プロローグ
八歳の少年の目の前に広がる惨状。
ベッドと床に散乱された血。自分が心から大切だと思っていた存在の周りは、黒みを帯びた赤に染められている。
顔の穴という穴から血を噴き出し、終いには呼吸すらままならないまま苦しんで死んでいった母親がそこにはいた。
堪えられず涙を流し、少し離れた所から少年が必死に声を掛けるも、その声に乗せた想いは届くことなく母親は死んでいった。
少年の母が風邪を引いた。一週間前のことだった。
何でも無い、ちょっと体温が高く、咳をする程度のよく見掛ける普通の風邪の症状だった。
だというのに、その体温は急激に上がった。四十度を越え、息も荒くなっていく。少年は嫌な予感がした。想像されたのは最悪の結末。
そして少年の想像はすぐに現実となった。
母の手と顔が異様に赤みを帯びていった。更に時間が経つにつれ、それは徐々に徐々に体中に広がっていく。そして遂には血を吐き出すようになった。数日経ち、今日母は死んだ。
その凄惨な光景に叫喚しながら、少年は三年前の父親のことを思い出す。父親も同じように急な高熱を発し、次第に体は赤みを帯び、そして苦しみながら死んでいった。
その特徴的な症状から、赤体病せきたいびょうと呼ばれている病気は、およそ二十五年前に、突如出現した起源不明のあるウイルスによって引き起こされる。いまやそのウイルスは全世界を支配しているといっても過言では無い程、圧倒的感染率と致死率を誇っていた。世界中がこのウイルスの存在に恐怖している状態。
「母さん、母さん……」
しばらく叫び続けた少年は、しかし声は嗄れ、次第に小さくなっていく。
現状、人間がウイルスに屈服している世界。ウイルスは何故か元々ほとんどの薬剤に耐性を持ち、新しいワクチンや薬が開発された所で、更に形を変えて相変わらず蹂躙し続ける。
少年が住んでいるこの街は病気の発祥地とされ、人が極端に近付かなくなり、もはや荒廃していた。そんな街にあっても少年が幸せだと認識出来ていた一番の源であった両親をその病気は少年から奪い去って行った。
母は、「絶対近付いちゃダメ」と、最期まで息子のことばかり心配して、そして死んでいった。その光景が思い出される。
その優しさに、愛に、愛する人の死に。ひたすら涙は溢れ落ちていく。
少し前まで元気だったのに。少し前まで一緒に歩いていたのに。少し前まで普通に話していたのに……。
「なんで、なんで、なんで……」
少年の心を闇が支配していく。そして次第にその感情は変化していった。
最後まで母親の言うことにただ従って、声を掛けてあげることしか出来なかった自分。人間の気持ちなど全く理解する筈もなく猛威を奮い続けるウイルス。そのウイルスにただただ良いようにされる人類。大切な者を失うのが普通だと受け入れてしまっている世界。
母を診た医師は確かに、自分達では手に負えないとそう言った。
何もかも腹が立つ。
腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ! 消えろ、失せろ、死んでしまえ!
その時、突如少年に強烈な頭痛が走った。それと共に脳裏に浮かんだのは、見知らぬ歳上の女性が少年の母親と同じように死ぬ姿。それが、パッと写真のように写し出された。戸惑う頭で少年は考える。これは、誰だ……? 思い当たらない。
しかし首を横に振る。今はそれは良いと。
ウイルスなんてものがあるから、人は死に、悲しみが消えていかない。病気が発見されてから二十年以上経つというのに、人類は誰もこの世界を変えることが出来ていない。
このまま時が経っても変わる保証なんてどこにもない。
――なら、俺がこの世界を変えてやる
少年は未だ流れる涙を必死に拭う。
もう泣くのはこれで最後だ。俺は強くなる。そしてウイルスなんか俺が消し去って、この世界を変える。
この時、少年はそう強く誓った。




