[2]:活動拠点
不老不死があったなら、人は死の恐怖から解き放たれるのだろうか。
それは事実である。だから私は、何度も死のうとした。あの人の時も、そのまた次も、何度も、何度も。でも、本当に死んでしまうことは叶わなかった。死が避けられないものとして恐怖の対象となるのなら、私が抱くのは生の恐怖。あの人に与えられた、無限に続く孤独の呪い。
「少し落ち着きましたか。」
少年の心配そうな声で我に帰る。私たちはトイレを出て、公園のベンチに座っていた。この体はものに触れることこそできないが、ある程度自由な体勢をとれるらしく、ベンチに座る真似事ならできる。
「ええ。ごめんなさい、取り乱してしまって。」
「いえ、お互い大変ですから。」
自分の顔と声をした人物と話をするのには、しばらく慣れそうもない。しかも中身が年若き男となると、その違和感たるや。
「…えっーと、名前は?」
そうだ、まだ教えてなかったっけ。
「私は…」
言いかけてから、名乗るべき名前がないことに気がついた。とっさに、最後に使っていたものを告げる。
「私は工藤。あなたは?」
そう聞き返すと、少年はハッとしたような表情になった。どうやら彼も自分が名乗っていないのを失念していたらしい。
「僕は安倍と言います。工藤さん、よろしくお願いします。」
安倍という少年は「よろしくお願いします」と言った。私としては、あまり長いこと一緒にいるのは避けたいところではあるが、返事をしないのも失礼だろう。
「よろしくお願いします、安倍くん。それで…あなた、これから行くあてはある?」
「僕はこれから家に帰ってみます。」
「家以外で。」
「えっ。」
本気で意外に思っているようだ。息子が死んでてんやわんやの家に別人の姿で、しかもそんな血まみれの格好で突入するなんて正気の沙汰ではない。人殺しと罵られて物を投げつけられる可能性もある。あるいはまだ事実が伝わっていないかもしれないが、順番が前後しても、その行動が余計な混乱を招くのは目に見えている。…これは初対面からの印象だが、彼は鈍いというか、少し抜けているところがある。放っておいたら大変なことになりそうだ。
「あなた、とりあえず私の家に来なさい。そこで血を流して、着替えて…これからのことは明日考えましょう。」
彼は目をぱちくりさせながら、はいと答えた。
私は彼とその家族とを引き離してしまった。とりあえずと言ったが、もう永遠に親子として会えない可能性だってある。もしかするとここが彼と人間社会との乖離の始まりになるかもしれない。この素直で純朴そうな少年に、私と同じ思いをさせたくはない。私がどうにかしなければ。どうにかしなければならない……それは、どうやって?
「ずいぶん大きいですね。こんな家に1人で住んでいたんですか。」
住宅密集地から少し外れたところにある活動拠点に着いた時には、時刻は8時をまわっていた。
「いいえ。ここ、実は私の家というわけじゃないんだけど、自由に出入りさせてもらってたの。」
「でも表札に工藤って書いてありましたよ。」
鈍い少年だと思っていたが、こういう所には案外気がつくらしい。さっき咄嗟に名乗ったのは失敗だった。こんな状況でいきなり身の上話をするのはできれば避けたいし、彼には余計なことを考える前に一旦休息を取ってほしい。適当にはぐらかすことにした。
「ここの主人は別の工藤。あ、鍵はそこの植木鉢の下にあるからね。」
「ええ?こんな所に置いてたら無用心ですよ。」
「大事な玄関の鍵がそんな所にあるなんて普通思わないでしょう。」
「そういうものですか。」
少年がしゃがむと長い髪が視界を遮るようで、とても鬱陶しそうにしている。やはりまだ私の体には慣れていないようだ。思えば、結構な距離を裸足で歩かせてしまった。いや、彼は私と合う前から歩いていたな。たった1人で、こんな状況に文句も言わずに…。
「開きましたよ。」
彼が扉を開け、先に入るように促す。
「あら、ありがとう。でも先に入ってて。」
「…?はい。」
一瞬訝しげな顔をしたが、すぐに中に入ってくれた。聞き分けが良いのは彼の長所だ。疑問があっても「何か訳があるのだろう」と察して相手の意思を尊重する。場合によっては都合のいい人間になってしまいかねないが。さて。
「うわっ!!?」
閉まった扉をすり抜けて彼の目の前に現れると、予想以上の良いリアクションをしてくれた。
「そんなにびっくりした?」
「びっくりしました。」
素直な感想に思わず笑みが零れる。いや、私は一体何をしているのだろう。今はふざけている場合ではないのに、彼の一挙一動には何かちょっかいを出したくなるような、そうさせる力があるような気がする。放っておけない、というのだろうか。
「私はこんな体だから、次からは気を遣わなくても良いわよ。レディファーストといえば今はあなたもそうなんだし。」
「なるほど、確かに。」
軽い冗談を言うと、彼も笑ってくれた。
シャワーを浴びる前に、少年には私が普段着ている服の場所を教えておいた。私はその間やる事もなく、リビングのテーブルの上でフワフワと浮いている。TVの電源くらい点けていってもらうべきだったか。それにしても、電気やガスが止まっていなくて良かった。この家があと何日使えるかは分からない。彼が路頭に迷うことになる前に、なんとか事態を収束させたい。
「あの、シャワー浴びてきました…。」
10分ほどして、私の服を着た少年がリビングに入ってきた。
「あら、似合ってるわ。」
「そりゃあ、あなたの体にあなたの服ですから…。」
少年はもっともなことを言う。しかし、彼は何やらやましいことがある子供のように、落ち着きがない様子でモジモジしている。用意した服が彼の趣味に合わなかったのだろうか。一応パンツスタイルにしておいたのだが。
「いや、その…下着が…。」
ああ、なるほど。そういえばそうだった。私としても自分の服を人に着せるくらいならなんとも思わない(むしろ少し楽しいかもしれない)が、下着となると変な気分になる。今気がついた。それに、彼は女物の下着を初めて履いたわけで、恥ずかしさは私の比ではないだろう。いや、シャワーを浴びる前までは普通に履いていたのだから慣れてくれても良い頃だが、彼も自分が女性用下着を着けていることにさっき気がついたのかもしれない。恐らく、脱ぐときに。
「一応男物もあるけど。」
「それでお願いします!」
場所を教えると、彼はその下着を握りしめて、どこかへ着替えに行ってしまった。少々不恰好にはなるが、まあ下着だし、見えなければいいだろう。それにしても…前の男の服を別の人に着せるとは、不思議な体験である。
『高校生の阿部さん17歳は、頭部を強く打って即死——警察は殺人事件として捜査を進めており——』
少年と一緒に見たニュースでは、そのような報道がなされていた。
「やっぱり殺人事件ってことになるんですね。」
あの現場を見ればそういう結論が出るのは自然なことだ。頭蓋骨が陥没しているのにその原因が周囲に無いとなれば、彼を撲殺した犯人が凶器を持ち去ったということになる。まさか犯人自身が凶器だとは思うまいが。…自分がどれだけひどい事件を起こしたかを思い出して、また申し訳ない気分になってきた。
「あ、いや、工藤さんを責めているわけではなくて。」
「責めるべきよ。」
「…。」
反応しづらい台詞で少年を困らせてしまったが、この認識だけは間違えて欲しくない。私は彼に取り返しのつかないことをしたのである。
「…じゃあ、代わりに理由を話してもらえますか。あなたが自殺した理由を。」
想像もしない切り返しをされた。彼は、あの公園で話した時からそれが気になっていたようだ。あまり気が乗る話ではないが、ここで請われては答えないわけにもいかない。だが、
「それは明日話すわ。」
「えっ。」
少年は心底意外そうな顔をしている。このタイミングなら絶対に話してもらえると思っていたようだ。
「もう遅いから、今日はしっかり休んで、大変なことは明日から。そういう話だったでしょう。それに、この話は長くなるから。」
「……っ、わかりました。」
恨めしそうな顔をしながら、しかし少年は頷いてくれた。彼には疲労のないさっぱりした頭で状況を捉え直してほしい。彼が寝ている間、私は私にできることを考えよう。彼にどこまで話すかも、決めておかなければならない。
3話くらいで終わると言いましたが、続きが決まってないせいか物語が遅々として進まないので、サブタイトルを改めておきます。完結したらいいなあ。