第一話
第三部のおまけ『南山大使御一行様』から数年後のお話です。
「じゃあ、お兄ちゃんとお爺ちゃん達によろしくね」
「わかってる!」
「お休みだからって不規則な生活をしたらダメだから。ちゃんと宿題をすること、寝る時間は守ること。特に麻衣、テレビばっかり観て夜ふかししちゃダメよ?」
「はーい!」
搭乗ゲート前でゲートで娘達にもう一度言い聞かせると、航空会社のスタッフによろしくおねがいしますと頭をさげた。子供達はスタッフの女性に連れられて旅客機へと向かう。
「大丈夫かしらね、二人だけで」
「向こうの空港で御両親が待っていてくれるんだ、大丈夫だよ」
初めての二人だけの飛行機の旅。しかも地球の裏側からの日本までの長時間。何事も起きなければ良いんだけれど。
「乗り継ぎのない直行便なんだ、なにも問題ない。雛子さんは心配しすぎだ。麻衣はともかく、亜衣はもう中学生だよ?」
「そりゃあ、飛行機で移動することに慣れている裕章さんにしたら、大したことないかもしれないけど」
「本人達は意外と楽しむと思うけどね」
「あ……!!」
「ん?」
「周りのお客さんが寝ている時は、静かにしなさいって言うの忘れてた!」
ちゃんと言っておくべきだったかもと、いまさらながら後悔する。そんな私の心配を、裕章さんは呑気に笑った。
「笑いごとじゃないわよ。休みに入ってから、あの子達のクスクス笑いが遅くまで聞こえているの、知ってるでしょ?」
「それも心配ないから。僕達がいつも言い聞かせていたんだから、それぐらいあの子達もわかっているさ」
「だと良いんだけど……」
これからしばらくは、親の目が届かないことになるから心配だ。
「さあ、もう子供達の心配はそのぐらいにして。到着までは旅客機のスタッフを信じて任せるしかないだろ? それより、そろそろ年明け一番のイベントのほうを、心配したほうが良いんじゃないかな?」
その言葉に、せっかく忘れていた憂鬱なことを思い出す。それは医者としての仕事ではなく、大使夫人としての仕事だった。
「あーもう! せっかく忘れていたのに!」
「忘れていたのかい? ひどいなあ……」
「ねえ、これって本当に、私がしなくちゃいけない仕事なの?」
「なにもかもしろって言ってるわけじゃないだろう? 雛子さんは、大使館のスタッフを動かしてくれたら良いんだから」
「それが苦手だから困っているんじゃない……」
私が任されているのは、年明けそうそうに公邸で開かれる、新年互礼会の手配。
外国の人達を招く大がかりなものではなく、この国でお世話になっている、邦人企業の駐在員ご夫婦を何組か招いてのものだった。その中には、私が勤めている診療所の手助けをしてくれる奥様もいて、私達夫婦と個人的にも親しい人が多いので、今回の手配を私がすることになってしまったのだ。
正確には、裕章さんに丸めこまれたとも言うんだけれど。
「いつも雛子さんが病院でしているのと同じだよ」
「ぜんっぜん違うから!」
「そんなことないさ。あの調子でうちの連中を動かせば良い。やらなきゃいけないことと必要なことは、ちゃんと秘書官の沢崎君が教えてくれるから」
「だったら私じゃなくて、沢崎さんが手配をすれば良くない?」
なんとかして押しつけられないものかと、期待してたずねる。だけどこういう時の裕章さんは、まったく容赦がない。
「なにを言ってるんだい。雛子さんが準備をするから価値があるんだろ? 日頃からお世話になっている人達をもてなすのは、友人として当然のことだと思うんだけどな」
「オペしてるほうがずっと気楽……」
とうとう裕章さんが声をあげて笑い出した。
「ま、雛子さんにとってはそうだろうね」
「わかってるんだったら……」
「ダメだよ、今回は準備は雛子さんがする。これはもう決定事項で、大使館スタッフにも周知してることだからね」
「それってつまり、霞が関にも報告がいってるってこと?」
「そういうこと」
娘達が乗り込んだ旅客機が動き出す。
「あちらも心配だし、こちらも心配だし。休暇に入る頃には私の髪の毛、真っ白になっちゃうかも」
「それは大変だ」
相変わらず呑気に笑っている裕章さんを、軽くにらんだ。
「大変だなんて、思ってないくせに」
「雛子さんならちゃんとできるって僕は知ってるからね」
旅客機が飛び立つのを見届けてから、公邸に戻るために空港の建物を出る。そこには黒塗りの車が待機していた。その厳つい車に、思わず溜め息がもれる。
「いつになっても慣れないわよね、この車」
「そう?」
「せめてもう少し、可愛らしい色と形だったら良かったんだけど」
「可愛い車じゃ防弾仕様にできないよ」
「そうかしら……」
『うちの奥様は黒塗りの車がお気に召さないらしいよ? どう思う?』
裕章さんが、待っていてくれた大使館スタッフに声をかける。大柄だけど、笑うと可愛らしいえくぼができる彼、こう見えても、この国の陸軍特殊部隊の元隊員だ。とある作戦参加中に負った怪我が原因で除隊し、仕事を探していたところで、裕章さんが声をかけたらしい。つまり、彼の仕事は運転だけではなく、裕章さんの警護も含まれているということだ。
『実のところ、私も気に入りませんね。もっとこの国らしい色にしたいものです』
『やれやれ、君もうちの妻に洗脳されちゃったのかい?』
裕章さんがあきれたように笑う。
『事実を言ったまでですよ、ミスター南山。ですがまあ、大使ともなれば、防弾仕様でない車に乗るのは、あまりお勧めできません。可愛らしい車で、同様の装備が設置できる車が見つかりましたら、すぐにお知らせします』
「……ということだよ、雛子さん」
『早く見つけてね、ダビさん』
『了解しました、奥様』
彼はお茶目な表情でウィンクをしてみせた。私達が公邸に戻ると、秘書官の沢崎さんに加えて、公邸料理人をつとめるセルナさんと藤堂さんが待っていた。
「このメンツがそろっているってことは、僕はお呼びじゃないってやつかな?」
三人が並んでいるのを見て、裕章さんが珍しくニヤッと笑う。
「待ち伏せしてるなんて……」
「しかたないね。ここで雛子さんをつかまえないと、またいつもみたいに、診療所に逃げちゃうだろ?」
「あそこは平和で落ち着くの。それと逃げてなんていないから」
こっちに戻る途中で、降ろしてもらえば良かったと後悔したけど、後の祭りというやつだ。
「あそこが落ち着くなんてね。あそここそ、戦場だと思うけどな、僕は」
「そんなことないわよ」
「それは雛子さんが、根っからの医者だからだよ。どこかの誰かさんみたいに」
「やめて。私は診療所に住んだりしてないから」
二人して〝誰かさん〟の顔を思い浮かべて笑う。
裕章さんの意見にも一理あった。私達が赴任した時に比べるとかなり改善されたけど、この国はまだまだ、医療態勢がじゅうぶんに整っていないのが現状だ。経済的に貧しい人も多い。そんな人達の治療をすると同時に、病気に対する意識を変え、さまざまな病気の予防啓発することも、診療所の大事な役割だった。
大使夫人としての役割もある中で、そんな私が医師として活動できるように、裕章さんは最大限の協力をしてくれていた。だからそこはとても感謝している。ただし、油断していると、今回のような大変な役割を押しつけられちゃうんだけど。
「奥様。セルナさんと藤堂君が、夕食会のメニューを考えたので、一度目を通していただきたいとのことです」
「本当? 助かったわ。どうしても献立を決められなくて、一昨日からずっと悩んでいたの。今日中に思いつかなかったら、診療所に籠城しようかって考えてたのよ」
沢崎さんが、私が言ったことをセルナさんに通訳して教える。すると彼は藤堂さんと顔を見合わせて、お互いに〝グッジョブ〟と言い合った。二人とも、私が決められなくて困っているのを知っていたから、先持って考えてくれたに違いない。
「気に入っていただけたら、それを元にしてもう少しつめようと思っています。とにかく一度、ご覧になっていただけますか?」
藤堂さんがそう言った。
「わかりました」
うなづく私の横で、裕章さんが微笑む。
「ほら、大したことないだろ? 雛子さんはちゃんとできるよ。じゃあ、僕は連絡しなければならない相手が何人かいるから、以後は執務室にいる。なにかあったら声をかけてくれ」
そう言い残して裕章さんは、その場から立ち去った。その背中を見送ってから、三人のほうに視線を戻す。
「じゃあ、メニューを見てなにか変更すべきものがあるか、さっそく見てみましょうか」
「厨房に来ていただかないといけませんが、いくつか作っておいたので、試食していただけますよ」
「あら、嬉しい」
そんなわけで、四人でちょっと早い午後のお茶会を楽しむことになった。もちろん執務室で仕事をしていた裕章さんにも、差し入れられたのはいうまでもない。




