039.旅の終わりと日常のはじまり
赤い夕陽。
海辺に沈んでいくそんな赤を見上げながら、僕は目を細めていた。
耳に聞こえてくるのは、心地よい波の音。
どうして海の音ってこんなに気持ちを落ち着かせてくれるんだろう。
巧巳のにいちゃんの事で、少し落ち込んだ気持ちがふっとほどけるみたいな、そんな感じ。
「すっかり、日が暮れちゃったね……」
「なんかこー、めいっぱい労働したーって感じだよねー」
へへへと、笑うと、春花さんもにまにま巧巳に嫌らしそうな視線を送る。
「……わるかったな」
巧巳が不機嫌そうにぷぃと横を向いた。
実際自分も重労働で相当ばてているようだ。
「気にしてないから平気平気」
実を言うと、予定の四時を過ぎても僕達は解放されなかった。
正確に言うと普段は四時にクローズして夜の部を六時にスタートするんだけど、あまりにもお客さんがくるので、緊急に二時間の休憩時間をやめにしたってわけで。
四時になってもお店の外にまでお客さんが並んでるんだもん、びっくりだ。
一度きたお客さんの口コミでそのまま人が増えるといった流れで、おまけに海水浴に来たお客までもがケーキの話を聞いて押しかけた。普段なら一時間半くらい電車に揺られないと食べられない味だから、みんなもうこの期を逃すまいと必死だったみたい。
「それに、評価よかったじゃない。去年より断然美味しいって」
「ま、まぁな……」
巧巳は、少し恥ずかしそうに鼻の辺りを擦った。やっぱり褒められて嬉しくないわけじゃないらしい。
「それより、私はとなちんのウェイトレス姿の方が、萌えだったなぁ」
「ひあっ」
サイコーといいながら、後ろから春花さんに抱きしめられると、思わず僕は変な声をだしてしまった。
そりゃ、まぁ、ウェイトレスを完璧にこなせる男子高校生というのも珍しいかもしれないけど、そんなに大騒ぎされても困る。
「もうあれね、となちんにはフォルトゥーナでメイドしてもらうしかない!」
「なっ、そんな、うちの学校アルバイト禁止じゃないですかっ」
なんてことを言うんだこの人は。そりゃさ、フォルトゥーナはメイド不足だけどさ、もうすでに僕は働いているって話だ。
「そうなのよねぇ……今日のお給金だってもらい損ねちゃったし……」
でも、まともに反応を返してあげたらうまく話は流れていってくれた。
そう。今日の四時間のバイト分なのだけど、実は現物支給ってことになったんだよ。
極秘にバイトができれば問題ないんだけど、これだけ人気がでちゃったらさすがに内緒になんてできない。
ウエイトレスをやった僕は安全圏だとしても、春花さんがやったのはもしかしたら伝わってしまうかもしれない。その時「手伝い」という名目ならセーフになるから、そういう形を取ったんだ。
「でも、その分しっかりとおみやげも貰えたしいいんじゃないですか?」
「そりゃねぇ……」
僕達の手にぶら下がっているのは、中に魚介類がぎっしり入った袋だ。
これくらいあれば、お刺身もたっぷり食べられるし、煮物もできる。カルパッチョなんかにしてもいいだろうし、用途はいっぱい。焼きホタテなんかはもういまから楽しみで堪らない。
「そして、俺だけただ働き……」
まぁいいけど、といいながら、巧巳は肩を竦めた。
「また、来年くればいいじゃない」
その姿があまりにも可哀想だったので、僕はぽんと巧巳の肩を叩いて言った。
「あっ、それいいね! 来年は一泊二日とかってどう?」
「春花ねーちゃんは、来年それどころじゃねぇだろ……」
「受験かー、でもほら、私ってば天才さんだからねぇ。面白そうなことを自堕落にやる方がいいっていうのかな」
まぁ、レベルの高い大学に固執してないってだけなんだけどねぇ、と春花さんは笑った。
うちは一応進学校だけど、何が何でも東大を目指せという気風でもないし、行き先がある程度決まってるんだったら、そうそう必死に勉強しなくてもいいのかもしれない。
「でもいちおう、受験戦争モードだろ? 他のやつらからひがまれるんじゃねぇの?」
「君はいちいちつっかかるなぁ。これはあれですかね、私はおじゃま虫ってことでいいんですかね?」
ふふり、と春花さんが笑うと巧巳は軽く顔を引きつらせた。
「そ、そうじゃなくてだな……周りの連中が……」
そして、しどろもどろに答えた。
巧巳が言いたいことはわかる。いくら好きな所に行けばいいといっても、所詮この歳じゃ未来なんて見通せるはずもなくて、なるべく高いレベルの大学に行く事を目的とする人間が多いのだ。そして先生達もなるべくレベルの高い大学に入ってくれた方が学校の評判が上がるから、必死にもり立ててしまうんだよね。
そんな中で、この学校行きたいから適当でいいっすよ、とか言われたら周囲からは厳しい目を向けられてしまう。
「まぁ、よかったら声を掛けてよね」
「はいっ」
やれやれと春花さんが、肩を竦めてから僕に言うので、元気よく返事をした。
やっぱり春花さんと一緒にいると楽しい。来年までにある程度お金ためて、ちゃんとしたところに泊まれるといいな。
「さーって、それじゃそろそろ帰りますか」
ほらほら、電車の時間もそろそろだし。
そんな風に言われて僕達は夕陽で輝く海を背にした。
夏が終わる。そんな寂しさをわずかに感じながら、僕はもう一度だけ海を見つめた。
メイド服のワンピースに袖を通して、いつもみたいにメイド服を着込む。
黒のメイド服は、すとんと身体を包み込んで、やわらかなイメージを添えてくれる。
そして脱いだ服はロッカーの中にたたみ入れた。
今日は珍しくワンピにジーンズ姿。
ここのところ服をそろえたのもあって、スカート姿が多かったんだけれど、さすがにおっきい絆創膏を貼った足を晒す勇気はなかった。前のボクなら全然へっちゃらだったんだろうけど、最近女の子生活してるからかな、妙にこれが気になっちゃったんだよね。
「どーしちゃったの、それ」
鏡に映る姿を見ていると、後ろから渚凪さんの声が聞こえた。
最低限の店の片付けを済ませて更衣室に休憩に来たらしい。今まで滅多にそんなことはなかったから、ちょっと心臓がドキリとした。
「あー、いえ。ちょっとすりむいちゃって」
「女の子の足に擦り傷なんて作っちゃだめだぞー」
そんな動揺が顔にでないように気を使いながらも、剥き出しになっている膝を見てボクは苦笑を漏らした。
当然、渚凪さんだって少し渋い顔を浮かべている。
そうなんだよね。女の子の、ううん、こういう場にいる女の子の魅力はやっぱり、綺麗に磨き込まれた可愛さで、傷物であってはいけないんだ。
それでもこけちゃったものはしかたないわけで、ロッカーから黒のオーバーニーソックスを出して身につける。これをつければ膝はある程度かくれるから、ありがたい。
「それにしても、音泉ちゃんが転ぶなんて……なんかあったの?」
「ええ、ちょっと休みに出かけてたんです。それで足場が悪いところに行ったんで」
「ほほー。いいなぁ」
「渚凪さんは、どうしてたんです? この前のお休み」
海に行ったなんていう具体的な話はなるべくならしたくないので、素早くボクは話題を渚凪さんのほうに向けた。
「町でぷらぷらしてただけかな。今年の夏は結局何も無くって……」
一夏の淡い恋なんて、もーさっぱり、と彼女は肩を竦めた。
「それで、音泉ちゃんの方は、どうなの?」
巧巳くんと、何か進展あったのかなぁ? なんて、にんまり言われると、ボクは、思わず唇を押さえた。そんなこと言われるとあのこと思い出しちゃうじゃん。
「な、なにもないですよ」
「ふ~ん、例のキモ男からの手紙も無くなったし、助けてもらったのかなって思ってたんだけど」
「それは……助けてもらいましたけど……」
ボクは巧巳が唇を奪ったことだけ伏せて、事情を渚凪さんに説明した。
「きゃー、じゃあ、やっぱり、抱き寄せられちゃったりとかしたんだ」
うわーうわーと、やたら自分の事のように盛り上がる渚凪さんを見ながら、これが女の子ってやつなのかぁ、なんて場違いな感想を抱く。ボクとしては巧巳に抱き寄せられたって、別に何かを感じるなんてことないもんね。そりゃ頭を撫でてもらうのは好きだけど。
「もーこりゃ、二人の仲は急接近まっしぐらねっ」
「でも……」
がんばれっ、と無意味に応援してくる彼女の声を避けて、ボクは困惑気味に言葉を詰まらせた。
思い出されるのは、あの口づけとその後の巧巳の態度だ。
「あいつ、ボクがいっぱい仕事してるの、文句言うんです」
「え?」
一瞬、戸惑ったものの渚凪さんはすぐに、ああ、なるほど、と肯いた。
「巧巳くん、こりゃ本格的に音泉ちゃんにゾッコンなのかなぁ。他の男に見られたくないみたいな、嫉妬とか?」
「あ、いや、そうじゃなくてですね」
ボクは勘違いされるのも困るので、その後の会話だけを渚凪さんに改めて伝えた。
「確かに、音泉ちゃんは無防備だよなぁ」
うーんと頬の辺りをぽりぽり掻いて、渚凪さんは困ったように言った。
それが魅力ではあるんだけど、魅力がありすぎるから、頭がおかしくなっちゃう人もでてくるんだとか。
「だって、ほらほらっ」
「きゃっ」
いきなり胸の辺りにもぞもぞと変な感触が走ったので、思わずボクは声を漏らしてしまった。渚凪さんが突然胸の辺りを触ったのだ。
「女のあたしでも、こうやって悪戯したくなっちゃうし?」
「ちょっと渚凪さ~ん」
ぷぅと、膨れると彼女はゴメンゴメンと苦笑を浮かべる。
「家族の方が帰ってきた時みたいな笑顔で、って前に言ったけど、せめて友達クラスにランクダウンするとか、そういうのも必要かもしれないわ」
勘違いしそうなヤツって、だいたい空気でわかるでしょ? と渚凪さんは言った。
でも残念ながらボクは渚凪さんみたいな力は備わっていない。人を見る目がないといわれると切ないけれど、たぶんそういった危ない男を見分ける力っていうのは、女の子特有のものなんだと思う。
「う~ん、それができないとすると……まぁ、しかたない。お姉さんが一肌脱いで上げよう」
危なさげな人が来たらナイショで教えてあげるから、注意するようにと渚凪さんは言ってくれた。その人にだけは少し破壊力を抑えた笑顔をだせばいいらしい。
「しっかし、音泉ちゃんの彼氏になった人は気が気じゃないだろうね」
「なんですか、それ……」
うふっと、含み笑いを浮かべる渚凪さんに文句を言うと、やっぱり彼女は頬を掻きながらナイショと言った。
「とにかく、巧巳くんには一言なにか言っておいた方がいいよ。そりゃ彼の言い分も正しくはないんだろうけど、音泉ちゃんを心配してるわけだからさ」
「そりゃ……」
それはよくわかっているつもりだ。巧巳はボクの家庭事情を一切知らないで、ただああ言っただけなのだ。教えていないことをわかれという方が無謀なのだろう。
「今度、話をしておきます」
しぶしぶボクがそう答えると、渚凪さんは嬉しそうに微笑んで、いいこいいことボクの頭を撫でた。
そんなとき、厨房の方で何かが割れる音がした。
「まぁ話はこれくらいにして、お店に行きますか」
なにやら立て込んでるみたいだし、と彼女は苦笑を浮かべると、ボクの手を引っ張った。
確かにもう、時間だ。
「本当は決まった彼氏でもできれば、他の男への笑顔なんて営業スマイルになるものなんだけどねぇ……」
渚凪さんのつぶやきは、ボクに届く事はなかった。




