深夜
四人は長く店に留まっていた。暫し後には、それぞれが今夜語れる話は尽きてしまった。皆は食べたぶんの金を支払って店から出でる。何処からか吹ける冷ややかな風が、四人の身体のほてりをさまそうとしている。また星を伴い浮かぶ月が下すほのかな輝きで、身は更々に冴ゆる気分であった。
四人は横へ連なって歩いた。酔い、感覚が乱れる今は、目の前に連並む家々の石煉瓦の壁が、トバルには、奥へ奥へと自分たちを吸いこむ迷宮の壁のように思えた。夜の闇がその妄想に装飾を加えていた。
突然、ロフが「おっ」と声をあげた。「お前ら、あそこの壁を見てみろよ」と指をさす。
三人はその方を向くと、壁の一部分が蛍の光より淡い緑の光を発していた。デオが「何これ」とロフに聞くがしかし、わからないと返された。他の二人も知らぬのは同じである。するとアパテムが早足で直ぐにそこへ寄った。
彼は学者で、己が知らぬ事は知悉せねば気が済まないという性の人であるから、この謎なる明かりに彼の備えた探究の欲が呼び起こされたのだ。
さて、トバルはかの光を眺めて、それはゆっくりと壁を登っている事に気が付いた。その発見はすかさず「なんかこれ動いてね」という声になった。その一言は、アパテム以外──彼は間近で見ていたのでそれに気が付いていた──の二人を驚かせた。
「うっそぉ、気持ち悪ぅ」とデオが零した。それは掌ほどの大きさであるから、そういう類のものを嫌う人ならではの反応であった。
上体を傾けたり、壁に顔を押し付けたりなどして様々な角度から観察していたアパテムが三人に聞こえるように「ナメクジかな、これは」言った。
「マジ?」とデオがアパテムの傍に寄った。次いで二人もその近くへ来る。
「へぇ」
「ホントだ、この頭の伸びてるやつがナメクジだ」
四人は壁際に集まって、光るナメクジを見つつ騒いでいるとアパテムが「惜しい、惜しいぞ」と言った。これに対してトバルが「何が──あ、何、欲しいの? これ」と言う。すると、そうだと彼は頷いた。
「誰か、瓶とか何か容れ物持ってない?」と続けた。
三人は周囲を見渡したが、容れ物になりそうなものは見つからなかったため、「無いな」「無い」「無いです」とそれぞれ言った。アパテムは溜め息をついた。途端、左手をナメクジの下に差し出して、右手で壁を這うナメクジを叩き落とした。そして左手を器にしてこれを受け止めた。
それを見て、ロフが「嘘だろお前」と笑い、「うわ、よく触れる」とデオが不快そうに顔を歪めた。だが彼はそれを人ごとのように聞き流して、また観察を始めていた。
「眠いから帰ろ」
トバルが、アパテムは研究に入ると時を忘れがちな事を危ぶみ、先にそう告げた。しかし彼は何故か「ちょっと待って」と言うのだ。対しデオが意見を同じくして「帰ってからでいいじゃん」と。ロフは「うんうん」と口にしながら首を縦に振った。
両手を掲げて、指の隙間からナメクジの下を覗きながらアパテムは「それもそうだ」と納得した。
そうしてまた帰路を歩いた。一人またひとりと家への道に別れて、その度に「また」「じゃあな」と短い言を告げるのである。デオと別れ、遂には夜道にトバル一人となった。帰宅道中、彼はユジフと会った。トバルは先程に眠いと言ったにも拘らず、ユジフと出会ったその場で立ち話を始めた。話していると、昼の事があったが、彼の体調はすっかり良くなったようでトバルは安堵した。そして、実は君の名前を忘れていたことを告げると、彼は「えぇ、ひどいですよ」と朗らかに笑った。トバルもまた小さく笑って、「悪いな」軽く謝った。そして昼から今に至るまで、たびたび思い出しては気になっていたことを訊ねた。すると、「ああ、あれですか」と返した。
「あの穴を見たせいで、ああなったんですよね。何でしょう、目が回った? 酔った。そんな感じです。で、肝心のその穴についてですが──何か、毒々しい色や眩しい色が渦巻いてたんですよ。それでもう、地に足がついているのかもわからない程に身体が回転した感じになってから具合が悪くなって……。あと、明るい物を見た時って、視界に黄色かったり黒かったりするのが点滅しますよね、それがもうチカチカチカチカと激しくて、もう眩しいったらありゃしない」
「よくも、あんなものを覗かせてくれましたね」と笑って言った。
「いや、知らなかったとはいえ悪かったよ。だが、この世で二番目くらいの初めて空に開いた穴を上から覗いた男として誇っとけ」とトバルは謝罪の後に冗談を述べた。
「なら一番目がよかったし、でもそれは誇れるものなんですかね?」とユジフは答えた。
この返答を最後に、トバルが「じゃあまた」と言って、また歩き出した。すれ違う際に多少の言葉を交わし、互いに離れていった。
それからはトバルに何事もなく家に着けて、着る物をそのままに、風呂にすら入らずベッドに倒れ込んだ。服の固い感触を僅かに厭だと思いながら、しかし脱がずに寝転び続けた。目は蕩めき、瞼をあけるのもはやかなわぬ頃となり、ゆっくりと遠くから這い迫るまどろみを受け入れ、彼は安らかに寝入ったのだった。