038.それでも海には遊びに行きます3
「あー、こまったこまったこまったー」
橋本のおじさんのお店に戻ると、慌ただしい店内でおじさんがブツブツつぶやいているのが見えた。
そろそろ一時。お昼時のお客さんがまだまだわんさかお店に残っているのだけれど、もうみなさん食事に手をつけている状態なので、おじさんの手自体はさほど動いていないようにも見えた。
「何か、あったんですか?」
「あ、おかえり」
あからさまに困った顔をしているおじさんに声をかけると、びくりとしながらも彼は僕達に笑顔を向けてくれた。
お客に心配をかけまいとしている姿はかなり高評価である。
「って、もしかして声にでてたか?」
「マスターは困ったことがあると、すぐに声にでるからなぁ」
常連客らしい人から、そんな声がかかった。
カレーライスを食べながら、苦笑を浮かべている姿は事情を知っているような感じだ。
「お昼ご飯はもう食べたのかい?」
でも、それはとりあえず無視して、彼は僕達の方に向かってそんなふうに尋ねてきた。
心なしか笑顔を頑張って作ってるけど、少し力がないようにも見える。
声には出るけど、顔には出さないというのはすばらしい姿勢である。
「はい。市場の方でたんまりと」
春花さんは、お昼ご飯を思い出しながらにこやかに答えた。
そう。さっきホタテホタテって騒いでいたけど、やっぱり港町の市場っていうのはとんでもなくって、一般客用の商店なんかもずらりとならんでたんだよね。
魚介類がいっぱいいたけど春花さんのたっての願いで、ホタテの炭火焼きを真っ先にいただいた。
しかもちゃんと網の上で焼いてくれて、お醤油を落とすと、じゅって音がなって香ばしい香りが広がって。
おいしいねーなんて、ついつい盛り上がってしまったのである。
お値段の方も割とリーズナブルで、輸送コストがかかっていない分かなりのおやすさだった。
あと食べたのは、港町によくある海鮮丼ツアー。ご飯をどんぶりによそって、その上にいろいろなお店で買った魚介類を乗せていくというやつ。僕は生のホタテとサーモンとイクラとマグロの赤身をたんまりのせていただいてしまった。ホタテの網焼きとあわせて普段の一日分の食費くらいかかっちゃったけど、今日ばっかりはもう無礼講ってやつだ。そのためのアルバイトである。
「それで、なにかあったんですか?」
もう一度、僕が言うと、橋本のおじさんは観念したように頬を掻いた。
「実は今日の午後のバイトの子二人ともから休ませてくれって電話がかかってきてね。志津留さん達……今働いてくれてる子達にも相談したんだが、どうしても無理だって……」
「店がまわらない……か」
このお店は見ての通り、フォルトゥーナと同じくらいの広さがあって、厨房にいるのは橋本のおじさん一人きり。お店の給仕のほうは今は二人のおねーさんが担当している。結構繁盛しているお店だし、それくらい人がいないとおっつかないんだろうね。
巧巳もそれを感じて、一緒になって困ったなぁという顔をしていた。
ちょっとくらいなら手伝ってもいいけど、と思ってちらりと春花さんを見ていると、彼女はすいと一歩前に出て言った。
「じゃあ……私達やりましょっか?」
たち? って……て思って彼女を見ると、もちろん手伝ってくれるよね、とウインクをしてきた。まぁ、別にやってもいいとは思っていたけどさ。
「せっかくの旅行なのにいいのかい?」
「大丈夫ですよ。たっくんがどうせ働くわけだし、こういう経験も楽しいものなので」
「そうですそうです。あとでたっぷり報酬は巧巳くんからいただきますので」
ね? と巧巳に視線を向けると、ぐむむ、甘味か、甘味目当てなのか、と疲れたような顔を浮べた。
いや、でもどっちみち家に帰ってもケーキ作りなんだから、新作を用意してくれてもいいと思うんだよね。
そういうのが報酬なら、お仕事も頑張れるというものだ。
「そういうことなら。とっても助かるよ。四時まででいいから」
その後、夜はなんとかなるから、と橋本さんは申し訳なさそうに言うので、ちょっとの失敗は許してくださいね? と僕は言った。
「お、いらっしゃいませ、三名様ですか? では、テーブル席の方へどうぞ」
手際よくお客様を招待しては、席に座らせて、水を出してからオーダーをとる。
慣れているから問題はないんだけど、一つだけ問題があるとすれば、いらっしゃいませ、じゃなくておかえりなさいませと言いそうになるところだ。
こればかりは、普通の喫茶店であるこのお店では注意しなければならない。おかえりなさいませというお出迎えはメイド喫茶ならではなのだ。
「ご、お客様は、お煙草は……」
春花さんは慣れていないのか、時々口ごもることがあったんだけど、それでも給仕の方は完璧で、そつなくこなしているみたいだった。
オーダーを取るのも的確だし、最初にちらっと言われただけで普通に働いている。
「ナポリタンあがったよー」
厨房の方から声がかかると、僕はそれを受け取った。
「いやぁ、こんなに可愛い子達がウエイトレスやってくれるんじゃもう毎日でもきたくなっちゃうねぇ」
「いやいや、この二人は今日だけの助っ人なんですよ。毎日でも居てもらいたいんですけどねぇ」
カウンター席に座る年輩の男性と橋本のおじさんの会話がちらりと耳に入った。
そう。そうなんです。なんと、今僕が身につけているのは、ウエイトレスの衣装なのです。深緑の生地でできたワンピースにエプロンがついた制服は、一見するとメイド服のようにも見えるんだけど、頭の上にのせるホワイトブリムがないので、普通のウエイトレスの服装だとわかる。
実を言うと、橋本のおじさんが制服は女物しかない、といったときに一悶着も二悶着もあって大変揉めたんだけど、巧巳のケーキワンホールで手を打つことになったってわけで。
橋本のおじさんったら、ウエイトレスはお客さんに触れるんだからかわいい女の子の方がいいだろうというスタンスなんだとか。経営者の考えだからしょうが無いとは思うけど、今は男女の雇用の機会は均等じゃないといけないと思います。
「初めてにしては、慣れてるじゃない」
「見よう見まねってやつですよ」
春花さんに言われてぎこちなく笑うと、僕はお冷やをお盆に乗せて、入ってきたお客さんに差し出した。
一応うちの学校はアルバイト禁止だからね。僕はこういうことをやったことがないという事になっているわけで、それなのにしっかりと対応できてしまっているところを、春花さんは少しいぶかしんでいるみたい。
お店の方はもう大繁盛で、お昼時をとっくに過ぎているのにもさもさと入ってくるのだから信じられなかった。
通常、この時間帯はゆったりとしたい人がくる時間帯だと思うのだけど。
席はすでに満席に近くなってしまっているし、ときどき遅い昼食の人もいるけれど、ほとんどは昼食済みの人達ばかりだ。
「例年こいつが来るときは、売り上げ二倍になるんだよ」
なっ、と橋本のおじさんは巧巳の肩を叩いた。
そう。今時のお客さんの目当ては、大体が巧巳のケーキ。来る人来る人みんなケーキセットを頼むのだから、びっくりだった。
期間限定本日限り、ケーキ各種取りそろえています。なんていう、急場でつくったらしい手書きの紙が貼られていて、きっちりメニューの中に組み込まれてしまっている。
今年は特に一日限定ということもあって、今日を待ち望んでいた人達がぞろぞろときているっていうわけなのだ。
ケーキと一緒に飲まれる飲み物は、冷たいもの以外は橋本のおじさんが対処をしてくれているから、こっちとしてはかなり仕事が減って楽だった。
おまけに言えば紅茶を煎れる行為ができることがばれなくて、非常にありがたかった。巧巳の目の前でこんな恰好で紅茶を出すとなると、やっぱり音泉と動作が被る可能性があるからね。かなり冷や冷やだ。
まぁそれでも、夏のこの時期はほとんど冷たい飲み物ばっかりが出るから、忙しいといえば忙しいんだけどね。
「お待たせ致しました、ガトー・ショコラでございます」
音を立てないように丁寧に。
ケーキと飲み物を並べると、大体のお客さんは嬉しそうに頬をゆるめる。よっぽど巧巳のケーキを待ち望んでいたみたいだね。
その気持ちはとってもよくわかる。これが年に一回しか食べられないとなったらなおさらだ。
「どういうケーキがあるんだろう?」
「えーと、ですね、本日は五種類のケーキがありまして……」
時には、こうやってケーキの中身の説明をすることもある。
このお店って、普段はケーキを置いていないからショーケースなんていうものは無くって、当然お客さんがどんなケーキなのか知るチャンスもないってわけ。
「苺のレアチーズケーキって、どんなの?」
美味しいの? と聞かれたのでもちろん僕は満面の笑みを添えて答えた。
「ええ、口の中でねっとりとクリームチーズが溶ける感触はたまりませんよ」
「じゃあ、ケーキセットで、それとブルーマウンテンを」
「かしこまりました」
オーダーを厨房に伝えると、すぐにコーヒーをいれる準備が始められる。このお店はよく映画とかに出てくるようなサイフォン式じゃなくてドリップ式。大げさな機械みたいなのがまったくないのは、きっとここが喫茶の方がメインではなく料理を中心にしているからなのだろう。
「ごめんね。せっかくの旅行なのに」
「いえいえ、接客は好きですから、いいですよ……」
ただ、この恰好はちょっと勘弁ですけど、というと、おじさんは申し訳なさそうに微笑してくれた。
なんというか、妙に似合っているというのもあって、まじスマンという感じである。
ま、僕自身は女装するのはある意味慣れているから、そこまで嫌ではないんだけどね。ケーキのためならウエイトレスもやってみせましょうとも。
「まぁ、巧巳も必死みたいですから」
「あはは……異常なペースでケーキが出てるからね……」
厨房の中で特別に作られたスペースで、巧巳はボールを片手に超高速で生地をつくっていた。もともとケーキを専門に作れるような工房でもないので、専門の機材もないから、ほとんどが手作業。あっても電動の泡立て器くらいなものだ。
それに加えて一日限定というのが周知されていたおかげでとんでもなくお客さんが来るのだから、なんとか在庫を切らさないようにするのが精一杯。
「おわっと、いらっしゃいませー」
そんな巧巳を見て、くすりと笑うと、からんからんというカウベルの心地よい音が聞こえて、僕は再びお客さんを出迎えた。
それから、時間は慌ただしく進んで行った。
巧巳のケーキはやっぱり大人気で、お店は大繁盛だった。
しかも、女性客ばっかりになるのかと思いきや、男性客が意外に多かったのに驚いた。
もともとのこのお店の客層が、男性客の方が多いからというのもあるのかもしれない。
普段はあまり食べない甘味を楽しむというところもあるのだろう。
「いらっしゃいま……あっ」
そんなこんなで、給仕をしはじめてそろそろ仕事も終わりというところでその男は現れた。
そう。まさに、あっ、と言ってしまう理由がしっかりはっきりわかると思う。顔なじみの相手にいきなりこんなところで会ってしまったら驚きもするというものだ。
「君は……たしか、池波さんだっけ?」
「えと……どうして、こんなところで……」
なんとそこに立っていたのは、てっぱんメシのにーちゃんだったのだ。
夏のお祭りの時、巧巳のおにーさんと一緒にステージの上に立っていた人である。
確か斎藤だとか市東だかいう名前だったような気がするけど、あのときは巧巳のおにーさんの事で一杯一杯で正直ちゃんと覚えていない。
彼が池波さんと僕のことを呼ぶのは、夏祭りの時の自己紹介が偽名だったせいだ。
ちなみに、本名を教えるつもりは、今のところはない。
「仕事の合間に海水浴に来たら、美味いケーキがあるっていうから」
「ケーキお好き……なんですか?」
僕は意識して優しい口調を作りながら言った。
いちおう、女装してますと言ってしまってもいい状況ではあるけど、ばれるのはなんかこう嫌なのである。
「ああ、美味いケーキを求めていつだって西へ東へだ」
しかし……と、彼は押し黙って思案を巡らせた。
「君がいるということは、もしかしてここは弟君の……」
「ええ、まぁ」
そう答えると急に彼の彼の顔はぱっと明るくなった。
おまけにケーキ五種類全部オーダーしてくるものだから、そうとうびっくりだ。
いそいそとケーキを持っていくと、ひゃっほーと彼はテンションを上げていた。
やっと出会えた! とかつぶやいている。いや、確かに巧巳のケーキは美味しいけどそこまでいう人は珍しいと思う。
「克彦の手前、なかなか食えなくてねぇ。いやぁすんごい楽しみにしてたんだよ」
テーブルの上には五種類のケーキがずらりと並んでいた。
カウンター席にはもうぎっしりとお皿が並んで、どうしようかと思ったくらい。
飲み物はアイスティーで、氷がかちゃりと音を鳴らした。
「家がケーキショップというのは、あいつに取ってはちょっとトラウマみたいでね」
お笑いやろうってなって、家族とはちょっと揉めたみたいなんだよねぇと彼はフォークをぷらぷらさせながら言った。
店を始めたのに一回も家に帰ってないんだとさと言いながら、ガトーショコラを一口大に切り取ると、うまぁーと幸せそうな顔を浮べる。
うーん、確かに巧巳のご家庭の事情はちょっと込み入ってるよねとは思ってる。
というか、克彦さんを除いた家族だけで完結しちゃってるというか、部屋はそのままになってるみたいだけど、滅多に家には帰ってこないらしい。
「実を言うとフォルトゥーナにも行ってみたかったんだよ。でもあいつ嫌がるんだよなぁ……」
あっちは、弟君の作るスペシャルなのがあるっていうだろう? と彼がいうので、そうみたいですねとやんわり答える。
実際毎日それのできばえを見ているのだけど、詳しいことは知らない風を装っておく。
いまの僕は女装しているけど、灯南なのである。
でも、だからこそちょっと確認しておきたいことがあった。
当然、話題は克彦さんの話だ。
「そういえばその後克彦さん、交際宣言とかいってましたけど……」
あのあと大変だったんじゃないですか? と聞くと、あー、うーん。まぁいろいろとネタは考えなきゃいけないんだよね、と彼は言った。
元々の芸風が、男同士での純愛というか、そういうものだったから、相手に彼女ができたと周りに知られているのであれば、考えなきゃいけないわけだ。
実はああいうつっこみするけど、そういう芸だよねって思うと一気に現実に引き戻されちゃうだろうし。
「まぁ宣言したものの、あいつもそうそうドライだよ。あんがい別の誰かの事が好きだったりしてな」
何気なくイチゴショートの欠片を口に入れながら幸せそうにしている彼の言葉は、僕にしっかりと突き刺さった。
うーん、お祭りのあの日の事、まだ引きずっているんだろうか。
そんなことを考えていた時だ。
「灯南ちん、こっち手伝ってー」
「あっと、お客さん。ごゆっくりしていってくださいね」
春花さんのヘルプの声に応えると、それだけ言い残して他の人の接客に向かった。
巧巳のお兄さんのことについては、とりあえずこちらからどうこうできることでもない。
それなら、今はあともうちょっとのお仕事をしっかりこなすだけである。
「いらっしゃいませ」
まだ途切れないお客さんにお冷やを持って行くと、僕は接客に戻ることにした。
さぁ海遊びに次は人助けということでー。
別行動の時に、灯南ちんと春花さんの百合からみはなしな方向でございます。
海できゃっきゃしているだろうという、巧巳くんの妄想もなしということで。
さて、次話は海の話ラストです。




