001.少ない友達と温かな日常
眼前の緑が疾風に煽られてなびいていた。
それは線路の先の少し急な斜面を覆い囲むように太陽の光を受けてつやつやと蒼く輝いている。それを踊らせるように通過電車が通り過ぎると、風がぶわりと僕の背中を通り抜けていった。
ん~気持ちいい。この時間。じっとりとかいた汗を冷やしてくれるこの風は好きだ。
ワイシャツ一枚で比較的涼しい恰好とはいっても、今日は特に暑かった。
まだ五月だというのにこの暑さは異常だと思う。これで衣替えの移行期間に入る前だったらと思うと、ぞっとしない。
本当は草原みたいなところで全身に受ける酸素たっぷりな風が好きなんだけど、そこまでの贅沢を日常で求めるというのはまず無理な相談だ。一高校生としてはこれくらいの風でも十分にありがたいものである。
「よぅ、相変わらず小さいなぁ」
ぽん。
そんなふうに駅のホームで一人たそがれていると、いつもみたいに大きな手のひらが頭の上に乗った。
僕はため息をつきながら、振り返る。男子相手にこいつはどうしてこう、頭をぽふぽふしてくるのだろうか。
いつもこうなので、ため息すらもワンセットの日常風景だ。
彼は、高校に入ってからことあるごとに僕にかまってくるクラスメイトだ。
池波巧巳16歳。この前誕生日を迎えたばかりの高校一年生。
実家はケーキ屋をやっているそうで、時々残りを学校にもってきてくれたりもするから、一部の女子には大人気。実を言うと僕もそんな彼の家のケーキを楽しみにしている一人だったりする。外見的にはそれほど女の子ウケするカッコイイ感じではないんだけれど、それでも身長百七十を越える身体は僕からするとまさに見上げるばかりだ。
特に約束とかはしてないんだけれど、だいたいいつも帰り道は一緒という間柄。
まぁ、高校なんていうのは最初の座席で近い人と仲良くなるもんらしいから、順当といえば順当なのかもしれない。高校の座席順は最初は名前順で、名字の初めが『い』の彼は、『さ』である僕の隣の席だったというわけ。
そこからさらに友達の輪を広げていくのは、人見知りの激しい僕にはなかなか難しい行為で、大体彼と喋っているか彼がひきつれてきた友達と喋るのが精一杯だ。
彼が言うにはお前は人見知りというより、受け身的過ぎるんだとか。どっちみちこっちから友達をつくるなんてかなり無理っぽい気がする。
「で? 結局呼び出しってなんだったの?」
少し見上げるような視線で、僕は彼に尋ねた。
なにやら職員室に呼び出しを受けて、僕だけ先に帰ってきてたのだ。
そのくせ同じ電車で帰るはめになるなんてね。自転車通学と徒歩通学の時間の差を思い知らされる。
ちょうど来た電車に飛び乗ると、僕は長椅子の端にある棒につかまった。い、いちおうつり革までは手は届くよ? 身長は155センチとちっこいけれど、さすがにそこくらい届く。でもこっちのほうが楽なのでつい手を伸ばしてしまうのだ。
「ちょいと、家庭科の溝口にな」
「また、ケーキ持ってこいって?」
「んや、逆」
彼はしっとり汗でにじんだ髪をかき上げてため息をついた。
「ウチも店始めたばかりだし、学校の連中には味を覚えてもらいたいんだけどなぁ。学校で営業するなって、怒られた」
「それは残念。って、あれって試食会だったんだ?」
「最初の時のはな。それからちょくちょく持ってってるのはあまりもんだよ」
「おいしかったのになぁ」
彼のケーキの味を思い出して、お腹が小さくきゅぅと鳴った。
巧巳の家のケーキは実際すごくおいしかった。最初の試食会では、チーズケーキといちごのスポンジケーキとモンブランがそれぞれワンホールずつ持ち込まれたんだけど、その場にいた人だけですぐに食べ尽くしてしまった。他の女子も美味い美味いと舌鼓を打ちながら、ダイエットなんて全くどこかに吹っ飛ばしてもりもり食べていたくらいだ。他の男子はどうしたのかって? それは巧巳が狙って女子比率が多い頃合いを見計らって取り出したのだ。まあ、それでも残ってた男子はあまり興味ないみたいで、そのまま部活にいっちゃったやつらもいたけどね。
「まぁ、食いたくなったらウチの店に来いよ。いつでも友達価格で販売してやるから」
ぽんぽんと、巧巳は僕の頭を軽く叩きながら笑った。
友達価格は嬉しいけれど、頭をこうやってたたかれるのはちょっとイヤだ。
そりゃ、たしかに僕は華奢な体格をしているけれど、こういう扱いをされるのは困る。
嬉しくない訳はないんだ。中学までと比べればこうやってかまってくれる人がいるだけで僕は嬉しい。でも、それを表にもろに出すのもなにか違う気がする。
普通頭を撫でられても男は喜ばないもんだ。しかもこんな公衆の面前ではなおさら。
そう。僕はこれでも男だ。たとえ身長が低かろうと、身体が華奢だろうと、声変わりしてなかろうと、童顔だろうと、たぶんきっと、おそらく男だ。
僕の名前は、榊原灯南。
名前だけ見ても男か女かいまいちわからない中性的な名前は、母親の趣味だったらしい。
親父が言うには、僕が生まれる時に母さんの家の南に灯りを見たとかなんとか。
とは言っても僕自身には母さんの記憶はないんだよね。母さんの親戚がいるらしいけれど、そちらの記憶もうろ覚えだ。ホントにちっちゃい頃に親父と言い争いをしていた声を覚えているくらいで、今ではもうほとんど交流はない。親父と母さんはほとんど駆け落ち同然で生活を始めたみたいだから、母さんの親戚からはそうとう恨まれているみたいだ。そこまでしておいて、数年後には別れてしまうのだから、人間の愛というのはいまいちよくわからない。
「そういやさ、池波くんところのケーキはどこかに卸したりとかしないの?」
その手から逃れるように、身体の向きを変えて僕は尋ねた。
あれだけおいしいのなら喫茶店とかに並べてもらっても喜ばれると思う。むしろおいしい紅茶とセットになって出されたら、たまらなく嬉しい。
「近々どこかと契約するみたいなこと親父が言ってた。取引先はあんまり気にしてなかったけどな」
「それはいいね! 場所、わかったら今度教えて」
「あ? ああ。別に良いけど……」
あまりに熱心だったせいか、巧巳は少し慌てながら肯いた。
よしよし。お金に余裕ができたらその喫茶店に通い詰めよう。今から楽しみだ。
「そんなに、あのケーキが気にいったのか?」
「もちろんっ」
あのチーズケーキのなめらかな触感。ほどよい甘さのモンブランに、みずみずしくて酸っぱいイチゴの味。どれをとっても食べやすくて、食べるだけで嬉しくなる味だ。
「あれなら、たぶん男子にも大ヒットだと思うよ。試食会ちゃんとセッティングしてクラスメイト全員に食べさせてあげればいいのに」
「あんまり、男には食べさせたくないんだ」
巧巳はしれっと男らしい本音を見事に告白してくれた。
彼はなんだかんだで、モテタイ願望の強い、てぃーんえいじゃぁである。
お店が女の子で賑わうのはいいけど、男がもさもさ集まってしまうのにも抵抗があるのだろう。これだけおいしいのならみんなに食べてもらった方がいいと思うのに。
あれ? でもちょっとまて。
「じゃあ、僕は? これでも男なんだけどな」
「……お前は、親友、だろ?」
返事が来るまでに少しの間があった。あからさまに巧巳の顔には苦笑が浮かんでいる。
「まったく、酷いよ!」
「ははは。でも、親友ってのは間違いじゃない」
僕の顔に視線を伸ばしながら、巧巳は困ったように僕に言った。
プシューという音が鳴って、扉が開いた。
話をしていると電車に乗っている時間がすごく短く感じられる。
「卸先は調べといてやるから、あんまりへそ曲げんなよな」
そいじゃ、また月曜日、と言って、巧巳は電車を降りていった。
ホントちょうど良いところで降車駅になるなんて、ずるい。
でも、これがいつもの日常。
そう思うと僕は閉まる扉の前で、自然と。
無意識に柔らかい笑みを浮かべていた。
そう。その時はまだ、そのあとに待ち受けていることなんて、予想なんて全くできなかったのだった。