしも今のところその感はないでしゅ」

 生徒自身には知らされず、支援者や学園側、保護者の間で話が進んでいるのだろうか。両親は何か知っているかも知れないが納月は問い質す必要を感じない。貧民の出であったら心持が違ったのだろうが。

「野原しゃんを含め貧民出の生徒はみんな三大新入生になりたかったりするんでしょうか」

「瓦先生が何かいっていたわね」

「何かって」

「野原花さんは交流会の日、上級生も参加する格闘科のトーナメント戦で準優勝したとか」

「お姉しゃまは準準決勝で野原しゃんに負けたと言って──、あ」

「──ええ」

 納月と此方翼は、一つの考えを共有した。

 納月と同じように、音羅も三大新入生に選ばれた。野原花に負けたにも拘らず、だ。

「お姉しゃまに勝ったのに、三大新入生になれなかった野原しゃん。もしかしたら、これが」

「問題の一端を担っている可能性は高いわ。ただ、これは一つのきっかけ。心に負荷を掛けたことではあっても、核心ではないわね。野原花さんが園芸部に送られたのは授業を無断欠席し始めたからよ」

「ひょっとして、授業の無断欠席は交流会のあとからでしゅか」

「そうよ。ただし、三大新入生の発表は交流会翌日の昼だった。野原花さんの授業無断欠席は交流会翌日の朝からずっとだと聞いたわ。交流会での準優勝と三大新入生から漏れたこと。無断欠席とそれらは、直接の関係がないとも考えられるわね」

 授業に出なくなったのは、交流会の翌日までに何かあったからか。

「そういえば、お姉しゃまの様子、今日は一段とおかしかったんでしゅよ」

「一段と、と、いうことは、予兆があったのかしら」

一昨昨日(さきおととい)からどうにも元気が。火が消えたようといいましゅか、らしくない感じで。交流会で野原しゃんに負けたのが原因かと思ってたんでしゅが、だとしたら今日の変化はちょっと遅すぎましゅし……」

「竹神音羅さんの様子が一昨昨日、交流会の日から変なのね」

「記憶が確かなら。ひょっとしたら、野原しゃんの授業欠席と関係があるかも知れましぇん」

「あり得ないことではないわね」

 交流会の日、格闘科のトーナメント戦のあとで、音羅と野原花に何かあった。それで音羅は様子がおかしくなり、野原花は授業を欠席するようになった。野原花の授業欠席を知って音羅は元気がなくなっていった。大まかな流れはそんなふうだろうと推測できる。

 ……確かお姉様、昨夜はどこかに出掛けてたようでした。

 今朝、母が言っていた。音羅が帰宅したのは納月や子欄が寝たあとで、お風呂に入ると倒れるようにして横になった、と。動きやすい夜間に稽古していたのかと思って納月は気にしていなかったが、音羅に関しては昨夜にこそ何かあった可能性が高そうだ。

 ……野原さんのことに加えて、ちょっと訊いてみるべきですね。

 納月は、ミルクを飲み干した。

「まずはお姉しゃまから話を聞きましゅ。野原しゃんについて考えるのは、そのあとがいいかも知れましぇん」

「竹神音羅さんからの聞取り(ききと  )、お願いするわ」

 此方翼との会議をここで終えて、納月は帰宅の途についた。

 音羅はとうに帰宅し、庭で型の反復練習をしていた。日に日に研ぎ澄まされる動きであるから、邪魔しないよう普段は声を掛けないが今日は急ぎだ。

「お姉しゃま」

「あ、なっちゃん、おかえり〜」

 返事が早い。動きにキレもあった。調子が回復している(?)納月は姉のよい変化を感じて質問した。

「交流会の日と昨日、何かありましたか」

 その問を聞くや音羅の動きが止まった。

 ……判りやすいですね。

 良くも悪くも。

 納月は野原花更生の手懸りを得なければならない。単刀直入に問い質す。

「野原さんと、試合以外で何かあったんじゃないでしか」

「なっちゃん、どうしてそんなことを聞きたいの」

 警戒心が覗いていた。姉音羅にしてはかなり希しい反応だ。音羅自身は基本的に無警戒な人格でいっそ無防備だ。警戒しているのは野原花のためだろう。納月はそう推測して話す。

「野原しゃんが園芸部に入りました」

「えっ。どういうこと」

 野原花の退部や授業無断欠席を知っていたとしても、園芸部入りしたとは音羅も思わなかっただろう。

 野原花が園芸部入りした事情を伝えたあと、納月は尋ねる。

「野原しゃんと何かあったんでしゅか。お姉しゃま、ここ三日四日様子がおかしかったでしゅし、野原しゃんが園芸部に送られたことと無関係とは思えないんでしゅが」

 これも姉にしては希しい。何を話すか考えているのか、しばらく口を開かなかった。

「なっちゃんだから話すことだけれど、交流会の日、蓮香さんが三大新入生選出投票でわたしに投票するって話をしたんだ。それを野原さんが聞いていて、そのことで少しあったんだ」

 いざこざが、と、いうことか。音羅の様子がおかしかったのはその影響だろう。

「野原しゃんはその翌日から欠席してたんでしゅが、お姉しゃまはなんでだと思いましゅか。投票されないと判ったからって休み始めるというのは気が早いような感じがしましぇんか」

「解らない。でも、野原さん、蓮香さんを尊敬していた感じがする。投票してくれないって知ってショックだったんじゃないかな」

 ……尊敬。野原さんらしいかもですね。

 野原花は第三田創で実績がなかった。自分と同じ無魔力の武芸者であり、部長という肩書を得ていた菱餅蓮香を実績ある人物として尊敬したというのはあり得そうだ。

「それにね──」

 と、姉が伏し目がちに。「投票とか、本当はあまり関係ないのかも知れない」

「関係ない、でしゅか」

「蓮香さんはいったんだ。野原さんの心には怨みが積もっている、だから野原さんに一票の価値がなくて、投票することは絶対にないって。心を見透かされた上に投票できないっていわれて、苦しかったんじゃないかな。だって、怨みなんて、好きで持ち続けるものじゃないと思うんだ」

 姉音羅の洞察は、ときどき凄まじいものがある。

 ……お姉様の、いう通りですね。

 野原花がいだいている怨みがなんであれ、望んで得た怨みなどではあるまい。その怨みこそが己の価値を下げているかも知れない。と、野原花が感じたのだとしたら、居たたまれなかっただろう。仮に此方翼がいっていた負の連鎖によって怨みが生み出されたとすると──、野原花は極大のダメージを避けられなかったはずだ。

 投票結果は交流会の日に出ていなかった。投票結果を悲観したと言うなら、翌日の朝から欠席するのは早計。三大新入生に選出されている可能性を考慮すれば無断欠席の影響で選出を取り消されないか、と、危ぶむのが普通だ。それに、心から選出を望んでいたなら一縷(いちる)の望みを懸けて結果発表の昼まで学園で待っていただろう。

 その観点からも、音羅の考えが当たっているのではないか。

 ……心を閉ざしがちだと、自分の価値にばかり目が行くはずです。

 そんなときに、数少ない尊敬の対象から価値がないといわれて、ダメージがないほうがおかしい。

 ……野原さんのショックの要因を意図せず生み出していたからお姉様もダメージを……。

 様子の変化はそのせいだったのだ。

 野原花の更生は大事だが、納月は姉のことも無論大事なのである。

「あまり思いつめないでくだしゃい。お姉しゃまはお姉しゃまのできる範囲で最大限の心配りをしたと思いましゅ」

「なっちゃん……、ありがとうね」

「時間は掛かると思いましゅが、園芸部として野原しゃんのことを全力でバックアップしゅるので、しょちらも心配要りましぇんよ」

「うん」

 姉が、頭を下げた。「お願いします……」

「任せてくらしゃい」

 納月は胸を叩いて引き受けた。

 それから一週間余り、納月と此方翼は野原花と園芸部の活動をともにした。野原花はやはり理屈で物事を理解できる人間らしく、仕事を教えればすんなり覚えてこなすことができた。野原花の抱える問題をより詳細に把握するため、また、更生の芽を育てるため、部活動中、納月と此方翼は野原花と一緒に行動した。しかしながら、野原花は園芸部の仕事に関わること以外を話さず、心を開く気配がないままだった。

 納月と此方翼は野原花の心を開こうと懸命に働きかけた、と、いうわけでなかった。基本は真逆。抉じ開け(こ あ )ようとして心を開いてくれるはずがないので、踏み込んだことは何も言わずどこにでもある部員関係、どこにでもあり得る浅い関係作りから始めた。園芸部で同じ仕事をしたという実績・時間が、関係を築く。園芸部の活動によって野原花は代替単位を得るので少なからず仕事に精を出す。精を出せば浅くとも情が移る。情が移る行為をともにすることで「懐かしい」と思い出せる程度の関係を構築できる。その程度の関係でも人間は生きるために必要とすることがある。たださえ横の繫がりが少ないであろう野原花には無二といえるほどの関係とも成り得る。

 月曜日の放課後。休み明けの部活は気が張るが、野原花は、園芸部の仕事に関して気兼ねなく会話するようになっていた。それを、一つの到達点と予想していた納月と此方翼は、新たなフェーズへの移行を決めた。

 納月が休日に調達した種苗ポットに入った花を、本館脇の植木鉢に三人並んで植え替えていたときである。会話の流れを汲んで、納月は切り出した。

「この花を買うの、お母しゃまとお姉しゃまに手伝ってもらったんでしゅよ。学園に合いしょうなものはどれでしゅかね、って」

「一人で選んだのではないのね。お母様方はなんと仰っていたのかしら」

「学園には規律も大事でしゅが許容と受容の精神もなければならないとのことでした。それでこの花でしゅ。花言葉は『美しさに優る価値』だしょうでしゅよ。この学園にぴったりな気がしましぇんか」

「青春の汗は輝いている、と、いうところかしら」

 納月の持っている白色、此方翼が持っている橙色、野原花が持っている赤色に加えて、桃色や紫色などの小花が咲き乱れた、香り高い花だ。外来種で春秋の花だが、ダゼダダの気候でも育つよう品種改良されていると生花店主が言っていた。これに限らず、ダゼダダにある植物は品種改良によってダゼダダの土質や気候に適っているそうである。

 野原花が溜息混りに反応する。

「青春の汗ねぇ。そんなもんなんの役にも立たねぇだろ」

「流した汗の分だけ強くなるわよ、たぶん」

「たぶんって。先輩も曖昧じゃねーか。誰よりも汗流してたあたしがいうんだからあたしのが正しい」

「一理あるわね。竹神納月さん、この花が学園にぴったりってどういうことか聞きたいわ」

 納月は各自が担当する花を指差して、

「いろんな色が多様な個性を、花が寄り集まって咲いているのがたくさんの生徒や先生を、それぞれ意味しているような感じがしたんでしゅよ」

「個性っつったって、たった数色じゃん。寄り集まってるのは雑魚の証拠。そういう意味で間違ってないのかも知れないけど、あたしは好きじゃねーわ、この花」

「(なるほど。)じゃあ、野原しゃんはどんな花が好きなんでしゅか。今度はそれを調達してきましゅよ」

「んなこといきなりいわれても、特別好きな花なんか……」

 野原花がぽつりと、「たんぽぽとか」と、言ってすぐ訂正する。

「今のなし。そこら辺に咲いてるし、雑草じゃん」

「そうともいいきれないわね」

 此方翼が賛意を表した。「根が強くて処理しづらい厄介な植物だけれど、生命力が強いということよね。有魔力に一矢報いるような無魔力のためのこの学園の象徴としてはいいんじゃないかしら。どこにでも生きられる、生命力溢れる無魔力ってことよ。爆発的に増殖しそうね」

「先輩は有魔力じゃなかったっけ」

「そうだけど、何か問題があるかしら」

「もしそうなったら、今度は有魔力が肩身の狭い思いをするぜ。それでもいいって」

「そうはならないわ。全ての無魔力が有魔力を畏怖したり見下げたりするような世界にはならないという自信があるもの。わたし達がそれの証明よ」

 此方翼には絶対の自信がある。ゆえに言葉の揺らぎがない。

 ……まあ、一矢報いるとかいってしまってますけどね。

 それは敵対意識ではない。互いを高め合う存在として激しくぶつかり合うこともあるがそれは対等ゆえ。此方翼は、そう捉えているのだろう。

 思うところがあったか。野原花が植え替えた花を見つめて、黙り込んだ。

 部活制限時刻まで野原花が口を開くことはなく、その日は解散となった。

 翌日放課後。野原花は何一つ変わらぬ様子で園芸部の部室にやってきた。入ってきて早早、

「単位の報告はしてくれるんだよな」

 と、此方翼に毎度尋ねるのは、此方翼を疑っているのではなく学園在籍への執念だろう。

「安心して。昨日の分もしっかり報告した。今日も報告できそうね」

「解った。そこは信用しとくわ」

 と、応ずるのも毎度のことだったが、野原花が机に腰を下ろして息をついた。いつもなら座ることなく園芸部の仕事に取りかかる。禁欲的にルーティンをこなす武芸者の卵、その微微たる変化を見逃すことはできない。納月より先に此方翼が問いかけた。

「野原花さん。もしかして疲れている」

「んー。いや、別に。部活や授業のほうがよっぽど体使うし」

 野原花は現在、無断欠席を理由に授業参加を禁止された身である。この穴を埋めるために放課後園芸部の活動に参加して代替単位を取っている。授業の時間帯は仕事をしている。と、納月と此方翼、それから学園側は野原花から聞いている。つまり園芸部には仕事を終えたあとにやってきており多少疲れていてもいいはずなのだが、野原花がいうには疲れてはいない。

 納月は推測する。

「今の仕事は体をあまり使ってないんでしゅか。わたしにはちょっと解らないでしゅが、運動部のひとは体を動かしてないとどうも疲れるようなんでしゅ」

 音羅の話を参考にした納月の言葉が、野原花の現状に一致したようだった。

「ちょっとした飲食店だ。どっちかってーと気ぃ遣うわ。新メニュや期間限定の割引とか価格覚えたり、客の注文録ったりな」

「文字通りの気疲れでしゅね」

「そんなとこ。でもまあ仕方ねー、授業料、払わなきゃなんない──、勝つためには金が必要だ」

「ましゃかの裏金っ」

「んな卑怯な真似すっかよ」

「無論冗談でしゅ」

「だろうよ」

 そう思いながらも思わずツッコんでしまうくらいには関係ができあがっている。昨日、好きな花を聞けたこともそうだが、一週間余りの部活動は無駄ではなかった。

 納月は此方翼に目配せ。本来なら園芸部の活動に入る時間だが、野原花の更生が最優先事項であるから、彼女の気疲れを癒やすことも大切。納月は野原花と雑談することにして、此方翼に目線で許可をもらったのだった。

 かねてより感心していた点を、納月は野原花に伝えることにする。

「野原しゃんは働き者でしゅね。いくら代替単位のためでも、責任が伴う仕事のあとに園芸部の仕事もしっかりこなしてましゅ。わたしなんかはやることを奪われてるくらいでしゅ」

「その点は同感ね。野原花さん、あなた、とても頭がいいのね。効率よく動いて最高の結果を残せるタイプに思えるわ」

「二人してどうしたー。褒めてもなんも出ねーぞ」

 警戒心は相変らずのようが、野原花が話を続けた。「効率よく動いて最高の結果を残すなんて仕事じゃ当り前だ。教わった基本を繰り返してりゃ自然と身につくもんだしな」

「夜に及ぶ仕事の替りに始めた昼の仕事はまだ効率よく動けないんじゃないでしゅか」

「そういう部分もあるけど、そのうち慣れるって」

 とは、曖昧な返答だが、「金のためならなんでもやってやるよ」と、いうお金への執着は野原花が一貫しているところである。

 此方翼が野原花に待ったを掛けた。

「その考え方はいただけないわね」

「……文句でもあんの」

 これまでは関係の土台作りであった。これからは違う。見えざる壁を壊すための衝突を、此方翼が仕掛ける。

「金銭に執着する生き方が何を招くか知っているかしら」

「アンタは知ってるとでも」

 野原花が過熱した。「生まれたときから金持だったんだろ。知ってるよ、『此方』。このあいだ捕まったお偉いさんの娘かなんかだろ、アンタ」

 ……此方充、ですか。

 ダゼダダ警備国家のナンバ2といわれている警備大臣だった男だ。納月の父の叔父に当たる言葉真国夫と癒着し、不正と不埒な犯罪を犯して逮捕された。納月は、此方翼が此方充の関係者とは思っていなかったが、野原花は此方翼の弱みを握るためにどこかで調べたのだろう。

 それが証拠に、野原花が調子を上げる。

「アンタにいわせりゃ、金に目が眩んだ父親が地位も名誉も家族も棄てて最低最悪のクズに成り果てたってこったろ。あたしとそんなヤツを一緒にすんな」

「どこから突っ込もうかしら」

「んだよ。ぐうの音も出ねぇだけだろ」

「いいえ、誤解が凄まじかったことに驚いて」

 此方翼が部長席に座ったまま、う〜ん、と、一つ唸って、口を開いた。

「まず、わたしは此方充の娘ではないわ。親戚ではあるけれど、会ったのは数回程度で話したことはほとんどないわね」

「ふうん。金持には変りねぇだろ」

「金銭的な苦労をした憶えはないわね」

「幸せだこと。金がないだけで苦汁を舐めてきたあたしらの気なんざ知りもしねぇだろ。金に執着して何が悪い。金がなけりゃアンタもどうせ何もできやしねぇよ」

「お金がなければ働くだけよ。野原花さんのように」

「お嬢様にゃ無理な話だ。別館の中ですら道に迷ってんだから仕事先に行けもしねぇ」

「なんとかなるわ」

「ならねぇよ。アンタは筋金入りの方向音痴だからな」

「なんとかするわ」

「できやしねぇって。行けもしない空を常に目指してるようなヤツじゃな」

 此方翼が押されていると観た納月が口を挟もうとしたそのとき、此方翼の反撃が始まる。

「何をそんなに恐れているのかしら」

「……は」

 野原花が斜に構える。「そういう話をしてんじゃねぇし。そもそも恐がってんのはそっちだろうが」

「本当にそう思っているならわたしは野原花さんの理解力を過大評価していたといわざるを得ないわね」

「下手な挑発してんじゃねーっての」

「それなら答えられるわね、野原花さん。()()()()()()()()()()()()

「……。なんの話をしてんだよ」

 野原花の反応は当然といえば当然。だが、納月は此方翼の意図がなんとなく解った。

 此方翼が腕を組んで首を傾げた。

「あなたがお金に執着しているのは、(もと)(ただ)せば安定した生活のためでしょう。でも、もっといえば、安定して何がしたいの。それをしたいと思ったのはなぜ。有魔力に一矢報いるため。いいえ、それは表層的な動機に過ぎない。言い換えるならきっかけよ。野原花さん、──あなたの心には怨みが積もっている」

「テメェ──」

 部長席へ飛びかからんとした野原花から逃げることもなく此方翼が続けて、

「希望も、ずっと秘めている」

 その指摘が、野原花の足を制した。

 此方翼が立ち上がり、野原花の前に出た。

「羨望という負の感情に紛らわした、希望。有魔力のような力さえあれば、世間に人間と認められ夢を見ることが許される。その希望。理解力があるから自分にならそれができると想像もできた。だからこそ、消えない希望。絶望に表裏一体の、絶対の希望。あなたはそれを追いたいのよ」

「んなこと、あたしは一言もいってねぇ。判った気になって断言してんじゃねーよッ」

「声を荒げたのが真実の証明だわ。野原花さん、あなたは、夢を追い求めたい」

「っ──!」

 迫った此方翼が野原花の眼前にずいっと押し上げたのは、何かが入ったレジ袋だ。

「な、なんだよ、これ」

「プレゼントよ」

「意味解んねぇ……」

「あなたなら解るわ」

 此方翼が半ば強引にレジ袋を渡した。気勢を削がれた野原花が怪訝な表情でレジ袋の中身を取り出し、その眼から、表情から、ほどけるように強張りが消えていった。

「たんぽぽ……、白い、たんぽぽ。何、これ、初めて見た」

「シロバナタンポポを品種改良したものよ。ダゼダダの気候に合わせて育つようになっているわ。どこだかからか種が飛んで自生もしているらしいけれど、これは買ってきたわ」

 此方翼が部長席に座って、引出しから一冊の古い本を取り出した。

「これによれば、シロバナタンポポの花言葉は『わたしをさがして、そして見つめて』だそうよ。己の個性を伸ばし、誰かに必要とされることを望む学園の生徒にはぴったりね」

「あたしは、別に見つめられたいわけじゃねーっての……」

 そういいながらも、野原花のボルテージが下がっている。

 ……野原さん、本当にタンポポが好きなんですね。

 野原花の激した感情すら押し込める何かが、タンポポにある──。

 今は訊くべきときではないだろう。納月と此方翼は、まだそこへ踏み込んでいいほど関係を築けていない。そう察して、待った。タンポポを見つめて湧き出ているであろうなんらかの余韻が、野原花の心に馴染むのを。

「これ、どこに植えるか決まってんの」

 と、野原花が訊いたとき、納月は口を開いた。

「決まってないでしゅよね。タンポポの購入は此方しゃんの独断でしゅし」

「そう……。悪ぃけど、これ、もらってっていい」

 野原花の問に、此方翼が快諾した。

「プレゼントしたのよ。学園に植えてもいいし持っていってくれてもいい。勿論邪魔なら棄ててもいいわ」

「棄てるためにもらうほど捻くれてねぇが、……遠慮なく持ってくわ」

「これはどう」

 用意周到な此方翼。鉢も取り出した。

「それ、部費で買ってんじゃねぇの。もらっていいわけ」

「非正規部員に譲渡される園芸用品は部費で賄うことが許されているから心配無用よ」

「どう転んでも損はしないわけだな」

 変な気を遣われたわけではないと思えて安心を得たのだろう、此方翼から鉢も受け取って野原花が机に置いた。

「じゃあ、園芸部の仕事しようぜ。草取りしてもしきれねぇし」

「そうね。竹神納月さん、行きましょう」

「はい」

 武芸一筋の野原花が興味を見せてタンポポを受け取った。それが大きな前進。

 少しずつ育てる、いつもの園芸部を始めよう。

 

 

 

──七章 終──

 

 

 

 

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