第一話 運び込まれた急患
「あ、北川先生おはようございます~」
白衣を着て職場に顔を出すと、詰め所にいた看護師の山田さんが、ニッコリ笑顔で出迎えてくれた。
山田さんは夜勤あけで、そろそろ交代の時間。なのにまったくそんな雰囲気を感じさせない、爽やかな笑顔を浮かべていて、看護師の鑑というかナイチンゲールの再来のような人だ。だけど、たまに遊びに顔を出す長男君情報によると、家ではビール片手にチーズ鱈を食べながら、ホラー映画を観るのが大好きなんだとか。本当に人は見かけによらない。
「おはようございます。昨晩は何か、変わったことありました?」
「いえ、いたって平穏な夜でしたよ」
ここは私の職場、光陵学園大学医学部附属病院。
平穏な夜と言うものの、救急指定病院でもある病院で何事もない夜なんてものがあるはずもなく、さっき聞いたところによると、救命救急には何やらその筋の怖い顔をした人が、お腹から血を流して運び込まれてきたとか、いわくつきの病棟では、怪しげな人ならざる者が多数目撃されたとか色々あった模様。
つまり、特別なことは起きなかったけれど、いつものような夜でしたということらしい。
そこへ大きなアクビを噛み殺しながらやってきたのは、看護師の臼井さん。こちらは夜勤ではなく、これから日勤に入る看護師さんの一人だ。
「あ、おはようございます、北川先生」
「おはよー。もしかして昨日の合コン疲れが残ってる?」
「あはは。合コンだったのに、何故か早々にお持ち帰りしたのは学生時代の友達で、遅くまで彼女の職場のグチ独演会ですよ。おかげで嬉しくない寝不足です」
いやあまいったと笑っている。
彼女は、うちの病院に勤めている看護師達の中でも、五本指に入ると言われるうるわしの白衣の天使様、臼井さん。見た目も美人だし、それだけではなく看護師としても、とても有能だ。でも本人いわく、男運が無くていまだに独身です、なんだそうだ。私からすると、まだまだ二十代なんだから、そんなに焦らなくても良いのにと思うのだけれど、本人の考えは違うようだ。
「私はアレでしたけど、昨日の合コンは、相手さんの職業がユニークでなかなか愉快でしたよ。北川先生も来れば良かったのに」
「若い子達に混じって合コンなんて、恐ろしくてとてもとても」
大袈裟に身震いしてみせる。
「なに言ってるんですか、先生だってまだまだお若いでしょ? 最近じゃ、意外とドクター好きな男性も多いんですよ。ナース服じゃなくて、白衣に物凄く萌えるんだそうです。次は是非とも参加してください」
「まあ予定が合うようなら、そのうちにね」
そりゃあ、ご縁があれば誰かとお付き合いをして、結婚までいけたらなとは思っているけれど、合コンに行ってまで相手を見つけたいのかと問われれば、答えはNO。そんな集まりに顔を出すぐらいなら、自宅でおとなしく、医学書を読んでいたい。こんなことを言うと、お前は行かず後家になるつもりなのかと、両親は激しくなげくのだけれど。
もちろん、大学で勉強していた時にも、親しくしていた男友達がいなかったわけではないのだ。だけど当時の私は、彼らのことを同じ医学の道を進む同志としかとらえていなくて、相手が私のことをどう思っていたかは別として、彼らを異性として意識していなかった。そう考えてから、あらためて自分の学生時代を振り返ってみると、少しばかり男っ気が無さすぎた?と思わないでもない。
「おい、北川、お前、ヒマか?」
なんとなく学生時代に思いをはせ、微妙な気分になっている私に声をかけてきたのは、救命救急で主任を務めている東出先生。その無精髭のはえたいかつい顔とごっつい体格のせいで、白衣を着ないで廊下を歩いていると、患者さん達が一目散に逃げ出すという逸話の持ち主だ。冬眠あけのクマみたいな顔をしているところを見ると、救命救急は昨晩もそれなりに忙しかったらしい。
「ヒマと言うか、いま来たばかりですよ。おはようございます、東出先生」
「急患が一人いるんだが、お前が受け持て」
こちらの挨拶に軽くうなづくと、いきなり本題に入った。
「あのう、それって先生の受け持ちじゃないですか、なんで救命救急の人間じゃない私が?」
「俺は他の患者で手一杯だから。安心しろ、研修医のお前に重篤患者を押しつけるつもりはない。ただの盲腸だ」
「……わかりました」
「助かる。今度、スペシャルカルビ丼の大盛りでもおごってやる」
こんなこと患者さんに知られたら何て言われるやら……そんなことをブツブツと呟きながら、東出先生の後ろについて行くことにする。
「なんだ、大盛りでは不満か。裏メニューの理事長盛を要求するつもりか?」
「そうじゃありませんけど、他の患者さん達には、聞かせられないなと思っただけです」
「もんくは、救命救急の医師を増やさない事務長に言え。それにだ、何事も経験だろう」
「はいはい。研修医の私はベテランドクター様には逆らえませんから、御意に御意にでございます」
「お前ほど口の達者な研修医なんぞ、見たことないぞ」
東出先生の話によると、救急車で運び込まれてきたのは二十代の男性。119番通報をしたのは最寄りの駅の駅員さんで、その男性がホームで電車を待っていた時に、いきなり苦しみだしたので慌てて救急車を呼んだのだとか。
「いまCTに回したが十中八九盲腸だ。いや、確実に盲腸だな」
「それで大盛りカルビ丼って怪しすぎます」
東出先生のことは学生時代から知っている。急患とは言え、単なる盲腸の患者を押しつけたぐらいで、スペシャルカルビ丼の、しかも大盛りを、さらには「おごってくれる」とは思えない。絶対に何か裏があるはずだ。しかも、さっき「助かる」なんて単語まで口から飛び出したし、どう考えても怪しい。
「まあ最悪、腹膜炎一歩手前かもしれん」
「げっ」
ほら、やっぱりね。
「ただより高いものはないってやつだ。何事も経験だと言っただろうが」
「だからって、研修医の私にそんな患者さんを押しつけますか、普通?」
「心配するな、ちゃんと研修医でない医師はつけてやる」
どうしてそこで、感謝しろと言わんばかりの口調なのかと言いたい。
「ってことはぁぁぁ、も~し~かして~、お~れの出番かな~~?」
廊下に場違いな声、正確には歌声?が響いた。とたんに東出先生の顔が、険悪なものになる。
有名どころの劇団員顔負けの歌声の主は、外科医の西入先生。
東に「出る」の先生と西に「入る」の先生がそろうなんて、なんの冗談だ、これは理事長の陰謀か?とまで言われていて、さらには性格と見た目が、厳つい熊タイプと麗しの王子様タイプと正反対なものだから、病院ではちょっとした有名コンビだ。ただし、東出先生はコンビあつかいには、かなり異存があるようだけども。
「朝から歌うな、騒々しい。いちいちお前がしゃしゃり出てきたら、北川の勉強にならんだろうが。別の医師をつけてやるつもりなんだから、出しゃばるな」
「そう言ってくれるな、メス友よ」
「誰がメス友だ、誰が」
「まあ、そうつれないことを言わずに」
ニコニコしながら私達の横に並んで、一緒に歩き始める西入先生。
「で、話は運び込まれた盲腸さんに戻るけど、チラッとのぞいてみた感じ、かなり深刻みたいなんだよね。癒着がどの程度なのか、開けてみないと何とも言えないんだけど、北川君や他の先生にはちょーっと荷が重いかもしれないよ。だから執刀に関しては、俺がした方が良いと思うんだ。もちろん北川君には、勉強のために立ち会ってもらうよ。盲腸さんの担当医としてね」
これなら後学のためにもなるから問題ないだろう?とニッコリする。
「北川」
「はい?」
「大盛は無しだ、並にしろ」
「えー……」
「もんくは、しゃしゃり出てきたこいつに言え」
西入先生は相変わらずニコニコしていたけれど、私が大盛りが先生のせいで並になってしまったとつぶやいたら、妥協案を出してきた。
「じゃあ、盲腸さんが退院するまでの北川君の仕事ぶり次第では、僕が一週間、食後にバニラアイスをつけてあげよう。それでプラスマイナスゼロだよね」
そんなわけで気の毒な急患さんの命運は、歌う西入先生に託されることになった。
念のために言っておくと、西入先生は腕の良い外科医で、その辺は東出先生も認めているのだ。歌いながら話しかける変な癖さえ無ければ、という条件つきなだけで。
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「ああ、こりゃ酷いね、しっかりと癒着しちゃってるよ、見てごらん」
西入先生がそう言って、手元をのぞくようにと私を見た。
「この感じだと破裂一歩手前って感じだね。これだけ進行していたら、そりゃ救急車ものになって当然だ。っていうか、よくもまあここまで我慢したものだよ、この人。かなり痛みがあったんじゃないかな」
ただの腹痛だと思っていたとは、信じられないねとつぶやく。
「そんなに仕事が忙しかったんでしょうかね」
「いくら仕事が大事でも、これが破裂して死んじゃったら何にもならないよ。あの世では出世できないんだからね」
たかが盲腸と軽く考えている人もいるけれど、実際のところは放置しておくと、腹膜炎を起こして死に至るという、非常に危険なものなのだ。
多分この人も、最初は腹痛ぐらいでと思いながら仕事をしてたんだろう。手術前に、西入先生が病室で盲腸ですよと説明をした時も、薬で散らせないんですか?と質問していたし、ここまで自分のお腹の中が酷い状態だとは、思っていなかったに違いない。
「これ、後でこの人に見せてあげないとね。きっと驚くと思うよ~」
切除してトレーに乗せられた患部を、嬉しそうに見ている西入先生。こういうところが、外科医が変人の集まりだと言われる原因なんだろうなあと思う。
そして手術はと言うと、西入先生が予想していたよりも患部の癒着が酷かったので、当初の予想で四十五分程度でささっと切る(西入先生いわく)予定が、結局一時間半ほどになった。それでも麻酔医の先生に言わせれば、他の先生に比べるとダントツ早いんだとか。
「後はこの人が、退院の日まで大人しくしていれば問題ないね、この部分以外は健康体みたいだし。じゃ、目を覚ましたら知らせてくれ。切ったやつを是非とも見せてあげたいから」
そう言い残すと、西入先生はお気に入りのオペラの曲を高らかに歌いながら、手術室から出ていった。