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ロゼスタリリア  作者: 檸檬水晶
第1章
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船内

 海。そう聞いて大きな水のかたまりを想像していたのは、もうどの位前だったか。彼には思い出せない。


 青年はわずかな振動に目を覚ます。

 酷く陰鬱な夢を見ていた気がするが、そんなことは今はどうだって良い。


 海。それは宇宙に同義である。

 恒星、衛星、銀河、銀河系諸々。これらを含む宇宙全体を、海と人々は呼んだ。


 その大海原の只中に自分は今居るのだという紛れもない事実が、この青年をなんとも言えぬ落ち着かぬ心持ちにさせていた。


 がたん、がたたん……


 規則的な音を立て部屋は揺れている。その音がする度に焦燥や不安によく似た感情が胸をかすめる気がして、青年は気を逸らすようにその深い色の茶髪をかき上げた。短く硬い髪が大きな手が通り過ぎるたびにぴんぴんと跳ね、また元の形に戻ってゆく。(みどり)の瞳が不機嫌そうに床を睨んでいた。


「アイちゃん」

 不意に名を呼ばれ、青年は視線を上げる。

「起きた?もうすぐ着くみたいだね。」

 青く澄んだ瞳が笑いかけてくる。白い肌に金色(きん)の髪は艶やかで、こんな服さえ着ていなければどこかの国の王子と見紛うほどの容姿であろう。年の頃は九つ程であろうか。名を鉦太郎(しょうたろう)というこの少年は、まだ不機嫌そうな青年の様子には臆することもなく揚々とした雰囲気で笑いかけてくる。

(こんな服、と言ったのは、ぼろぼろに着古した軍服のコートだった。青年も少年と同じものを身につけており、別段珍しい型のものでもなく、そこら辺を歩けば似たような軍服を身につけた者は多いだろう。もっとも、彼らがこれを着ているのは、これしか着る物が無いからというだけの理由であったが。)


 がたたん、がたん…


 規則的なリズムで部屋は振動を続ける。

 所狭しと積まれた荷箱がそのたびにゴトゴトと揺れた。


 宇宙が海ならば、これは差し詰め船と云ったところか。実際、この乗り物は今では船と呼ばれているのだ。列車とかつて呼ばれたそれは今では異星間を行き来するための交通手段となっている。地に鉄の線路を敷き、たかだか同じ星の中の、しかも陸続きの場所だけで行き来する時代はとうに終わった。

 宇宙の大海にラインと呼ばれる無数の人工磁場を形成することで、この世界の交通網は大幅に進化を遂げたと言って良い。ラインは地上での線路にあたる。船にはラインを感知する魔石が埋め込まれており、謂わばセンサーの役割をしているためこの大海原で道を外れて迷子になることもない。

 その船の最後部車両は、多くの場合は貨物車両となっている。本来ならば人の乗る場所では無いそこに、この青年と少年は人知れず乗り込むことに成功した。それがつい半日ほど前のことであった。

 やはり長旅で疲労していたのだろうか。青年はふと思う。()()()()()で乗船して、半日も立たないうちに自分が眠りにつくとは思っていなかったのだ。というのも、簡単に言ってしまえば二人は逃亡者なのである。地球上にある某国の()()()()()から逃げ出してきた身なのだ。追手もまさか地球を出てまで追いかけてこないだろうが、よもやということもある。不法に国を出た挙句、さらに港のゲートをこれまた不正にすり抜け、貨物に紛れてこの船に乗り込んだのが今朝である。ここまで誰にも見咎められずに来れたのは、今思えば運が良かったとしか言いようがない。もしも公的機関(例えばこの船の運営機関)に見つかれば、即刻元居た国に送り返されることは容易に検討がつくし、罰則は間逃れまい。そうした緊張感から、青年は旅が始まって此の方、糸がぴんと張り詰めたように身構えていたのだ。

 しかしだ。眠りについた記憶が無い。目が覚めた瞬間、青年は己の気の緩みを恥じると同時に、睡眠中何事も無かった様子なのを見て少なからず安堵した。また、この旅の始まりがまだ安全とは言い切れない状況であるという事実が彼に再び緊張の糸を張らせたのは言うまでもない。


「アイちゃん」

 再び名を呼ばれた青年は、なおも不機嫌そうな表情である。

「その呼び方やめろって言ってるだろ」

 眉根に皺を増やしながら青年が立ち上がると、二人の体格差があからさまに見て取れた。

 青年は年の頃十七ほどであろうか。

 長身とはまではいかないであろうが、鉦太郎の頭が丁度彼の肘辺りにあるせいか、二人並んでいるとやはり傍目には背が高く見える。


「窓もねぇし、ここからは外が見えないな」

 緊張を気取られぬよう、青年はわざと辺りを見回して見せた。なかなかどうして、目の前の少年は勘が鋭いので普段から青年は難儀していた。少年の純粋とも言える好奇心と観察眼とは、ともするといとも簡単にこちらの知られたくない事情のすぐそばを掠めていくのである。

 小さな子どもには知らなくて良い事情がこの世界には山ほどある。そう青年は常々思っている。だから、気づかなくて良い。子どもは大人の心中など、察する必要は無い。ましてや察した先で心配などされては、たまったものではないのである。

「アイちゃん、それがね、そうでもないんだよ!」

 心中を誤魔化すための青年の言動はどうやら功を奏したらしい。少年は相変わらず無邪気な態度で青年の手を引くと、

「ほらね!見て!!」

 そう言って近くにあった荷箱の裏を指差した。

 見ると、そこには無論この船内の壁があるのだが、木の割れ目から薄く外の光が漏れているのがわかる。

 そっと近づいて鉦太郎の横から覗き込んだ青年は、はっと息を飲む。

「これは……」

 それは漆黒に描かれた青く光る弧であった。

 美しく静かな青が、刻一刻と瞬きをたたえる暗い空の中に巨大な球の一部を横たえているのだ。地球だった。

「地球ってこんなに大きかったんだね。僕はじめて見たよ」

 はしゃいだ鉦太郎が隣でそんなことを言う。

「……ああ」

 青年のほうでも内心思いもかけない美しい光景に胸が高鳴るのを感じていた。柄にも無く子どもじみた、わくわくとした冒険心のようなものが胸に広がっていく。こんな心境は、果たしていつぶりであっただろうか。つい先程までの焦燥や不安をも青年は忘れ、ただただ少年と共に青い星を眺めていた。

 そうしているうちに、青年は後から考えても驚くほどこの状況には不似合いで前向きな言葉を放った。


「もしも逃亡が上手く行って……もっとずっと、遠くまで行くことができたら、この他にも、……たぶんいろいろな景色を見ることが出来るかもしれない……」


 どこか神々しさすら放つ青から目を離せないまま、青年はだいたいそんなようなことを言った。鉦太郎は少し驚いたようだったが、すぐに嬉しそうに笑った。

「そしたら、アイちゃんと僕とで行けるところまで行こう!きっとアイちゃんとなら、楽しいよ」

 臆面もない返答にどう返すべきか窮したが、青年はこれはまた珍しく素直に、ただ「そうだな」とだけ言った。

 常に苦を強いられる環境では、安全や安心を確保するのが最優先事項である。そしてせっかく手にしたそれらも長くは続かない場所に長く身を置いてきた青年としては、このような、裕福な子どもが冒険小説を読むような心持ちで何かを望もうなどと考えたことも無かった。しかし。

「そうだ。遠くまで行こう。遠くまで行くぞ。」

 一体どこからこんな無責任な事を言える勇気が湧いてくるのだろうか。今自分は、どんな顔をしているのだろうか。青年は久方ぶりに少年の方を見た。

「うん!」

 青年の言葉を聞いた彼は一段と嬉しそうに頷いている。よく晴れた日の空のような目が笑った。この目はいつも真っ直ぐに感情を投げかけてくる。この目は窓なのだと青年は時折思う。ありのままの気持ちをこちらに投げかけてくる窓。そしてその窓からはこちらの憂いや不安も、もしかしたら丸見えなのではないかと危惧するのである。この少年はおそらく、子どもだからこそ知らなくて良いことを、その子どもさ故に持つ素直さや好奇心で知ってしまう性質の人間である。子どもさ故に、というのはもしかすると違っていて、彼自身の持つ探究心に因るものなのかもしれないが、そんなことはどうだって良い。現状、こちらは常にその性質に脅かされているのだ。


 何も知らなくて良いというのに。


 難儀なことである。鉦太郎が、ではない。他ならぬ青年自身が、である。


「ともあれ、下船をなんとか済ますことが問題だな」


 少年の目から逃れるように、船内に向き直った青年はそう言って腕組みをした。

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