005.おもてなしってなんだろう
「お帰りなさいませ! ご主人様っ」
頬の筋肉をできる限りゆるめて、可愛らしく笑ってみせて、そこで、はぁとボクは息を吐いた。
その声が鳴り響いているのは、実はフォルトゥーナの店内……ではない。
ここは更衣室の一角。ロッカーが立ち並ぶ部屋の大鏡の前だ。
もちろん女子のほうの部屋。まだ作られたばかりなので、部屋自体はものすごくキレイだ。
逆に小物とかもなにもないから、殺風景とすら言えるかもしれない。
オープンは明日。この部屋も毎日人が出入りして使われていけば、それなりに人間くさい部屋になっていくのかもしれない。
え? 前日の今日になんでここに来ているかって?
それは、オーナーの最終審査が残っているから。
千絵里オーナーという人は厳しい人で、ボクたちにかなりの水準のサービスを要求してくるのだ。今日来るのはボクを含めてまるっきりの新人が三人。
もうちょっと後に来ても良かったんだけど、ちょっと早くにきてメイド服に着替えてから、笑顔の訓練をしていたってわけ。他の人とかち合うのも嫌だったしね。
とりあえず、これまでに一通りの訓練みたいなものは終わって、注文を取ったり運んだり、それこそもう千絵里オーナーの微に入り細に入りのチェックをなんとかクリアしてきたわけなんだけど、どうにもボクには肝心のスマイルがいまいちできないわけで。
どうにも営業用スマイルというものができないんだよね。いや、笑うことくらいはできるんだけど、それってなんか違う気がしてしまうんだ。
更衣室に付けられている姿見をのぞき込んで、もう一度ニカッと笑ってみる。
むぅ。いくらなんでも嘘くさい。
かといって無表情でいるのも嘘だ。氷の微笑とかいう異名がついても面白くない。
「ずいぶん苦しんでるのね」
そんな作業をしている最中に後ろから声をかけられたので、びくりとした。
彼女は森宮渚凪さんといって、ここのメイド仲間。
やっぱりボクと同じくここらへんの近くに住んでいる人で、彼女もやはり新しく雇われたアルバイトさんだ。
今は私服姿だけれど、これまたメイド服がよく似合うほんわかした感じの人。肩に掛かるくらいのセミロングの髪は、少しだけ茶色に染められていて、店頭に出ると光の関係でそれがふわふわきらきら輝く。年は今十八歳だというからずいぶん年上だ。
「なんか、上手くいかなくって」
ボクは意識して高い声を出しながら、ふぅとため息をついた。
渚凪さんは一番一緒に居る時間の多い相手だ。
とりあえず今月の僕のシフトは、基本的に月と金は彼女と一緒。水曜は、り~なちゃんと一緒に仕事をする。土日は混雑が予想されるので三人で一緒に仕事をする予定だ。最初の数ヶ月は微調整がいろいろ入ると千絵里オーナーは言っていた。
そんな関係もあって、彼女はいつもこうやって、ボクに話しかけてくれる。
「音泉ちゃん、声、無理して出してない?」
「え?」
彼女は鏡の後ろに立つと、そのままボクの両肩を軽く掴んだ。
びくり。身体が無意識に震えた。女の人に触られるなんて滅多にないのでちょっとぴくんとしてしまった。
「ほら、肩にこんなに力はいっちゃってる」
彼女の顔に苦笑が浮かんだ。鏡越しに見える彼女もやっぱり美人さんだ。
でも、今、肩に余分な力が入っているのは、むしろ、渚凪さんが後ろに立ってこんな風に肩を触っているからだと思う。
正直いって、ボクは女の人に身体を触られる経験なんてものに非常に乏しい。中学の頃なんてほとんど人とも触れていないくらいだったし。
「なんかねー。がんばろうがんばろうって、そんな気分が前に出ちゃってる感じするの」
でも、半分は彼女が言う通り。
やっぱり仕事だし、必死にやらないといけないって思っていて、それでむしろ硬くなってしまっている部分もあると思う。
「瑠璃姉さんみたいに自然に表情の切り替えができればいいんだろうけど、なかなか初めは無理だから。ほら、深呼吸してみて」
言われるままに、大きく息を吸って吐いた。
こんなに近寄っているせいか良い匂いがする。渚凪さんの匂い。
実はうちのお店では、各キャラクターごとに匂いまで指定されているのだ。
入浴剤やら香水の香りや量まで指定されているから、いつだってその人はその香りに包まれているってわけ。千絵里オーナーがいうには、匂いだってキャラクターの立派な要素の一つなのよっ、ということらしい。
ボクも専用の入浴剤を使って、香水も振りかけている。そのまま親父もそこにはいるので、親父までみずみずしい香りに包まれているのはまぁ、仕方ない。お風呂の光熱費だってばかにならないんだ。
「そして目をつむる。想像して。ここは貴女の家。それで……そうだな。音泉ちゃんは好きな人とかっている?」
「えと……いないです」
「じゃーお父さんとかでもいいや。大切な人を家で待ってる。ご飯をつくって……そうだな。キッチンでポトフがくつくつ煮えてる。そろそろ八時。なかなか帰ってこない」
渚凪さんに言われたままに想像を広げていく。
結構リアルな想像だ。親父が帰ってこないで家で待っていることなんてざらにあったし。ほとんど遅れるときは遅れるといってくれる親父だけど、時々待ちぼうけをさせられる事もある。そんなときは、いつ帰ってくるんだろうと、一人ずっと待っている。けっこうその時間は寂しい。
「玄関の扉が開く音が聞こえる」
カラカラカラ。玄関で音が鳴る。少しのんびりした感じの物音。
「それを迎えにいって……」
「お帰りなさいませ。ご主人様……」
普通に、おかえり、と言いそうになって、これがメイド喫茶用なのを思い出す。
浮かんでいるのは、ようやく帰ってきた親父に向けるお帰りの笑顔。
もう、力も抜けきって、安心しきったようなそんな表情だ。
「んー。まぁ、さっきよりは、よくなったかな。うんうん」
そんなボクの様子を見て、渚凪さんは軽く笑った。まだ不満が残るんだろう。
そっか、ご主人様に仕えるメイドって、そのご主人様に仕えられて嬉しいと思っていないといけないんだ。仕事をきちっとするだけでいいドライなルームメーカーさん達とは違う。この店では特に。
「普通のメイドさんだと、家庭の仕事をきちっとこなしてくれればいいと思うけど、ここはメイド喫茶だから。みんな癒やしを求めるわけでしょ?」
「相手は全部、自分のご主人様だと思う……か」
「音泉ちゃんの場合、まだ自分のご主人様にしたい人に、会ったことないみたいな感じがするね」
ふふっ、と笑いながら渚凪さんはご主人様を強調して言った。
まったく、痛いところを突く人だ。挨拶を聞いただけでそれだけわかっちゃうなんて。
確かにボクは恋らしい恋をしたことがない。周りの子は小学生くらいで、あの女の子がどうのってもじもじしていたもんだけど、それがいまいちわからなくって。
当時はほんと真剣に悩んだもんだ。まぁ、かといって女の子をご主人様にしたいと思う、という方向性もなんか、おかしい気がしてしまうけれど。
「さてと、ちゃちゃっと着替えちゃいますかね。そろそろ来ちゃうだろうし」
渚凪さんは軽くウィンクして見せると、ボクの肩から手を放してロッカーを開けた。
とりあえず、今のボクにはこれ以上は無理だと思ったみたいだ。
「えっ、あ、はい……」
衣擦れの音を聞いて、ボクは急いで立ち上がった。
今日はこれから、喫茶店の顔となるケーキ屋さんとの打ち合わせだ。
ケーキの味自体はオーナーの折り紙付きなので問題ないから、あとは盛りつけ方や出し方の最終調整。もう一人のメイド仲間の愛水さんと、調理場担当の天笠さんと戸月くんも加わっての話し合いになる。
「ふふっ。女同士なんだからそんな慌てなくてもいいのに」
そんなボクの様子が新鮮だったらしく、渚凪さんはまた上品に笑った。
でも、やっぱりこれって……見ちゃいけないんだと思う。こんなんでもボクは一応男だ。
「先に行ってますね」
不自然にならないように、ちらりと振り返って言った。
視界に一瞬だけ渚凪さんの姿が見えたような気がしたけど、気のせいに違いない。
「一人で着替えは寂しいのぅ」
声のトーンを落として少し寂しそうに聞こえる渚凪さんの言葉をとりあえず無視して、ボクは店頭に向かった。
カランっ。小気味の良いベルの音が店内に響き渡った。
喫茶店の入り口のドアにつけられているような、黄色がかった鈴。これが鳴るとお客様、いや、ご主人様がご帰宅された事がこんな厨房の奥の、更衣室の扉の前に居たってすぐにわかる。
店内の方に出て行くと、そこには親父と同い年くらいの紳士が立っていた。
「あら~音泉ちゃん、今日もかわいぃ~わぁ。もぅさいこーよ、さ・い・こ・うっ」
その隣にはオーナーの千絵里さんがいつもと同じくくねくね立っていた。
おじさまとはもう面識があるようで、二言三言言葉を交わしていたらしい。
「紹介するわね。こちら、うちのケーキを作ってくれる事になったカスターニャの支配人、池波和人さん」
「こんにちは~初めまして、音泉と言います」
さっき覚えたみたいに、軽く力を抜いて笑顔で挨拶する。
もちろん一緒に仕事をする同業者という意識があるから、お客様にするのよりも控えめだ。
池波さんはボクのそんな仕草を見ると、嬉しそうによろしくと言って名刺を一枚渡してくれた。こんなもの当然ボクはもらったことがないわけで、ちょっと新鮮で、なんとなく大人になったような気分になった。
「あ、そうだ。音泉ちゃんにこれ、渡しとくわね」
それを見て、千絵里オーナーが鞄からカードケースを取り出して、ぽんとボクの手の中に乗せた。ひやりとした金属の感触が手に伝わる。
「名刺入れと、名刺ね。前にも言ったけど、うちのお店はスタッフ自身の魅力でお客を引き寄せる所だから名刺は肝心よ。初めて来たご主人様には必ずお出しして、名前を覚えてもらいなさいな。試しに和人さんにお渡ししてみるといいわ」
オーナーの言葉を聞きながら、ボクの意識はもう、もらった名刺入れに釘付けだった。
だって、当然こんなものだって持ったことがないわけで珍しくてしかたない。
とりあえずケースから一枚取り出して、何が書かれているのかを確認してみる。
それから、カードケースからもう一枚新しい名刺を取り出して、和人おじさんに、これからヨロシクお願いしますね、といいながら手渡した。過剰にならないように、それでいて丁寧に。
「それと、名刺は自分で適当にアレンジしちゃってかまわないから」
オーナーの話によると、他のお店ではメイドさんがそれぞれ独自の趣向で名刺を作っているらしい。一緒に働く事になっているり~なちゃんなんかは、名刺に猫手形をぽんと貼り付けているとかいないとか。今度働くことになったら是非見せてもらおうと思う。
「お待たせしました~」
そんなやりとりをしていたら渚凪さんが着替えを終えて出てきた。
もうその服装にも慣れたようで、彼女はまるで普段着をきているような手軽さでこちらに歩いてくる。
彼女用に作られたメイド服は、ロング丈の黒いやつで、ふわふわのエプロンがくっついているものだ。手もすっぽり手首まで覆われていておしとやかな感じに仕上がっている。
それに対してボクのほうは、膝小僧が少しだけ見えるくらいの丈の黒いメイド服で、微妙に渚凪さんのとはデザインの違うエプロンがついている。出された膝小僧を包み込むようにして、靴下といっていいのか、ゴスロリのおねーさんがつけてるような白いレースたっぷりのオーバーニーソックスがつけられている。そして、なにより違うのは腕の露出度だ。
この服、肘までしか袖がない。さすがに二の腕が外に出るということはないけれど、ほっそりした腕が日にさらされている。こうやってみると、ボク自身どこからどう見たって女の子にしか見えなくなってくるから不思議だった。それも瑞々しい、まだ女としては未成熟な、それこそライムみたいな感じだろうか。
店側もそのイメージでボクをコーディネイトしている。
香水の匂いも、甘ったるい感じじゃなくって、シトラス系のすっきりした感じ。一人称だって、『ボク』で統一させることになっている。これで髪が短いとボーイッシュになるところだけどロングウィッグがバランスを保っている感じだ。
「ちょうど良いところに来たね」
厨房から天笠さんと戸月くん、そしてメイドの愛水さんがケーキとお皿をもって現れた。彼女達は、四人がけの席を二つくっつけて作ったテーブルの上にケーキの載ったお皿を置いた。
愛水さんというのは僕より一つ年上の新人さんで、ボーイッシュな感じのする子だ。
髪もショートカットで、ヘアバンドを付けている。メイド服も僕のと同じでショート丈なんだけど、あまりフリルもなくて僕のと違ってかっこいい感じ。
ここのスタッフはあと、り~なちゃんと瑠璃さんがいるけれど、彼女達は現役で他のお店で働いているスタッフなので、今日はいない。千絵里さんが言うには、最後のおつとめの日だから、送別会で派手にやっているんじゃないか、ということだった。
「こんな盛りつけでどーっすかね?」
「配置とか、おかしくないですか?」
持ってこられたケーキは、まず千絵里オーナーと池波さんの前に集中させて配膳されていた。千絵里オーナーはそれこそ、配膳の仕方一つまでもを細かく指定するので、それの確認というわけ。ボク達はその反応を見ながら、正しい配膳を覚えるだけだ。
「わぉ、びゅーてぃほー。何度見ても、和人さんのケーキは芸術品だわっ」
目をきらきらさせながら、オーナーは並べられたお皿を眺めた。手を前で合わせて喜ぶ姿は、本当に女の子みたいに嬉しそうだ。
確かに、そのケーキはオーナーじゃないけど芸術品だった。
たぶんオーナーが依頼したんだろうけど、どれも普通に売られているケーキよりも少し小型で、その分お値段も安い。今流行のプチケーキというやつに仕上がっていた。これなら、何種類かまとめて頼んで、いろんな味を楽しむこともできる。
今日置かれているのは五種類で、ティラミス、モンブラン、レアチーズケーキ、ショコラ、苺のロールケーキと、基本的な所はそろっていた。ケーキの代名詞といっていいような苺ショートがないのだけど、そこは千絵里オーナーの趣味らしい。
「でも残念ねぇ~。愛水ちゃん、ショートケーキはあと10度傾けた方が見栄えがするのよ」
んふっといいながら、千絵里オーナーはお皿を回した。
他のお皿も微妙に調整してやっぱり、んふっと笑う。その配置をボク達はみっちりと頭に焼き付ける。普通こんなところ適当なのに、オーナーは本当に芸が細かい。
「さて、それじゃ、お試食にしましょ」
オーナーのお許しが出たところで、厨房から残りのケーキを持ってくる。
もちろん練習も兼ねて自分の分は自分で配膳だ。自分の目の前に五枚のお皿が並ぶと、ずいぶんと壮観だと思う。テーブルはきつきつになってしまうけど、この光景はケーキ好きとしてはかなり幸せだ。
「きれーい」
「ふわー」
実際目の前に置いてみると、どのケーキもきらきらと輝いて見えた。
三角に切られたケーキの全体が眺められるし形も引き立った。なによりもケーキそのものが美しいのだ。巧巳が持ってくるケーキと違って、けっこう凝った細工がされている。
「さすがに和人さんはすごいわねぇ。これなら、男のお客様にも喜んでもらえそうだわ」
上品にナプキンで口を押さえながら、オーナーは感嘆の吐息をもらした。
とりあえず全部の試食をしてみたけれど、どれの味もすばらしく良い。
何より特徴的なのは甘み。どれもケーキ特有のねっとりした感じが抑えられていて、非常に食べやすい。
これらはすべて、フォルトゥーナの開店に合わせて作ってもらったものなのだそうだ。このお店でしか食べることができないオリジナル。店頭での販売も一切ない。
「なんとか間に合ってよかった。ずいぶん息子にも無理をさせましたよ」
和人さんは照れ笑いを浮かべながら、頭を掻いた。
「息子さんがいらっしゃるんですか?」
渚凪さんは驚いたように尋ねた。
ボクも驚きだ。和人さんは見たところ三十台後半くらいだろう。そんな彼に成人している子供がいるだなんて。いくらなんでも若すぎる。
「ええ。元々私だけで作ってたんですけど、アレが作りたいっていうもんで。実際作らせてみたら今じゃ、私なんかよりよっぽど器用ですよ」
「いいわねぇ。親子そろってお仕事できるなんて。わたしなんて、親元とびだしちゃったから、そういうの憧れるわぁ」
しみじみと、千絵里オーナーはつぶやいた。
見ての通りオーナーはこういう人だ。きっと紆余曲折した人生を歩んでいるに違いない。
その声があまりにもしみじみしすぎていて、試食会会場は一気に静まりかえってしまった。
「あら、やぁねぇ。静まり返っちゃって。そんなにくらーい顔してたら、ご主人様方が別のおうちにお帰りになってしまうわよ」
千絵里オーナーは手のひらを口にあてておほほほ、と無理に笑った。
「そういえば、池波さんは四季のケーキも作ってくださる話になっているんですよね?」
続いて、天笠さんが話題を変える。
調理場を預かる身としては、気になるところでもあるのだろう。ボク達としても新しいケーキが入るならば、それに合う紅茶の入れ方を覚えないといけないから、十分気になる話題だ。
それに定期的に新しいケーキを食べさせてもらえるなら、ボクも嬉しい。
「ええ。夏から作らさせていただきます。春から、というお話も伺ってましたけど、あいつがごねましてね」
池波さんは息子さんの姿を思い出しながら、かすかに苦笑した。その姿はあまりにも恥ずかしそうだったから、なんとなく良い家庭なんだろうなと思ってボクも唇を緩ませる。
「そうですよね、最初は基本のケーキをメインに据えていった方がいいと思います」
息子さんの言い分にボクも大賛成だった。これだけおいしいものを脇役にしてしまうのは惜しい。
それから、それぞれのケーキの感想や、お茶の感想、そして、池波さんからはお店の感想をもらって話は盛り上がった。
ケーキも最高、料理もすごく美味しくて、給仕するメイド達だって……うん。こうやって見回してみると、もう最高だ。みんな可愛くて、僕でも来たくなるに決まってる。
「これで、明日は安心してお店を開けられるわ」
その様子を満足そうに見ると、千絵里オーナーはフォークをお皿に置いた。
常駐のメイドさんは五人です。
準備はこれにて終了です。
次回からようやくお店スタートです。