RPG
呼吸を止めろ。
気配を消せ。
感情を静めろ。
昂ぶれば悟られる。気を抜けば分散する。散らばった雑念は自らの足を掬う罠となる。一点に収束するイメージ。視界も、意識も、感情も。全てを統一して仕舞い込んで体さえも縮こまらせて一畳に満たないベッドの中に閉じこもる。
震えさえも止めて。心臓すらも押しとどめて。闇の中に溶け込んでいくイメージ。
そうしていれば、恐怖はやがて去っていく。僕の中に微量の毒を蓄積して。
恐る恐る、被った掛布団を持ち上げて、隙間から部屋の中を覗き見た。寝室は消灯時間が始まったときと同様に真っ暗なままで、見回りのいる気配はない。どうやらもう出て行ったようで、僕は毛布から顔を出してふうと溜息をついた。冷たい外気に触れた顔が心地よい。毛布の中は暗くて狭くて息苦しかった。それでも、身を守るためにはその中に閉じこもっているしかない。
夜中、警察を上手くやり過ごすコツは姿を隠して寝たふりに徹することだ。僕が生まれるずっと前から続く長い戦争状態、厳戒態勢の中、夜更かしをしている者は社会秩序を乱すということで数時間の再教育プログラムを強制される。夜更かしの罰はまだ生易しい方だ。社会体制への明らかな反乱行為とされるものは問答無用で長期間の拘留、運が悪ければ極刑も免れない。また、軽度の違反行為を繰り返した者も、その数に応じてどんどん罪状が膨らんでいく。一番いいのは、息を潜め、死んだように従順に、波風を立てないよう黙って過ごすことだ。そうすれば、生きることはできる。
やっと訪れた本当の静寂に、僕は少し安堵する。巡回は一晩に一回。時間もだいたい決まっているから、気をつければ滅多なことでは摘発されない。見上げた天井は部屋の大きさと同じ、猫の額ほどの広さしかなくて、その下には簡易ベッドと箪笥と申し訳程度の作業台、そして小さなラジオがぽつんと置かれている。人一人が寝起きする分には過不足のない大きさ。必要最低限とはかくも質素なものなのか。
飼い殺すつもりがないからか、それともただの慈悲なのか、簡易ベッドにはそこそこ厚めのマットレスが備え付けられていて、休養はどちらかといえば推奨されている。ベッドから這い出てマットレスの上部分を捲ると、日々の鈍痛の原因でもある、大量の書籍が姿を現す。祖母からこれを受け取った当初はどこに隠したものかと頭を悩ませたが、肉抜きし健やかな睡眠を犠牲にすることで代わりに知識を得ることに成功した。情報統制と画一化が常識となったこの国でこれらの本を持っていることが発覚すれば、おそらく命がないだろう。しかし、これを捨てることは自分を捨てることと同意だった。
本の世界は、僕の知らない輝きで溢れている。目も眩むくらい幸せな誰かの人生や、大昔の人が考えた哲学、手に汗握る攻防や人間のあるべき姿、この世の心理、正義、悪、日常。そして、じっとしているのも苦しくなるような、心踊る恋模様。誰かの描いた絵を見るのが好きで、誰かの考えたことを知るのが好き。知らない人の綴った物語は僕が経験したもう一つの人生となり息づいて、新しい扉を開く度に、今いる場所が戻るべき場所ではないような、本当に帰る場所は今から行く場所にあるような、そんな錯覚に陥る。両手で抱えられるほどの大きさに書き記された世界なのに、僕が今生きている世界の何百倍も広いように思える。多分、錯覚ではない。新しいページを捲るように、いつか僕の閉じ込められている世界の壁をはらり、と開いてみたい。そう思っている僕は、ここでは犯罪者なのだろう。
このコロニーでは夜、街灯の一つも灯らないからほんのわずかな光でもよく目立つ。毛布を被り、懐中電灯の光が漏れないよう厳重に注意して、今日は何を読もうかとわくわくしながら本の山を探る。上の方の本はあらかた読み終わってしまったから、奥底まで探らないといけない。いい加減仕事場に隠してある蔵書との入れ替えが必要だなと考えていると、指先が底板を叩いた。
「凄い量だね」
突然の声に心臓が止まった。
反射的に明かりを消して、マットレスに蓋をする。驚きこそあったが、常に発覚を恐れ何度もシミュレートを重ねていた体は、考える前に行動を起こしていた。
とりあえず見えないところに隠す。恐怖と驚きで真っ白になった頭は、ただそれだけを命じている。驚くのは後、まずは本だ。行儀悪いとは思いながらも、床に散らばっていた本を急いで蹴とばしベッドの下の空きスペースに滑り込ます。
「痛いっ」
と声がした。恐る恐る下を覗き込み、目を凝らす。暗闇の中、何かがもぞもぞと動いている。
「ほんっと、凄い量だね」
痛いくらいだよ、と声が続ける。
「そこにいるのは誰?」
僕の声は、いささか落ち着いていた。警察だったら、既に僕は拘束されているはずだ。それでもまだ、油断はできない。
「私?」その声色は跳ねるようだった。「簡単に言うと、指名手配犯、かな。ちょっと匿ってくれない?」
鏡に向かって『お前は誰だ』と問い続けるとアイデンティティを失うと、いつだったか本で読んだことがある。しかし、話していて常識や現実感を失うようなことがあるとは思いもよらなかった。アイデンティティというよりも、世界が崩れていくような感覚。隣に座る女の子は、まるで魔法の鑑のようだった。
「ちょこっとワケアリで追われてるの。だからさ、朝まででいいから匿ってよ」
「どうしてよりによって僕の部屋に」
ため息交じりに一人ごちる。とりあえず話を聞いてという彼女に、僕が折れた形となる。電気を点けるわけにはいかないから、真っ暗な部屋で女の子と二人、並んでベッドに腰掛けている。何も思わないほど純粋なつもりはないが、状況が状況だけにときめく余裕はない。
「別に偶然この部屋に迷い込んだわけじゃない。ここがよかったの。君なら私のこと匿ってくれそうだったから」
「そんな保障ない」
「あるよ」
「どこに?」
「だって脅迫するもの」
女の子がにたり、と怪しく笑った。
「逃げ込んだ先は、禁書を大量に隠し持った思想犯の部屋でした、って。ね? あなたも私も共犯者」
彼女が自分と僕を交互に指差し、また笑う。
「共犯は違うか。でも、同じ穴のムジナ」
僕は天を仰いだ。犯罪に加担するつもりはないが、かといって事を大きくするつもりもない。できることなら速く立ち去っていただきたいのだが、残念なことにこちらも秘密を抱えている。彼女がこの国に追われる立場だということを聞いてから、半ば諦めはついていた。
「見つけちゃったのは本当に偶然。君がこそこそ本を部屋に運び込んでいるのを見かけて、いつか使わせてもらおうと思ってたの。でも、本当に凄いね。私の部屋よりあるんじゃないかな」
「他の人には、言いふらしたりしてないよね」
「ないない。だって言いふらせるような人がいないし」
彼女は快活に笑う。雰囲気から察するに、歳は僕とそう離れていないだろう。十代の子は珍しいから、もしかしたら知っている人かもしれない。
「ねえ、こんな大量な本どうしたの? 密輸?」
「君こそ、なんで追われているのさ。政府批判でもしたの?」
時間外行動程度で指名手配されるようなことはない。あるとしたら、秩序に対する罪、反乱行為だろう。
「じゃあ、取引。私のことも教えてあげるから、君のことも、教えて?」
外は相変わらず静寂と漆黒に包まれている。月明かりも星明かりもこのコロニーでは降り注がない。昼は日光が透過されるのでコロニー内も明るく照らされているが、夜は完全に外壁を閉じてしまう。防衛は可能な限り万全に。この国は臆病だ。
いいよ、と僕は答えた。どうせ長い夜だ。何もしないでいるよりは、誰かと話している方がいい。それにきっと、この子は本の世界と同じくらい、何か面白い世界を持っているような気がした。少なくとも、そうでなければ指名手配になどならない。
「この本はおばあちゃんからもらったんだ。この国が戦争を始めて、コロニーに引きこもる前からこの場所に住んでいた人だったんだけれど、ずっと本を隠していて、死んじゃう前に僕に隠し場所を教えてくれた。本当の世界を知りなさいって、よく昔話をしてくれる人だった」
「お父さんとお母さんは?」
「いないよ。思想犯だって、連れてかれちゃった」
「なら、私と一緒だね」
「一緒?」
「私のお父さんは旅商人だったの。世界を渡り歩いて、国から国へ品物と情報を届ける仕事」
「ジャーナリスト?」
「違うけど、近い言葉ならスパイかな」
「戦争の仕事だ」
「そうね。でもお父さんは言ってた。自分の仕事は人を不幸にするかもしれないけれど、人を不幸から守ることだって出来るって。誰か一人、例えば自分一人がボイコットしたところで何も変わらないのなら、せめて誰かを一人を救った方がいいって」
「でも戦争が続くから、僕らはこんな狭いコロニーに閉じ込められているんだろ。それってなんだか、詭弁じゃないか」
いつの間にかムキになっていた。初めて出会った、自分の考えをぶつけ合える存在に気分が高揚していたのかもしれない。そんな僕に反して、彼女は冷淡に言った。
「こんなに本を読んでいるのに、君は現実を知らないんだね」
「現実って、何だよ」
「いいよ、今度見せてあげる。それにしても、思想犯の子供のくせに普通の生活を送ってるんだね。普通、親が犯罪者なら見張りがついたり捕まりそうになったりするんじゃないのかな。ほら、現に私がそうだし」
「おばあちゃんが庇ってくれたんだ。僕は違うって。おばあちゃんは人望もあったし、発言力もあったから。親のことも守ろうとしたんだけど、さすがに証拠が多すぎて」
「でも、おばあちゃんが君たちに勉強を教えたんじゃないの?」
「頭がよかったんだ。身の振り方を知っていた。でも、だからこそ両親のことを悔やんでて、それで体を壊して、そのまま。苦しそうなおばあちゃんをずっと見てたし、両親にも釘を刺されたから、僕は今こうして静かに暮らしている」
「天涯孤独なんだ」
「なんか、当たりきつくない?」
「お返しよ」
ふふっ、と彼女が笑う。別にいいけど、と僕は思った。僕も悪いことを言ったとは思っていない。
「君のお父さんはどうしてるの?」
「今も旅を続けている。私が狙われているのは多分そのせい。みんな、お父さんの居場所を知りたいんじゃないかな」
「あのさ」僕は先ほどから気になっていたことを口にした。「さっき、私より本を持ってるって言ったよね。君の家にも、本があるの?」
「あるよ。見たい?」
僕は黙って頷く。
「いいよ。じゃあ現実を教えるついでに私の部屋に招待してあげよう。次の休息日はいつ?」
「今日」
「ならちょうどよかったね。朝になったら、行こ」
そう言って彼女は毛布をひったくり、ベッドに横になった。
「ずっと思ってたんだけどさ、このベッド痛くない?」
余計なお世話、とは言わず、僕はどこで寝ようかと部屋の中を見回した。
いくら肉抜きをして厚さが一センチにも満たなくなったマットレスと言えど、布地とコンクリートでは柔らかさに天と地の差がある。硬く冷たい床の上で一晩を明かした体はさすがに悲鳴を上げていた。布一枚を介すだけでこうも睡眠の質に違いが出るとは、まだまだ世の中知らないことばかりだ。凝り固まった体と頭を解す。反省。
全身を伸ばしながら窓の外に目をやる。窓からは朗らかな陽光が差し込んでおり、打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた部屋を暖かく照らしていた。普段ならもう部屋を出ている時間だが、今日は僕の休息日である。七日に一度訪れる休息日は僕たちに許された唯一何をしても良い日で、今日こそ体の痛みに早く目覚めたものの、普段ならもっと遅くまで寝ていることが多い。最も、それは前日の夜遅くまで読書に勤しんでいるためであるが。
市民の統一化、画一化が為されたこの国では、誰もが一様に均等に、差別なく働いている。人的資源は適材適所各部門に振り分けられ、朝から晩まで無理のない十二時間労働が六日間続く。食事は決まった時間に決まった場所で。時間と規律を守ることは当たり前。軽度の違反には休息日に教育プログラムが施行され、重度の違反は拘束されみっちりと再教育される。
休息日は各々個別に指定されており、どの日に休んでも不公平がないよう店は毎日同じように執り行われている。七日周期なのはかつての太陽暦における曜日を意識していたためであるが、一日毎の差別化がされなくなった今ではその呼称も廃れてしまった。
今日は休息日。その他は仕事の日。誰もがそう認識して生きている。本によれば、これは社会主義と言うらしい。
誰もが平等な世界。誰も不幸にならない世界。誰かが目指した理想郷。でも、ここは本当に、幸せな世界なのだろうか。僕は幸せなのだろうか。他の人は? たぶん答えは違う。本当に幸せだと誰もが思っているならば、誰も彼も変化を望もうとはしないはずだ。
起きればベッドはもぬけの殻で、昨晩のことがまるで夢のように感じられた。
世界は嘘をついている。不透明なベールに包みこまれているようで、息苦しさを感じる。政府も、それに従う人も、必死に生きようとしている人も、僕ですら、誠実さに欠けていて、嘘で塗り固められているようで、吐き気がした。
壊してやりたい。心の奥底に仕舞ってそのまま忘れていたかつての感情が、少し顔を見せ始めていた。
宿舎はやけに騒がしく、僕は着替えを済ませると一階のエントランスホールまで降りて行った。
宿舎のエントランスホールは集会所の役目も兼ねており、時々そこで朝礼が行われるので住居者全員が入れる分だけの広さが設けられている。円形状のスペースには随所に照明とスピーカーが設置されており、玄関ドアと正反対の位置には食堂へと続く扉がある。
いつもは閑散としているはずのエントランスホールは、今日は制服姿の警察でいっぱいだった。
「何かあったんですか?」
と、僕はエレベーターから降りてすぐのところにいた警察官に聞いてみる。
「昨晩不審な人物がこの宿舎に逃げ込んだとの情報があり、捜索している。心当たりはないか?」
上から下まで真っ青の、きっちりとした制服に身を包んだその人はかなりガタイがよく、屈強な胸板と黒光りしながら腰にぶら下がっている自動小銃が鉄壁の要塞を思わせる。階級章は少尉を示しており、彼の首元で誇らしげに鈍い輝きを放っていた。
「ないです。全く」
ぎろり、とそれだけで人を殺せそうな鋭い眼光が僕を貫く。嘘は得意ではないが、感情を表に出さない術なら体に染みついている。
「そうか。何か情報があったらすぐ報告するように」
少尉の視線が僕から外れる。ほっと、見えないように息を吐いてから、僕は探りを入れた。
「その子、何かしたんですか?」
「お前には関係のない情報だ」
再度、少尉の殺人眼光が僕に向けられた。僕は少し萎縮しながらその場を後にした。なるべくゆっくり歩いて、警察官たちの会話を盗み聞きしながら玄関ドアまで向かう。断片的な会話を統合したところ、どうやら彼女は深夜遅くに宿舎に逃げ込み、そして既に脱出を果たしたと考えられているらしい。ちょうど僕が降りてきた頃に捜査が終わり、今から皆で帰還、という感じだった模様。僕は次々に向けられるきつい視線をあの手この手で躱しながら、やっとのことで宿舎を出た。
陽光降り注ぐ一面の農園風景が僕を出迎える。僕の居るコロニーは畑作が盛んで、ここら一帯に広がる小麦畑の向こうにはサイロがいくつか並んでいる。目の前を横切る通りは歩いて三十分ほどで壁沿いに広がる行政区に繋がり、見たことはないが、そこには別のコロニーへと続く連絡路があるらしい。周囲を強固な外壁に囲まれた小さなドーム。見上げた空にはレンズ状の大きな硝子が覆い被さっており、そこから生活に必要な分だけ、外の日光が照射されてくる。紛い物ではないが、天然ではない自然の形。それでも静かに生きていくには十分で、今日も風がそよそよと通り抜ける小麦畑では今日も人々が一心不乱に働いている。
その中の一人が僕に手を振っていることに気がついた。おそらく、隣部屋のジンさんだろう。
僕は手を振り返すと、ちらりと後ろを確認し畑に飛び込んでいった。露骨にサボっているところを警察に見られるのはまずい。
ジンさんとは仕事や食事の際によく一緒になる程度の仲だ。僕の両親については何も知らないらしく、故にそれ以上でもそれ以下の中でもない。ただのお隣さんである。作業中ばれないように手を抜くのが上手以外には、特に変わったところもない。
小麦畑を掻き分けてしばらく行くと、ジンさんが周囲より一段掘り下げた土の中でのんびりと休憩をしていた。
「よお坊主、おそようだな」
「今日は休息日。そっちこそ、相変わらず仕事熱心なようで」
「はん」とジンさんが鼻で笑う。「どうせ誰が働いてもどんくらい働いても得られるものは変わらねえんだ。なら限界ぎりぎりまで力を抜くってのが頭のいいやり方ってもんよ」
「見つかったら捕まるよ」
「だからやるべきことはきちんとやってる。そのかわり、無駄なことは一切しない。反抗もしない、努力もしない。そうすりゃ必要最低限で美味い飯とふかふかの布団にいつまでも世話になれる。何事も要領よ?」
ジンさんはそう言うと自分の頭をとんとん、と叩いた。浅黒く焼けた肌と、ふくよかな体。衣服こそ土まみれだったが、その顔に疲労や苦労の色は窺えない。
「世の中にゃあ、飼い殺されてるだとかこんなの人間の生き方じゃないとかいって反旗を翻そうってのがいるらしいが、俺からしたら信じられん。飼い殺されて何が悪い? 外は戦争中だぜ。生きていられるだけ御の字だろう?」
「何かあったの?」
ジンさんがそういう考えの人間だと言うのは前から知っていたが、今日はいつになく饒舌である。不審に思って、僕は訊ねた。
「何もねえよ。ただ、教会派の連中が探し物をしているらしくてな、それで朝から騒がしいんだ」
「探し物? 警察も人を探してたみたいだけど」
「そいつだよ。警察が昔から血眼で探していた奴がいてな、そいつは教会がずっと匿っていたらしい」
「教会って、休耕中の畑のとこにある?」
「いや、他のコロニーとかも含めて、転々としてたらしい。が、ついに昨日、先回りしていた警察が教会に踏み込んだ。でも、そいつは混乱に乗じてどちらからも姿を隠しちまった」
「なんで? 教会はその子の味方だったんじゃないの?」
「そんなん知らねえよ。ただ朝から警察も教会も必死になって探してる。俺としては作業の監視が温くなるんで願ったり叶ったりだが、この後事態が悪くなって監視が厳しくなるのだけはごめんだぜ」
「じゃあ、ジンさんも人探しに協力するの?」
「国に命令されたらするかもしれねえが、自分からはないな。俺は平穏が一番なのよ。教会だあ政府だあ騒がしいったらありゃしねえ。そりゃ少しは不便かも知れねえが、何も起きないに越したことはない。平穏平穏、それが一番」
そう言うとジンさんは傍らに投げてあった籠を背負い直した。
「仕事に戻るぜ」
「話してくれてありがと」
「おうよ、休息日、しっかりと休みな」
「ジンさんみたいに?」
僕が言うと、ジンさんは生意気小僧め、と僕を小突いた。去り際、ジンさんが背後から呼びかけてきた。
「口には気を付けろよ。今のだけじゃなく」
僕は手を振ってそれに答えた。
日の射す農道を歩いていくと、小さな教会が見えてくる。青い三角屋根が目印の、みんなの憩いの場。それが教会である。子供は勉強を、大人は交流や神父様のお話を聞きにやってくる。教会は各コロニーに何か所ずつか偏在しているが、シスターの話によるとこの教会が最も小さいらしい。
僕は庭で遊んでいる小さな子供たちを眺めながら、木製の大きな扉を押し開いた。まだ働くことのできない幼い農家の子供たちの世話をするのも教会の仕事である。
扉を開けた先は大講堂となっており、手前から奥に向かって椅子がずらりと並んでいる。奥には教壇と小さなパイプオルガン、そして銅で出来た大きな五芒星が壁にかけられており、その側の小窓からは太陽の優しい光が零れていた。左奥にも扉があり、そこから寝室や食堂、執務室へと行ける。僕は手ごろな椅子に座ってモニュメントをぼうっと眺めた。
五芒星のモニュメントは星と月をモチーフにしていて、大きな星を囲うように、弓のように細い三日月があしらわれている。この国の国教だった。でも、昔は月のモニュメントはなかった。
教会が今のような形になったのは、多分両親が原因だ。それまでの教会はただの教育機関であり、政府からも独立した存在であった。一般教養と市民の心の支えとなる宗教。それらは閉塞空間での生活を余儀なくされている市民たちのストレスケアとなっており、政府もうかつに手を加えるわけにはいかなかった。下手に抑圧をすれば、却って反発力を高めることになる。教会の存在はバランサーとなっていたのだ。
そのバランスを崩したのが両親の、さかのぼれば祖母の教養だった。培った知恵はさらなる知的好奇心を掻きたてる。一部の大人たちは教会と言う隠れ蓑を利用して、密かに反乱の計画を企てていた。その筆頭に両親がいた。
決定的な証拠が、政府と教会の不可侵のバランスを崩壊させた。
当時祖母は政府の役職についていた。教育分野を始め、市民の生活全般を扱っていたらしいが詳しくは知らない。もう終わった事だから、と祖母はあまり自分の仕事について話したがらなかった。きっと後悔していたのだろう。両親たちの企てが露見したとき、祖母は自らの地位と引き換えに僕を守った。僕しか、守ることができなかった。
どちらの苦悩も、覚えている。
知ることは罪じゃない。
でも、知らないことだって罪じゃない。
どちらが正しいかなんて、誰も知らない。決められない。あの頃どうすればよかったのか。祖母も、両親も、僕も、親子三代に渡ってずっと考え続けている。
両親は言っていた。きっと外に行けば、もっと幸せに生きることができるはずだ、と。
祖母は言っていた。今のままでも、十分幸せだった、と。
でも、それじゃあどうして。
どうしておばあちゃんは、僕に本を渡したのだろう。それが今も分からない。
星はコロニーやそこに住む人々を。そしてそれを囲う月は、僕たちを守る国を表しており、教会は国を讃えていることになっている。だが、それは政府を欺く建前に過ぎない。自由を踏みにじられたあの日から、月が、星のモニュメントに付け足された。
星はコロニーを。そして月は、外の世界の存在を意味している。真の意味を知る人たちは、星と月に祈りを捧げて、いつかまた外に出ることを企んでいる。
教会は止めもしないし、扇動もしない。そのスタンスが、未だに相互不干渉を保っている。
「珍しいですね。お祈りにいらしたの?」
「そんなんじゃないよ、シスター。人を探しに来ただけ」
それは残念、と言いながら、シスターは僕の隣に腰掛けた。石鹸の匂いが仄かに香る黒い修道服。長い金髪をさらりと掻き分けて、絵画のように麗しく冷やかな流し目が僕を捉える。
「子供たちが告げ口に来たから誰かと思えば」
「とんだ悪者扱いだ」
「神職者からすれば、神を信仰なさらないあなたは悪者ですわ」
「神様はみんなに愛をくれるんじゃないの?」
「慈善事業じゃありませんの」
神も仏もない言葉。
「それで、人探しとは? どのような迷える子羊をご所望で?」
「わかんない」
「わからない?」
シスターが怪訝な顔をした。噂では四十歳をとうに超えているらしいが、どう見ても二十代そこらにしか見えない。この辺でも美人シスターと評判である。あのジンさんも、少し前まではお熱だったらしい。教会通いが面倒で諦めたらしいが。
「見たことがないんだ。真っ暗な夜に出会って、朝になったら消えていた」
「夢でも見ていたんじゃないですか?」
「本当に。夢か幻か。あるいは妖精だったのかもしれない」
「それこそ夢物語ですね。祈ってみたらどうです? 神は信心ある者には慈悲深いですよ」
「シスターが欲しいのは、僕の信仰より僕の持ってる本の方でしょ?」
「勿論」
シスターは悪びれも無く言った。
「あなたの持つ書物があれば、私たち教会の知識も格段に進むはずです。知識は、信者たちの財産となり、幸福となる。金銀財宝のような邪な財と違い、知識は高尚な宝です。神は、それこそを我らに与えたもう」
「でも、知りすぎることはやがて毒になる」
「あなたの両親のように?」
僕は言葉に詰まった。
「あれは不幸な事故です。しかし、失敗という貴重な経験を得ることもできた。同じ轍は二度とは踏みません。それに、十年前は内通者もいた」
「おばあちゃんはスパイなんかじゃないよ」
「どうでしょう。現に、あなたはこうしてのうのうと生きている。政府側と何らかの取引があったと疑うこともできます。私たちが強硬手段に出ないのは、一重にあなたのご両親に敬意を払っているからなのです」
「それと、本が欲しいから」
「勿論。それに、あなたのためでもあるのですよ。神へ誓い、その上貴重な書物を大量に寄付したとなれば、あなたの立場も守られる」
「僕を消したら、また警察に踏み込まれちゃうよ?」
「政府があるうちは、ね」
シスターは怪しく笑った。それを見て僕は、背筋が薄ら寒くなるのを感じた。
「また、暴動を起こすの」
「まだ、起こしません。時が熟すのを待ちます」
「僕が密告するかも」
「あなたは言わない。あなたは臆病者だから」シスターの顔が近づく。青い瞳に、小さな僕が写っている。「十年間、いえ、ここで育てられていた頃から、私はあなたを知っている。恐れ、両親を止められなかったあなたを。恐れ、両親の意思を継げなかったあなたを。恐れ、呼吸すらせず、気配を消して、感情すらも隠して、自らを殺してひっそりと生きてきたあなたを。あなたは今後も変わらない。自分が行動して何かが壊れるのが怖いから、何もしない。誰かが傷つくのが、誰かが苦しむのが、世界が壊れるのが怖いから、何もしない」
ぐらりと世界が揺れた。
目の前がちかちかして、姿勢を保っていられなくなる。堪らず額を押さえた。頭が沸騰しそうで、同じくらい寒くて、体の芯からがたがた震えが押し寄せてくる。
違う。そうじゃない。
そんな言葉すら言えない。
「世界を乱さないよう必死に回る歯車のようにあなたが生きているだけ。でもそれは、本当に生きていると言えるのでしょうか」
「生きてるよ……これでも。ちゃんとご飯食べて、働いて、夜は寝て、朝は起きて」
「決まったことの繰り返し。プログラムされた生活。制限された知識。機械と何が違うのでしょう。さあ、神に身を委ねてごらんなさい。さすれば、あなたの前に新しい扉が開かれる。私たちは、真に正しく生きていると言えるのです」
違う。
そう言いかけたとき、また世界が揺れた。
今度は錯覚じゃない。地面の下から響くように伝わる揺れ。
ミサイルが発射されたのだ。戦争をしている、他国へ向けて。
「また地震。この戦争だって、いつ終わるか分からない。いつ攻められるかも分からない。こうしているのは間違っているのです」
「そうだけど、あんたらだって正しくはないよ」
突然の声に、僕もシスターも入口の方を振り向いた。僕の眼に、きらきらとした外の光に包まれた彼女の姿が飛び込んできた。
彼女は、案の定初めて会う子で、だけどずっと前から知っていたような、目がくりっとして可愛らしい女の子だった。肩の所まで伸びた、少しぼさぼさになっている髪はここらでは珍しい黒色で、僕の手は自然と自分の茶色の毛先に伸びている。
あの子だ。声だけじゃない。感じる全てから確信できる。夢じゃなかった。僕らは出会っていた。
「あら、今更戻ってきてどうなさったのですか?」
「戻ってきたわけじゃないよ、迎えに来ただけ」
「迎えに? もしかして、あなたの探していた人とは」
シスターが疑惑の視線を向ける。僕はそれに頷いてみせた。
私たちから逃げ出して何をしているかと思えば」シスターはくすくす
といやらしく笑った。「逢引だったとは」
「逃げ出した? そっちが警察にリークした癖に」
「何のことです?」
「すっとぼけちゃって。まあいいよ、どっちにしたって二度とここには戻らない。今までお世話様。ほら、行こう? もたもたしてらんないよ」
彼女が手を伸ばす。僕は立ち上がって、急いで彼女の元に向かった。扉の向こうが光って見える。きっと、そこには新しい世界が広がっている。
「待ちなさい」シスターが腰を浮かしていた。「後悔するわよ」
「あんたたちは間違ってないけど、正しくもない。それに気づかない人たちに、私は私の大切なものを絶対にくれてやらない」
彼女はぺっとあかんべえをした。
近くで見る彼女は思ったよりも華奢で、だけどしゃんと立っていた。僕は惹かれるように彼女の手を取る。
「覚えててくれたんだ」
「勿論。商人は約束を違わない」
彼女がにこりと笑った。その変な言い回しに、釣られて僕も笑ってしまった。
国を取り囲む外壁の内側数十メートルのところにはこれまたぐるりとフェンスが張られていて、一般人は壁に近づけないようになっている。監視カメラが絶えず周囲を警戒しており、万が一侵入者が現れた場合は、警報と共に近くの警察がすぐに駆けつけてくる。
それなのに、彼女は壁を登ると言った。
「私の家は、連絡橋の下にあるの」
「秘密基地みたい」
「その通り」
僕と彼女は教会を出てからずっと手を繋いでいた。久方ぶりに感じる、他人の温もり。思えば、両親の手を離したときから今日まで、誰かの手を握ることもなかったような気がする。
時刻はもう夕暮れ時で、そろそろ戻らなければ宿舎の点呼には間に合わない。しかし、そんなことはもう気にならなかった。コロニーの構造上、太陽が沈み始めると日はほとんどコロニー内に差し込まなくなる。辺りはすっかり暗くなり、隣にいるのが誰かを判別するのも難しくなる。黄昏時。誰そ彼時。見上げた空だけが綺麗なオレンジ色に染まっているが、やがてそれも外壁に遮られ消えてしまう。この時間は、一日の中で最も儚いと思う。
「どうやって壁まで?」
「抜け道があるの。当たり前でしょ」
そう言うと彼女は休耕中で雑草が腰の高さ位まで伸びた畑に潜っていった。
「この畑、何年も放っとかれぱなしなの。ここらへん、地区と地区の境目で、丁度空き地になってるの」
そんな場所が、と僕は素直に驚く。辺りは草と土の匂いが充満していて、暗闇の中からは時折虫の声すら聞こえる。農薬をふんだんに使っている僕らの畑からは、滅多にしない自然の息遣い。僕は深く息を吸った。
彼女が枯草を掻き分けると、木の板で蓋をされた肥溜めが姿を現した。それを外すと、暗くて分かりづらいが梯子が設置されているのが見える。
「ここから?」
「そ。ここから潜って地下から反対側まで行って、あとはひたすら外を登る」
彼女が先行して、僕が続く。抜け穴の中は真っ暗だったが、用意してあったのか、梯子を降りきったところでどこからともなく彼女が蝋燭を取り出して、周囲に光を灯していた。それでも暗い。なんとか足元が見えるくらいの明るさの元、僕たちはさらに先へと進む。
どれくらい進んだだろうか。踏みしめる足元の質感が、柔らかな土から硬質な物へと変わった。目を凝らすと、土で汚れてはいるが、明らかに人工的に作られたと思われる通路が先に続いている。
「ここから壁の中なの。も少ししたら階段があるから、そこまでもうひと踏ん張りだよ」
通路は緩やかな傾斜となっていた。僕は息を切らしながら、ぼんやりとした明かりを頼りに進んだ。頼りない灯は、壁や天井に彼女の影をゆらゆらと投下している。それを目で追いながら、夜道を歩くのはこんな風なのだろうかと想像した。行く先は不安で、明かりさえ満足ではないけれど、足を踏み出すたびに気持ちは満たされて、歩いているだけで嬉しくなる。今まで安全に管理され、光に満たされた道ばかりを歩いていたから、自分の内側から湧き上がってくる不安とない交ぜになった高揚感が不思議で、そして楽しくて仕方なかった。
「階段だよ。大丈夫?」
彼女が言った。見ると、梯子と言っても誤魔化しとおせるのではないかと思うくらいお粗末な階段が、闇の奥へと僕らを誘っている。
「大丈夫」
やせ我慢ではなく、本心からそう言った。
「やるじゃん」
と彼女は笑った。
「なんで教会にいたの?」
階段を登りながら僕は訊ねた。
「詳しくは私の家に着いてからのほうが分かりやすいと思うけれど、まあ、多分君と同じ理由だよ」
「僕と?」
「君が本を持っていたように、私もあいつらに必要なものを持っていた」
「情報?」
「見れば分かるよ」
「僕たちを捕まえに来るかな」
「教会? 来ないと思うよ。私が警察に目を付けられた以上、教会にとって私は爆弾みたいなものだもの。匿ったり監禁したりするようなことはもうないと思うけど、まあ交渉くらいならあるんじゃない」
だからシスターもみすみす僕らを逃がしたのか、と一人納得する。
「君は、どうして教会から逃げ出したの?」
「だから言ってるじゃん、あっちが先に私を売ったんだって。そうじゃなきゃ私の隠れ場所が見つかるわけない。まあ、遅かれ早かれ逃げ出してやるつもりだったけどね」
「それは、教会が正しくないから」
「正しいか正しくないかなんて、誰にも、それこそきっと神様にだって分からない。そんなことが分かる全知全能の神様がいるんだったら、とっくのとうにみんな一つの答えに向かって幸せに突き進んでる。そうじゃないのが、神の不在の証明。でも、だからこそみんな自分が正しいと思って頑張るしかない。そうじゃなきゃ前に進めない」
「じゃあ、どうすればいいんだろうね」
「そんなの、一番頑張った人の正しさが一番いいに決まってるじゃん」
「頑張る? 何を」
「知らない。生きるのとか? 苦労してない人の振りかざす正しさなんて、そんなの信用できないよ。人生は選択の連続で、何かを選ぶってことは、何かを選ばないってこと。何かを自分の道から切り捨てる判断って、とっても苦しい。例えばこの階段を上に昇るか下に降りていくかだって選択。どちらかにしか辿りつけないのならば、どちらかの可能性を切るしかない。でもそうやって何回も何回も選択の苦しさを味わって、それでも生きるのを頑張った人の信じる正しさは、きっと悪いものじゃない。だから私は、選択することすら許さないこの国が嫌い。楽して正しさを勝ち取ろうとする奴らも嫌い。みんな頑張っているのに、それに嘘を吐こうとする奴らは大嫌い。私の持っているものは、そういう人たちに渡されるべきじゃない」
「君は、何を?」
何を持っているの? 何を見ているの? どこにいるの?
手を伸ばせば届く距離。だけどそれは、扉一枚を隔てている。目と鼻の先は、世界一つ分、大きく離れている。
「だから君を選んだ」
「え?」
「ようやく君を見つけた。ほら、ゴール」
言って彼女は、立ち止まり、そっと目の前の壁を押した。いつの間にか階段は終わっていて、足元から冷たい風が立ち上ってくる。ゆっくりと壁は開かれ、赤橙の光の線が僕を貫く。足元から吹いていたはずの湿った風は、いつの間にか清涼な向かい風となっていて、それが強くなるほどに光もまた広がっていき、そして――。
目の前に世界が広がった。
「絶景じゃない?」
と彼女が言う。
「これが本当の、私たちの生きている世界」
風が轟々と耳元で唸る。そこは、見渡す限りの草原だった。地平線の向こうに沈みかけていく太陽は、眩しいけれど直視できないほどではなく、ゆらゆらと揺蕩いながらオレンジの光で空と地面を金色に染め上げている。空はどこまでも続いていて、燃えるような赤から夜を誘う深い藍まで、様々な表情を一緒くたにして僕らを見守っていた。周りを見渡すと、僕らの住むコロニーと同じものがいくつかあって、それらは薄茶色に汚れてしまっていたけれど、光と闇の狭間でひっそりと佇んでいる姿は懐かしく、どこか切なげに見えた。
「腐っても、故郷なんだよね」
彼女は寂しそうに言った。
僕らがいる場所は、本当に壁の外側だった。柵も手すりもなく、ただ壁に空いた穴から外を見ている。右の方に連絡橋が見えた。
「でもすごい。こんなの初めて見た。太陽が見える。空が区切られてない。地面がどこまでも続いている。こんなにも大きい!」
「もうすぐ、打ち上げ」
その言葉と同時に、地面が揺れた。地響きとともに、どこからともなく白い煙が押し寄せてきて、僕らの遥か下の地面を覆い尽くす。
彼女が何かを言った。地響きのせいでその言葉が遠い。何を言っているのか確かめようとした瞬間、彼女の両手が僕の耳を塞いだ。相手の顔が目の前にある。一瞬、時が止まった。外の音が消えて、心音だけが伝わってくる。その瞳に、吸い込まれるようだった。
茫然としていたのも束の間、彼女の口が大きく動いた。
私のも。
確かにそう動いた気がして、僕は同じように、彼女の耳を塞いだ。
どん、と腹を蹴破るような、今までで一番大きな音がした。
彼女がそっと手を離した。
「危ないところだった」僕もすっと手を離す。「ありがと。見て、あれがミサイルだよ」
視線を追うと、そこには光を受けて煌めきながら地平線の向こうを目指す、一筋の煙があった。煙はどんどんと空に伸びていき、やがて先端は空の彼方に消えてしまった。
「防衛のためって撃ってはいるけど、着弾点も観測せず、一体どこを狙っているんだろうね。それに、ほら、ここらへんの土地だって穴ぼこひとつ空いてない。誰にも狙われていないんだ。戦争はとっくに終わってるんだよ。いつの間にか私たちは見えない敵を恐れて、一人でみっともなく踊ってたんだ。もはやあの兵器は、自分たちを攻撃するものでしかない。まだ戦争中だって、怖がらせるだけなんだ」
そう言うと彼女は壁から身を乗り出した。ぎょっとして慌てて引き戻そうとすると、大丈夫だよ、と彼女は笑った。現に、その華奢な体は壁に引っ付いている。
「ここにでっぱりがあるの。ちょっと細いけど、これを伝って橋まで行くんだ」
血の気が引いて、それまでの興奮がさっぱりと醒めていくのが分かった。太陽はすっかり地平線の下に沈んでいた。
橋とコロニーの連結部分の下に突貫工事で作ったような足場があって、二人で乗ると落ちるからと脅された。
壁から飛び出しているダクトを通って降り立った部屋は、僕の部屋と同じくらいの広さだった。違うのは、奥に部屋がもう一つあるのと、その物の多さだろうか。なにより、その“物”に僕は唖然としてしまった。
「お父さん、旅商人じゃなかったの?」
「言ってなかったっけ。旅商人で、武器商人」彼女は部屋にずらりと並べられた武器や写真を手で示した。「世界中に情報と武器を運ぶ、世間では死の商人とか呼ばれたりしちゃうけどね、私はそんなことないと思うんだけど」
「お父さんは、というか君はどこから来たの?」
「十年前。ちょうどいざこざがあったでしょ? その時に内部の人と協力して、戸籍を弄ったの。たくさんの情報、例えば、異国の書物とかと取引してね」
「それって」
「どうかな?」
彼女は楽しげにそう言って、空いているソファを指差した。
「座ってて。お茶入れてくるから」
言われたところで素直にすわれるはずもなく、僕は所在なさ気に部屋をうろうろしてしまう。自然と興味は所狭しと並べられた銃器の類や写真へと向けられた。重厚に光る武器たちは警察が装備しているのと似たようなものもあったが、ほとんどがそれを上回る大きさで、武骨で、だけど不思議と怖くはなかった。
写真は風景画が大半で、それらに混じって何枚か街の写真も貼られている。部屋の隅には紙で出来た小箱がちんまりと置かれており、中にも大量に写真が収められていた。
色々な写真があった。海辺の町。湖の写真。日の射す木立ち。白い家々。レンガ造りの大きな修道院。一枚一枚に、世界がそれぞれ切り取られている。どれも争いの雰囲気などこれっぽっちも漂わせていなくて、やはり僕たちの一人遊びだったんだなと思わされる。
「教会が欲しいのは、この兵器。警察が欲しいのは、たぶんお父さんが旅先から送ってくる他国の情報。スパイ容疑だ、だなんて捕まりかけたけれど、でもスパイなんてほとんど必要ない。この国と争っている国なんてどこにもない。お父さんが送ってくるのは、風土とかそういう、温かい知識の方が多い」
「この写真を見ても、戦争なんて感じられないもんね」
「それは違う。写真をよく見て」
彼女に言われて、僕はもう一度写真に注視する。最初は気がつかなかったが、写真は二枚重ねて壁に貼られていた。ぺろり、と捲ってみて、驚いた。
「何これ」
それは焼けただれた建物や、瓦礫の山と化した広場、あるいは人が何人も倒れている写真だった。
「戦争中の土地の写真。戦争はないわけじゃない」
「綺麗な風景で、隠してるの?」
「違う。見たくないものを見ないで、見たいものだけ見ているのは嘘つきのすること。大切なのはどっちも知ること。清濁併せのまなきゃ、ちゃんと選択できない。私はここに来る度に、全部の写真をひっくり返してるの。どれも表裏一体。だけどどっちも表でなくてはならない。最初に会ったとき、言ったよね。自分一人じゃ何もできないとしても、その行動が誰か一人を守ることができるなら、しないよりはましだって」
「でも武器は、きっと、もっと争いを呼ぶよ」
「だからって、この武器を届けなかったら無抵抗に殺されてしまう人だっている。戦うか逃げるか、その選択すらできないまま命を絶たれてしまう。お父さんだって見境なく売っているわけじゃない。誰かの選択肢を守るために戦ってるだけ。自分の守れる範囲を守っているだけ。それに、撃つだけが銃じゃない。持っていることを知らせるだけでも、武器になる」
「でも……僕は、両方とも助けたかった」
両親と、祖母を。周りの人たちを。僕自身を取り巻くすべての世界を。
「思い出して。君だって、そうやって守られた一人だってこと」
彼女が言った、そのときだった。
突然ダクト――部屋の入口が叩かれた。
「警察だ! 出てこい、ここにいるのは分かっている」
「警察!? どうして? もしかして教会が」
「そんな、早く逃げなきゃ」
「駄目、どうせ追いつかれる。来て」
彼女は僕の手を掴んで、部屋の奥へと引っ張り込んだ。台所と思しき場所を抜け、さらに奥の扉を開ける。
トイレだった。
「君に渡したいものがあったんだ」
言って彼女は踵を返した。すぐに戻ってきた彼女は、自分の背丈くらいはある、硬質なケースを背負っていた。
「持って。絶対落とさないでね」
忠告がなければ、あまりの重さに思わず落としてしまっていただろう。体全体で包み込むように、僕はそれを抱えた。
「これは?」
「君の選択肢。このトイレから脱出できる。それを使って、逃げて」
「逃げてって、君は?」
「人一人通るのが精いっぱい。道がもたない。だから、君が行って。それで今度は、君が見つけに来て」
ダクトを誰かが通ってくる音がした。外はさらに騒がしくなる。
「名前!」
「え?」
「まだ名前教えてもらって、ない」
「ユミ」
「ユミ?」
「そう。昔の武器の名前なんだって。誰かを守る、武器の名前」
「僕は」
ふふっ、と彼女が微笑んだ。彼女の拳が、壁に叩きつけられる。
「迎えに来たときに、教えて?」
瞬間、トイレの床が抜けて、僕は奈落の底へと落ちていった。
長い長い滑り台の上を僕は滑っていた。脆くなっていたのか、僕が滑りぬけた場所の所々が次々と崩落していった。しかし、振り向く間も気にする余裕もなかった。あまりの風圧に目をつぶり、不意に体が軽くなって、そして柔らかいものに叩きつけられた。耳や鼻に何かがちくちくと刺さっている。嗅ぎ慣れた匂いが僕を包む。僕は乾草のベッドに突っ込んでいた。
起き上がって辺りを見回すと、真っ暗闇が僕を取り囲んでいた。そのままじっとしていると、段々と目が慣れてくる。僕は壁の内側に戻っていた。少し離れたところで、光線が振り乱れているのが見える。きっと警察だろう。僕たちを追ってきたのと同じ部隊に違いない。ということは、僕らが入ってきたところとそう遠くないのかもしれない。
今あそこに行けばユミに会えるかも。
でも、行ってどうする? 行ったところで捕まるだけだ。捕まったら、ユミを迎えにいけなくなる。
はっとして、僕はケースを開けた。
それは、一瞬おもちゃなのではないかと見紛うほどにシンプルで、そして素人の僕でも判別がつくほどに、どうしようもなく武器だった。警察が腰に携えているような凶悪さも、ユミの部屋の壁にかけられていたような精巧さもなく、ただただ無骨で、静かに燃える炎を思わせる大砲だった。すらりと伸びた円筒。腕よりも太い直径。肩に担がなくては構えられない大きさと重さ。先端は植物のつぼみのように膨らんでいて、反対側の端には大きな空洞が口を開けている。ケースにはもう一つ、同じように先端が膨らんだ、収められていた銃と同じくらいの大きさの鉛筆のようなものが入っていて、おそらくこれが替えの弾頭なのだろうだろうと理解する。
迎えに行かなきゃ。
そう思った。
警察のいた方向から車の音が聞こえてきた。ヘッドライトがこちらに向かってくる。僕は茂みに身を隠して通り過ぎるのを待った。
シスターがユミを売ったのなら、彼女が連れて行かれる先も知っているはずだ。
誰もいなくなり、再度暗闇に閉ざされた畑の真ん中で、僕は静かに立ち上がった。
夜になると、教会の正門は錠が落とされる。しかし、裏手の勝手口の鍵が壊れているのは教会で育った子供なら誰もが知っている。僕は辺りを警戒しながら、そっと教会に忍び込んだ。
シスターや神父様の寝室は二階だ。
階段を登ろうとしたところで、大講堂から光が漏れていることに気がついた。扉が半開きになっている。そっと近づいて、中を覗き見た。
「残念、そちらはフェイク」
不意に後ろから声がした。振り向く前に、背中を突き飛ばされ、僕は大講堂の中に転がり込んだ。
「来ると思っていました」
「シスター」扉に寄り掛かって不敵に笑っている彼女を、僕は睨み付けた。「僕たちを警察に売ったな」
「いいえ」
「嘘をつけ!」
僕はケースから大砲を取り出して、肩に担いだ。
「言わなきゃ撃つ」
「それの使い方を知っているのですか?」
言葉に詰まった。トリガーはあるが、果たして引いたところで弾は出るのか。ぶっつけ本番で試すには、時間も弾も余裕がない。
「馬鹿な真似はよして、私たちに協力しなさい。そうすれば、教会はあなたも、ユミも、両方を手に入れられる。政府は滅び、あなたは探しものを取り戻せる。皆幸せになれるでしょう? さあ、こちらに」
「やっぱり、それが目的で僕らの情報をリークしたんだ」
はあ、とシスターがため息をついた。
「何度も言いますが、私たちから政府に協力的態度を見せることはありません。表向きはあくまで不干渉。不用意にそのバランスを崩せば、こちらも危ない。小娘一人、坊や一人のために危ない橋を渡るほど私たちは愚かでも圧倒的でもないのです。情報は常に違うところから漏れている。例えば……あなた自身から」
「僕から?」
「最初からつけられていたのは、あなただったのでは? 教えませんでしたが、昼間あなたが教会に来たときも、警察がこっそりと張り付いていた。子供たちが教えてくれたのはそちらの方」
手が震えた。
「ずっと泳がされていたのではありませんか? 朝方、警察があなたの宿舎に捜査に入ったと聞きます。そのときに、何かしでかしてずっと目を付けられていた。そうは考えられませんか?」
必死に記憶を探る。あのとき、少尉と何を話した? 何か不審な点は?
ふと、ジンさんの言葉が蘇った。
口には気を付けろ。今のだけではなく。
あの時はいつもの軽口を揶揄されたのだと特に気にも留めなかったけれど、もしかして同じヘマを、僕は前にもしていたのだろうか。
「ユミの情報は秘匿されていた。あなたが彼女のことを嗅ぎまわっていたのなら、警察に勘付かれるのも当然」
その子。
僕は唇を噛んだ。言った。確かに僕はそう言った。少尉に聞かれた時も、ジンさんと話した時も、政府が追っているユミについて、僕が知らないはずの情報を漏らしていた。僕がユミを、子供だと知っていることを周りに教えてしまっていた。
足の力が抜けて、膝をつく。僕のせいだ。僕のせいで、ユミは連れて行かれた。
「過ちはあなた一人の者ですが、赦しは誰にでも与えられるものです。さあ、神に服従を誓いなさい。私たちとあなたとで、新しい世界を作りましょう」
シスターが歩み寄る。
「ユミの隠れ家の場所も教えて? もしかしたら、まだ武器が残っているかもしれない。そっくりそのまま政府に持って行かれるのは癪ですから」
「だめだ、そんなの」
「なぜ? あなたが持っていても仕方のない物でしょう?」
「だとしても、シスターや、政府に渡っていいものじゃない。これはもっと、自分でちゃんと選べる人が持つべきなんだ。間違いを認められない人に渡ったら、きっとこの国はもっと悪くなる」
「自分一人で世界を守っているつもり? そんなの、誰よりも傲慢で身勝手な考え方ではなくて? 人一人が守れる範囲は決まっている。全部なんて初めから不可能。だから私は、私についてくる人だけを救う。神様だって、信じない者の前に福音はもたらさない」
ユミの言葉が重なる。自分一人の行動で誰か一人が救われるなら、零よりましだって。でも、それじゃあ、選ばなかった方は。選ばれなかった方は、どうなる。それを見捨てたことになるのか。
「あなただって、自分の能力以上に大切なものを手に入れようとして、全てを手放してしまった。さあ、信じなさい。信じれば救われる。信じなければ掬われる。さあ」
「それは正論じゃが、神職者の言葉ではないのう」
突然声が降ってきた。顔を上げると、シスターの後ろに神父様が立っている。
「あら、神父様。起きていたんですか」
「一階で子供たちと寝ていたんじゃが、講堂が騒がしくてのう。おや、久しぶりじゃの」
「どうも」
僕は頭を下げる。
「それよりも神父様、神職者の言葉ではないとは?」
「それを見せてくれぬかの」
「神父様!?」
シスターを無視して、神父様は僕の方に近寄ってくる。床にへたり込んでいた僕の側までやってくると、トリガーにかけてある僕の手にその皺だらけの手をそっと重ねた。
「RPG7。またけったいなものを持ち込んだのう。今じゃもう、ほとんど誰も知らないのではないか?」
「この銃の名前?」
「そう。これをこうしてな」
神父様が僕の手に手を重ねたまま立ち上がる。合わせるように、僕も立ち上がった。二人して、RPG7を担ぎ、天窓に向けて狙いを定める。
「ここをこうして、あとは引き金を撃つだけ。シスター、後ろにいると危ないぞ」
神父様が銃に指を滑らすのを、じっと観察した。神父様は慣れた手つきで、その動きを覚えるのも簡単だった。
「ほれ」
軽妙な一言共に、爆音が耳元で鳴り響いた。空気が破裂するような音、続いてしゅるると言う加速音。弾頭は天窓を突き破って夜空に突き進み、赤く爆発した。
ぱっと視界が明るくなり、遅れて音が届く。
僕はまたへたり込んでしまった。周囲に煙が立ち込めている。
シスターも腰を抜かしていた。
「神父様! そんなものを教会内で使ったら」
「物的証拠もある。裏付けもある。シスター、これでお前もわしもおしまいじゃ」
「神父様?」シスターが目を見開いた。「では、ユミの情報を漏らしたのも」
「うむ。あの子はここに閉じ込めて置いていいものではない。無論、誰でもじゃが」言って、神父は僕を見た。「もちろん、君も」
「このっ、クソ神父!」
「すぐに警察も来るであろう。隠し物は、十分かね?」
シスターは眉を吊り上げまだ何か言いたそうだったが、大袈裟に舌打ちして大講堂を出て行った。
「君も行きなさい。ユミちゃんは、今頃警察の駐屯地にいるはずじゃ」
「神父様、子供たちは……もう逃がしているんでしょうね、あなたのことだから。昔からそうだ。僕の面倒を見てくれていたころから、ずっと神父様は聡明で、なんでも分かっているようで」
「そういう風に見えたのは、わしが君らからたくさんのことを学んでいたからじゃ」神父様は、僕の肩に手を置いて、目を細めて微笑んだ。「何かを選ばないことは辛いことじゃが、選ばなかった方を思うことも、優しい人間にしかできん。それは、君がたくさんの痛みを知っているということじゃ。そしてそれは、君の人生の選択の、大きな助けとなる」
「でも、僕は」
「おばあさんが君にたくさんの本を預けたのは、君にちゃんと生きてほしかったからじゃ。君が守りたかったものはよく分かる。けれど、世界はここだけじゃない。むしろこのコロニーは、大きな世界の中の小さな国の一つに過ぎない。皆に物語があるように、これは君自身の物語だ。好きなように生きなさい。それは、君のおばあさんも、ご両親も、君に望んでいたことだ」
「神父様は……どちらの味方なんですか?」
神父様は言った。
「神さえも、自分勝手な存在じゃよ」
別に世界を守りたいわけじゃない。
だけど壊したいわけでもない。この国で、心静かに暮らしている人がいることを、僕は知っている。みんながみんな、誰かのために頑張っているって知っている。だから、誰にも共通の、絶対の答えなんてあるわけがない。
この行為は、誰かの行為を踏みにじるかもしれない。だけど、全員なんて守れない。それを恐れて黙り込んで、そのせいで誰かが不幸な目にあってしまうのならば、僕は僕に救える誰かを救いたい。
それは、生まれて初めての自分勝手だった。
けどいいんだ。
神様さえも自分勝手なんだから。
警察たちは、初めて見る兵器に腰が引けているのか、近寄ろうとも銃撃しようともしてこない。
駐屯地の固い門の前で、僕はRPG7を構えた。
呼吸を止めろ。
気配を消せ。
感情を静めろ。
昂ぶれば狙いがずれる。緊張を解けば、付け込まれる。散らばった雑念を拾い直して一点に集中させろ。視界も、意識も、感情も。全てを統一して僕の中で支配して、選択をしろ。見せつけろ。自分の生きている証を。
震えさえ求めて。心臓すらも押しとどめて、深く、深く静まっていくイメージ。だけど気持ちは高揚して、熱いものが体の中を駆け巡って。それらが全部、秩序立てて僕の中を流れている。
女の子一人のために世界を壊すくらい、いいでしょ?
迎えに来たよ。僕が守れる、唯一の君を。名前を教えに来た。行こう。もっと新しい世界を見せて。
そうして僕は、トリガーを引いた。