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僕の主治医さん  作者: 鏡野ゆう
僕の主治医さん 第一部

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第八話 診ると見る

 内科に異動になったとは言っても同じ病院内だし、入院患者さんの病状によっては内科から外科へ、または外科から内科へと人も連絡も行き来するので、西入(にしいり)先生と東出(ひがしで)先生とは、しょっちゅう顔を合わせていた。特に西入先生は、私が研修医としてここに来た時の最初の指導医だったせいか、今でも気にかけてくれている。


 ……気にかけてくれているというよりは、予習復習をちゃんとしているか監視している、と言った方が近いかもしれない。いや、単にアヒルの行方が気になっているのかも。


 新しくなった気管支鏡(きかんしきょう)の、使い心地と操作性についての感想を聞いてもらいながら、お昼ご飯を一緒に食べていた時に、そう言えばと西入先生が口を開いた。


「そう言えば、二人が一緒にいると北川(きたがわ)先生と川北(かわきた)先生になるのか。回診の時は、随分とややこしいことになっているんじゃないのかい?」

「そうなんですよ。西入先生と東出先生以上に、混乱するんです」


 私が指導してもらっているのは、内科の川北先生。先生と言っても、うちの大学の医学部の偉い教授様で、西入先生や東出先生が学生の頃から医者をしている、超ベテランの呼吸器内科の先生だ。最近ではお年を召してきたせいか、随分と物腰の柔らかいお爺ちゃん先生といった感じになりつつあるけれど、西入先生達が学生の頃は、内科医とは思えないような、それはそれは恐ろしい先生だったらしい。


 で、川北先生が受け持っている患者さんに、年輩の方が多いというのもあるのだけれど、私と川北先生が一緒に回診をすると、患者さんが呼び名を混同してしまうことが多くて大変なのだ。


「回診で一緒に病室を回ることが多いから、本当に大変ですよ」

「なるほどねえ。僕と東出は別々の部署にいるのに混同されちゃうから、北川先生と川北先生ならなおさらのことだね。あ、そう言えば。三日前からうちの担当になった製薬会社の子に、西出(にしで)先生って呼ばれちゃったよ、あれもショックだなあ……」


 ショックの原因は単に名前を間違えられたからなのか、それとも東出先生と混同されてしまったからなのか、どちらだろう。


「こんな時期に担当替えになるなんて、珍しいですね。前の人、なにかあったのかな」

「営業を頑張りすぎて、椎間板(ついかんばん)ヘルニアが悪化しちゃったそうだよ。都内の病院に入院しているそうだ」

「へえ。うちの病院に入院すれば良かったのに」

「うちの整形外科は、怖いからイヤだって言ってたらしい」

「あー……なんとなく言いたいことは分かります」


 うち整形外科は看護師さんだけではなく、リハビリの療法士さん達も厳しい人が多いと評判で、仲間内からも、あそこは鬼軍曹の巣窟(そうくつ)と言われているぐらいだ。もちろん厳しいだけではなく、それなりに評判も良いのだけれど。


「それで? 呼び名の混乱はさておき、内科で川北先生と仲良くやれているってことは、外科には戻ってくるつもりはないのかな?」

「さあどうでしょう? あと一年は、病院内のあっちこっちに回されるのは間違いないことですし、それまではどの科に進むか、あえて決めないでおこうと思ってます」

「ふーむ。これはきちんと根回ししておかないと、将来の名医を他の先生にとられちゃうかな……」


 私の言葉に、ニヤニヤと笑っている西入先生。


「何事も経験だって言ったのは、西入先生じゃないですか」

「それは、北川先生がうちの科に戻ってくるのが前提条件だからね。あ、どう? 袖の下のアイス、食べるかい?」

「じゃあ今日は、ストロベリーアイスをおごってください」


 まあ実際のところ、外科医になりたいという気持ちにかたむいているのは事実。大学にいる時はそこまで考えていなかったけれど、研修医としてここに来てから、西入先生の下で色々な医療行為に携わらせてもらって、自分の天職はこれだって気持ちになっていた。とは言え、ここで外科医になりますと断言したら、アイスクリームのおごりがなくなっちゃうかもしれないので、当分はぼかしておくつもりだ。



+++++



「ところで盲腸さんは元気かい? 最近は一緒に夕飯を食べたりしているんだろ? ん? なに? なんでそんな顔して、こっちを見るのかな?」


 何気ない言葉に、アイスクリームを食べていた私の脳内アンテナが反応した。


「あの、先生……」

「なんだい?」

「もしかして、私のシフトとか病院を出る時間とか、南山さんに知らせてますか?」


 私の質問に、西入先生は怪訝(けげん)な顔をして、首をかしげる。


「なんで俺が盲腸さんと? そういうのは当人同士でするものだろ?」

「じゃあ、南山さんとは話してないんですね?」

「退院してから盲腸さんと話をしているのは、北川先生ぐらいだと思うけど? それがなにか?」

「いえ、話をしてないなら良いんです。今の質問は忘れてください」


 どうやら私のアンテナの反応は、空振りだったらしい。どうやら南山さんのタイミングの良さの謎は、謎のままで終わりそうだ。


「それだけボールペンが頻繁(ひんぱん)に新しくなるのを見ていたら、しょっちゅう会っているんだろうなあぐらいには思っていたよ。それと、よくもまあボールペンがネタ切れにならないなって。それで話は戻るけど、元気そうなんだね?」

「はい。ここ最近は会ってませんけど、サスペンダーからベルトに戻ってますよ」

「傷口はどうなってる?」

「最後の外来で見た時は、絆創膏(ばんそうこう)(あと)がちょっと赤くなっていましたけど」


 それも塗り薬を出しておいたのですぐに治ったと言っていたし、最近は痒いとも言っていないから、なんともないはずだ。


「その後は?」

「その後って言われても、それ以後は()ていませんから分かりませんよ。南山さんもなにも言いませんし」


 もしかして会うたびに、詳しく尋ねた方が良かったのだろうか?


「ええ?」

「ええってなんですか」


 どうしてそんなに驚いた顔をされるのか分からなくて、首をかしげてしまう。


「見てないのかい?」

()てませんよ。……なんでそこで溜め息をつくんですか」

「最近の若い子達って進んでいると思っていたけど、例外ってあるんだなあって感心している」


 いや、その溜め息は感心してないですよね? それに最近の若者と、盲腸の傷口になんの関係が?


「意味が分かりません」

「見てないんだろう?」

()てませんよ」


 西入先生はちょっとだけ周囲を見回してから声をひそめた。


「だからさ、傷口を見てないってことは、プライベートで服を脱いだ状態の南山さんとは、対面していないってことだろ?」

「そりゃそうですよ。お店でいきなり服をまくり上げてお腹を出したら、南山さんはただの変態さんじゃないですか。通報されちゃいますよ」

「……もしかして、南山さんと二人っきりになったこともないとか?」

「いつも二人で食事をしてますよ?」


 そこで変な沈黙が流れた。


「あの?」

「……なるほど」

「なるほどってどういうことですか?」

「盲腸さんも気の毒に」

「ちょっと、なんで南山さんが気の毒なんですか。往診でもしろってことですか? 今頃はきっと、外務大臣にくっついて南米ですよ? いくら理事長先生と外務省の偉いさんが仲良しでも、そんな遠距離の往診なんて無理な話です」


 昨日の晩にメールが来て、明日から南米の某国だって言っていたし。ってことは、今頃はまだ飛行機の中かな。日本からあっちまで、どのぐらいの時間がかかるんだろう?


「北川先生は、病院から離れた盲腸さんの前でも、北川先生のまんまなんだな。盲腸さんが気の長い紳士で良かったじゃないか」


 西入先生は頬杖をついて、私のことを眺めている。


「だからってどうして、私のことを可哀想な子を見ているみたいな顔して、見つめるんですか」

「南山さんのお腹の傷は、見てないんだろ?」

()てませんよ」


 私の言葉に先生はうなづく。


「つまり、南山さんが服を脱いで裸になる状況には、至っていないということだよね? 正確には二人ともってことだけど。つまり、南山さんと北川先生がってことだよ?」


 ん? それって……?


「……ってことはつまり?」

「つまりだ、男と女の関係にはまだ至っていないと。わあ、北川先生、鼻からイチゴアイスが」


 そういうところは、東出先生とそっくりだねと笑う西入先生の前で、私は盛大にむせた。先生が言っていたのは、傷口を()るじゃなくて見るだったのか。ポケットからティッシュを引っ張り出して、鼻をかむと一息ついた。


「あの、先生の言いたいことは理解しました。だけどお言葉ですけど、そんな時間が今の私にあるとでも?」


 内科に回されて、自分の時間が取れるようになったとは言っても、帰宅するのは、それこそ十時を回っているとかざらな感じだ。そんな毎日が続く中で、ゆっくりとデートをする時間なんて、なかなか取れるものじゃない。南山さんが謎のタイミングの良さで私の出待ちをしてくれて、ようやく晩御飯デートができるのが現状なのだから。


「うん、分かってる。俺は妻とは同業者で、研修も一緒だったから特に意識してなかったけど、医師が異業種の相手と恋愛をするのって、想像以上に大変だなと思って。うちの病院はまだ待遇は良い方だけど、その点は、まだまだ改善の余地はあるなあって思えてきた」

「私と南山さんを基準に考えないでください」

「でも、研修のせいで思うように交際が進まなくて婚期を逃したとか、若い子達に言われたら困るからねえ」

「婚期?!」


 とんでもない単語に唖然としている私に対して、西入先生はあくまでもにこやかだった。


「嫁入り道具には渡されたボールペンも入れて、盲腸さんちに嫁ぐんだよね?」

「……」


 なにか色々と話が飛躍していて眩暈(めまい)がする。


「あの、それって先生の頭の中だけでの話ですよね?」

「どのへんが?」

「えっと、嫁入り道具」

「多分そうだと思うよ?」


 何気に語尾にクエッションマークがついているのが不吉な感じだ……。

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