始章 親の歩み
〔──。
寒空の下のサクラジュの下、少女は微笑んだ。
「お話しましょう」
タイヤのアスレチックを何日も掛けて登りきって言った。息切れをして、呼吸をしているだけで、それ以外の言葉を一つも発しなかった。
対する少年はアスレチックの最頂点に座り空を仰いで、なかなか言葉を返さない。少年は冷めきっていた。葉が落ちきったサクラジュの枝が如く冷めきっていた。
凍える幹が大地から脈脈と養分を吸い、新たな芽を育もうと息づくように、少年の冷めきった心にかすかなぬくもりが寄り添った。
少年は一言。
「家に帰ってゆっくり休め」
情けはひとの為ならず──。〕
儚く懐かしい、現世の苦しみたる鈴音の夢を見た。殊、鈴音に関して情けを掛けたところで、鈴音に関わったことが悪行かのように悪いことしか起きなかった。悪因悪果と表向きには諦めているが、寒空の下のサクラジュの下で、オトは彼女に確かに情けを掛けた。
──この子は、じきに死ぬ。
治癒の魔法技術を齧った者が鈴音をしばらく診れば見抜けただろう。魂器過負荷症によって不規則に魔力が漏れ出る、人間世界でいうところの〈魔力漏出症〉が何度も確認できていた。体はぼろぼろ。同じ未来を背負ったオトは未来の自分を観ているような心地になった。
オトは、いつも自分のことばかりだ。よき報いがあるはずもない。異論はない。
他者を本気で思いやったことがあっただろうか。好意的に観察する〈ララナ〉がオトの行為を利他の精神によるものと認識しているがその意図はなかった。オトは自分のしたいことをしているだけで。
魂に宿る創造神アースの意識に、オトは呼びかける。
(俺は精神不安定やな)
(突然話しかけてきたと思ったらなんだ、混沌たる記憶に吞まれて間もない頃でもあるまいに未だアイデンティティ云云などとつまらぬことを考えておるのか)
その議論も済んではいたが、オトはこのところ自分に関して判らない部分が増えている。
(〈竹神音〉。それが俺だが、ときどき、ふと、アホみたいに口が開いとる)
(無意識に口が開くとしたら咀嚼怠慢による筋力低下あるいは病気だな)
なるほど睡眠中のことなら顎の筋力が弱っているのだ、と、理屈もつけられようものだが。
(喋っとる自覚ぐらいあるよ)
(解っておる。封印を踏み消して以降、我は貴様の体を借りていない)
(だから解らんのよ)
膨大なモノの記憶〈記憶の砂漠〉はオトが思う以上に自分を見失わせる。〈竹神音〉として言葉を発しているつもりが、別の誰かの言葉を発していることがある気がする。それは、創造神アースと意識共有を絶ってから顕著になったような気がしないでもない。
(お前さんへの警戒心が図らずも自己同一性の維持に貢献しとったのかも知れんな)
(感謝し、もとに戻すか)
(感謝も逆行も嫌なこった)
膨大なモノの記憶はふとしたときに想起される。警戒心、と、いうよりも緊張感が必要だ。
(俺は常に竹神音でいられるのかどうか、なんて、なんとも危うい内心やな)
(我は貴様を高く評価しているが、引き籠もると後ろ向きだとはよく知っている)
(前向きに考えろ、って)
(貴様がいったことだ。あの言葉が貴様の意志と異なるならば咎めはせぬがな、幻滅だ)
(構わんが「前向き」は聞くことにしよう)
(ふむ、貴様の前向きに一役買うか)
なんのことか。創造神アースが切り出したのは、
(我の仕事を引き継いでくれ)
創造神アースが創造神としてやっていた世界への働きかけのことだ。星や生物、あらゆるものを抱える一つの宇宙を次元と称する創造神アースに倣うなら〈次元の管理〉と表現できる仕事である。仮に「宇宙の管理」と称されても規模が大きすぎてやる気にもならないという点で、凝ったようで薄っぺらい呼称のほうが手をつけやすいという狙いがあるのだろう。
(重く受け止める必要はない。貴様が死ぬ前までで構わぬ)
(テキトーにやっとこう)
(それでよい)
創造神アースの意識を闇に閉ざして、オトは瞼を開ける。
朝日が眩しい。ララナを半ば伴侶として迎えてから早三箇月。二四時間閉まっていたカーテンは開く日のほうが多くなった。
「──お父様、目を開けたなら起きてください」
オトを控えめに揺り起こしていたのは、約二箇月前に生まれた三女子欄。起こしに来るのがララナでなければ、カーテンを開けるのはこの子欄がほとんどだ。
「あ、もう、お父様、瞼を閉じないで起きてくださ〜い」
精神はまだ幼いが滑舌がそれなりによい。黒髪を揺らして揺り起こす姿はありがちな幼馴染設定の少女のようで、落ちついた外見は長女音羅より年上に観える。
ここにはいない次女納月は発育がよいものだから内面の幼さに反して体型が年を取って観えて少しかわいそうに思えなくもない。
長女音羅を含めて娘が皆、数箇月──正確には生まれて一日余り──でこれほど大きくなったのはオトの魔法によるところと家族全員が承知している。
「お父様〜、いい加減起きてくださ〜いっ」
あと五分。
「──と、いう顔でカタツムリしないでください」
よく判っている。
「も、もうっ、にっこりしたって待ってあげませんっ。……待ってあげませんよっ」
言葉と裏腹に待ってくれそうな雰囲気を醸し出してしまう可愛い子だ。
「も〜〜っ、見つめないでください」
子欄の困った顔を観るのがオトの趣味になりつつある。こうした日常が、自分の子時代にもあり得たことを実感すると、なおのこと娘の表情を引き出したい。その時間を得ようと思っても得られないことがあると気づかせるより先にその時間をあげたい。──そんな自分の意識を感じて、〈竹神音〉という自分を確かめる。今日は無事に自分を生きている。
「ほらぁ、娘にまで手を焼かせるんじゃないわよぉ」
とは、オトの頭の上で跳ねている和装の小人結師が言った。これは娘ではなく、この国における神仏のようなものの一人である。
「お前さん、朝から煩い」
「その寝癖を梳きにやってきたのよぉ、嬉しがってちょうだぁい」
嬉しいのは髪に関わることが大好きな結師のほうである。オトは布団を被って結師の言葉を遮ろうとしたが、
「オト様、なりませんよ」
「あ、お母様」
家族で一番年下に観えてしまうララナが、子欄の隣に膝をついて顔を覗かせた。
「朝食ができております。召し上がりませんか」
「あわよくば子欄で遊ぼうと思ったんやけど、結師が邪魔」
「邪魔ですって。ひどい言い草ねぇ」
「結師さん、申し訳ございません。オト様、子欄ちゃんも暇ではございません」
と、ララナが言うが、子欄は謙虚である。
「わたしは平気ですよ。遊ばれているのはいけないですが、忙しい身でもないです」
「いいえ。子欄ちゃんは荷造りの手伝いをしていますから忙しい身です」
オト達は今日の昼、安アパート〈緑茶荘〉を引っ越す。
ここ一〇二号室はオトの母親名義。絶縁状態なので母親に連絡を取る必要はないが、オトは家出する形になり、隣の一〇三号室に住むララナや娘とともに別のアパートに引っ越して一緒に暮らすことになっている。
オトは横になったまま部屋に視線を走らせた。一〇二号室にあるオトのものは本棚に置いていた辞書やノート、あとは着替くらいのもので荷造りはほぼ済んだ。子欄が手伝っているのは一〇三号室のほうである。
「娘が頑張っている横で親が寝込んでいるのは寂しいですね」
「……そんな言回しをされると敵わん」
単なる文句なら聞き流して子欄で遊ぶが、オトは素直に上体を起こした。
子欄が感心して両手を合わせる。
「お母様はやはりお父様起こしのプロですね」
「変なプロ認定やな。ま、同感やけど」
ララナの柔らかい声音と言葉遣いは寝起きがいいほうではないオトを無理なく起床させる。
「布団はもう用済みやったな」
「はい。私が新調致しました」
「じゃ、これは干して置いてこう」
オトが掛布団を片手に立ち上がると、
「きゃっ」
と、子欄が口許に手を当てて目を白黒させた。
「お父様、パジャマはどうしたんですかっ」
「え、下は着んっていったやん」
下着は穿いている。一緒にお風呂に入るのはさすがに躊躇われたので、多少の男性免疫をつけておくため父親のずぼらさを観せておくのがよい。妙な好奇心を促すような隠し方や興味を持たせるような見せ方ではなく日常の何気ない流れで男性免疫をつけさせる。とは言わず「男が隠すのもなんか変やん」と表向きの理由をつけているが、オトの本音は体に纏わりつくものを身につけるのが鬱陶しい。
ララナも同じような理由でワンピースしか着ていない。今はオトがいろいろ配慮して作ったワンピースを着ているが少し前まではブラもつけていなかった無防備さだった。オトは家中での恰好であるし、屋外では当然それなりに最低限着ているのだから許されようものである。
「羅欄納、悪いけど布団干すの手伝って」
「はい」
庭に出て物干竿に掛布団を掛けたオトは、寝室のララナが抱えた敷布団を受け取る。
「ありがと」
「どう致しまして」
敷布団も物干竿に掛ける。些細な日常。朝日が眩しい。
仮暮しは終りだ。引越し先はララナ名義の一室で無職のオトはヒモ確定。家長として恰好がつかないがオトは気にしない。ララナ達と新たな生活を送ることが大事であった。
合間合間に髪を弄ろうとしてきた結師にオトは子欄の髪を弄らせていた。オトが家に上がると、ポニーテールにされた子欄が恥ずかしそうに目を逸らして尋ねる。
「お父様、布団、あれでいいんですか」
「ん、干し方のことか」
「はい。歪な干し方になってませんか」
オトの布団は角を斜めにずらして干してある。
「よいのですよ」
と、ララナが言った。「均等に四角く掛けますと布団の裏面に全く日が当たりません。角をずらして干すことで日射範囲を一部裏面にまで増やし効率よく湿気を追い出せます。水切りや風通しがよくなるので、シーツなど薄い生地を干す際は圧倒的に乾きが早くなります。と、いうことですよね、オト様」
「概ね合っとるんやないかね。綿が寄ったりするで長期放置はあかんけど天候や生活とのかね合いで干し方を変えるのがいいね。子欄、変わって観えることにも理由があったりする」
「勉強になります」
子欄は学習意欲が高いので、オト達はこうしてことあるごとに知識や雑学を教えてあげる。
「朝ご飯にしよ。子欄、音羅と納月を起こしてきぃ」
「はい」
「羅欄納も頼む。俺と同じであの二人はどうせ起きん」
「っふふ、お任せください。行って参ります」
「ん。いってらっしゃい。結師、二人の髪もよろしく」
「あなたの髪が一番なんだけどねぇ」
「男なんて手櫛でいい」
「禿げても知らないわよぉ」
「恐ろしいことゆうし。ならばマッサージしつつやるわよ」
「がぁんばってねぇー」
「へいよ」
寝坊助の音羅と納月を起こすのは、オトを起こすのと同じくララナや子欄の担当。その寝癖を梳いて綺麗にするのは結師の趣味だ。音羅と納月が眠るのは隣室一〇三号室であるから、ララナ、子欄、結師は一〇二号室を立ち去った。
オトは自分の洗濯物を片づける。これも、今日でひとまず終り。今では希しくなりつつある二層式洗濯機。水を溜めた円柱槽に洗濯物を入れてタイマを回し、回転水洗が始まると粉末洗剤を投入。一〇分前後で水を入れ替えたら節電のため手で濯いで脱水槽に押し込んでタイマをセット、滴らない程度に脱水した洗濯物を籠に取る。寝室のハンガに衣類を掛け、布団とは別の物干竿に干して洗濯完了である。巷では柔軟剤を使うことが増えてきているが、オトは己の生活に無用なお金を使いたくなく、外出をめったにしないので気を遣って香りを纏うこともない。
「オトや。今日はワシの出番はないんじゃな」
とは、物干竿に絡みついてぶら下がっている毛玉の糸主が言った。結師と同じく神仏的なものの一人で、身の回りのことを手伝ってくれる気のいい毛玉である。主な仕事は部屋の掃除だが、彼が体から伸ばす繊維の使い道はたくさんある。
「布団や物干竿に鳥が留まらんように見張っといて」
「うむ、やっておこう」
オトは会釈、もふもふの糸主を撫でて、そのくりっとした可愛いお目目に見張りを任せた。今の時期、代搔きを終えていないところと終えているところがあるので、雑草の種子のついばめる場所もあれば、埋まっていた米が掘り起こされた場所もあり、昆虫も生息している。それらを狙う野鳥が集まりやすく洗濯物が汚されたり踏み荒らされたりするので油断大敵だが、糸主が体から繊維を伸ばして天蓋のように上空をカバーしてくれれば安心だ。
子欄の呼声が何度も聞こえてくる。寝坊助二人はどうやらまだ深い夢の中。
平穏。
洗濯物を照らす太陽を仰ぐ。いつか観た太陽より温かくて穏やか。疑う眼を持ってしまったオトには全てが真実とは思えない。
現在と過去は違うといえどもかつて落ちた偽りの太陽と相対するように、心が呟く。
……今度こそ、家族を守る──。
自身の行為もあってかつて一家離散を止められなかったオトである。碌に会うことがなかった母への、最初で最後の手紙を認めて、銀行のキャッシュカードとともに封をすると、母の服が入ったタンスに収めた。迷惑代としては安くも思うが老後の足しくらいにはなるだろう。
ダイニングのテーブルには料理が並んでいる。呼吸するように自然界の魔力を取り込めば食物摂取が不要と知っているララナがこうしてオトに料理を作るのは、心の栄養になることを知っている。
それにしても遅い。隣室に糸主と同じような世話好きをつけているので何かあれば伝えにくるだろうが、ほとんど動きがないのでオトは少し心配だ。
ララナ達に異常がないか、個体魔力の動きを三次元で観察してオトは常に見守っている。魔力の動き、一般的に言う〈魔力反応〉だけで持主の思考・心情まで察することはできないが、記憶の砂漠に下支えされた推察力や憶測力がオトにはある。ある程度の事態を魔力反応から推測することもできれば、直感的に理解できることもある。
洗濯をしている間も手紙を書いている間もララナ達は至って平常。音羅と納月が起きたら動きがあろうに、それがない。ララナの有言不実行は引っかかる。
一〇二号室を出て施錠したオトに、声が掛かる。
「おはようございます、オト君」
「お婆さん、おはよう」
一〇一号室に住む緑茶荘の管理人日向像佳乃が待っていた。扉を開ける前に存在に気づいていたのでオトは日向像を向き直り、
「なんか用なん、朝から竹刀なんか持って」
竹刀は、二振り。
「今日引越しということはララナさんから伺っとりましたからね。どうですか、一本」
と、日向像が竹刀を差し出した。竹刀を一本あげる。と、いう引越し祝いなら受け取ってもいい。オトは苦笑して見せた。
「えー、嫌やよ、有段者と防具もなしに為合とか」
「お手柔らかに」
「やらんって。お婆さん、今日は妙に好戦的やな」
「これを逃したら次はないでしょう」
もとから若若しい武芸者日向像が人当りのよい笑みを絶やさない。
「引越し先は遠くないから擦れ違うことはあるやろうけど、為合う機会はないかもね」
「いかがです」
「ん、」
ララナ達は動きそうにない。荷造りの手伝いをしようにもできまい。
オトは竹刀を受け取った。
「我流やから構えも成っとらんと思うぞ」
「戦場は常に新たな流派との出遭いです」
緑茶荘と門を繫ぐ飛石を挟み、オトと日向像は砂利敷で対峙する。
日向像が両手握りの竹刀を正面に構える。
オトは右手に握った竹刀をそのままに、足を横に肩幅開いた。
「そういえばお婆さんって三大国戦争以前に生まれとるんやっけ」
「大変な時代でしたね。終戦直後の食糧難などは今も伝わるところです。わたしなどはまだまだ生娘でしたから厠探しは難儀しました。料理を作ろうとすれば包丁一本をご近所さんと共有して、効率が悪いと判れば料理担当を決めて炊出しを行いました。立法府の指揮系統が混乱しとった頃はいろいろなことが弥縫策でしたねぇ」
日向像が話しながら一気に間合を詰めてオトの面を狙う。オトは竹刀を左上に突き上げ、日向像の剣先を鍔で弾いた。当たらないと判るや日向像が下がって反撃の隙を与えない。オトは竹刀をだらりと下方へ向けておく。
「戦争なんか起きんほうがいいよね」
「一つよいことがあったとするなら、あの時代は誰もが助け合うことを知っとったことでしょうかね。魔力の有無も貧富の差も関係ありませんでした。強いていえば情報が少なかったことも一種幸いだったかも知れません。良くも悪くもひとは目の前のことを真実として捉えます。現実も、非現実も、己の目次第ということになります」
「なるほど。今や隣国の個人の日記すら携帯端末一つで覗ける時代やからな。知りたいことはすぐに知れて、個個人の無自覚な独りよがりや思い上がりが極まっとるんかな。知った気になるだけで、体験なんてしてないのにね」
日向像の構えが上段に変わって激しい振下しが襲いかかると、オトは竹刀を上へ突き出しつつ右足を半歩前へ出し、日向像の鍔元を鍔元でもって撥ね上げる。同時、さらに踏み込み日向像の懐に入って竹刀を抑え込むや、自身の竹刀を引いて剣先を日向像の喉許に向けた。
勝敗が決し、互いに一歩下がる。
「オト君の剣術は離の域ですね、思い上がりではなく」
「お婆さんが後退すれば決着つかんかったよ」
「対応しないオト君でもないでしょう」
「ん。三箇月前に一回長剣を握ったでな、感覚が戻っとるんかも」
ララナの師匠ラセラユナの折れた長剣を直したときだ。「はい、お婆さん、返すわ」
「お手合せ、ありがとうございました」
日向像がお辞儀して竹刀を受け取った。負けたからでもないだろう、上げた顔が浮かない。
「なんか悩み事でもあるん」
「オト君は優しいですねぇ」
「いや、あからさまに浮かん顔をされたら誰でも尋ねるやろ」
「それもそうですかね」
日向像が竹刀を抱えて、打ち明ける。「剣を交えると相手の心が観えることも多多ありますが、オト君の心を観るにはわたしの腕が足らんようでした」
「なんや、そんな意図があって為合を申し込んだん」
「オト君がここに来て四年。結局、わたしはあなたの心を開けんかった。それが悩みですね」
「管理人として」
「ひととしても、ですね」
「お婆さんこそが優しいわ」
オトはストレートに言った。「俺みたいな自惚れた奴を気に懸けるだけ無駄なのにね」
日向像が微笑む。
「生まれたときからの悪人などおりませんよ。ひとを苦しめるにはそれなりの理由があるもんです。あなたもそうだったんでしょう。その理由を失って今は白くなった」
「そのつもりがないんやけどね、そう観えるん」
「ええ」
「なら、そういう要素が行いに滲んだんかな。意図するところじゃないけど、ひょっとするとそういうこともあるんかもね」
オトは後ろを向く。一〇三号室からララナが出てきた。
「日向像さん、おはようございます。オト様、お待たせして申し訳ございません」
「おはようございます、ララナさん。オト君、この辺りで失礼しますね」
「ん」
家に戻ってゆく日向像を向き直り、オトはお辞儀。「いつかまた、為合いましょう」と、一声掛けて。
日向像が振り返ってお辞儀し、家に入っていった。
顔を上げたオトの横についてララナが伺う。
「日向像さんとお手合せをしていらっしゃったのですか」
「世話になったし、一本だけね」
「希しいですね」
「勝敗を聞くより事態の希少さか」
「オト様が勝ったことは想像に固いです」
勝敗に意味のない為合ゆえお互い本気ではなかった。
「それはそうと遅いやん」
音羅達がまだ動かない。「音羅と納月、まだぐっすりやろ」
「子欄ちゃんが奮闘しておりますが、残念ながら石に灸ですね」
「なんで子欄を一人にしてきたん」
「勉強になるかと存じます」
「それならいいや」
困難が立ち塞がったとき一人で思考を発展させなければならないこともある。対策を教えてもらえば解決が早いが、「己で考える」というプロセス自体を怠るようになりかねない。考えない者・行動しない者に未来はない。オトはそう考えているからララナを評価した。
二人きり。ララナが頰を染めて地面を見つめている。こういうことは久しぶりだ。音羅に続いて納月と子欄が生まれ、結師などが訪れてからは二人きりになることがなかった。
一〇三号室の借手がつかないこと、ひいてはこの町の問題を解決するためオトから情報を引き出そうとしていたララナは、取引時などにオトの眼をまっすぐ見ることができていた。ところが、一度オトを男として観てしまうと、まともに目を向けることができなくなる。娘が三人生まれ、相応の行為を何度も経験しているが、ララナの心は未だ汚れを知らぬ乙女のようで長い沈黙に堪えられるか不明だ。
「羅欄納」
「ふぁひっ、はひっ、はい、なん、でしょう」
「仕方ないかも知れんが、取り繕わんでいいよ」
「……痛み入ります」
「引越し業者が来る前に朝ご飯かね」
「そうですね。そろそろ助勢したほうがよろしいでしょうか」
「マイペースならともかく急き立てられて早食いするのはよくないし、たまには俺がやるよ」
「よろしいのですか。……手強いですよ」
ララナが微苦笑である。
オトはララナの頰を撫でて、「任せとけ」と、一〇三号室に向かった。ララナを連れて寝室に入ると、疲れ果てた子欄を労る。
「何回もお疲れさん」
「ごめんなさい、お父様。力及ばずで……」
「ビクともしとらんね。つーか、なんちゅう寝相やの」
枕に脚を掛けて寝ているのが音羅。その音羅の腰に抱きつき同人の股に顔をうづめて寝入っているのが納月である。
「納月お姉様、いつもこんなありさまで恥ずかしいです……」
「納月ちゃんの名誉のため弁護致しますが、音羅ちゃんが反転しているだけです。納月ちゃんの認識としては音羅ちゃんの首許に顔を置いているのですよ」
「そんなとこやろうとは思っとった。音羅の寝相で一番被害を受けとんのは納月やな」
結師の姿はなく、音羅と納月の髪に寝癖一本ない。満足するとあの騒がしさが噓かのように姿を消すので嵐のような子である。テーブルには結師とは別の和装の小人、頭にタンポポのような黄色い花を咲かせた〈クム〉がいるが、結師同様この手のことには向かないので見守ってもらう。
子欄と入れ代って膝をついたオトは、音羅から引き剝がした納月を仰向けに寝かせて頰を両手で挟んで揉み解す。
「ほ〜ら納月〜、起きなさ〜い」
「んぅぅ〜、うぅ〜、あうぅぅ、らりしゅりゅんれぇ、」
ぼんやり瞼を開けた納月が、オトと目を合わせた途端びくっと震え上がって立ち上がった。
「ひぇっ、お父ひゃまあぁぁ〜っ!」
「おはよう」
「っおはようごじゃいましゅ」
オトは納月の頰から手を離し、細〜い目で見やる。「同性愛を否定するつもりはないが姉の股に顔ツッコんで寝とるのはヒっくわぁ」
「わ、わたし、しょんなふうに寝てました」
ザンコクな現実をララナ達が伝えたことはなかったようで、納月の顔がさーっと青ざめた。お蔭で目が覚めただろう。
オトは納月の問掛けにスルーで応え、音羅の頰を挟んだ。
「お〜い、音羅〜、起きなさ〜い」
「うぅ〜っ食べ物がいっぱぁい……」
幸せな夢にどっぷりの音羅の耳許で、オトは高めの声で囁く。
「こっちで幻のお肉が待っとるよ〜」
途端に、
「まぼろしっ」
がばっと起き上がる音羅。その隙にテーブルクロス引きの要領で敷布団を引き抜いて畳んだオトは同時に音羅を抱えて起き上がらせ、掛布団も畳んだ。
「幻のお肉はどこっ」
「夢の中に消えたみたいやな」
「ジェットで目の前だったのに……」
肩を落とす音羅の目がすっかり覚めている。
「物凄い手際ですね……」
と、子欄が唖然とする横でララナが掌を打った。
「荷造りも大詰めですが、まずは朝ご飯にしましょう」
「わ〜い、朝ご飯っ、朝ご飯っ」
ご飯にしか目がない音羅にツッコミを入れることもなく放し、オトはララナに目配せ。
「じゃ、またあとで」
「お一人で召し上がりますか」
「単身最後ってことで。分けたもんをわざわざ合流させる必要もないし」
「私達の分は空間転移で運びましょう」
「魔法の無駄遣い」
「仰ると存じました。では、引越しが済んだお昼はお伴させてください」
「ん」
オトとララナの会話が済んだ頃には音羅が席について手を合わせて待っていた。二人の会話を聞いていた納月と子欄が、名残惜しそうにオトを見上げている。
「お父しゃま、一緒に食べないんでしゅか」
「残念です……」
「昼からは嫌でも一緒やん。何事もその機会を愉しみぃな」
オトは納月と子欄の頭を軽く撫でて一〇三号室を出た。
……好いてくれんのはいいけど、べたべたすんのはよくないな。
納月と子欄が何をもってオトを好いたかが問題である。音羅と同じように、生まれて間もなく大きくなった二人は、そのときには特別オトを好いていた。母ララナや姉音羅にも好感を持っている様子があるが、オトに対する好感はララナのオトに対する好感と同じだ。と、いうのも納月、子欄は音羅と同じくオトの魂の一部を削って生まれているためオトとララナの男女もとい夫婦関係を含む記憶を一部継承してしまうらしい。要するに、納月、子欄のオトへの好感は〈継承記憶〉が原因で、ララナがオトにいだく好感そのものかその断片なのである。
時間の経過で継承記憶が薄れていけば自我に従って好みがほかに向かうことが、音羅のケースから考えられる。継承記憶が薄れたことを本人は意識していないようだが、継承した記憶が薄れつつある音羅は食べ物に強い興味をいだいたことでオトへの感情が安定したようだった。納月と子欄はほかへ興味が移りつつあるものの、まだまだララナの感情的記憶に染まっているように観えた。その状態で必要以上に接触して過度なスキンシップが普通と思い込んだら危険なので、距離感が大事だ。
朝日が眩しい。
オトは、鮮やかな色彩に満ちた世界を仰ぎ見て、溜息をついた。
「ひとまず、朝ご飯やな……」
考えるべきことが数多ある。田創町を中心としたダゼダダ警備国家のゆく末を横目に、手に入れた幸福をいかにして守ってゆく──。それが最も大事である。
一〇二号室に戻ったオトは朝食を味わって、荷物の確認をした。引越しの予約手続きを行った際に受け取った専用のダンボールに詰めた国語辞典と漢字辞書、亡き鈴音に読み聞かせた小説を認めたノートの数数、ビーズとこれを使ったアクセサリなどなど。死に向かって未練を断ち切っていたはずのオトに、未練を示す品がこれだけ残っている。
次に死を覚悟するなら手放さなければ。
ララナのお蔭かララナのせいか、未練が増えてゆく。手放そうと思って手放せるものばかりではない。
進展のない考え事をやめよう。必要な荷物がダンボールに入っていることを確認したオトはガムテープで天面を封じ、ひっくり返した。底面の中央は荷物の重心が掛かって破れやすいので、ガムテープを十字に貼って補強した。十字。宗教によっては磔を連想し、贖罪や自己犠牲、愛を示すそれをオトは床に向けた。
「……」
一二月上旬の留置場脱出の一件で壊れた手錠と新しい手錠を取り替えていたことによりララナが事情聴取を受け、オトは執行猶予を受けていた。留置理由における容疑が晴れていたためオトの手錠に関する罪は実質お咎めなし。オトには未だ明るみに出ていない罪があり、世間からの疑惑も拭いきれていない。罪を償うつもりがないオトは疑惑を拭うことすらも考えていないが、娘が就学するとなれば事情が異なる。それも含めて、今後は娘のことで考えるべき点が多い。
ときには自分を曲げても。それができるなら親として優秀だろうが、できるだろうか。父のことを軽蔑し、親になるべきでなかった人物とさえ表したオトだが、いざ父親の立場になると我を通さないことの難しさを捉えて足が竦んでいた。天才と呼ばれたこともあるが、蛙の子は蛙、と、オトは思う。愚かな父の子であるがゆえに愚かな子になるとは言わないが、自分に限定するなら愚かな子である。
いきなり親になるわけではない。少しずつ、親になればいい。立場ががらりと変わるのだ。自覚や体現を容易く変えられはしない。
親とはなんだろうか。例えば、オトの父毎とオトの関係に照らせば血縁上は親子であるがオトは毎を父とは捉えていない。一方、ララナのように血縁がない育ての親を親と認めた関係も現実にあるのだ──。
一昨昨日、三月二八日。ララナの実家に当たる魔地狭陸の聖家本邸に出向いたオトは、ララナの両親たる聖毅と聖広美、それから同席したララナの妹聖瑠琉乃と会食した。個性を重んずるレフュラル表大国に身を置きララナを受け入れていた一家だけあって、オトの天然パーマや無精髭だけを捉えて悪しき存在と観ることはなく、会食は終始歓迎の雰囲気だった。
五階建ては大金持の邸宅として小さなほうだろうが、敷地面積は途方もなく、邸宅の周囲をぐるりと一周する庭園だけで迷子になりそうだ。そんな家に平然と暮らす一家であるから感性の異なる部分をしばしば感じないでもなかったが、そんなことは同窓生と話していても感じたことなので取り立てて問題視するようなことでもなかった。
オトの心に踏み込む問掛けをしたのは、両手を合わせて口を開いた聖広美であった。
「そう、そう、音さんは羅欄納のどこが気に入ったのかしら」
「直球ですね」
ララナの真正直さを思わせるようなその言葉に、オトは首を傾げた。「どこが、と、いわれても一言では難しいですね」
真意を丁寧に伝えようと言葉を選べば選ぶほど長文になってしまう自覚がオトにはある。
「音さんなりの表現でいいんですよ。怒ったりはしませんから、忌憚なく言ってみて」
ララナの性格は単純なようでいて複雑怪奇。オトに似て歪んだ部分も多多ある。聖広美が知っている部分もあり、感情の変遷もきっとある。それを酌んで理解されるだろう一言を発するなら、そう、これしかない。
「非一般性です」
「なるほど──」
聖広美が微笑んだ。「嬉しいわ。あなたのようなひとがいたことに、わたしは感謝したい」
誰のものであっても、心からの言葉はオトの胸を打つ。
「無論、あなた本人にもね」
聖広美の言葉がそうだった。聖広美の言葉が聖毅の気持でもあることを、また、瑠琉乃の想いであることも、オトは感ずる。聖一家は漏れなくララナの幸せを祈り、見守っている。
──話を戻そう。オトのようにじつの父を親と捉えていない関係と、ララナのように育ての両親をじつの両親と認めた関係。この違いは何か。受けた想いと行為ではないか、と、オトは考えている。身勝手かつ暴力的に振る舞い続けた毎と、ララナを想ってそっと見守った聖毅や聖広美とでは、子への考え方と接し方が一八〇度違った。前者は非常に稚拙で人間的に未熟、後者は精神性を育てるのに理想的であろう。
親らしくあること。それが、血縁以上に親たり得る要素だ。
両親との思い出でオトがあまり記憶にないのは、どこかへ出掛けたことやプレゼントをもらったこと。喫茶店やご近所を訪ねると大概毎の不機嫌で台無しになり嫌な思い出になった。
「ふむ……」
どこかへ連れていって、プレゼントをあげよう。娘とも出掛けたいがララナとも思い出作りをしたい。出不精が祟って行先を思いつかないが記憶の砂漠は頼らない。他者の記憶に頼って選んだ行先にはオトの想いが結びつかないし、己の思考で選び取った物を贈ってこそ思い出ができると考えたのである。
ゆっくり考えよう。オトは親になりたい。その思いを遂げるには時間が掛かるだろうが、その思いこそが娘とララナ──、新たな家族を幸せにすることに繫がると信ずる。
午前一一時、引越し業者のトラックが到着し、一〇二号室並びに一〇三号室の荷物を運び出した。管理人日向像に改めて別れの挨拶を済ませ、トラックを見送ったオト達は徒歩で引越し先へ向かう。
真夏に向かう前から真夏の日差が降り注ぐ三月末日のダゼダダ大陸中央県は田創町。農業が盛んな田舎町でありながら農耕民族が発祥のこの国において政治中枢が置かれるべくして置かれ、都会化こそしていないがひとと物が集まる傾向にあり治安は不安定だった。皮肉にも総理大臣火箸凌一逮捕など混乱が続いた政治の反動で警戒心を高め、国内で最も悪かった治安が少しずつ良化している。テラノア軍事国の武力外交に対する警戒心も多分に含まれてはいるが──。
「──。パパ、話を聞いているかな」
と、音羅がぴょんぴょん跳ねる。その肩に木彫りのヘビのようなものがいる。結師や糸主と同じような存在だが、音羅はその鳴声を取って〈プウちゃん〉と呼んでいる。
「さっきから何か考え事をしているみたいだね。何か深刻なことでもあるの」
「いや、大したことじゃない」
「じゃあみんなとの会話に集中しようよ」
「ふむ、尤もやな」
「モットモって」
「音羅のいっとることが正しいって意味やよ」
「そうなの」
自覚はないが学習意欲のある音羅は存外賢い。「よく解らないけど解った」
「で、なんの話やったん。俺が参加すべき話題やったか」
みんなを瞥たオトに、ララナが答えた。
「荷ほどきがある程度進みましたら昼食を作ろうという話でした。オト様は何を召し上がりたいですか」
「食材にもよるな」
緑茶荘一〇二号室の家電製品はオトの母の所有物であるから糸主と一緒に掃除して全て置いてきた。ララナが一〇三号室で所有していたものが新居に運ばれているので、冷蔵庫も当然ララナのもの。
「残念ながら手許には何もない状態です」
「それもそうか。停止した冷蔵庫に食材を入れとくわけがないわな」
「買出しに参りましょう。ご所望の食材はござりますか」
「音羅達に必要なものを優先してくれればいいよ。俺は食わせてもらえるだけで充分やし」
「では野菜を多めに──」
「野菜はちょっと……」
ぽそっと呟いた納月に皆の視線が集まる。「ひっ、しゅみましぇん……」
「苦手なもんは食べたくないわな」
と、オトはフォロしたが、「米に小麦粉、肉ばっかー、まるまる食って肥え太れ」と、嘲笑いもした。
「ひぃぃ、ヒドイでしゅ……」
「お父様、少しいいすぎです。納月お姉様が怯えてます」
「食わせてもらえるくせに文句をいうヤツに口答えの権利なんかないわ。それに子欄、お前さんも他人事じゃないて」
「えっ、な、なんのことですっ」
ひくっと肩を竦めた子欄に顔を寄せて、オトは小悪党然と笑ってみせる。
「隠しても無駄やぞ、野菜嫌いめが」
「んぅっ」
震え上がる子欄。
オトは表情筋を使わずララナを見やる。
「駄目だこりゃ」
「申し開きようもございません」
納月と子欄の野菜嫌いは二人が食べることを覚えてすぐに発覚しており、主に調理を担当しているララナが好き嫌いの克服を一手に担うと宣言。最近の納月と子欄は野菜を食べるようになっていた。まだまだ苦手そうな納月に対して子欄は完全に克服したようだったが、我慢していただけだ。
「子欄、それに納月も、無理やり好きになろうとしても好きになれるもんやないんよ。ましてや我慢して食べるんじゃいつまで経っても野菜のよさに気づけんて」
「野菜のよしゃ、でしゅか」
「おいしいよっ」
とは、今まで黙っていた音羅が言った。「ホウレンソウはフニャッとしてて柔らかいし、ニンジンはほどいい食感と甘みが病みつきだし、ピーマンはほろ苦くてほかの食材を引き立ててくれるし、もやしはシャキシャキしててジューシだしっ、ダイコンは生だとシャッキリ、火を通すとヤワヤワで、ぅんん〜っ」
「垂涎寸前の説明ありがとさん」
食べ物のこととなると止まらない音羅の口を塞いで、オトは納月と子欄に目を向ける。
「まずは好きな食べ物をよく味わえ。野菜はその次でいい。食べることを好きになれば野菜も自然とうまく感ずるようになる。音羅がいい見本やろ。ね、羅欄納」
「仰る通りです。納月ちゃん、子欄ちゃん、無理やり食べさせてしまっていたことは、私に問題がございました。今日から改善してゆきますから無理せず口に運んでください」
「だ、そうだ」
オトとララナの目差を受けた下の娘二人が顔を見合わせ、うなづいた。
オトと違って学歴がありボランティア精神溢れるララナも間違いを犯す。誤ったとき正しいと思う道を選択し直す彼女の潔さをオトは見習いたく思う。
ダゼダダの太陽は年じゅう熱視線。日差を遮るものがない農道を進む娘の額に汗が滲んでいるのを観て、オトは一つ思い出す。
「納月と子欄って、カレー食べたことあったっけ」
「かれー、ってなんでしゅか」
「納月お姉様、確かテレビで観た食べ物ですよ、腐りやすいから要注意とかって」
「そう、それ。って、食中毒は恐いがそこで思い出すんかい」
ララナが娘の額を拭うのを観ながら、オトは話す。「野菜を食べるならやっぱカレーやろ。根菜やキノコ類はぴったりやし、竹輪なんかを使えば手軽に魚も入れられる。肉全般も入れられるから、野菜嫌いでも食べやすい定番料理やろう」
「音羅ちゃんは食べたことがございますね」
「うんっ、熱くてトロッとしてておいしいよね。お米も進むよ」
「食べすぎ注意だが、野菜克服のためならガッツリぐらいがいいかもな」
「では、昼食はカレーに致しましょう」
オトが推したこともあって納月と子欄から反論はなく、昼食はカレーに決定した。
「ところでオト様」
「ん」
「結局、お母様は帰宅しませんでしたね」
ララナが言ったのは聖広美のことではなく、オトの母のことである。
「パパのお母さんをあまり悪くいいたくないけれど、薄情だよね、帰って来ないなんて」
「薄情ではないからいいんよ」
レフュラル表大国に出稼ぎ中の母銓音は事実上そちらに移住しており、ララナが緑茶荘にやってきてからの三箇月以上、一時帰宅したこともない。
「月に数回帰省するというお話はオト様の噓だったのですね」
「俺は噓つきなんよ」
「存じておりますが、なぜ左様な噓を。必要とは考えにくいです」
「暗示。お前さんは穿鑿が過ぎたから、『とっとと帰れ』の意を込めた」
「邪険にしていたんですね」
子欄が苦笑した。「けれど、お母様を受け入れて今に至ってるんですよね」
「無理やり惚気させようとするんじゃないよ、アホらしい」
オトは溜息が出た。疑問が擡げると一種の感情が動かなくなるララナも惚気ることはない。
「話を戻しますが、オト様、お母様が『薄情ではない』とは」
「『とっとと親離れしやがれ脛齧りが』と、行動で示したんやから親としては満点ですらある」
「乱暴な見立てです」
「そうかもね。やけど俺にはそれがよかったんよ」
「……」
何を思ってララナが沈黙したか想像できたが、オトは問い質さなかった。
「難しいお話は終わりました」
と、納月が首を傾げたところで、オトは立ち止まる。
……──。
瞬く間もないほど一瞬のこと。ララナや娘に悟られず、オトは再び脚を動かしていた。
「納月達には難しい話やったか」
「は〜い、は〜い、わたしもよく解んなかったよっ」
「素直なのはいいことやけど、音羅、『はい』は一回で判る。耳障りやから、間延びさせて何回もいうな」
「うん、解ったっ」
理解すればいい。
「簡単に纏めるとだ、対人関係は他人だろうが親子だろうが等しく難しいということだ」
「パパが、パパのお母さんと喧嘩でもしているってこと」
「喧嘩というのは適切じゃないけど、俺が一方的に悪いという意味ならそんな理解でもいい。そのお蔭でお前さん達と暮らせるんやから、悪い喧嘩でもなかったな」
と、オトはララナを視て。娘には悟られないが気に病んで沈んでいたララナに微笑が戻る。
「喧嘩するほど仲がよいともいいますからね」
「しょうなんでしゅか。喧嘩ばかりしてたら仲が悪くなりしょうなもんでしゅが」
「納月ちゃんがいつか解ることもあるでしょう。登園するようになったら友達とたくさん喧嘩をするでしょうから」
明日四月一日から、音羅、納月、子欄は魔法学園高等部に入学することになっている。魔法学園は魔法の才能を秘めてさえいれば誰もが入学可能であり、実力次第で飛級可能となっている。初等部と中等部に全く通っていない音羅達ではあるが、魔法学の試験を受け、魔法の才でもって高等部進学を許可されたのである。内容を振り返ると非常に危うい子もいたが。
田植えを待つ田んぼを眺めて子欄が口を開いた。
「高等部でしたよね、わたし達が通うのは」
「怖気づいたん」
「それも少しありますが、ほかのひととうまく付き合えるか心配で。年齢的なこととか、経験的なこととか、ちょっと不安です」
継承記憶によって通常の子よりは経験値があるが音羅達は一歳に満たない。幼い面が多く、初めて直面する不安感を中等部卒業生より大きく感じているだろう。が、進級・進学するにしても就職・転職・再就職あるいは離職・引退するにしても新生活へ踏み出す不安がない者は少ない。
オトは子欄を視て、不安を酌み取る。
「みんな一緒やよ。ほとんどの生徒は慣れん場所で見知らん同年代と肩を並べるんやから、競争心もあれば緊張もする、一人で心細いこともあれば、友達をほしく思うこともあるやろう」
音羅と納月も視る。「みんな一緒やよ。お前さん達だけじゃない」
「そうなんでしゅね。じゃあ、ぱぱっと仲良くなれたりしゅるでしゅね」
「それはお前さん達の心懸け次第。みんなと同じ気持や感覚をどう活かすかが鍵やろう。俺みたいに悪意を振り撒かん限りは問題ないやろ」
「パパにも友達がいるよ」
音羅がにこりと笑った。「よく訪ねてくるもの」
「相末君のことか」
「そう、相末学さん」
初等部時代の同窓生であり、相末防衛機構開発所所長の子息だ。昨年末頃からたびたびオトのもとを訪ねており新しい防衛機構や魔導機構の開発にアドバイスを求めている。オトは相手をしていないが。
「相末さん、雑談して帰る日ばかりだよね」
「そうやな」
「アドバイスがもらえないと解っていて来ているような気がするね」
「無駄な時間やな」
「そうかな」
音羅が言うのは、「友達だからただ会いに来ているんじゃないかな」
「有難迷惑やな」
オトは一笑したが、ララナが音羅の考えを支持する。
「オト様はご友人がいないおつもりなのでしょうが、相末さんが同じ認識とは限りません。私が観たところも音羅ちゃんと同じです。相末さんは機構開発のために訪ねているのではない。それは口実ではないか。と」
「お得意の好意的推測やな」
「私の素直な感想です」
ララナらしさ。オトは咎めないが、自分の意見を曲げることもない。
「友人なら要らん。相末君の立場なら防衛機構開発促進の観点で専門家の意見を取り集めるほうが実を結ぶて」
「もうじき立派な成人でも、相末さんも今年頂等部一学年の子どもです。少年時代の友人と思い出を作ることは人生における充実と考えます」
「無駄な時間を過ごしたと後悔するよりは社会貢献に当たほうがいいと思うが、」
我を通しすぎか。と、オトは言動を振り返った。取るに足らないことにまで頑なである必要はなく、そんな態度を取り続けていては不協和を歓迎するような精神を娘に植えつけてしまうおそれがある。と、いうことで、ここは折れておく。
「相末君が将来後悔せん程度に充実した時間を過ごさせるとするか」
「相末さん、パパの引越し先を知っているの」
と、音羅が問うので、オトは当然のように首を振った。
「教えとらん」
「あちゃ〜。ママ、伝えてあげよう」
「既に伝えてございます」
農道の只中にぽつりぽつりと建つ家やアパート。その一軒、目的地についていた。
「お節介のせいで、ここも割れとるわけやな。不言実行もあれやし、まあいいか……」
駐車場横に飾られた石板に彫られたアパート名は、「〈simple thé〉やったな」
「さんぷるて」
と、音羅が復唱した。
「どういう意味でしょう」
と、子欄がオトを仰ぐ。
「さあね。羅欄納、知っとる」
「省略したような綴りですが、simple le thé、『素朴な紅茶』を和語的に指しているのでしょう。本来ならthé rustiqueとするのが普通ですね」
「緑茶荘から素朴な紅茶。チャノキは共通やから似たような外観も納得として間取りも一緒」
「緑茶荘と同じく私の父の管理下です。とは、オト様にはお伝え致しましたね」
「音羅達は知らんかと思って改めて訊いた。つまるところ、住所が変わっただけで住み心地は変わらんってことやな」
引越し業者のトラックは到着しており荷下しに掛かっている。ララナが玄関を解錠すると本格的に荷の運び込みが始まった。
荷をせっせと運ぶ業者を眺めて音羅が背伸びした。肩の蛇プウも落ちつかない。
「手伝うことはないかな。観ていたらうずうずしてきたよ」
「ひとの仕事を取ってやるな」
タンスを片手で持ち上げてしまうほどの異常な力が音羅には備わっている。そんな音羅が手伝いに入ったら引越し業者は来た意味がなくなってしまうだろう。
「ちょっと質問ですが、」
と、子欄が話を変えた。「どうして引っ越したんですか。高等部が近くなったというわけではないですし、緑茶荘に住み続けてもよかったのでは……」
疑問は尤も。新生活が始まる四月を迎えるに当たって、また、竹神一家が家族として出発するに当たって気持を一新するというのもあるが、それだけではない。引越しの経緯をオトとララナは娘に話していなかったので、この機会に話しておく。
「理由は一つ。『緑茶荘の竹神音』が悪評の対象だからだ。今のご時世、携帯端末一つで危険なヤツの情報は判るやろうからほとんど効果がないと思うが、俺への悪評がお前さん達の学園生活にまで響くのは思うところがないわけじゃないんよ」
「そういうことでしゅか。お父しゃまは本当にどうしようもないでしゅねぇ」
「素晴らしい毒舌をどうもありがとう。単なる悪口にならんよう論理的な指摘をするよう心懸けぇよ。方方への配慮と自衛のためには苛めと受け取られん程度の表現自粛も忘れるな」
「冗談にヘンな本気指導しないでほしいでしゅ、もぉ」
「お父様の意見が正論です。さすがですよ」
「それよりパパ、素晴らしい毒舌って言葉なんか変じゃないかな」
わちゃわちゃ。呆れる納月の横で子欄がうっとりし、皮肉に感覚的指摘をする音羅。性格の違う三人の娘とうまく距離を取りつつ拒絶的に接しないというのは非常に難しい。
ララナが両手を合わせて、みんなの注目を集めた。
「さあ、これからはサンプルテの竹神一家です。神界移住計画もございますが、音羅ちゃん達の高等部卒業や移住先が決定するまでこちらで暮らすことになります」
「今しばらくの仮暮しだが、羅欄納にお金を出してもらっとる身やし雨風を凌げるだけで俺は満足だ。音羅、納月、子欄、お前さん達も文句ないな」
オトの問に三姉妹がうなづいた。
「高等部も愉しみだし、これからはパパと一緒の部屋に暮らせるんだもの」
「お父しゃまを毎日弄り倒しぇるのは愉しみでしゅね」
「田んぼが目の前にありますし、年に二度あるという稲作を観察するのもよさそうですよね」
三人とも満足げである。
「ん。羅欄納、そういうわけで、今回の引越しの件、感謝する。みんな満足みたいやよ」
「どう致しまして。家族のためですから、進んでやって参ります」
家族。
……家族か。
一フロア三室の二階建てアパート、一階東角の部屋一〇三号室が新たな家。一昨昨日、聖家を訪ねた帰りに婚姻届を受理されて、オトとララナは公的にも夫婦となり、音羅達を加えて五人家族となった。
得難いものを得た。
手放すためであり死に向けたものだった時間を、これからは守るために、家族という響きを響きだけで終わらせないために、
「無理せず、頑張ろうかね」
休日の夜、橘弓弦はパソコンに齧りついている。一昔前は文字情報が精一杯だったというが、現代は画像まで載せられる。ネットサーフィンで隣国にいる人間の観察もできる。善意が肥大化した便利な時代だ。
一年数箇月前、橘弓弦の姉橘鈴音が殺害された。殺害容疑で一時拘束された竹神音は結局無罪放免、野放し状態にある。橘弓弦は、その竹神音をインターネットという公共の場で大っぴらかつ密かに追っている。
「またそんなもの観て」
「あぁっ!」
コンセントを抜かれた(!)母の仕業だ。パソコンの電源が落ちてモニタが真暗に。
「もう!母さん、やめてくれよ、調べ物してんだからさ」
「また彼について調べてたんでしょうが。やめなさいって言ってるでしょ」
「いいじゃん別に。言われた通り会いになんて行かないよ」
「どうだか」
「息子の言うことを信じろよ」
ささっとコンセントを挿して、パソコンに向かう。「強制ダウンとか、ダメージ大きいんだからホントやめてくれ。弁償してくれんならいいけど、二〇万だぞ、二〇万」
「ったく、すぐお金のこと言う。誰に似たの……」
……誰て。母さんだけどっ!
パソコンは橘弓弦がバイト代を貯めて買ったものだから、母はしばらく強行手段に出られない。ちょっと日が経つと同じことを繰り返すので、母の学習能力の低さに橘弓弦は呆れてしまう。母としては娘が殺されたのだから、竹神音と関わることを避けたり、家族を竹神音から遠ざけようとするのは当り前のことで、責任の範囲でもあるのだろう。橘弓弦に取ってはそれが無責任に思えてならなかった。
……母さん達は逃げてるだけだ。
振り返りたくもない暗い過去がそうさせていることは理解している。敵が竹神音という化物では腰が引けることも。
……だからって、逃げ続けて姉さんが悦ぶかよ。
病弱だったのに、無慈悲に暴行され、殺されたのだから。……姉さん──。
優しい姉を思い出すと居たたまれない。高等部進学後、単身レフュラルに渡った橘弓弦は、姉の治療のためダゼダダに残っていた家族と時折電話で連絡を取り合っていた。顔は見えなかったが、家族の声を聞けただけで慣れない土地での孤独感が薄れて、安らいだ。
──ちゃんと勉強しているんだろうな。
──ちゃんと自炊してるの。
両親の言葉は良くも悪くも親らしく、同居している今と同じようにカチンと来ることも多かったか。
──本当は寂しいんじゃない。大丈夫。
病弱で碌に運動もできない身の上。そんな姉がホームシック寸前の気持を察してくれたとき橘弓弦は家族のありがたみを強く感じたものだった。
姉弟というのは不思議なもので、男兄弟のように手や足が出るような喧嘩をしなかったが、それに等しいほどの内心での喧嘩が発生していないでもなかった。その気配を察すると互いがなんとなく距離を置くから口喧嘩も発生せず、いつの間にか気分が晴れていて喧嘩の事実はないのに仲直りは確実にしていた。そのように、話さなくても気持が通ずることがあって、両親とは通じないこともなんとなく通ずるのが橘の姉弟だった。橘弓弦と橘鈴音のあいだでは二卵性双生児という特殊な関係も影響していたのかも知れなかった。趣味も能力も健康状態も──、全く違ったのに、通じ合っていた。
復帰したモニタ。検索途中だった画像を改めて確認した。竹神音。憎き、姉の仇。四人の少女と一緒に買物をしている様子が一枚の写真に収まっている。画像をアップロードした人間が最低限の配慮からモザイクを掛けているため、未成年の写真でありながら国の規制を擦り抜けて削除されていない。が、文字の情報から竹神音とは推察できる。天才。悪童。元神童。彼を示す二つ名がそれである。
〔ダゼダダきっての悪童が美少女四人とデート中。裏山〜〕
〔裏山〜〕
〔やらかし捕まらず遊び放題ヤリ放題〕
〔裏山〜〕
裏山とは、羨ましいという意味だろうか。インターネットの住人の卑語はよく解らないときもあるが、竹神音について思うところは似ている。
……いいご身分だよ、まったく。
美少女云云はどうでもいい。注目すべきは捕まらないという点だ。
橘弓弦は、「今」があまり好きではない。姉のことを忘れるように、竹神音から逃げ回っているふうの両親など認めたくない。立派な親なら復讐を企てるだろう、と、考えている。現実は平凡なサラリーマンと平凡な主婦、総じて平凡な両親である。平日は仕事でほとんど家におらず休日はぐったり寝入っている父に、特売日を毎日チェックして一ラル・二ラルをケチる母。そんな両親を横目に魔法の勉強で時間を削っているだけの平凡な自分も──。
対照的に、罪を犯しながら捕まることなく女を侍らせてお愉しみの竹神音である。写真は無表情だが内心はどうだか。鋏を突き立てたいが自ら二〇万ラルを損失したくはない。何より情報収集の道具を失うのが痛手だ。プリントアウトしようにもプリンタは持っていないので、好きになれない「今」は心の中で鋏を振り下ろす。
……姉さんの無念は、オレが晴らすからな。
橘弓弦は、両親に代わって姉に報いたい。当時はダゼダダにおらずできなかったことを、なんとか成し遂げたい。ダゼダダに渡るだけの資金はバイトで十分に貯めた。武器も魔物討伐用と称して仕入れた。いざとなれば魔法でも済む。天才、悪童、元神童、それがどうした。姉の仇だ。何者だろうが確実に殺してみせる。
無策に突撃するつもりはない。粘り強く機会を待ち、確実に成し遂げなければ意味がない。
……首を洗って待ってろ。
化物とさえ呼ばれている竹神音にも、必ず隙があるはずだ。どんなに優れた存在も一瞬の隙が命取りである。
──弓弦なら必ずできるよ。
何もできなかった姉とは違う。無抵抗に殺されるしかなかった姉とは違う。
……ああ、できるさ、オレなら。
──始章 終──