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(4)

 暦が九月に変わるころには、美羽は女装コラムニストのマルコ・ロレックスみたいな巨体になっていた。


 ある日のアルバイト中、生菓子を棚に陳列しているときだった。

 ふと、ケーキを頬張って無邪気に笑っていた、少女だった頃の美羽が頭に浮かんだ。

 おれは最近スイーツを食べさせてあげていないし、美羽の記憶を取り戻してやることもできていない。それに、執筆ばかりで、ひとりぼっちの美羽になにも構ってやっていない。

 あんな巨体になってしまって、若くもなくなった美羽だけれど、おれの執筆をずっと支えてくれていることに変わりはない。何か喜ばせてやることはできないだろうか。


 少し早く終わったバイトの帰り、おれは恥ずかしかったが雑貨店に立ち寄り、小さいスイーツの模型がついたネックレスを購入した。

 店員さんの説明によると、ザッハートルテというケーキをイメージしているらしい。美羽がおれの部屋に初めてやってきた日に食べていたケーキの名前だ。

 おれはアパートに向かった。昼の間は残暑が厳しかったが、すっかり陽は傾き、風は涼しく感じられた。


 部屋に戻ると、美羽はいなかった。

 時には買い出しに行っていることもあるので、おれはたいして気に留めなかった。それにしても、あの巨体の美羽がひとりいないだけで、部屋は随分すっきりと片付いて見える。

 いつものようにパソコンを立ち上げようとしたとき、おれのスマートフォンが鳴った。知らない電話番号が表示されている。

 ある予感がして、胸が高鳴った。


「はい、もしもし」

『こちら、きらめきノベル新人賞の選考委員の者です。作品を応募して下さいました、篠崎北斗さまでしょうか?』

「――そ、そうです!」

『ありがとうございます。実はですね、篠崎さまの応募作品が、最終選考に残ることが決定しまして……』


 最終選考? 本当か! そして、用件は何だろう?

 たくさんの疑問が頭の中を回り出す。足元がふわふわして現実味がなくなっていく。手が震え、心臓のどきどきが収まらない。

 おれは、選考委員の人の説明を、ただただ一方的に聞いていた。雲の上からの言葉を耳にしているようで、相槌を打つので精いっぱいだ。その場で卒倒しなかったのが奇跡じゃないかと思った。




 電話が終わり、おれは美羽を探した。部屋の中にはいない。


「――美羽! 美羽! どこ行ったんだよ、こんなときに……!」


 一人でそう呟きながら、おれはアパートを飛び出した。

 なんだか胸騒ぎがする。

 部屋の中が妙にすっきりしていると感じたのは、美羽の荷物がなくなっていたからだ。それに、美羽がおれのところに来た目的は、おれが夢を叶えるための手伝いだと言っていたはずで、そうなった日には失った記憶が戻るのではないか、とも言っていた。

 だとしたら、美羽は――。

 あてもないまま、アパートのまわりを一周しながら美羽の姿を探した。気持ちが焦る。どこに行ったんだ? まさか、過去を思い出して、おれに黙ってどこかへ――。


 いた!

 夕陽に染まる路地を、こちらに歩いてくる横綱級の巨体の女性。ゆったりした白い上着に、黒いハーフパンツ。元々の茶髪が光に透けて赤毛に見える。間違いなく美羽だ。


「おおい、美羽ー! 探してたんだぞー!」


 美羽は、何も言わずに微笑みながら、ゆっくりとおれとの距離を縮めていた。なんだか、いつもと様子が違う気がする。おれは、嫌な予感を振り払うように、わざと明るい声で言った。


「聞いてくれよ美羽! おれの小説がついに、本になるかもしれないんだって! ……といっても、短編アンソロジー集の中の一作っていうだけで、単独デビューできるわけじゃないし、掲載してもらうには、かなりの加筆と修正が条件なんだけどな」


 美羽は、黙ってうなずいた。

 喜んでくれないのか? そんな中途半端な結果じゃ、夢を叶えたことにならないか?

 おれは美羽に駆け寄り、ポケットに収まりそうなほど小さな紙袋を差し出した。


「――それに、はいこれ。美羽は、人間界のスイーツ食べられないだろ? だから、こんなアクセサリーはどうかと思ってさ」


 さっき、雑貨店で購入したものである。

 袋の中から、チョコケーキのマスコットがついたネックレスが出てくると、美羽はにっこりと笑いながら手に取り、チェーンを首の後ろでとめた。

 すっかり首の肉がたるんでしまったので、可愛らしいマスコットは浮いて、少し滑稽に見える。


「北斗、ありがとう。これ大事にするね」

「――よし、そろそろ飯にしようか。部屋に戻ろう」


 美羽はその場に立ちすくみ動かない。ただ、寂しそうに微笑んでいるだけ。

 マジかよ、そういうのやめてくれ。


「北斗、今日あたしね、シンラ様に呼び出されたの」


 静かな声で、淡々と切り出す美羽。おれはまともに顔を見られなくて、彼女の胸元で揺れるチョコケーキのマスコットだけを見ていた。


「北斗の夢が叶うから、あたしの役目も終わりなんだって。それで、あたしの記憶も返してくれたの。昔のことを憶えていると余計に寂しくなるからって、シンラ様が預かっていたんだって」

「――そ、そっか。思い出したんなら、良かったんじゃないのか?」


 美羽は首を横に振る。


「あたし、もうここにいられないんだって。日が沈みきる前にここを発たないと、あたしは元の世界に戻れなくなって、北斗の夢も叶わなくなっちゃうんだって」

「そ、そんな無茶苦茶な……!」


 美羽がいたからここまで来られたのに。昔のことなんて、もうどうでもいいじゃないか。それとも、美羽は違うのか? おれがひとりで、分かりあっていたつもりになっていただけか?

 言いたいことが胸の中で渦巻いたけれど、不思議なことに、喉からはひとつも言葉が出てこない。

 美羽は話し続けた。その体は、光をまとって輝き始めていた。


「北斗、あたしね、やっぱり人間じゃなかったんだ。

――思い出したの。あたしたちの一族は、ずうっと北のほうで暮らしていた。両親に守られて、仲間たちに支えられながらあたしは育った。でもある日、群れからはぐれてしまって、みんなを必死で探すうちに、方角も間違えてしまって――。

 わけのわからないまま、一人で遠くまでやってきてしまったの。疲れと飢えで死にかけていたところを、シンラ様が拾ってくれたんだわ」


 美羽の姿が徐々に変わっていく。

 見上げるような巨体がだんだんと縮んでいって、バケツパフェを抱えてむさぼっていた頃の、並のおデブ女だった頃の美羽が現れた。

 そしてまた縮む。

 ぽっちゃり女だった頃の、生意気だった美羽。更に縮んで、少しふくよかで女性的な魅力があふれていた頃の美羽。そして――初めて出会ったころの、無邪気な少女だった頃の美羽。


「あたしの一族の名は、サルルンカムイ。あたしは故郷に帰らなきゃいけない」

「サルルン――なんだって? どうでもいいんだ、美羽が人間じゃなくたって。おれにとっては――」


 美羽は何か言いたげな様子で口を開きかけたが、首を横に振った。

 今にして思えば、おそらく言葉を選びなおしたのかもしれない。そして微笑みながらこう言った。だって、彼女にとっては、おれにかける最後の言葉だったのだから。


「ありがとう、あたし忘れないよ。そしてやっぱり、人間が――北斗が大好き」


 言い終わらないうちに、美羽の姿は光のかたまりとなった。

 まぶしさに一瞬目を閉じると、おれの前に一羽の大きな鳥があらわれていた。

 長い脚に長い首、頭の高さはおれの胸元くらいにまで達する。鳥に詳しいわけじゃないけれど、さすがに間違えようがない。

 まさしく、ツル科ツル属のタンチョウと呼ばれる鳥である。


――美羽、おまえ、サルルンカムイってのは湿原の神っていう意味じゃないか。


 呆然と立ちすくむおれに向いて、まるで一礼でもするかのように、美羽は首を下げ、白い羽根を広げてみせた。夕陽に透けて薄紅色に染まったその翼の美しさを、おれは生涯忘れることがないと思う。

 コォー、と高く一声鳴いてから、美羽はアスファルトの大地を蹴って駆けだした。

 それは飛び立つための助走であったが、人間であるおれに美羽を止める術はなかった。まもなく美羽の翼は風をとらえ、力強く舞い上がった。そして、夕陽に向かうようにして羽ばたきながら、どんどん上昇していく。

 そのときだ。おれの背後から、唐突に大声がした。


「美羽! そっぢは違うどぉー! そっぢは西だべ!」


 誰かと思えば、お隣の旦那さんであった。窓から身を乗り出し、東北なまりの声で必死に叫んでいる。


「そっぢでねえ、あっぢ! 北海道さ行ぐには、あっぢだぁー!」


 確かに、美羽は夕陽に向かって飛んでいた。あのまま、まっすぐ西に向かってしまったら、また迷子に逆戻りである。

 旦那さんの声に気づいたのか、美羽はアパートの上空でくるくると旋回飛行を始めた。

 おれがあたふたしているうちに、おばさんがつっかけサンダルで外に出てきて、上空の美羽に向かって叫んだ。


「美羽ちゃーん! 釧路に戻りたいなら、まず日本海側に出て、海沿いを北上するのよー!」


 コー、コー、と若干頼りなさげな声をあげながら、美羽はくるくる旋回している。まもなく完全に陽が落ちてしまう。急がないと美羽は、タンチョウの姿を維持できないかもしれない。

 もはや悲しんでいる場合ではなかった。


「美羽、あっちだ! 川筋に沿って飛んで、山を越えるんだ!」


 おれは大声を絞り出しながら、左手で北北東の方角を差し、右腕をぐるぐる回した。おばさんも一緒になって、叫びながら同じ方角を指さしている。

 しばらくして、指示の内容が理解できたのか、美羽は、コォー、と一声鳴いて北北東を目指し始めた。

 それを見ておじさんが叫ぶ。


「いいどぉ、美羽! そのまま海まで飛んでげ!」

「夜は気流が安定して楽になるはずよ! がんばってー!」


 おばさんも、大きく手を振りながら声援を送っていた。おれも、ありったけの大声で、美羽を送ってやろうと思った。鳥は耳がいいというから、きっと届いていたと思う。そう願いたい。


「美羽、がんばれ、おれもがんばる! ありがとう、美羽、本当にありがとう!」


 おれは、飛び去っていく美羽に呼びかけ続けた。その姿が黒い点になって見えなくなってしまうまで、ずっと力いっぱい、手を振り続けた。




 その年の残暑はあっけなく去っていき、秋の訪れがやたらと早かった。周りのバイト連中は、別にそんなことないと言っていたが、とにかくおれにはそんな気がしていた。


 改稿作業は予想以上に大変だった。

 編集者から出された指示は厳しく、おれが条件をクリアできなければ、アンソロジー掲載の話も無しになるというところであったが、意地でがんばった。

 初掲載の目処がつくころになると、担当者が別の話も読んでみたいと言ってきたので、ほかの公募に出していたいくつかの小説を提出した。その大半は、美羽の巨大化を食い止めるために必死で書いていた頃のものだった。

 バイトをして、小説を書いて、そして自分で家事をする。毎日が忙しく過ぎていったので、あまり美羽のことを考えずに済んだ。


 彼女が飛び去ってから二週間ほど経ったころだった。バイトが終わり部屋に戻ってくると、すぐに呼び鈴が鳴った。訪れたのは隣のおじさんである。


「北斗くん、これ見でみろ」


 何事かと思っていると、旦那さんはタブレット端末を取り出し、あるウェブページをおれに見せてくれた。

 一羽のタンチョウの写真である。

 撮影日は一週間前、場所は新潟である。この地方は、トキが野生復帰を果たした地として有名であるが、普通はタンチョウがみられることはない。いや、タンチョウが本州に現れる例は極めて稀なのだ。

 現地の野鳥好きな方々は、思いがけない迷鳥が訪問しているということで、大変な盛り上がりを見せているらしい。タンチョウの噂はまたたく間に拡散し、いまでは三脚を担ぎ、望遠カメラを持った野鳥愛好家たちが群がっているのだという。


「北斗くん、これ美羽でねえが?」


 おれはだまって頷いた。

 どうやら、隣のご夫婦のほんとうの趣味は野鳥観察であったらしい。そこで、鳥好きたちのネットワークを通じて美羽の消息を追っていたのだ。

 美羽は方向音痴だったし、万が一のことを心配したご夫婦は、旅の無事が確認されるまで、おれには黙っていることにしていたのだそうだ。

 ご夫婦は、美羽と思われるタンチョウを撮影した写真をたくさん探し出してくれていた。

 おれは夢中で、美羽の写真を見つめていた。こんなに美しい生命が、ついこの間までおれの薄汚れた部屋にいたなんて、なんだか信じられない気がしていた。


「あれ……?」


 おれは、ある一枚の写真に釘づけになった。

 正面方向から撮影した一枚だった。美羽の胸の白い羽毛のあたりに、三角形の茶色い模様がある。まるで、真新しいテーブルクロスに、ココアパウダーでもこぼしてしまったのようだ。

 もしかしたら、おれが最後にあげたネックレスを、まだつけているという意味なのかもしれない。

 おじさんが帰っていってから、おれは自分のパソコンでも美羽の写真を検索した。前方向から撮った写真には、やっぱりどれも茶色の模様がある。ただの汚れなどではないようだ。

 美羽を映したディスプレイの前で、おれはぼんやりと考えた。


――美羽は、どうして行ってしまったんだろう。


 おれは、そんな答えの出ない問いを繰り返していた。

 彼女は人間じゃなかった。でも、美羽の様子から察するに、過去を捨てておれのところで暮らす選択肢もあったように思えた。

 美羽がおれのもとを去らなければ、もしかしたら受賞の話も立ち消えになっていた可能性もあるし、醜く太った巨体はもとに戻らなかったかもしれない。しかし、本当にそれが、去らなければいけない理由だったのか。

 彼女が一言の相談もしてくれなかったのはどうしてだ。

 おれがもし、夢なんて叶わなくてもいいと、お相撲さんみたいに太ったままでもいいと言ったなら、彼女はどうしていただろう。そうだ、言ったかもしれないじゃないか。

 でも、きっとそんなこと、美羽は承知しなかったんだろうな。



 それから更に数日が経過した。

 野鳥愛好家の皆さま方の報告によると、美羽はその後どういうわけか、佐渡ヶ島へ渡って一週間ほどを過ごしたらしい。それが気まぐれな観光だったのか、また道に迷ったのかは、彼女にしか分からないことだった。


 本州に戻った美羽が次に目撃されたのは、秋田の八郎潟である。

 順調に日本海側を北上しているので、隣のご夫婦は胸を撫で下ろしていたが、おれは心中穏やかではなかった。

 なんと、八郎潟には先客がいた。

 美羽と似たような、はぐれタンチョウの雄がずっと滞在していて、地元の野鳥愛好家たちには既におなじみであった。はぐれ雄は「はっつぁん」という愛称までつけられていた。


 で、どちらから言い寄ったのかは知らないが、美羽と「はっつぁん」は行動をともにするようになったのである。

 おれは、美羽とはっつぁんのツーショット写真を、ディスプレイに穴が空くんじゃないかってほど睨みつけた。そして、念を送り続けた。


『美羽、そんな男でいいのか! そいつは方向音痴に違いないし、きっと協調性もないぞ。旅先の恋なんてろくな結果にならない。いいか、その男だけはやめとけ!』


 そういうことを三日三晩くらいやった。もう少しで、わら人形ならぬ藁丹頂と五寸釘を用意してしまうところだった。


 ある時、ふと冷静になった。

 これじゃ、ストーカーと変わらないじゃないか。美羽は、とっくに新しい人生を歩み出しているというのに。

 そして、少しわかったような気がした。


 美羽が去ってしまったのは、種族の違いとか、そういう問題じゃなかったんだ。

 おれはいつでも、掃除をしてもらいっぱなしで、ご飯を作ってもらうのも当たり前だった。小説を書くのに夢中で、美羽がひとりでどんなに寂しい思いをしていたのかを想像しなかった。

 おれは、自分のことばかり考えていたんじゃないのか。美羽はずうっと、おれを支えてくれていたのに。

 つまり、本質的にはけっこう単純な話だった。

 おれは振られたってことだ。



 十月下旬、風もすっかり冷たくなってきた頃。

 天気予報が、今年初めての本格的な寒気団がやってくる、と告げた。北海道には、早くも初雪が降るらしい。


 遅れてやってきた失恋の痛みに耐えつつ、おれは新しい小説を執筆していた。担当編集者の依頼で、雑誌に載せるための競作短編を書いていたのだ。

 ここだけの話――ということで、担当さんが密かに教えてくれたのだが、おれが応募した新人賞の首席をとった作者は、とにかく筆が遅い上にこだわりが強く、第二作の見通しがまるで立たないのだという。


――正直なところ、きみの小説はコンパクト過ぎて、看板作品にはならない。でも、過不足のない程度にはテーマに沿って書ける。実はねホクト君、新人賞大賞をもらったきり書けなくなる人って、案外多いんだ。書かない一人の天才よりも、書ける数人の凡人のほうが、場合によっては有難いんだよね。


 褒められているのかどうか微妙なところだが、書かない天才といえども、いつ書きはじめるかわからない。そうなったらおれは飯の食い上げである。雑魚扱いされっぱなしは悔しいので、これから挽回してやろうと思う。

 そんなこんなで、おれの多忙な日々はしばらく続きそうだ。


 八郎潟に滞在していたはずの美羽は、しばらくの間姿を消していた。

 次に目撃されたのは、津軽海峡を越えた北海道でのこと。美羽はもちろん元気であり、そればかりか、あの「はっつぁん」も一緒にいるということだ。

 あの方向音痴の美羽が、はぐれ鳥を回収して、見事に北海道へ帰還を果たすなんて。ちゃんとがんばっているんだ、と思うと、おれもこんなところで挫けていられない。


 となりのご夫婦の話では、美羽の言う故郷というのは、おそらく釧路湿原のことで、ここまでくれば到着は確実だろうという。

 夏の間、道内に散らばっていたタンチョウたちは、冬の訪れとともに釧路湿原へ集合し、大勢で越冬するのだそうだ。既に仲間の鳥も見かけているはずだろうから、さすがの美羽も間違えようがないだろう。



 スマートフォンのアラームが、出勤の時刻を告げる。おれは書きかけの小説をメモリーに保存し、ノートパソコンをぱたりと閉じた。

 きょうは夜勤だ。アルバイトに向かうため、ジャケットを着込んで部屋を出る。


「おお、北斗でねえが」

「北斗くん、今夜は冷えるらしいわよー。気をつけてね」


 夕方の散策から帰ってきた隣のご夫婦が、車の窓を開けておれに手を振ってくれた。おれも手を振りかえした。

 仲の良いご夫婦で、時々は車内宿泊用の装備を積み込んで、泊りがけで探鳥地へ出かけていることもある。

 そんなおじさんとおばさんの姿を見ているうちに、今年の冬には、思い切って釧路を尋ねてみようかと考えるようになった。


 おれは時々想像をしてみる。

 白銀の世界で、大勢の仲間たちとともに舞い踊る美羽の姿は、どんなに美しいことだろう。厳寒の季節、霧が立ち込める黎明の静寂の中、水面で朝日を待ちながらじっと佇む彼らの姿は、どんなに神秘的なものだろう。

 はるか北の大地に想いを馳せながら、おれは夕暮れの道を歩く。

 冷たい晩秋の風が頬を撫でる。目の前で街灯の光が揺らめき、順番に点灯して行く先を照らしてくれた。


 美羽はまだ、あのネックレスをつけているのだろうか。

 でも、もう捨ててくれても構わない、と思う。


 だって美羽、昔の男のプレゼントをずっと持っている女性って、何か悲しいと思うんだ。いい男が見つかったなら、躊躇せず一緒になっていてほしい。

 ただし、相手はちゃんと選んでくれよな。

 そうだな。チョココロネみたいに、びっしりと身の詰まった田螺(たにし)を腹いっぱいにご馳走してくれるような、頼りがいのある男がいいと思う。

 もしそうでなかったら、おれは人々の制止を振り切って、釧路湿原に踏み込んで暴れまわってやる。


 だから、きみは幸せをつかんでいてくれ。絶対に。



最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

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